ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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理想は理想。故に仮想。




Ep.115 黒より昏く

 

 

 

 

 

 息苦しさをその身に感じながら、アキトはストレアを見つめる。彼女は、嫌なくらい敵対的だった。

 

 “反逆者(トレイター)”の名を冠した凶器をその手に、全てに決別を告げる表情を照らして。かつて使っていた得物とは打って変わって小さく、細く、華奢だったが、赤黒い刀身にねっとりとまとわりつくような暗い瘴気、赤黒い稲妻、そこから迸る威圧感を放ちながら告げる。

 

 ────この剣はただ、お前を殺す為の剣なのだと。

 

 そう、“反逆者(トレイター)”とは暗喩だ。

 お前達攻略組に反逆するという、彼女の──ストレアの意思表明。変わらないでいる事を求め、大きな変化を拒み、停滞を望む彼女の意志を尊重し具現された剣だ。そして、これから眼前に立つ“黒の剣士”を殺すと決めたその意志に応えるべく、その刀身を光らせている。

 

「……っ」

 

 アキトは、壁に手を付いて弱々しく立ち上がる。闇色のコートを翻す彼女を前にして感じるのは、大きな衝撃と僅かな焦燥。変わり果て、かつての姿はそこには無い。雰囲気はまるで異なり、同じなのは面影だけ。同じ顔の別人だったらどれだけ良かった事だろう。

 立ち上がるアキトに目線を合わせるように、ストレアの顔が上がる。剣の穂先は変わらずアキトに突き付けており、その虚ろな瞳はただ闘志を宿し、同様のものを彼に求めていた。

 だが今のアキトには打開策など考えられず、揺らめく瞳に彼女の求めるものはなかった。そこに英雄に憧れた勇者の姿なんて存在せず、今目の前で繰り広げられている状況全てを脳内に羅列するだけに留まっていた。考えなんて、まとまるはずがない。

 

「……」

 

 アキトの視線は、彼女の頭上。それが視界に入った瞬間、唇を噛み締めた。

 当然だが、アキトを斬り付けた際に彼女のカーソルの色はオレンジへと変化していた。気付いた途端、自嘲気味に笑うしかなかった。

 いっそ、最初からストレアを攻撃する覚悟さえあればとさえ思った。本当は頭の片隅でずっと考えていたのだ。彼女に攻撃させるくらいなら、先に自分のカーソルがオレンジになってしまえば良いと。

 それでもそうしなかったのは、奢りと甘さ。そして覚悟の無さだ。ストレアは仲間、だから攻撃してくるはずが無いだなんて、そう言い聞かせて仲間に剣を立てる事から逃げていただけ。

 

 

「……やっぱり甘いね、アキトは」

 

 

 正義感よりも優先すべき事だった。だが優しさよりも甘さだった。その上澄みを掬い取られ、こうして剣を向けられている。

 ストレアは、その瞳を細める。身体の震えを抑えようとするアキトの耳に、冷たいその声は聞こえてきた。

 

 

「アキトの“眼”、全く闘志を感じない。貴方はアタシを倒す覚悟なんて無い。だから貴方はアタシを無力化する手として、キリトの(・・・・)武器破壊(アームブラスト)》を選択した。違う?」

 

「っ……キリトの技だって知って……」

 

「知ってるよ。何度も見てきたからね(・・・・・・・・・・)

 

 

 ────何度も見てきた。

 その言葉の意味がよく分からない。だが、前述に対しては百点の答えだった。情けなさに笑いすら込み上げてくる。

 間抜けだが完全に読まれていた。こちらの作戦や考えの甘さ、それら全てを骨の髄まで。

 

 

「相手が悪人であっても非情になり切れないところは、アキトの弱点だよ。だから、アタシに負けるんだ────!」

 

 

 瘴気を纏った、風が舞う。生暖かく不自然なその風に、視線は上を向く。

 頭上からは豪速を以てその長剣が振り下ろされ、アキトは咄嗟にその足が動いた。何かを考えた訳ではない。長年の経験か、或いは直感か。そんなものが介在していたのか分からぬ程の反射で、その足が意思持つように、その場から飛び退く。

 

 

「────っ」

 

 

 瞬間、アキトがそれまで寄りかかって立っていたその空間の壁が理不尽に爆ぜた。暴力にも似た圧倒的な一撃で簡単に斬り崩され、灰色の煙が舞う。躱したにも関わらず衝撃が耳に響き、光の熱を背中に浴びた。勢いで前転し、咄嗟に起き上がるとすぐさま反転し、左手の《ブレイブハート》を右手に持ち替えて構える。煙から現れた彼女は、黒い稲妻をその剣に走らせながら、ジロリとこちらを見やっていた。

 間違い無く、今あの場に留まっていれば致命的だった。“死”という世界と隔絶した概念がすぐ喉元まで来ている事を感触として捉え、額の汗が頬を伝う。

 

 しかし、この場でアキトが取れる行動なんて、もう何も残されていなかった。ストレアの推察は全て正しい。つまるところアキトは、彼女を攻撃する事なんて出来ないのだ。

 そんなアキトが、唯一突破の手立てとして確立させたのが《武器破壊(アームブラスト)》。結果として武器の破壊自体は成功したが、離脱の手としては失敗した。もう彼女との戦闘を避ける手立ては無くなり、カーソルの色が変わってしまったストレアも割り切って行動する事が出来る。

 

 

 ────完全に、打つ手無しだった。

 

 

 彼女は最初から本気で。アキトは今もなお迷いの中にいる。その差だ。その差こそが、この状況を生み出している。結果が全てを物語っているのだ。ストレアに対して非情になり切れなかった分、躊躇いの無かった彼女の方が上手だったのだと。

 

 彼女の足元に転がっている《リメインズハート》は、いつもよりその輝きが濁っているように見えた。現在手に持つ《ブレイブハート》は、穂先から柄にかけてまで、小刻みに震えていた。それは、紛れもなくアキトの震え。

 

 今この時この瞬間に、何を優先して思考すべきなのかさえ定まらず、ただ思考停止のまま剣を構えているのと何ら変わらない。あまりにも情けなく、惨め。ストレアに剣を突き立てられ、斬り付けられ、そんな事象がアキトを打ちのめしていた。

 だがそんなもの、今の彼女が考慮するはずも慈悲も無い。大して予備動作とも呼べない滑らか過ぎる初動に反応が遅れる。《トレイター》は赤黒い残光を引きながら急所目掛けて突き出され、アキトが回避と決めた時には、その肩は掠らされていた。

 

 

「しっ────!」

 

「ぐっ……くそ!」

 

 

 右に逸れたアキトを追うように身を捩り、その肉体を反転させ、勢いを乗せて《トレイター》を突き出す。その際、刀身にまとわりつくのは紅蓮の輝き。動作一つ一つが加速する中でも、雑になる事の無い流麗な動き。アキトは即座に《ヴォーパル・ストライク》だと看破。

 光芒としたエフェクトが、薄暗い空間の影の合間を這う。たどたどしさなど微塵も無い、最適化された突きの一撃がそこにあった。

 

 アキトは咄嗟に、彼女に向けていたその背を反転させる。拍子に放ったのは三連撃技《シャープネイル》。勿論ストレアにぶつける為のものではなく、彼女の得物の軌道を逸らす為のスキルだ。しかしそれも甘さだと言われればそれまでの脆弱な代物。その一撃目を振り返り様にストレアの《トレイター》に重ねた。

 

 

 ────ギイィィ、ンッ!

 

 

「ぁ……ずっ……!」

 

 飛び散る火花と共に、軌道を妨げる事が叶わなかった刃の穂先が、アキトの左目下の頬を抉り取る。血に酷似したエフェクトが飛び散り、視界左上のHPバーが勢い良く減少した。

 ストレアの手にする《トレイター》が魔剣クラスであるのもそうだが、元々両手剣を自在に操る事が出来る彼女のSTR(筋力)値から繰り出される攻撃は、片手剣になっても衰える訳が無い。寧ろ得物の質量が軽くなる分厄介だ。

 堪らず後退するべくステップを取る。だがストレアも同時に地を蹴り、空いた左手を振りかぶっていた。

 

 連携(コネクト)・《エンブレイザー》

 

 黄色い炎を思わせる光が彼女の左手から迸り、対処しようとした時には既に互いの間合いだった。理解の及ばない程の速度で、たった一歩で、一瞬で。視界を覆った彼女のその瞳には、明確な殺意があった。

 

 

「ぐぁっ……!」

 

 

 命を狩り取る事を目的としたその一撃は酷く重い。アキトの鳩尾を突き上げるように抉り、手首を回転させながら弾き出す。瞬間、呼吸が止まり、身体はくの字に折れ曲がる。意識以外の全てが飛ばされる感覚、といえば良いだろうか。女性から放たれたとは思えない、ボスに匹敵する渾身の一撃だった。

 

 地面と並行に飛ばされ、やがて床を滑るように転がり、摩擦で止まる。コートの一部が熱を持ち、抉れた頬は痙攣していた。俯せになった身体を、頭を、どうにか上げる。少し離れた場所に立っていたストレアを中心に視界の縁は赤く染まり、見るもの全てが朧気になっていく感覚。

 一瞬だが、死神の白い指が頬に触れた気がした。

 

 

「ゲホッ、ゲホッ……く……っ」

 

 

 立たなきゃ、と即座に脳が身体に指示を出す。

 だがストレアを相手にしてまともに戦えるかどうかすら怪しい。脳内で駆け巡る数多の感情を置き去りにして、事実だけを捻り出す。そうして導き出したのは、ストレアと戦う意志があるのかどうかという、あまりにも今更過ぎる問題だった。

 何とも情けない事だ。この胸を貫くような悲しみも、狂おしい程の痛みも、全て目の前の彼女の所為で引き起こされたものだというのに。何処かで、未だ繋ぎ止められた彼女への想いが根付いていた。

 誰が悪いわけでもない。至らぬのは、他でもない自分。だって、ストレアの今までが全部、演技だったなんて。偽りだったなんて思えない。でもそれは、みんなも思っていることだ。

 

 呂律さえまともに回らない中、近付くその影は冷たい。視線という剣が体中を突き刺し、恐怖で起きることすらままならない。

 ストレアは、そんなアキトを細めた瞳でただただ見下ろしていた。仲間に向けるものとは思えない、冷酷な眼。それは、とても仲間に向けるものではなかった。

 それを改めて目の当たりにしたアキトの心に、何とも言えぬ感情が渦巻いて、

 

 

「────なあ」

 

 

 震える声で、そう切り出した。

 ストレアはその足を止め、一度瞬きした後その瞳を細めた。握る刃の先端を光らせ、アキトの次の言葉を待つ。

 情など介在しないその眼の冷たさを目の当たりにして、アキトは唇を噛み締める。けれど、それでもこの反逆を今も続けんとする彼女に、どうしても聞かなければならないことがあった。

 

 

「っ……ストレアの望むもの……欲しいものは、こんなことをしなきゃ、手に入らないものなの……?」

 

 

 どれだけ優しい心を持とうとも、仲間を傷付けられて怒らないほどアキトは冷静じゃいられない。

 今もなお黙りを決めるストレアの態度に苛立ち、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。

 

 

「こんなっ……攻略組のみんなを傷付けなきゃ望めないものなのかよっ!?」

 

 

 ────そんなもの捨てちまえ。

 そう言えたなら良かったのに。

 

 アキトの悲痛な叫びの理由は、乱れる呼吸と共に吐き出された。

 出会い、過ごした時間こそ他にはかなわないかもしれない。それでもアキトやアスナ達、攻略組のみんなにとって、ストレアの笑顔は殺伐とした最前線に彩りを加えてくれた。快活な声も、奔放な性格も、太陽のような笑顔にも、自分達は何度も救われてきた。でもそれは、ストレア自身が楽しいと思ってくれるからこそ見られるものだ。

 

 ストレアも、自分達と過ごす時間が大好きだと、そう言ってくれたではないか。それなのに、理由も言ってくれずにこんな決別は……あんまりではないか。

 

 

「どう、なんだ……答えてくれ……教えてくれ……俺は……」

 

 

 掠れる声、弱々しく震える身体。

 何とか己を律して絞り出したその言葉は、アキトの甘さと弱さが入り交じって、歪んだ。現状を受け入れるのが難しくて、拒絶したくて、嘘だと思い込みたくて。

 信じるように、委ねるように、自分の言葉をストレアに押し付けた。

 

 

 

 

「……そうだよ。これが、アタシの望み」

 

 

 

 

 ────けれど、返ってきた言葉はあまりにも非常だった。

 少し間を置いて放たれた言葉は、どれだけ願っても変わらない拒絶だった。もう聞きたくないと思っても、その声は嫌に通って耳に入り込んだ。

 起き上がることも出来ぬまま、ただその言葉を聞くことしか。

 

 

「アタシとアキトの目的は、絶対に相容れない。だから、ここから先に進ませるわけにはいかない」

 

「……すと、れあ」

 

「貴方が守りたかった世界、大切にしたかった時間は……もう過去のもの。そこにアタシは戻らない。楽しかったあの頃は……もう終わりなの」

 

 

 言い切った彼女の氷のような言葉に、アキトは文字通り固まった。淡々と告げるストレアに、昔のようなあたたかさなんて微塵も感じられなかった。

 あれは夢幻の一時だったのだと、嘘偽りだったのだと、そう言われたような気がした。もう二度と、帰って来ることはないのだと真っ直ぐに告げられた。

 呆然とするアキトに、ストレアはその穂先を合わせる───が、やがてチラリとその視線を横に逸らす。

 

 

 その瞬間、今までの比にならないほどの強大な雄叫びが、再びこの空間を震撼させた。

 

 

 

 

『『『Gu───Aaaaaaaaaa!!』』』

 

 

 

 

 部屋の中心点で巨大な赤黒い野獣が、天井を見上げて殺意を叫ぶ。見れば、ボスのHPバーは既に最後の一本に突入しており、ゲージの色彩は血の色に染まっていた。

 最後の正念場という段階に来て、敵が再び強さを増す合図にも思えたその咆哮と同時に、それを囲う攻略組たるプレイヤー達の身体が震え、萎縮しつつあるのが見て取れた。

 

 

(っ……そ、んな)

 

 

 アキトはどうにかして自らが伏すその床に腕を立てる。戦意を失いつつあったその体をブルブルと震わせ、どうにか全体に力を込め始め、その瞳でボスの姿を睨み付けた。

 煌めくような真紅の毛並みは、次第にその輝きを禍々しい悪意を織り交ぜた異質の色へと変化する。戦いの中で亀裂の走る牙は、それでもなお増し続ける殺意を現すが如く鋭利になっていく。瞳からは最早自我を感じえず、本能のままに他を蹂躙する意志と、食物連鎖の頂点に君臨する者の気迫を迸っていた。

 それが、どうしようもなく恐怖を募らせる。離れた場所にいるアキトでさえ、悪意が膨れ上がった異質な存在に対して、何を考えれば良いのかさえ分からなくなり始めていた。取り囲むアスナ達の顔は、段々と青ざめ始めていた。

 純粋たる力を前に、彼らは察したのだ。

 

 

 ────勝てない。

 

 

 アキトだけじゃない。アスナ達でさえそう感じたかもしれない。

 ストレアが強化したボスのHPを危険域にまで削ることでさえ命懸けだったのだ。かなりの精神力を費やして築き上げてきた勝利への道筋はそれでもなお細いままだったというのに。

 

 

 まだ、まだ。

 まだこの怪物には、上があるのか────

 

 

 ────カシャリ。

 武器を落とす音が聞こえる。それも一本二本の話ではない。恐怖に支配された彼らの体は震えを助長し、柄を手にする力さえ失わせ始めていたのだ。

 どれだけ抗っても終わることのない世界の理不尽を前に、まともに動くことすらかなわなくなりつつあった。

 

 シリカやリズ、見知った顔の面々も、その力を前にただ見上げることしか出来なくなってしまっていた。口元が震え、死の恐怖が喉元にまで来ているはずなのに、声らしい声すら出せないまま、ゆっくりと足元を見下ろすボスの視界に収まっていく。

 

 

 これは、自分のせいなのか。

 ストレアを退けない、未熟な自分の。

 なのに、未だなお体が動かせないのは、恐怖からか。

 諦観からか。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 震えているのは────“怒り”からか。

 

 

 

 

「……可哀想だけど、アスナ達は死ぬよ。貴方を信じて耐えているようだけど、アキトは戦えないものね。けど、容赦なんてしない。アタシはこの世界を守ると決めたの。たとえ、貴方のような臆病者が相手でも」

 

「っ……臆病者……だって……?」

 

 

 この状況下に置かれても、変わらぬ熱の無さで言葉を紡ぐストレア。アキトは、段々と“何か”の胎動を感じ始めていた。彼女が放つ言霊の数々を脳に入れる度に心臓の鼓動が強く、熱く、早く、ドロリとした赤い何かを全身に張り巡らせていく。

 

 

(なんで……どうして……みんなが殺されそうなのに……そんな顔ができるんだ……)

 

 

 かつて共に笑いあった存在が、自身の作り上げた獣に絶滅される景色を目の当たりにしても、のっぺりとした冷めた彼女の表情を見て、まるで殴られたような衝撃を受けた。

 今までのストレアが、何もかも偽りだったと、そう突き付けられた気がして。

 

 

「そう……相手がアタシであることを言い訳にして、戦うことから逃げてるだけ。自分の甘さを勝手に押し付けて、勝手に期待してる。アキトは誰かの為に、自分の理想を変えられない。だからアタシを殺せない。だから……ああなる(・・・・)

 

「っ……な、にを……」

 

 

 ストレアの視線の先を追う。同時に、まるで彼女のその言葉が合図であったかのように、その赤き獣は動き出した。頭を伏せて背中を丸め、唸り声を上げ始める。

 だが口元が開き、段々と光が収束し始めるのを見た瞬間、奴が何をせんとするか、それを理解した。範囲攻撃、それもかなり広範囲のものだ。

 

 

 周囲には、奴を包囲する攻略組の仲間達。

 それを見たアキトは、文字通り血の気が引いた。

 周りから全ての音が消えてなくなり、視界全体を覆う光が迸るその刹那に、アキトは叫んだ。

 

 

 

 

「っ……みんな、逃げろぉ!!」

 

 

 

 

 ────アキトのその声で、どれだけのプレイヤーが反応出来たか分からない。誰もが肥大化するボスモンスター相手に完全に萎縮していたからだ。

 そんな彼らに構いもせず口を開けたままの獣からは、目を覆いたくなるほどの光が放たれた。

 

 

 動けた者はいただろうか?

 死を覚悟した者は?

 諦めを、絶望を感じた者はいただろうか?

 この惨状に至る前に彼らがどんな心境を持ってあの場にいたのかは分からない。

 

 

 

 

 だが事実としてあるのは、アキトの瞳に映ったその景色。

 

 

 

 

 ブレスの炎に包まれる、自分以外の全てのプレイヤーだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────焦げ臭い匂いに刺激され、細めていた瞳をゆっくりと開く。

 

 

 同時に身体全体を襲っていた茹だるような熱が段々と引いていくのを感じた。伏せっていた固い地べたがその冷たさを主張し始め、指先がピクリと動く。けれど、未だその四肢をまともに動かすことも出来ず、ただ黒煙を撒き散らす部屋の中心にうつ伏せで倒れていた。

 

 

「……ぁ」

 

 

 奴の広範囲に渡る巨大なブレスによって、光芒とした炎に包まれていた世界がゆっくりと時間を掛けて血のように赤い炎を鎮めていく。闇色の煙が視界を覆い、もどかしくも見据える先を遮っていた。

 もう何度見たか知れない見慣れたはずの部屋なのに、そんなものは一瞬にして炎蔓延る灼熱の地獄へと様変わりしていた。

 

 

 見渡す限りに人の影が無い。

 その生気も、殆ど感じられない。

 何が起きて、どうなったのか。そんなものは判別するまでもなかった。

 アキトはその結果を事実として脳が認識する前に、最悪の事態の想定を消し去るように言葉を紡いだ。

 

 

「が、ぁ……み、んな゛……!」

 

 

 音にすらならない掠れた声は、全てを物語っていた。

 思考が先行するのは、自身よりも攻略組みんなの安否。腑甲斐無い自分を信じてボスモンスターとの戦闘に耐えていた彼らの生死は、アキトにとって何よりも大切なものだった。

 けれど呼ぼうにも叫ぼうにも声が出せないのは、足の爪先から喉元にまでかかる震えのせいか。

 この震えは、恐怖だと分かる。この先に待ち受ける景色を目の当たりにする前に確信めいたものを胸に宿し、それが恐れから来る震えを助長する。

 

 

 

 

 静か過ぎるこの世界にたった一人、取り残されているみたいで────

 

 

 

 

「……っ、ぁ」

 

 

 

 

 散りばめられた黒煙が段々と消え、視界が晴れてゆく。それだけで、アキトの活力足り得た。

 震えて動かない自身の肉体をどうにか動かそうと、無理矢理に捩りながら徐々に彼らの元へと前進していく。やや黒に近い灰色の煙の中を掻き分けるように抗い、腕の力だけで懸命に這いずる。

 

 

「シリカ……リズベット……」

 

 

 走馬灯のように、彼女達の顔が脳裏を駆け巡る。甦るのはいつだって、彼らの笑った顔。

 まるで、かつてサチ達を無残にも死なせてしまったあの時の様に。

 

 

「リーファ……シノン……フィリア……」

 

 

 ストレアとの戦いを躊躇い、信じて耐えていた彼女達を────その信頼を裏切ったアキトは、情けなくも彼らの名前を叫ばずにはいられなかった。

 自分の責任だと、自分のせいだと、分かっていても止まれなかった。

 

 

「クラ、いん……えぎる……ぅ、あ……」

 

 

 気が付けば震えは唇にまで浸透し、言葉を音にするのさえ困難なものに変わっていた。聞き取ることもままならないその声が、意味を成さぬ言語として虚空に霧散していくのは時間の問題だった。

 それでも、アキトは執着とも呼べる心で何度も仲間を呼んだ。

 

 

 

 

「ぁ、すな……あすな……あす、……な……っ」

 

 

 

 

 最初は対立していた彼女。

 何度も喧嘩し、衝突した彼女。

 折れそうな時、苦しい時、いつも傍にいてくれたのはアスナだった。

 誓いのために、ただ守るべき対象だったはずなのに、いつしかこんなにも────

 

 

 

 

「アスナ……あす、な……みんな、は……」

 

 

 

 

 ずりずりと亀の速度で這いずり進むアキトの瞳には、盲目なまでに無慈悲な希望が宿っていた。考えたくない事象全てを排斥した虚ろな思考だった。

 晴れた黒煙の先に何が待ち受けているのか、その覚悟すら脆く曖昧で、きっとみんな大丈夫なのだと、確証無き悲しい確信が魂に根強く揺らめいていた。

 

 

 引き摺るように、這いずるように、縋り付くように、自身の戦うべき理由であり拠り所である彼らの名前を繰り返しながら、現れる景色を待ち受けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ── そこは、人の温もりが消えた世界だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い灰と共に光の粒子が、たった一体立ち尽くす獣の周りで散りばめられ、そのまま上空へと舞い上がっていく。それは決して幻想的なものではない。プレイヤーがHPをゼロにし、消滅する際に生じるエフェクトだった。

 それを目の当たりにして────数時間前には笑い合っていた仲間が見るも無惨な世界に、背景として転がっている現実を漸く受け止めた。

 

 

 ────光の破片は、仲間である誰かの死の証明だった。

 

 

 生じた破片の近くに転がっていたソードと大盾から、血盟騎士団の壁役であったプレイヤーが死んだのだと理解する。それも、一つや二つの話ではなかった。

 かつて二十五層で起きた悲劇を目の当たりにしたかのような錯覚────否、同等の光景が目の前にあった。まるで夏の蛍のように大量に、その光は虚空に霧散していった。

 

 

「────」

 

 

 言葉なんて、あるはずなかった。

 視認出来るだけでも、あれだけいたプレイヤーの半分近くが姿形すら残らずに消えている。その死を、世界に残すことなく光となって消滅してゆく。

 焼殺された者がいた。倒れたところを踏み潰された者がいた。今まさに、食い殺された者がいた。叫び声すら上げられないままに。

 そして死体すら残らず、看取ることすら出来ず、まるで夢幻であったかのように。

 

 

 空間の端々に、死神の細指が触れた身体が転がっていた。あれほどの悲鳴や剣戟が嘘であったかのような静寂が隣り合っており、アキトが躊躇いを拭い、決意を抱く前に全て終わってしまっていた。

 今はただ独り、唯一攻撃の範囲外であったアキトだけが今この場で起きた惨劇の結末を眺め、あまりに遅すぎる後悔を巡らせて、誰に慰められることもなく喘いでいるだけだった。

 

 

 なんで、こんなことに。

 どうして、こんな酷いことが。

 

 

 それを問い質すべき獣は、ただ容赦無き暴虐の限りを尽くして攻略組達を嬲り犯し、四十数人の生命の尊厳を否定し陵辱し踏みにじり、その大半近くを死に至らしめた。

 悪びれないその表情で散りゆく者達を俯瞰しながら、小さく喉を鳴らしている。

 

 

 そしてその足元に────

 

 

 

 

「──── ア、スナ」

 

 

 

 

 全身に覆うほどに夥しい赤いエフェクトを纏わせ、右脚と左腕を失ったアスナが、うつ伏せで倒れていた。

 

 

 生きているのか、本当は死んでいるのではないかと思わせた。

 転がっている大盾の位置や飛び散った光の破片から死んだプレイヤー達の立ち位置を読み取れば自ずと立てられる仮説────彼女は、ブレスが届く直前までみんなを守る為の策を考え、戦ったのだ。

 暴力を具現化したあの赤い怪物、その牙を自分以外に向けようとした悪意、何よりストレアと。逃げる者、固まる者の前に立ちはだかって奮闘し、四肢を焼かれ、それでもなお抗い続け、今にも踏み殺されそうな場所で横たわっていた。

 

 白と紅を基調としたギルドの制服は数多の傷によって紅一色に染まり、鮮やかに靡いていた亜麻色の髪は首から下にかけてが焼失している。相棒たる細剣《ランベントライト》は高熱によって変形し、焼け爛れていた。

 いつもの凛とした姿など欠片もなく、みっともなく抗った結果無残な姿に成り下がった彼女は、紛れもなく英雄だった。

 

 そんな彼女の後方には、アスナの功労とも呼べる生存者がまるで廃棄物のように散らばっていた。シリカ達も皆無事ではあったが、だが決して、生きていると言えるような状態ではなかった。

 腕、足、武器。無事でないものなどない。何かしらが欠損し、同時に意識までもを手放していた。

 

 アキトを信じて耐えている間に、どれほどの手傷を負って、こうして地に伏せているのだろうか。

 二年間、現実での明日を求めて奮闘した彼らの尊厳や人生、生き様に至るまでもを侮辱し、その生命を弄び、消えない傷を負わせた奴らは、一体何を考えてこの挙に及んだのだろうか。

 

 そうまでされる理由が、アスナ達の何処にあったというのか。

 

 

 

 

「────丁度、こんな感じだった」

 

 

 

 

 恐ろしく透き通ったその声は、不意にアキトの鼓膜を貫いた。

 煙から姿を現し歩いてくるのは、この残酷な世界を創り出した当人だった。

 涙で明滅になっていたはずの視界は、嫌にはっきりとこの景色を映していた。ストレアが近付こうとも関係無く、無機物のように廃棄された仲間の姿が視界の中央から動かせなかった。

 

 

 ────だが。

 

 

 

 

「“月夜の黒猫団(・・・・・・)”、だっけ……彼らが死ぬ瞬間もこうして地に伏せて倒れ、その背に大量のモンスターから追い討ちを受けて─── 殺された」

 

 

 

 

「────」

 

 

 

 

 アスナ達に固定されていた視線が、ゆっくり。

 ただ、ゆっくりと。

 ストレアに向いた。

 

 

 

 

「最初はテツオ。罠だと理解するのが一番遅かったのは彼。モンスターの排出口近くにいた彼は、ほぼ一撃で殺された」

 

 

「────れ、あ」

 

 

「次はササマル。レベル差も分からず焦って突撃し、目に見えたダメージも与えられず返り討ちにあって死んだ。確か、筋力値の低さに悩んでいたっけ」

 

 

「────すとれあ」

 

 

「次はダッカー。罠は彼が無闇に開けた宝箱が原因だった。転移結晶が使えないと分かるや否や恐怖で身体は動かなくなって、転んだところを背中から串刺しにされて殺された。何体ものモンスターが、何本ものピッケルをその手に、何度も何度も」

 

 

「────ん、で」

 

 

 ずっと目を逸らしていたことを、逃げていたことを突き付けられた。生き残った彼らが背を向け倒れているその様はまるで、冷たくなった死体のようで───ストレアの言葉も相まって、かつて失った人達とその影が重なった。

 彼らが死んだ時の映像が、見たこともないのに脳で構成されていく。罠にかかり閉じ込められてから、死に至るまでの生々しい瞬間が簡単に想起されていく。

 

 

「最後はサチだった。彼女は黒猫団の中で一番レベルが低かったにも関わらず最後まで生き残っていたよ。槍をただがむしゃらに振り回して、泣きそうな声を上げて」

 

 

「……やめろ

 

 

「彼女は死にゆく最後まで、アキトの名前を呼んでいた。貴方が助けに来てくれるのを信じていたんだ。そこに倒れているアスナみたいに────」

 

 

「────……っ、ぁ」

 

 

 

 その言葉が、全てだった。

 再び倒れるアスナに視線を戻せば、どうしようもなくサチと重なった。ピクリとも動いてくれない彼女からは、死の匂いがした。それを感じて、アキトは悟る。

 彼女はあの日の────サチの成れの果ての一歩手前だった。そして何よりもあの景色を作り出したのは、紛れもない自身だった。

 間に合わなかったから。自分が躊躇ったから。自分が甘かったから。

 

 

 誰かと一緒にいたいって……いられるかもしれないって思ってしまったから────

 

 

 

 

「……貴方じゃ誰も救えない。あの時と同じ。何の意味もなく、彼らを死なせるだけ」

 

 

「────」

 

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、アキトの瞳から希望の光が完全に消え失せた。身体に込められた力は僅かに緩み、瞬間、再び小刻みに震え始める。

 その理由は、悲しみでも恐怖でもない。原因はもはや紛れもない、誤魔化せないものだった。もう、心に宿る熱い“何か”の暴走を止めることはできない。

 彼女が何故黒猫団のことを知っているかなんて、どうでも良いことだった。ただ、触れてはならないものに触れた彼女を目にした彼は。

 

 

 ────アキトは、確かに“それ”を宿した。

 

 

 

 

(……なんだよ、それ)

 

 

 

 

 なんで俺、ストレアにそんなこと言われなきゃならないんだ……?

 

 

 君は……ずっとずっと俺のこと、そんな風に思ってたのか……?

 

 

 

 

「────……俺は」

 

 

 

 

 ストレアは初めて会った時から、どこか懐かしさを感じていた。殺伐としたデスゲームで二年も過ごしているはずなのに、ストレアはいつだって楽しそうに笑っていて。自然と目が奪われたんだ。

 でもそれは、誰かの些細な幸せや笑い合える時間を守りたいと切に願った自分の夢を体現したようだなと、無意識に感じていたからなのかもしれない。だから目が離せなくて、放っておけなくて、君が笑えば嬉しかったんだ。

 

 

 

 

「……僕は……ただ、君に……」

 

 

 

 

 君がいてくれると、それだけで周りが笑顔になって。暗い空気なんて吹き飛ばしてくれて。

 とても眩しく見えて。

 何より楽しくて。

 

 

 だからキミにも楽しんで欲しくて、この場所を自分の居場所だって思って欲しくて、アスナ達だって色々やってくれたんだよ。

 そうやってみんなを……笑ってる君を見ていると、たまらなく幸せなんだって思い始めていたんだ。

 何だ……何て言ったらいいのか、よく分からないけれど……。

 

 

 言葉にできない“繋がり”、みたいなものを感じてたつもりだったのに。

 

 

 最近はストレアも、そう思ってくれてるんじゃないかって────

 

 

 

 

「“もう誰も、絶対死なせない”んじゃなかったの?──── ねぇ、アキト」

 

 

 

 

 ────ドクン

 

 

 

 

 心にあった甘さが、“何か”と混ざって、溶けていく。作り上げられた体に宿る仮想の血液が、狂おしい程の熱を帯び、ゆっくり、ゆっくりと全体に染み渡っていく。

 視界の端々に横たわる、瀕死の仲間達。涙伝う虚ろな瞳、震えて体を動かせない彼ら。そして何より、この惨劇は自分が躊躇いさえしなければ生まれることはなかったのだと理解する。その事実が更に“何か”を強く動かし、ギチギチと歯車を作り上げていく。

 

 

 声が、音が、次第に遠くなる。景色が、視界が、段々と暗くなる。

 反転して脳裏に聞こえてくるのは、強くなり続ける自分の心音だけだった。

 痛いくらい脈打つ。怖いくらい高鳴る。それがやがて快楽へと変わり、心地好いと思えるほどに歪み、浅い意識が闇へと沈んでいく。

 

 

 

 

────おいで

 

 

 

 

 “何か”がその手を差し伸べる。

 虚ろな思考のまま、アキトはその手を掴んだ。

 その瞬間、感じていた痛みが消え去り、優しい温もりを一身に感じ始めていた。何もかも投げ捨てて全てを委ねてしまいたくなるほどの温かさは、アキトが望んでやまないものだった。

 

 捨てて、棄てて、忘れてしまおう。黒く暗く、昏い闇の彼方へその身を委ねよう。世界の深淵、その最奥へ。

 

 

 ────ぷつりと、音を立てて意識が途切れた。

 

 

 きっと、意識だけじゃない。彼とストレアを繋ぎ止めていたもの。彼とキリトを繋ぎ止めていたもの。何よりも、アキトとアスナ達を繋ぎ止めていた大切なものを。

 

 

 “何か”が、ぷつりと音を立てて、切ったのだ。

 

 

 そして、口元が歪んだ。

 

 

 

 

────ああ、

 

 

 

 

 もう、駄目だ。限界だ。

 初めから、こうしておけば。

 自分(コイツ)が、選択を誤ったりしなければ。

 甘さばかり重ねて、躊躇ったりしなければ。

 

 

 

 

────コイツを

 

 

 

 

 今になって、漸く確信しただろう。

 かつて仲間だった彼女、大切だった(オマエ)は。

 今、目の前で剣を向けて悦に浸っているこの女は、もう────

 

 

 

 

 

────殺さ、ナキャ

 

 

 

 

 今、すぐに。

 

 










『────それでいい。僕に任せとけよ


“何か”は、自身が望み、企てた何もかもが上手くいく兆しを感じていた。


END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)

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