ああ、コーヒーが美味い。コーヒーを口元に運び、先程の事を極力意識しないように努める。しかし顔の熱さがなかなか引かない。まったくあやせがあんな事するなんて予想外の不意打ちもいいとこだ。いくら家族とはいえ、あ〜んは恥ずかしいだろ、あ〜んは。……まさかあやせのやつ、誰にでもこんなことしているんじゃないだろうな? こんなことされたら男なら誰でも勘違いしちまうぞ!? さっきまで赤かった顔が一気に青ざめる。
「あ、あやせ!?」
「ど、どうしたんですか!? いきなり大きな声あげて?」
俺の声に驚いたあやせが俯かせていた顔を慌てて上げる。妹の顔も赤い、やっぱりさっきのは恥ずかしかったようだ。
「お前もしかして……」
……ちょっと待て、いま兄相手で恥ずがっている妹が、他の男相手に同じこと出来るだろうか? 恋人ならともかくとして、まず出来ないのではないだろうか? ……危なかった、思わず『他の男にもあ~んなんてしてないだろうな?』なんて問い詰めてしまうところだった。それは何というか、過保護を通りこしてキモい兄貴になってしまわないだろうか? 『兄さん気持ち悪いです』なんてあやせに言われてみろ、俺は立ち直れないぞ。
「もしかして、何ですか兄さん?」
しまった、どうする!? 凄い勢いでしゃべり始めたにも関わらず、もしかしてで止めたからあやせが不審がっている。どう誤魔化すよ俺!? ええいままよ!
「えっと、もしかしてお前少し太ったか? 頬のあたりが少し……」
ビキッ!! 空気が凍った気がした。俺は最悪の選択をしてしまったのかもしれない。身体の震えが止まらない。クーラーが効いていて涼しいはずの店内なのに、ぶぁっと汗が噴き出る。頭の中でアラートが危険を知らせて鳴り続けている。あやせはニッコリと微笑んでいるのに、どうしてだろうあやせの背後に夜叉が見えるんだが……
「うふふふふ、兄さんとても面白いことを言いますね」
「お、おう」
「そろそろお店を出ましょうか? あまり長居をしてしまうとお店のご迷惑ですからね」
「あ、ああ」
「すみません、お会計お願いします」
俺は伝票を持ってレジに向かう。店員のお姉さんが伝票を受け取る時にあやせを見て『ヒッ!?』って言った後、口を押さえて何ともいえない目で俺を見る。俺は財布からお札を取り出し会計を済ます。女性店員の『ありがとうございました』が『ご冥福をお祈りします』に聞こえて、レジから店の出口までが13階段に見えてくるから末期症状である。
「あやせ……」
「…………」
しかし予想に反して、店から出てもあやせが俺に何かをしてくることはなかった。俺の予想では人気の無い場所に連れていかれ、折檻されるものと思っていたのだが、実際は俺の言葉に反応せずにスタスタと歩いて行ってしまう。恐る恐るあやせの後について行く。
「あやせ?」
「…………」
5分位黙々と歩いていると流石に不安になり、再度あやせに呼び掛ける。しかし妹は口を聞いてくれない。どうやら無視をされているようだ。困った、どうしよう? 正直なところ、反応が無い無視は、激怒されるよりよっぽどやりにくい。いままであやせを怒らせてこのパターンになったときは、怒りを鎮めてくれるまで側で土下座をしていた。しかし流石にショッピングモール内でそれをするのは無理だろう。さて、どうしようか? ……怒らせるの覚悟で呼び掛け続けるしかないか。はぁーとため息一つ吐き覚悟を決める。
「……あやせ」
「…………」
「あやせさん」
「…………」
「あやせちゃん」
「……〜〜」
おっ、ピクッと反応した。この方面でいくしかないな! ……あとが怖いけど。
「……あやせたん」
「〜〜〜〜」
「あや……」
「も〜〜なんなんですか兄さん! 私は怒っているんですよ! それなのにふざけて!」
あやせが爆発した。まあ人混み内という事を考慮してか、あやせの声は小声だったが。しかし声は小さいもののその迫力はいささかも衰えない。キッとこちらを睨み付ける眼差しに、反射的に土下座をしてしまいそうになった。危ない危ない店内で土下座が出来ないから、呼び掛けで怒らせるリスクを取ったのに、ここで土下座したら意味が無い。
「すまん、俺が悪かった」
俺は頭を下げる。結局素直に謝るしかないのである。ただ本気で謝っている姿を見せるには、あやせがこちらを見てくれる必要があったので、あのふざけた呼び掛けも入用になったのだ。
「……頭を上げて下さい兄さん、人が見てますよ」
「…………」
俺はまだ頭を上げない。
「……わかりました。許しますから頭を上げて下さい」
「ごめんな」
あやせの許すという言葉を聞き、俺は頭を上げた。許すと言ったが、あやせはまだ膨れている。
「……兄さんズルいです」
「悪い、卑怯だったかな?」
「卑怯ですよ。人が大勢いるのに頭を下げて、許さない訳にいかないじゃないですか」
「すまない。お前がそこまで怒るとは思わなかった。ほんとにごめん」
俺はあやせの瞳を見据えて再度謝罪の意思を伝える。数秒間見つめ合った後、はぁーとあやせがため息を吐いた。
「私も大人気なかったです。でも太ったなんて言われたら女性は傷付くんですよ。これからは女性に対して、太ったなんて絶対言っちゃあダメですからね」
「ああ、もちろんだ」
「仮に相手が怒らなかったとしても、内心で怒っていたり、傷ついていたりするんですよ」
「肝に命じておく」
これからは女性の体重に触れないようにしよう。噂では聞いていたが、まさかこれ程怒るとは思わなかった。
周りで俺たちに注目していたギャラリーが散っていく。これ以上は何も起こらないと判断したのだろう。まったく俺達は見世物じゃねーよ! 野次馬にはイラッとする。しかし赤の他人に文句を言うわけにもいかないので諦める。気分を鎮めて、あやせに問いかけた。
「次はどうする?」
「そうですね……服を見に行きたいんですけど、いいですか?」
「了解です。お嬢様」
「もう、またふざけて」
あやせが俺の脇腹を左肘で小突く、とりあえず機嫌は回復したようである。妹の要望に従いファッションショップに向かう。エスカレーターを使い2Fへ、しかしファッション関係だけで何店舗あるんだ? あやせの行きつけの店へ向かうだけで10店舗以上のファッションショップを通り過ぎている。服を買うときはもっぱらユニクロか、お袋にお任せの俺からすれば信じられない光景だ。男子高校生が母親に買ってもらうのは恥ずかしくないかだって? ファッションに興味がなく、バイトして無い金欠高校生だと仕方ないんだよ! 服よりも買い食いや雑誌なんかを買っちまうし、最近は桐乃達と遊ぶから、なおさら小遣いが足りないんだ。服を買うからと親に金をせびる事も、妹が読モのバイト代で自分で買っているのを知っているから、アニキの見栄で出来ないし。残った手段が母親に任せるか、ユニクロで格安の服を買うかになるのだ。
「兄さんここですよ」
おっと、キョロキョロしながら歩いていたら、行き過ぎてしまうところだった。カフェから出てからは手を繋いだりとかはしないで、妹の後ろについて行ってたからな。あやせが手招きしている店は、若い女性向けの専門店なのだろう。パッと見たところ中にいるのは、女子高生か女子中学生がほとんどに見える。男の俺からすれば、その空間に入って行くのは出来れば遠慮したい。
「あやせ、俺外で待っていていいか?」
「ダメですよ兄さん、せっかく一緒に来たんですから、選ぶの手伝って下さい」
俺の希望は叶えられなかった。あやせに手を引かれ女の花園へ足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
若い女性店員が明るく呼び掛ける。ブルーのトップスにホワイトのパンツ姿だ。こういう店の店員は私服なんだな? ファッションに疎い俺から見てもオシャレに見える。じっと見つめていた俺に気が付いたのか? 店員さんがニコッと微笑んでくれた。
「兄さんこちらですよ」
「痛てて」
店員に見惚れて突っ立っていた俺の耳をあやせが引っ張る。店員さんの笑顔が苦笑に変わる。
「耳が千切れたらどうするんだよ!」
「兄さんが店員さん相手に、鼻の下伸ばしているのがいけないんですよ」
「鼻の下なんて伸ばしてねーよ! こういう店の店員は流石にオシャレだなって感心していただけだ」
「嘘です。店員さんに微笑みかけられて、デレデレしてました」
「デ、デレデレなんてしてないぞ!? ちょっとドキッとしたけど……」
「それがダメなんです。まったく兄さんは目を離すとすぐにこれなんですから……」
「すまん降参」
俺は両腕を上げて、白旗を揚げた。店員さんの笑顔に見惚れてしまったのは本当なので、負けを認める。俺の姿を見たあやせがふぅーとため息を吐いた後、服を選び始める。
「兄さんどっちが似合うと思います?」
「お前ならどっちでも似合うと思うぞ」
「もーダメですよ。こういう時に両方似合うは禁止なんですよ。意見を求めているんですから」
「そうなのか?」
「そうなんです。で、どっちがいいですか?」
あやせが持ってきたのは黒と桃色のキャミソールだ。うーむどっちがいいか? 黒の妖艶さもいいが、桃色の可愛らしさも捨てがたい。
「マジでどちらも似合いそうだけど、俺はこっちかな?」
桃色のキャミソールを指差した。
「どうしてこっちを選んだんですか?」
「お前がいま着ているジャケットを見たら、まあそれはほとんど白色のピンクだけど、桃色の方があやせにあってるかなって、何となくな」
「そうですか♪ 私もこちらが良いかなって思っていたので、じゃあちょっと試着してきますね!」
「あっ、おい」
あやせが踵を返し、試着室に入ってしまう。あやせがいなくなってしまうと、途端にここの空間が居づらくなってしまう。女の子の集団にぽつんと男一人だと、自意識過剰かもしれないが、ヒソヒソと噂されている気分になってくる。何もせずに待っているのはつらいので、近くにある洋服の値段をチェックする。うげぇ、高え、こんな薄くてひらひらなのに一万以上しやがる!? やっぱり俺にはファッションは分からねえ! 試着室前でオシャレ人間になるのは不可能だと絶望していると、先程の店員が話しかけてきた。
「可愛らしい彼女さんですね」
「か、彼女!? いえ違います、あいつは妹です」
周りから見るとそう見えるのか? ……あやせに比べて、俺の顔が平凡な所為で兄妹に見えないとかじゃないよな?
「あら、そうだったんですか? てっきりカップルかと。仲のよろしいご兄妹なんですね」
「妹に頭が上がらないだけですよ」
「そうなんですか? 妹さんお兄さんを信頼している様に見えましたよ」
「そうだと嬉しいんですけど」
あやせは俺を信頼してくれているんだろうか? 情けないところばかりを見せている気がするから自信が無い。俺はあいつの兄貴をちゃんとやれてるだろうか? 悩む俺を見て、店員さんがふふっと微笑む。
「そろそろ妹さんも着替えが終わりそうですね。それじゃあゆっくりお楽しみ下さい」
「あ、ありがとうございます」
店員さんが一礼して去って行く。どうやら試着室前で肩身の狭い思いをしていた俺を気遣ってくれたようだ。こんな細かい配慮もするなんて、流石プロだな! 思わず感心する。店員さんが言った通り、シャーと試着室のカーテンが開かれる。
「どうですか兄さん?」
俺が選んだ桃色のキャミソールの上に、元々着てきたボレロを纏い、下はいつの間にか試着室に持ってきていた水色の三段のフリルスカートを着ている。さっきまでの格好も良かったが、こっちも凄く可愛い。思わずほぅと感嘆の声が漏れる。
「可愛いな! お前に良く似合ってると思う」
「そ、そうですか、あ、ありがとうございます」
あやせは俺にお礼を言うと、すぐに試着室のカーテンを閉めてしまった。あれ、俺何か失敗しちまったか? この間麻奈実に『女の子の服装や髪型は、きちんと褒めてあげないとダメなんだよ、京ちゃん』って言われたから実践してみたんだけどな? あれか、もっと大袈裟に褒めないとダメだったのか? たとえば『まるで地上に降りて来た天使のようだよ。ラブリーマイエンジェル!』……うお、気持ち悪ぃ!? なんだよラブリーマイエンジェルって!? 自分で考えといて何だが、そんなキモい表現使う奴いねーだろ!! しかし今のは論外にしても、人を褒めるボキャブラリーを増やさないといけないよな。まさか試着室に逃げられるなんてな。あれかな俺の褒め言葉がおざなりに聞こえたから、すぐに着替え直そうと思ったのか? だとしたらあの服装は買わないよな? 勿体無いマジで似合っていたのに! 失敗した、もう見られないと分かっていたら、写真撮らせて貰ってたのに……
「お待たせしました兄さん」
俺が後悔している間に、あやせが元の服装に戻って出て来た。ちなみに今回は店員さんは来なかった。忙しかったのだろう、俺が頭を抱えて天を仰いだりと不審な行動で近寄らなかったなんて事はないよな……違うよね?
試着室から出て来たあやせの顔が少し赤くなっているように見える。俺は右手をあやせの額にかざす。ちょっと熱いか?
「なあっ、兄さん、いきなり何するんですか!?」
あやせが俺の行動に驚き、慌てて後ろに跳び退いた。
「いや、お前の顔が赤く見えたから熱無いかなって?」
「だ、大丈夫です。元気いっぱいですよ私!」
「そうか? ちょっと熱かったから熱中症とか大丈夫か? なんかさっきより顔が赤い気がするし?」
「大丈夫って言ったら、大丈夫です! 私これ買ってきますから先にお店出ていて下さい」
あやせが勢い良く捲し立て、レジに向かっていく。本当に大丈夫だろうか? まあ本人がああ言う以上信じるしかないか。さっきカフェで休憩したから水分は摂ったし、店内は結構涼しいから大丈夫だとは思うが……熱中症は怖いからな、注意して見ておくか。
あれ、そういえばあの服買うんだな? てっきり買わないものだとばかり思ったのに。うーんまあ凄く似合っていたから、もう一度あの姿を見られるなら細かい事考えなくていいか。とりあえずあやせの言った通り外で待っていよう、ここにいるとお嬢様方の目が怖いからな。
ラブリーマイエンジェルなんて使う人はもちろんいないですよね(笑)
……女性に体重の話は本当にやめた方がいいですよ。作者の場合プラスになったことは皆無です。