Fate/Grand Apocrypha〜亜種聖杯大戦〜 作:古代魚
春休みの課題をようやく片付け終えた白野は、時計を見てため息を吐く。
まだ午後三時過ぎ。夕食の材料を買いに行くには早い時間だった。
「……困った」
白野は長らく一人暮らしだった。
というのも養父が仕事で海外に出て不在だったのだ。
一体海外で何をしていたのかは気になっていたが、なかなか聞く機会がなかった。
ついこの間帰国した養父より、一人の女性を紹介された。
ピンクの髪の和装が似合う女性である。
てっきり養父の交際相手かと思ったのだが、養父の女性への態度はどこか突き放しているようで、白野の思っているような関係ではないらしい。
「こちらのお嬢さんには事情があってね。しばらくこの家に滞在してもらう。名前はキャスターと言う」
家の主に言われてしまっては白野に拒否権はない。
かくして健全男子だった白野の日常が変わってしまうなんて、彼は思いもしなかった。
養父に女の影はなく、華やかなものなんてなかった家に女性がいる。
それだけで大事件だったのだ。
「あの、白野さま。少しよろしいです?」
こんこんとノックの音がして、キャスターがそっと声を掛けてくる。
彼女は遠慮がちに声を掛けて来るが、隔てる物がなくなると急に押しが強くなる――気がした。
用件は買い物だろうとわかっているが、少しドアを開くのに勇気が必要だった。
「何か用?」
「ええ、そりゃあもちろん! 明日からは学校とお聞きしました! 私、貴方さまのためにとびっきりのお料理を作ろうと思うんです。何かリクエストがあれば言ってくださいまし」
「ああ、うん。嬉しい……けど特にリクエストはないんだ。キャスターさんの料理はおいしいし」
「まあ、そんなキャスターさんだなんて。私の事はどうか気軽にキャスターとお呼びください」
頬に手を当て彼女は頬を染める。
家の中がとても華やかなのはキャスターのおかげだろう。
けれど、正直なところ彼には女性に対する免疫が全くないのだ。
容姿も成績も平凡もいいところ。
人ごみの中では見失いやすいと、友人たちの間では評判なのが岸波白野という少年だった。
「あら? 白野さま。その手、どうされたんです?」
「え?」
指摘されて白野は自分の左手に妙な痣が浮かんでいることに気づいた。
痣というよりは紋様だ。寝ぼけて落書きしたということも無いはずで。
知らない間に手の甲にこんな紋様が浮かんでいるなんて気味の悪い話だった。
自分が中二のころであれば、もしかしたらかっこいいと思ったかもしれないが。
「……どこかにぶつけたのかな? 放っておけば消えると思う」
「そう……ですか……」
キャスターはどこか落ち込んでいるような気がする。
と、思えばすぐに表情を朗らかに切り替えた。
コロコロと表情が変わる様は、見ていて飽きない。
「痛みがないのならいいのです! さあ、白野さま! 買い物に参りましょうか」
気がつくと白野はキャスターに引きずられるような形で、買い物に出かけることになった。
街中を軽い足取りで歩く彼女にしばし見惚れる。
変わらぬ日々に訪れた変化。それに期待を抱かぬ者はいないだろう。
けれども――。
「もし、そこのお二方」
「はい?」
突然掛けられた声に白野は振り返り、そしてあまりの衝撃に言葉を、我を失った。
そこに立っていたのは一人の女性だ。そう、それだけならばよかったのに。
憂うような表情、匂やかな佇まい。黒衣に身を纏い厳重に肌を隠した姿は……。
「僧侶……尼さん……?」
「まあ、私がそのように見えるのですね。それは当たらずとも遠からず、ですわ」
女性はおかしげに口元に手を当てて笑う。その姿は品がいい。
上品であるのに、その仕草は妖艶で目がついあらぬところを追いかけてしまう。
例えばぴっちりとした黒衣のおかげで強調される胸のふくらみなど。
「白野さま、視線はどちらに向かってらっしゃいますか? 私の手がお見えになりますか!?」
ひらひらとキャスターの手が割り込むことで、白野の意識は我に返った。
よく見ると女性の服装は尼僧ではなく、教会のシスターのようである。
「私、今度冬木教会に派遣されました司祭の補佐、殺生院キアラと申します」
その言葉で白野もようやく合点がいく。彼女が白野に声を掛けてきた理由を。
「もしかして、迷いました?」
「ええ。司祭が先に行っていろ、だなんて言うものですから」
道順は確かに聞いていたはずなのに、気がついたら道に迷っていたのだという。
それは大変でしたね、と白野は丘の上の教会へと案内しようと思った。
キャスターは不満そうにしていたが何も言わない。
お互い黙っているのも気まずくて、白野は冬木でどこか気に入りそうな場所はあったか聞いてみた。
まだ来てすぐだからだろう、キアラは困ったように頬を染め微笑むばかりだった。
と、何故か気がついたら白野は自分の身の上話をしていた。
彼が語ることはあまりない。
過ぎ去りし時は攫えぬ。
残るのは記録ばかりで、実感しない。
岸波白野という人間は一種の記憶障害を患っていた。
時間は
そうして振り返った
彼にとって振り返るべき過去はある時を境に断絶しているのだ。
それが原因なのかはわからないが、記憶が持続するようになってからはある男の養子となっていた。
聞いた話によると、両親は何もかもを忘れた彼を見ていたくなくて手放したのだという。
そんな学校の友人にも話したこともない過去を口にしていた。
きっとキアラの合いの手が上手かったからだろう。
相手は仮にも聖職者だ。身の上話を聞いたことぐらい数えきれないほどあるだろう。
「まあ、そんな事が……申し訳ありません。そのようなお話をさせてしまいまして」
「いや、俺にとってあんまり実感できない事だから気にしないで」
「白野さま……」
「キャスターもごめんね。こんな話聞かせちゃって」
「いいえ、そんなとんでもない」
そんなことを言っていると、教会の屋根が見えてきた。
キアラをきちんと教会に送り届けた時には日もだんだん傾いて、買い物をして家に戻るとちょうどいいだろうと思えた。
「じゃあ急いで買い物に行こう。晩ごはんは何でもいいよ」
白野は何も知らぬままキャスターと共にその場を後にした。
――夜。
外は静かだ。人々のざわめきも車の音も遠い。
けれど眠れない。外の静寂に反して心がざわついて目が冴える。
きっと久々に自分の過去を人に話したからだろう。
記憶を辿るとある白紙の頁。何も書かれていない
その先を知りたいと思ったことは不思議とない。
不確かな
そう白野は思っていたのだけれど。
考えれば考えるほど、眠れなくなる。
ならばいっそ起きていようと思考を切り替え、白野は寝間着から着替えて部屋を出た。
やることと言っても、ホットミルクを飲むぐらいだろうが。
冷蔵庫を開けると牛乳がなかった。
「……しまった」
もっと早くにチェックしておけば切らす事なんてなかったのに。
スーパーはとっくの昔に閉まっている。
普段ならパン食だから途方に暮れていたところだが、キャスターは米食派のようで、翌日のご飯の準備は炊飯器でバッチリである。
「部屋に戻ろう」
何しに部屋を出たんだろうと白野が虚脱感を覚えた時、何か家の中で物音がした。
ぱたりと小さな音。それが確かに聞こえた。
「キャスター? 起こした?」
廊下に顔を覗かせてみても、キャスターからの返答はない。
その代わり、キャスターが滞在してる客間のドアが少し開いている。
キャスターに謝りながらドアを開き、電気をつけるともぬけの殻だった。
時間は女性が出歩くには遅い。
そう実感する前に白野は家を飛び出していた。
走る。走る。走る。
心当たりなんてあるはずがない。
けれど物音がしてから白野がキャスターの不在を確認してすぐだ。
走ればすぐに追いつけると思っていたのだが、姿が見当たらない。
街灯の光でも、あの桃色の特徴的な髪ならば、すぐに見つかると思っていたのに。
「キャスター! どこにいる!」
近所迷惑だが声を張り上げた。
不思議な事に迷惑だと外に出てくる人間がいなかった。
そう、応える者は誰もいない。
ただ一人、彼を狙う者以外は。
「ほう、網を張っていれば案の定。ようやく出てくるとはな」
それは男の声だった。
聞き覚えなんて当然ない。
自分を敵視してるとかそんな風には聞こえないのに、身体が強張る。
見られている。それははっきりとわかる。
この視線は自分を品定めしている。
お眼鏡に適わなければあっさりと殺される。そんな妄想が頭を占める。
「どうした? 早くサーヴァントを呼ばぬか?」
街灯の明かりに照らされ、相対する人物が浮かび上がる。
頭には白い頭巾を被り、同じ色の垂れ布と、口元を覆い隠す布によって顔はほとんど見えない。
手には金色の錫杖を持ち、アラビアン風と言っていいのだろうか。男の姿はそんな風に見えた。
まるでおとぎ話から出てきたようだ。
布の間から見える赤い瞳が、白野を射抜く。
「白野さま!」
男との間に割り込んで来たのはキャスターだった。
青い着物、ピンッと立った獣の耳、そして白野に向ける背にはモフモフとした物がある。
「キャスター?」
「貴様ではないわ、キャスター。そやつはまだサーヴァントがおらぬではないか! ならば裁定するのが我の役割というものよ」
男が錫杖を振り上げると、キャスターが鋭く叫んだ。
「伏せてくださいまし!」
「え、――ぅわっ!?」
キャスターに押されるまま、地に伏せた彼の上で硬い物同士がぶつかり合う音が響いた。
何gは起きてるのかわからない。けれど身近に迫った危機なら感じる。
どうして起きた事なのかわからない。死が迫っている事だけがわかること。
硬い、重い音。このままだとキャスターも、自分も死ぬ。何も残さずに。
本当に、そんな終わりでいいのだろうか。
「どうした、呼ばぬなら貴様もそこまでだ」
それだけはどうしても許したくない。ここまでだなんて勝手に言われたくない。
そんな想いが呼び起こす。聖杯のシステム。
左手が熱い。全身が恐れで震えてくる。
そんな中彼の前に降り立ったのは、輝く赤い剣を手にした、剣士だった。
赤いドレスが風にたなびく。とても美しいと彼は思った。
「そなたの声を確かに聞き届けた。余はセイバーのサーヴァント。そなたの剣となる者である!」
高らかに歌い上げるような声。
演説でもするかのように名乗りを上げた彼女は、相対する男に剣を向けたのだった。