ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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無我夢中でいれば、それ以外は忘れたふりができると思っていた。




Ep.117 零落

 

 

 

 

 ──── 戦いは、酷く圧倒的で一方的になる予感がした。

 

 一人を数人で囲んでいるにも関わらず、その全てを御してしまうのだ。

 僅かだが確実であったはずの隙を突いたはずの刃が弾かれ、返す形で此方の隙を穿とうとする。それを遮るように別の誰かが剣を振るい、しかしそれをも叩き落とす。この繰り返しだけでも、その力の差が垣間見え始めていた。

 

 

「……アキト君」

 

 

 エギルとクラインに対して左右の剣を振り下ろし、押し潰さんと競り合う現状を見て、アスナは少年の名を呼ぶ。

 戸惑いの瞳は、揺れながらもその少年の冷たき顔から離れない。これまでずっと当てにして、頼りにして、支えになってもらった存在に縋り付くような声が震えている。

 その存在こそ、今自分達が救おうとしている者。何度も救われ、手をさし伸ばされてきた存在。そして、数多の人にそれを成してきた存在。そしてそれは、彼自身がそうありたいと望んでいる姿でもある。

 故に今見せられている光景、彼のこの行いの全てが嘘偽りで本心ではないと、そう思えてならない。

 

 アスナは知っている。彼がとても優しい人間である事を。考えるより先に身体が動いてしまう、本能のままの、生粋のヒーローである事を。

 命を何より尊び、誰かが傷付く事を恐れ、理不尽な涙を良しとはしない。けれどその実、その傷や痛みを全てを引き受けてしまおうとする自己犠牲の精神が顕著で、本当は辛いはずなのに強がりで、心の底から笑顔を見せた事さえない不安定な存在でもある。

 彼が自ら進んでオレンジカーソルになる道を選ぼうだなんて、決してあるはずがない。

 

 

「────っ!」

 

 

 瞬間、誰かの苦鳴が響き、火花が一際高く舞った。

 エギルとクラインで抑えていたはずのアキトが、遂にその縛りを砕き飛ばしたのだ。エギルの斧は彼方へと飛び上がり、クラインは後方へと上体が傾く。

 アキトの瞳は既にそこにない。アスナの更に後ろ───シリカやリズが立つ背の先に膝を付くストレアに向かっていき、その瞳が僅かに開かれた。

 

 

「野郎っ……行かせねぇよっ!」

 

「────」

 

 

 仰け反っていたはずのクラインがすぐさま割り込み、上段から一気に刀を振り下ろした。あくまで牽制のつもり──そう思考しているはずなのに、目の前の少年は、クラインの表情に見せる躊躇を逃さない。

 空間に僅かに淀む風を斬るように進む刃に対して、大袈裟に回避する事はせず、首を傾けるだけの最小限の動きだけで、迷いにより鈍になってしまった刀など掠らせる事もなく躱してみせた。

 振り下ろし、前屈みになったクラインの首に、今度はアキトの剣が落とされる。

 

 

「このっ……、うおおあああぁっ!」

 

「────」

 

 

 背後から、エギルが雄叫びを上げながらアキトを捉え、羽交い締めにする。振り下ろしいた剣がしなりを受けて流れから反発し、クラインを当たること無く空を斬った。

 アキトの視線は、途端に背後のエギルへと向かう。だがその途中、視界にストレアが入り込んだ瞬間、その興味はエギルから彼女へとシフトする。羽交い締めする巨漢に一瞥もせず、エギルに捕まったままでストレアの元へとその足を動かした。

 ジリジリと、しかし確実に縮まる距離。エギルの筋力値を嘲笑うように、ストレア一点から視線を固めたまま前進し続ける。

 

 アスナだけではない、当人たるエギルでさえ驚嘆を禁じえぬ一心不乱さ。最早アキトにとってアスナ達は獲物を前に邪魔をする障害でこそあれ、脅威だなんて微塵たりとも思われていなかった。

 そして、何が何でもストレアに辿り着こうとする明確な殺意。過去目の当たりにしたどの殺人プレイヤーにも当てはまらない、深淵を孕む闇色の感情。それが瘴気となって剣に纏い始めていた。

 最早システムという枠組みを度外視しているその姿に、エギルは止むを得ず声を荒らげた。

 

 

「くっ……アスナ、ストレアをコイツから引き離せ!」

 

「分かってる!フィリアさん───」

 

「アキトは食い止めとくから、早く行って!」

 

 

 アスナの言わんとする事を察し、入れ替わるように前に出るフィリア。アスナは頷くだけで礼を示すと、後方に控えるリズ達の元へ駆けた。

 ストレアをアキトから庇うようにして立っていたリズ達が、アスナが近付くと察したのか、その身を横へと移すと、目的の人物が膝を付き、アキトに蹴り貫かれた腹部を抑えながら苦痛に目を細めていた。

 

 

「……」

 

 

 物言わぬストレアに、アスナ自身思うところがない訳じゃない。アキトを苦しめ、ボスを使って攻略組を壊滅させたのがストレアであるならば、到底許されるものではないと理性の端で分かっている。

 これまで紡いだ記憶を辿る中で、彼女がそんな人じゃないと思った途端の出来事だからこそ、受け入れ難いのだ。

 けれどそれは、今まさに猛り狂う黒白の剣士に対しても言える事だ。彼を知っているからこそ、この暴挙にも似た行い全てを彼が自ら進んで行うなんて思えない。

 きっと彼は今、《ホロウ・エリア》でキリトと戦闘した時と似たような状態に陥っている。理性失くして敵を斬らんとする明確な殺意の結晶が、アスナの瞳に揺れながらも映る。

 

 

「……逃げて、ストレアさん。アキト君は貴女を狙ってる。このままじゃ危険だわ」

 

「っ……何、を」

 

「……聞きたい事、話したい事、いっぱいあるよ。だからこそ、貴女を此処で死なせる訳にはいかないから……!」

 

 

 絞り出すも掠れ、震える声。想像の埒外にあった光景を生み出した目の前の少女に対してあるのは、決して小さくない困惑と、明確な恐怖。

 声に出して伝えたい、言ってやりたい言葉なんて、考えずとも湧き出してくる。だが、今は時間と余裕が余りにも無い。アキトの中の“何か”の殺意はストレアに向かって集中しているのは明白。これ以上彼女をこの場所に留めておくこはあまりに危険だった。

 無論、このまま彼女を逃がす事がどういう意味を齎し、どのような結果を導き出すかも理解している。全ての可能性や危険性を考慮してもなお、アスナが導き出した答えも、結局はストレアと過ごした時間によって生まれた私情を綯い交ぜにしたものでしかなかった。

 既に冷静な判断は出来ていない、ここで迷っていても仕方がないと切り捨てる。ストレアに逃げる指示を残し、その視線を彼女からアキトへ。

 少しずつ着実に地を踏み続ける彼の紅い双眸には、殺意の対象が真っ直ぐに映る。

 

 

「……っ!」

 

 

 アスナの背後で膝をつくストレアは、おぞましくも透き通る彼のその瞳に貫かれ、華奢な肩を震わせた。声にならぬ音が喉元から漏れ、そしてそれは偶然にもアスナの耳にも入り込んだ。

 背中に感じたのは恐怖と焦燥、そしてなけなしの覚悟。此処で殺されても文句は言えない、と分かり切った瞳。しかしそれも目の前で迫る脅威に揺れていて。

 

 ストレア自身にも多くの悩みがあって、葛藤があって、それでも自分が求めることのために大切なものさえをも切り捨てる選択をしたのだと、この時漸く理解出来た気がした。

 そしてそれを聞くまでは────否、聞いた後でもなお、決して彼女を死なせるものかと、確かにそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 静寂が支配する暗い黒い空間。

 上下左右の概念すらないような、無限に等しい有限の世界。辺りを見渡して、仲間の一人も見当たらないことに一瞬だけ頭が真っ白になったが、この空間を見て僅かばかりの冷静さを取り戻すのに時間は掛からない。

 この場所で彼女(サチ)と再会を果たしてから、ここに来るのはこれで二度 目。既に恐怖や困惑から思考は外れ、この場に自分が立っていることに疑問が浮上する。

 

 

「……また、この場所……っ、みんなは……!?」

 

 

 辺りを見ても誰も居ないと分かっているのに、行動を起こさずにはいられない。

 だが、この場所はきっと、アキトという人間の深層心理。自分ではない存在と共存を可能にする思考領域。それは彼自身も理解していた。

 そしてその存在とは、既にキリトだけではなくなっていることに、もうかなり前から気がついていた。彼の声が聞こえなくなってからというもの、ここには別の“何か”が住み着き、アキトの思考に浸り続けている。

 

 

 ──── “気分はどうだい?”

 

 

 ────その声は背筋が凍る程に冷たく響いた。

 背後から此方の思考を鈍らせる、へばりつくような声が侵食し始める。それらが意思や形を持って、此方の身体を動きを阻害してくる感覚に、忘れていた焦燥が恐怖と共にぶり返す。

 耳ではなく、脳裏で響く。聞こえるのは、自分と全く同じ声。なのにまるで他人かと間違えてしまうほどに、残酷なまでに冷徹な声音。

 

 

 ゆっくり。

 ゆっくりと、振り返る。

 

 

「っ……お前、は」

 

 

『────』

 

 

 ──── “久しぶり。僕だよ”

 

 

 淡い影を纏ってそこにいたのは、一人の少年だった。

 雪原のような白いコートに始まり、シャツもブーツもグローブも、長めに保たれた髪さえもが、色素を失ったかのような────白。

 だがその白銀の髪から覗いた双眸は、死を連想させるほどに深い、血のような赤。

 何より特徴的なのは、その顔が自分自身と瓜二つであるということだった。その顔が不敵な笑みを浮かべるだけで、アキトの中の恐怖と不快感を助長させていく。

 見覚えのある顔だった。自分と同じ顔だからという訳じゃない。ここ最近脳裏に囁く悪魔のように甘い声の正体は、目の前の少年だった。

 

 その姿は最早、くぐもった曖昧な存在ではない。不明瞭で不鮮明だったはずのそれは、煙のような影を纏いながらも明確な形と自我を確立している。その声音も、男性か女性か区別の付かなかった闇が晴れ、他の誰でもないアキトと同様のものが耳に木霊していた。

 だが、奴の口が動く様を見る事は叶わない。僅かに不敵な笑みを作るだけで、そこから声が漏れることなく頭に直接響いてくるのだ。

 

 

「……お前、一体何なんだよ……!」

 

『────』

 

 

“会いたかった───僕の半身”

 

 

 奴は不気味な笑みを浮かべながら右手を広げて見せた。

 何も無い空虚な掌。何も掴めてない、虚飾な自分の象徴。そう、正しくお前は俺と同じなのだと、奴はそう突き付けてきたのだ。顔だけじゃない。姿だけじゃない。声音だけじゃない。その根底、その心根が同一の存在であると。

 その態度に、アキトは形容し難い気色の悪さを感じて歯軋りする。赤い瞳を細める奴を、鋭く睨み付けながら。

 アキトは、背中の剣を取った。

 

 

「……俺は、お前のものにはならないよ」

 

『────』

 

「前と同じだ。今回もすぐにここから出て、アスナ達の元へ帰るだけだ」

 

 

 以前は右も左も分からないまま、サチに引かれるだけだった。逃げる事ができたのは、ひとえに彼女のお陰だ。

 そんな彼女は言っていた。あの闇───つまり目の前の奴は、怒りや悲しみ、憎悪といった負の感情に引き寄せられ、増幅するのだと。アキトがこのボス戦において、僅かにでも感じてしまったストレアへの不信感が、この現状を引き起こすトリガーとなったのかもしれない。

 だが、後悔も反省も今は後回しにするしかない。目の前の敵を退けて、すぐさま外の世界へ戻らなければならない。

 

 

 それなのに。

 

 

『────』

 

 

 ────嫌な予感がした。

 

 以前にも頭の中で声が響く現象はあった。つい直近だと、アキト自身の声で殺意や破壊衝動を煽るような言動ばかりを脳内で囁き続けていたのに、今目の前の奴は此方を見ているだけで何もしてこない。だからこそ、不気味なのだ。こうして対面しているだけの状態で奴が得するとは思えないと、目の前の少年の隠し切れない笑みからは、それを感じずにはいられない。

 そう、“隠し切れない”、だ。まるで、今起こっていることが楽しくて愉しくて仕方がないと言わんばかり。

 それに、何もしてこないというより、意識が他に逸れているようにも感じる。姿形ははっきりしていて、声も脳内に響くのに、目の前の奴はぬげがらのような。

 

 つまり、事はもう既に始まっている────?

 

 

「────……ぁ」

 

 

 そして自分がこの場所にいることが、どういう意味へと繋がるのか。思考が速くなるに連れて、瞳孔は開き、呼吸は荒れ、肩が上下し、口元が始める。アキトは今、この現状になった時の記憶を頭の中で思い起こしていた。そして、背筋が凍る。

 以前にもこのような状況に陥った際は、“暴力”を体現したように荒れ狂っていたとアスナから聞いた。

 なら、つまり。

 自分という思考がここに留まっている今。

 

 

 ────今、自分の体は一体、何をしている……?

 

 

 その疑問は、視線となって目の前の白い男へと自然に向けられる。奴はアキトのその表情を見て、漸くかと言わんばかりに楽しげに。

 

 

 

『────サア、壊シテ喰ラエ』

 

 

 

 今度ははっきりと、その口を動かした。

 その声は自分のものではなく、もっとずっと前から知っていて、それでいてとても聞き慣れた女の子の声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 我に返った時には、手遅れの一歩手前だった。

 現実に引き戻される感覚と共に黒曜石の冷たさに体が震えたのも束の間、振りかざしたその腕の先の紅い剣が、今にも眼前のエギルに落とされそうになっていたのだから。

 此方に武器を弾かれたのか、彼は斧を上にかち上げられ仰け反っており、隙だらけになっていた。その体に、刃が振られてしまえば。

 アキトは一瞬、頭が真っ白になった。

 

 

(っ!?な、んで……まずい!)

 

 

 慌てて振り上げた右腕に力を込める。脳へと制御の信号を送り付ける。いや、送り付けたはずだった。

 だが途中でそれを断絶させられているかの如く、その右腕はアキトの指示に反し言うことを効かない。何の躊躇いも感じさせず、一直線にエギルへとその剣を振り抜く為の予備動作が始まる。

 

 

(身体がいうことを効かない……勝手に……くそ!!)

 

 

 しかしそれが振り下ろされた途端、それは阻まれる。右手側から別の介入によって、アキトのその剣は受け止められたのだ。

 長く反りもった剣───いや、刀だ。ゆっくりとその視線を右に向ければ、今もなお力で競り合おうと歯を食いしばるクラインの姿が。額や頬に汗を流し、懸命に柄に力を入れている。

 

 

(クライン……エギル……)

 

 

 アキトは、どうにか懸命に辺りを見渡そうとする。

 固定された視界の中でも、アキトの目に映る光景は状況を凡そ教えてくれるものだった。

 エギルとクラインの更にその向こう、フィリアが前に立ちはだかり、少し後ろでシノンが弓に矢を宛てがい此方を見つめている。そして更にその先、アスナとリズベット、シリカにリーファが動揺した瞳で此方を見ている。

 そんな彼女達に庇われる形で後ろに膝を付いてへたり込んでいる少女────ストレア。

 

 

 ────ドクン

 

 

 ストレアを見た瞬間だった。身体中を、沸騰するかのような熱が駆け巡りそれがトリガーであったかのように、アキトの身体が狂気に震え出した。

 ドロドロとしたものが、頭に入り込んでいくのを感じる。黒く熱い負の感情が、洪水のような勢いで脳の容量を圧迫していく。

 

 

 ────コワセ

 

 ────クラエ

 

 

 その不気味な声は、ストレアに視線が固まってから、徐々に強く、速く。

 

 

(なんだよ……何なんだよ……!!)

 

 

 そんな叫びも言葉にはならない。どれだけ大きな声を頭の中ではなっても、彼らには響かない。ただ右手の力が強まり、そして左手もまた人知れず活動をし始める。

 空いた左手、蒼い剣を携えたその手が、アキトの右手を受け切るのに精一杯であるクラインに向かって振り抜かれる。

 

 

「や、らせるかよ!」

 

 

 勢いがつく前に左手は、一足先に体勢を整えたエギルの斧によって受け止められる。そして片手で斧を制し、もう片方の手はアキトの左手首をガッチリと鷲掴んだ。

 クラインもアキトの右手を受け流すと、その腕を抱き込む形で捉えた。此方の右手首を両の手で掴み取り、何もさせまいと力を込めたのが伝わってくる。二人分の体重と力で、両手両足が完全に封じ込まれて、アキトは漸く周りを見ることができた。

 

 

(……っ)

 

 

 みんなが、自分を見てる。

 焦燥と困惑と、恐怖が彩るその瞳で。仲間である彼らから、変貌した自分へと向ける感情が手に取るように伝わってくる。負を彩る空気感にデジャヴさえ感じた。キリトが初めて自分に代わり、《二刀流》でボスを屠った際のみんなの顔がフラッシュバックする。

 思い出す。我に返った途端、自分の知らない世界が構築され、過去に取り残されるようなあの孤独感。求められたのはキリトであって自分じゃない。あの時の疎外感。

 

 

(違う……みんなは、そんなんじゃない……!)

 

 

 鈍色の思考を振り払う。

 最前線に立って数ヶ月の間、彼らをつぶさに見てきたからこそ、みんなの優しさや心の強さをアキトはもう知っている。自分の境遇、キリトと共生している状況、ここへ来た目的を僅かにだが話した時に思ったのだ。

 自分勝手に振舞ってきたことに対する理由はまるで後付けのよう。にも関わらず彼らは、笑顔でその手を差し伸べてくれたこと。キリトの生存を願いながらも、アキトをも選んでくれたのだ。

 最早彼らを守る理由は、キリトの忘れ形見というだけに留まらない。彼らは、アキトの大事なものになったのだ。

 

 

────“そうさ。そんな大事な仲間を、僕らは殺されかけたんだ。あの女に。”

 

 

 その声が脳裏に走ると同時に、その両腕に力が込められた。視線は変わらずストレアへと向かい、心に根付いた黒い熱は次第に闇を溜めていく。

 瞬間、両腕を固定するエギルとクラインを無視するように軽やかに、アキトはその体を回転させた。二人の重量を度外視する速度で彼らを地面から引き剥がし、そのまま振り払ったのだ。

 

 

「うおっ……!」

 

「ぐぁ……!」

 

「っ……エギル、クライン!」

 

 

 壁まで吹き飛ばされたエギルは、背を思い切りぶつけ呼吸が一瞬止まる。部屋の中心まで弾かれたクラインは、そのまま床を滑りながら転がっていった。苦しみが滲む彼らのその顔を見て、慌てて叫ぶフィリア。すぐ近くで見ていたシノンも矢を下ろし、信じられないといった表情で此方を見つめる。

 それをただ眺め、アキトの口元には僅かな笑みを浮かべた。その状況を自分が意図も容易く作り上げたのだと理解した途端、それだけで心地好い風が胸を吹き抜けた。束縛からの解放感と、歴戦の攻略組二人を鮮やかに跳ね飛ばしたその力を振るっただけで、感じたことも無い爽快感が胸を貫いた。

 

 

(なんだよ……どうしちゃったんだよ……俺は……!)

 

 

────“ほら、()はこんなにも強い”

 

 

────“ただこの力を振るえばいい。この力に委ねればいい”

 

 

────“思うがまま、我儘に。誰にも縛られず”

 

 

 一歩、その足を踏み抜く。

 それだけでフィリアの隣りを一瞬で抜き去った。シノンに矢を構える暇さえ与えず通過し、その背後で固まるシリカとリーファを躱した。

 まるで自分の身体とは思えないほどの速度で全てを置き去りにした。驚くのも束の間、アキトのその視界の中心には変わらず薄紫色の髪の少女が座り込んでいた。

 

 

「っ……!」

 

「────」

 

 

 怯えるような、それでいて覚悟したような瞳。挑戦的で、悲哀的で、どこか悔しげな表情。それでもこの身が止まることなどなかった。

 制御のできないその腕は、ただストレアの胸元目掛けて剣先を突き立てていて、その瞳に彼女が映るだけで、自分のものかもはっきりしない憎悪が沸々と沸き立つ。

 自分の身体が今、彼女に何をしようとしているのかは明白だった。

 

 

(やめろ……やめろ、やめろやめろ!!)

 

 

 誰に聞こえなくとも、叫ぶことしかできない。体は願いも許しも聞くことなくその刀身に闇色の光を宿し始めた。超至近距離からのソードスキルの威力は言うまでもない。

 止まれ、止まれと叫びながら、必死に体を力ませた。

 彼女を傷付けてしまえば、怒りをぶつけてしまえば、殺してしまえば、もう戻れない。自分を誇ることなど、もう一生できはしない。

 

 

“────この力があれば、欲しいものは何だって手に入る。奪われることもない。君だけのものにできる。ほら、振るってみなよ?”

 

 

 嫌だと言っているのに。

 拒んでいるというのに。

 その声の囁きが甘美なものに聞こえてならない。振り払っても振り払っても、飽きることなくそれは近付いてくる。

 

 この力は君のものだよ、と。君が望み、憧れた強さだよ、と。

 この怒りや憎しみは君のものだよ、と。それをぶつけるのが仲間達の為だよ、と。

 

 

(違う……!)

 

 

 この怒りは自分の感情じゃない。

 この憎悪は自分の意思じゃない。

 この殺意は自分の願望じゃない。

 

 

 止まれ。

 静まれ。

 やめてくれ。

 

 

「アキト君!」

 

「アキト、お願いだから止まって!」

 

 

 再びストレアの前に二つの影が立ち塞がる。

 焦燥や嘆きをひた隠そうとしてもなお表情を歪ませていたのは、アスナとリズベットだった。アスナは向けたくもないだろうその剣先を向けて、その瞳を揺らしながら、リズベットは盾を構えてストレアを守るように、アキトを止めるようにして立った。

 本当はこんなことしたくないだろう。それでも、アキトとストレア双方を守る為にその武器を手に取っている。

 

 

「────」

 

 

 しかし、アキトの身体は止まらなかった。

 二人の乱入に対して一瞬の躊躇も見せず、構えたその刃の光は未だ消えることなく輝きを帯びていた。

 

 片手剣・絶技《ヴォーパル・インパクト》

 

 彼女達の意志を、決死の選択をおざなりにするようだった。右手に持った紅い剣(リメインズハート)は、一瞬にしてアスナとリズベットが立ち塞がる僅かな隙間を通過し、ストレアの胸元を突き刺したのだった。

 

 

「ぐっ……あぁっ!!」

 

「ストレアさん!」

 

「なっ……!」

 

 

 ストレアの呻きとアスナの悲鳴はほぼ同時だった。あまりの速度に、リズベットは一瞬ばかり反応が遅れる。それらの声がアキト自身の耳に、目に、心に入り込む。

 その剣に自分の顔が反射して、背筋が凍った。

 

 

「────はは」

 

 

 剣に映る自分の顔は、恐ろしいほどに狂気的だった。

 冷たく歪んだ双眸に、鈍く光る血色の眼。そして口元に浮かぶは、愉悦か恍惚にも近い表情。黒と白を髪に混じらせながら、快感に浸るかの如く。

 

 そんな、そんな顔で。

 それほどまでに楽しそうな顔で、こんな事を。

 あんな非道を。

 

 それを知ると同時にその剣がストレアの胸元へと更に深く沈んでいく。

 ただでさえ一撃の攻撃力が高いソードスキルが至近距離で放たれたのだ。そのうえ深々と刃を押し込んでいく狂気を前に、ストレアの体力の空白は段々と危険域にまで侵食していく。

 

 

(くそ、止まれ!止まれよ!止まれええっ!!)

 

 

 最早擦り切れつつある精神で、なけなしの腕力で、その身体を制御する。必死にストレアからその剣を引き抜こうとする。けれど逆にその刃先は彼女の背にまで届こうとしている。力めば力むほどに、それを嘲笑うように。

 

 

「アキト君!しっかりして、アキト君!」

 

「────はは」

 

 

 自分の口から溢れたものとは思えない狂った笑み。

 同時に繰り出された鋭い蹴りが、ストレアからアキトを引き剥がそうと近寄ってきたアスナの腹部に刺さった。彼女のその身は一瞬だけ呼吸を忘れ、呆気なくその場に倒れ込む。

 

 

「うっ……げほっ、げほ……!」

 

「────ははは」

 

 

 咳き込むアスナを無視し、変わらずストレアを見下ろし、アキトは三度口元を歪める。

 全てを捩じ伏せてそこに立つアキトの冷たい笑い声は、その場の誰一人として動くことを許さない。全員の顔が恐怖に彩られ、呼吸さえも困難にさせる。

 蹴りによってカーソルの色が緑からオレンジへと移り変わる。それが様になるような嗤いが、静寂に響いた。

 今のアキトは、気を抜けば仲間さえ見境なく斬って捨てるような獣だった。あれほど渇望した強さの代償に失ったのは、人としての感情なのではないかと思わせるほどに、憎悪や怒りに本能的だった。

 人間的なのは、姿形だけになりつつある。

 

 

 ────そして、その境界は唐突に訪れた。

 

 

「────」

 

 

 その人の形をした黒白の獣は、アキトの意思に反した動きを再び開始した、はずだった。これまで通り、その身体の主導権は未だに奪われたままだ。

 しかし、ふと身体の動きが不自然に停止したのだ。恐怖を助長するような笑み、ストレアへと突き刺していた剣へと入れていた力、ストレアへと向けていたその恍惚にも等しい視線。

 

 その全てが、停止したのだ。正確には、アキトがストレアからその剣(リメインズハート)を引き抜いていた。突然気が変わったかのような態度。これまで欲望のままに動いていた身体はまるで躊躇を覚えたように覚束無く彷徨い、視界の中心にいたストレアは右へ左へと移りゆく。

 ストレアへの攻撃を止めた。それだけなら安堵するべきなのに、アキトの全身を悪寒が駆け巡り、堪え難い不快感が身体中を掻き乱すように暴れ回る。

 嫌な予感が。寒気が、拭えない。

 

 

(なん、だ? 何が……)

 

 

 ストレアが視界から外れ、それは天井へと向けられる。僅かに口元が歪められ、両の剣は力なくだらりと下げられている。なのにそれを隙だと思う者は愚か、何か違和感が駆け巡っていることすら悟っていた。

 空間から音が消え、全ての存在が恐怖を押し殺し、その場で停止する。

 やがて、その視界は再び下へと向けられる。だがそれが再びストレアへと落とされたかといえば、そうではなかった。

 

 

 緩やかに下ろされた視線の先にいたのは、彼女の隣り。

 腹部を抑えて震え、亜麻色の長髪を乱し、倒れ込みながらも此方を見上げる少女────アスナ。

 

 

 彼女と、目が合った。

 

 

 

(────おい、待て)

 

 

 

 その口元がまた、歪んだ。

 同時に、右手の剣を握る力が強まった。

 

 

 

(────待ってくれ)

 

 

 

 声にならない声。縋り付くような願い。それでもなお逆らうことのできない身体。自分自身では身じろぎ一つ叶わず、この獣の思惑も分からず、アキトの全身を恐怖が駆け巡る。

 この身体の主導権を握る“何か”。思惑は知らずとも、今コイツがアスナを見て何を考えているのかは、何をせずとも理解してしまった。

 右手に込められた力と、彼女に踏み出した一歩で。

 

 視界の中心点にいたストレアは、アスナへと代わった。

 未だ此方を苦しみに歪んだ瞳で見上げる彼女を前に、その右手はゆっくりと頭上へと持ち上げられていく。

 アスナの顔が強張るのと同時に、その刀身はソードスキルの光を放ち始めた。

 

 

(やめろ!アスナは敵じゃない!!やめろ!!)

 

 

「アキトく……」

 

 

(やめろおおおおおおおおおおおおお!!!)

 

 

 言葉にならない絶叫が、脳裏で反響する。

 血を流さんばかりに唇を噛み締め、全神経を掲げた右手に集めた。決して、決してこの右手を振り下ろすものか。これ以上、わけの分からないことで仲間を失ってたまるものか。

 失った過去の景色が甦る。また間に合わないなんて、そんなこと許されない。あってはならない。大事なものなんて、もうここにしか残ってない。

 

 

「────死、」

 

 

 死ね、とそう言おうとしたのだろう。

 だがそれは、突如遮られた。急に目の前に現れた物体がアキトの頭を捉え、そのまま身体毎後方へと吹き飛ばされたからだ。

 

 

(────!?)

 

 

 ぐらりと視界が歪むのを感じたのも束の間、視界にいたはずのアスナは消え去り、吹き飛ぶ最中にシノンやリーファ、エギル達が入り込む。

 視界が逆さまになり、振り落とされる体が天地を見失って激しく回る。

 

 ────何かに、攻撃された。

 

 その理解に達した瞬間、アキトの身体もまた地面の上へと到達していた。

 背中側から容赦なく黒曜石の床にに叩きつけられ、誇張なしに肺の中の空気が全て吐き出される。コートが削れる音が重なり、転がり続ける身体は幾度もその負傷に追討ちをかけた。

 

 やがて摩擦で身体は部屋の中央近くで静止する。体力もそれに伴って減少を止め、気が付けば視界は天井を向いていた。

 状況に唖然とするしかない。この身体の主もそう思ったのか、その血色の眼を見開いたまま、ゆらゆらと身体を起こし、その首をもたげた。

 

 

 

「好き勝手、してんじゃないわよ……」

 

 

 

 ────その声の方向へと視線を向ける。

 アスナを守るようにしてそこに立っていたのは、メイスを振り切ったリズベットだった。

 息を荒らげ、肩を上下させ、腕を震わせ、その瞳は涙混じりで。

 

 

 

「その、剣はねぇ……アンタにそんなことさせる為に、作ったわけじゃないんだっての……!」

 

 

 

 此方を睨み付けようと顔を上げたリズベットの瞳は、怒りとは名ばかりの、悲哀に満ちた瞳だった。

 彼女の顔は、自分が作った武器が誰かを傷付ける為に振るわれたことによる怒りではなく、アキトを攻撃してしまった自分に対する怒りや悲しみ、痛みだった。

 アキトを正気にさせる為に、誰かを守る為の武器を振るってくれた。仲間に傷を負わせることになるのだ。躊躇いもあったろうに、メイスを持った腕は未だ震えを告げている。

 後悔に表情を歪める彼女。そして、そうさせているのは不甲斐ない自分自身。

 

 

(リズ、ベット)

 

 

 喉が詰まった。

 その光景に、アキトは何も言えなかった。彼女の身を案じる言葉すら満足に伝えられない惨めな自分の前で、リズベットはそれまでの自身の表情を誤魔化すように笑みを作って、上体を起こした。

 

 

「早く、正気に戻んなさいよ……戻って、ストレアに、直接言葉で言ってやんなよ。そんなワケ分かんない力に頼んないで、さ。アンタ、私達相手にずっと、そうやってきたじゃん……」

 

 

 泣き言一つ漏らさず、平気だよ、と笑って見せて。

 今のアキトがまともじゃない、仲間すら傷付ける獣に成り果てていると知っているのに。武器を向けたことで、その矛先がいつ自身に向けられてもおかしくないというのに。

 

 これ以上、無理して欲しくない。アキト自身ですら制御の効かない災禍の獣。全てを捩じ伏せるだけの暴力を前に、目を付けられるような行動をこれ以上して欲しくなかった。

 だが自分自身では正気に戻れない。望みは外部からの干渉でもあった。仲間に頼るしかない現状ではあったが、この獣が、今にこの場の全ての命をアキトから奪おうとしているかのような焦燥感があった。

 

 傷付けたくない。

 傷付いて欲しくない。

 だから、どうか逃げて欲しい。

 それすらも、口に出して伝えられない。

 

 

「────」

 

 

 そして、恐れていた事態に差し掛かるのもまた早い。

 アキトの身体は、僅かに上体を起こした途端にその床を蹴飛ばした。ステータス度外視の速度で一直線に駆け出すその先に立つのは、リズベットだった。

 

 

「っ……!」

 

 

 僅かに喉を鳴らす。再びアキトに武器を向けることへの躊躇が、その表情から読み取れた。それを隙だと獣は判断し、その血色の瞳が妖しく光る。殺意を剥き出しにするアキトの姿に、リズベットの身体は僅かに竦んだように見えた。

 

 

「しっ────!」

 

 

 瞬間、リズベットとアキトの前を何かが光を引きながら通過した。およそ部位を抉らんとするほどの威力が垣間見えたそれは、アキトの動きを止めるには充分な働きを持っていた。

 リズベットから視線はいとも簡単に外れ、立ち尽くした獣の視界は、何かが飛んできた方角へと傾く。まるで狩りの邪魔をした存在に憎悪混じる瞳を向ける為に。

 

 

「……次は、当てるから」

 

 

 視線の先には、頬に汗を伝わせ、瞳を僅かに揺らしながら胸郭を開いたシノンが立っていた。ここまで矢を構えつつも射ることを躊躇していたはずの彼女が、覚悟を決めた顔でそう告げた。

 その右手は再び背中の靭から矢を取り出し、左手の弓に当てがう。その一連の流れに滞りはなく、迷いを感じさせない手付きは覚悟の証だった。

 リズベットの放った一撃が、彼女に影響を与えたのだと理解した。

 

 

「────」

 

 

 すると今度は、アキトの身体はシノンへと標的をシフトさせる。ボス戦時には恐ろしいほどに冷静で無慈悲な剣戟を見せたと思えば、今はただ暴力に身を任せ、自分を邪魔する者に対しての苛立ちをぶつけるかのように標的を変え続ける。

 獣は理性的な一面は既に剥がれ、直情的に動き出し始めていた。その分、みんなに振り撒く殺意は濃いものとなっていく。

 

 

(っ……シノン!)

 

 

 そう脳内で呼びかけるより先に、アキトの剣がシノンへと伸びる。

 薄暗い部屋の中で仄かに照らされていた光がその剣の腹に反射した。それはやがて一時的なものからソードスキルの輝きへと昇華され、暴力を練り込んだ剣技へと変貌していく。

 

 たった一歩で彼女の間合いを捩じ伏せるだけの進度を踏み締め、殺意の籠るその刃先は音速の比喩に相応しいスピードを帯びる。

 シノンが目を見開いて咄嗟に腰の短剣を抜く時には既に遅く、紫に輝く剣は体勢を崩した彼女の肩を抉った。

 

 

「くっ……!」

 

 

 苦鳴に歪む瞳、不快感に耐えるよう噛み締めた唇、質量があると錯覚させるほどの憎悪と狂気に震える身体。それらを獣の視界から見てしまったアキト。

 

 ────その瞬間、アキトの身に宿った感情は恐怖や痛みではなかった。

 

 まるでこの身を操る獣がたった今感じているもの。それを、共有しているかのような感覚。

 仲間を剣で貫いたはずだというのに、最初に心に吹き抜けたのは圧倒的なまでの快感だった。

 純粋なまでの暴力。思うがままに振り回す悪意。しがらみを無視した行動の全て。自分の意思でやっているものではないと知っているのに。

 

 

(あ、あああ)

 

 

 剣を振るう度に、獣が口元を歪ませる度に。

 段々と理性が、常識が、想いが、亀裂を走らせズタズタにされていく感覚────

 

 

「シノンさん!っ……せええええいっ!」

 

 

 裂帛の気合いと共に剣を振りかざしたのはリーファだった。二人の間に突如割って入ったかと思うと、シノンの肩に深々と刺さるアキトの剣を上に弾き出す。

 身体が仰け反る獣の隙を、逡巡の後に上段の構えで狙い打つ。両の手で柄を握り締め、下へと落とすは単発技の《バーチカル》だった。

 

 

「────退け」

 

 

 アキトの口で獣がそう告げた瞬間、目の前で剣を振り抜こうとしていたリーファの表情から、闘志と覚悟が消し飛んだ。

 

 

 ────剣と、それを手にしていた両腕と共に。

 

 

「───ぇ」

 

 

 呆然と、唖然と、リーファはその金色の髪を揺らしながら、肘から下が無くなっている事実を目の当たりにしていた。

 断面は血のような“赤”を散らばせ、漂わせている。彼方へと飛んだ剣が床にぶつかり反響する金属音を聞き流しながら、その獣は彼女の腹部に向かってその脚を捩じ込んだ。

 

 

「がっ……!」

 

 

 シノンを巻き込み、後方の壁にぶつかるほどの威力で蹴飛ばした。小石のように軽々と飛んでいく二人を視界に収めながら、また心の中が自分の意思に反して晴れやかになっていく。

 痛み苦しみ、涙するその顔に目が離せない。頭から離れない。劈くような悲鳴を、耐えるような嗚咽を、耳が記憶していく。脳裏に焼き付けていく。

 

 

(ああ、ああああ)

 

 

 理解したくもない快感を、感じるはずのない解放感を、知ってはいけない幸福を、無理矢理に押し付けられている感覚。

 こんなにも恐ろしく、悍ましいことなんて他にないとさえ感じるほどに。何度も、何度も頭の中で快感を喚く。ここまで大切なものを壊しておきながら、まだ足りないと宣う。

 もう一度、もう一回、と偽物の欲望が思考を塗り潰し、その視界は再び別の標的へと移りゆく。

 

 

「え───きゃうっ!」

 

 

 その獣は、左手の《ブレイブハート》を床に思い切り突き刺したかと思えば、足を震わせ身体を竦ませていたシリカの首へとその左手を突き出し、鷲掴んで持ち上げた。

 

 

「っ……うっ、ぁ……キト、さん……」

 

「────ああ」

 

 

 首を締め上げられ、床から足が離れる。獣は律儀にもその小さな身体を見上げ、僅かな体力が減っていく様をアキトに見せ付けてくる。

 呼吸もままならず、目を細め、そこから涙を流すシリカ。この首を締めているだけで恐怖や痛みを彼女から絞り出しているかのような状況に、その獣は恍惚を滲ませて嗤った。

 

 

 ────コンナニ楽シイ事ハナイ

 

 

 その声に。本当に楽しそうに告げるその声に。

 これ以外に、幸福を得る方法を知らないと言わんばかりの声に。

 アキトは。

 

 

(────て)

 

 

 小さく、心の中で。

 ポツリと、縋るように。

 

 

「シリカ!」

 

 

 その身体を操る“何か”は、弱々しいアキトの心に反して冷静な様を崩さない。

 背後からシリカを助けようと駆けてきたフィリアの胸元に、無慈悲に回し蹴りを繰り出した。

 隙を突いてきた彼女を嘲笑うように、躊躇の後に漸く形となった覚悟を、簡単に破壊するように。

 それが楽しいんだと、そう言うように。

 

 

「っ────」

 

 

 呼吸が一瞬ばかり停止する。声にならない声を漏らすフィリア目掛け、左手で掴み上げていたシリカを物を捨てるかのようにぞんざいに投げ飛ばした。

 

 

(────て)

 

 

 その光景を見ても、彼女達の名前すら呼べなかった。

 それ以上に自分が今押し付けられている感情や感じてはいけない快感に支配されている事実が、アキトの脳裏で渦巻いていた。

 人間性が失われていく感覚と共に、絶望という二文字を強引に捩じ込まれていく。

 

 怒りが込み上げるはずなのに。殺意を持っていいはずなのに。

 それらを邪魔するかのようにして心に流れ込むのは、力を振るうことへの全能感。あれほど望んでいた世界を、大切にしたいと願った世界を、自分の手でズタズタに壊されているというのに、最早それを悲しませてもくれない。

 これだけを感じろ。これだけを生き甲斐にしろ。これだけを覚えていろ。そう語り掛ける声がする。

 

 

(────け、て)

 

 

 右手の剣をリズベットに向かって投擲し、膝に命中したのを確認した獣は、エギルとクラインに迫った。

 此方に向かおうとしていた彼らの不意を突くように、その両手をそれぞれの首に穿つ。

 

 

「がぁ……!」

 

「ア、キト……!」

 

「────あははは」

 

 

 跳ね上がった筋力値にものを言わせるかの如く、両手に力を込める。次第に二人のその首は締め上げられていき、段々と細くなっていく。絞り出る悲哀の感情をその身に浴びて、獣はまた楽しそうに嗤う。

 生きていることを実感する。その獣が、段々と口元を歪めていく。破壊と蹂躙の限りを尽くし、数多を絶命させようとしている。

 

 

 ────もっと、壊して。

 

 

(────れか)

 

 

 壊して壊して壊して壊して。

 

 

(────)

 

 

 壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ壞シテ。

 

 

 

 

「────アキト君!」

 

 

 

 

 ──── その背に、誰かが抱き着いた。

 

 

 苛立ちを隠さぬ顔。僅かに傾く首。

 興味無さげに瞳を流し、視界の端に亜麻色の髪が見えたのを最後に、その獣は再び目の前のクラインとエギル二人の首を掴む手に力を込め出す。

 

 

(────)

 

 

 だがアキトは、その一瞬だけ視界に入り込んだ髪の持ち主を理解した。

 華奢な両腕を回され、なけなしの力を込めて締め付け、全力で二人からアキトを引き剥がそうとする存在。

 その腕に、恐怖による震えは感じない。

 

 

「大丈夫、大丈夫だから……私達、みんな無事だから……!アキト君を、絶対に独りにしないから……!」

 

 

 アスナが背後から、必死に叫んでいた。

 ここに至るまで、何度も自分を支えてくれた存在。時には仲違いし、すれ違い、喧嘩をし、それでも頼っていいと言ってくれた人。キリトにとっても、みんなにとっても、自分にとっても大切な人。

 そんな彼女さえこれ以上傷付けてしまったのなら。

 

 

(────て)

 

 

 最早憔悴し切った精神。摩耗した理性。何が正しくて、何が大事なのかさえ分からなくなり始めていたその心は、やがて一つの言葉を紡いでいた。

 心の中でさえ音にできないそれを、何度も何度も口にする。

 

 

(────けて)

 

 

 それはアキトがこの世界に来て、ただの一度も言ったことがない言葉だった。何もかも自分で守ろうとしていた彼が、ヒーローに憧れた彼が、決してそちら側に回ってはいけないのだと、無意識に決め付けていたことによる一つの障害だった。

 頼れと言われても頼れず、頼り方を知らず、自分がなんとかするのだと自己完結し、それを口にはしなかった。

 

 

 何も考えられなくなっていたアキトは、無意識に、縋り付くように。

 

 

 皮肉にも、それを告げていた。

 

 

 

 

(────助けて)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──── Episode.117『零落(この手から零れ落ちたもの)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『───漸く、言ってくれたな』

 

 

 

 

 それはとても懐かしい、憧れの人の声だった。

 

 

 







ユイ 「……」ポケー

ユイ 「……」キョロキョロ

ユイ 「……」

ユイ 「……アキトさん」

END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)

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