Fate/Grand Apocrypha〜亜種聖杯大戦〜 作:古代魚
第0話~マシュの事情~
彼女は夢を見ていた。
それは一つの追憶である。
彼女が今研究所の外に出た理由でもあった。
「君には指定された都市に向かってほしい。許可なら取ってある。……というか、所長の指示なんだよね、実は」
「指示、ですか」
「そう。既に手を回して君の住む所も手配してあるそうだ。資料は後で渡すよ。そして資料の内容について調査して、報告書をあげて欲しい。君を外に出すのは僕としては不安なんだけど所長の指示だからね」
困ったように笑う彼に、彼女は淡々と言葉を返す。
その時はまだ見ぬ外への期待より、疑問を解消すべきだと彼女は思った。
「ドクターは行かないのですか?」
「僕は行けない。だから君には帰って来る時でいいから、資料にこっそり書き込んだ物をお土産として買ってきて欲しいんだ」
「わかりました。では、また後で。Dr.ロマン」
「ああ、よろしく頼むよ、マシュ」
そうして彼女はたった一人で遠く離れた国までやって来たのだった。
いや、正確にはお供が一匹だけいるのだが。
――フォウ、フォウ!
その声は少女を夢から引き戻す。
記憶の整理はここまでだ。
目覚めが彼女を待っているだろう。
「……フォウさん」
そこは殺風景な部屋だった。
家具は配置されているものの生活感はまるでない。
目覚めたマシュは犬のようでいて猫のような生き物を見てぽつりとその名を呼んだ。
フォウさんと呼ばれた生き物はぺろぺろとマシュの頬を舐めていた。
マシュはふっと口元を緩め、フォウへと手を伸ばし頭を撫でた。
「どうしたんですか。食事の時間にはまだ早いと思うのですが」
マシュが問いかけても、フォウは同じように鳴き声を繰り返すだけだ。
身を伏せて何かを訴えるように。
「本格的な調査は明日からなんです。今日は他にすることも――」
そう何もないはずだ。
遠いところをはるばるやって来たマシュは翌日に指定された学園に入学することになっていた。
入学するための手続きは何もかも終わっていて、恐らく所長たちが手を回したのだろうと勝手に思っていた。
当面の着替えと、生活費だけを手に、仮宿となるマンションへとマシュはやって来たのだ。
研究所の外に出るのははじめてだったが、不安はない。
準備期間中に、一般社会での生活については何度もシミュレートしたからだ。
実際に飛行機の搭乗手続きや、冬木市へやってくるまでの乗継ぎも問題なく終わっている。
「そういえば、この家には食料がないんでした。買い物に行きましょうか、フォウさん」
マシュがベッドから起き上がってもフォウは動こうとはしなかった。
ここにいるよとでもいうかのように、マシュが身支度を整えて寝室のドアから振り返っても、ベッドに伏せたままだった。
「フォウさん?」
「……フォウ、フォーウ」
「お留守番、ですか。そうですね、フォウさんが家を守ってくださるなら私も安心です。それでは、いってきます」
そうして一人家の外に出たマシュは、開いた扉を誰かにぶつけそうになってしまった。
「ぅわっ!」
「あ、すみません……!」
よろめいた誰かに反射的に謝ると大丈夫だからと押し止められた。
相手はマシュと同じか少し上ぐらいの少年だった。
「いや、オレもよそ見して歩いていたからおあいこだよ。……ここに越して来たの?」
そっと彼に当てないように静かにマシュは扉を閉める。
何故だか急いで閉めないといけないような気がした。
「はい。今日引っ越してきたマシュ・キリエライトと言います。あの、貴方は?」
その発した言葉は今までの人生の中で始めて口にした言葉だった。
研究所の中で、ネームプレートを付けた職員と接する日々。
だから、誰かに名前を聞く/名乗るなんてことは一度もなかった。
「オレ? オレは藤丸立香。ここの隣の部屋に住んでるんだ。できれば、藤丸って呼んでほしい。下の名前だと良く女の子と間違われるんだよね」
よろしく、と差し出された手をマシュは見て思案する。
こうやって手を差し伸べられたのは初めてのような気がした。
「はい、よろしくお願いします。藤丸先輩」
何故か唇はそう言葉を紡いでいて。
驚く藤丸の手に自分の手を重ねて握手を交わす。
藤丸もどこかに出かけるつもりだったのか、知らないうちに並んで歩いていた。
そうすると無言でいるのもおかしな話で、どこからマシュがやって来たのかという話になった。
その辺りの話は日本に来る前に打ち合わせていた通り、マシュは日本文化を学ぶための留学だと説明した。
「どこの学校?」
「穂群原学園です。明日、入学するんです」
「おお、ということは本当に後輩なのか」
ちょっと感動した風に藤丸が言う姿が、よく知る主治医に重なって。
気がつくとマシュは小さく笑っていた。
この出会いという奇跡を大事にしたかった。
けれどそううまくはいかない。
そう、それは次の日の夜。入学式が終わった日のことだった。
マシュは調査の為に外出していた。
その調査とは、『大聖杯が奪われた後の冬木には本当に何も残っていないのか』ということだった。
聖杯――それは願いを叶える万能の杯。この地冬木で過去に三回聖杯戦争という儀式が行われたという記録が残っている。
だが、それは奪われた。第三回目の聖杯戦争にて。
けれどここにはまだおかしな歪みが残っているのが観測されて、マシュが派遣された。
何故マシュだったのか、それに答えをくれる人間は誰もいなかった。
唯一何でも答えてくれた主治医でさえ、理由は何も知らされてないと語ったのだ。
「魔術回路、起動……人避けがされている?」
マンションから駅前に移動しても人がいない。
この時刻ならば、まだ帰宅する人間がいてもおかしくはないはずなのに。
「……マシュ? こんな遅くにどうしたんだ?」
途中で藤丸に出会ってしまい、マシュは焦る。
いつも通りに接すれば大丈夫だとわかっていたのに、驚いてしまったのだ。
「いえ。ちょっと夜風に当たろうと思って散歩していただけです。先輩は?」
「オレはちょっとしたアルバイトの帰り。女の子が一人で出歩くのは危ないよ。幸い、一緒のマンションなわけだし送っていくよ」
今日は人避けの魔術以外の痕跡はなかった。
そう。だから今日はここで帰るべきだった。無駄な事をすべきではない。
「はい。お願いします」
けれど、既に布石は打たれていた。
既に準備は整っていた。大聖杯こそないものの、ここはかつて聖杯戦争が行われた霊地。
聖杯戦争の仕組みが魔術師内にばらまかれた以上、それが起きるのは必然だった。
「痛っ……」
藤丸が急に手を押さえ蹲った。
その様子にマシュは息を呑む。
日本に来る前に貰った資料にそれについて載っていた。
令呪。聖杯戦争のマスターの身体に顕現する、参加権にして絶対命令権。
魔術回路がなければ与えられないはずだ。
「先輩、大丈夫ですか。先輩!」
「ああ、どこかにぶつけたのかな。急に痛みが」
この様子だときっと藤丸は何も知らないのだ。
聖杯戦争のことも、魔術の事も。ただの一般人。
ならば、何故藤丸の手の甲に令呪の兆しがあるのだろうか。
マシュの知らないところでそれは始まっていた。
――亜種聖杯二つによる事実上の亜種聖杯大戦。召喚される英霊は全11騎。
始まった以上、全てのサーヴァントを倒すまで終わらない。地獄の戦いが。