荀シン(何故か変換できない)が恋姫的世界で奮闘するようです 作:なんやかんや
荀シン友若 上
官軍の大敗。
その報は激震となって漢帝国全土を揺るがした。
最後にケチは付いたものの圧倒的な勝利を収めた袁紹軍に、中立の姿勢を保っていた辺境諸侯や冀州周辺の豪族たちは雪崩を打って袁紹に味方することを宣言した。
血気あふれる辺境豪族は独自に兵を集めはじめた。
「どういうことなのよ! あれだけ軍事費をつぎ込んで、あれだけ兵を集めて、それで負けるって!? しかも、相手は同じ漢民族なのよ! 凶悪な異民族じゃないでしょうが!」
官軍敗北の上奏に皇帝は暫し呆然とした後、顔を怒りに染めて叫んだ。
「皇甫嵩……あいつまさか手を抜いたわけじゃないでしょうね!?」
皇帝の言葉に側に控えていた十常侍の一人が答える。
「その可能性は否定出来ません」
皇帝は満足層に頷く。
皇甫嵩を更迭し袁紹討伐軍指揮官を交代させようと思う皇帝。幸いにも皇帝の脳裏には適任そうな人物が1人いた。
曹操である。
先の戦いで袁紹の首までもう一歩まで迫った英傑。
宦官の重臣を祖父に持ち、皇帝とも親しい人物だ。
そこに清流の重臣が異議を唱えた。
「何を言うか! この国に仇なす寄生虫どもめ! 皇甫殿からの報告を受け取っておきながらよくもその様な戯言をしゃあしゃあと! 貴様らに恥はないのか!」
「あれだけの兵力を与えられながら、敗北するなど皇甫嵩の内心に疑問を持たれてもしょうがないことだ」
「貴様ら宦官が討伐軍の為に集められた予算を掠めとったがために皇甫殿は満足に兵士達を武装させることもできなかったのだ!」
「何を言うか。自分達に親しい南部の豪族たちばかりを袁紹討伐軍に加え、軍事費を横領したのは清流を名乗るお前達の方ではないか」
清流を代表する重臣と宦官の言い争いは続く。
皇帝はその様子をうんざりとした表情で眺めた。
いつもの光景であった。
清流と濁流の終わり無きいがみ合いは。
元は漢帝国における派閥争いだったそれはいつの間にか止めようのない対立へと発展した。
清流と濁流、どちらかが完全に滅びるまでこの争いは止まらないだろうとすら皇帝には思える。
――どっちかが滅びたらそのまま漢が滅ぶでしょうが!
皇帝は内心で叫ぶ。
清流と濁流、そのどちらも現状の漢帝国には無くてはならない。
主に実務能力のある官僚が多い清流を切り捨てれは漢帝国はすぐにでも立ち行かなくなる。
だが、時の皇帝を外戚や官僚の好き勝手から守るための存在となった宦官、濁流を潰すわけにもいかない。官僚と組んだ外戚がどれだけ思うままに振舞ったか。
それに、濁流に属する官僚も少なからず居るのだ。
現実を考えれば清流と濁流はどこかで和解しなければならない。
しかし、現在の清流の主流は急進派と呼ばれる過激派であり、濁流を皆殺しにするべしと常日頃から声高に叫んでいる。
対する濁流は殺される前に殺せという発想により、清流への攻撃を強めている。
「そもそも、十分に非があるとは言えない袁紹を逆賊とするよう陛下に進言したのは貴様ら宦官ではないか!」
「袁紹討伐にことさら意欲を見せていた貴様らがそれを言うとは滑稽だな。陛下に袁紹を討伐すれば10年分の国庫を手に入れられる、と上奏したのは誰だったか、もう忘れたのか?」
「……もういい」
互いの非を論い続ける両者に皇帝はつかれた様子で言い放った。
「お前たちの諍いを聞くことにはほとほとうんざりよ。それよりも今決めなければならないのはこれからどうするかでしょうが?」
「……」
「……」
家臣たちは無言で頭を下げた。
これからどうするべきかという建設的な意見を一切述べることなく。
「お前たちはこれからどうするべきか、何か考えがあるの?」
「……」
「……」
苛立ちながら尋ねる皇帝に清流も濁流も沈黙をもって答えた。
頭を掻き毟りたい衝動を覚える皇帝。
「先の戦いで辺境はほぼ例外なく袁紹に味方した! このまま放っておけば彼らは袁紹の動きに合わせて一斉にこの洛陽を目指すでしょう! この状況でこの国の為に何をするべきか、その答えをお前達に聞いている!!」
「……」
「……」
皇帝の言葉に並居る家臣は目を伏せた。
皇帝に答える人間は誰一人としていなかった。
「……皇甫嵩の袁紹討伐司令官の任を解く。あいつには董卓や馬超の抑えをやらせる。袁紹討伐司令官の後任は曹孟徳よ。意義はないわね?」
「……」
「……」
何も答えなくなった臣下達にそう言い放つと皇帝は憤りながら謁見の間から退室していった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「荀大老師殿、兵を動かせないとはどういう不手際ですか? 貴方はそれでも栄光ある袁冀州州牧の筆頭軍師なのでしょうか?」
「然り。荀大老師殿、そもそも貴方は若すぎる。重責に耐えられないのであればその地位を返上するべきではないのか?」
「亡き田豊殿や沮授殿といった方々に代わる忠臣も必要でしょう」
丁寧でありながらも非好意的な言葉が次々と友若へ降りかかる。
曹操軍の首狩り作戦によって袁紹配下の上層部には多くの死傷者が出た。
死傷者として多かったのは上層部を多く占めていた田豊派閥や清流派閥の人間が多い。
長年、押さえつけられてきた名士達や豪族達にしてみれば降って湧いた好機である。
彼らは空席となった地位を自分達の派閥に連なる人間を送り込もうと画策していた。
何しろ、本陣への強襲を許したことを除けば、この度の戦いで袁紹は官軍相手に大勝利を収めた。
その勝利に同調して、辺境軍閥が一斉に袁紹に味方することを宣言している。
袁紹やその配下の人間達の殆どはこの戦いに勝利したものと思っている。何とか生き残れたと命の尊さを噛み締めている友若とはえらい違いであった。
後は数を半減させ、潰走した敗残兵を追撃し撃滅すれば、容易に洛陽までの道が開けるだろう。
そして、洛陽に住まう皇帝さえ抑えてしまえば天下は袁紹のものになる、と袁紹配下の多くは思っている。
現皇帝を廃して幼子を皇帝として戴き実務を握っても良いし、あるいは劉家から袁家に至尊の座を禅譲させても良い。
何れにしても、袁紹の権勢はこの国において比類なきものになるだろう。
そうなった時、袁紹配下としての序列や功績はこの国の序列と等しくなるはずである。
洛陽までの戦いで功績を上げ、袁紹配下としての序列を上げておけば、位人として最高位の三公となることも夢ではない。
袁紹配下、特に名士達や豪族達は鼻息荒く今回生まれた空席に座ろうと暗躍していた。
袁紹の重臣としての地位に座る、その為の最大の障害が友若だった。
友若自身は特にまとまった派閥を抱えていなかったが、今回空席となった重臣のポストに自らに親しい人間達を推薦している。
そして、袁紹から大きな信頼を得ている友若の推薦は人事において大きな力を持っていた。
折角、田豊派閥が崩壊し、清流派閥も影響力を狭めているのに、『荀シン派閥』などというものが誕生しては堪らない、と名士達や豪族達は一致団結して友若を追い落とそうとしていた。
本来であれば友若を味方につけるべく動くのが正しいのかもしれないが、これまで友若に煮え湯を飲まされてきた名士達や豪族達はその選択を選ぶ気にはなれなかった。
幸いにして、友若は官軍追撃のための軍編成を全く行わないという失策をしていた。
逃げ出した官軍の追撃を行うよう友若に命じた袁紹も苛立ちを見せている。
袁紹の寵愛という庇護さえ失えばまともな派閥を持たない今の友若を潰すことは容易い、と名士達や豪族達はほくそ笑んだ。若造め、とうとう転びおったな、と。
もちろん、友若のトントン拍子の出世に歯ぎしりをしていた名士達や豪族達は友若を転ばせるだけで済ませるつもりはなかった。
名士勢力や豪族勢力の獲物を前にした喜びを横目で見やりながら郭嘉は人知れずため息を付いた。
郭嘉は伝令としての職責を越えながらも袁紹本陣の混乱を納めた功績を評価され、名士勢力の推薦もあって、軍議に参加する事ができるようになっていた。
年功序列の傾向が強い袁紹配下としては、友若や一部の清流派閥の人間に次いで異例の出世であった。
郭嘉の能力を考えればこの地位でも大いに役不足であったが。
もっとも、郭嘉は袁紹配下として出世することに意義を見出していない。そもそも、金銭や地位と言った世俗的価値に郭嘉は執着していないのだ。
郭嘉は己の性格が袁紹と合わないことを十分に承知していた。
袁紹の下では一定の地位までしか出世できないだろう。
郭嘉の生まれ持った才能を十全に活かそうと思うならば、袁紹の下を去って新たな主を探す他ない。
溢れんばかりの才気は郭嘉に存分に翼を振るえる大空を求めていた。
そして、郭嘉は今回の戦いで理想の主として夢に描いたそのまま現実になったかのような人物を見た。
曹操孟徳。
その圧倒的な覇気は兵士達が次々と死んでいく戦場においても輝きを放っていた。
現状の曹操の立ち位置では郭嘉が配下として仕えることは難しいが、幸いにして曹操にはツテがある。
以前、袁紹を見切り去っていった程昱である。
曹操に対して持ち前の能力を認められ瞬く間に出世した程昱が郭嘉の才能を保証するだろう。
そして、才を愛す事で有名な曹操ならば確実に郭嘉を大いに取り立てるに違いない。
郭嘉にはその自負があった。
そして、曹操の下で己の才の限りを尽くして、天下に覇を唱えることはどれだけの喜びを郭嘉にもたらすことか。
もっとも、今となってはその選択肢はない。
現在、天下にもっとも近いのは袁紹だ。
そして、袁紹が天下を取るには洛陽へと兵を進めるだけで良い。
王としての才能は明らかに袁紹よりも曹操のほうが優れていた。
天下を見渡せば袁紹を超える王才の持ち主は数多いだろう。
にも関わらず、袁紹はそうした全てを差し置いて圧倒的な優位に立っている。
荀シン友若という鬼才がいるからだ、と郭嘉は袁紹成功の理由を友若に求めた。
この鬼才から学ぶべきことは多い。
余りにも多すぎる、というのが郭嘉の感想である。
正直、鬼才という言葉では生ぬるい、とすら郭嘉は思う。
郭嘉はこっそりと友若へ視線を向けた。
「……」
友若は名士と豪族勢力の一斉攻勢に何ら反論もせずに黙り込んでいた。
先の戦いが終わってから青ざめた顔。その目は恐怖に濁っていた。
その様子はとても袁紹の快刀と呼ばれる人物とは結び付けられそうにない。
もっとも、平素の友若の時点で冀州の大成功を成し遂げた人物とは思えないのだが。
しかし、その友若が提案した株式制度や銀行制度が発端となって漢帝国全土を揺るがす大変動が今まさに起ころうとしている。
友若のその頭脳から出てくる異次元の発想。
こうして成果を上げていなかったならば、狂人としか思えないレベルのそれ。
何をどう学べば、何をどう考えれば、そうした発想が生まれ出るのか郭嘉をしてもまるで理解できない。
提案の持つ個々の要素ならまだ天才の発想として理解できる。
例えば、資金はないがアイデアはある商人に投資する制度と言う提言なら郭嘉でも思いつけたかもしれない。
何しろ、漢帝国には農民を対象とした同様の制度が嘗てあったのだ。その制度を商人へと応用するという発想は儒学者に睨まれる危険があるにせよ、多少優秀な人間なら考えついたとしてもおかしくない。
また、金を貯めこむ豪族から資金を放出させる必要性は漢帝国の実情を正しく認識する能力のある者達にとっては自明のことだ。
嘗て、仁や徳といった思想に依って富裕層は国家や民草のために己が財を放出していた。それが、風化し、機能しなくなったのがこの時代だ。
当然、富裕層に溜め込んだ金銭を放出させようという試みは無数に行われていた。
だから、金を貸す際に常に伴う貸し倒れのリスクを分散するということを思いつく人間がいたとしても、それはまだ努力の果てに辿り着いた秀才か、天才の範疇に収まっているだろう。
借金が返済不可能となった際に一定以上の責任を問わないという有限責任を定めた制度なら天才の発想だと郭嘉は素直に賞賛できたことだろう。
失敗した場合のリスクを一定に抑えるという事は挑戦を促し社会に活気を与えるという点で画期的であると郭嘉は思う。
それでも、まだ発想としては理解できる範疇に留まっている。
だが、それらを全て内包した、株式制度というものを立案する発想というものは郭嘉の理解を超えていた。
幼い頃から多くの書物を読んで学んだ郭嘉をしても、株式制度の名前や類似する制度は聞いたことがない。
つまり、友若は株式制度という非常に大きな仕組みを殆どゼロから考えだしたことになる。
そして、株式制度に留まらず、友若の頭脳からは同様の異端の発想が次々と出てくるのだ。
本来は個々の要素を組み上げて行くべき所を圧倒的な完成度を伴って。
その事に考えが至った時、郭嘉は得も知れぬ寒気を覚えた。
鬼才。
いや、怪物。
その怪物の頭脳から出た発想によって数百年の歴史を持ち5000万を超える民を抱える漢帝国は急速に変化している。
怪物が止まらなければこの国の大変動は尚も続くだろう。
そして、その先がどうなるのか。
郭嘉にはそれを判断することができない。
天に才を与えられた郭嘉であるが、その才能はあくまで『天才』止まりなのだ。
怪物の行動を予測する能力は郭嘉には与えられていなかった。
何れにしても、一人の人間が周囲に対してこれほどまでに大きな影響を及ぼした例は数少ない。
――常日頃の様子からはどうして中々想像できませんが。
郭嘉は内心で独りごちた。
普段の友若は決して怪物と呼ばれるような人物には見受けられない。
業務能力や政治能力は平凡から優秀の間に留まっている様に郭嘉には思える。
むしろ、友若は人間関係やコネクション作りに関しては平凡以下とすら言えると郭嘉は判断していた。
そもそも、日ごろの立ち振舞で無数の敵を生んでいなければ、目の前の吊し上げは起きなかったはずなのだ。
政策立案能力や一部の戦略構築能力では異常な才能を示しているにも関わらず、余計な敵を生むことなど日常の友若の行動は余りにも稚拙だ。
友若のその有り様は余りにアンバランスだと郭嘉には思えてならない。
あるいは、『天才』とは元来そういうものなのだろうか、と郭嘉は思い直した。
――風の言う通り、ということでしょうか……
郭嘉は袁紹の下を去って行く程昱との別れの会話を思い返した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「お元気で、風。今生の別れではないとはいえ貴方と別れると思うと寂しいですね」
「稟ちゃんもお元気で~」
「今後は曹孟徳殿の下へ行くのですよね?」
「ええ、そうです~。荀文若殿、荀友若殿の妹君の口利きがありましたので。今のままでは風の能力を発揮することはできませんし、乱世の奸雄には会ってみたいですから~」
程昱は何時もと変わらぬ様子でのんびりと話した。
荀彧が直接程昱を誘ったとも取れる程昱の言葉に郭嘉は内心で少々驚いた。
流石に友若の妹であるだけあって、荀彧も優秀なようだ、と郭嘉は内心で舌を巻く。
袁紹の下のうだつの上がらない官吏にまで目をつけるとは尋常ではない。人材鑑定眼では友若を上回っているだろう、と郭嘉は思った。
「荀文若殿ですか。凄まじく優秀だと聞き及んでいますね」
「そうですね~。上辺の能力だけを見れば間違いなく荀友若殿よりも優秀だと思いますね~」
「しかし、風。それを分かっているのならもう少しここに留まっても良かったのでは?」
郭嘉は程昱に尋ねた。
程昱は郭嘉と同様に友若の鬼才を認めている。当然、友若から学べることの多さも理解しているはずなのだ。
「風としても、もう少しここにいても良かったかなとは思うのですが~」
「ふむ」
「でも、荀友若さんの下にいくらいてもその全てを学ぶことはできないと風は思うのですよ~。風には荀友若さん程の才能はありませんし」
程昱は目を半ば閉じながら言う。
その瞳に微かに感情が篭っていることを郭嘉は気が付きながら、何も言わなかった。
「だから、離れるという訳ですか?」
郭嘉は静かに尋ねた。
程昱は小さく微笑んで答える。
「ええ。荀友若さんという巨人の全体を正しく捉えるためには距離を置かなければいけないと風は思うのです」
「巨人、ですか」
「そうですよ~。まあ、巨人の体は持っていないかもしれませんが~。視線だけが巨人の高さにある、と言ったほうが正しいかもしれませんね~」
「なるほど……そう、かもしれませんね」
そう言って郭嘉は程昱に笑いかけた。
程昱の言葉は郭嘉を大いに納得させるものだった。
凡人が地面から物事を見る者ならば、秀才は過去に積み上げられた知識という丘の上から物事を知る者だ。
凡人は木々があれば、その先がどうなっているかを知るすべはない。対して、秀才はちょっとした林の先を見通すことができるだろう。
それが凡人との違いで秀才の限界だ。山があれば秀才もまたその先を知るすべはない。
郭嘉を始めとした『天才』はその類まれなる直感と過去の知識を元にして自らの視点を山の高さにまで押し上げることができる。凡人や優秀程度の人間が見落とす無数の情報を無意識下で収集しまとめる『天才』は遥か遠くを見通して見せるのだ。
だが、人間である以上、『天才』といえども山の先の先までを知ることはできない。そこまで先を知るために必要な情報がそもそも手に入らない以上、いくら『天才』であっても限界はあるのだ。
普通、いくら『天才』であっても、過去に築かれた知識の集大成を無視することはない。
何百、何千年という時を経て形作られたそれの上に立ってこそ、『天才』は遥か遠くを見通すことが可能になるのだ。
だが、友若は違う。
友若は次々と異常な提案を繰り返してきた。過去から脈々と受け継がれてきた知識とは余りに隔絶したそれ。
遥か未来の在り方を知っていると言われれば、そのまま信じてしまいそうな友若の発想は、過去に積み上げられた知識を多くの点で無視している。
そして、無視していながら、友若の発想が生み出した成果は漢帝国に大きな変革をもたらした。
巨人の視点。
山よりも高いそれ。
郭嘉達ですら足元にも及ばない遥か先を友若は当たり前のように認識しているのだろう。
そして、余りにも先が見えてしまうがために、そもそも友若には目下の問題が理解できないのだ、と郭嘉は思った。
「稟ちゃん?」
思考に耽っている郭嘉に程昱が声をかけた。
「すいません、風。少し考え込みすぎていました」
「も~っ! お別れなのに稟ちゃんは相変わらずですね……ぐう」
程昱が眠そうな声で文句を言って、そのまま寝入った。
「風?」
「……お、おおう、稟ちゃんが1人黙って考えに没頭したりするからつい」
「……まったく。風も相変わらずではありませんか」
郭嘉はそう言って笑った。
程昱も笑った。
一頻り2人は笑い合った。
涙や惜別の言葉は似合わない、と2人は言葉を交わすことなく同じ結論に至った。
幸いなことに漢帝国は何とか平和を保っている。今後、大きな事変がなければ傾いた財政も持ち直すだろう。
これは決して永久の別れではないのだ。
そして、2人は互いに己のやるべき事に向けて動いている。
ならば、それぞれの選択に悔いや悲しみを覚える訳がないのだ。
「……それでは、また会いましょう~、稟ちゃん」
「ええ。お元気で、風」
そう言って2人は別れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ちょっと、友若さん! 黙っていては分かりませんわ!」
袁紹が苛立ちを隠さず、黙りこんだ友若に向けて叫んだ。
友若に対する袁紹の視線の厳しさは日増しに鋭さを増している。
特に、軍事の責任者でありながら友若が官軍への追撃体制構築に熱意を示さなかったことは袁紹の憤りを買っていた。
曹操軍によって幼い頃からの世話役を始めとした忠臣を失った袁紹は一時茫然自失に陥ったものの、1日で立ち直り、友若に官軍の追撃を命じていた。
だが、友若は袁紹の命令に対して動こうとしなかった。
それどころか、袁紹軍の追撃を妨害するような動きすらしてみせた。
袁紹軍中枢の欠落に拠って、田豊や沮授の死に拠って後任が決まるまでではあるが、袁紹軍における実務上の権限の殆どが友若に集中する事態になっていた。
そのため、袁紹軍は逃げ去る官軍を追うこともなく、立ち往生を続けたのである。
だが、袁紹にしてみれば、身内を殺されて黙っているという選択肢はない。
亡き田豊から友若の助言に従うようにと遺言を残されていた袁紹であるが、ここに来て限界が近かった。
友若にしてみれば曹操軍相手に半死半生で何とか生き延びることができた所なのである。
銃火器を実用化するというバケモノ。
今回は元込め式の銃や大砲しか使ってこなかった曹操軍だが、次は機関銃を運用してきたとしてもおかしくない、と友若は心の底から恐怖を覚える。
そんなバケモノに自分から再び近づくなど、友若には自殺行為としか思えない。
にも関わらず、袁紹を始めとして友若以外の殆どは官軍の追撃、つまりは曹操軍との再戦を希望して止まない。
友若にしてみれば信じがたいことだが、袁紹を始めとした多くの人間が銃火器の威力を過少評価しているのである。
例えば、審配らは『真弩』があるから曹操軍にも十分対抗できる、と楽観的だ。
先の戦いのような奇襲を受けなければ十分に勝てる、と言い放っている。
友若にしてみれば余りにも甘い考えだ。
豪族達や名士達の一部は本陣を脅かされた責任を劉備に押し付けようとすらしていた。
曹操と同じく三国の覇者となる劉備がいなければどうなっていたことか、と思っている友若は唖然とした。
友若が外聞もなく涙を流しながら劉備達に感謝したことで、劉備を責めようとする動きは無くなった。
因みに、この時、友若は劉備の要望に応じて、戦争で命を落とした兵士の家族に対して見舞金を支給している。
この財源は当初友若のポケットマネーだったが、吝嗇な友若は豪族達や名士達に資金提供を強要した。
このことにより友若は例によって彼らからの恨みを買っていた。
話を戻すが、袁紹軍に九死に一生を得たという安堵の感情が存在しないことに友若は驚いていた。
むしろ、曹操軍のせいで勝って当たり前の戦いにケチが付いたという態度の人間すらいるのだ。
そうした人間はもちろん、銃火器など物の数ではないと言い放つ。
「ただ、大きな音を立てるだけではないか! 他は弩と変わらん! しかも、連中の持っている銃とやらの数は高々千や二千だというではないか! こちらには十万もの弩があるのだぞ! 荀大老師殿は何を恐れているのだ!」
曹操軍兵士から鹵獲した『銃』の威力を見た名士の一人は言い放った。
そして、その意見は袁紹を始めとした多数派の考えでもあった。
曹操の『銃』などどれほどのものか。所詮は寡兵。正面から戦えば容易く打ち破れる、と殆どの人間が思っている。
『銃』というものが画期的であるという友若の言葉に同調したのは郭嘉等僅か数名だった。
しかし、『銃』の威力を認めた郭嘉でさえも官軍、つまりは曹操軍への追撃を主張した。
曹操軍が機関銃などを実用化していれば、袁紹軍は数に頼ったところで敗北しかねないということが、郭嘉達には分からないのである。
「我が軍には十の勝因があり、一方、官軍には十の敗因があります。一つは、義。今回の袁州牧に対する逆賊認定は義に背いたものであり、官軍には大義がありません。一方――」
平然と袁紹軍の有利を説く郭嘉を友若は憎々しげな目で睨みつけた。
『銃』の将来性を理解したことは褒めてやるべきかもしれない。だが、それだけの理解力がありながら、曹操軍に勝てるなどという妄言を吐く事は友若にとって許しがたい事だった。
友若は曹操軍と戦わない理由付けを欲しているというのに、どいつもこいつも好戦的で戦うべきだという意見を述べるばかりなのである。
それどころか、郭嘉は曹操が火薬を買い集めようと奔走しているから、曹操軍は現在銃火器を使えないのではないかという分析までする始末である。
そんなものは罠に決まっている、と友若は郭嘉を内心で罵倒する。
袁紹軍でさえ物資に不足したことは無いのだ。
この袁紹率いる軍が、である!
まして、未来の覇王が火薬が足りないだの馬鹿みたいな状況に陥るわけがない。
論理的に考えれば、それは物資が足りないと見せかけた曹操軍の罠であると判断するのが妥当である、と友若は考える。
物資潤沢な環境しか体験したことのない友若の兵站に関する認識は、遠足には弁当の持参が必要だよね、程度のものだった。
実際の所、曹操軍は火薬や弾を撃ち尽くしており、銃火器を基軸とした戦術は実行不可能な状況に陥っていたのだが。
あのバケモノ、曹操を相手にする以上、どう足掻いたところで奇襲を受けることは間違いない、と友若は信じていた。
そして、乱戦になれば、今度こそ袁紹は曹操によって殺されてしまうかもしれない、と友若は恐れた。
曹操軍の銃火器を見たことで、友若の妹とその主曹操へのトラウマが再発したのである。
今すぐこの場に曹操軍が襲いかかってきてもおかしくはないとすら友若は思っている。
それほどまでに友若は曹操を恐れていた。
当然、友若に曹操と戦おうなどという気概は欠片も存在しない。
戦えば勝てないのだから、勝利を目指す戦略ではなく、負けない立ち回りを取るべきだ、というのが友若の考えである。
一応、官軍との戦いは袁紹軍の勝利という形になっている。
だが、それはあくまで薄氷の上のものだと友若は思っている。
追撃など以ての外だ。
まして、袁紹の一命を取り留めるために活躍した劉備に難癖をつける様な豪族達や名士達と共に戦っては生き残れる気がしない。
むしろ、多くの犠牲を払いながらも生き残った奇跡を無駄にする訳にはいかない、と友若は思っていた。
臆病者と呼ばれても構わない、と友若は覚悟する。
田豊や沮授、死んでいった無数の兵士達に友若は袁紹を託されたのだ。
その袁紹を生存させるために、友若はできる限りのことをするつもりだった。
だが、このままでは不味い、と思う友若。
袁紹が我慢の限界だという表情をしている。
流石に決定権のあるトップは納得させないといけないよなあ、と頭を悩ませる友若。
袁紹の寵愛がなくなれば物理的に首が飛びかねないことを友若は認識していなかった。
その時、友若の頭に天啓と呼ぶべき考えが浮かんだ。
ハッとする友若。
袁紹の性格。
それを考えれば、友若の脳裏に浮かんだ論理は有用に作用するはずだ。
友若は唇を濡らして話しだした。
「本初様。我々は今回謂れのない誹りにより逆賊と名指しされました」
「そんなことは分かっておりますわ! 友若さん、私が聞いているのは漢に弓引く逆賊だなどとこの私を辱めた忌々しい宦官の狗共を蹴散らす段取りはどうなっているか、ということですわ! この私、三国一の名門袁家が皇帝陛下に弓引くなどありえませんわ! そもそも、あの狗共をコテンパンにしなければ元皓さんに顔向けできませんわ!」
袁紹が怒りの声を上げた。
予想通りの袁紹の反応に友若は内心で会心の笑みを浮かべた。
「確かに、本初様、宦官共は私達の事を漢に反逆を企んだ逆賊と名指ししました。これは全く謂れのない嘘偽りであり、企みによるものです。先の戦いは天がどちらが正しいかということを明白に示したと言って良いでしょう。ですが、――」
友若は慎重に言葉を選びながら話を続ける。
周囲のうるさい連中に口出しをされては敵わない、と思っている友若。
「ここで、官軍を追撃すれば必然として洛陽へ軍を進めることになります」
「そんな当たり前のことは言われなくても分かりますわ!」
「しかし、それは、この現状、不味いのです」
友若は一言一言を噛むように話す。
「どういうことですの!?」
「今、本初様が、大軍を率いて洛陽に向かえば、万民は、本初様が、本当に、漢に対して反乱を企んでいたものと思うでしょう」
「そ、そんな出鱈目を信じる者がいるというのですか!?」
友若の言葉に袁紹が歯軋りをした。
「間違いなく、いるでしょう。事実、本初様が今洛陽へ登れば、漢の権力は全て本初様の手に握られることになります。本初様をよく知っている者ならともかく、有象無象は今回の騒ぎの黒幕が本初様であるとすら邪推する、でしょう。本初様の威光に嫉妬する者達がこうした噂を拡散することも十分にあり得ます」
友若は淡々と答える。
舌が段々と回りだした友若。
思ったことをそのまま言えば良いという状況は友若の気分を楽にした。
無責任に可能性を煽るというのは友若の得意とするところである。
袁紹は肩を震わせていた。
「ここは皇帝陛下に使者を送るべきです。今回の事変が宦官らの企みに因るものだと言うことを説明すれば、皇帝陛下も必ずや過ちを認めるでしょう。そして、天下の万民は本初様をして天下に比類なき忠臣と讃えること間違いありません」
「まて! 荀大老師!」
友若と袁紹のやり取りに危機感を覚えた豪族の1人が声を上げた。
明らかに友若は戦いを回避し、外交で決着をつけようとしている。
そうなれば私兵を率いてこの戦いに参加した豪族達は折角の機会に功を上げることができなくなってしまう。
更に朝廷との交渉となればその矢面に立つのは十中八九、友若と関わりの深い清流派閥の人間だ。
袁紹達は宦官と交渉するつもりがない。濁流に繋がりのある人間達には活躍の場も与えられないだろう。
友若は朝廷との交渉によって袁紹勢力内部における自らの勢力を確固たるものにしようと目論んでいるのだ、と豪族達や名士達は考えた。
だが、軍を交えない外交交渉では袁紹が確実に天下を握る保証がない。
袁紹によってフリーハンドを渡された朝廷は天秤の針を自らの方向に向けようと暗躍することは疑いようもない。
軍を進めれば天下に確実に袁紹の手が届くこの状況。
それをみすみすと見逃し、自らの勢力拡大に奔走するとは何たる佞臣か、と豪族達や名士達は憤る。
「荀シン、貴様それでも――!!」
「朝廷と交渉だと!? この期に及んでそんな悠長な事を言うとは!! ここは軍を進め、皇帝陛下の側に侍る佞臣を須く斬り殺すべきだ!!」
「おい、友若! 何アホな事吹いてんのや!!」
豪族達や名士達の友若に対する一斉砲火に審配が同調した。
審配を驚きの目で見る豪族達や名士達。
友若の提案で利益を得るだろう人間であるにも関わらず、審配は友若に噛み付いた。
「この期に及んでうちらの勢力拡大とか考えてどないすんのや! 友若!」
「えっ?」
なるほど、洛陽に軍を進めれば袁紹を非難する者もいるだろう。
だが、それがどうしたというのだ。
忠誠や信義、そうした綺麗事に浸りたい人間は好きなだけ浸らせておけば良い。
審配はそんなロマンチシズムに興味はない。
かつて、皇帝によって多くの仲間が殺された審配である。漢や皇帝に対する忠臣は持ち合わせていなかった。
蒼天既に死す。
皇帝は自らの選択によって漢帝国の命脈を絶った。
ならば、名門中の名門、友若という天才を重用し、天下に比類なき善政を敷いた政治家にして、将軍たる袁紹が至尊の座に着いたとして何の問題があろうか。
漢帝国への忠誠心を捨てられない袁紹に配慮し、直接口にしたことはなかったが、審配は内心ではそう思っている。
そして、審配の言葉はこの場にいる殆どの人間達の意見を代弁したものだった。
対する友若は意味が分からないと首を傾げる。
実際、友若にとって審配の言葉は意味不明であった。
曹操軍と戦わない為に友若は朝廷との交渉を主張したのである。
逆賊という指定がなくなれば曹操軍も袁紹と戦う理由を失うだろう。黄巾の乱が起こり戦乱の世となれば話は別なのだろうが、漢帝国はまだ辛うじて威光を保っている。
ともかく、曹操と戦わない方法を必死に考えていた友若。
派閥勢力の拡大とか、そんな発想は根本から存在しない。
だからこそ、友若は咄嗟に不思議そうな、驚いたような顔をした。
「――っ!! ……分かりましたわ……!!」
歯軋りをし、指先が白くなるほどに手を握りしめた袁紹が血を吐くように呟いた。
審配達が顔を歪める。
「朝廷に使者を送ります……! ただし! ただし、この度、私が受けた屈辱、大切な部下たちが流した血。それを企んだ者達に必ず対価を払わせなさい!」
「麗羽様! 麗羽様を非難する者など無視すればよいのです! ここは軍を進めるべきです! 天下が直ぐ目の前にあるのですから!」
「怜香さん……だからいけないのですわ。私は天下の名門、袁家の人間、袁紹本初! 盗人や匪賊の譜系ならいざ知らず、この私が漢に弓を引くなどあってはならないことなのですわ!」
袁紹は叫んだ。
袁紹は必ずしも自らの言葉に納得している風ではなかった。
「本初様! これは漢に弓を引く行為ではありません! 皇帝陛下の佞臣を取り除く為に我々は洛陽を目指すのです!」
「本初様! どうかお考え直しください!」
「う、うるさいですわ!! あなた達、この私の決定に逆らいますの~~!!?」
決して納得したわけではない袁紹。
天下という果実を前に手を伸ばさずに我慢することは袁紹に苛立ちを覚えさせた。
それでも、この場では名門袁家の名声を損ねたくないという虚栄心が袁紹に決断を促した。
友若の予想通り、袁紹は天下という美酒を前に自らのプライドを優先したのだ。
袁紹配下の多くは呆然と袁紹を見ていた。
「――っ! 休みますわ!! 皆さん、ごきげんよう!」
袁紹は荒々しく席を立つとそのまま去っていった。
去り際に袁紹は友若を睨んだ。
友若が余計なことを言わなければ、何の憂いもなく生意気な曹操を下し洛陽へと軍を進められたというのに、と袁紹は思った。
袁紹の寵愛のみによって命を保っている友若にしてみれば死刑台へと一歩足を進めた形である。
友若は全く気がついていなかったが。
「……ふう」
友若は心の底から安堵の溜息を付いた。
曹操軍と真っ向から戦うという最悪の事態は避けられた、と友若は思う。
とは言え、まだ油断はできない。
朝廷との交渉が失敗すれば、また、曹操が攻めてくる可能性が無視できない。
更に好戦的な味方をどう抑えるかも重要な問題だ。
朝廷との交渉成功には薄氷の上に成り立っている袁紹軍有利の状況が必要だ。
友軍が暴走して下手に曹操軍に戦いを挑むといった事が無いよう管理しなければならない。
勝って兜の緒を締めよ、と友若は肝に銘じた。
見所:
決断力のある麗羽様
3週間もありながら貯蓄ゼロの奇跡
かっこ良くなっているはずの主人公