荀シン(何故か変換できない)が恋姫的世界で奮闘するようです 作:なんやかんや
宦官の暴走と皇帝の崩御。
見識を持つ者達にとって、この事変は漢帝国の終焉を意味していた。
少なくとも、袁紹討伐の失敗により崖っぷちに立たされていた洛陽の権威は、更なる一歩を踏み出す事になる。
宦官は、新たな皇帝を祭り上げるだろうが、誰もその権威に服さないことは明らかであった。
欲に溺れ、権力を私物化する邪悪な十常侍。
事変の情報が伝わると同時に宦官に対する反感はかつて無い高まりを見せた。
この事態に、濁流派の豪族や将軍達は、素早く立場を変えて、十常侍達を痛烈に非難した。
誰もが認めざるをえない宦官討伐の大義名分がある。
それはつまり、宦官達は誰かに討伐されるということだ。
そして、致命的な政治的失敗をした宦官、十常侍達と共に滅びを甘受する者は一人として居なかったのである。
野心を抱く者達は、十常侍達の致命的な失敗を耳にすると大いに奮起した。
洛陽に居る十常侍を自らの手で打ち取ることは、天下の逆賊を打ちとったという名声を得るとともに、漢帝国の中枢を抑えることにつながるからだ。
得られる権力は莫大なものとなるだろう。
誰もがそう考えた。
しかし、皇帝崩御の情報が広まった時、袁紹軍は既に洛陽に迫っていた。
許攸が事変発生と同時に、馬を数頭乗りつぶしてまで、早期に冀州へ情報を伝えた事。
そして、袁紹の進軍を抑えるために配置されたはずの曹操軍が、あっさりと袁紹に呼応した事により、袁紹軍は圧倒的な時間的アドバンテージを持って洛陽をその目にしていたのである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「な、なんじゃとー!? 麗羽のやつめ! 妾を差し置いてっ! 七乃! 何とかするのじゃ!」
絶好の機会とぬか喜びをしていた諸侯は、数日の遅れで入ってきた、袁紹が洛陽を目前にしている情報に、歯ぎしりをして悔しがった。
特に憤り、悔しがった有力者の一人は袁術その人である。
「んー……それは難しいですよぅ、お嬢様ぁ」
「何を言っておる! このままでは妾の代わりに、麗羽のやつが皇帝になってしまうではないか!? い、いやなのじゃー!! 麗羽のやつが皇帝なんかになったら、妾はいじめられてしまうのじゃー! そ、そうじゃ! 孫堅の娘の孫策とかいうやつ。あやつは強いのであろう! あやつに任せればーー」
「その孫策さんの軍はこの前の戦いで壊滅しましたし、無理ですよぅ。と言うか、動揺した挙句、一発で反逆罪になりかねない本音を叫ぶなんて、流石お嬢様です-。よっ、暗愚ー」
張勲は泣き叫ぶ愛すべき主君をあやし、宥める。
(……事変と呼応した袁紹軍の動きを見る限り、間違いなく彼らの謀略でしょうし。事前準備が万端な相手と競争しても負けるだけです。美羽様にそんな負け戦をさせるわけには行きませんし、ここはおやつと食後の蜂蜜水を増やして誤魔化すしか無いですね。また、お腹を壊されないように注意しないといけませんけど。)
「ほら、美羽様の大好きな蜂蜜菓子が届いて居ますよぅ」
「! お、美味しそうなのじゃー…… !! な、七乃! 妾を誤魔化そうとしてもそうはいかぬぞ!」
「あらー。じゃあ美羽様はこのお菓子はいらないのですね。分かりました。大変美味しいお菓子らしいですけれど、捨ててしまうことにしますぅ」
張勲がそう言うと、袁術は愕然とした表情を浮かべて張勲を見据えた。
「冗談ですよー、美羽様! さあ、おやつの時間にしましょうねー。美味しい焼き菓子ですよぅ」
「っ! な、七乃は意地悪なのじゃ! 全く、罰としてその焼き菓子を二つ寄越すのじゃ」
「もう、今食べ過ぎると、ご夕食がお腹に入らなくなってしまいますよぅ」
あっさりと憤りを忘れて焼き菓子に夢中になる主君を張勲は慈愛に満ちた目で見つめる。
ただ、この時、珍しくも張勲の頭脳は袁術以外の物事に多くのリソースを割いていた。
(今回の企み、袁本初様の性格を鑑みるに、発案では無いでしょう。配下の誰かが企んだと見て間違いないでしょうね。本初様の側近の性格を考えれば、審配あたりの計略でしょうかしら。実際に洛陽に赴いていたようですし。あの忌々しい荀シンなら、こんな分かりやすい謀略を企んだりしないでしょうしね。全く、あの胡散臭い男も、孫堅や審配の様にもう少し分かりやすければ、やりやすいんですけれど。この前だって、美羽様がお怪我をなさるかも知れなかったというのに! 誰よりも可愛くて愛らしくて万の財宝にも到底吊り合わない美羽様の事を軽視するなんて!! 殺すのは孫堅だけにするように注意しておきなさいよ全く!!)
「七乃?」
「あ、申し訳ありません。ちょっと考え事をしておりまして」
張勲は袁術の問いかけにそう答えると、どうでもいい考えを振り払って意識を愛しい主君へ集中させた。
ともかく、袁術勢力は、大半の諸侯達と同様に、宦官の大逆という一大事変に対して動くことなく時を過ごすことになった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
皇帝崩御の情報が入った翌日には、袁紹軍は行軍を開始した。
これは、郭嘉を中心とした幽州の官吏達によって、進軍にあたって必要な軍の編成や物資の手配などが全て完了していたために可能となったのである。
そして、常備軍として、日々過酷な訓練をくぐり抜けてきた兵士達や、従軍経験を持つ志願兵達の行軍速度は洛陽を守る軍人たちの常識を超えるものだった。
最前線を守る曹操軍があっさりと袁紹軍と同調したこともあり、洛陽へと続く関所はほぼ不意打ちに近い形で攻撃を受けることになった。
そして、圧倒的な数の弩兵により噴きつける矢の雨により、洛陽までの各関所は瞬く間に陥落したのである。
袁紹軍と曹操軍が洛陽の都をその目にしたのは、日没の一刻ほど前であった。
宦官の居座る都を前に開かれた会合で、袁紹は禁中への即時進軍を強く主張した。
しかし、曹操や友若達の強い反対と説得にあう。
言い争いはあったものの、最終的には袁紹も翌日、日が昇ってから行動を開始することに同意した。
視界の悪い夜に攻め入れば、同士討ちの危険があることや、禁中で火災等が発生しかねない等という意見には、さしもの袁紹といえ、口を噤まざるを得なかったのである。
怨敵を目の前に一晩と言えど、待たなければいけないという事実に、不機嫌になった袁紹は早々と寝室へ足を運んだ。
それを見送った面々、友若を筆頭とした袁紹軍幕僚達と曹操を筆頭とした曹操軍幕僚達は翌日の進軍に向けての段取りについて議論を始めた。
「まず、洛陽から出ている幾つかの道に哨戒を送るべきね。見張っておくべき場所は、こことここ、それとここね。予め、別働隊を動かしているとは言え、宦官の突発的な行動に備えておいて損は無いでしょう。この時間から移動するとなると足の早い馬しかないわ。もし、異論がないのなら、私の軍から兵を出そうと思うのだけれど」
「それには及ばないわ。曹孟徳殿の兵に予備兵力は少ないじゃない。我々の兵には数の余裕もあるし、そちらには万が一、不測の事態が起きた場合に備えていてもらえないかしら」
簡易的な机の上に広げられた地図を指さしながら哨戒を申し出る曹操に、許攸はニッコリと笑みを浮かべながら断りの言葉を発した。
洛陽で起きた事変から辛くも逃れ、幽州にいち早く情報を伝えた許攸の曹操に対する言葉には、どこか刺が含まれている。
隠しきれていない許攸の曹操に対する確執に曹操側の配下達の何人かは顔をしかめた。
曹操は口元に攻撃的な笑みを浮かべる。
「あら、そちらには騎兵は少なかったと思うけど」
「我々にとって彼らはどの道重要な戦力ではないし、出したところで問題ないわ。あなたとは違ってね」
「……いや、子遠。ここは曹孟徳殿に任せれば良いだろう。先の戦いでも曹孟徳殿の兵が優れていることは十分証明されているのだし」
曹操側と許攸側の間の空気が険悪になりかけた場の空気を断ち切ったのは友若の言葉であった。
「友若!? 貴方、何を言っているの!?」
「もし、宦官が皇太子殿下を連れ去り、有力な諸侯の下に逃げ込めば、混乱がこの国全土に広まりかねません。しかし、宦官が軽挙に出たとしても曹孟徳殿なら間違いなく抑えられるでしょう。大変有り難い申し出です。是非ともお任せしたい」
唖然とした許攸は憤りの表情を浮かべて友若に詰め寄る。
しかし、友若はそれを完全に無視して、曹操に向かって軽く頭を下げた。
曹操の配下達が、そして袁紹の配下達が大なり小なり驚きを示す中、曹操は笑みを消して鋭く友若を見据える。
その眼力に友若は僅かに息を止め、ゆっくりと吐き出す。
曹操は返事をするまでに短くない沈黙を挟んだ。
「……荀大老師ともあろう方にそこまで認めて頂けるとは光栄ですわ。もし宦官共が軽挙に出ることがあったとしても、この曹孟徳の名に賭けて、完全にその企みを防いでみせましょう。……春蘭、秋蘭、凪! それぞれ2500騎を引き連れて先ほど示した場所に向かいなさい。蟻の一匹も洛陽から出してはダメよ」
「よろしいのですか、華琳様? それでは、我が軍の半数以上を出してしまうことになりますが」
夏侯淳達に出撃を命じる曹操に程昱が問を発した。
哨戒のために動かした分の兵は洛陽へ入るにあたり使うことができない。
既に大規模な戦闘の恐れはないが、洛陽へ立入る兵士達の大半が袁紹軍である中、曹操の率いる兵が千にも届かない数では、折角の名を高める機会を損なうことになる。
一方で、哨戒が運良く皇太子の身柄を確保することに成功すれば、曹操の功績は袁紹を凌ぐものにもなるだろうが、それは確実ではない。
宦官達が皇太子を連れて逃亡を図るかが不透明であるし(とは言え、宦官達の性格を知る荀彧や程昱はその可能性が高いと見ているが)、どこへ逃げるかも分からないのだ。
そもそも、逃亡先として可能性が高そうな方面に対しては事前に別部隊を仕向けている。
この場で曹操が示した場所は、全体を見た時に、決して可能性の高い場所ではない。
今回の事変で袁紹の権勢が比類ないものになることが見込まれる以上、曹操には勢力拡大を躊躇う余裕など無い。
だからこそ、曹操も当初は哨戒に割く兵力は一定数に抑えることを予定していた。
貴重な掛け金全てを一攫千金に注ぎ込むべきではないからだ。
「ええ。大老師殿に頭まで下げられた以上、微力を尽くさない訳にはいかないでしょう?」
しかし、曹操は迷うことなく程昱に答えた。
正面に座る友若は、口元に苦笑いを浮かべている。
「申し訳ありません。無理強いしたような形になってしまいまして」
「あら、邪悪な宦官を打ち倒すという共通の目的を持っている同志ですもの。大老師殿が気にすることなど些かも無いわ」
「いえ、この埋め合わせは何時か必ず…… それはともかく、これで明日に向けて話し合っておくべき事柄は全て解消したと思うのですが、何か他に議題のある方はいらっしゃいますでしょうか?」
曹操との会話を打ち切った友若は周囲を見回した。
そして、これ以上の発言者がでなさそうな事を見て取ると、解散を提案する。
友若の言葉に反論するものは一人もおらず、話し合いはお開きとなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「よろしかったのですか」
友若達袁紹の配下と別れ、自らの天幕に入った曹操に程昱は尋ねた。
曹操は側に控えていた于禁に合図をし、人払いの確認をさせるとゆっくりと口を開いた。
「自分から言い出した話をここまで大げさにされた以上、仕方ないわ。そもそも、ここに連れてきた手勢は1万を割っている。中途半端な軍勢を引き連れて麗羽の大軍と比べられてもそこまでの旨味はないわね」
「ですが、――」
「桂花、風。貴方達はまともな手段で今の麗羽を打ち崩せると思うのかしら? そもそも、私に麗羽に取って代わるなどという大望を抱く資格があるのかしら」
口元をかすかに歪めて曹操は言った。
「それはっ――!!」
「……私は……私達、華琳様に付き従う者達は華琳様こそが最優の王の器であると確信しています。ですから、華琳様がそのようなことをおっしゃらないで下さい」
荀彧は声を詰まらせ、程昱はゆっくりと言葉を紡ぐ。
曹操は視界を遮るかのように顔に手を当てた。
「……悪かったわね。今の言葉は私の口にして良いものではなかった」
ゆっくりと顔から手を離した時、曹操の顔に浮かんでいたのは何時も通りの覇気に満ち溢れた表情だった。
「それでも、最初の言葉は撤回しないわ。今の麗羽と戦おうと思ったら文字通り博打を打たないわけにはいかないわ。例え、分が悪くても、それで敗れるのなら天はこの私を選ばなかったということ……けれどもし勝ったのなら……」
曹操は言葉を切って、空中を見上げた。
その表情はどこか遠くを見据えるかのようであった。
暫くの沈黙を挟んで、曹操は荀彧たちへ顔を向けた。
「荀友若、ここ最近の彼の言動は何を意図してのものかしら。今までも、彼は何かと私達の主張を受け入れる方向で動いていたけれど、それは双方に利益を齎すものだった。けれど、先ほどのそれは違う」
曹操の言葉に程昱は頷いた。
「華琳様に皇太子殿下保護の功績を独り占めされる可能性がある以上、普通は袁紹軍からも哨戒に兵を出すはずですからね。大軍を率いる袁紹軍ならば、哨戒程度の兵を出したところで問題はありませんし。騎兵の数が足りないわけでもない。宦官達が逃げないと確信しているのでしょうか」
「それはないわ」
程昱の言葉を否定したのは荀彧である。
「そもそも、曹操様が万が一のために別働隊を分けるべきだと言った時にけい……兄は賛成している。だから、兄は宦官達が逃げ出す公算は十分に高いと思っているはずよ」
「しかし、そうなると益々疑問は深まりますよ~。逃げ出すと思っているなら、絶対に兵を出すべきですから。皇族の身柄を確保する事は権力を握るための最善の近道ではないですか」
「……だからこそ、なのだと思うわ。兄の狙いはきっとそれなのよ」
程昱の疑問に荀彧はゆっくりと答えた。
暈した荀彧の言い方に、一瞬思考した程昱は、眠そうな目を見開いて驚きを示した。
「なるほど……そういうことですか。しかし、それはまだ、時期尚早なのでは?」
「普通に考えればね。でも、先の戦いに加え、今回の弑逆で皇帝、というよりも洛陽の権威は失墜している。もちろん、劉家の血統に神輿としての価値はあるけど、それが皇太子である必要はないわ」
荀彧はそう言うと思考に耽るような様子でゆっくりと目を閉じた。
自らの兄の目指す所。
それを見極めんとするかのように。
「しかし、劉伯安殿に皇帝になる意志は無いと風は思うのですよ。袁州牧が用意する皇族と言ったらあの方をおいて他には居ないでしょうし」
程昱は少し戸惑った様子で荀彧の言葉に答える。
正当性で言えば皇太子が帝位に就くのが最も無難だ。
皇太子は今のところ特定の地域との結びつきは無いのだから。
一方で、北部に拠点を持ち騎馬民族との折衝で名を挙げた劉虞が皇帝、加えてその後見人が袁紹となれば、南部の北部に対する根強い反感に油を注ぐことになる。
それは、人口流出と北部の著しい発展が齎した弊害であった。
下手をすれば国が割れる危険性すらある。
だから、次期皇帝には皇太子を上げるべきだと言うのが曹操配下の軍師たちが出した答えだ。
特段天才という話も聞こえてこない幼い皇太子なら背後で糸を引いて操ることなど造作も無い。
だか、先ほどの様子を見るに袁紹、というよりも友若は皇太子の身柄に興味を示していないようにすら見受けられる。
「……つまり、天子となるのは劉氏である必要すらないと彼は考えている、ということかしら、桂花?」
鋭い目つきで曹操は荀彧に問を発した。
自らの主の言葉に、荀彧は目を開きまっすぐと見返すと微かに頷いてみせた。
曹操は机の上に置かれた両手を握りしめた。
「そんな事をすれば、南部の諸侯の反感を強く煽ることになる上に、反乱の正当性を与えてしまう。下手をすれば、いえ、かなりの確率で国が割れる……とは言え、幽州に居を構える袁紹にとってみれば、そんなことは損害にもならないのでしょうね。いえ、むしろ北部をまとめあげる好機となるわね」
「北部を掌握するために国を割る、ですか」
「……兄もそこまで確信があるわけではないと思う。何事も無く皇太子を保護できる可能性もあるだろうし。ただ、もしそうなった場合にも対応できるように動き出していることは間違いないと思うわ」
荀彧は程昱に向かってそう言うと、曹操へ顔を向けた。
「我々が皇太子を確保して擁立すれば、袁紹側は我々に戦いを仕掛けてくる可能性が高いと思います。袁紹の人脈を持ってすれば、宦官が事変を起こす直前に華琳様が洛陽入りしていたという事実を使って上手く扇動すれば、華琳様を宦官の弑逆の黒幕として仕立てあげることを不可能ではないでしょう。本当の扇動者は最早この世には居ませんから。先の戦いを見る限り、兄は絶好の好機を逃す事は無いはずです」
「……もしくは、何もせずに冀州に引きこもるというのも荀のお兄さんにとって悪くないと思うのです。華琳様の性格なら、調略で部下を失った事になっている袁州牧に、自分から戦いを仕掛けることは無いとお兄さんは考えているのかと」
「審配正南……桂花、貴方の評では忠篤けれど軽率という話だったけれど、それは正しかったわね。彼女の忠誠心は本物だったわ……彼女は完璧に証拠を隠滅してみせた。勿論、騒ぎ立てることは出来るでしょうけれど、この場合は意味が無いわね。非業の死という事実を前にはどうしても誹謗中傷と捉えられてしまうから」
曹操はそう言うと僅かに微笑んだ。
どのような立場の人間であっても、何かに秀でた人間に対して好意を抱く癖を曹操は持っている。
それが自らの窮地を作った相手だとしてもだ。
それは、曹操の持つ最大の美点であり、欠点でもあった。
とは言え、曹操達にとって、この展開はそう悪いものではない。
少なくとも、友若は自らの持っていた戦略を大幅に修正する必要に迫られているはずだからだ。
まず間違いなく、友若は洛陽に進軍する必要など些かも感じていなかった。
だから、友若と親しかったはずの審配が引き起こしたこの出来事は、友若の意志ではなく彼女の独断であるはずだ。
だからこそ、友若の言動は審配の行動とちぐはぐになっているのだろう。
曹操達はそう考えていた。
「それでは、どうしますか」
程昱が尋ねる。
もし作戦を変更するのなら、既に出立している夏侯淳達に早急に早馬を送らなければならない。
曹操達が皇帝を抑えれば、友若は今度こそ曹操を叩き潰そうと動くか、あるいは冀州へと引きこもろうとするだろう。
戦いを挑まれれば、勝つことは極めて困難だ。
少なくとも、曹操の勢力だけでは敗北は必至である。
袁紹に対抗するためには如何に多くの諸侯を戦いに巻き込めるかがカギとなる。
だからこそ、曹操は水面下で諸侯と交渉を重ねていた。
そして、完全に一人勝ち状態にある袁紹に対する反感、南部諸侯の袁紹に対する憎悪もあり、事態は曹操の思惑通りに進んでいる。
仮に、袁紹が洛陽を抑え、天下に覇を唱えようとすれば、反袁紹連合といった形で曹操の努力は実を結ぶかもしれない。
だが、ここで曹操が皇太子を抑えれば、話は一変してしまう。
殆どの諸侯は未だに天子を抑えれば天下を手に入れることが出来ると思い込んでいる。
曹操が皇太子を手にすれば、袁紹に向けられていた反感は容易く曹操へと向けられることになるだろう。
多くの諸侯は袁紹の一人勝ちを望んではいないが、それ以上に、曹操の『成り上がり』を容認しない
しかし、皇太子を曹操が手にした直後
何しろ、恐ろしいことに冀州の経済は戦争後も発展を続けている。
袁紹に冀州に籠もられればそう遠くない内に曹操を持ってしても手に負えられない存在になる可能性は高い。
「何もする必要はないわ」
しかし、曹操は力強く断言した。
「荀友若の才能は比類ない。けれど、弱点の無い人間はいないわ。桂花、風。以前貴方達が言ったように、彼は遠くが見えすぎている。それ故に、目先に暗くなりがちよ。荀友若、彼が思っているほど、この国の皇帝の権威はまだ落ちていない。彼が捨てるなら、私はそれを拾うまで! 予定通りに春蘭達には動いてもらうわ。想定される宦官達の退路を封鎖するために」
覇気とともに放たれた曹操の言葉に、荀彧と程昱は揃って頭を下げた。
曹操は洛陽を去る際に幾つかの細工を残している。
それが実を結んでいれば、宦官たちは夏侯惇達の待ち受ける道を逃走経路として選択するだろう。
そして、皇太子の身柄を確保することは、袁紹、そして友若と天下の覇を賭けて戦う際の切り札になるだろう。
友若の思惑通りに動いているとはいえ、分の悪い賭けではない。
自らの保有する情報と手札を考慮して曹操はそう決断した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「友若、貴方に話があるわ」
曹操達との話し合いも無事に終わり、友若が自らの為に用意された天幕で眠りにつこうとしていた所、来訪者があった。
その声を聞いて、友若は微かに顔を歪めた。
「……明日にしてくれないか、子遠」
「大事な話よ、荀友若」
突然の来訪者、許攸は友若を真っ直ぐに見つめて言う。
友若は小さくため息をつくと許攸を天幕の中に招いた。
「話って?」
「……どういうつもりなの?」
話を促す友若に許攸は低い声で問を発した。
「どういうって、何を言っているのか分からないけど……」
「ふざけないで! ……っ、貴方は、貴方は何を考えているの!?」
「……」
許攸の投げかけた疑問に答えることなく、友若は水差しを取り、天幕に備えてあった器に水を注ぐ。
そして、友若は険しい表情をした許攸にその器を差し出した。
「とりあえず、いっぱい飲むか? 何なら酒もあるけど」
「友若っ!!」
「……ふぅ」
肩を怒らせて叫ぶ許攸に友若は小さくため息をつくと、手に持った器を傾けた。
器から零れた水が天幕の床を濡らす。
それを暫くの間、無言で見下ろした友若はやがて呟いた。
「その様子だと……やはり、正南が、ということなのかな」
許攸は微かに驚いたような表情を浮かべると、口元をきつく結んで目を閉じた。
何かを堪えるように、体を震わせる許攸。
「……ええ……ええ、そうよ……それが分かっていながら何故っ!!」
「正南は、とんでもないことをしでかしてくれた。お陰で我々はどうしようもない事態に巻き込まれている。責任ある立場だったにも関わらず、あんな独善な行動をするなんて――」
「貴方がっ! よりにもよって貴方がそれを言うの!? あの子を追い詰めた張本人である貴方がっ!!」
淡々と、冷たささえ感じさせる声で言葉を紡ぐ友若に、許攸は激怒の様相で胸ぐらを掴んだ。
それを見返す友若は、口元を歪ませて笑みを浮かべている。
「追い詰めた、ね。まるで、正南の死の責任がこの私俺にある、とでも言いたげな様子じゃないか」
「ええ、そうよ!! 何も分かっていないのね、貴方はっ!!」
「何も、とは正南が俺に惚れていたことの話か?」
皮肉気な口調で告げられた友若の言葉に許攸は目を見開く。
「知っていたの? ……気が付いていたの? 貴方は……」
愕然とした様子で友若から手を離して後ずさると、震える声で許攸は呟いた。
対峙する友若は苦笑を浮かべる。
「勿論、知っていたさ。とっくの昔から。あそこまであからさまな態度を取られて気が付かないわけがないだろう?」
「……あの子の思いに気が付いていたならどうしてっ!!」
「応えるつもりがなかったからさ。そして、正南から直接告げられたこともなかった。何も言われていないのに返事が出来るわけがないじゃないか?」
言葉を失う許攸に対して、友若は冷然と話を続けた。
「結局のところ、正南は臆病だった、ということなんだろうね……何も言えずに、その挙句、暴挙に出て我々に危機を齎した…… とんだ迷惑だよ。正南は、これで麗羽様が天下を取れるとでも勘違いしていたのかもしれないけれど、ここまであからさまにやられては誰だって気が付くさ。今回の謀略というか、暴挙の黒幕が誰かくらい。情況証拠が揃いすぎている。こんな状況で何も考えずに洛陽を抑えても、すぐさま各地で反乱が起こるだろう――」
「荀友若っ!!」
友若の言葉を遮って許攸は絶叫した。
その呼び名が変わっていることに友若は僅かに目を細める。
「……彼女と親友だった許子遠殿には、耳にしたくない話だろうね」
「それ以上、言うのなら、私にも――」
「では、どうしろと?」
今や剣呑な顔で睨みつけてくる許攸に、笑みを消して平坦な声で友若は尋ねた。
「それは……」
友若の切り返しに反論しようという様子を見せるものの、言葉を詰まらせる許攸。
友若は小さく息を吐くと口を開いた。
「正南が考えていたであろう通り、何も考えずに洛陽を取る訳にはいかない。皇帝弑逆の黒幕が我々ということになれば、南部を中心として我々に反感を持っている諸侯は確実に反乱を起こすだろうし、他の諸侯だってどう動くかわからない。討伐される大義名分があるという事態が何を引き起こすか、今の宦官が置かれている立場を見れば一目瞭然じゃあないか。そして、我々の優位というのは、実のところ大したものじゃない。少なくとも、この国の全てを敵に回せば確実に負ける。この前の戦いの様な奇跡が二度三度起きると考えるのは余りに危険だよ。そもそも、あれは蛮族と戦いに明け暮れる精強な辺境の軍団を全て封じ込めた上での戦いなわけだし」
「……だとしても、怜香は、怜香は貴方なら出来ると信じて……だからこそ彼女は……」
「信じるのは人の勝手だけどね、だからと言って信じられた通りに行動しなきゃいけないなんて道理はない。そして、俺は麗羽様を始めとして、今、生きている人間のために働いているんだ。死んだ人間の為に動いてやるつもりは全く無い…… 俺はね」
友若は僅かに言葉を震わせた。
「俺はね……正南に怒っているんだ。勝手な行動をして、勝手に死んで…… 宦官の失墜に伴い麗羽様が洛陽に攻め込んで天下に号を発す…… 正南が狙っていたのはそのきっかけを作る事だったんだろう。だけど、麗羽様がそんな事を望んでいたなんて思っているのか? 麗羽様は、『そんな程度』の為に正南を失うことを良しとする人間じゃあない…… 俺だってこんな事は望んでいなかった…… 正南は殉死したんじゃあない。裏切ったんだ。何事も無く帰ってくることだって出来たはずなのに。それを麗羽様だって、俺だって当たり前に信じていたんだ…… そんな裏切り者を満足させるために動いてなんかやるもんか。悔しかったらあの世から帰ってきて直接文句を言えばいい! それができないなら、そんな奴の事なんか知るもんかっ!!」
「……っ」
許攸は驚きに目を見開いて友若を見つめる。
その歪められた顔、きつく握りしめられた友若の拳を見て、許攸はようやく友若の怒りが本物であることを理解した。
全くの予想外である友若の反応に、許攸は呆然と言葉を失う。
「……で、でも……」
友若の発する怒気に呑まれた許攸は喘ぐように否定の言葉を口にしようとした。
「でも? 正南は麗羽様のためを思って行動した? 冗談じゃない!」
「っ!?」
しかしながら、燃え盛るように立ち上る友若の気迫に許攸はそれ以上の言葉を続けることができなかった。
「劉王朝に代わって麗羽様に天下を!?」
友若が口にしたのはかつて審配が宴の席で言い放った言葉だ。
重大な問題になりかねないその言葉は、袁紹の影響力もあり、酔っぱらいの戯れ言として葬られたのだが、許攸はそれが審配の本音であることを見抜いていた。
というよりも、袁紹の配下でそうなれば良いと考えている人間はそうでない人間よりも多いのだ。
そもそも、腐敗の横行する漢帝国の宮廷と、友若主導の改革政策により著しい発展を遂げる冀州とを考慮した時、現状維持が正しいと考えている人間は一人も――恐らくは宦官自身を含めて――いないだろう。
そして、宦官との権力争いに負け袁紹の庇護下に入った旧清流派閥は、ほぼ全員が現王朝を見限っていると言って間違いない。
悪辣な宦官を罰することもできない劉王朝が滅びるのは当然だと声を潜めて囁く人間もいるのだ。
袁紹が天下を獲ると言えば、間違いなく、彼らは諸手を上げて賛意を示すだろう。
「ただの一度だって麗羽様がそんな事を言ったか!?」
しかしながら、袁紹自身は決して天下に対する野心を口にしたことはない。
袁紹は宦官達に対する怒りは口にしたことがあるものの、皇帝を自らが支えるという立場を一度も崩したことがないのだ。
漢帝国の名門に生まれた袁紹の思想の根底には、この帝国を守る事こそが正しいことであるというものがある。
そんな袁紹にしてみれば、漢帝国に止めを刺すなど考えたことすら無いのだ。
袁紹にとって、漢帝国は当然に存在するものだった。
「でも、なら、貴方は今のままで良いっていうの!? 行き詰っていたこの国に新しい可能性を示した貴方が! 麗羽様の下で貴方の築き上げた結果があったからこそ、怜香は全てを貴方に託したのよ!」
「そうだ、勝手な思い込みでな! 何度でも言うが、あいつのやったことは自己満足の勝手な行動だ! 一体何時、麗羽様や俺がこの国を手にしたいと言った!? 麗羽様に天下を齎すために行動した!? それは麗羽様の望みなんかじゃない! 麗羽様の為の行動なんかじゃない! あいつ自身を満足させるためだ! お前たちの行動は結局のところ自分の為でしか無い!」
「朝廷が麗羽様や貴方に対して行った非道を忘れたの!? こちらにその気がなくても、彼らは麗羽様達を排除しようと画策するに決まっているじゃない! あのしつこい宦官が約束を守ると期待するなんて馬鹿を見るだけよ! ……先の皇帝と宦官は強く結びついていたわ。あの皇帝が生きている限り、そして宦官がのさばり続けている限り、戦いは終わらないのよ」
許攸の言葉に友若は黙り込んだ。
皇帝や宦官が袁紹や友若に対する敵対行為を一時的に棚上げすることはあっても、本当の意味で矛を収めることは無かっただろう。
友若自身、宦官達の執念深さは身を持って知っている。
自らの株式政策のちょっとした行き違いから平均株価が一割程度まで落ち込んだ際に、たまたま損失を引き受けてくれた宦官達はこれを逆恨みして、様々な嫌がらせを行ってきたのだ。ただ、友若はこの時、高をくくっていた。
数年間に渡る宦官の嫌がらせは、戦乱の世を見込み、栄達にいささかの興味も無い友若にとって何の意味もなかったからである。
そして、財政難にあえぐ漢帝国が冀州の経済的成功を失うリスクを犯してまで袁紹や友若に危害を加える訳がないと思い込んでいた。
結局、袁紹と友若が一時逆賊と名指しされた時に、友若は手痛い勉強料を支払って宦官達の執念深さを学んだ。
宦官達のしつこさをよく知っている審配や許攸が、彼らを根絶やしにしなければ意味が無いと考えるもの無理は無い。
だが、友若はそれを認めるつもりはなかった。
穴は多いにせよ、友若の『記憶』によれば、後10年もすれば、黄巾の乱を皮切りに訪れる戦乱の世だ。
このタイミングで漢帝国を揺るがすような事変が起これば、戦乱の世の訪れが早まりかねない。
友若の戦略にとって、それは到底認められることではない。
もう暫く平和な世が続いてもらわなければ困るのだ。
曹操、劉備、そして孫……なんとか。
戦乱が起こる前に、今後台頭するはずの三大勢力と出来る限り好を結んでおく、というのが友若の狙いである。
時代を無視して銃火器なんてものを持ち出す連中と戦うなどあり得ないと友若は確信している。
何しろ、友若が生まれた時、この世界に銃など存在しなかったのだ。
それにも関わらず、曹操はこの僅か20年程度――実際の開発期間は10年も無いだろう――で銃火器を完成させ、戦場に持ち込んだのである。
それも、比較的構造が簡単な前装式ではなく、後装式だ。
かつて、チート知識による無双を夢見て、実用化の困難さに挫折した友若にしてみれば、曹操の存在は意味不明なバケモノに過ぎた。
10年後の戦乱の世には、ガトリングが火を吹いていてもおかしくはないと友若は思っている。
そんな訳の分からない戦いに身を投じるのはただの自殺行為であると友若は断じる。
少なくとも、精々秀才止まりの自分と、頭の回転速度に難のある袁紹では、バケモノを相手に戦って生き残ることは出来ないと、友若は判断しているのだ。
もちろん、友若のそうした考えは同僚には理解し得ないものである。
発想の原点に転生チート知識がある異常、それは当然だ。
それどころか、袁紹を裏切ったと捉えられてもおかしくはない。
だが、理解を得られないからといって諦める選択肢は、この時の友若にはなかった。
袁紹を守るという一点において、この時の友若は覚悟を決めていたのである。
だからこそ、友若は必死になって許攸を説き伏せるための理由をでっち上げる事にした。
幸いにして、転生チート知識とでっち上げの才能を持つ友若には、許攸を誤魔化すだけの見込みがあった。
「……宦官達がそれほどのものかな?」
「どういう意味よ?」
「そのままさ。所詮、宦官は寄生虫に過ぎない。連中の力は漢帝国があってこそのものだ。漢帝国の権威が失われつつある今、連中に大したことは出来ないよ」
友若は努めて平坦な声で話す。
自信を持った態度をとること、平然としていることが相手を誤魔化す際の最大の武器であることを友若は知っていた。
「大事なのは立ち向かうべき相手を見誤らないことだ。確かに漢が強大であったなら、皇帝の直ぐ側に仕える宦官の力は無視できない。でも、今は違う。漢は既に滅亡への階段を登り切ってしまった。後はいつ崩壊するか、誰がその引き金を引くか、それだけの問題だ。そして、麗羽様がその引き金を引くのは不味い。漢への忠義故に袁紹様を討つという大義名分を全ての諸侯に与えることになるのだから」
「……それは、貴方の考え過ぎじゃないの? 天子の身柄を確保すれば、全ての諸侯を従わせる大義名分を得られるわ」
「漢が滅びて、全ての権威が崩壊するまではね」
許攸の反論に友若はよどみなく答える。
許攸は思わず手を握りしめた。
その瞳は微かに揺れている。
許攸の動揺に友若は自らのでまかせの効果を確認した。
友若にとって許攸は親しい友人、そして頼りになる同僚として長い時を過ごしてきた相手である。
そして、許攸は決してバケモノではない。
確かに彼女は優秀ではあるが、その才能、能力は秀才の域を超えてはいないのだ。
それ故に、現状手に入っている情報から友若は許攸の思考を大まかに予想する事ができた。
多少の誘導を行ってやれば言動の操作も可能なのだ。
そして、漢帝国の崩壊という確定事項に過ぎない事実を口にした程度で動揺する許攸をだまくらかすことは、友若にとって造作も無い事だった。
荀彧には劣るが、神童と謳われた友若。
転生チート知識を差し引いたとしても、その才能は、その才覚は、決して凡百の域には無い。
そんな友若のごまかしとでっち上げに関する能力は、その人生を通して相当の領域まで鍛え上げられている。
「そう、当然ながら許子遠殿も予想していると思うけど、漢は近い将来必ず滅びる。袁紹様が立てなおそうとしてどうにかなるものじゃないし、まあ、誰がやっても同じだ。この国が抱え込んだ矛盾や歪みはもう取り返しの付かない所まで来ている。まあ、上手くやれば十年程度は持つだろうけど、それだけだ。そして、この国が滅びるタイミングでその中枢にいるのは不味すぎる。国を滅ぼした佞臣。その汚名を宦官たちのように麗羽様が被ることになるからね。……それに……」
友若は途中で言葉を止めると口をつぐんだ。
許攸が眦を釣り上げて睨みつけるように友若を見据えている。
「そんな事あるわけ無いじゃないっ! 何を言っているのよ、友若! よりにもよって、あの人間以下の宦官たちと同じような扱いを麗羽様が受けるわけ無いじゃない!? 貴方の言葉には正気を疑うわ!」
案の定、許攸は怒りに満ちた表情で噛み付くように声を荒らげた。
友若にしてみれば、狙い通りの反応である。
許攸は決して愚者ではない。
しかしながら、幾つかの選択肢を与えられた際、無意識的ではあろうが、許攸には義や仁といった徳を優先した思考判断を下す傾向にあった。
恐らくは育ちの良さから来ているのであろうそれは、友若にとって許攸を説得するための突破口となるのだ。
「正気も何も実際に麗羽様は帝から名指しで逆賊と呼ばれたじゃないか」
「それは宦官がっ!!」
「本当に貴方は宦官たちだけであれだけの事が出来たとでも思うのか? 仮にそうだとしても、南部の諸侯が朝廷に呼応したのは事実だ。朝廷側の言い分は殆ど言いがかりだったにもかかわらずね。なら、この国が滅んだ時にそれを防げなかった宰相あるいは執政という立場になった時、その事だけでもどれだけの敵を生むだろうか?」
友若は問に許攸は言葉を詰まらせる。
友若は畳み掛けるように言葉を続ける。
「その時、麗羽様が今の力を持ち得ないことは、子遠、貴方にも分かるだろう……この幽州の経済は麗羽様が、我々が洛陽へと動けば潰れてしまう。何しろ、今でさえこの経済を維持するための人員はギリギリなんだ。とてもじゃないが、洛陽に人材を送る余裕は無い。強引に動けば、麗羽様は今持っている優位を全て失う事になる。なら、最初から色気を出さないほうがいいのさ。今の権威なんて少しも重要じゃあないんだから」
「……あっさりと言い切るのね」
「俺に言わせれば、誰もがこの国の権威をありがたがり過ぎなんだよ。皇帝がどんなものかを洛陽で散々見てきたはずの子遠、君でさえもそんなものを手に入れなければなんて思い込んでしまうんだから」
許攸は静かに目を閉じた。
言葉が途絶えたことで、天幕の中は静寂に満たされる。
許攸が呼吸すらしないために、友若は余計に静けさを感じた。
果たして、自らのでっち上げは上手く機能したのか。
友若の胸に不安が去来する。
十中八九、上手く言いくるめられたとは思うが、許攸が感情的にならないという保証は無い。
親友の死、その審配から託されたであろう遺言。
それに対して、友若の言葉がどれだけの重みを持つことが出来たのか。
緊張とともに友若は答えを待った。
「ふーー……」
許攸はゆっくりと息を吐き出した。
その顔には悲哀が浮かんでいる。
先ほどまであった怒りの熱は最早どこにも見られない。
友若は自らの勝利を悟った。
「……」
「……」
「……一つだけ聞かせて」
再び、暫くの沈黙を挟んで許攸は小さな声で呟いた。
「友若……貴方は、どんなことがあっても麗羽様の味方であり続けると誓える?」
「……」
許攸の言葉に対し、友若はすぐには諾と答えなかった。
否、答えることが出来なかった。
友若が行おうとしていることは客観的には裏切り以外の何物でもない。
それを知った上で、友若は自らの行動を改めるつもりは欠片も無かった。
だから、いまさら許攸に嘘をつくことなど造作も無いはずなのだ。
それでも、縋るような許攸の弱々しさが友若に即答を躊躇わせた。
許攸、審配、張バク。
かつて、友若がまだ一介の呉服商(という名の専属デザイナー)をやっていた頃、彼女たち三名とは親しい関係にあった。
彼女達をこのような形で裏切ることになる等とは想像すらしていなかったあの頃に戻れれば、どれだけ幸せなことか。
友若の脳裏にふと、そんな考えが浮かぶ。
だが、現実にはそれが不可能であることを友若は痛いほど知っていた。
逃避した所で、結局のところいつも何かが失われていく。
曹操というあの妹を超えるバケモノを前にしている以上、それは友若にとって必然だった。
だが、――
何を失うのかを選ぶことくらいなら出来るはずだと友若は信じた。
信じなければやっていられなかった。
「……ああ、勿論だ」
自らの無力さを呪いながら――
『麗羽さ……麗羽は、みんなを犠牲にしてでも天下を取りたいと思う?』
『何をごちゃごちゃとおバカさんな事を言ってますの? 元皓さんの心配性が伝染ったみたいですわ!』
『犠牲? そんな言葉は私の辞書にはありませんわ! 誰も犠牲にすることなく、天下を手にしてみせるのが正道というものですわ!』
袁紹の要求を全て成し遂げるだけの器量は友若には無い。
犠牲も、もう十分に出てしまっている。
今後、この国家が潰れれば更なる犠牲は避けられないだろう。
それでも、より多くを守るために、そのためだけに戦いぬくことを。
友若は誓った。
話進んでない気がする……
次の更新は……
一年以内にはきっと……