荀シン(何故か変換できない)が恋姫的世界で奮闘するようです   作:なんやかんや

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けーりん3

発展著しい冀州の行政では、古くから袁家に仕えてきた田豊を中心とする派閥と、洛陽を追われた元清流派閥が主要な地位を独占していた。

そのため、このどちらかの派閥に属していない豪族達や名士達に与えられた出世の道は極めて狭かった。

彼らは主要な役職から閉めだされ、つまらない閑職が与えられるのみである。

豪族達や名士達は歯噛みをするばかりであった。

特に、平均年齢の低い元清流派閥は出世を阻まれた者達にとって忌々しい事この上ない存在である。

上が退かねば出世の道が閉ざされてしまう。

それにも関わらず、この連中はこれから何年もその地位を占め続けるのだから。

特に豪族達は経済発展を促進させるための各種自由化政策によって数多くの既得権益を失っており、押し隠しているものの、その怒りと憎しみは並々ならぬものがあった。

人間というものはただ与えられたものに対しては鈍感だが、奪われることに対しては敏感なのである。

投資という新しいゲームに参加することで過半数の豪族は貨幣収入を増やしていたが、憎々しい存在である友若や元清流達がそれ以上の利益を得ているという事実を前にはその喜びも薄れてしまうのだ。

 

それでもまだ、名士達や豪族達は出世の道があるだけましであると言えるかもしれない。

冀州の官吏の大半はそもそも出世する道がないのだ。

 

冀州では拡大する行政処理に対処するために身分やコネを殆ど無視した下級官吏の登用を行っている。

これらの、頭数を揃えるためだけにこうした役人には最初から出世の道が用意されていないのだ。

彼らに求められているのは純粋に膨大な業務の一部を処理することのみであり、どれだけ働こうがその僅かな収入が増えることはない。

 

もっとも、制度上出世の道はないが、何事にも抜け道はある。

清流派閥もしくは田豊派閥に属している有力者の推薦や袁紹の抜擢があれば、どのような身分の者でも大出世が不可能ではない。

ある意味で、袁紹の配下として最も高い地位にある友若の存在がその事実を証明している。

清流派閥の一員であるかのように扱われる事の多い友若であるが、本来はただの服職人でしかないのだ。

 

とは言え、実際に下級役人で推薦や抜擢を受けて出世した者はほぼ皆無であった。

そもそも、勝ち進むほどに役職という座席が減っていく椅子取り遊戯に熱中する袁紹配下達が自分たちの仲間の代わりに態々新参者を参加させようなどとは思いもしないのだ。

冀州が急速な発展に伴って、袁紹配下のうま味が増えたとなっては尚更である。

流石に郭嘉程の人物となると、その抜きん出た才能を無視することができず、例外的に下級官吏のまとめ役、中堅管理職に相当する役職にまで出世していた。

だが、郭嘉にしても、官軍との戦いに置いて功績を上げるまでは中堅管理職以上の地位に就くことはなかったのだ。

 

そのため、栄達を目指す野心あふれる若者達の多くはすぐさま下級役人の職を辞して、袁紹の下を去って行く。

彼らは自らの運命を試そうと、商人となったり、兵士となったり、あるいは他の諸侯の下へと赴いた。

沸騰を続ける冀州において、給金も殆ど上がらない上に出世の可能性の低い下級役人を続けるなど愚かな行為であるというのが一般的な考え方であった。

 

そうした背景があったため周囲の人間は郭嘉のことを変わり者であると思っていた。

間違いなく才能を持ちながらも、郭嘉は一介の小役人に甘んじているのだ。

その才能を知る人間は、一緒に商売で一旗揚げようとか、辺境の交易に参入しようとか、誰それの下に仕えよう等と郭嘉を誘った。

ある者は郭嘉の才能があれば成功間違いなしと思ったし、ある者は優秀な人間が小役人というつまらない役職にいることに対して義憤を覚えたのだ。

だが、郭嘉はそれらの誘いを全て断ってきた。

親友である程昱の誘いを断り、敢えて袁紹の下に留まった『変人』郭嘉である。

金や地位には何の魅力も感じなかった。

 

そんな郭嘉であるが、袁紹軍と官軍との戦いの後、上層部の人材的空白の影響によって袁紹幕僚の末席に座るという大抜擢を受けた。

これは許攸の推薦によるものである。

 

前々から郭嘉が抜きん出ていることに気がついていた許攸は中間管理職にまで郭嘉を引き上げていた。

だが、許攸は決してそれ以上の地位にまで郭嘉を引き上げようとしなかった。

その理由を許攸は語ったことはない。

ある者は新参者を重用する事による軋轢を避けたのだろうと言い、ある者は自らの地位を脅かしかねない相手を認めるつもりはないのだ、と下世話な感想を抱いた。

真実がどこにあるかは本人以外知る由もなかったが、許攸は郭嘉の才能に気がついていながら――どの程度の才能と見積もったのかはともかく――敢えてこれに一定以上の地位を与えることはなかったのだ。

 

しかし、曹操の指揮する騎馬隊によって物理的に田豊派閥及び元清流派閥が大打撃を受けるに及んで、その穴を埋める人間として許攸は郭嘉を強く推薦した。

もっとも、これは許攸に限ったことではなく、袁紹配下の各派閥からは袁紹配下の幕僚を中心とした欠員を埋めるべく多くの自薦があり推薦があった。

幕僚の地位に占める割合は、所属派閥の勢力と殆ど同義であるからである。

元清流派閥は自らの勢力を維持する事を目標とし、豪族派閥や名士派閥は絶好の機会に派閥の大幅な拡大を夢見た。

一方、田豊派閥はまとめ役を欠き、右往左往しているうちにこれらの派閥に吸収される形で消滅することになる。

 

何れにしても、野心を持った人間は一様に空席となった地位を占めようと画策した。

推薦する人物の功績の強調をしたり、対抗相手を貶めたり、賄賂をばら撒いたり、極秘同盟を組んだり、考えられる限りの手段が採られた。

 

ここで、元清流派閥は重大な問題に直面する。

人材の不足であった。

 

そもそも、元清流派閥は洛陽で失権した清流の集団である。

濁流との権力争いに敗れた清流の人間達を袁紹は公然と保護したのだ。

そして、田豊がこの敗残者達に袁紹配下としての仕事の一部を任せたことによって、元清流派閥の雛形ともいうべき相互補助的集団が出来上がったのだ。

この時、元清流派閥は洛陽での名声を持っていたが、袁紹配下として新参者集団に過ぎなかった。

それが一躍して、田豊派閥と並ぶ巨大な勢力を成したのは、友若の提案を採用したことによる行政機構の急変に上手く対応できたことが大きい。

株式制度や銀行制度の草案作成に関わっていた審配、許攸や張バクは他の豪族達や名士達よりも遥かに早く冀州の変化をある程度ながら予測でき、その情報を相互補助の一環として同じ洛陽出身者に伝えたのである。

その結果、元清流派閥は急速な勢力の拡大していった。

 

この時、元清流派閥は勢力の拡大に伴ってその構成員を殆ど増やさなかった。

そもそも、この派閥の成り立ちが洛陽を追われた清流の相互補助的な性格を持つ集団であったのだ。

同じ辛酸を嘗めた者同士、結束は固かったが、裏を返せば排他的である。

だから、昔から袁紹に使えてきた勢力や冀州に基盤を持つ豪族勢力と同化することはなく、洛陽から逃れてくる者がいなくなると、この派閥の人数はそれ以上増えなくなったのである。

それでも問題はなかった。

元清流派閥は多くの人員を抱える田豊派閥と協力することによって冀州の重要な地位を独占し、豪族達や名士達を圧倒することができていたからである。

豪族達や名士達は権益を独占して分け与えない元清流達に憎悪を募らせたが、田豊派閥と手を組んで権力を握った彼らに対してまともに対向する手段を持たなかった。

 

だが、田豊派閥が事実上壊滅するに至って、状況は一変する。

如何に元清流派閥が人事における決定権を握っていた所で、自らの構成員だけで主要な役職全てを抑えることは出来ない。

頼みの綱の田豊派閥はトップの突然の死によって混乱を極めており、頼りにならないのだ。

元清流派閥は崩壊状態にある田豊派閥の取り込み工作を行ったが、これには豪族派閥や名士派閥も積極的に動いていた。

古くから袁紹に仕えている旧臣等は田豊の死を切掛けに元清流派閥と距離を置く者も多く、元清流派閥はジリジリとその勢力を後退させていたのであった。

 

ここに及んで元清流派閥は大胆な方針転換を行う。

審配や許攸、そして張バク主導のもと政策や思想的に近い名士派閥の一部に接近し、これと協力関係を築くことにしたのである。

同時に、冀州行政拡大に伴って採用された下級官吏で元清流派閥の人間と関係の深い人物を積極的に推薦した。

明らかに元清流の人間を目の敵にしている豪族達や名士達に権力を握られるよりは、好意的であるはずの他人が出世したほうがまだ良かったからである。

郭嘉はこの動きによって一躍出世をした人間の代表格である。

 

これに対して、長らく押さえつけられてき名士派閥や豪族派閥は連携を強化し、離反者を出さないよう派閥内部の引き締めを行うと同時に、田豊派閥や下級官吏出身者の取り込みを図った。

その代表がやはり郭嘉である。

下級官吏の間で人望のある郭嘉を味方につければ、多くの下級官吏を自分達の味方に引き込めるだろう。

有能な人物として名高い彼女に対して豪族派閥や名士派閥は自分たちの味方になるようあの手この手――金銭や地位、婚姻等――で説得を試みている。

元清流派閥を廃して、経済発展にともなって大きく変化した行政をまともに運営する為には実務能力のある官吏の数がどうしても必要なのだ。

そのためには現在の主流派に取って代わるためには実務能力のある下級官吏を味方に付けなければならない。

そして、下級官吏達は味方とするにうってつけであるように見えた。

野心の強い者はそう時間をかけずに、商人として、武人として、他州の官吏として下級官吏を去って行く。

そのため、下級官吏の多くは優れた――上を押しのけて栄達を求めるようなことのない――手下となり得る人間が多くを占めているはずなのだ。

 

下級官吏出身者にしてみれば急に持て囃される形になった。

彼らの一部には、この機会に自分達の権力を拡大しようと動き出している。

郭嘉に対して、彼女を頂点として祭り上げて新たな勢力を作ろうと持ちかけてくる者もいる。

元清流派閥の人間と異なり、下級官吏達は野心が少ないはずだ、という豪族達や名士達の予測はあっさりと覆られた格好になる。

下級官吏達は遠くにある財宝や名誉を目指す程野心にあふれてはいなかったが、目の前にぶら下げられた果実を無視するほど達観してもいなかった。

 

もっとも、下級官吏達が団結して大きな力を持つようになれば、彼らを持て囃していた勢力の態度は厳しいものになるだろう。

清流派閥も豪族派閥も名士派閥も自らの為に下級官吏を味方にしようと奔走しているのだ。

彼らの誰もが従順な犬を望んでいるのであって、新たな競争相手の出現を喜ぶものはいない。

 

何れにしても、田豊派の消滅によって下級官吏達は権力闘争に巻き込まれ、翻弄されている。

そうした事情があるために、ここ最近、冀州の政庁に務める官吏達の様子はどこか緊張感を含んでいる。

ぎこちない様子の挨拶や、物陰での息を潜めた会話。

水面下で繰り広げられる権力闘争の行方がどうなるのか。

誰に味方する事が良いのか。

先の見えない状況の中、多くの人間が少しでも確かな情報を得ようと翻弄されている。

 

そんな中を、郭嘉は何時もと変わらぬ様子で歩いていた。

その地位が大きく変化しても、一部の人間によって権力闘争の火中に押し上げられそうになっても、郭嘉は平素と態度を変えなかった。

人々は権力や金銭に頓着しない郭嘉を欲のない素晴らしい人物だ、と褒め称えた。

そして、同時に、その扱いの難しさに頭を悩ませた。

味方に引き入れることがもっとも難しいのは、欲のない人間なのだから。

そして、無視するには郭嘉の存在感と影響力は大きすぎた。

 

もっとも、郭嘉自身は自らのことを欲のない人間だとは思ってもいない。

ある意味で最も欲深い人間であると彼女は自らの事を評価していた。

ただ、他の人間の多くが求める権力や金銭が欲望の対象ではない、というだけである。

郭嘉が求めているのは天下万民の平和である。

統治能力を失った現在の朝廷に代わる新たな統治制度の実現を郭嘉は目指しているのだ。

小金を求める人間や、たかだか万人程度への影響力を握るだけで満足する人間などよりも、国そのものを変えようという郭嘉の望みの方がずっと深いと言えるだろう。

 

何れにしても。

これ以上権力闘争に背を向けている訳にはいかない。

ヒソヒソと噂を交わし合う同僚を無視しながらも、郭嘉は内心でそう考えた。

これまでは一歩引いた立ち位置に自らを置くことで、郭嘉は無用な争いからは身を引いてきた。

しかし、思わぬ形であるにせよ出世してしまった以上、今後も無関係を装うことは許されないし、郭嘉自身、関わっていこうと思っている。

 

今現在元清流達も豪族達や名士達も郭嘉を味方に引き入れようと躍起になっている。

だが、これを下手に断り続ければ、今度は彼ら全員が郭嘉を排除しようと動き出すだろう。

郭嘉の影響力を考えれば、味方にならないのならば敵になる前にいっその事、と考える人間が現れてもおかしくはないのだ。

そして、今のまま時間が経てばそう考える人間は次第に増えていくだろう。

残された時間はあまりない、と考えておくべきだ。

 

また、郭嘉自身の夢を実現へと近づけるための手段として、それなりの権力を手にしなければならない。

今現在、最大の経済力と軍事力を持っているのが袁紹勢力である。

順当にことが運べば、配下の人間たちが夢見ているように袁紹は天下を手にすることになるだろう。

そうなれば、郭嘉の夢である天下万民の平和が実現するだろう。

 

だがしかし、天下には尚、才能溢れる競争者が多くいる。

声を大にして言うことはできないが、袁紹を下回っている群雄諸侯の方が少ないくらいだろう。

豪族達や名士達の様に油断して内部争いに明け暮れて良い状況ではない、というのが郭嘉の判断だ。

 

もちろん、袁紹を支える配下には優秀な人間が多い。

発想力という一点において誰よりも優れた天才である友若。

審配や許攸、張バクを始めとした元清流派閥。

名士達や豪族達。

そして、冀州の行政を支える無数の官吏達。

官軍との戦いで田豊や沮授を始めとした首脳部の人間を数多く失ったものの、これほどの人材を抱えている人物は袁紹を置いて他にいないだろう。

そして、強大な統治機構を支える一定以上の能力を有した人間の数を考えれば、高々『天才』程度では太刀打ち不可能だろう。

 

しかし、田豊というまとめ役を欠いたことによって生じた権力闘争は他の群雄諸侯にしてみれば大きな隙となる。

それに、組織というものは外敵によって滅ぼされることよりも内部から崩壊するほうが多い。

だから、郭嘉は袁紹配下の権力闘争を可能な限り早く終わらせなければならない、と思っている。

 

そのために、郭嘉は与えられた権限を最大限に利用して今後への備えを行っていた。

朝廷へ使者として赴いた審配に与えられた権限や彼女の性格から、郭嘉は近いうちに大事変が起こる可能性が大きいと見ている。

状況証拠からほぼ間違いなく冀州の内情に関して情報を得ている曹操が腹心の荀彧を送ってきたのも、その可能性を見越してのことだろう。

だから、郭嘉は大事変が起こった時に素早く行動する準備をしているのだ。

 

郭嘉の予想が正しければ、万全の備えを行った功績により、彼女を中心とした勢力の発言力は大きく向上するだろう。

そして、その後は適当な相手――十中八九元清流勢力となるだろうが――と協調して、袁紹配下の権力争いを制すれば良い。

とにかく、まずは無駄な権力争いを止める必用があるのだ。

 

同時に、名士達や豪族達と元清流派閥との仲介を行い、派閥間の緊張を緩和することも郭嘉は目指している。

味方同士の下らない争いで袁紹が天下を握るまでの時間を引き延ばす訳にはいかないからだ。

名声と幅広い人脈を持った田豊が死んだ今、冀州には元清流派閥と豪族・名士派閥の調停を行える人間がいない。

その代わりは絶対に必要だ。

 

幸いにして、今のところ郭嘉は元清流派閥とも、豪族派閥とも名士派閥とも比較的有効な関係を保っている。

名声や実績の絶対的な不足という問題はあるにせよ、今後もこれらの派閥と関係を悪化させないように立ち振舞続ければ、上手いこと調停を行う地位に座ることができるだろう。

現在、袁紹配下としての郭嘉は調停役となり得る貴重な人間であった。

だからこそ、今後も郭嘉は誰からも恨まれすぎることなく、功績を重ねていかなければならない。

それには巧みな政治的遊泳術が必要となるだろう。

 

郭嘉は気疲れを感じた。

欲しいと思ったことのない権力のために奔走する事は郭嘉の望むところではないのだ。

可能であれば、派閥力学の関係から付き合いたくもない人間に長い時間付き合うことなどしたくはない。

本音を言えば、権力闘争というある意味無駄な行為に労力を費やすことなく、自在に力を発揮したい郭嘉である。

だが、それが叶わぬ事を郭嘉は重々承知している。

 

統率力のある人間が上にいない限り、組織が大きくなればどうしても誰が権力を握るかという争いが生じるものだ。

朝廷の血みどろの争いを見れば、それが正しいことは容易に理解できる。

むしろ、田豊の死によって勢力図が大きく変化したにも関わらず、未だに流血の事態に至ってはいない事は賞賛して良いかもしれない。

 

もっとも、権力争いが無血で行われている理由は友愛の精神や紳士協定等が理由ではない。

そんなもので矛を収める程度の欲しか無いのであれば、そもそも諍いなど起こらないだろう。

権力を得なくても、投資によってちょっとした富を得るくらいなら難しいことではないのだ。

争いが比較的穏便に済んでいるのは、歯止めのかからない政情不安の結果、株や証券価値が暴落する事を元清流派閥や豪族派閥、名士派閥の主要勢力全員が嫌った結果である。

冀州の経済は各勢力の参加によって維持されており、互いを滅ぼすまでに争い続ければそれは確実に冀州経済を傷つけるのだ。

その資産の多くを株や証券の形で保有している冀州の有力者たちにしてみれば、経済を傾けることは何としてでも回避しなければいけないものなのだ。

それを怠れば自分自身も多大な損失を被るのだから。

つまり、身もふたもない事を言えば、争いが穏便に済んでいる理由は徳ではなく金なのである。

とは言え、争いが未だに血を見ていない事は如何なる理由であれ評価するべきだ、と郭嘉は思う。

 

そもそも、郭嘉や彼女の盟友である程昱は聖人君子を志向していない。

もちろん、彼女達は一般的な倫理観を持っているし、善行を積む人間を好ましいと思っている。

だが、彼女達は同時に必要悪も認めている。

郭嘉や程昱はどれほど同義に反する手段であっても、それが必要であるならば実行するべきだと考えているし、実際にそうした状況になった場合、その手を汚すことも厭わないだろう。

もちろん、不義によって失う名声や人望と言った負の側面も考慮した上での話だが。

 

そんな郭嘉にしてみれば、権力闘争を一定の範囲内に収めている冀州の在り方は認めるべきものである。

それがこの国の規範である儒学において卑しむべき行為、商売を基軸に成立しているものだとしても、である。

更に言えば、この経済を中心とした行政こそが荒廃した辺境を立て直すことにつながったのだ。

儒学者等にしてみれば今の冀州の在り方は噴飯物であるが、それが辺境に住む無数の民を救った事は紛れもない事実である。

 

ならば、それがどれだけ規範を無視したものであるとしても、道徳に反していようとも、冀州の在り方は間違っていない。

郭嘉はそう考える。

 

確かに郭嘉には冀州の在り方を批判する儒学者達の心情も理解できる。

儒教では商売や金儲けは卑しいものとされている。

金を儲けることに注力すれば思いやりの心を失う、というのがその理由である。

もちろん、商業行為を完全に否定することはないが、闇雲に利益を求めることは不名誉なことである。

それを真っ向から否定しかねない冀州の在り方は、儒教を辛抱する者達にとって受け入れ難いことだ。

 

郭嘉も心情的には冀州の在り方を好ましいとは思っていない。

儒教というものは郭嘉にとっても道徳観の基本である。

いや、この国に生きる全ての人間にとっての思想的根幹にあるものが儒教なのだ。

それに反して平然と生きることができる人間のほうが少数派である。

 

事実、冀州で莫大な富を築いた豪商達には、孔子など儒教に縁のある人物像を自らの故郷に寄贈したり、著名な儒学者に寄付金を送ったりと、儒教のために富の一部を割いている人間が多い。

侠客の為に衣食住を提供している者だっているし、食うものに困った貧民達に毎日の食事を提供する商人だっている。

儒学の教えに目をつぶって成功を収めた豪商達であるが、彼らの多くは心の何処かで後ろめたさを感じるのだろう。

彼らにとって儒教へと金銭を出すことはあるいは贖罪のようなものなのかもしれない。

 

しかし、捨て去られる既存の良識を重視するあまり、時の針を後ろに戻すべきではない。

冀州の在り方が道理に反しているのならば、道理の方が変わらなければいけない、と郭嘉は思うのだ。

 

「稟さん、お早うございます」

 

物思いに耽っていた郭嘉に対して背後から声がかけられた。

郭嘉が振り返ると、そこには1人の女性が立っていた。

鳳統士元。真名を雛里。

水鏡女学院出身の人間であり、あの水鏡、司馬徽からの強い推薦によって袁紹に仕えることになったという人物である。

あの司馬徽から推薦を受けるだけあって実際、極めて優秀な人間だ。

しかしながら、鳳統はその能力にもかかわらず雑務をこなす下級官吏の地位に留められていた。

鳳統が目立った派閥に属していない外部出身者である事と、見た目の幼さにより侮られた事がその理由である。

聞く所によると手柄の横取りや雑務の押し付け等、鳳統はかなり不当な扱いを受けていたらしい。

見た目が幼いという理由はあるにせよ、水鏡の推薦があってすら派閥から外れた者はこの程度の扱いを受ける。

 

この辺りに、袁紹勢力の人材発掘能力の限界があると言えるだろう。

逆に言えば、冀州では飛び抜けた人材が必要とされてこなかったという事なのだが。

友若が青写真を描き、田豊や沮授、元清流派閥の秀才達が築き上げた冀州の統治機構は一定の能力を持った人間を十分な数だけ揃えることにより、一先ずは無難に運用できるのだ。

そして、金が金を生む冀州の統治手法は元より持てるものであった袁紹に圧倒的な優位をもたらしたのだ。

 

もっとも、田豊の突然の死により袁紹配下の派閥勢力が大きく変化した現在、今までのやり方は通用しなくなっている。

袁紹配下の序列を決めなければ混乱は何時までも続くだろうが、元清流派閥と豪族派閥、名士派閥が手加減なくつぶし合えば、冀州の経済を傾けかねない。

各派閥の利害を調整し、落とし所を決めることのできる人間が必要なのだ。

 

郭嘉が出世を遂げた際、彼女は自らにこの役割を求めた。

そして、それを実現するためにも自らの部下とするために多くの下級官吏に声をかけた。

この時、郭嘉が最初に声をかけたのが鳳統その人である。

殆ど鳳統と話したことのなかった郭嘉であるが、伝え聞いた噂によってその才能を確信していたのだ。

そして、今、鳳統は郭嘉直属の配下となり、今後の冀州に関する幾つもの方策をまとめている。

郭嘉の目に狂いはなかった。

いや、見誤っていた、と言い直すべきだろう。

郭嘉の予想していた以上に鳳統は優秀であった。

雑用を押し付けられながらも、様々な地位にいる人間をよくよく観察していた鳳統は玉石混交の下級官吏の中から郭嘉が必要としている人材を十二分に発掘してみせたのだ。

この鳳統の働きがなければ、いくら有能な郭嘉とて元清流派閥や名士派閥、豪族派閥と友好的な関係を維持しながら、今後の準備を行うことは出来なかっただろう。

 

全くもって鳳統は得難い人間だ、と郭嘉は思う。

同時に、何故これほどの人物が下級官吏の地位に留まったのか、郭嘉には疑問で仕方がない。

郭嘉も決して優遇されていたとは言えないが、経理のまとめ役を任されるくらいまでは出世していた。

官軍との戦いにおいては兵糧や矢などの物資搬送計画の策定とその実行を担当していたのだ。

もし、下級役人として使い潰されるばかりだったならば、恐らく郭嘉は程昱と共に曹操の下へ行っていたことだろう。

金銭や地位に固執するつもりは無い郭嘉だが、唯々諾々と使い潰されるつもりはないのだ。

 

もちろん、鳳統には彼女の都合があるのだろうし、彼女の立場がある。

鳳統の年齢を考えれば、下積みとして一般官吏の仕事に従事することは良い経験となるかもしれない。

下級役人の地位にあるからこそ学べる人間関係の機微というものもあるだろう。

また、司馬徽の推薦を受けた鳳統が袁紹の下を去れば、袁紹との関係を強化しようとしている司馬徽の目論見は大きく後退する可能性がある。

司馬徽はここ数年、冀州との関係を深めようとしている。

多くの学生を抱える司馬徽は、凄まじい発展を可能とした冀州の政策を学ぶことが重要だと判断しているのだろう。

行政規模を拡大する冀州との関係を深めれば学生たちの大きな就職口となるという目論見もあるかもしれない。

そんな恩師の事を考えれば、迂闊に袁紹の下を去るという選択肢は選びにくい。

郭嘉は、いくらなんでも限度がある、と思うのだが。

 

「お早うございます、雛里」

 

そんな内心の考えを表情に示すこともなく、郭嘉は何時もの凛とした佇まいで鳳統に挨拶を返した。

そして、手に持った書類の内一枚を抜き出して鳳統に渡す。

 

「昨晩、幾人かと夕食を共にしましたが、その時に彼らがしていた要望をまとめたものです。銀行制度の運用に関わらせろ、というものが一番強かったですが――」

「それを認めるわけにはいかないのでしゅよね」

 

郭嘉の言葉を引き継いで鳳統が言う。

打てば響く反応に心地よさを感じながら、郭嘉は鳳統が噛んだことを無視して話を続ける。

 

「ええ、当然です。ただ、豪族達の不満を高めすぎると問題が起こりかねません。彼らの態度を軟化させる必要があるでしょう」

「ここにあるものの中で飲めるものは、やっぱり豪族の方々にもそれなりの地位を与えるものくらいでしょうか」

「そうですね。孟卓殿達からは不満の声が出るでしょうが、ある程度は認めていただかないといけないと。正南殿ならば絶対に頷かないでしょうから、今のうちに決めておかなくてはいけませんね」

 

郭嘉の言葉に鳳統は分かりました、と頷いた。

そして、言葉を続ける。

 

「では、韓馥殿への繋ぎはそちらでお願いします。私は名士さん達の方をあたりますので」

「ええ、分かりました。名士達の方はよろしくお願いします、雛里」

 

やはり鳳統は優秀だ、と郭嘉は再確認する。

一を聞いて十を知るという言葉の通り、これだけの会話で鳳統は郭嘉の目的を素早く理解したのだ。

つくづく、――。

鳳統と共に業務をこなすようになってから、郭嘉は度々複雑な心境になるのであった。

郭嘉の内心の動きに気がついた様子もなく、鳳統は頭を下げると束ねた書簡を手に持ち、自分の業務へと戻っていく。

その姿を見送りながら自分もいくつかの業務を片付けてしまおうと思った郭嘉は、遠くから聞こえてきたざわめきにふと視線を向けた。

 

視線の先では文官達が揃いも揃って筆を止めて、ある一点を凝視していた。

この忙しい中、一体何の問題が起きたのか。

大方、誰とは言わないが袁紹あたりが何かをやらかしたのだろう。

軽い脱力を覚えながらも、郭嘉は事態の把握を目指した。

 

そして、珍しいことに郭嘉の目は驚きに見開かれることになった。

視線の先には袁紹と程昱の姿があった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

酔いどれに殴られた後、痛む頭を抑えて政庁へと戻った友若は、貴賓室の1つ、事実上友若の居室となっている部屋に泊まることにした。

頭痛を堪えながら、自らの屋敷までの長い道のり歩く気にはなれなかったのである。

そもそも、友若は荀彧を追い払うために態々屋敷に帰る事にしたのであり、荀彧が離れる様子を見せなかった以上、それを断行する意味は無い。

荀彧のバケモノじみた頭脳なら間違いなく『ぶぶ漬け』の意味を察しているはずなのに、それを無視された事に友若は不満を募らせていたが、同時に、これ以上自分からは強く出られないことを理解していた。

怪我の治癒に専念するという名目で荀彧から離れられないかと淡い期待を抱いた友若だが、荀彧は当然のように友若に付いて来た。

適当な侍女を呼んで看護してもらうから、荀彧には他の部屋を用意する、と友若は言ったが、この妹はその言葉を完全に無視した。

それどころか、侍女にはどこの間諜や暗殺者が紛れ込んでいるか分からない、侍女は信用ならない、等と言い出す始末であった。

人の所の召使に随分な事を言ってくれるじゃないか。

友若は最初、そう考えた。

間諜を送り込むならはじめに朝廷か曹操、劉備、孫策(?)しかない、と思う友若。

だが、冷静に考えると、今現在、この国で最強・最大の勢力は友若の主、袁紹である。

何を間違ったのか、脳天気に自由気ままに冀州を歩きまわっているあの袁紹なのだ。

 

できるかどうかは別として、まともな頭を持った人間ならその動向をしっかりと把握しておきたいと思うだろし、中には一振りの剣で全てを終わらせようと企む人間もいるだろう。

つまり、冀州に間諜や要人の暗殺を企む工作員が潜入しているという荀彧の言葉は正しい可能性が高いのだ。

幸いにも、まだ誰かが暗殺される事態は起きてはいないが、油断は禁物だ。

万が一が生じてからでは悔やんでも遅いのだから。

張バクあたりは冀州の情報を流している密偵の存在を確信しているのか、あぶり出しを行おうと色々と動いている。

自分もそれに協力するべきだろう、と友若は考えた。

 

そんな訳で、不覚にも荀彧の言葉に内心で同意してしまった友若。

屁理屈を並べ立てた所で、荀彧を説得できる気が微塵もしなかった。

そのため、友若は仕方なく言葉を飲んだ。

四半刻も過ぎないうちにその選択を死ぬほど後悔することになるのだが。

 

友若が普段使っている貴賓室は数あるそれの中で比較的小さい部屋である。

区画の関係上、賓客用の他の部屋からは離れた日当たりの良い部屋で、窓を開ければ優雅に整備された庭園を一望することができる中々に良い場所だ。

広さから、この賓客室には一人用の調度品が整えられている。

だが、この部屋は賓客を迎え入れることが殆ど無かった。

 

通常、賓客として袁紹の元を訪れる人間は身の回りの世話をする召使や馬廻り等を引き連れている。

そうした周囲の人間たちは常に賓客の側に置く必要がある。

だから、賓客には大人数が入れるような大部屋か、いくつかの部屋を持った一画が割り当てられるのが普通である。

1人用の部屋というものは通常使われないのだ。

 

だからこそ、友若は日当たりと見晴らしの良い貴賓室をあたかも自分の部屋であるかのように使えたのだ。

何かと友若に文句をつけてくる豪族達や名士達もこの部屋に関しては特に問題視しなかった。

他にいくらでも文句をつけるべきものがあったことが最大の理由であるのだが。

 

話を戻すと、友若が泊まることにした一室は一人部屋なのである。

当然ながら寝台は1つしか無い。

友若がその事に気が付いたのは、頭の瘤を抑えながら部屋に入り、寝台の上に横になろうとした時であった。

 

「あ、れ?」

 

寝台は1つだけだ。

つまり、この部屋で寝ることができるのは1人だけなのだ。

その事に気が付いた時、友若の心は喜びで満たされた。

色々とあったが、これで荀彧と離れられる、と友若は考えた。

安息の睡眠時間を荀彧の側で過ごさなくてはいけないなど、友若にとっては悪夢でしかないのだ。

 

喜色満面で友若は荀彧へと振り返った。

そんな友若に荀彧が言う。

 

「まだ痛むんでしょう。わ、私が看てあげるわっ」

 

荀彧はそう言って友若の手を握った。

友若が何も言えずに口をパクパクとさせている間に、荀彧は話し続けた。

 

「取り敢えず、横になってちょうだい。安静にしないといけないわ。瘤を冷やすために濡れた布を用意するわね。あと、何か欲しいものはあるかしら。おかゆとかなら私だってちゃんと作れるわ。それに飲み物も――」

「え、えーっと、……文若、さん?」

「――っ!」

 

友若は恐る恐るという様子で荀彧の言葉を遮った。

荀彧は目を見開いて息を呑んだ。

その視線はあちらこちらをさまよっている。

 

なにかまずい事を言ってしまったのか。

荀彧の過敏な反応に友若は焦る。

しかし、どこが失言だったのか、友若には分からなかった。

暫く考えて。呼び名が馴れ馴れしすぎたのだ、と友若は判断した。

姓が同じだとお互いに名前を呼びにくいという考えで友若は荀彧の字を口にしたが、それは軽率に過ぎると言わざるを得ないだろう。

確かに、血縁上荀彧は友若の妹であるのだが、絶縁状態にあるにも関わらずその字を呼ぶのは望ましくない。

馴れ馴れしくしてはいけない、と友若は思った。

そして、先ほどの過ちを打ち消そうと友若は口を開く。

 

「申し訳ありませんでした、荀特使殿」

「――っ!!!」

 

これで何とか失言をなかった事にできないか。

そう思っての友若の言葉に荀彧は顔を真っ青に染めた。

その目は極限まで見開かれ、友若を凝視している。

 

友若は恐怖を覚えた。

明らかに荀彧は普通ではない。

つまり、友若の行動は裏目に出た訳である。

 

相手が酔っぱらい程度ならまだよかった。

それならば、失言をしても殴られる位で済ませることができる。

 

しかし、相手はあのバケモノ、荀彧である。

そんな相手を激怒させれば楽に死ねるかすらも分からない。

何がいけなかったのか。

どうすればよかったのか。

死を身近に感じるほどの恐怖が友若を襲った。

友若の脳裏には走馬灯の様に嘗ての記憶が駆け巡る。

 

生まれた日のこと。

幼い日々のこと。

家を出て洛陽を目指した日のこと。

一文無しになって洛陽で餓死しかけた日のこと。

呉服屋として成功を収めた日のこと。

袁紹の下へ行くことを決めた日のこと。

元清流の人間たちとつるむようになった日のこと。

官吏として働くことになった日のこと。

袁紹と田豊に株式制度の草案を説明した日のこと。

官軍との戦いで死んでいった田豊達のこと。

袁紹に誘われて、葡萄酒を飲み明かしたこと。

――あの時、彼女は泣いていた

 

まだだ。

友若ははっきりとそう思った。

 

まだ、自分は死ぬ訳にはいかない。

心残りが多すぎる。

やり残したことがまだ沢山あるのだ。

袁紹と友若を逃がすために死んでいった田豊達のように命を切り捨てる訳にはいかない。

地を這いつくばり、泥を啜ってでも生き残らなければいけない、と友若は思った。

 

だから、友若は荀彧に立ち向かう必要がある。

友若は荀彧の顔を正面から見返した。

荀彧は無表情で友若を見つめ返している。

恐怖に身がすくむ友若。

友若の感情はすぐにでも逃げろと彼に訴えかける。

だが、友若は断固として荀彧から顔を逸らさなかった。

そして、荀彧の怒りを鎮めるための言葉を友若は必死に考えたのだ。

 

その時。

 

荀彧の頬を雫が伝った。

その雫は荀彧の端整な顎に達して、水滴となって地面に落ちる。

 

友若は唖然とした。

荀彧の瞳からは大粒の涙が次々と溢れる。

荀彧は泣いていた。

その端整な顔を歪めて、みっともなく、まるで子供のように。

そうした荀彧の様子の全てが友若には予想外の出来事だった。

自己暗示を続けてきた結果として友若は荀彧のことをバケモノだと心の底から思い込んでいる。

それ故、この人の皮を被った何かが人間らしい悲しみの感情を持っている様子をみせるなどなど友若には信じられなかったのだ。

 

「なんでっ!」

 

荀彧は声を震わせて叫んだ。

その様子を友若は何も言えずに見ていた。

 

「なんでっ! むかしっ、みたいにっ……!」

 

荀彧の声は嗚咽が混じっていた。

その両目からは涙は止めどなく流れている。

 

「なまえをっ、よんでっ、くれないの、よ……!」

「……」

 

荀彧はそう叫ぶと、泣きじゃくり始めた。

友若は呆然としていた。

まるで人間的な感情を持っているかのように、あの荀彧が泣いている。

友若には何が起きているのか理解できなかった。

その目は確かに荀彧を映していたが、友若の頭脳はその現状を受け止められなかったのだ。

 

荀彧は嗚咽を漏らしながら涙を流し続けた。

なんで、なんでよ、と振るえる声で泣き叫びながら。

 

その様子に友若は最初居心地の悪さを覚えて、次に腹の底からふつふつと怒りが湧いてきた。

何故、バケモノを相手に友若が罪悪感を覚えなければならないのか。

バケモノを相手に恐怖を抱くのは仕方のない事だ。

理解不能な恐怖を指し示す言葉がバケモノなのだから。

もし、奇跡が起きてバケモノを打ち払う事ができれば、友若は心の底から安堵と安寧を得ることができるだろう。

そうでなくてはいけない。

 

バケモノを相手に自らに罪の意識を覚えるなど、あり得べからざる話ではないか。

何故、自らが良心の呵責を感じなければいけないのか。

それは間違っている。

だとしたら、この状況はこのバケモノが計算ずくで作り出したものに過ぎない。

友若はそう思い込んだ。

 

「私は荀特使殿とは何の関係も無いはずですが」

 

友若は怒りに任せて言い放った。

 

「ち、ちがう……」

 

荀彧は震えながら涙にまみれた顔で友若を見返し、消え入りそうな声を出した。

その様子は友若に更なる怒りを覚えさせた。

何時までこのバケモノは人間の振りを続けるのか。

そして、何故、自分はバケモノの演技に罪の意識を感じてなどいるのか。

 

「ただの赤の他人だっ!」

「――っ!!」

 

怒りに任せた友若の言葉に荀彧は目を見開くと、逃げ出すように踵を返して部屋から駆け去っていった。

部屋に1人残された友若は暫くの間、木偶の坊のように身じろぎもせずに立ちすくんだ。

友若は混乱の局地にあった。

 

友若の言葉に対する荀彧の反応。

その一つ一つを冷静に思い返して、その意味を考えると、友若の脳裏には1つの仮説が浮かんだ。

もしかすると、荀彧はずっと友若のことを慕っているのではないか、というそれが。

実際、幼かった頃、荀彧は友若によくなついていたのだ。

今の冷えきった関係を改善したいと荀彧が思ったとしてもそう可笑しくはないのではなかろうか。

 

あり得ない、と友若は脳裏に浮かんだ考えを即座に打ち払った。

あのバケモノに人間を慕う心など備わっているわけがない。

だから、荀彧の今までの行動だって、計算と謀略に裏打ちされた行動に決まっているのだ。

友若はそう自分に言い聞かせた。

 

そうに違いない。

だが、そうであるならば、何故あのバケモノはそうした行動をとったのか。

決まっている。

友若を動揺させて冀州を混乱に陥れるためだ。

袁紹配下の中で最も大きな権力を持つのが友若である。

その友若を動揺させることは袁紹勢力全体に対する揺さぶりになる。

つまり、荀彧の行動は袁紹への攻撃を目的としている。

それが真実だ、と友若は何度も何度も自分に言い聞かせた。

 

「畜生め!」

 

友若は苛立たしげに叫んだ。

どれだけ自分に言い聞かせても、罪悪感を拭うことが友若には出来なかったのだ。

 

心の何処かで友若は荀彧の涙に嘘偽りがないのではないか、と判断していた。

よくよく思い出せば、幼い日の荀彧は賢くはあったにせよ間違いなく純真な子供だった。

そして、年を取り、成長したとしても荀彧には確かに昔の面影を思い起こさせる言動があった。

荀彧がバケモノだという話は友若のとんでもない思い違いだったのかもしれない。

 

だが、友若は自らの誤り、とんでもない勘違いを認める事ができなかった。

十年以上、荀彧のことを理解不能のバケモノだと信じていた友若。

もし、荀彧がそうしたバケモノで無いのならば、それは友若の判断能力のなさの証左である。

友若の自尊心はそれを認めたくないと叫んだ。

同時に、荀彧に対する仕打ちは心ある人間達から非難されてしかるべき行為となるだろう。

気が付かなかった、今までの荀彧の行動に問題があった等と言い訳をした所で、友若の行為が酷く荀彧を傷つけたことは彼女の涙が余りにもはっきりと語っていた。

友若の羞恥心はその罪の意識に耐えかねて悲鳴をあげていた。

 

だからこそ、友若は荀彧がバケモノで、さっきの行為は演技に過ぎず、自分自身には何の落ち度もないと思い込んだのだ。

荀彧を追いかけるべきではないのか。

心の何処かでその様に思いながら、友若は一歩たりとも動かなかった。

後悔を覚えながら。

同時に、そうした感情を抱く自分自身に友若は苛立ち、憤り、罵声を飛ばした。

天を呪い、この世を呪い、荀彧を呪った。

 

そして、語彙力の限りを尽くした友若は寝台に横たわり、目を瞑った。

友若は眠りに落ちようとした。

今はこれ以上、何も考えたくはなかった。

しかし、いくら友若が眠りにつこうとしても、彼の脳裏には涙を流していた荀彧の様子が浮かんで消えなかった。

 

「くそっ!」

 

腹立たしげに友若は呟いた。

脳裏に浮かぶ荀彧に消えてくれと願いながら。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「郭奉孝さん、ですわね?」

「はい」

 

郭嘉の前まで歩いてきた袁紹は確認するように郭嘉に問を発した。

 

「時間、大丈夫ですわね?」

 

郭嘉が静かに肯定すると袁紹は有無を言わさぬ様子で言葉を続けた。

 

「あの、どういうことでしょうか?」

 

流石に何も考えずに肯定する気にもなれず、郭嘉は袁紹に尋ね返した。

今現在、元青龍派閥と豪族・名士派閥の利害調整を行うために郭嘉はあちこちを奔走しているのだ。

袁紹の突飛な思いつきに付き合っていられるほど暇をしてはいない。

対する袁紹は感情も顕に叫んだ。

 

「もちろん、決まっていますわ! 郭奉孝さんも同じ考えでしょう!?」

「あの、何を仰っているのでしょうか?」

 

郭嘉は訳が分からないと袁紹に聞き返した。

同時に、袁紹の隣に立つ程昱に視線を送る。

何がどうなって程昱が袁紹の隣に立っているのか。

 

郭嘉は袁紹の行動理由が予想できないわけではない。

ただ、それが思い違いであって欲しいと郭嘉は望んだ。

 

冀州の派閥対立は現在微妙な状況にある。

舵取りを少しでも誤れば、対立は激化し、身内争いによって袁紹勢力は大きく傾きかねない。

そうなれば、野心あふれる群雄諸侯の対立は先鋭化し、戦火がこの国を席巻する事になるだろう。

そうした可能性を回避するための道筋がようやく見え始めた現在。

ここで郭嘉が行動できなくなれば、これまでの苦労が水泡に帰しかねないのだ

鳳統ならば郭嘉の代わりを務めるだけの才能を持っている。

だが、見た目と低い地位という欠点を持つ彼女だけではどうしても豪族達や名士達をまとめる子は難しいだろう。

 

はたして。

程昱が口を開いた。

 

「実は、袁本初様が桂花ちゃんと荀大老師殿の仲を取り戻してくれるそうなのですよ」

「……そう、ですか」

 

程昱は内心で崩れ落ちた。

正直な所、郭嘉には2人の仲を取り持つことができるとは思えない。

荀彧の方は問題ないが、友若ははじめから妹を完全に拒絶している。

まともに話し合いをさせるだけでも一苦労だろうし、仲睦まじくなど想像することも難しい。

そして、散々苦労して仲直りを実現した所で、得られるものがあるのか。

まあ、昨日の会談での様子を見る限り、荀彧という1人の女性は救われるのかもしれない。

袁紹に勢力にとっての利益となるとは考えにくいが。

少なくとも、袁紹配下の派閥関係を融和させる事と比べれば些事にすぎない。

 

しかし、立場上、郭嘉は袁紹の命令に逆らうわけにはいかない。

そんな事をすれば、郭嘉は忽ち今の地位を失うだろう。

そうなってしまえば本末転倒だ。

 

「何故、私に? 荀大老師殿と親しい人物のほうが適任かと思いますが」

 

それでも、諦めることなく郭嘉は袁紹に尋ねた。

顔良や文醜、張バク等、袁紹の寵愛を受けている配下は他に多くいる。

 

「もちろん、猪々子さんと斗詩さんは快く協力してくれましたわ。ただ、昨日の2人の様子を見ていた方の意見も聞いておいておかなければいけないでしょう。最初は孟卓さんを誘おうとしたのですが、忙しいみたいですので奉孝さんにお願いに来たわけですわ」

「……私も決して時間があるわけではないのですが」

「他の方に任せれば良いでしょう? 孟卓さんはどうしても、自分でやらなければいけない事があると言っていましたが、奉孝さんは大丈夫でしょう?」

 

不満気な感情を覗かせる袁紹の物言いに郭嘉は言葉を飲み込んだ。

忙しいから無理、と言えば袁紹を苛立たせることは間違いない。

袁紹との信頼関係を築いている張バクならそれでも問題は無いだろうが、郭嘉は違う。

 

「稟ちゃんの協力があれば百人力なのですよ~」

 

程昱がのんびりと言った。

今の口ぶりだと、態々袁紹に自分を薦めたのは程昱なのかもしれない、と郭嘉は思った。

この友人は良い主を見出したらしい、と郭嘉は判断した。

程昱はこちらの事情をかなりの部分まで理解しているはずだ。

ある程度の間諜を送り込んでいれば、袁紹配下間での権力闘争の情報は間違いなく耳に入る。

郭嘉の邪魔して闘争終結を回避することは、曹操に利益をもたらすだろう。

主の利益のために迷いなく行動する程昱。

郭嘉はこの友人が曹操に全てを捧げるつもりがあることを理解したのだ。

 

「分かりました。微力を尽くします」

「よろしいですわ! それでは荀家兄妹の仲直り大作戦を始めますわよ!」

 

郭嘉の返答に満足したのか、袁紹は上機嫌で叫んだ。

作戦の成功を確信しているかの様であった。

 




荀シンがあれです。
あれ。
まったく、こんな酷い人間を主人公に使用などと思った人間の顔が見てみたいですねっ!

今後について:
次話でけーりんは終わるはず。
……一話で終わるはずだった話が長くなったこと長くなったこと。
大勢の人間が亡くなった前編と異なり、後編はほのぼののんびりとした感じになります。

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