ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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重なり織り成す、運命の歯車────







Ep.108 予兆

 

 

 

 

 

 「いやー、まさかの仕様だったな」

 

 「クライン、アレ見た時かなり慌ててたもんね」

 

 「んぐっ……だってよぉ、毎度毎度フィールドに出る度に空を見上げりゃ、次の層に続く柱が立ってたじゃねぇか。それが途切れてたんだぜ?ビックリするに決まってんだろ!」

 

 「いや、うん……俺に言われてもなんだけど……」

 

 

 必死に言い訳───という程でもないが、そう捲し立てるクラインにたじろぎ、苦笑を浮かべるアキトは、先程までクラインと共に攻略していたフィールドの事を思い返していた。

 

 93層の街《チグアニ》からフィールドに出たアキトとクラインを初めに待ち受けていたのは、空中で途切れた迷宮柱だった。どの層のフィールドにも、必ず一本聳え立つ柱。プレイヤー間では塔とも呼ばれるその柱には、プレイヤー達が目指すべき迷宮区とボス部屋が存在している。ゲームクリアを目指すに当たって我々がすべき事として、まずプレイヤー達は迷宮区が備わるその柱を目指して攻略するのが定石だ。如何に広いマップであったとしても、その柱が見える方向に進めば、そこには必ず迷宮区とボス部屋が存在しているからだ。

 

 しかし、今回新しく開放された93層のフィールドにおいて、攻略への道標となっていた、94層とを繋げる迷宮柱は空中で途切れていたのだ。それを見たクラインは初見のはずのフィールドと高レベルモンスターを意に介さずに柱へと向かい、アキトはそれを急いで追い掛けた。そうして、やがて塔の麓まで来た途端、迷宮区が崩壊していたのを発見したのだ。

 根元から亀裂が入り、綺麗に倒壊した迷宮区を前に、クラインは焦りを通り越して絶望的な表情を見せていたのを思い出す。

 

 

『ま、まさか……俺達の戦いはここまでなのか……!?』

 

『何その打ち切りエンド感……』

 

『どうなってんだよ!!』

 

『ちょ、クライン、落ち着いて……』

 

 

 進むべき道が閉ざされたかと思ったクラインはこの上ない悲哀の感情を剥き出しにしていたのだが、アキトが瓦礫の先にある迷宮区の壁の亀裂から中に入れる事を確認すると、クラインは漸く落ち着きを取り戻したのだった。

 中を覗いた感じから察するに、どうやら迷宮区内には幾つもの転移石が散らばっており、これを作動させる事で柱が途切れている場所よりも上に位置するであろうボス部屋へと向かう事が可能になる、という事だろう。

 それを説明して、クラインは漸く普段の状態に戻り、こうして笑い話になっている。だがそれにしたってあの時のクラインの形相はアキトも思い出し笑いするくらいには面白いものだった。

 アキトが倒れてから数日、92層を突破して93層へと辿り着いてのハイペース攻略にこの世界のプレイヤーもいよいよゲームクリアを実感し始めていた。上層に連れ狭くなるフィールドは、それだけ次のボス部屋を発見する速度を上げる。ゲームクリアの際には何かあるのではないかと噂され、最近では、システムエラーが原因で一度来たら戻れなくなる、と知っていて上層に来るような人達も増えてきたらしい。ゲームクリアが目前となれば、知り得ぬ街に行ってみたいと思うのは当然だろう。この世界に来る事はもう無いのだから、思い出に浸るのも悪くないのかもしれない。

 

 

 「ん?どうしたアキト、周りなんか見て」

 

 「……いや、こんな日常染みた生活、二年前じゃ考えられないよなって思ってさ」

 

 

 クラインに問われ、再び行き交う人々に視線が向く。

 日も暮れてきた今日、人の賑わいは以前のそれとは比べられぬ程に騒がしく、恐怖と悲しみに暮れていた二年前とは全く違っていた。《チグアニ》の街は最前線という事もあって、まだ見ぬ街への好奇心に負けたプレイヤー達が押し寄せ、建物を繋げる連続三角旗の下で行き来の流動を繰り返している。この風景は正しく現実世界のものと変わらない日常だった。慣れてきている事が必ずしも良い事だとは言い切れないのかもしれないが、人々が下を向くよりは幾分もマシに思えた。

 

 ────これはきっと、アキトが前から見たいと切に願っていた世界の一部。そして、これから終わらせなければいけない世界。

 

 ゲームクリアが成されれば、この世界は終わる。そうすれば、ここで築き上げたもの全てが崩壊し、現実世界へと強制送還されるだろう。その時、仮想世界にあった地位やステータスといった努力や、友人や恋人との関係も断ち切る事になる。仕方が無いとは分かっていても、抵抗がある訳じゃないとしても、それだけは少し寂しいような気がした。

 

 

 「……ま、ゲームクリアが近ぇんだ、はしゃぎもするだろうさ。これも俺達の頑張りの成果ってもんよ」

 

 「そうだね。攻略組のみんなは、ホントに頑張ってくれて……」

 

 「何言ってんだ、アキトが一番の功労者だろうが」

 

 「へ?あ、いや、そんな事は全然……」

 

 「ったく、ホントにお前さんは謙遜が過ぎるっつーか……よっしゃ!折角最前線の街なんだ、俺様が何か奢って……ん?」

 

 「クライン?」

 

 

 ふと、急にクラインの視線が進行方向へと向いた。思わずつられると、その先には小さな人集りが出来ていた。そこは商店街や転移門へと繋がる道のある小さな広場だったが、その辺りで人々の流れの悪い一部分がやたらと目に付き、自然と視線が固まってしまう。耳を澄ますまでもなく騒がしく、周りも不安げな表情を見せて始めていた。

 

 

 「おいアキト、なんか向こうが騒がしくないか?」

 

 「……うん。何かあったのかな」

 

 「喧嘩か何かかもしれねぇな……アキト、行ってみようぜ!」

 

 「うん」

 

 

 クラインの言葉に頷き、すぐさま行動に出る。アキトは道行く人達に頭を下げながらその人混みを掻き分けていく。アキトはその男性にそぐわない細身の身体でスルスルと人々の隙間を縫うように進んで行き、クラインも苦戦しつつ前に進んでいた。

 近付くに連れて、段々と広場の中央で行われているであろう事件の被害者たるプレイヤーの声が聞こえる。どうやらその中には女性が居るようで、淑女らしからぬ怒声が響いていた。後ろから追い付いたクラインと顔を見合わせ、集まる人々の先頭へと躍り出る。すると、視界の真ん中でそれは繰り広げられていた。

 

 

 「ちょっとやめてってば!離して!」

 

 「一々煩いなぁ、抵抗しても意味が無いってそろそろ覚えてくれよ……」

 

 

 そこにいたのは一人の女性と、それを取り囲む数人の男性プレイヤーだった。嫌がる女性の細い手首を引っ掴んで自分に引き寄せ、下卑た笑みを浮かべる男性プレイヤーとその仲間達。

 その更に向こうには、囲まれている女性のギルドかパーティーの仲間であろうプレイヤー達も固まっており、しかし何故か女性を助けずに戸惑いと恐怖にも似た表情を浮かべていた。

 この構図を、アキトはつい最近にも見た事があった。そう、フィリアと76層の喫茶店へと赴いた時の事だ。あの時も確か女性プレイヤーが男性プレイヤーにちょっかいを出されており、にも関わらずハラスメントコードが発動しなかった。奴は実力に見合わない装備をしていたアルベリヒという不審なプレイヤーの部下であり、それ故に問題視していたのだが────と、そこまで思い出した瞬間、アキトは視線の先にいたとある人物を見て目を見開いた。

 

 

(っ……あの男の人、確かあの時も喫茶店で女の人にちょっかい出してた……!)

 

 

 そう、良く目を凝らすまでもなく、アキトはあの女性の手首を掴んで口元を歪める男性を知っていた。まさしく76層の喫茶店でも女性に嫌がらせを働いていたアルベリヒの部下その人だったのだ。

 今度はこんな最前線で女性に手を────そう思っていると、アキトより先にクラインが前に出た。アルベリヒの部下達が急な乱入者に舌打ちするのと、思わずクラインを見上げるアキトのタイミングは同じだった。

 

 

 「おいおいおい、その手は早く離した方が良いんじゃねぇか?相手は嫌がってんだろ」

 

 「クライン……」

 

 

 普段のクラインは女性に節操の無いイメージが付きやすいが、こういう場面で何の見えもなく正義感のみで行動出来るところは美徳であり、アキトは自然と彼の名を呼ぶ。

 しかし、そんなクラインの言葉を耳にした彼らは互いに顔を見合わせると何故か吹き出し、くつくつと笑いを堪えていた。クラインを馬鹿にするような態度をあからさまに見せ付け、女性の腕を掴んでいた男性がその下卑た笑みのままクラインに語り掛けた。

 

 

 「ちょっとちょっと、嫌がってるからって事情も聞かずに俺達を一方的に悪者扱いは無いでしょ?」

 

 

 この状況であくまでもシラを切る彼ら。クラインの表情は段々と怒りを表し始め、周りもそんな奴らの態度に困惑や怒りを湧き出し始める。だが奴の言葉も一理あった。この人集りの大半は確かに事情を知らないギャラリーであるか故に、客観的に見て被害者に見えるあの女性プレイヤーが何故男性プレイヤー達に囲まれているのか、そして女性の仲間であろう向こう側のプレイヤー達は何故彼女を助けようとしないのか、それが分からない。その為、奴の言葉に対して反論の余地が無く、何も言えなかった。

 ────しかし被害者である女性は違った。掴まれた手首をどうにか振りほどこうと身を捩りながら叫んだ。

 

 

 「ふざけないで!貴方がリーダーに何かしたのは分かってるんだからっ!」

 

 「何かって何だよ」

 

 

 未だ女性を離さない男性が薄ら笑いを浮かべて見下す。すると女性は、もう片方の腕でとある方向を指差した。その指の先が示すものを誰もが追い掛けると、行き着いたのはとある細い路地だった

 あの場所に何があるのだろうか───そう考えた瞬間、その女性は再び叫んだ。

 

 

 「あの路地で貴方達がリーダーに触れたかと思ったら、そのまま消えちゃったんだから!貴方達が何かしたに決まってるでしょっ!」

 

 「変な言いがかりはよしてくれよ。人を消すなんて出来るわけ無いだろ?」

 

 

 女性の言葉に飄々と返す男達。自分は知らないと、そんな事出来るわけが無いと当たり前のように呟く。だがアキトにとっては、女性の語った出来事の方に違和感を覚えた。今の話だけ聞けば、ただ触っただけでプレイヤーが消えたという不思議現象という事になる。

 

 

 「……消えた?触れただけで……?」

 

 「おいおい何だそりゃ……転移したとかじゃねぇのかよ……!?」

 

 

 クラインが有り得ないと言わんばかりにそう尋ねるも、女性は悲痛に顔を歪ませながら首を横に振った。

 

 

 「あれは転移のエフェクトじゃなかったもの。光の粒子が拡散するみたいな感じで……本当に消えちゃったのよ!!」

 

 

 路地で起こったという事は転移門による転移では無い。話だけ聞くと転移結晶による転移でもなく、どちらかというとプレイヤーが死亡した際に生じるエフェクトに近いように思える。だがそうなると《圏内》で殺人が起こったという事になるが、それはシステム上有り得ない。現在システムエラーによって様々なバグが生じてはいるが未だ《圏内》での生活に支障を来すようなものは見つかっておらず、以前耳にした《圏内殺人事件》も結局誰も《圏内》では死んでいなかった。

 考えられるのは犯罪防止コードに抵触して監獄エリアか何処かに転送されたケースだが、普通に考えれば転送されるのは先に手を出した方だ。女性の発言を信じるなら先に手を出したのはアルベリヒの部下達であり、このケースは考えにくい。

 それに76層の喫茶店での出来事を踏まえると、彼らは《犯罪防止コード》の発動を何らかの形で防いでいると考えられる。装備と実力が合ってない事といい、彼らは一体────

 

 

 「何を揉めているんだね、騒がしい」

 

 

 突如、そんな喧騒を裂くような声が響いて誰もが一瞬動きを止めた。するとアキトの視界端の方の人混みが二つに分かれ、その一本道から歩いてこちらに向かってくる一人のプレイヤーの姿が目に映った。白金色を基調とした装備に紅い細剣、そして金色の髪をオールバックにしたその男はギャラリーには目もくれず、やがては広場の中心にまで辿り着いた。

 そう、件の男────アルベリヒだ。彼は溜め息を吐きながら女性の腕を未だに掴んだままの部下に問い掛けていたが、あの表情を見るにどうやら一部始終聞いていて、敢えて聞き直しているようだった。

 

 

 「冤罪ですよ、冤罪。この世界に弁護士はいないんですかね?」

 

 「何かおかしな事をしたに決まってる!絶対にチートしたのよ!漸く……漸くっ、ここまで来れたのに!!もうすぐ、みんなで一緒に帰れると思ったのにぃ……!!」

 

 

 とうとう、女性プレイヤーは泣き出してしまった。未だ離してくれないその腕に対して、最早抵抗する気もなく崩れ落ちた。ゲームクリア目前で、漸くここまで生き残って来た矢先に起きた出来事でリーダーを失って、その悲しみが胸中に募り、そうして決壊してしまったのだ。

 あの女性の話は、何も知らない人からすればあまりにも突拍子の無い話し過ぎる。確かに人を消すなんて事、出来るはずが無い。だから誰もが信じられないだろう。彼女もそれが分かっているから、あれはチートだと、そう宣うことしか出来ない。しかし、それこそ言い掛かり染みて、難癖みたいで。まるで、被害者のはずの女性が悪役みたいで。

 

 

 「やれやれ……兎に角、証拠も何も無く単なる言い掛かりだと言う事は間違いない。泣いて喚いて見苦しい事この上ないな」

 

 「っ……ちょっと待てよ」

 

 

 アルベリヒが崩れ落ちた女性プレイヤーを見下して告げた発言に、クラインはもう止まらなかった。涙を流す女性を前にしてその存在を無碍に扱う奴を、決して許せはしなかった。クラインはアルベリヒの前に立つと、怒りを隠さず睨み付ける。

 

 

 「オレにはどっちが正しい事言ってるとか、そんな事は分かんねぇがな。ここまで一緒に頑張ってきた仲間が居なくなったんだ。そりゃ泣きも喚きもするだろうよ。見苦しいってのは訂正してくれねーか」

 

 「見苦しく思ったから見苦しいと言ったんだよ。君に僕の心の自由を束縛する権利はあるのか?」

 

 「んだと?」

 

 「まあ、頭に自信が無い人間程腕力に訴える傾向があるのは承知しているけどね」

 

 「随分と見下してくれんじゃねぇか」

 

 「……ふん、どきたまえ」

 

 

 アルベリヒはニヤリと笑みを浮かべると、クラインの肩を軽く掴み、強引に突き飛ばした。クラインは突然の事で対処出来ず、その場で尻餅を付いた。

 

 

 「っ、クライン!」

 

 

 思わず叫ぶアキトの前で、挑発的な態度を見せるアルベリヒは、視線が下がったクラインを見下ろし、馬鹿にするように再び口角を釣り上げていた。

 助けに入ったクラインを理屈や理論を重ねて論破し、最後に転ばせてギャラリーの前で恥をかかせる。そんなシナリオだったのかもしれない。クラインは悔しげにアルベリヒを見上げ、周りのプレイヤー達はクラインに対して気の毒そうな視線を浴びせている。アルベリヒの部下も悦に浸っているかの如く。状況はアルベリヒに攻勢だった。彼はクラインに駆け寄ったアキトを初めて視界に入れたと言わんばかりに口を開いた。

 

 

 「おやおや、誰かと思えば《黒の剣士》様じゃないですか」

 

 「アルベリヒ……幾ら何でもやり過ぎだと思うけど」

 

 「いやはや、随分とお優しい。だがこちらもそこの女性に濡れ衣を着せられた被害者なんです、感情的になっても仕方ないと思いますが」

 

 「……でもソイツ、76層の喫茶店で女性プレイヤーに痴漢行為してたお前の下っ端だろ?悪いけど前科持ちの性犯罪者は信用出来ないな」

 

 「なっ、テメッ……!」

 

 

 途端、奴の部下の狼狽が分かりやすく表情に現れた。瞬間的に周りにどよめきが広がり、揃って視線が騒ぎの中心たるアルベリヒ達に向かう。今のアキトの一言でギャラリーに回っていたプレイヤー達の敵意が全て奴に向かい、立場が逆転したのだった。もし仮に奴が反論しようとも、この状況での反論は罪から逃れる為の言い訳にしか聞こえず、すればするほど信用を失うものだ。それに最早真偽は問題では無い。噂は第三者の都合の良い様に解釈されて広がるものであり、何よりこれは真実だ。『痴漢行為』『下っ端』『前科持ちの性犯罪者』と立て続けに罵られた奴の憤慨ものの表情は相当なもので、この状況を作ったアキトに向けられていた。

 クラインが思わず隣りを見ると、その顔には悪戯気な笑みを張り付けたアキトが立っており、さも楽しそうに振る舞っていた。それはクラインも久しく見ていなかった、76層に来たばかりの時にアキトが見せていた敵役状態(ヒールモード)だった。

 アキトはその不敵な笑みのままアルベリヒを見据える。

 

 

 「お前の監督不行届って事だ。部下の面倒もまともに見れない癖に理屈ばっか一丁前だな、おぼっちゃん?」

 

 「貴様……あまり舐めた態度を取るなよ?お前みたいなガキは僕が本気になれば……」

 

 「本気になれば何だよ。腕力にでも訴えてみるか?頭に自信が無いなら、それも良いかもな」

 

 

 アキトの言葉一つ聞く度にアルベリヒは青筋を立てていく。彼自身が放った言葉全てが彼自身を縛り、更には多くのギャラリーの前で明らかに年下であるアキトに言い負かされているのだ、屈辱の極みだろう。確かに頭が良さそうに見えるが性格には難があるようで、アルベリヒは今にも手が出そうだった。そうなれば、あの女性プレイヤーの言うように触れただけでアキトを消す事も出来るのかもしれない。だがそれをしてしまえば女性の発言が正しかった事の証明になる。故に、奴は動けない。

 

 

 「……まあ、兎に角。言い掛かりはやめてもらいたいね」

 

 

 アルベリヒはどうにか自分を抑えたようで、アキトから目を逸らし、表情も最初の頃の涼しいものへと戻っていた。どうやらアキトの思惑通り、この場所から引いてくれるらしい。転移門に続く道へと進んで行く奴の背を見た部下達も、立て続けにその場を後にし始める。だが未だ女性の腕を掴んだままの男は、このギャラリーの前で『変態』のレッテルを貼り付けたアキトに対して憎悪に満ちた視線を向けていた。そのまま動かずただ睨み付ける男に、アキトは目を細めて近づいて行く。

 

 

 「……アンタも、早く彼女の手を離して上司のとこ行けよ」

 

 「テメェ……タダで済むと思うなよ……?もうすぐお前ら全員が俺達の思い通りになる……その時お前は絶対に殺───」

 

 

 その言葉が最後まで続けられる事は無かった。女性の手首を掴んでいたその腕を、アキトに掴まれたからだ。男は急にアキトに腕を掴まれた事で一気に不愉快になり、その眉を吊り上げる。そして、その腕を引き剥がそうと腕を動かすが──全く動かない。どれほどの力が込められているのか、アキトの腕を振り払えない。

 その事実に焦燥や苛立ちが立ち込め、そうして自分より背の低いアキトを睨み下ろして───

 

 

 「何触って───」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「───良いから、離セヨ」

 

 「っ……!?」

 

 

 瞬間、その男が感じたのは寒気だった。その冷たい声色に身体が震えた。知り合いがこれを聞いていたら驚きに満ちた表情をするだろう。何せ普段のアキトじゃ考えられないような口調と、何より初めて会った時の演技とはまた違う、本気の篭った声。

 そして、アキト自身は知らない。その時、男を見据えるアキトの隻眼が、血のように赤く染っていた事を。まるで、殺意そのものを奴に突き立てているような視線を男に向けていた事を。

 

 

 「っ、チィ……!」

 

 

 男は漸く女性を離すと、アキトの腕を振り払った。憎悪や殺意だけじゃない。まるで、恐怖から逃れるように。その表情がそれを物語っており、そのままアキトやクラインに背を向けてアルベリヒの向かった方角へと走り去って行った。

 瞬間、肩の荷が下りたアキトは小さく溜め息を吐いた。どうにかこの場を収めようと策を弄した結果、上手く事が進んだ事に対する安堵だった。すぐさまへたり込む女性の目線に合わせるように膝を立て、柔らかな声で語り掛ける。

 

 

 「大丈夫ですか?」

 

 「っ……う、は、はい……」

 

 

 女性は涙で赤くなった瞳でアキトを見上げた後、自分が泣き顔を見せていた事に気付き、咄嗟に涙を拭い始める。アキトは彼女にハンカチを差し出すと、少し離れた場所で未だ尻餅をついたままのクラインへと赴いた。

 

 

 「クライン、大丈夫?」

 

 「お、おう……お前ぇ、口喧嘩強過ぎだろ」

 

 「クラインこそ、あの食ってかかる感じ、凄くカッコよかったよ」

 

 

 アキトはクラインに向かって手を伸ばし、クラインは何も言わずにそれを掴む。一気に力を入れて引くと、それを利用してクラインも勢い良く立ち上がった。だがその顔は晴れない。何かを思考しているようで、それでいて表情からは困惑が見て取れた。そしてその理由も、もうアキトには分かっていた。

 そう、先程アルベリヒにクラインが突き飛ばされた時の事だ。あの行動で起こるべき事象が、あの時に限っては起こらなかったのだ。

 

 

 「……クライン。やっぱり、アルベリヒの行動で犯罪防止コードは機能してないみたいだ」

 

 「っ……ああ、どう考えてもおかしいだろ!普通、人を無理矢理押したり引いたりは出来ねぇはずだろ……!?」

 

 「前にアルベリヒの部下が女性にちょっかい出してた時も反応しなかったのをみると、あの集団全員がそうなのかもしれない」

 

 

 見間違いなどでは決してない。被害にあった女性やクラインも、コードが発動しない事に困惑しているし、奴らもそれを理解して行動しているような節がある。《カーディナル》のシステムエラーやバグの修正力が見込めない今の現状から考えても、最早奴らが何かおかしな事をしているとしか考えられない。寧ろ、76層に来た際の異常と何か関係があるのかもしれない。

 

 

 「……コイツはヤバいな」

 

 「うん……ゲームクリアまでもう少し、何事も無いと良いけど……」

 

 

 その期待はきっと叶わないだろうと、何処か無意識に思っていた。今日が初犯で無い以上、今後もこういう事は続くのかもしれない。もしかしたら、攻略に支障を来すような状況に陥る可能性もゼロでは無い。最悪、大切な仲間を傷付けられる事だって考えられるのだ。

 

 

 「っ……」

 

 

 ────ズキリ

 

 

 そう思った瞬間、アキトの胸に小さな何かが宿った。アキト自身は感じ取れない程の、小さな何か。だがそれは、時間を掛けて段々と膨れ上がり、やがて黒く濁った塊へと変貌を遂げるかもしれないものだった。

 それは誰の心にも絶対にあるはずのもので、だが今までアキト自身からはあまり感じないものでもあった。だがこの世界が狂い始めてから、ずっとそれは胸の中にあったのかもしれない何か。

 

 

 

 

 ────決して、良くは無い感情の欠片だった。

 

 

 

 









女性 「あ、あの……!」

アキト 「?」

クライン「?」

女性 「た、助けてくれて、ありがとう……」

クライン 「へへっ、良いって事よ。俺らもアイツらにはムカついてたしな」

アキト 「怪我……はある訳ないよな、えと……何か酷い事とかされてない?」

女性 「え?あ、は、はい……」

アキト 「……?何?」

女性 「あ、えと……」

クライン 「オメーがさっきと口調も態度も違うから戸惑ってんだろ」

アキト 「あ、ああ、なるほど……」

女性 「あ、あの……これ、ハンカチありがとう……」

アキト 「どういたしまして。……ああ、良かったらあげるよ」

女性 「えっ!?」

アキト 「俺は使わないし、売ろうか迷ってたんだ。売られるよりは使ってくれた方がハンカチも嬉しいでしょ」

女性 「っ……は、はい……じゃあ、その……ありがとうございます……」//////

アキト 「……なんで急に敬語?」

クライン 「 」←全てを察した















●○●○





















「《剣技連携(スキルコネクト)》、《二刀流》、《未来予知(プリディクション)》、そして黒の剣士(キリト)の反応速度……」


「《カーディナル》に蓄積された戦闘経験(ログ)も、いずれ全て手に入れる機会があるだろう」


「身体の所有権がこちらに無い事を除けば、まあ順調な進捗だ。フフッ……」


「……ああそうだ、喜べよ。君の願いはもうすぐ叶うよ、逢沢(あいざわ)桐杜(きりと)























「────それまでは、精々仲良くやろうじゃないか」




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