荀シン(何故か変換できない)が恋姫的世界で奮闘するようです   作:なんやかんや

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次で終わる気がしないのでタイトルに番号を振ることにしました。
感想・誤字報告ありがとうございます。


けーりん2

荀彧と同居するように袁紹が命じた事を伝えられた友若の反応は文字通り劇的であった。

両頬に手を当てて叫ぶ友若の表情は絵の題材にすらなれるであろうものだった。

名前をつけるなら『叫び』だろうか。

声を上げることすら出来ず無言で絶叫する友若を見て、張バクはそんな感想を抱いた。

 

我を取り戻した友若は必死に何とかしてくれと張バクに懇願した。

あのバケモノと一緒に暮らすなど耐えられない、殺される、助けてくれ。

恥も外聞もなく叫ぶ友若に張バクはここ最近溜まっていた苛立ちが溶けていくことを感じた。

大いに溜飲を下げたのである。

懇願し、拝み、猛虎落地勢を取る友若に、これは袁紹の決定であるから自分に覆すことは出来ない、と張バクは告げた。

そして、伝えるべきことを伝えた張バクは真っ白に燃え尽きた友若を後に荀彧達の元へ向かった。

 

実のところを言えば、荀彧をその他と別けて配置することは防諜という点で微妙な選択肢であった。

何しろ、荀彧はこちらから幾人も有望な人材を幾人も引き抜いている人物だ。

引きぬかれたのは袁紹の下では出世が望めない者達であるから、仕方のない話なのだが、的確にこれはと思える人材を見つけてこれを引き抜くという荀彧を好きにさせておくわけにはいかないのである。

一方で、程昱もまた卓越した頭脳の持ち主であることを郭嘉から聞いている張バクとしては、こちらの監視の目を緩めるわけにもいかないのだ。

 

使える人材の不足から、できればまとめてこの2人を極秘裏に監視しておきたいと張バクは思っている。

そうでなければ、どうしても一方の監視が手薄になってしまう。

張バクの抱えているまともな手駒――信用が何よりも重要で、更に一定の能力を持った人間――の数は少ないのだ。

二人が別々の場所にいては、全ての時間、極秘裏に監視することが難しくなってしまう。

友若に荀彧の監視を任せるという事は今の友若の様子を見る限り不可能と考えるべきだろう。

どう考えても、あの様子では無理だ。

 

そこで、張バクは方針を変えることにした。

監視していることがばれることを覚悟の上で人員を増やすことにしたのだ。

内通者がいたとしても、複数の人間で監視を行えばその行動を知ることはできるし、曹操側がそれを知れば、彼らも迂闊な行動は控えるだろう。

とりあえず、大急ぎで監視を行う人間を見繕った張バクは、部下を引き連れて荀彧達が待たされている部屋へたどり着いた。

扉の前に控えた侍女が張バクを室内へと案内した。

 

「お待たせしました。皆様の宿泊場所が決まりましたので案内させていただきます」

「随分と時間がかかりましたね~。何かあったのですか?」

 

張バクの言葉に程昱が訊ねた。

荀彧一行の到着は事前に早馬で伝えられており、当然ながら、張バク達は荀彧達の宿泊場所を準備しなければいけないことも分かっていたはずだ。

実際、荀彧達の宿泊場所が既に用意されている事を荀彧達は間諜の情報によって知っているのだ。

にも関わらず、荀彧達はこの控室で日が暮れるまで待たされた。

何かがあった、と考えなければならない。

袁紹配下の熾烈な権力闘争は程昱も情報として知っているが、最悪の場合、主戦派である豪族達の突発的な行動が起きたことも考えられる。

そうであれば、冀州脱出の手はずを考えなければいけなくなるだろう。

程昱は何時もと同じ眠そうな様子を保ちながらも、真剣に張バクの様子を観察した。

 

「えー……少々問題が起きまして。しかし、もう解決したのでご安心を」

 

対する、張バクは言葉を濁した。

袁紹と突飛な思いつきに翻弄されることは冀州において珍しい話ではない。

袁紹配下にとって理不尽なまでの命令にどれだけ上手く対応できるか、ということの重要さは常識である。

同僚であるならば張バクの様子から直ぐ様全てを察することができるだろう。

 

「あー、なるほど。分かりました」

「……そうでした。貴方は以前ここにいたのですね」

 

かつて郭嘉とともに袁紹に仕えていた程昱も事情を察したようである。

不思議そうな顔をする荀彧に程昱は目配せをして口元を動かした。

何らかの暗号があったのかは張バクには分からなかったが、荀彧は事情を察した様子で呆れたような表情を見せた。

 

「荀文若殿以外の皆様は後ろの者が宿泊所まで案内します」

 

張バクはそう言って背後に控えた部下を指し示した。

荀彧は無表情で張バクを見ている。

 

「それは一体どういうことか? 文若殿だけ別だとは!」

 

楽進が警戒心をむき出しに尋ねた。

重心を微かに下げて、何時でも動けるよう身構えている。

程昱は楽進に向き直ると安堵させるように手を降った。

 

「心配ないですよ~。これは多分……」

 

含みを持たせる様な言い方をして程昱は張バクに視線を送った。

郭嘉が褒めるだけあって、袁紹の性格から張バクの次の言葉を予期しているのだろう。

面倒くさい相手だ、と張バクは内心ため息を付いた。

審配達の今のうちに曹操を排除するべきだという主張はそう間違っているとも言いがたいのではないか、と張バクは思う。

 

「荀文若殿、もし、嫌でなければ友若、貴方の兄の屋敷へと案内しますが」

「……」

 

楽進が息を呑んで荀彧を見た。

荀彧が断ってくれれば話は楽なのだが、と張バクは思う。

そうすれば、今までさんざん頭を悩ませた監視も楽になるし、友人である友若の心の平穏も保たれるだろう。

普段は面倒事ばかりを持ち込む友若をどこか憎めない張バクであった。

 

「それは」

 

荀彧は何の表情も見せない。

能面という言葉そのものである。

 

「それは、……兄が提案したのかしら」

「麗羽様、袁本初様のご提案です」

 

張バクは淡々と答えた。

荀彧は手を握りしめて俯いた。

 

「――っ!」

 

張バクは驚いた。

荀彧、先ほどの会談ではあれほど堂々と演説を行った天才、燃えるように輝いていた瞳には微かに涙が浮かんでいた。

兄である友若は荀彧に会いたくもないという様子を示していたことを張バクの態度から悟ったのだろう。

 

「桂花ちゃん……」

 

程昱が心配そうな顔で荀彧に歩み寄った。

荀彧は急いで服の袖で顔を拭う。

 

「大丈夫よ」

 

荀彧は鼻を啜りながら程昱に答えた。

 

「あー……」

 

張バクは荀彧に何と声をかけたものかを悩んだ。

今の友若の事を考えれば、荀彧に張バク、というか袁紹の提案を拒否してもらうことが一番だ。

家族の大切さを説いていた袁紹の荀彧に対する視線は厳しくなるかもしれないが、そんなものを気にする荀彧ではないだろう。

その結果として交渉に問題が出そうなら、張バクが出来る範囲で動いても良い。

曹操側には利点が見いだせないが、一方で大した損失があるわけでもない。

恩が売れると考えれば、曹操側も考慮しても良い話だろう。

こんなことで恩が売れる事には情けなくてしかたがないのだが。

 

だが、涙ぐむ荀彧に向かって提案を断るよう促す気概は張バクにはない。

どうやら、友若の話とは違い、荀彧は碌でもない兄のことを慕っているらしい。

よくよく考えて見ればこの兄妹は十年以上顔を合わせてすらいないのだ。

殆ど生き別れと同じ状況である。

家族とそれだけ離れていれば、また会いたいと思うのが人情というものだろう。

かつて仲違いをしたとしても、月日というものは往々にして過去の失敗を風化させ、美点のみを際立たせるものなのだ。

むしろ、これだけの月日が立ちながら未だに妹を忌み嫌っている友若の在り方が異常だ。

 

恐らくだが、この荀彧という少女は兄に会えることを内心で楽しみにしていたのではないか。

先の会談であれほど活発に発言をしていた事も久しぶりに会った兄を前に奮起していたと考えられる。

それが荀彧の行動の全ての理由ではないにしろ、何割かは占めているのではないか。

荀彧が友若の言うように人間性の欠如した存在ではないとするならば、そう考えるのが妥当であるように張バクには思えた。

 

そうすると。

荀彧に提案を断らせることは、およそ十年ぶりに再開した兄妹の仲を引き裂く事になってしまう。

兄の方は相変わらず会いたいとも思っていないようだが、妹のほうは再会を望んでいるのだ。

こうして涙ぐんでいる様子を見るに、その予想は恐らく正しいだろう。

荀彧に兄と接する機会を拒否するよう提案する事はひょっとしなくても残酷なことではないのか。

堪えようとしながらも涙をこぼしてしまう荀彧の様子は張バクの良心を抉った。

 

これでは客観的事実として、張バクが生き別れの兄妹の再会を邪魔する立場になってしまう。

まるで物語の悪役である。

心がひどく痛む。

友若の為に多少の行動はしても良いと思っていた張バクだが、これだけの良心的呵責を跳ね除ける覚悟はなかった。

泣く子には勝てないのだ。

 

ふと荀彧から顔をそらすと程昱と楽進が張バクを見ていた。

両者の顔は真剣そのものであり、張バクの言葉を待ち構えていた。

その様子は我が子を守る母親を彷彿とさせるものであり、張バクが迂闊な言葉を口から滑らせれば容赦はしないという無言の意志を伝えていた。

張バクは肩にどっと疲れを覚えた。

何故、自分がこんなに苦労しなければいけないのか。

根本的な疑問が張バクの頭を過る。

 

そもそも。

張バクは友若の事を考えた。

十年経っても相変わらず妹を嫌っている、いや、恐れていると言うのはかなり異常である。

友若は荀彧のことを人を貶してばかりの残忍な性格の持ち主だ等と散々に非難していた。

人の過ちを決して見逃さず、執拗に攻め立てるとも。

それは、結局のところ、自分よりも優秀な妹に対する劣等感や嫉妬心が根本にあるのではないか。

友若の愚痴を聞きながら、張バクはそんな事を考えたものである。

そうした感情は張バクにも分からなくはない。

自らをして優秀な官吏であると自負する張バクだが、自らを遥かに超える人間が存在することも知っている。

自分が思いつきもしなかった発想や発明を容易く成し遂げる存在を知っているのだ。

そうした相手に何も感じるところがない、といえば嘘になる。

もちろん、それだけの事を成し遂げた相手を称賛する気持ちも持ちあわせてはいるが、一方でどうして自分ではなくその相手に天は才能を与えたのか、と思わずにはいられない。

散々面倒事を引き起こし、情けない様子を晒しているのを見ると特に。

 

だが、人は大概の環境にも適応する能力を持っている。

時とともに、張バクの胸を焦がしていた嫉妬の心は薄れていった。

それは一種の諦観であるのかもしれない。

絶望的な才能の差を示されながらも、それを受け入れられるということは。

 

とは言え、仕方のない話である。

どれだけ張バクが学び、考えぬいた所で、天才が小金を稼ごうという程度の考えのもとに築き上げた制度を超えるものを作り出すことは出来なかっただろう。

いや、天才の成果の十分の一、百文の一ですら実現させることは不可能だったはずだ。

それだけのものを見せつけられれば、否応なしに認めざるを得ない。

張バクという人間は天才を前にすればただの凡人に過ぎず、そのお零れに預かる程度の存在であることを。

 

しかし、張バクはいつしかそんな自らの在り方に満足できるようになっていた。

張バクは日々の行政運営において重要な役割を担っている。

日々の業務をきっちりと終わらせ、部下を上手く働かせて、張バクは天才の築き上げた制度を円滑に運営しているのだ。

それはムラッ気の強い天才には出来ないことだし、大きな仕事を好む審配なども苦手とするところだ。

だが、それは確かに重要で欠かせない役割だ。

自らが全てを支えているとまでは思わないにせよ、大きな発展を遂げた冀州を支える人物の一人として張バクの名前は必ず上がるだろう。

ならば、それで良いではないか。

張バクはそう思う。

そう思えるようになった。

 

張バクが嫉妬心を克服したように、いい加減、友若も妹へ対する恐怖心を克服しても良い頃だ。

そもそも、冀州でこれだけの成果を叩き出しながら――その思惑がどうであれ――妹への劣等感を払拭できないというのはおかしい話だ。

馬鹿にしているのか、と張バクは言いたくなってしまう。

客観的に見て、友若は荀彧をはるかに超える業績を成しているのだ。

 

確かに、一般的な行政処理能力だけを見れば荀彧という才女は友若を凌いでいるのだろう。

友若の一般的な業務能力は平均をやや上回る程度なのだ。

そして、伝え聞く話を聞く限りでは、荀彧は多くの分野、ほとんど全ての領域において友若を上回っているはずだ。

 

だが、友若に与えられた発想力、狂気と紙一重の才能。

そのたった一つ。

たったそれだけで荀彧持てる才能全てに勝って尚、お釣りがくるだろう。

友若のそれはそこまでのものだと張バクは思っている。

 

袁紹は今後も天下の動乱の中心にあるだろう。

冀州の発展によって得た名声や権勢、財力、軍事力、追従者、そして、その結果得ることになった無数の敵。

漢帝国が落日を迎えつつある今日、袁紹の得たその全ては彼女に停滞や安寧を許しはしないだろう。

そして、田豊亡き今、それを支える配下の筆頭こそが友若なのだ。

 

今後、友若は天下に注目されることになるだろう。

その時、友若には覇権を握りつつある袁紹配下として恥じない立ち振る舞いが求められる。

今までのようにあまり好き勝手に過ごされては困るのだ。

冀州を取り巻く状況は以前とは異なるのだから。

袁紹が自由奔放に振舞っているが、その配下までその真似をしたら収拾がつかなくなってしまう。

だからこそ、袁紹を支える事になる友若はもっとしっかりと地に足をつけなければならない。

 

ともかく、友若には妹程度は克服してもらわないと困る。

張バクはその様に結論した。

 

「問題がないようでしたら友若の元へ案内します。着いて来てください、荀文若殿」

 

論理的武装を終えた張バクはあっさりと友若を売った。

いや、売ったという言葉は語弊がある。

友若の成長を信じて、乗り越えるべき試練を与えることにした、と言うべきであろう。

試練というには随分と簡単に思えるものだったが。

荀彧は驚いた様子で涙に濡れた目を張バクに向けた。

目をそらすように踵を返す張バク。

 

「桂花ちゃん、ファイトです~」

「頑張ってください」

 

程昱と楽進が背後でそんな事を言っていた。

 

「う、うるさいわよ……ありがとう……」

 

荀彧が小さな声で答えた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

冀州は日が沈んでも夜遅くまで眠ることがない。

日々の仕事に汗を流した労働者達に憩いの場を提供し、対価として金銭を得るために食事や酒を提供する食事処や酒屋、男娼や娼婦を抱えた宿泊施設。

これらの施設は深夜を越えてようやく店を閉める。

まだ日が沈んでから一刻も経っていない。

夜の街道には提灯が張り巡らされ、明かりが行き交う人々を照らしていた。

 

株式制度に端を発して急速な発展を遂げた冀州の熱気がそこにはあった。

ほろ酔い加減で笑い合う労働者達。

大きな稼ぎを得て上機嫌な交易商。

彼らをやきもきさせた官軍との戦いも蓋を開けてみれば袁紹の一方的な勝利となった。

一時はどうなるかと思われた冀州の経済も活力を取り戻している。

 

友若は不機嫌そうな顔で夜の街を歩いていた。

その後ろには荀彧が無言で付き従っている。

友若は自宅へと向かって歩いていた。

 

友若の家は冀州の政庁から離れた場所にある。

以前、冀州に長居するつもりのなかった友若は自らの家を持たず、借り家暮らしを続けていた。

金に意地汚い友若にしてみれば、持ち運べない不動産と言うものは金を溝に捨てることと同義であった。

だから、価値が高く、持ち運びやすい美術品集めに傾倒し、見事にガラクタばかりを集めたのである。

そんな友若であるから、出世して、大金を持ってからも、彼はあまり自分の家を持とうとしなかった。

周囲の人間は仮にも袁紹の配下としてそれなりの地位にあるのだから自分の家くらい持っておくようにと強く勧めたが、友若は馬耳東風とばかりにそうした忠告を聞き流していた。

 

その間、冀州は急速に発展し、地価は高騰した。

特に冀州行政の中心である政庁近辺の地価は天井知らずに伸びていった。

友若が重い腰を上げてようやく家を購入しようと思い立った時には政庁付近の土地は昔の数十倍程度にまで増大していた。

政庁近辺の表通りには高い地位を持つ人物達の屋敷が立ち並んでおり、その合間を縫うように高級な食事処が立ち並び、裏通りは官吏達の集合住宅と言った具合で、そもそも売りに出される土地がなかったという問題もあった。

 

「バブルじゃねえんだぞ」

 

友若はそう言って地価急騰の批判だけをして――地価の急騰に対して特に何か手を打つことはなく――安い土地を探した。

そうして見つけた比較的安価な土地に――友若は不当に高いと限界まで交渉を続けたが――友若は屋敷を構えた。

 

安い土地を買ったというだけあって、立地は政庁からかなり離れた場所にある。

そのため、貸家に住んでいた時よりも不便になった、と友若は常々不満を漏らしていた。

特に、都市内部における馬や荷馬車の通行に制限がかかってからは尚更である。

人口増加に伴い多発するようになった交通人と馬との接触事故への抜本的対策として大きな都市では馬や荷馬車の通行に時間制限が設けられている。

具体的には深夜以降のみ通行を許可するというものである。

何者であっても――例え袁紹であったとしても――馬専用に設けられた一部の道を除いて日中都市内部で馬を乗り回すことは出来ないのだ。

これによって友若は自分の屋敷から政庁へ向かう為に馬を使えなくなった。

そんな事をされては敵わないと、友若は特権として馬の使用を求めた。

だが、それを認めると友若に対して対抗心を燃やす豪族達や名士達まで特権を主張して収集がつかなくなる、と判断した許攸や張バクによってその主張は退けられた。

 

そのため、友若は毎日、屋敷から政庁まで半刻ほどの道を往復することになったのだ。

これでは余りに不便だということで、とりわけ忙しい時期には友若は政庁に泊まり込む事も多かった。

もっとも普段から仕事をサボっていた友若であるから本当の意味で忙しくなることは稀であった。

実際の所、友若は屋敷まで歩くのが面倒だったのである。

政庁には程昱達が泊まっているような来客用の宿泊場所が幾つかあり、友若はその1つを自分の部屋のように使っていた。

 

公私混同も良い所であるが、友若は政庁付近の袁紹や審配の屋敷に泊まるよりはましだと思っていた。

そんなことをすれば色々と詰みかねない。

友若は微妙にへたれていた。

 

ともかく、最近真面目に仕事をするようになった友若は、田豊を失ったしわ寄せもあり、本当の意味で日々の仕事に忙殺され、政庁に泊まり込む日々が続いていた。

そんな友若が屋敷へと向かっているのは妹を退けようというせめてもの足掻きだった。

張バクは荀彧のために普段友若が使っている部屋を準備した。

これに対して友若は今晩は屋敷に帰る、と強硬に主張したのである。

屋敷までの道程は遠い。

しかも、徒歩に限られるとなれば、旅の疲れもあるだろう荀彧は同行を諦めるかもしれない。

友若はそんな淡い希望を抱いていた。

万が一、荀彧が友若の屋敷に同行するということになっても、屋敷まではかなりの距離を歩かなければならない。

日が暮れているとはいえ、繁華街を経由すれば人混みによって『偶然』荀彧と逸れてしまうという嬉しい事態、いや、不幸な出来事が起こるかもしれない。

 

しかし、友若にとっては不幸なことに、荀彧は一刻程度の徒歩に怯むことはなかったし、繁華街の人混みは友若の予想していたほどのものではなかった。

少し前までは官軍を打ち破った冀州軍がこの付近にも待機しており、多くの報奨金を得た彼らは連日、酒を飲んでは騒いでいた。

加えて、戦いに参加して大金を手にした兵士達を呼び込もうと多くの店の客引きが熾烈に争っており、繁華街は真っ直ぐ歩くことすらままならないほどの盛況ぶりを見せていた事を友若はよく知っている。

しかし、治安の悪化と軍規の乱れを懸念した張バクによって官軍と戦うために集められた冀州軍の大部分は解散され、精鋭部隊については政庁付近から遠ざけられた。

同時に、飲食店の過剰な客引き等に規制が入ることで、繁華街は落ち着きを取り戻しており、人混みによって逸れるという事態が生じるとは期待できない。

これは実は友若の指示である。

面倒くさい客引きを何とかしようとしての行動であった。

 

「くそがっ!」

 

友若は吐き捨てた。

何故、治安維持をしてしまったのか。

繁華街をまともに歩けるようにさえしなければ、荀彧と逸れることも出来たはずなのに。

友若は激しく後悔した。

 

「何だってぇ!? 誰がクソだ!!」

「え?」

 

大男が拳を振り上げながら友若に向かって叫んだ。

訳も分からずに友若は間の抜けた表情でその男を見返した。

体格の良い男であった。

引き締まった体や膨れ上がった腕を見るに兵士だろう。

酒によっているのか顔は真っ赤に染まり、体は左右に揺れていた。

 

「何を言っているんだ?」

 

友若は不機嫌な顔で言った。

背後の荀彧によってただでさえ機嫌の悪い友若。

地位の高さもあって乱暴な言葉など久しく聞いたことのない友若は拳を振り上げる男に対して噛み付くように言い返した。

悔い改めて謝罪をしなければ、後日手を回してこの男を首にしてやる。

友若は内心でそんな事を考えながら酔っぱらいの大男を睨みつけた。

何しろ、友若の地位を持ってすれば一介の兵士の進退を決めることも自由自在なのだ。

 

「なにを言っている、だとう!?」

 

だが、友若の対応は不味かった。

相手に十分な思考能力が残されていれば、そもそも、質の良い服を着込んだ友若に一介の兵士が喧嘩を売るなどあり得ない。

酒によって理性を溶かしていた大男は生意気な小男、友若の態度に何時もと変わらぬ対応で報いた。

拳を振り上げて強かに友若を殴り飛ばしたのである。

友若は文字通り宙を舞った。

視界が漆黒に閉ざされ意識を失う寸前、友若は甲高い悲鳴を耳にした気がした。

 

周囲の人間たちも驚いた様子で騒動を起こした大男と友若達に視線を向けた。

大勢の視線を受けて大男は自分が誰に手を出したのかも知らずに勝ち誇って叫んでいた。

友若やその背後にいた荀彧の服が相当に高級なものであることにも気が付くことなく。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

友若は庭に佇んでいた。

由緒ある荀家の屋敷、その庭の池の辺りである。

季節は春である。

今まで経験した中で最も寒かった冬も終わり、庭には至る所に若葉が萌えていた。

鳥達が囀り桃の花が咲き誇っている。

池を見下ろすと、波一つ立たない水面には若葉萌える木々と雲ひとつない空が写っていた。

 

「兄様っ!」

 

心地の良い声が友若の耳に入った。

桂花。

真名をその様に名付けられた友若の妹であった。

名まだ無い。

荀家の末妹であり、幼いながらも才気の燐片を示している。

両親や親戚は『神童』友若に匹敵するかもしれない、等と言っていることを友若は知っていた。

こうした評価に対して、いくら才能があったとしても桂花が自分に匹敵するとは思わない友若である――何しろ友若と桂花では根本的なスタートラインが異なる上に年齢差が加わるのだ――が、桂花が賢い子供であると言う事は贔屓目なしに認めるところである。

この時代の人物として自分の次くらいには才能を持っているのではないか、等と友若は考えていた。

 

数えで4歳、実年齢はようやく3歳になったばかりのその稚児は途中転びそうになりながらも友若の所まで駆け寄ってきた。

まるで子犬の様だ、と友若は思った。

仮に桂花に尻尾が付いているとしたら左右に大きく振られていることだろう。

桂花は腕を背後で組んでまっすぐに友若を見上げていた。

 

「やれ、桂花。一体どうしたんだい?」

 

友若はそう言って桂花を抱き上げた。

決して身体能力に恵まれた訳ではない友若だが、幼い桂花を少しの間抱き上げることくらいはできるのだ。

抱き上げられて足を宙に浮かせた桂花は嬉しそうに笑った。

 

「兄様、これを一緒に食べましょう」

 

そう言って桂花は背に隠していた桃を友若の目の前に示した。

友若は驚いたような顔をつくり――実のところを言うと桂花が駆け寄ってくる途中で転びそうになった時に友若はその手に桃が握られていることを目撃していた――桂花に頷いてみせた。

 

桂花を下ろした友若は池の岸辺に腰掛ける。

あぐらを組んで座った友若が自らの足を指し示すと、桂花は嬉しそうにそこに腰掛けた。

何がおかしいのか後ろを振り返りながら機嫌がよさそうに桂花は笑う。

それに釣られて友若も笑みを浮かべた。

そして、手を伸ばすと桂花から受け取った桃を引きちぎる様にして二つに割った。

熟しきった桃からは果汁がこぼれ落ちる。

 

「わあぁ」

 

桂花が感嘆の声を上げた。

これは大当たりの桃に違いない。

割られた二つの桃をしばし見比べた友若は明らかに大きい方のそれを桂花に渡した。

 

「はい、お姫様」

「ありがとうございます、桂兄様!」

「いえいえ、これは桂花の持ってきた桃だよ。礼には及ばないさ」

 

友若がそう言うと、桂花は後ろにより掛かるようにして、友若に頭を押し付けた。

そして、受け取った桃の半分を宝物であるかのように両手で抱えると、その端を啄んだ。

 

「美味しいです! 兄様も早くっ!」

「分かった、分かった。そんなに急かさなくても大丈夫だよ」

 

友若はそう答える、

そして、友若を凝視する桂花に笑いかけながら桃を口にした。

 

これは美味しい、と友若の脳裏には月並みの感想が浮かんだ。

果肉はとろけるように柔らかく、瑞々しく、それでいて決して水っぽくはない。

甘みや酸味が絶妙な組み合わせで凝縮されているという感じである。

そして何よりも気高い芳醇な桃の香りが友若を楽しませた。

食べる、と言う行為は舌だけで完結するものではない。

味覚以外にも視覚や触覚、そして嗅覚といった感覚がこの行為をより豊かなものにする。

確かに味覚は重要だ。

この桃は間違いなくその点でも優れている。

しかし、味覚という一点だけではこの素晴らしい桃は成立し得ない。

そう、味覚以外の感覚を軽視しては決して真の美食には到達し得ないのである。

友若はそんな妄想を脳裏に浮かべた。

 

「美味しいですよねっ、兄様!」

「うん、そうだね。すごく美味しい桃だ」

 

友若がそう答えると、桂花は嬉しそうに満面の笑みを浮かべると両手に持った桃を頬張った。

桂花の両頬が焼いた餅のように膨れる。

その様子に思わず友若が吹き出すと、桂花は顔を真っ赤にすると不満そうに唸った。

 

「ううぅん!」

「うーん、桂花は可愛いなあ」

「ん~っ!!」

 

友若の言葉に桂花は顔を俯けて黙りこんでしまった。

座ったまま器用に体を友若の方に向け直すと、無言でぐりぐりと桂花は頭を押し付けてくる。

 

「やれやれ、しかし、うちの桃好きなお姫様はとうとう庭の桃をもいだのか。だけど、桂花の身長でよく桃に手が届いたね」

 

頭を擦り付ける桂花に笑っていた友若だが、ふと気になった疑問を口にした。

それを話題を切り替える好機と見た桂花は素早く頭を上げる。

先ほどまで、何も言えずに顔を赤く染めていた事を誤魔化そうとしているかの様であった。

 

「何を言っているの兄様! 私の手が届く訳がないじゃない! これは召使に取ってもらったのよ」

 

おかしな事を言う桂兄様ね、と桂花は言葉を続けた。

桂花の言葉は少し考えれば当たり前の話である。

小さな桂花の手が桃の実まで届くはずがないのだから。

桂花の手が届く程までに垂れ下がった実など無いだろう。

桂花から受け取った桃の実はどこもあたっていなかったから、落ちた実を拾ってきたという事も無い。

論理的帰結によってこの桃は桂花が直接桃の木から手に入れたものでは無い、ということになるのだ。

 

それを桂花に声に出して指摘されると、自らの想像力の欠如を咎められた気がしてしまう友若。

この当時から、桂花は正しい言葉を刃に変える才能の燐片を示していた。

妹を相手に無様な質問をした友若はかすかに頬を赤らめた。

そして、誤魔化すように顎に手を当てて考えこむような姿勢をとった。

 

「しかし、よく召使が桃を取ってくれたね。母上が子供たちには間食させないように、と口を酸っぱくして命じていたと思うけど」

「えへへー。実はね、実はね」

 

桂花は友若の耳元に顔を近づけた。

サラサラしたブラウンの髪が友若の頬に触れる。

耳元で桂花が囁いた。

 

「これは秘密なの。兄様、誰にも言わない?」

「ああ、桂花が秘密というのなら誰にも言わないよ」

 

桂花の言葉に友若はよくある約束をした。

つまり、簡単に破られる種類のものである。

そうした事に気が付くだけの経験を持っていない桂花は嬉しそうに笑って、秘密の宝物を見せびらかすかのように目を輝かせて話し始めた。

 

「この前、左慈と于吉が倉庫で一緒にいるのを見たの。そうしたら、2人にはそれを秘密にしておいて欲しいって頼まれたの。だから、私は兄様の言っていた『等価交換』の通りに、何か一つ、願い事を叶えてもらうことにしたのよ。それで、さっき庭の手入れをしていた阿礼に桃を取って貰ったの!」

「……なるほど。しかし、まさかあの2人が……いや、だからこそなのか」

 

桂花の言葉に友若の脳裏には幾つかのキーワードが浮かんだ。

『倉庫』、『密室』、『何時も一緒にいる2人が2人っきり』、そして『秘密』……。

体はまだ二次性徴も迎えていないが、前世の記憶を持つ友若である。

僅かな情報であったとしても嘗ての記憶を駆使すれば何があったのかを想像(妄想)することは容易い。

友若のどどめ色の脳細胞は2人の関係性について、桂花が考えもしなかったであろう1つの答えを導き出した。

 

これは、後で母親に報告しておかなければ、と友若は思った。

つい先程、桂花と交わした約束など頭の片隅にもない。

友若は普通であれば他人の恋愛に口を出す趣味はない。

だが、家の召使同士の恋愛、しかも儒学的に問題となりそうなそれを放置しておくわけにはいかないだろう。

実のところを言うと、女性同士と言うのは割とあるらしいのだから、あの2人の関係もそこまでは問題とならないのかもしれない。

何れにしても、どのように対応するべきかは母親である荀コウが決めるべき話になるだろう。

友若としては、穏便な裁定が下ることを願うばかりである。

 

「兄様、あの2人がってどういう意味ですか?」

「えっ!?」

 

友若の態度になにか感じるところがあったのか、桂花が質問を投げかけてきた。

友若は返答に詰まった。

まさか友若が想像したことをそのまま教える訳にはいかない。

情操教育に悪すぎる。

桂花には純真なまま成長して欲しいと友若は願っているのだ。

下世話かつアンモラルな話を桂花の耳には入れたくない。

 

「いや、何となく口に出ただけだよ。あの2人は何時も一緒にいる印象があったけど、倉庫で何をしていたかなんて想像もつかないや」

「むーっ! 兄様、こっちを向いて喋ってください!」

 

明らかに話を誤魔化そうとしている友若の態度に桂花は頬をふくらませて怒った。

友若は困った顔で、取り敢えず桃を口にした。

その行動が気に入らなかったのか桂花は肩を怒らせて叫んだ。

 

「私を誤魔化そうなんて酷いです! そんな兄様は嫌いですっ!」

 

その様子に前世の記憶からハムスターを連想して和んでいた友若であるが、桂花の最後の言葉にはひどく慌てた。

この世の終わりを前にしたかのような顔で友若は機嫌を損ねて横を向いた桂花に謝る。

 

「! け、桂花、ごめんよ。ただ、ちょっと説明が難しくて」

「意地悪な兄様なんて知りませんーだ」

「ごめん! 本当にごめんっ!」

 

そっぽを向く桂花に友若はひたすらに頭を下げた。

そんな様子に桂花は上目使いで友若を見上げた。

 

「じゃあ、あの2人が何なのか教えてください」

「うっ!? ええっとね……そう、まだ小さい桂花には早い話だ。だから、この話は桂花が大きくなってからだな」

 

友若がそう言うと桂花は不満気な顔をした。

 

「む~~~っ! 桂花はもうそんなに小さくありませんっ! 論語も全巻ちゃんと覚えたんですよっ!」

 

桂花の言葉に友若は内心で若干驚いた。

友若がそれを覚えた年齢は間違いなく桂花のそれよりも後だった。

つまり前世の知識を持っているにも関わらず、友若はただの子供に違いない桂花に遅れを取ったという事になる。

この事は友若には容易に看過できない問題である。

生まれつきの知識で他者を圧倒し続けた友若の自尊心は肥大する一方であり、彼の精神は何事につけても自らが劣っていることを認められない程度には増長していた。

 

いや、と友若は思い直した。

友若は確かに天性チート知識を持ってはいるが、この国の常識や一般教養は生まれた時に身に付けていなかった。

例えば、文字の読解についても,友若は殆ど何も分からないところから学習を始めた。

ここで友若はなまじ別の言語体系の知識を持っている為に、最初は躓いたのだ。

この様な学習に関しては予め知識を持っていないほうが有利となる場合もあるだろう。

だから、桂花がこの年齢で論語を暗記していようが、それは間違っても友若が桂花に劣っているということを意味しないのだ。

そう考えて、友若は心の平穏を取り戻した。

 

そして、気を取り直した友若は桂花の頭を撫でる。

桂花が優秀であるということは兄である友若にとって喜ばしいことだ。

 

「そうか、それは凄いなあ! 流石桂花だ! 我が家のお姫様だ! 本当にもう可愛い上に賢いなあ」

「えへへ、だって兄様の妹ですから……って、頭を撫でても、ご、誤魔化され、ません、よっ!」

 

その様に答えながらも、頭を撫でられた桂花は顔を緩めて目を閉じた。

 

「本当に可愛いなあ、桂花は」

 

友若がそんな事を言いながら頭を撫で続けると、桂花はもたれかかってきた。

 

「あと10回言ってくれたら許してあげます、兄様」

「そうかそうか。可愛い桂花は許してくれるのか」

 

そう言って友若は桂花の頭を撫で続けた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

夜の寒さを感じて友若の意識はわずかに覚醒した。

ぼんやりとした頭で友若はまばたいた。

懐かしい夢を見ていた気がした。

もう、はるか昔に思える頃の夢を。

あの頃はまだ、友若は自らの非凡性を信じていた。

 

三国時代の英雄たちを差し置いて、自らこそが天下の行く末を決めるのだとすら思っていたのだ。

認めたくないものであるが、今思うと当時の友若は井の中の蛙という言葉が相応しい醜態を晒していた。

それが今では曹操という圧倒的脅威を前に何とか生き延びようと醜く足掻くことすらまともに出来ていないのだ。

過去に描いていた夢と現在の自分。

その落差にとてつもない惨めさを覚えて、友若は目尻を湿らせた。

 

曹操と相対する恐怖から逃げ出したい、と友若は思う。

同時に、そんな考えを抱く自分が堪らなく嫌になるのだ。

友若は袁紹の事を思った。

彼が愛している女性の事を。

 

いや、果たして友若は本当に袁紹の事を愛していると言えるのだろうか。

友若は自信が持てなかった。

袁紹に対して友若が特別な感情を抱いている事は確かである。

その才覚は抜きん出ているとは言い難いものの、自信に満ち溢れて奔放に振る舞う袁紹の性格を友若は好ましいと思っていた。

 

だが、袁紹のために曹操と戦うと考えただけで友若の身は竦んでしまう。

友若には曹操を打ち破る想像が全く出来ないのだ。

頭を振り絞ってどれだけ考えた所で、曹操との対峙の先にあるのは死しか思い浮かばない。

相手はこんな時代に銃火器を実現する怪物である。

友若の発案が荀彧を通して伝わっていたとしても、それを部隊単位での運用を可能とするまで発展させたのは間違いなく曹操や荀彧の功績であり、その常軌を逸した才能、バケモノ性の証明だ。

 

確かに、友若は未来知識に基づいた発想を駆使することで曹操を出し抜くことができるかもしれない。

だが、それはあくまで一時の有利にしかならないだろう。

曹操達は友若が作ろうとしていた銃火器の出来損ないから実用レベルのそれを開発したのだ。

天性チート知識を利用し発想で優位に立ったとしても、曹操はすぐにそれを模倣し、あまつさえ改良してみせるだろう。

そんなバケモノを敵に回してどうやって生き残ると言うのか。

友若には検討もつかない。

 

こんな有り様では、曹操という恐怖が現実となって立ちはだかった時、まともに立ち向かうことなど出来ないだろう。

むしろ、叶うならば友若はすぐにでも逃げ出したかった。

友若が未だにこの地に留まっているのはなけなしの誇りを守るためであり、つまるところ、ただの惰性であった。

 

袁紹の為に命を捨てていった田豊や無数の兵士達はどうして立ち向かうことができたのか。

極限状態の咄嗟の行動ゆえだったのか。

あるいは、曹操の恐ろしさを理解していなかったのか。

友若の持ち合わせていないある種の勇気があったからなのか。

友若には未だに分からない。

こんな、恋人の危機にあって命を捨てることの出来ない自分が袁紹の事を愛しているなど、どの口が言うのだろうか。

意識がはっきりとしない中、友若は涙が零れないように目を閉じた。

そして、こんな事を考えるのは無意味だ、と自らに言い聞かせた。

考えないでいれば、自分に嫌気を覚えることはないのだから。

 

どれだけの時間が経ったのか。

友若が心を落ち着けて完全に意識を取り戻した時、彼を殴った大男は数名の憲兵達によって拘束されていた。

一瞬何が起こったのか分からずにいた友若だが、直ぐ様、先ほどの出来事を思い出して立ち上がろうとした。

 

「痛っ!」

 

動こうとした途端に頭痛が友若を襲う。

 

「大丈夫?」

 

悲鳴に近い声が友若の直ぐ上から聞こえた。

友若が上を見上げるとそこには頬を濡らした荀彧の顔があった。

 

「――っ!!??」

 

恐怖の対象を目の前にして友若は力の限り仰け反って、地面に転げ落ちた。

 

「落ち着いて! 頭を殴られたのよ! コブができているし、何があるかわからないのだから安静にしていないといけないわ!」

 

荀彧が友若に向けて叫んだ。

どこかの店から持ってきたのか長椅子から腰を浮かせて、友若のことを見据えていた。

友若は耳を貸す事無く、体を引きずるようにしてとにかく恐怖の代名詞、荀彧から距離を取った。

荀彧は顔を歪めた。

泣きそうな顔のようにも一瞬見えた。

このバケモノが涙を流すなんてあるわけがないと友若は思いなおす。

 

「ご無事ですか!?」

 

憲兵の代表と思われる女性が友若に声をかけてきた。

口をパクパクと動かしながら振るえる手で友若は荀彧を指さした。

一体どうして荀彧が。

友若の頭にあるのはそんな疑問だった。

憲兵の女性はそんな友若の様子を見て、何を勘違いしたのか納得したように微笑んだ。

 

「妹君はそれはもう、荀大老師殿の事を一生懸命に看護していらっしゃいました」

「――は?」

 

お前は何を言っているんだ。

友若の頭に浮かんだのは正にその言葉だった。

この妹、バケモノに人の心配をしたりする機能がそもそも備わっているのか。

 

友若は妹の人間性を全く認めていなかった。

荀彧を余りに恐れる友若は妹を人間とは異なる理で動く何かだと思い込んでいたのだ。

少し過去を振り返れば、幼い日の友若の後ろに付いて歩いていた荀彧の様子を考えれば、そんな事はあり得ないとすぐに分かるにも関わらず。

そして、荀彧が友若を心配したという事実を前にしても、友若はその裏に何かとてつもない思惑が潜んでいるに違いないと怯えたのだ

 

憲兵は友若の内心に全く気が付かなかった。

そもそも彼女は友若が妹を恐れている事を知らなかったのだ。

当然ながら憲兵は友若の名前や顔を事を知っている。

だが、憲兵は友若の人となりや人間関係に関しては伝聞でしか知らない。

そして職務として流言等の対処も行っている憲兵にしてみれば、伝聞情報は多くの場合誇張され、あるいはねじ曲げられていると考えるべきものだ。

だから、友若が妹を嫌っているという噂を聞いても、憲兵はそれを頭から信じることはなかった。

そして、荀彧が近くの店に命じて長椅子を運ばせ、その上に友若を横たえて、膝枕をして友若の看護をする様子を見た憲兵は、以前耳にした両者の関係についての噂が根も葉もない偽りであると判断した。

それほどまでに、荀彧の友若を看護する様子は親身であり、誤解を恐れない言い方をすれば愛情に満ちていた。

 

「素敵な兄妹ですね。私は姉がいますが喧嘩が多くて、ご両人の様に仲の良い兄妹には憧れてしまいます」

「ちょっと何言っているのか分からない」

 

頬を染める憲兵に友若は冷たい声で答えた。

そして、更に文句を言おうと思い立ち上がろうとした友若は頭の痛みに再びしゃがみ込んだ。

 

「痛っ!」

「無理しないで横になって!」

 

頭を抑えて唸る友若に荀彧は素早く歩み寄るとその手を掴んで引っ張りあげるように友若を長椅子に座らせた。

友若は慌てて手を振りほどくと、荀彧とは逆の向きに横になった。

 

「あっ……」

「そいつはどうするんだ?」

 

友若は取り敢えず荀彧を無視すると、顎をしゃくって捉えられた大柄の兵士を指し示した。

憲兵は顔を引き締めると友若の問に答えた。

 

「処刑します。大老師に手を上げたということで、暫くの間、首がさらされることになると思います。三族についても責任を問いましょうか?」

「――ッ!! は、放しやがれ、てめえら!!」

 

拘束された男は自らの処遇を聞き取ったのか、急に暴れだした。

だが、流石に縄で縛られて数人がかりで押さえつけられてはまともに動くこともできない様子であった。

 

「いや、いい。そいつだけなんとかしてくれればそれでいいよ」

 

憲兵の随分と厳しい言葉に若干引きながら、友若は投げやりに答える。

親族の酔っぱらいが暴れた結果一族郎党全員皆殺しとか、それは流石にないだろう、と友若は思う。

憲兵は反論することなく畏まりました、と答えた。

 

憲兵達が数名がかりで縛り上げた大男を突付き、蹴りつけながら連れ去っていく様子を視界に入れながら、これからどうするかを友若は考えた。

頭痛の事を考えると、自宅までの距離を歩き通すのは厳しそうである。

友若は明日も早くから政務を処理しなければいけない立場にある。

ここは屋敷に帰ることを諦めて、政庁に泊まる事にしたほうが良いだろう。

友若はそう判断した。

 

頭を抑えながらゆっくりと起き上がった友若に荀彧は寄り添ってきた。

 

「政庁に戻るんでしょう。私が付き添うわ」

 

友若が慌てて距離をとる前に、彼の手を掴んだ荀彧は俯きながら言った。

内心を当然のように言い当てる荀彧に友若は恐怖を覚える。

そして、友若は暴れてでも荀彧の手を振りほどこうとして、思い直して大人しくすることにした。

 

友若の脳裏には先ほどまで見ていた夢の記憶がうっすらと残っていた。

そのため、僅かではあるが、この時の友若は妹に対する恐怖の感情を薄れさせていたのだ。

友若が袁紹の味方であるならば、荀彧や曹操とはいつかは向き合わなければならない。

考えるだけでも恐ろしいことだが、逃げ続けるわけにもいかないことは友若にも分かっている。

分かっていて尚、友若は一歩も踏み出せなかったのだ。

 

友若は僅かであるにせよ妹への恐怖が薄れている事を自覚していた。

ならば、今、この機会に勢いに任せて動くべきだ、と友若は思った。

この好機を逃せば、二度と荀彧に立ち向かうだけの気概を抱く事はないだろう、と友若は自らに言い聞かせる。

自己暗示をすることがなければ、友若の心は逃亡に傾いただろう。

 

「あっ……」

 

友若は荀彧の手を握り返した。

荀彧が目を見開いて友若の顔と手を交互に見る。

 

「……なんだよ?」

「え、えぁ……」

 

会議で見せたあの明晰な様子はどこへ言ったのか、荀彧の態度は異常に鈍かった。

いや、目は素早く友若の顔と手の間を行き来しているから、決して行動が遅くなったというわけではない。

友若が問を投げかけても、荀彧の口からは言葉にならない声が漏れるばかりである。

一体、荀彧は何を考え、企んでいるのか。

友若には全く分からなかった。

先ほどの自己暗示もどこへやら、早速逃げ出したいと友若の感情は主張を始める。

それを理性によって友若は強引にねじ伏せる。

逃げ続けることはできないのだから、今、立ち向かわなくてどうするのだと友若は自分に言い聞かせた。

そうやって腹をくくった友若は迷わないうちにと荀彧に向かって喋り出した。

 

「政庁までの道を……支えて歩いてくれるんだろ」

「あ……う、うん……」

 

友若の言葉に荀彧は顔を俯かせると頷いた。

そして、荀彧はゆっくりと、恐る恐るといった様子で友若の手を取った。

 

「うん……」

 

荀彧が相槌を打つような声を出した。

相槌を打つにしても、荀彧は既に友若の言葉に答えている。

今の声は一体何の意味があるのか。

荀彧の行動理由が分からずに友若は怯えた。

 

何か、とんでもない罠が仕組まれているのではないか。

荀彧の今の相槌は罠にかかった獲物を前にした舌なめずりではないのか。

友若の手を撫でるように動く荀彧の手は獅子が獲物を嬲ることの隠喩ではないのか。

そんな想像が友若の頭をよぎる。

そして、その思いつきは忽ち友若の脳内で膨張し、友若の心を恐怖で満たした。

なんだかんだ言っても、友若は決して妹への恐怖を克服したわけではないのだ。

横目で荀彧を見た友若は、その頬が赤く染まっているのを見て自らの考えが正しいと思い込んだ。

友若は荀彧と繋いだ手を離そうとしながら言う。

 

「やっぱり、1人で歩くから――」

「無理しちゃ駄目よ!! 私がしっかりと支えるから!!」

 

友若の言葉を途中で遮った荀彧は反論をする暇も与えずに友若の腕を自分の肩に回すとその手を強く握りしめた。

 

「さ、さあ、行くわよ!」

「――っ!!」

 

離れようとしても、荀彧がきつく手を握って離さない。

立ち上がった途端に頭痛がしたこともあり、激しく抵抗するだけの余裕が友若には無い。

 

「…………ああ、分かった」

 

抵抗を諦めた友若は屠殺場に連れて行かれる牛の気分で荀彧に頷いた。

そして、荀彧に体を支えられ、悲しそうな瞳で繁華街を見ながら政庁へと歩き出した。

 




キャラ崩壊タグがそろそろ必要でしょうか。
次話 けーりん3

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