ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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人は憎しみから何も「生」まないけれど、逆に憎しみで何かを「死」なせることは簡単に出来るんだ。どれだけ取り繕ったって、そんなものだよ。




Ep.116 災禍

 

 

 

 

 

 

「……っ、ん」

 

 

 不気味なほどに冷たい風が頬を撫で、アスナは目を覚ました。覚醒の気分など、言わずがもがな最悪だった。

 アスナは起き上がろうとするも、力を入れることが出来ない己の身体を不審に感じる。今まで感じたこともない、何とも言えない不快感が全身に至るまでに及んでいた。

 

 どうしたというのか。

 一瞬だけ、恐怖に近しい焦燥がその身に走る。

 

 だが、腕や足の感覚が全く無いことに気が付くと、夢見心地だった意識が急激に冷めていくのを感じ、アスナは漸く我を取り戻した。自分が今どういう状況で、他の仲間達がどうなったのか、その思考の回転は驚くほどに早かった。

 

 何があったか思い起こそうとすれば、真新しい記憶は驚くほど生々しく脳内で再生される。ストレアが強化した紅き猛獣が、自身を囲う攻略組のプレイヤー達に広範囲に渡るブレスを吐き出した、その映像が。

 アスナはすぐさま防御体制を組もうとしたが、恐怖から身体が動かせない者が大半で、結果アスナは至近距離から“それ”を喰らってしまったのだ。

 自分は一体、どれだけ気を失っていたのだろう。そして何より────

 

 

「……っ、みんな、は……」

 

 

 思考は当然のように仲間の安否だった。アスナは最悪の事態を考えてしまう思考を一緒に振り払うかのように、頭を左右に振りながら辺りを見渡し始めた。

 けれど、心の何処かで大丈夫だと思ってしまった。自分は至近距離でも腕と足を失うだけで済んだのだ。自分よりも遠くにいたみんなは、もしかしたら軽傷かもしれない────と、そんな淡い期待を抱いてしまった。

 

 

「……ぇ」

 

 

 だが、アスナは見た。見付けてしまったのだ。

 自身の眼前に転がる、それ(・・)の数々に。

 

 

「……あ、れは」

 

 

 それは────大きな十字型の盾。それも数枚に渡ってその場に投げ出されていた。

 この盾の持ち主達をアスナは知っている。何せ同じ《血盟騎士団》のメンバーなのだから。常に攻略組を支える頼もしい壁役。自分を信じ、ここまで付いて来てくれた大切な仲間達の盾だ。

 

 

 なのに。なのに、どうして。

 どうしてあの盾の持ち主達が、ただの一人も見当たらないの───?

 

 

 アスナはきっと、認めたくなくて周りを見渡し、彼らを探していた。

 理由は、きっと分かっていた。けれど、分からない振りをした。

 分からないと思ったまま、分かりたくないと感じたまま、分からなくてはならないのだと知っていながら、それを理解することを恐れたまま。

 

 

 

 

 ──── そうして逃げていた問いの答えは、無慈悲にも黒煙が晴れた先で彼女を待ち受けていた。

 

 

 

 

「ひ、ぁ」

 

 

 

 

 視界を覆うそれらを目の当たりにした瞬間、裏返った声がアスナの喉元から漏れ出していた。

 それは、彼女が攻略組として戦ってきた二年間の中で、一番地獄に近い光景が目の前に広がっていた故だった。

 

 見慣れた部屋の冷たい床は、所々に散る炎によって黒く焼かれ、転がる武器の山々は焼け爛れて泥のように溶け出している。均一で芸術性さえ感じられた黒曜石の壁は至る所に亀裂が走り、見る影もないほどに輝きを失っていた。

 煙晴れゆく空間は、あの攻撃を食らう前に比べて明らかに広々としていて、その理由が否応無しに頭の中に入り込む。

 

 

「……い、や……いや、嫌ぁ!」

 

 

 そこにあったのは、生きているのか死んでいるのかさえ分からない、数えるほどしかいないプレイヤー達の、見るも無残な姿だった。

 

 

 先程まで共に戦っていたはずの戦友は、その半数が炎に包まれ亡き者になっていた。

 未だ真新しくポリゴン片が散らばって虚空の彼方へ消えていく。たった今でさえ、誰かがその身を死という事実の前に散らしていた。残ったのは、主も闘志も失った武器だけだった。

 

 

 ──── 片手で持つには少し大きめな、簡易なデザインの槍が転がっていた。持ち主はこの殺伐とした世界でも気さくで、強張った雰囲気を和らげてくれる存在だった。

 ──── 刀身が真ん中で砕け散った長剣が捨てられていた。持ち主はプライドが高く融通も利かなかったが、それでも仲間のことを第一に考えて行動しようと努力する堅実な存在だった。

 ──── 盾と認識するにはあまりにも粉々にされた盾が、新品の如く輝く片手直剣の下に敷かれていた。持ち主はお調子者ではあったがどこか憎めなかった。あの片手剣は今日初お披露目なのだと、ボス戦前に周りに自慢していたではないか。

 

 

 床の至る所、そこかしこに砕けた鋼は転がっていた。それは、持ち主の死を意味すると言っても過言ではない。

 転がる武器一つ一つに持ち主の面影が薄らと宿る。それでも彼らのことを、アスナは鮮明に思い出せた。思い出せたのだ。だって、今までずっと一緒に戦ってきたのだから。

 もう二度と彼らのその顔を見ることが出来ないだなんて、とても信じることが出来ない。一瞬で全てが失われただなんて、納得出来るはずなんてない。

 

 

 ────そうして、自ずと理解する。

 アスナの前に転がっていた複数の盾。

 あの盾の持ち主達は、もういない。あの盾は、アスナが守ろうとして間に合わなかった───彼女よりもボスの前にいた壁役(タンク)プレイヤー達の残骸なのだと理解した。

 アスナは偶然、そして皮肉にも彼らを盾にして生き残ったに過ぎなかったのだ。

 

 

「ぁ……ああ、あああ……!」

 

 

 信じたくなくて、受け入れたくなくて。口から零れたのは、言葉にならない絶叫。

 嫌になるくらい響いた悲痛な声。それでもこの悪夢を覚ましてはくれなかった。それが、この光景は現実なのだと突き付けてくる。

 

 ─── なんで、何で。何故、どうして。なんで。なんで。なんで。なんで。

 

 何故こんな目に会わなくちゃいけなかったのだろう。ここまでされる罪が、どうして彼らにあったといえるのだろうか。ただ生きる為に、戦っていただけだというのに。

 頭が上手く回らない。堪える気力を失いつつあったアスナの見開かれたその瞳からは、容赦無く涙が溢れていた。

 

 

「っ……?」

 

 

 不意に、アスナは撒き散らされた黒煙の中で、自身の近くにある気配を感じ取った。喉元が一瞬だけ詰まり、アスナは顔を上げた。

 

 この絶望の中、ましてや腕も足も欠損し、動くことすら難しい今の身体では、自分が見たいと思った方向へと視線を動かすのさえ億劫だった。だがアスナは、震えるその上体を起こして首をもたげ、感じた気配を辿った。

 きっとプレイヤーだろう。当然の如く瀕死かもしれない。見たくないのに、否定したいはずなのに、それでも本当は見届けるべき責任があるのだと分かっていた。視線は、ゆっくりとその黒煙の先へ。

 

 

 ────転がっていたのは、折れた短剣と焼け焦げた水色の羽。

 そして、アスナよりも小柄な少女だった。

 

 

「……シ、リカ……ちゃ……」

 

 

 変わり果てたその姿を目にしたアスナは、大切な仲間の一人であるその少女の名前を呼ぼうとして────凍りついた。

 

 生きていることを喜ぶにはその悲惨な姿はあまりにも残酷で、冷たくて。それが生者のものであるとは到底思えなかったから。

 

 

「ぁ……あ、っ、あああ……シリカ、ちゃんっ……シリカちゃんっ!!」

 

ぁ……あすな、さ……無、事……だった……です……ね……よか、た……

 

 

 細く、今にも消えてなくなってしまいそうなシリカの声。その姿は死が傍らにあるように見えて、アスナは堪らずその身を酷使して彼女に向かって這いずった。

 

 赤が映えるシリカのブレザーは炎の影響でボロボロに崩れ、頭はツインテールの右手側から右眼にかけてまで火傷跡のように吹き飛ばされていた。残された虚ろな左眼からは止めどなく、絶望と悲痛な涙が伝っている。

 両足も焼き消されていて、その近くには相棒のピナが翼を失った姿で、それでもなお主人を守ろうと彼女の傍でその身を盾にしていた。

 

 シリカにはもう、僅かな体力しか残されていなかった。その身への最後の一撃は、指先でほんの少し小突くだけで事足りるのではないか。そんな恐怖を感じさせた。

 

 

「……っ……っ」

 

 

 彼女は自分の命の危うさよりも此方を見て、“無事で良かった”と言葉をかけて、無理しているとひと目でわかる笑みを浮かべてくれたのに。アスナはシリカに、何一つ言えなかった。ただ震えて、この悲劇を嘆くのに精一杯だった。

 

 何と言えば良い?

 何を返せば良い?

 彼女のこの姿を前にして、誰が“生きていて良かった”だなんて言えるだろう。

 この有様では、死までの時間が僅かに先延ばしにされただけではないか。シリカだけじゃない。他のみんなも────

 

 

「っ……み、んな」

 

 

 アスナはここへ来て、漸く周りを見渡せるだけの意識を取り戻した。それは決して余裕だなんて聞こえの良いものではなかったかもしれない。

 耐えず恐怖と焦燥を綯い交ぜにした震えは収まらず、視界と視線が安定しない。ろくに声も出せぬまま、倒れるシリカの先へ──みんなの元へとその瞳を向ける。

 

 

 ──── 親友であるリズは、自分で鍛えた愛用のメイスとバックラーを腕ごと溶かされ、その虚ろな瞳を見開いたまま、ピクリともせずにその意識を手放していた。そこにムードメーカーたる快活さなど、欠片も無かった。

 

 ──── リーファは、そんな彼女のすぐ近くで膝を付いていた。左足を失うだけで目立った外傷が少ないところを見ると、リズに庇われたのかもしれない。自分を守る為に犠牲になった彼女をへたり込んだまま呆然と見つめ、口を開くも何も言葉に出来ず、その頬からは涙だけが流れていた。

 

 ──── シノンは、あの攻撃の衝撃で壁際まで吹き飛ばされていた。寄り掛かる黒曜石の壁に巨大な亀裂が走っているのは、それほどまでの威力で衝突したということ。弓の弦は焼き切れ、矢は灰となり、項垂れたその姿からは表情すら伺えなかった。

 

 ──── フィリアは、その身が赤いエフェクトで覆われていた。首から下全てが火炎の餌食になったが如く、体温を容赦無く奪う冷たい地面の上で仰向けになって放置されていた。意識はあるようで、苦しげに表情を歪めながら、麻痺する身体を懸命に動かそうとしていた。

 

 ──── クラインは、自慢気に見せびらかせていた和の雰囲気を纏う甲冑を溶かされ、リズ同様うつ伏せになっていた。目の前の刀は高熱で折れ曲がっており、それを見た彼自身も周りを見渡して、そして理解した。この唯ならぬ被害に、その表情が固まっていた。

 

 ──── エギルのその瞳からは、いつもの余裕も、壁役の闘志も、意志すら感じなかった。みんなをどうにか鼓舞しようとも、エギル自身がこの現状を受け入れられないようだった。

 誰もここまでの惨状を見たことも無いし、まして見たことだって無い。地獄に近しい被害を鑑みて、エギルにはこのボス戦の勝敗さえ見えてしまっていたのかもしれない。ともすれば、その瞳に映るのはきっと恐怖だけだった。

 

 

「ぁ……ぁ、あ、ああ……そ、んな……」

 

 

 この世界において、“死”という事実は肉体としては残らない。けれどアスナには、この場で死にゆく全てのプレイヤーの死体が、絶望を映した表情がはっきりと見えていた。

 生者の中に紛れるそれらは、物言わぬ亡霊のままアスナの生存を責め立てる。

 

 

 ────どうして、お前は生きている。

 ────何故、俺達は死ななければならなかったんだ。

 

 

 言われている気がした。何も映すことの無い暗い闇色の瞳に。

 責められている気がした。何を告げることも叶わない僅かに開いた唇に。

 憎まれている気がした。彼らと過ごし、共に戦い、笑い合っていた日々の思い出に。

 

 

「違うっ……違うよ……私は……ただ、もう一度、みんなと……」

 

 

 何処かで少しだけ期待していた。想像が現実になるのだと思ってしまった。

 アキトがストレアと対峙しているのを見た時、アスナはきっと大丈夫だと、何もかも彼が救ってくれるのだと思った。どんな理由でストレアがこのような挙に及んでいたとしても、自分の英雄が手を差し伸べて助けてくれる。さすれば今回の討伐もこの惨劇を生むことなく成功し、みんなでまた祝杯を挙げられるものだと信じて疑わなかった。

 これまでもそうだったように、アキトはストレアを救い、そして彼女にこんな事をした理由を聞いて、その解決策をみんなで考え、悩みや辛さを共有し、ささやかな行き違いの溝を埋め、また一緒に手を取り合って過ごしていけるのだと信じていた。

 

 どんな窮地も惨劇も、起こりうる全ての悲劇も、全てアキトが解決してくれるのだと軽視していた。何が起きたとしても、大丈夫だと期待を抱き、みんなで挽回出来ると見くびっていた。

 アスナはまた、淡い期待を押し付けたのだ。キリトを失ったあの時と同じように────

 

 

「ごめ、なさい……ごめん、なさい……ごめんなさい……!」

 

 

 それを知った時、何て愚かなのだろうかと、アスナは涙を地面に落とした。この懺悔を誰かに聞いて欲しくて、慰めて欲しくて何度も吐き出した。

 頭を抑え、蹲り、今もなお此方を見つめる死の眼と、耳元で囁く怨嗟の声から逃れようと謝り続ける。

 

 自惚れていた。守れなかった。

 間に合わなかった。何も出来なかった。

 何より知らなかった。自分がこんなにも無力で身の程知らずで浅ましかったなんて、今の今まで知らなかった。知らなかったんだ。

 

 だから、押し付けたんだ。

 

 

 

 

「っ」

 

 

 

 

 ────途端、自分と近くのシリカを暗く、大きな影が覆った。

 

 小さな唸り声が、獣のような不規則な呼吸と混じり合い、天から降り注ぐように鼓膜に響いた。それだけで、圧倒的な力と、恐怖で身体が動かなくなる理由に辿り着く。瀕死であるが故の研ぎ澄まされた怒りを背中から一身に受け、アスナは戦慄く。

 アスナはその圧迫感に耐えながら、ぼやけた視界にそれを見た。

 

 

 ────視界いっぱいに、鋭い牙を光らせた赤い毛並みの獣が映り込んだ。

 

 

 口元に僅かながら火の粉を巻き散らせ、空間を包むような熱気が周囲を席巻する。

 漸く意識を取り戻し始めていた生存者達が、アスナが、言葉を失った。

 

 

 ────最後の仕事だと言わんばかりに、96層のボスが攻略組を終わらせにやってきたのだった。

 

 

「……ぁ」

 

 

 終わる。すぐそこに、死神がいる。

 アスナは目前に迫ったその『死』の感覚を、はっきりと感じ取る。奴から迸る怒り──それは何故か、ストレアが攻略組に向けて放っていた視線に混じる感情に、よく似ているような気がした。

 彼女に強化された獣は、彼女の意思や願いを反映させているのかもしれない。この激情を表す熱だけで、空気が死んでゆく。

 

 

 ────ねぇ、教えてよ……。

 

 

 四肢に力を込め、再び口元に光を集める獣を濡れた頬のまま見上げて、アスナは心中でストレアに問い掛けた。

 

 

 ──── 私達が、貴女に……一体何をしてしまったっていうの……?

 

 

 一体どんな理由があって、自分達を殺すことに決めたのだろう。その考えに行き着く前に、相談するという手は無かったのだろうか。

 この殺戮を、躊躇ったりしなかったのだろうか。それが、死にゆくこの瞬間にどうしようもなく気になってしまった。

 誰も彼もが死を覚悟して走馬灯を見てる中、アスナは。アスナだけは、これまで過ごしたストレアの笑顔の真偽を知りたくて、そんな問いを抱いてしまった。

 

 

 ────助けて。

 そう切実に願った。

 みんなの為に、みんなを救ってくれと、性懲りも無く願ってしまった。

 

 

 驚いたのは、思い浮かべたのが、求めてしまった人が、かつての想い人ではなかったことだった。

 キリトとはまた違う優しさを持った、誰かの為に戦うもう一人の英雄。

 今まで迷惑をかけ、期待を押し付け、何度も救われ、支えたいと願った人。

 そしていつの間にか、傍にいたいと思ってしまった人。

 

 

 ああ、そうか。

 私はなんて、最低で、酷い女だろう。こんな死の間際にそんなことを考えてしまうだなんて。

 きっと、きっと私は。

 

 

 アキト君に────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────宣告・貫通による死(デス・バイ・ピアーシング)

 

 

 

 

 

 

 

 

 全ての音が遮断され、そう告げた冷たい声だけが鼓膜を刺激し震わせる。

 瞬間、紫色の閃光が地面を抉るように伸び上がり、赤い獣のその口元を牙ごと貫いた。

 

 

『『『Gu────ruAaaaaaaaaa!!?』』』

 

 

 収束していたブレスの塊は暴発し、ボスは堪らず、頭を吹き飛ばされたまま近くの壁に激突した。空間を振動させるほどの重量が、『死』に導かれるままだったアスナ達の意識を覚醒させる。

 

 

「っ……!?」

 

 

 “助かった”、そう思うよりも“何が起こったのか”に思考が優先された。衝撃で荒れ狂う黒煙に目を細めながら、誰も彼もが奴を貫いた紫色の閃光── その螺旋の槍を、消えることなく天へと向かい伸びていく光の柱を見た。

 部屋の中心点から少し離れた場所から聳えるその光は、およそこの世界の法則や枠組みを無視して顕現した力のように感じた。倒れたあの獣に引けを取らない“暴力”が、ただそこに在った。

 

 

 アスナは目を疑った。

 その光が生じた先。あの位置に居た人を、自分は知っている。

 

 

 

 

「……アキトくん」

 

 

 

 

 ────そこに、彼はいた。

 

 

 黒煙が全て空間の端へと押し退けられるほどの暴風と、ボスを貫く紫色の光は、部屋の中心に立つ人物────アキトから生じたものだった。

 

 黒煙にも負けず劣らずの闇色の風。アキトを包んで螺旋状に空へ伸びるそれは、紫電の槍の周りに渦巻くように走る。

 それはけたたましい轟音を共に纏わせて、やがてアキトの手によって振り下ろされた。

 

 

 向かう先は、呻き声を上げながら起き上がろうとするボスの喉元だった。距離はかなりあるが、天高く伸びる光の柱は、そんな距離など無視して迫り来る。

 

 

「────っ!」

 

 

 途端、ストレアはアキトとボスの間に割って入った。《トレイター》を頭の左側まで巻くようにして構え、その刀身を輝かせた。あの巨大な槍の柱を迎撃するつもりのようだ。

 彼女の剣は、アキトが生んだ紫電と同色のエフェクトを纏わせ始める。それはアスナの知る片手剣技《ホリゾンタル》でも《バーチカル・アーク》でもない。全く未知のソードスキルだった。

 しかし、アスナが知らないのも無理はない。

 

 片手剣OSS重単発技《ワールド・エンド》

 

 それは、アキトが《ホロウ・エリア》のシステムで生み出した、新たな片手剣のソードスキルであったからだ。ストレアが《カーディナル》に補完された戦闘記録から抽出したアキトの技。単発技であるが故に、その一撃に自身の筋力値で出せる最高威力を叩き出すソードスキルだ。

 

 互いがぶつかると同時に再び暴風が吹き荒れ、アスナ達はその眼を細める。これがあの二人の剣戟から生じているなんてにわかには信じられないが、目の前で起こっている事が全てを物語っていた。

 

 

「はあぁっ────ぐぅっ!?」

 

 

 倒れるように落ちてきたその紫電の槍は、恐らく彼女が想定していたものより何倍も重かったのだろう。ストレアのその一撃はアキトのそれを弾くにはあまりにお粗末なものだった。

 じわじわと着実に、闇色の光がストレアを押し潰していく。遠目から見てもストレアの表情は苦痛に歪み始めている。片手で なっていた剣技はやがてその威力を弱めていき、ストレアはやがて空いた左手で刀身を支え始めた。

 

 対して、アキトは。

 

 

「────」

 

 

 物言わぬまま、見たこともないほどに冷たい表情をその顔に貼り付けてストレアを見据えていた。ぞっとするほどの、見た者全てを凍てつかせてしまうような氷の瞳。目を見開いたまま空虚に宿すストレアの苦痛など、意にも介さなかった。

 紫色の閃光を放つ《ブレイブハート》。アキトはその柄を強く握り締めると、それを軽く右へと振り払った。

 

 

「ぐぅっ────!?」

 

 

 瞬間、それを受け止めていたストレアも右へと弾かれ、床を滑るように吹き飛んだ。

 

 爆風の余波がアスナ達の方にまで襲いかかり、焼き切れたアスナの髪が煽られた。

 此方からして見れば、アキトはその巨大な質量を持つ紫色のエフェクトを、剣ごと軽く右へと薙いだだけに見えた。それだけで規格外であるにも関わらず、ストレアの身体を小さな石ころのように飛ばしたのだ。

 

 確かに驚いた。だが、アスナにはもう一つ驚愕することがあった。

 あのアキトが、目の前のストレアを何の感傷も無く吹き飛ばしただなんて────

 

 

「────」

 

 

 アキトの眼は、ストレアが視界から外れてもそれを追うことはせず、更にその先で起き上がろうと四肢を立ち上げた赤く巨大な獣に向かう。

《ブレイブハート》から放たれていた閃光は硝子のように砕け散り、やがてただの光となって霧散する。瞬間、その不気味な風はアキトの周りを駆け巡り、纏うように張り付いて、彼のその姿を変えていく。

 

 

 ────反転。

 

 

 その黒い瞳は、血のような双眸へと。

 

 その黒髪の一部は、色素を失ったように白く。

 

 身に纏うコートさえも、所々の色を反転させ始める。

 

 

 

 

「……アキト、くん……?」

 

 

 

 

 アスナの小さな声は、この風によって掻き消える。届くはずもなく、アキトは自身の色を反転させていく。まるでこれまでの自分と、決別するかのように。

 そうして自身の体が、髪や装備に至るまでの全ての色が、黒と白の半々になった辺りでその風は弾けた。

 

 

「────」

 

 

 瞑っていたその瞳を、ゆっくりと開く。

 アキトの血色の双眸は、ただ目の前のボスへと再び固定された。黒と白が混じり合うその髪が、風の余韻を受けて靡き、覗いた瞳が殺意を宿す。

 かつての英雄を宿す色は、一部、かつて雪のように白かったコートを彷彿とさせる色彩を放つ。それがふわりと浮かんだ瞬間、アキトはその身を屈め、剣を寝かせ、ボスと自分を直線で結び、

 

 

「────」

 

 

 踏み込みで黒曜石の床を砕き、その勢いのまま全力で駆け出した。それは、共に戦ってきた中でも初めて見るほどの速度。風の比喩すら生温いそれは、ただボスを殺す為だけのものであると、明確な殺意を混ぜたその眼が語っていた。

 

 

「っ、させ、ない!」

 

 

 その声は、アキトの右手側から生じる。態勢を立て直したストレアがアキトの背後を取っていた。《トレイター》は既に彼の背中を捉えており、それは彼を射貫くことに躊躇いを感じさせない。

 

 斬撃に跳躍を乗せた一撃────だが、アキトは躱して見せた。

 

 

「!?」

 

 

 明らかに死角だった。ストレアの速度はアキトに劣るも、音や声にアスナが気付いたのは、アキトの背後をストレアが取ったその瞬間だったのだ。

 アキトは見えていないはず。なのに、早過ぎる反応────いや、これは予測か。

 

 彼女の攻撃など取るに足らない。構わずボスへ駆けるアキトに、ストレアは歯軋りした。

 

 

「な、めるなっ!」

 

 

 ライトエフェクト─── ソードスキルだ。白銀に煌めくその剣は、再び空間に線を引く。アキトを追従するように放たれたそれは、しかし再び空を切った。

 アキトは軸足を傾けて左へ躱し、返す足で右へと進路を変える。急な切り返しにストレアは反応出来ず、剣技《ホリゾンタル・スクエア》は不発に終わるどころか、追い掛けるアキトとの差さえ徐々に離れていく。

 

 

「くっ、この……!」

 

「────」

 

 

 アキトは背後で苛立ちを見せるストレアをチラリと見た後、ふと足元に転がる物体に視線を下ろす。それは、この場でボスによって命を散らした《血盟騎士団》の壁役の一人が所持していた大盾だった。

 

 何をする気だ────アスナがそう疑問を抱いた瞬間、アキトは大きく左足を上げたかと思うと、すぐさまそれを振り下ろした。すると床に敷かれた盾にその踵がぶつかり、そのままストレアへと蹴り飛ばしたのだ。

 まるでサッカーのバックパスのように、盾は軽々とストレアへと向かう。あまりに異質な攻撃方法にストレアは僅かに反応が遅れ、その大盾をまともに食らってしまった。

 

 

「うぐっ……ぁ!」

 

「────」

 

 

 怯んだその隙を縫うように、アキトは踵を返してストレアへと向かう。攻撃対象がボスからストレアへと変わった瞬間、アスナは背筋を凍らせた。

 だが、アスナが何かを言おうとした時には、もう遅かった。

 

 

「────宣告・連撃による死(デス・バイ・バラージング)

 

 

 冷たいその声と共に繰り出されたのは、鋭く尖った細剣のように繰り出された足による連続蹴りだった。一撃目でストレアを覆う盾を弾き飛ばした後、それまで盾で視界を覆われていたことで反応が遅れた彼女の腹に、アキトは容赦無く連撃で蹴り込んだ。

 足には紫色のライトエフェクト────《体術》に部類されるOSSだった。

 かつての仲間に対する手加減など微塵も無い。これは確かに、命を刈り取る為の技だった。

 

 

「がっ、……あぅっ!」

 

 

 最後の一撃が、ストレアの渠にめり込む。先程彼女自身がアキトに向けた一撃、その仕返しが実行されたのだ。

 衝撃波が発生するほどの蹴りに、ストレアは再び吹き飛ばされた。くの字に折れ曲がった身体はそのまま部屋の壁に吸い込まれるように激突し、その壁に亀裂を走らせる。彼女のHPは一気に半分近くまで消し飛び、その闇色のコートの端々に赤いエフェクトが刻まれた。

 

 

「う、くっ……なに、急に……」

 

 

 起き上がろうとも上手く身体を動かせないストレアの言葉は、途切れ途切れではあったがその通りだった。あれほどストレアに剣を向けることを躊躇っていたアキトが今、一瞬ではあるが彼女に明確な殺意を向けた事実。そして、妨害していたストレアを排除しようと、それを実行してみせた。

 そのあまりに急な出来事に理解が追い付かないのは、誰も彼もが同じだった。

 

 ────そう、誰も彼もが、だ。

 既に周りは段々とその意識を覚醒させ、各々が自身の回復に努めている。当然、シリカ達も漸く元気を取り戻しつつあった。その最中、突如アキトの変貌を目の当たりにして、呆然としていた。

 

 まず視線が向いてしまうのは、アキトのその姿。

 黒と白を半々に、歪に、不規則に塗り替えられたような髪と装備。そして、ストレアに対してあんなにあっさりと攻撃し、そして殺意をもって沈めた暴力的な一撃。

 何より、血色に染まった双眸が、憎悪や殺意を教えてくれる────アキトは今、普通ではないと。

 

 

「……何よ、あの姿」

 

 

 震える声で、目覚めたリズベットが呟いた。

 誰かに聞いて、確かめようとしたのかもしれない。アキトをよく知る者は欠けることなくその答えを求めてた。だが、その問いの答えなど誰も持ち合わせていない。

 どこか既視感を感じているアスナでさえ、アキトのあの姿の理由を何も知らないのだ。

 

 

 そう、既視感────

 

 

(……あの時と、似てる)

 

 

 心の中で呟く、その声さえ震える。

 アスナは、かつて《ホロウ・エリア》の最深部にて、データであるキリトと戦った彼の姿を脳裏に呼び起こしていた。戦意を失っていた彼が突如激情に駆られ、“何か”に侵食されたあの現象。

 あの時と同様に、瞳の色が薄暗い空間で不気味に輝いている。我を忘れ、攻撃対象を徹底的に痛め付ける衝動的行為がこれから始まろうとしているのは明白だった。

 

 だが、以前と違う部分もある。

 黒白とした外見の変異だけではない。言わば、身に纏うその雰囲気だ。

 あの時の冷たく嗤う表情も、獣のような雄叫びも今の彼にはない。ただ静かに対象見据えるその眼は、遠目から眺めているアスナが震えるほどに恐ろしく、冷たい。光届かぬ虚ろ。幸福も喜びも削ぎ落とされ、大切なものなんて、忘れてしまったような空洞だった。

 そしてその表情は“無”そのもの。笑いもせず、怒りも見せず、悲哀など感じられない。殺意を込めた呪詛も無く、物言わぬ人形のように、恐ろしく綺麗なその顔は不気味なほどに静けさを纏う。

 

 

 まるで、ただ暴れるだけだったあの時から成長し────内に秘める“激情”の使い方を学んだかのように思える。

 感情を制御下に起き、思考することを覚えたように思えてならなかった。

 

 

「────」

 

 

 苦痛に顔を顰めながらも立ち上がろうとするストレアの姿を、見据えるアキトの瞳はどこまでも冷たい。それは哀れむでも怒れるでも、まして憎むでもない、彼女という存在に価値を見出していないような透徹した眼差しだった。

 興味は既に、態勢を整えたボスへと変わる。対して、アキトにしてやられた獣は殺意の対象を彼に向けた。その体力は最早風前の灯火、それ故の生存本能が闘争心を駆り立て、その存在感を威圧的に放ってくる。

 

 対するアキトは、そんな獣を前に全く物怖じせず、吹き飛ばしたストレアと反対方向───即ち左彼方に転がるとある物を捉える。

 それは、彼女との攻防の末に右手から零れ落ちた愛剣《リメインズハート》。しかし、取りに行くにも距離が離れており、向かおうとすれば忽ちボスに隙を与える羽目になる。

 だが、

 

 

「────」

 

 

 アキトはただ、空いた左手をその剣を指し示すように広げただけだった。変わらぬ絵画のように冷たく固まるその表情は、あらゆるものに関心を示さず、ただ目的に準ずる機械の如く。

 

 

 ────瞬間、離れた位置にある《リメインズハート》がカタカタと震え始め、意思持つようにその固い床から跳ね上がった(・・・・・・)

 

 

「なっ……」

 

 

 誰が漏らした声か。しかし、その光景に絶句せざるを得ない。そこに物理法則など介在しないかのように、魔法のように飛び上がったその紅剣は、物凄い勢いで回転しながらアキトの元へ向かう。

 そして、翳していた左手にすっぽりと収まり、《二刀流》として、アキトはたった今完全武装を遂げたのだった。

 

 

「……んだ、今の」

 

 

 クラインが、面食らいながら呟く。

 まるで物言わぬアキトが『来い』と命令し、それに《リメインズハート》が応えたように。意思の力で剣を呼び寄せたみたいに。

 この世界では空を飛ぶモンスターやブレスといった攻撃概念を持つモンスターはいるが、毎プレイヤーにおいては、ステータスの大小によって多少の際はあれど、どこまで行っても物理法則に忠実である。

 それなのに、あれは一体────

 

 

「────」

 

 

 アスナ達に考える時間など与えない。きっと今のアキトの意識下にも眼中にも、アスナ達のことは露ほども存在していないだろう。

 キリトでもなく、アキトでもない“何か”の視界には、もうあの紅蓮の獣しかいないのだから。

 

 彼が駆け出す度に床が僅かに亀裂を作る。その速度、その強度はアキトのステータスを半ば度外視していると言わざるを得ない。

 その姿、雰囲気、敵に向ける殺意、ストレアを手に掛けようとする意識、その何もかもが別人であることを示している。異様な姿を見せる黒白の剣士は、もう英雄と呼ぶにはあまりに禍々しく、あまりにも闇が濃かった。

 

 互いの距離が縮まる毎に、その殺気が濃く、強くなる。凄まじい寒気とアキトの剣気が空間を押し込み、大気を震わせ始める。その両の剣を胸の前で交差させ、そのまま獣の足元まで突っ切った。

 

 

『『『Gu────ruAaaaaaaaaa!!!』』』

 

 

 猛獣は既に、足元で動き回る異物を排除せんとその左前脚を振り上げていた。口を開き牙を部屋の僅かな明かりで煌めかせ、部屋の亀裂を深くするほどの咆哮を上げながら、その脚を振り下ろす。

 生存本能によって高められた敏捷値が、その一撃を加速させ、すぐ真下に移動していたアキトとほぼ完璧にタイミングが一致している。

 

 

「っ、アキ────」

 

 

 その声は届いていただろうか。

 しかし、アスナが心配するようなことは起きなかった。彼女の声が言葉になる前に、アキトはその身を捻らせて紙一重で獣の脚を回避していた。その巨大な脚が黒曜石を砕き、跳ね上がる礫の中で、アキトの交差した二本の剣はその色を禍々しい闇に染め上げた────

 

 

「────」

 

 

 その鎚のような獣の脚を置き去りに、彼は飛び上がった。蝶のように軽快に、鳥のように当然に、風のように流麗に。それでもその剣はただ獣の命を刈り取る為のもの。

 先程の技と同様に、暗く、冷たい───“死”という概念を事実として《カーディナル》に刻み込む為だけの絶技だと、アスナの本能が叫ぶ。

 

 

 再び世界が静寂に包まれる。

 僅かな呼吸さえ鼓膜が拒絶し、視覚に全ての神経が集中するかのように。

 空を駆けたアキトは、ゆっくりとその交差した剣を、獣の首に宛てがい、

 

 

 

 

 そして、告げた。

 

 

 

 

「────宣告・抱擁による死(デス・バイ・エンブレイシング)

 

 

 

 

 ────ボスの首が胴体と決別したのだと気付くのに、数秒掛かった。それくらい鮮やかに、それほどまでに当然に、一瞬で全てが終わったのだ。

 

 

 その獣が認知するより早く、奴の首は滑らかな切断面を晒し、鈍い音を立てて落ちた。

 頭と、頭から下。それらが分かりやすく二つに切り落とされ、その生涯と役目を完全に終えてしまっていた。

 

 

 ────ゴトリ。

 

 

 かなりの重量が見込めるその首が地面に落下したと同時に、獣は死を思い出したようにその身を硝子のように散らせた。それを追うように、未だ四肢を立てて聳えていた身体が光となって消滅していく。

 

 

『……』

 

 

 誰も、言葉を紡げない。目の前の光景にただ息を呑むことしか出来なかった。

 危険域にあったとはいえ、あの獣は一撃で倒せるほどの体力ではなかった。それを今、アキトは一撃をもって沈め、この地獄に終止符を打った。これは、その瞬間であった。

 

 ボス討伐完了を告げる勝利のファンファーレは、喜ぶにはあまりに被害が大き過ぎた。なんとも情けなく聞こえたそれは、ただ心を痛ませる耳障りな音へと変貌しつつある。

 

 

 

 

 ────その中で、アキトはただ立ち尽くしていた。

 

 

 

 

「────」

 

 

 両の剣を下ろし、舞い上がる光を視線で追う。口を半開きにし、虚ろな瞳は暫く虚空を眺めていた。

 何を考えているのだろう。失った命の数に、心を痛めているかもしれない。泣きたくても泣けないのかもしれない。既に満身創痍かもしれない。そんな不安がアスナの胸を渦巻く。

 

 

「アキトさん……」

 

「……アキト」

 

 

 既に皆、身体は復元しつつあった。各々が胸中に複雑な想いを抱きながらも、この現状を作り出したアキトに目を向ける。今もなお黒白の姿のままの彼に、掛ける言葉を失う者は多かった。

 アスナはゆっくりと立ち上がり、未だ物言わぬアキトにそれでも声を掛けようと、その口を開きかけた────その時だった。

 

 

 

 

「────」

 

 

 

 

 ────アキトの眼が、虚空からストレアへ向いた。

 

 

 

 

「っ……!?」

 

「こ、れは……!?」

 

 

 突如、空間全てを恐怖に染め上げるほどの殺意が、プレイヤー達の身体を襲った。一瞬この場の全ての人間がその動きを止め、背筋を凍らせるほどに。

 ひび割れるような音が鼓膜を刺激し、部屋の壁の亀裂を徐々に徐々に増やしていく。ぼろぼろと壁は礫を零し、崩壊の予兆を示し始めていた。

 地面にも同様の影響が表れ始め、そこに身を置くプレイヤー達は忽ちその場にへたり込んだ。

 

 

「なに……何なのよ、これ!?」

 

 

 リズベットが声を上げられたのは、奇跡が根性か。皆、あまりの恐怖に口元を震わせ、戦慄き、まともに呼吸すら出来ない。

 肌がひりつき、火傷のような痛みが身体の全てを刺激する。身体に込めていた力みは脱力感に変わり、呼吸どころか立つことさえ億劫になり、その意識が茫洋とし出す。

 

 

 底冷えするような殺意の圧力。

 その中心にいたのは、間違いなくアキトだった。そしてその瞳は絶えず、この惨劇を作り出したストレアに向いていた。

 

 

「っ……」

 

 

 ストレアはわなわなと身体を震わせながらも立ち上がり、《トレイター》を構えていた。先程までとはまるで立場が逆だ。

 しかし違うのは、アキトが今までの彼とは全く異質な存在へと成り果てている事実だった。

 彼の状態を僅かばかりには理解しているのは、アスナとシノンだけだ。しかし彼らには説明などせずとも分かる現状だった。今の彼は、キリトでもなくばアキトですらない。

 

 

 そして、ストレアに今、明確な殺意を向けている。

 

 

 

 

「────」

 

 

 

 

 ────瞬間、予備動作も無しにアキトはその場から消えた。

 

 

 否、あまりの速さにその姿を見失ったというのが正しかった。気が付けばその身は、ストレアの眼前にまで迫っていた。

 音速の比喩すら生易しい刹那、アスナが瞬きした時には、ストレアはアキトの蹴りによって別方向へと再び吹き飛ばされていた。

 

 

「────あぐっ!」

 

 

 またしても壁に亀裂を生むほどの勢いで激突したストレアの体力は、注意域を突き抜けて危険域へと近付く。あれほどアキトが手を焼いていたはずの少女が、音速を司る目の前のボス以上の化物と成り果てたアキトに、手も足も出ないでいる。

 

 

「っ────らぁっ!」

 

「────」

 

「ぐ、きゃああっ!」

 

 

 隙と見て振り上げたなけなしの一撃は、躱された後のカウンターで沈む。右肩から腕ごと斜めに切り落とされたそのコートは、赤く仮想の血液を滲み出す。

 

 

「っ、ストレアさんっ……!」

 

 

 アスナは半ば衝動的に、床に転がった《ランベントライト》を手に取った。

 穂先は溶けて爛れているが、まだどうにか使える耐久値であることを確認すると、それを手に震える足を律して立ち上がる。

 

 

「っ……おい、待てよっ!」

 

 

 一歩、踏み出そうとしたアスナを背後から呼び止めるのは、同じ攻略組である男性のプレイヤーだった。

 恐怖で足が震え、立ち上がることを諦めた彼はへたり込んだまま、アキトが剣を突き付けるストレアを指差した。

 

 

「まさか、あの女を助けに行こうだなんて思っちゃいねぇだろうなぁ!? 攻略組の半数近くを、アイツに殺されたんだぞ!?」

 

「っ……」

 

 

 思わず、顔を上げる。

 理解したのは、その男に限らず、周囲のプレイヤーのその顔は揃って同じ憎悪を示しているという事実だった。

 現在96層、ゲームクリアが現実味を帯び始めていたこのタイミングで、攻略組の戦力の半分近くがストレアの手によって削ぎ落とされたのだ。憎んで、怒って、殺意を抱くのはあまりに当たり前過ぎていた。

 

 

「……でも……!」

 

 

 それはアスナにも分かっている。

 分かっているのだ、理屈では。だがそれ以上に納得していないことの方が多過ぎて、この現状を受け入れられない自分を誤魔化せはしなかった。

 ストレアと過ごしたあの日々に、嘘偽りはないと信じていたから。いや、信じているからこそ。

 

 

「────アキトくんなら、絶対に見捨てたりしない!」

 

 

 そして何より、今のアキトを放っておくわけにはいかなかった。

 今の彼はまともではない。我を失っているのかもしれないと踏んでいた。

 彼は絶対、ストレアを傷付けることを良しとするはずがない。だから、彼が正気に戻った時に彼女が死んでいるなんて展開など、絶対に受け入れてやるわけにはいかないのだ。

 

 

「────私も行く」

 

「っ……シノのん」

 

 

 叫んだ男の背後から弱々しくも現れたのは、頼れる仲間の一人だった。弦が切れた弓を背中に背負い込み、腰に差した近接用の短剣を取り出し、アスナの横に並び立つ。

 

 

「分かってるわよね。アキトを……正気に戻す」

 

「今度は、私達が助ける番だね」

 

「ええ……漸く、私達の番」

 

 

 どちらともなく不敵な笑みを見せ合い、その武器を構える。

 

 

 ────すると、背後から再び武器を持ち上げる音、装備する音が聞こえる。

 慌てて振り返ると、そこには大切な仲間達が立っていた。リズ、シリカ、リーファ、フィリア、クライン、エギル。それぞれ武器をその手に、アスナの意志に同調を示した。

 

 

「……みんな」

 

「行くわよ、アスナ。ストレアに聞かなきゃなんないこと、沢山あるんだから」

 

 

 リズのその瞳は、怒りだけじゃない───仲間に見せる慈愛を宿していた。

 シリカは怪物と化したアキトを見て僅かに震えるも、左右に首を振って短剣を構える。リーファとフィリアは互いに頷き合い、自身の武器を動揺に構えた。

 クラインとエギルは言わずがもがなだ。大人として、やるべきことを理解していた。こんな頼れる仲間達に、アスナは何も言うべき言葉が見付からない。

 

 

 言いたいこと、感謝の言葉。

 取り敢えずそれらは、後回しだ。

 

 

 だから、せめて鼓舞の言葉を。

 

 

 

 

「行こうみんな!二人を助けるの!」

 

 

『『『おう!』』』

 

 

 

 走り出したプレイヤーの数は、総数にして八人。

 現状も分からぬままなのに、それでも仲間の為に何かをせずにはいられない。

 各々考えていることは、確かにあった。それを聞くために、必ず彼らを助けると決めた。今度は、此方の番なのだと。

 

 

 

 

 そんな意志を感じ取ったのかどうかは分からない。

 

 

 

 

 それまでストレアへの殺意を緩めなかったアキトが────ゆっくりと、その紅い瞳をアスナへと向けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Episode.116『災禍(災いはただ禍いのままに)

 

 

 










ユイ 「……アキトさん、遅いなぁ」


END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)

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