ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

123 / 156






揺るぎないものなんてないから、人の心は揺れるんだ。




Ep.118 前進

 

 

 

 

 

 ────今回の攻略で、九人が死んだ。

 

 

 その情報は、攻略組の帰還後すぐに広まった。アキトらが拠点とする76層《アークソフィア》に始まり、そこから情報屋伝手に詳細が上層下層に流れていき、生存するおよそ六千人のプレイヤー全てを震撼させた。

 驚いたのは情報が広まるその速度。最前線から残り三層となったこの時点での戦力低下は攻略速度や成功率に多大な影響を与えることは、最早素人目にも分かるだろう。死と隣接する戦線を乗り越えてきた強者が七人も命を落としたとなれば、現実世界への帰還を願う者達からすれば落胆以上のものを抱くのは必至。以前までと比べても、情報が全域に知れ渡るのにそう時間はかからなかった。

 

 時間がかかったとすれば、攻略組の意識の回復の方だった。

 攻略組の拠点である《アークソフィア》では、彼らの帰還を待ち望むプレイヤーで溢れ返っていたが、転移門を潜って現れた彼らに歓声の声を上げられる者は殆どいなかった。最初こそ騒ぎ立てていたが、それも段々と小さくなっていくばかりで。

 人数が心做しか減っていたのもそうだが、問題は彼らの表情だった。75層のボス戦後と遜色ないほどの絶望を彼らから感じたからだった。

 

 当の攻略組も《アークソフィア》に戻るまでに色々なことを頭の中で錯綜させていただろう。

 本当に色んな状況が重なり過ぎて、その全てが終息しても脳の情報処理が追い付かず、その後暫くは誰もがボス部屋で何も言わずに────何も言えずにいた。そこから我に返った者達が一人、また一人とその場から立ち上がり、そうしてアキト以外の全員が冷静さを取り戻し、今回の被害状況を判断するまでにかなりの時間を有した。

 誰も口を開きたくはなかった。事務的な言葉だけを並べて、淡々と帰り支度を整えた。プレイヤーが何人死んだかなど、本当は数えるのすら億劫だったのだ。

 

 そして、ギャラリーの中には目敏い者も当然存在する。

 一人、また一人とその異変に気付いた。最近こうして集まるプレイヤーの中には、その存在が目的で来る者も多かったからだ。攻略組の顔色を窺って誰も口に出しては言わないが、小声で隣り合った者と『黒の剣士がいない』と口にする。それは、攻略組が壊滅的な痛手を負ったに等しいことで。彼らの絶望は助長するばかりだった。

 

 一言で言えば───アキトは、無事だった。

 突如糸が切れたようにその意識を閉ざし、死んだように目を瞑って倒れたのだった。それまで黒と白を綯い交ぜた姿は元の黒一色に戻り、冷酷な笑みも、暴力を体現した憎悪も、恐怖を生むその何もかもが消え失せていた。

 まるで全てが嘘であったかのように。

 

 だが、彼の頭上のカーソルの色ばかりは、夢幻にはさせてくれなかった。

 緑からオレンジへ。それは攻略組である彼らと、犯罪者となったアキトをはっきりと区別するものになっていた。

 夢ではない。幻ではいられない。あの姿、あの力、あの笑み、あの瞳。何もかもが既に過去の事だというのに生々しく、現実味を帯びていて。

 だから、いつもの優しい彼に戻ったのだと、安堵せずにはいられなかった。

 

 

 同時に、これが一時的なものなのかもしれないと思うと、不安はぬぐい去れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Episode.118 『前進(前だけを見て進むには)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 83層《ドルバ》は、上層であるが故に面積は広くないが、その大部分は常緑樹の森林と湿地で占められており、それが迷宮区前まで広がる自然豊かなエリアである。主街区もそれに伴った設計が成されており、緑と建物が共存するデザインはプレイヤーからの評価も高い。

 モンスターのレベルは高いが種類は少なく行動の予測もしやすく倒すのはそれほど難しくない為、比較的森林浴と称して出掛ける者が多い。

 しかし当然、辺りが暗くなる頃に出向くような者はそれほど多くない。観光名所になりつつあるというだけで、人口的には少ないフロアだ。《圏外》ならばなおのこと、日が沈んだ時間帯に行くような場所でもない。だからこそ、一人になるにはうってつけの場所でもあった。

 

 森に囲まれた巨大な湖の畔で、アキトは一本の巨木に凭れ掛かっていた。揺らめく水面に映る残酷なまでに美しい月を見上げながら、ただぼうっと時間を過ごしていた。

 この景色に、アキトは何故か既視感があった。だがすぐに納得もした。それは、身に覚えもないはずなのに、アキトのものではない“誰か”の記憶から、それが引っ張り出される感覚に襲われたからだった。

 

 

 懐かしい記憶。

 森奥のログハウス。そこから一望できる湖面と濃緑の景色。

 水面に反射する柔らかい光。森を通る心地好い風。手元で糸を引く釣り糸。

 

 

『キリト君!』

 

 

 ────隣りで微笑む、亜麻色の髪の少女。

 

 

(これは……きっと、キリトの)

 

 

 これはきっと、キリトの記憶だ。

 

 最近その声が聞こえなくなって、何度呼び掛けても返事がなくて、もしかしたらあの“何か”に押し潰され、消されてしまったのではないかと思っていた存在。

 

 

『───漸く、言ってくれたな』

 

 

 意識が途切れる直前に聞こえた、安心する声。あれは、もしかしたらキリトだったのかもしれない。

 今脳裏に映る過去も、それを見て感じている覚えのない懐かしさも、彼が現れてくれたことによるものだと思えば何の疑念も不満もなかった。

 今まで何をしてたんだとか、何があったんだとか、聞きたいことはあった。だがあの瞬間の出来事が幻だったのかもしれないと感じてしまうほどに、彼の存在は消えてしまったかのように、また感じられなくなってしまったのだ。

 再び不安がアキトを襲う。身体を震わせる。彼がいてくれなかったらと、アキトはその背筋を凍らせた。

 

 

(こんなことなら、いっそ……いっそ、キリトに……)

 

 

 最低な考えをしているのは分かっていた。けれど人を、仲間を傷付けてしまった事実がいつまで経っても拭い去れないのだ。この手に感触が今も残っているような気さえする。どれだけ逃げようとも、思考を振り払おうとも、オレンジカーソルがそれを許さない。

 この場所はモンスターが出現する心配もない安全地帯。カーソルの色がオレンジになってしまった今、アキトは《圏内》には入れない。故に、身体を休めるにはこんな場所しか選べなかった。それが罪を明確に突き付けてくる。

 

 誰もいない孤独。けれど、昔を思い出すような寂しさはなかった。今は誰もいない方がいい。誰も傷付けないで済むから。

 それでも一人であれば空白の時間が自然と生まれ、それは無慈悲にも常にあの時の記憶を突き付けてくる。

 

 

「……違う。俺じゃない……あれは……俺じゃ……っ」

 

 

 何度も自分に言い聞かせながら、震える両手で頭を抑えた。

 鮮明に甦る、彼らの絶命寸前の姿。そうさせた自分の剣。反射して映る冷酷な微笑。他者を傷付けることを厭わず、その躊躇いも感じない無慈悲な戦い方。その全てを、アキトは覚えている。

 いつもみたいに、忘れさせてなんてくれない。あれは自分ではないのだと、そう逃げずにはいられなかった。

 

 

(本物の化け物になってしまった……この手で、人を……)

 

 

 アスナの叫びを無視し、シリカの首を締め上げ、リズベットの願いを踏み躙り、リーファの両腕を斬り飛ばし、シノンの意志を抉り、フィリアの覚悟を砕き、クラインの命を消そうとし、エギルを吹き飛ばした。

 喧嘩し、反発し、協力し、笑い合った。かつての仲間と同じくらい、大切な宝物だった。それを、自らの手で。

 

 

(誰かと一緒にいたいって……いられるかもしれないって、思ってしまった……)

 

 

 かつての再現。同じ過去の繰り返し。

 お前は不幸な奴だと、誰かが言っていた。お前の周りは、不幸になるのだとそう告げられた。

 知っていた、はずだった。知っていたはずなのに。欲が出た。決して、願ってはいけないものだった。取り零すなと言われた未来を、自分は────

 

 

「本当に、バカだ……」

 

 

 ────怖い。そう思った。

 このまま彼らと共に歩くことで、また同じような事が起きるかもしれないと思うと、どうしようもなく怖かった。

 彼らが目の前で、自分の手によって斬り伏せられていく。恐怖を見せるその表情を俯瞰して、快感を覚え嗤う自分の姿を想像しては、何もかも吐き出してしまいそうになる。

 

 自分の感情が、知らない“何か”によって塗り替えられていくあの感覚が、怖くて怖くて堪らない。この眼で今見ている景色を、素直に綺麗だと思えるのがこんなにも幸福な事だなんて、知らなかった。考えたこともなかったのだ。

 自分が自分じゃなくなっていく感覚には慣れたと思っていた。キリトなら、と何処かで思っていた。けれど、そんなの嘘だった。自分を誤魔化していただけだった。あの獣の笑みを見るだけで、声を聞くだけで惨劇が甦る。あんな思いはもう沢山だった。

 

 

 ────だが、それでもアキトは戦線を放棄することはできない。

 

 

 アキトの行動原理の根底には、過去の記憶が大きく関わっている。

 独り善がりとはいえ、曲がりなりにも《黒鉄宮》の石碑の前で今は亡き少女に掲げた“誓い”があった。アキトにとって、攻略組として多くのプレイヤーを現実に帰すことこそが、《黒猫団》のみんなに対する贖罪でもあるからだった。

 

 そして初めて《アークソフィア》に訪れ、キリトが死んだと聞かされた日に、心の中で彼に告げた“約束”があった。彼の残してしまったもの、置き去りにされた者達を、誰一人失うことなく守り抜くこと。

 彼に期待や羨望を散々押し付けて離れた自分自身への戒めと、彼の背に追い付かんが為だった。

 

 自らが勝手に定めた、楔とも呼べる“誓約”。

 これまで多くの傷や痛みを受け、希望と絶望を知って、数々の出来事に触れ、迷いの中で過ごして生きてきた。何度挫折しかけてもここに立てているのは、それでも生きなくてはならない理由の一つとして“誓約”が存在していたからでもあった。

 投げ出しそうになっても、忘れようとしても、《アークソフィア》で出会った仲間達がそれを許さないでいてくれる。だから迷いや躊躇を重ねても、この楔だけは決して手放さないでいられたのだ。

 

 故にこの身に宿る“何か”に怯えても、攻略を放棄することはできなかった。

 逃げ出したい気持ちはある。あんな光景を見るのは一度だけでいいと切に願う。

 いっそこの身をキリトに委ねて、全てを任せてしまいたい衝動にさえ駆られた。だがそれはまるで過去の投影だった。再びキリトに全て押し付けて、背負わせてしまったのなら、アキトはもう自分を許せなくなると思った。

 

 

 ────なら、このまま独りの方が良いのではないだろうか。

 

 

 既に一本道だ。この選択肢以外のものは取れない状況にまで陥っていた。仲間をこれ以上傷付けることなく、かつ“誓約”に従った行動を取る方法なんて、たった一つで。

 この身に巣食う謎の存在は、たった一人で攻略組レイド級の戦力を誇ることはもう知っている。制御することは叶わない。ならば、一人でボスと対面すれば、他のプレイヤー達が標的になることはない。目の前で聳えるボスを屠れば、それで全てが収束するのだ。

 それが、オレンジになってしまった化け物が誰も傷付けずに戦える手段なのだと、そう気付いた。

 

 

「……俺、一人で……」

 

 

 この“暴力”がある限り、みんなと一緒にはいられない。

 それでもこの道しかないというのなら、それでみんなが傷付かずに済むなら、この寂しさなんてどうでもいい。孤独でも構わないとさえ思えた。

 もう同じ失敗は繰り返さない。かつての仲間と同じ末路を、自分が作ってはならない。

 

 一人には、独りには慣れてるはずだ。

 彼らと出会う前だって、現実の世界でだって、ずっとそうしてきた。だが、現実世界でこれほどの経験をしたことはなかった。

 

 レイドで挑んでも倒すのが難しいフロアボス相手に、制御の効かない獣を連れてたった一人。

 勝てるのか────?そんな問いが頭の中を反芻する。

 

 不安で、怖くて、震える。

 細い腕が、弱々しい身体が、音にならぬ声が。

 ────何より、心が。

 

 

「……アキト君」

 

「っ……!」

 

 

 アキトは冷静ではなかった。今回のボス戦による自分の行いと、内に眠る”何か“に対する疑念、自分のこれからのこと。そして、またみんなを傷付けてしまうのではないかという恐怖。

 それらが片時も頭の中心から退いてくれなくて、静寂を割く背後の気配に、声がするまで全く気が付かなかった。

 

 喉を詰まらせながらも、物凄い勢いで振り向いた。

 常緑樹の森林の陰から、その華奢なシルエットは次第に迫ってくる。その感覚に、今は恐怖すら感じる。顔が見えるまでのその僅かな時間、けれど心臓の鼓動は耳元で煩いくらいにざわつく。

 やがて月明かりを浴びる場所へと足を踏み出したその少女の姿が顕になる。その少女を見て、アキトはその瞳を見開いた。

 

 亜麻色の長髪が特徴的な少女は、心配そうな表情で此方を見た後、安堵したように息を吐いてから微笑んだ。

 

 

「……もう、やっと見つけた」

 

「ア、スナ……」

 

 

 ────ドクン

 

 

 何しに此処へ────。

 そんな問い、考えるまでもない。先の言葉から、自分を探していたのは明白。何故かなんて決まってる。だが、これから彼女の口から告げられるであろう言葉の全てが、今はただ恐ろしかった。非難、罵倒、追求、決別。何もかもが今の彼女から放たれる可能性がある。

 

 

 ───“待ってるのよ。アキトが話してくれるのを”

 

 

 ───“けど、聞いたところで力になれないかもしれないとも思ってる……だから聞くだけ無駄かもしれないって、そう思って……怖くて、聞けないだけ”

 

 

 ───“誤魔化せるかもだなんて、絶対に思わないで”

 

 

 いつの日か、シノンが言っていた言葉を思い出す。

 彼女は───アスナは、アキトが話してくれるのをずっと待っているのだ、と。この身に起きていること、その異変について彼女は気付いていて、それでいて今まで何も言わなかった。彼女なりに気を遣い、そして我慢してきたのだろう。

 だが今回の件があって、アスナも静観できなくなったのだ。周りを傷付けた自分に、アスナは今一度問い質そうとしているのだろう。今、自分がとういう状況に陥っているのかを。

 だがもう、聞きたいことを聞くだけで済むような話じゃなくなっていた。

 

 

(駄目だ……アスナには……アスナに、だけは)

 

 

 アキトの中に眠る、キリトの記憶が騒ぎ出す。

 身に覚えもないその記憶によって形作られた感情が、本能的にアスナに語ることを恐れてる。自分の記憶じゃなくても、自分の記憶のように刷り込まれている彼の記憶の中で、アスナはいつだって笑っていた。

 その顔を曇らせてはならないのだと、キリトの記憶が言っている。その顔が涙で滲むその姿を思い出すだけで──

 

 

「────ぁ」

 

 

 途端、嫌でも思い起こされる風景があった。見たくもない惨劇が、痛いくらいに生々しい感触を連れて頭を揺さぶった。心臓の音が、また大きくなる。アスナの声など聞こえないくらいに強く、強く脈打つ。

 瞳孔が開き、過呼吸が始まる。倒れる仲間を、傷付く彼らを、恐怖する誰かを思い出し、喉の奥から焼き付くような不快感が込み上げてくる。歯の根が震える。

 

 

「────っ!」

 

「な、えっ、ちょっと、アキト君!?」

 

 

 気が付けば、その場から立ち上がって駆け出していた。

 行き先なんてない。ただ、アスナからできるだけ離れたかった。これ以上彼女を見ていると、嫌でもあの時の光景が甦る。恐怖と苦痛で、身体も心もどうにかなってしまいそうだった。

 項垂れるような人達、目を虚ろにしながら遠くを見る彼らの姿。それはもう、死んでいるのと変わらないほどに痛々しくて。

 

 

「アキト君!待って、アキト君!!」

 

 

 すぐ後ろから、アスナの声がする。にも関わらず、この足を動かすことに躊躇なんてない。仲間が大事だから、傷付けたくないから、獣になった自分に対する彼女の気持ちや言葉を、聞きたくないから。

 逃げ出したと言われてもいい。けど、非難の声を聞きたくなくて、森の中の入り組む道を覚束無い足取りで懸命に走り続ける。アスナからだけではない、背後には後悔や懺悔までもが押し寄せてくるような気がしたから。

 

 

「くっ……う、っ……!」

 

 

 口元に手を当てて、アキトは込み上げる嘔吐感を無理矢理押し込んで大地を駆け続ける。

 いつまでも消えない浮遊感。そして、足を踏みしめる度に内臓を掻き乱していく感覚。色んなものが逆流し、身体中を虫が駆け巡るかのような圧倒的な不快感。

 

 そして何より、この世界がアキトという存在の全てを拒むような拒絶感。

 世界は、アキトをアキトのままでいさせてはくれない。

 

 

(なんで……っ、なんで、俺ばっかり……!!)

 

 

 物心着いた時に両親を失った。

 この世界で漸くできた《黒猫団(なかま)》を失った。

 命に代えても守りたいと思った、大切な人を失った。

 羨望と嫉妬を繰り返し、それでも憧れずにはいられなかった親友を失った。

 

 この世界に来てからだけじゃない。生まれた時から、アキトは様々なものを失ってきた。失くしてきた。

 零す程の物すら残ってなかった空っぽの掌に、漸く収まった最後の宝物。それすらも手にし続けることを拒むのか。

 

 

 ──── なあ、これ以上……何が欲しいんだよ?

 

 ──── 俺の何が気に食わないんだよ、神様。

 

 

 そう、届きもしない皮肉を心の中で呟いた。

 どうすれば良かったのだろう。何が正解だったのだろう。無限の網目のように入り組む選択肢の中で生きてきた。絶対的な正解ではなくても、人の道を外すような間違いを犯す生き方をしてきたつもりはない。こんなにも残酷な仕打ちを受ける言われなんて、あるわけがない。

 この世界に来たこと自体が、罪だったというのか。

 

 

「このっ……待ってって言ってるでしょ!!」

 

「なっ……!?え、な、なんで……!?」

 

 

 想像以上に近い場所から声が突き刺さった。

 我に返り振り向けば、苛立ちを隠さず表情に出しながら此方を追い掛けるアスナの姿が見え、アキトは言葉にならないほど驚愕した。

 疲労はあれど全力で走ったはず。かなりの距離を移動したし、ここに至るまでに道もそれなりに入り組んでいた。大分引き離したと思っていたのに、気が付けばすぐ真後ろにその存在はあった。

 

 

「っ……来るな、近付かないでくれよっ!!」

 

「な、なんですってぇ……!?」

 

 

 何故追い付ける?いや、何故こんなに全力で追い掛けてくるのだ。質問や非難をぶつけたいのだろうことは分かるのだが、ボス部屋で起こったことを考えれば、アキトに恐怖心を覚えて近付けないという方が自然ではないか。恐怖があるなら、こんな無理に追い掛けなくてもすぐ諦められるだろう。

 なのに────

 

 

「《閃光》の実力、舐めないでよ……ねっ!!」

 

「ぐえっ!?」

 

 

 突如背中から衝撃が走る。瞬間、その足が縺れた。

 どうやらアスナが背後から、一か八かアキトに飛びついたのだろう。アキトは一気にバランスを崩し、すぐ傍にあった木の根元に躓いて、華奢な身体は前のめりに倒れ始める。受身を取ろうと咄嗟に反転し、飛びつく際に同じく前のめりになったであろうアスナを偶然にも受け止めた。

 彼女を庇う形で背中を地面に打ち付け、僅かに地を削って静止した。

 

 

「たた……」

 

 

 思い切り背中をぶつけ、アスナも上に凭れかかっている為に身動きが取れずにいると、アキトの身体の上で倒れ込んでいたアスナが咄嗟に上体を起こし、腕を立てて頭を上げる。

 その端正な顔や、綺麗な亜麻色の髪が視界を覆う。すぐ真上に彼女の顔があった。アスナは此方に覆い被さった体勢のまま、此方を見下ろして怒気孕む笑みを浮かべた。

 

 

「つ、かまえたぁ……よくも逃げてくれたわね……!」

 

「な、なんだよアスナ……近づくなって言って……」

 

「勝手にいなくなるからでしょ!!意識が戻るまでみんな待ってたのに、ちょっと目を離した隙に……君って人は!!」

 

 

 確かに、ボス部屋で意識が途切れたアキトをアスナ達はずっと待ってくれていたようだった。次の層の有効化(アクティベート)を自分の部下に任せてまで気にかけてくれていたらしく、目が覚めた時の居心地の悪さときたらそれはそれは酷いものだったのを覚えてる。

 だが帰路に立とうとも、オレンジプレイヤーは《圏内》に入れない。システムによって規制されているのだ。そうでなくとも、今のアキトが攻略組と共に行動するのは士気が下がることにも繋がる。事実を知る攻略組のメンバーなら兎も角、他者の目を気にせずにはいられなかったのだ。

 

 

「……オレンジは、街に入れない。それに、犯罪者が攻略組の中にいたら他のプレイヤーからのやっかみとか、色々あるかもだし」

 

「一言くらいあっても良いじゃないって言ってるのよ!貴方が帰りの集団にいないと知った時のユイちゃんの顔なんて……っ、泣き止ませるのにどれだけ時間掛かったと思ってるの!!」

 

「す、すみませんでした……じゃなくて!」

 

 

 アスナにはそんな正論も形無しだ。ユイの状況も話されてしまったら、アキトには文句の一つも言えはしない。───初めから、言う資格もないけれど。

 しかしアキトにとっては、そんなことを言っている場合ではなかった。アスナが此処にいるという事実は、彼にとっては恐怖の対象でしかない。

 自分の傍にいるだけで誰かが傷付く可能性が僅かにでもあるならば、自分が彼女の傍にいる訳にはいかなかった。どうにか逃げようとも、アスナが覆い被さっている所為で逃げ道も無い。まるで押し倒されて迫られているように傍から見えるのもかなり問題だった。

 

 

「アスナ、退いてくれ!ってか、この体勢色々とマズ───」

 

「嫌よ。絶対に退かない。話したいこと、いっぱいあるもの」

 

「っ、この……!」

 

 

 聞く耳持たないアスナに若干の苛立ちを覚えながら、無理矢理抜け出そうと身体を捩る。それも予想されたことなのだろう、アスナはすぐさまその両の手をアキトの頭の左右に突き立て、自分を見上げるしかない状態に陥れる。

 退かない、逃がさないと言った自分の言葉を現実のものにしている。それが、アキトには分からない。

 何故、何故そこまで自分に────

 

 

「ば、馬鹿なのか君は!あんな事があったばかりなのに、どうして俺に近付こうなんて────」

 

 

「バカなのはアキトくんの方でしょ!!」

 

 

 ────ピシャリ。人気のない森の中でそれは響いた。

 自分の言うことを聞いてくれないアスナに声を荒らげ、その声に更に被せるようにアスナが叫んだのだ。

 思いもよらぬ怒声にアキトは言葉に詰まらせ、唖然と口を開けながらアスナを見上げた。これほど激情的な彼女を見るのは初めてで、アキトは驚き息を呑む。

 

 その頬に、水滴が伝う。

 降り出した雨のように寂しく、冷たい。口元を震わせた彼女の瞳に、大粒の涙が溜まっているのことに、見上げてから漸く気付いた。

 

 

「……どうして、分からないの」

 

 

 涙は堪え切れずに溢れ、一粒、また一粒とアキトの頬に落ちる。瞳や頬を赤くして、怒りと悲しみを綯い交ぜにした彼女の表情は、今までアキトが見てきた中でも一番に痛々しくて。

 ────これを、この顔を、自分がさせているのかと思うと、形容し難い苛立ちすら感じる程に。

 

 

「急にいなくなったら……心配、するじゃない……不安に、なるの……当たり前じゃない……」

 

 

 アキトの拒絶の言葉に、アキトの逃避行動に、あの部屋で見せた嗤う表情に、アスナが傷付かないはずなかった。

 彼の被虐とも呼べる自己犠牲に、心優しき彼女が心を痛めなかったわけがなくて。

 怯えていたのは、不安だったのは、自分だけじゃない。

 アスナも同じだったのだ。形は違えど、感じていたものはきっと自分と何も変わらない。

 

 

「……アスナ」

 

「ずっと、ずっと不安だった」

 

 

 再び、震えた声が重なる。

 両の手がアキトの胸へ向かい、黒いシャツをくしゃりと握り締め、蹲るように頭を下げた。

 

 

「困ってる誰かに何かしてあげたい、力になってあげたいって思うアキト君のことを見てると……私もそうありたいと思えるようになれた。そんな君が好きなの」

 

「────」

 

「けどその所為で……自分の気持ちとか、降り掛かる傷や痛みを蔑ろにしちゃうアキトくんがずっと……ずっと嫌だった」

 

「────」

 

 

 

 

「そんなアキト君が、大嫌いだったの」

 

 

 

 

 ────ああ、そうだった、と、泣きじゃくるアスナをただ見上げながら、アキトは思い出した。

 

 

 彼女は、本当はずっと我慢していたのだ。前から自分の行いを危ういと感じていて、だから度々思い出させるように、笑って教えてくれたのだ。自分には仲間がいるのだと、孤独じゃないのだと。

 

 

 “私を、みんなを頼って欲しい”、と。

 

 

『────漸く、言ってくれたな』

 

 

 あのキリトの言葉は、きっとそういう意味だったのだ。漸く、『助けて』と願った自分に安堵したのかもしれない。

 

 だが今日に至るまでアキトは、自分からは決してアスナやみんなに対して助けを求めたりしなかった。それは無意識のことだったが、全てを隠し抱え込んでいた結果、アキトの暴走に誰一人気付かず、対処に遅れた。

 全て、自分が彼女達に話していたのなら、本当は何もかもが好転していたのかもしれない。だが、それができなかったのはアキトの性格、その根底。

 彼にとって仲間を守ることは、仲間から離れることに等しい。それは危険から仲間を引き離すという考えに基づいている。

 それは、過去の経験から導いた考え。

 

 いや────アキトの、生き方のようなものだった。

 

 

「……ねぇ、どうして突然いなくなったりしたの?どうして、何も話してくれないの……?」

 

 

 アキトの胸に顔を埋めた彼女は、嗚咽混じりの声で震えていた。アキトは、何も言えなかった。ここまで彼女が悩んで、抱えて、心をすり減らしていたことに気付けていなかったショックと、彼女の悲痛な叫びを耳にして。

 動けず、仰向けのまま、月明かり照らす空を見上げながら。

 

 

「私が……頼り、ないから……?」

 

「……違う。違うんだ、アスナ……」

 

「悔しい……辛いの……」

 

 

 否定の言葉を続けても、傷付けるだけだった。今日まで誰にも頼ろうとしなかった事実は変わらなかったから。

 胸の中でいつまでも泣きじゃくる彼女を抱き締めることも、髪を撫でることもせず、彼女を見てその表情を歪ませる。

 見ていて辛いのに、苦しいのに、それを慰める資格すら、触れる覚悟すらなくて。

 

 

「強く、なりたい……アキト君を助けられるような……頼って貰えるような強さが……好きな人を、今度こそ守れるように……」

 

 

 ────俺も、そうだよ。

 

 ずっと、ずっとそれが欲しかった。だから、それを持つキリトに憧れた。大切な人を守る力が、強さが欲しいと思ったのだ。

 けれど、少し考えれば分かることだ。そんなもの、誰だって欲しいに決まっている。自分だけが渇望しているなんて、思い上がりもいいところだった。

 

 自分が逆の立場ならどうだろうかと、ふと考える。

 アスナが何かに悩んでいるのを知っていて、頼って欲しいと願っても何も話してくれなくて。その結果、後悔することになっても後の祭り。

 彼女は今、それを体験しているのだと思うと。

 

 

「……そっか、そうだよな……いや、本当は分かってるはずなんだ。苦しいのは、俺だけじゃなかったんだって。けど……」

 

 

 何度もアスナに教えられてきた。仲間に、何度も救われてきた。それなのに、アキトはこの生き方を変えられなかった。

 仲間なら助け合うべきで、喜びも悲しみも分かち合うべきなのだと、かつてキリトにそう示唆したことを偉そうに言っておいて、なんて間抜けなのだろうか。

 

 でも、震える。怖いのは変わらないのだ。

 全てを伝えたところでどうにかなるかも分からない。何も好転せず、彼らの負担になってしまうのではないかと、まだどこかで思ってる。

 

 

 ────これ以上傷付けられるか、この娘を。

 

 

 自分の上で泣き続ける彼女。ここまで追い掛けてきてくれた彼女に、何一つ返さずにまた逃げるのか。

 また暴走するかもしれない。傷付けるかもしれない。なんでもない振りをするのが正しくて、それが仲間を守ることに繋がると思っていた。今でも、そう思っている。

 

 だが、それを隠して、誤魔化して、強がって。何も言ってくれないのが辛いのだと、アスナは言った。

 きっと、互いに相手を気遣って、すれ違って、拗れて。全てがお互い様だったのだ。

 

 

「……話すよ、アスナ。できる限り」

 

「……アキト君」

 

「みんなを、呼んでくれるかな」

 

 

 上体を僅かに起こしたアスナの頬は、まだ涙で濡れていた。申し訳なさでいっぱいだったアキトは思わずその頬に手を当て、指で涙を拭った。

 

 仲間に話せなかったのは、心配させたくなかったからだが、それは理由の半分だ。

 きっと、拒絶されるのが怖かったのだ。話すことで異端と決め付けられ、離れていくのが怖かった。孤独と拒絶、喪失の痛みをアキトはもう知っている。

 

 けれど、アスナのような仲間がいてくれる。

 恐怖させ、傷付け、もう何もかもが曝け出されてもなお、彼女は歩み寄ってくれる。それならば。

 

 

 ────仲間として、対等でいなくちゃならない。

 

 

 

 

 

 







83層《ドルバ》安全地帯のログハウスにて


① 謝罪その1


一同『『『…………』』』

アキト 「……」

リズ 「……で?」

アキト 「っ……!」ビクッ

シノン 「勝手にいなくなったことに対して、何か私達にないのかしら」

リーファ 「そーだよ、みんな心配したんだから」

アキト 「ご、ゴメンなさい……」ドゲザ

アスナ 「う、うわぁ……こんな綺麗な土下座見た事ない……」





②謝罪その2


ユイ 「……っ」

アキト 「ユイちゃん!?な、なんで此処に……!?」

クライン 「馬鹿野郎!お前さんを心配してに決まってるだろーが!」

エギル 「お前がいない知るや否や大変だったんだぞ……甘んじて受けろ、俺は知らん」

アキト 「嘘でしょエギル!?」

ユイ 「っ……わ、私、アキトさんが……っ、死んでしまったんじゃないかって……うっ……怖くて……不安、で……!うっ、えぐっ……」グスッ

アキト 「わ、わあああぁあ!!!ゴメン、ユイちゃん!ホントにゴメン!マジでゴメンなさい!!」ドゲザ

アスナ 「う、うわぁ……さっきより綺麗な土下座……」
































シリカ 「……」



END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。