荀シン(何故か変換できない)が恋姫的世界で奮闘するようです   作:なんやかんや

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妹様withPK

今現在、漢帝国最強の諸侯は疑いようもなく袁紹である。

膨張する経済を滞らせないために必然的に拡大した冀州の行政機関はその規模による力を持っている。

生半可な数や才能で袁紹に挑んだところで圧倒的な数の差に押しつぶされるだけだ。

莫大な人間を抱える冀州とそれを可能にする経済力はそれだけで脅威であった。

 

その結果が先の戦いにおける圧倒的な弩による一方的な面制圧である。

通常、歩兵を基軸とする軍同士の平地戦では槍兵等の白兵戦が可能な兵科を前面に出して弩兵等は後衛に配置する。

弩兵を前面に出すのは、槍兵等との素早い入れ替えが可能な場合や、そもそも白兵戦が発生しにくい状況などに限られる。

普通は弩兵で歩兵の一斉突撃を止めることが不可能だからである。

弩というものは剣や槍のように大量に生産することが難しく、数を揃えることが困難だからである。

効率的な生産の為には熟練技術者の数を揃え、材料を揃える手筈を整え、状況に応じて工程を調整して、整備や修理が可能な体制を整えて、初めて軍で利用される弩は作られる。

当然ながら、弩の価格は槍などとは比べ物にならない。

一方で、弩兵と槍兵の戦力はそこまで差は無いのだ。

極端な話、弩の数を揃える資金があるのであれば、それで多くの兵を雇って槍を持たせた方が戦力になるし、兵を分割して行動するなど戦術的な応用力も高まるのだ。

それでも漢帝国で弩が用いられるのは、圧倒的な機動力を持つ異民族と戦うためには強力な遠距離攻撃が必要だったからである。

そして、財政上の理由から大規模な常備軍を揃えられない以上、弓と異なり必要な訓練が少ないという弩は漢帝国に欠かせない武器であった。

また、矢を相手の中核部分に撃ちこめば、敵兵を混乱させて有利に戦うことが期待できる。

仮に、一方しか弩や弓等の遠距離攻撃の手段を持っていなければ、兵士達の士気に大きな影響があるだろう。

だから、殆どの勢力は自らの軍に弩兵や弓兵を組み込んでいる。とは言え、その数は軍全体で見た時、1、2割ほどである。

弩兵は普通数を揃えられないのだ。

そうである以上、白兵戦になった時まともに戦うことができない弩兵を前面に出すことは弱点を敵の正面にぶら下げることに等しい。

それが軍事の常識であった。

 

しかし、袁紹軍は圧倒的な数の弩を揃えるという強引な手法によって弩兵を主軸とする軍を作り上げた。

そして、数に物を言わせることで、弩で歩兵の突撃を完封することは困難であるという軍事の常識を打ち破ってみせたのだ。

絶え間なく放たれる矢に殆どの官軍は接近戦を挑むことすらできなかった。

袁紹軍に白兵戦を挑むことができたのが孫堅と曹操のみであり、その一方は壊滅するに及んだという結果が袁紹軍の方針の強力さを証明している。

そして、その圧倒的な弩の数を実現可能としたのが莫大な税収をもたらす冀州の経済力であったのだ。

 

一方で、袁紹はその力を経済に依存するが故に、行動上の制約を持つことになった。

袁紹は冀州の経済を傾けるわけにはいかないのだ。

だからこそ、袁紹の懐刀である友若は経済に負担を強いる長期的な遠征や戦闘を可能な限り避けようと試みている、というのが曹操の推測である。

もちろん、他に選択肢がなくなれば袁紹軍は圧倒的な数と質で立ちはだかる障害をなぎ払うだろうし、容易に勝てると思えば武力を使うことに躊躇する相手ではあるまい。

だが、他に選択肢がある限りにおいて、袁紹勢力の策略家である友若は戦いを避けるだろう。

実際、袁紹勢力は官軍との戦いに勝利してから素早く交渉に主軸を移した。

曹操達が袁紹軍の進撃を止めるために軍備を整えている間、袁紹は幾つもの諸侯と交渉を重ね、自らの味方を増やしていったのだ。

大敗に混乱していた朝廷がようやく我を取り戻した時には、洛陽の北西に位置する馬騰達の勢力が袁紹に与すると宣言をしていた。

加えて、河北の豪族達は袁紹を逆賊と貶めた朝廷を非難する動きを見せ始めている。

現状、外交交渉で朝廷は大きな後れを取っている。

 

そして、曹操もまた袁紹に後れを取っている点では同様であった。

曹操は袁紹が味方を増やしている間、防衛線の構築に集中せざるを得なかったのだ。

これ以上政治的、外交的に差を付けられることを傍観する訳にはいかない。

それに、友若が講和の裏で曹操が危惧した通りのことを企んでいるとすれば、それだけで曹操は窮地に立たされる。

それを未然に防ぐためにも、曹操はようやく軍として機能しだした守備兵を残し、皇帝の下へ直接赴く必要があった。

 

一方で、曹操は袁紹との交渉窓口を作っておくことの重要さを認識していた。

今は大きな勢力とはいえない曹操は、まだ単独で袁紹と直接矛を交える事は避けなければいけないからだ。

今の曹操軍であれば幾ら袁紹軍であっても勝利には莫大な犠牲が必要となるだろう。それは必然的に袁紹軍の弱体化させる。

だからこそ、それを正しく認識している友若は戦いを避けようとしている。

しかし、袁紹の配下には先の戦いの勝利に酔い、曹操軍など恐れるに足らずと公言してはばからない人間もいるのだ。

そして、思慮が欠けているからといって、その人間の行動力を侮ることは危険だと曹操は判断していた。

最悪の場合、突発的な戦いから袁紹と曹操の潰し合いに発展してしまう恐れもあった。

それだけは避けなければいけない。袁紹、そして友若との戦いは天下を賭けた舞台こそ相応しい、と曹操は思っている。

 

だが、袁紹と交渉するにしても謙った態度を取る訳にはいかない。

皇帝の寵愛を受け、皇帝直属の軍を率いる曹操が袁紹に取り入ろうとすれば、天下を目指す諸侯の一人としての曹操は死ぬことになるからだ。

そして、曹操自身、まだ戦い続ける意志を保っている状況で頭を下げるつもりはない。

友若に勝つためにその力の限りを尽さんとしている曹操であるが、それでもなお守るべき一線というものは存在するのだ。

 

そのため、袁紹との交渉にあたっては、卑屈にならず堂々と袁紹と交渉に臨みながらも、交渉を成功に導くだけの能力の持ち主を送らなければならなかった。

更に、今後の状況の変化に応じて臨機応変に対応するだけの判断力も要求される。

場合によっては曹操の立ち位置が一変する可能性もあるのだ。

 

この困難な任務を曹操は荀彧に任せた。

更に、袁紹との顔つなぎのために、一時期袁紹の下にいた程昱を付けたのである。

曹操の幕僚として文官の最上位に位置する荀彧とそれに続く程昱を袁紹との交渉に向かわせる事は曹操の交渉に対する熱意を示していた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「冀州、久しぶりだとやはり懐かしいです~」

「……」

「ふう、涼しくなってきたとはいえ、やっぱり日が差すとまだ暑いですね~。風はこの暑さについうとうとと……ぐぅ」

 

場上で揺られながら一瞬寝入った程昱は何も言わずに黙り込んだ荀彧を見やって内心で溜息を付いた。

袁紹側と交渉と場を設けるために荀彧と程昱は冀州へと向かっている。

その旅路が始まる前後から荀彧は殆ど何も言わずに考えこむようになった。

荀彧と友若の確執を聞き及んでいる程昱は無理もないと当初その様子を傍観していた。

 

かつて、荀彧は友若が考案したという発想を否定していたという。

荀彧はその事を後悔している事を程昱は知っている。

友若の発想の可能性を見抜けなかったという自分への不甲斐なさを。

そして、友若が荀彧の下を去ったことを。

荀彧は悔やんでいた。

 

正直な所、荀彧の過去の判断は無理もない話だと程昱は思う。

友若の発案はあまりに突飛に過ぎる。

冀州の成功があるからこそ、程昱はその価値を認めているのだ。

もし、その成功がない状況であったら、程昱は友若の意見をまともに取り合おうとしたかは微妙なところである。

暇を持て余している時なら、そうした話を聞いても良い。

自分もそんな程度の興味しか友若の意見には抱けなかったのではないか、と程昱は考える。

友若の発想は地に足がついていないのだ。

 

通常の発想や政策は現実の状況を基にして組み立てていくものだ。

現実に基づかない発想や政策というものは、現皇帝が身を持って証明しているようにまず成功しない。

だから、成功を収めた大胆な発想や政策などと呼ばれるものは、普通、現実の問題を正しく見据えている。

そして、現実に対して実現可能な範疇でその成果を最大化するのだ。

 

だが、友若のそれは全く違う。

現実を正しく認識した上での発想とは思えないのだ。

むしろ、友若のそれはそうした外的要因とは関係なく、最初から存在していたと考えるほうがしっくり来る。

友若が自らの献策を説明する方法にもそれは現れている。

友若の説明は現実の問題を論理的に考察していくというものではなく、これが正しいから正しいのだという身もふたもないものなのだ。

かつて、程昱は友若を巨人の視点を持つ人間と評価したが、その考えは荀彧との会話によってより強くなった。

荀彧が幼いころの友若の言動を聞き及ぶに、超常的な解釈が許されるのならば、始めから友若は知識を持って生まれたのではないか、とすら程昱は思う。

 

最近耳にした華南に降り立った天の御遣いの噂。

漢帝国の南部では実しやかに囁かれているらしいそれを聞いた程昱は、友若もまた天の御遣いなのではないか、と考えた。

天の知識に基づいて行動しているというのならば、友若の地に足のついていない言動にも納得がいく。

ありえないと思いつつも、それを冗談として完全に否定出来ない程昱である。

 

だから、荀彧が友若の意見の可能性を理解できなかったことを責めるよりも、その献策を無下にせずに採用した袁紹や田豊の判断を讃えるべきなのだ、と程昱は思う。

正直な所、田豊だって最初は駄目元だったのだろうし、袁紹にいたっては未だに冀州の変革を正しく理解しているとは思えない。

たまたま、袁紹には無謀とも思える献策を試すだけの余裕があり、偶々、その献策を行った人物が友若と言う天の御遣いの如き人物だった、というのが冀州の成功の理由だろう、と程昱は考えている。

 

しかし、それは程昱の考えであって荀彧のそれではない。

友若に似て自らの知性に高い誇りを持つ荀彧。

彼女は周囲がなんと言おうと自らの失敗を、過失を許すことはないだろう。

それ故に、冀州へと向かう荀彧がこうして無口になることは程昱にとって予想外の出来事であったわけではない。

 

だが、決して短くはない旅路において、何の会話もなく進むのは退屈なものだ。

自分の考えに没頭している荀彧にとってみればそんな事は全くないのだろうが、程昱としてはそろそろ誰かと何か会話を交わしたいと思っていた。

 

護衛として付けられたのが楽進でなければ。

決して口にはしなかったものの、程昱はそう思った。

生粋の武人ともいうべき佇まいの楽進。護衛という役割を担っている彼女は生真面目に周囲の警戒を続けており、会話を交わせるような雰囲気ではない。

話しかければ当然返答が返ってくるが、それは報告や情報伝達を目的としており、今後曹操が採るべき方策に関しての話をしたり、ましてや雑談に応じたりする様子はない。

自らの職務に忠実であり、その則を越えようとはしない楽進。

曹操や荀彧と同様に、程昱もその在り方を好ましいと思ってはいる。

だが、荀彧から一切の返答がないこの状況において、自分勝手だとは知りながらも護衛が楽進ではなく許緒や于禁であれば、と考えてしまう程昱であった。

 

そのため、冀州へ旅立ってから2日目から程昱は頻繁に荀彧に話しかけ始めた。

残念なことにその結果は梨の礫だったが。

荀彧はただただ、自らの考えに没頭しているばかりである。

袁紹、そして友若と会う前からこんな様子で大丈夫なのだろうか、と程昱は一瞬考えたが、直ぐに問題無いと判断した。

荀彧は掛け値なしに優秀だ。

曹操も重要な判断をする際は常に荀彧に意見を求めている。

また、曹操配下の主要人物はその殆どが荀彧が見出した人間であることが示すように人物鑑定眼に優れ、清流の顔役という立場を持っている荀彧は朝廷、豪族、名士等のあらゆる方面に顔が利く。

そして、失敗することの許されない袁紹との交渉に全権を託される程の信頼を曹操から得ている人間が荀彧である。

その荀彧の心配をするなど余計なお世話もいいところだろう、と程昱は考えた。

 

「稟ちゃんはどうしているでしょうか~。久しぶりの再開が楽しみです~」

 

やはり、この旅路の友として無意識のうちに求めているのはかつて冀州で席を隣にした人物である、と程昱は思い直した。

かつて、程昱は冀州の変化の先が目指すものを知るためには、外部からの視点が必要だと判断して冀州を去った。

目まぐるしい変化の一つ一つを追った所でその全貌を理解する事は不可能なのではないか、と思ったからである。

その程昱に対して同僚であり親友であった郭嘉は冀州に残る選択をした。

漢帝国に変革を促す一連の動きは冀州に端を発しており、その場にいなければ変革が目指すものを理解できないと郭嘉は考えたのだろう、と程昱は思っている。

程昱と郭嘉、そのどちらが正しかったのかははっきりとはしていないが、程昱は曹操の旗下に加わったことを後悔してはいない。

指導者として、王として圧倒的な才覚を持つ曹操や友若の妹である荀彧から学べることは多かった。

特に荀彧との議論は冀州の在り方の長所や短所に対する程昱の理解を深めた。

また、程昱は曹操から幾つもの重責を任され、その力を存分に振るっている。

冀州にいた時とは比べ物にならないほど忙しい日々ではあったが、充実している事は確かだった。

 

郭嘉もまた意義のある日々を送ったに違いない、と程昱は思ったし、友としてそうであることを願った。

冀州の外からその変化の推移を見守った程昱に対して、郭嘉はその内部から変化を見つめていた。

ならば、程昱には見えなかったものが郭嘉には見えただろうし、その逆もまた真であるはずだ。

だからこそ、程昱は郭嘉との再開と再び語り合うことを楽しみにしていた。

 

「……ちょっと、風。今回の目的はあんたの友人に会うことじゃあないわ。そこの所、分かっているのでしょうね?」

「おぉぅ。久々に喋ったと思ったら、早速釘を刺すなんて~。桂花ちゃん、もう少し肩の力を抜いたほうがいいと風は思うのですよ~」

 

今まで黙り込んでいた荀彧が突然話しかけてきたことに驚きながら、程昱は言い返す。

荀彧は程昱の方を見ることなく、前に顔を向けたまま答えた。

 

「問題はないわ。随分と心配しているようだけれど、私は華琳様の期待に必ず応えてみせるわ」

「おぉぅ。風の声が聞こえていたなら返事をして欲しかったのですよ~。風は会話をする相手がいなくて寂しかったのですから~」

「ホントだぜ。おい、嬢ちゃん。旅ってのは会話を楽しみながらするもんだぜ」

 

腹話術で茶化す程昱に荀彧は何も答えなかった。

話を聞いているなら返事をしてほしいものだ、と眠そうな顔のままで憤慨する程昱。

一方で、荀彧が何だかんだで何時もの鋭利な思考力を持っている様子を示している事に程昱は安堵していた。

 

「愛しの兄上の事を考えているのですかー」

 

取り敢えず、今までの復讐も兼ねて、程昱はからかうように荀彧に尋ねた。

 

「そうよ……」

「うーん、これは重症ですねー。兄妹愛を抉らせて妙な関係になったりしないかと風はヒヤヒヤしてしまいますー」

 

何時もなら『私が愛しているのは華琳様よ』等と激しく噛み付いてくる荀彧が思い悩む様子であっさりとからかいの言葉を肯定したことに、程昱は目を見開いて驚いた。

先程は荀彧が大丈夫だと判断した程昱だが、急に不安になってくる。

そんな程昱に、ずっと前を見ていた荀彧が顔を向けた。

並走する2頭の馬。

それぞれの馬に乗った2人は顔を向け合った。

 

「大丈夫よ」

 

荀彧は程昱の不安を否定する様に言った。

 

「……兄は私のことを嫌っているから」

 

硬質な声で荀彧はそう言った。

その瞳から程昱は何の感情も見出すことができなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

荀彧文若。真名を桂花。

荀家の末妹として生まれた彼女は幼い頃から凄まじい才能を示した。

その才覚は神童と謳われた友若ですら凌ぐものであった。

その荀彧が特に優れていたのは理解力である。

一を聞いて十を知るという言葉の通り、一度聞いたことを完璧にこなしてみせる荀彧。

幼い頃から理路整然としたものの考えが出来た友若ですら、荀彧ほどの理解力は持たなかった。

僅か4歳の時、荀彧は勉学において友若を上回ってみせた。

孔子や孫子、荀子を始めとしてこの時代の教養とされた書物を全て読破し、諳んじてみせたのだ。

この頃から、段々と友若は荀彧に対抗心を燃やすようになった。

転生前のチート知識を有している友若は神童として大いに持て囃され、増長しきっていた。

そんな友若にとって自らの神童としての立場を脅かしかねない荀彧は心中穏やかでいられる相手ではなったのである。

とは言え、この頃はまだ、友若は荀彧を可愛く思っていた。

この頃、両親や姉達は家の外に出ていることが多く、友若は何かと荀彧の面倒を見ていた。

犬好きだった荀彧のために犬の耳に見立てたフードを取り寄せてやったのは友若であったのだ。

 

「兄上! 兄上!」

 

頻繁に友若の名を呼びながら駆け寄ってくる幼い荀彧の様子に友若は確かに頬を緩ませた。

そして、荀彧の頭を撫でる友若に彼女は目を細め満足そうに笑いながら望みを口にした。

 

「勉強を教えて下さい!」

「……よしよし、いいぞ、桂花。今日は数学だ!」

 

この頃、友若は暗唱では荀彧には勝てないという事を渋々ながら認めていた。

それでもまだ、友若は荀彧に対する自らの優位を信じていた。

記憶力で劣っているが、総合的には自らのほうが上だと友若は考えたのだ。

それでも、自らの劣る所を直視することを嫌った友若は前世で得た知識を荀彧に教えた。

論語や孫子の解釈等では既に友若は荀彧に劣っていた。

だが、転生チート知識の一つである体型だった学問知識では友若に一日の長があったのである。

暗記物は得意なようだけど、思考力を問われる学問なら負けるわけがないと友若は高をくくっていた。

この時点では。

 

「つまりだな、この『微分』というやつを使うとその瞬間の傾きが分かる。傾きが分かればこうやって『グラフ』から次の動きが予測できるわけだ」

「あ、兄上、兄上、凄いです! この『微分』を使った式を作れば色々なことの動きを予測できるのですねっ!? いえ、それだけではなくで、例えば獣や草木の増え方等にも使えそうです! 複雑な式は解けないものもありそうですけど、小さな変化を計算して積み重ねていけば、どんなものでも見積もりができそうです! わあ、やっぱり兄上は凄いです!」

「……ああ、うん。そう言う応用もある。……『微分方程式』って言うんだけど、もちろん俺は知っているし、桂花の言ったことは当然理解しているさ……でも、凄いぞ、桂花。1人でそんな事に気が付くなんて!」

 

だが、荀彧は学問を問わず、あらゆる分野で圧倒的な才覚を示した。

文字通り一を聞いて十を知る荀彧である。

友若の教えを瞬く間に理解して更にその応用すらも考案してみせたのだ。

荀彧は友若の教える『学問』に熱心に取り組んだ。

手に入る書物を全て読破し、暗記した荀彧にとって勉強はただの退屈な確認作業になっていたのだ。

だが、友若が考えだしたという『数学』や『物理』等の『科学』は荀彧にとって何が出てくるかわからない面白いパズルであった。

書物では知りえなかった考え方、無数の概念、そうした全てが幼い荀彧の好奇心と知識欲を強烈に刺激した。

だから、荀彧は兄である友若を慕って何時も付き従い、ひっきりなしに、『科学』を教えてくれとせがんだ。

 

「桂花は本当に兄さんっ子ですね」

 

母である荀コウは2人の関係を見て、微笑ましそうにそう言っていた。

友若もまた笑いながら荀彧の頭を撫でていた。

そして、荀彧は何時も気持よさそうに目を細めて友若にされるがままにしていた。

 

だが、何時からだったか、友若は荀彧の頭を撫でる事を止めた。

そして、『科学』を教えてほしいとせがむ荀彧を避けるようになった。

 

友若は思い知らされたのだ。

荀彧が文字通りの天才であることを。自らがただの凡人でしか無いことを。

それは自らを選ばれた天才だと信じていた友若にとって到底受け入れられない現実だった。

しかし、うろ覚えの記憶を振り絞って思い出した無数の知識を荀彧が瞬く間に吸収して、発展さえさせている様子を見ては、友若も心の奥底では理解せざるを得なかった。

荀彧が友若よりも遥かに優れた頭脳の持ち主であることを。

 

その事実を直視せざるを得なかった時から、友若は荀彧を避けるようになった。

友若の逃げ癖、困難に立ち向かうことなく無視や逃亡を選択する悪癖は既にこの頃から存在していた。

荀彧に自らの持つ知識を託して彼女の将来を応援するとか、兄として恥じないように勉学に励むとかという発想は友若にはなかった。

素直に負けを認めるには友若の自尊心はあまりに高く、しかしながら、足掻き続けるには彼の羞恥心は耐えられなかったのだ。

嘗て神童と呼ばれた友若が勉学から逃げるように、革新的な物の発明等という道楽を始めたのはこの時期である。

 

勉学に投じる時間の減少に合わせて、友若の成績の伸びは鈍化していき、終には低下するに至った。

この様子を心配した家族は友若の勉学に向けていた熱意を復活させようと画策する。

荀彧と比べれば劣るものの、友若もまた幼い頃から天才と呼ばれるべき才能を示していた。

持ち前の才能を持ってすれば、朝廷に登ることも夢ではないとまで期待された程である。

将来のためにも友若が下らない道楽で身を崩す事は避けなければならない、というのが家族の思いだった。

 

友若の才能を褒め、勉学の重要さを説く母親に友若の心は再び書物へと向かった。

妹の存在さえ無視すれば、友若は同年代に並ぶ者の居ない抜きん出た存在であった。

そして、自らが頂点に立っているという事実は友若の自尊心や虚栄心を満足させるものだった。

もし、母親の説得が成功していれば、友若はまた勉学に励み、今とは全く別の道を歩んでいたかもしれない。

 

しかし、友若は結局勉強に背を向けた。

きっかけは荀彧の提案であった。

 

「兄上、孫氏なら私が教えます!」

 

様々な事を教えてもらっている友若に対して荀彧がお返しをしようとして行った善意からの提案。

普段のお礼に自分の出来る事を、という荀彧の言葉だった。

荀彧にとって見ればその内容は何でもないものだ。

当たり前に、荀彧はそれができると思ったからこそ、友若に申し出たのだ。

 

それがどれだけ友若の心に亀裂を入れたか。どれだけ友若に憤怒と羞恥を感じさせたか。

この時の荀彧はそれを想像することさえできなかった。

生まれてからその知性において一度も敗北を味わったことのない当時の荀彧。

この時の彼女にとって敗北から来る嫉妬や怒りは実感を伴うことがなかった。

 

だが、友若は荀彧のその一言で思い知らされた。

儒学や兵法等、この国家で必要とされる学問において、友若と荀彧には生徒と教師ほどの差が既に存在していることを。

荀彧に何の悪意も気負いも無いことを友若は理解していた。

つまり、友若よりも一回り幼い荀彧は自らがより優れていることを当然と思っているのだ。

そして、この年齢で、この年齢差でこれだけの差を付けられた以上、どれほど努力したところで荀彧に勝てるわけがない、と友若は考えた。

 

友若は増々発明という道楽に没頭するようになる。

説得をしようとする家族の声にも耳を貸さずに。

 

他の家族と同じように荀彧も友若の説得を試みた。

友若の考案した様々な案は突飛なものが多く、徒労に終わるとしか思えなかったからだ。

色々な物事を教えてくれた友若とまた一緒に勉強したい。

この時の荀彧にあったのはその一心だった。

 

だが、友若は荀彧を強く拒否した。

友若は自らの自尊心を傷つけた荀彧を嫌っていた。

心の奥底ではこの時既に荀彧を憎んでいたと言っても過言ではない。

それは完全な逆恨みであった。

 

荀彧は友若に勉学に専念するべきだと理路整然と説いた。

それらは全くもって正しく、屁理屈の得意な友若ですら反論することは敵わないものであった。

しかし、荀彧の言葉が正しければ正しいほど、友若の心は勉強と、荀彧から離れていった。

 

当時の荀彧はそれを理解することができなかった。

荀彧にしてみれば、自分は何も間違っていないにも関わらず、兄である友若はそれに反論することもなく逃げているのである。

友若の態度に荀彧は怒りさえ覚えた。

荀彧の友若に対する口調は次第に刺を増していく。

それはどこか幼い子供の癇癪に似ていた。

 

荀彧はこの時、知らなかったのだ。

正しいことが怒りを買うことがあるという事を、あふれる才能が妬みと憎しみを生むことがあるという事を。

そうした人間関係の知恵は普通経験によって培われていくものである。

だが、圧倒的な才能を持って生まれた荀彧はこうした機微を学ぶ間もなく、持ち前の才能で他者を無自覚に傷つけてしまっていた。

 

結局、荀彧が自らの過失を理解したのは、友若が彼女が考え付きもしなかった方法で冀州を発展するさまを目の当たりにした時だった。

それは、自らが兄に優っているという荀彧の無自覚の奢りを打ち砕くものであった。

その敗北の苦味は荀彧に人間が非論理的な側面を持つことを教えた。

そして、自らの判断に誤りが存在しうることを荀彧は心に刻んだのだ。

 

それ以降、荀彧は自らの考えと異なる意見であっても頭ごなしに否定することはなくなった。

失敗を通して人間の機微を学んだ荀彧は大きく成長を遂げた。

そして、荀彧は人間鑑定の才能を開花させ、人事を取り仕切るなど、曹操の下で活躍していくことになった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「くそっ! 豪族の連中といい、名士達といい、どいつもこいつも邪魔ばっかりしやがって!」

 

自らの執務室で友若は豪族と名士を呪った。

袁紹軍が渋々ながら冀州へ退却してから、友若は混乱した冀州の回復に奔走していた。

だが、その道程は友若にとって険しいものであった。

田豊派閥の壊滅。

元清流派閥との蜜月関係の終焉。

これまで友若が自在に権力を振るうことができていた背景の消滅により、豪族達や名士達の派閥が積極的に友若の足を引っ張ろうと動き出した。

ここに及んで、友若は初めて本当の政治に触れたと言えるのだ。

友若は急に天から刃が降ってきた如きの衝撃を受けた。

今まで何の労苦もなく自由気ままに動いてきた友若にとって、この状況は理解できないものだった。

友若の袁紹の関係がギクシャクしたことを見て取った豪族達や名士達はこれを好機と友若への攻勢を強めた。

仕方なしに、友若は自らを攻撃してくる勢力を宥めすかし、利権をほのめかし、何とか彼らを大人しくさせた。

もし、友若の袁紹との関係が改善していなければ、豪族達や名士達は攻撃を止めることすらなかったであろう。

幸いにして、袁紹と葡萄酒を飲み交わした友若は皇帝と交渉をすることが決まってから悪化していた関係を修復し、より親密にすることに成功していた。

とは言え、今まではなかった同僚との確執や権力闘争は友若に疲労を覚えさせた。

それに、豪族達や名士達は消極的に友若の足を引っ張ることを止めたわけではないのだ。

 

「曹操が怖いのですか、だって!? 何を偉そうに! 怖いに決まってんだろう! 三国の内一国を創る王だぞ! 馬鹿か! 馬鹿なのか!」

 

いくら覚悟を決めたつもりになった所で、曹操と対峙すると考えるだけで友若の心は恐怖に震える。

ただでさえ、現状で曹操は袁紹の持っていない銃火器を手にしているのだ。

友若としては袁紹軍に銃が配備できるようになるまで曹操と事を構えるつもりはない。

戦車や戦闘機などで武装面での圧倒的な優位を得たとしても安心できない、とまで友若は思っている。

 

一通り叫んだ友若は息を荒げながら執務室に散乱した書簡を手に取った。

田豊を始めとした有能な実務官の喪失による業務の負担は袁紹配下に重く伸し掛かっている。

目についた優秀な人物を次々と昇進させて業務に当たらせているが、どうしても限界があった。

 

イライラと頭を激しく掻きながら書簡を読んでいく友若。

その時、執務室に2人の女性が入ってきた。

 

「相変わらず余裕が無いのね」

 

女性の片割れ、張バクが友若を見て、平坦な口調で言った。

 

「五月蝿い。それよりも株式取引の再開の目処は立ったのか?」

「随分な言い様ね。昔散々手伝ってあげたのに。お望みなら私も貴方みたいに仕事をサボっても構わないのよ、友若?」

「ぐっ。 わ、悪かったよ、孟卓。その、気が立っていて、すまん」

 

友若の謝罪に張バクは分かればいいのよ、と手を降って答えた。

張バクは袖が服の本体と分離しており脇が露出する独特の服に身を纏っている。

友若がうろ覚えの記憶を元にデザインした『ハクレイ』式のMIKOFUKUを張バクは大層気に入っていた。

蒼と白の配色が気に入った、とは本人の談である。

 

その張バクは一緒に執務室へ入ってきた女性、郭嘉に説明するよう手を降って促す。

郭嘉は友若を見据えて話しだした。

 

「銀行から資産を全て引き下ろそうとしていた動きは一先ず収まりました。袁本初様の大勝利が広まったことで、急落していた株式の価格も落ち着きを見せています。ただ、今後の状況の変化によっては再び株式制度が混乱する可能性もあるでしょう」

「そ、そうか……」

 

目下の最大の問題が何とか落ち着きを見せ始めていることに友若は安堵の溜息を漏らした。

最低限、冀州の財政を健全な状況にしておけば、最悪の場合でも命乞いくらいはできるのではないかと友若は信じた。

後は、朝廷との交渉が上手く行けば目下の重要課題は全て片付くはずである。

友若は和睦の成立を心から願った。

 

それにしても、と郭嘉を見ながら友若は思う。

メガネの奥に理知的な輝きを宿した女性は何時もと変わらず凛とした佇まいである。

その郭嘉を見ていると友若はどうにも既視感を覚える。

最初はその既視感が何なのか分からなかった友若。

だが、郭嘉の仕事ぶりを見ているうちに、友若はその理由に気が付いた。

 

――どうにも、あの妹、バケモノと同じ匂いがするんだよなあ……

 

郭嘉の有能ぶり、凄まじいまでの頭の回転は友若のトラウマである荀彧を想起させた。

常日頃は元々存在すらしなかったものとして荀彧を無視している友若である。

未だに妹に対する苦手意識、忌避感は無くなっていない。

その妹を連想させる人物である郭嘉と頻繁に顔を合わせることに、友若は少しずつ苦痛を感じるようになっていた。

郭嘉が有能であればあるだけ、友若のトラウマは刺激されるのだ。

それでも、郭嘉を重用しているのは単純に人手が足りないからであった。

1人で数人分以上の業務を行うことができる郭嘉を手放すと、友若の能力では本格的に冀州統治が破綻してしまう。

 

そんなことを考えている友若。

張バクが思い出したように呟いた。

 

「それにしても、一時期は大変だったわね」

「ええ、袁本初様と友若殿の関係改善は天恵でした。この入り組んだ状況で友若殿が排斥されれば、冀州がどうなるか誰にも分からなくなってしまいますから。しかし、袁本初様との関係改善、友若殿は一体いかなる策を使ったのでしょうか? 後学のためにも是非お聞きしたいのですが」

「え? あ、ああー……」

 

郭嘉の問に友若は言い淀んだ。

なんと誤魔化したものか。

友若がその様に考えている間に、張バクが口を開く。

 

「決まっているじゃない。麗羽様と友若の関係が良くなった前の夜、2人だけで葡萄酒を飲んでいたわ。そして、翌日の麗羽様の歩き方。つまり、2人は――っ! ちょ、ちょっと奉孝、大丈夫!?」

 

あっさりと事実を述べようとする張バク。

しかし、彼女の説明は途中で遮られた。

 

「ら、らいひょうむ、れす……」

 

郭嘉は鼻を抑えながらしゃがみこんだ。

鼻を抑えた手からは留めることなく血が流れている。

勢い良く流れる血は床に真っ赤な水溜りを作るほどである。

冗談のような出血量だ。

 

「あーもう! 失敗したわ! 不意打ちに過ぎたのね! 奉孝! これで鼻をきつく押さえなさい!」

 

珍しく慌てた様子を見せる張バク。

出血多量が原因なのか顔が青白くなりつつある郭嘉。

 

――妹に似ていると思ったのはただの気のせいか

 

友若は郭嘉が妹、バケモノに似ていると感じたことを思い違いであると切り捨てた。

興奮しただけのはずなのに、止めどなく鼻から血を流す郭嘉の体は医学に暗い友若から見ても異常であり、正しく化物と呼ばれるべき存在なのかも知れない。

だが、それは別に自分の恐れる類のものではない、と友若は判断した。

 

その時。

 

「失礼します。荀大老師様、報告がありま……っ!? し、失礼しました!!」

 

報告のためだと言って部屋に入ってきた文官。

彼女は血を流してしゃがみ込む郭嘉を見て真っ青な顔をすると慌てて踵を返した。

友若は慌てて文官の後を追う。

 

「ちょっ、ま、待て! なんだか、とんでもない勘違いをしているんじゃないだろうな!」

「わ、私は何も見ておりません! だ、だから、い、命だけは……!」

「やっぱり勘違いしてるんじゃねえか! だっ、だから待て! 話を聞けってば!」

「お助けー!!!」

 

悲鳴を上げて必死に逃げる文官の後を追いながら友若は先程までの自分を殴ってやりたくてしょうがなかった。

 

――何が鼻血くらいなら可愛いものだ、だ! 十分迷惑じゃあないか!

 

友若が誤解を解くまでにおよそ半刻(1時間)を費やしたことをここに明記しておく。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

文官の勘違い――無理もないものだが――から始まった騒動を何とか無事収めた友若は、件の文官を伴い執務室に戻った。

部屋には既に誰も居らず、郭嘉が流した血の跡も残っていない。

ただ、匂いだけが、先程の光景が幻でなかったことを示していた。

 

「それで、大分時間が開いたけど、報告って何だ」

「は、はい、本当に申し訳ありません。私が早とちりをしなければ」

「それはいいから早い所、報告を済ませてくれないかな」

 

幾度と無く謝罪の言葉を述べる文官に友若は報告を促した。

 

「はい、実は正午ごろ、曹操孟徳の使いの先触れが訪れまして、荀彧及び程昱が袁本初様との交渉を望んでいると」

「……もう一回言ってくれないかな?」

「は、はい! 本日正午ごろ、曹操孟徳の使いの先触れが現れ、荀彧及び程昱が袁本初様との交渉を望んでいるとの事です!」

 

友若の言葉に文官ははっきりとした口調で報告を述べる。

荀彧。

疑いようもなく文官はその名前を口にした。

つまりは、バケモノである。

それが、ここに来る?

 

「は、ははは……」

 

ここ最近の忙しさと、先ほどまでの騒動で体力を消耗していた友若は乾いた笑みを浮かべながら気を失って倒れた。

 




見所:鼻血
次話:けーりん(予定)

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