ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

124 / 156





怖くても、辛くても、震えてでも笑え。


Ep.119 虚飾

 

 

 

 

 

 ────叫び声がする。

 

 

 それも一つではない。それは数多の悲鳴が混ざり合い、耳朶を揺さぶる不快な音となる。決して聞き慣れることはないが、聞き慣れた声がそこには在った。距離はそう遠くない。自分に降り掛かる可能性も捨て切れない位置に、それは 存在している。

 

 

 ────荒野たる戦場で、それは天を仰ぐ。

 

 

 何度も足を踏み入れ、それでもなお慣れることなど決してない、冷酷で殺伐とした空間。多くの者を踏み荒らしてきた獣の根城。人々が戦い、目指す場所への行く手を阻む者が住む場所。

 頬にへばりつく湿った空気が、不気味なほどに生暖かな風を運ぶ。黒煙を散らし曇る視界と、石のように硬直し意思を否定する重苦しい身体。その頭をゆっくりと上げる。僅かに晴れた視界の先、その中心点に朧気な視界のまま影を捉えた。

 

 

 ────全てを俯瞰し嘲笑うかのように、その男は立っている。

 

 

 己の力を誇示できる快感と、数多を捩じ伏せる感触に愉悦を感じながら。黒と白入り交じる髪を靡かせ、両の剣を脱力させたその手に握り締めている。

 その頬には多くの血が流れている。それは自らのものではなく、見知らぬ誰かの血。その手でただ力を奮った証。そこに逡巡や躊躇の概念は介在しない。誰も彼もの成れの果て。

 そこに、戦意を持つ者はもういない。その世界は、地獄に相応しい絵図を象り始める。

 

 

『────はは』

 

 

 男はただ嗤う。悦びを噛み締めるように。

 恍惚とした血のように紅い瞳。屠ってきた者共を見下ろし、自身の力を確かめるように。

 求めるものは純粋なる“暴力”。理不尽を払い除ける身勝手な《我儘》。子どもの駄々のようでいて、心の奥底で闇のように暗く仄めくのは、溶岩のように渦巻いている熱い“何か”。その不規則な螺旋は思考を連続させているかのように思えて、それがとても怖かった。

 今彼が何を考えているのかなんて、それこそ考えたくもない。その悪魔のような彼の憎悪混じる瞳に自分が映る時、呼吸すら忘れてしまうほどに身体が硬直する。心の臓まで、凍りつくような恐怖に襲われる。

 

 

『────あははは』

 

 

 カラカラ、と乾いた声音。何がそれほどまでに面白かったのか、頬や身体にべっとりと誰かの血を付着させたまま、気にすることなく嗤い続けている。

 それを止める者────止められる者は、その場に残っていなかった。中心で立ち尽くす黒白の剣士を除けば、凡そ人間としての形を保っている者さえ少なく、その全てが地面に這い蹲っている。

 意識を刈り取られた者は瞳に虚ろを宿し、意識ある者は恐怖に打ちひしがれて声にならぬ音を喉奥から吐き出していた。

 

 部屋のそこかしこに死が落ちている。無機物めいたそれらは、乱雑に捨てられている。

 人の体としての原型はあっても、薄暗い部屋にはうっそうとした静寂が横たわっている。全てはもう、とっくに終わってしまっていたのだ。

 今はただ、この場所で起きた惨劇の結末を見届け、手を差し伸べることなく震えたまま、誰に助けを求めるでもなく喘いでいるだけだった。

 

 

『────』

 

 

 ヒュッ、と喉元が鳴った。

 その剣士───黒白の獣は此方の存在に気付いた。

 この空間に、まだ熱がある。生きとし生けるもの特有の熱を、肌で感じたのかもしれない。正しく獣のように敏感にそれを捉え、人の形をした獣はゆっくりと此方に視線を向けて、血色の双眸を細めた。

 視線が交錯する。片や恐怖に喉を詰まらせ、呼吸すら困難になるほどに身体を震わせ、片やその表情を見て恍惚とした笑みをその顔に滲ませる。

 その足が一歩、此方に向かって踏みしめられた。

 

 

 ──── い、や

 

 

 膝が床から離れない。全身に渡る震えが身体の制御を拒絶する。理性や感情に反して縋る願いを無視するかのように、死と隣接した恐怖が肩にへばりついて離れない。

 嫌悪し、否定し、拒絶する。一歩一歩近付く度に、どうにか頭を左右に揺らす。内に僅かに残る生存本能が、諦めるなと警鐘を鳴らす。

 

 

 ──── やめて

 

 

 その笑みが消えることはない。長めの前髪に隠れた瞳が、たまに此方を覗く。闇色の霧の中でその輝きを放つ紅い瞳は、此方を捉えたまま離さない。その拒絶を許さない。決して自分を逃がさない。何一つ待ってはくれない。

 その欲望を満たす為の捌け口、殺意の対象、標的、獲物、どう呼ばれ方を変えても意味はない。その根本は変わらない。ただ全てを平等に破壊する者。

 それは命を弄び、尊厳を踏み躙る、“暴力”の権化。

 

 

 近付くその手は、震える私の首へと伝う。

 

 

 ──── こっちに来ないで!!

 

 

 苦痛だけがそこにあった。言葉にすることさえ禁じられていた。その場から逃げるように、その意識は現実へと帰還する。

 額にビッシリと汗を掻きながら目蓋を開けば、薄暗がりの天井が視界に広がっていた。枕の感触を頭に感じながら、仰向けになっていることを体感的に理解すると、その上体をゆっくりと起こす。

 身体中が汗ばんで、肌に服が張り付いている。運動をした後のような自らの姿を、未だ絶えない荒い呼吸のまま見下ろしていた。その右手を胸元に寄せれば、心臓がまだ強く脈打っているのを感じる。そしてその手は、次第に上へと移動して、そのまま首筋へと触れた。

 

 

「っ……!」

 

 

 瞬間、過去の記憶が頭を過る。夢の続きと重なるそれは、幻となって空間を支配していた。

 その首に冷たい指先で触れられた感触が、未だに残っている。記憶の中の“獣”が嫌になるほど鮮明で生々しく思い起こされる。まるですぐ目の前にいるかのように荒ぶる。

 

 

 ────その首に、死へと続く指先が触れている。

 

 

「いやあっ!!」

 

 

 咄嗟に出たのは拒絶の悲鳴。それと同時に目を瞑った。幻ではあるが、実際に現実で起きたその恐怖から逃れる為に。

 されど、それは夢幻だと理解していたから、同時にとても苦しかった。もう何度見たか分からない夢。あと何度夜を迎えれば消えていくのか分からない幻。

 

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 

 何より辛く苦しかったのは、痛くて悲しかったのは、自分が恐怖を向けている対象が恩人であることだった。

 これまで自分や仲間を何度となく救ってきた英雄。手を伸ばすことを決して諦めないその背中が、いつだって憧憬の先にある。

 

 

「……どう、して」

 

 

 大切な仲間。命の恩人。支えるべき背中。

 ずっとそう思ってきたはずなのに、あの日からその思いは霞みがかって見えてこない。ノイズが絡むようなグチャグチャな視界の中で現れるのは、二人の黒の剣士ではなくなっていた。

 

 暗く冷たい表情のまま、惨たらしい屍山血河の只中に立ち尽くす、黒と白の獣。

 いつだってそれは記憶の中で、此方の死を覗いている。

 

 

「どうして……っ、こんな……っ」

 

 

 理性を無視し、思考を否定する。感情が、身体の全てを支配する。これまで見続けてきた背中が、あの日からずっと恐ろしくて堪らない。あの瞳に見据えられたあの時から、震えが止まらない。

 死と隣接したあの瞬間が頭から離れない。振り払おうとすればするほど、恐怖の形は鮮明に形を創り出していく。

 

 

「……きゅるぅ」

 

「っ……あ、ピナ……ごめんね、起こしちゃったね……」

 

 

 寝起きのような鳴き声を放ったのは、枕元で蹲っていた小さな竜。彼女のテイムモンスターでもあるフェザーリドラ──ピナだった。主人である彼女の異変に気が付いたのか、そのまま彼女の膝元に乗ると不安げな瞳で此方を見上げていた。

 それだけで喉が詰まるように熱いものが込み上げてくるのを感じて、その瞳には涙が溜まる。情けなさと苦しさと、自分の弱さと卑しさに腹が立った。

 消えないあの日の恐怖を紛らわせるように、ピナを優しく抱き締める。臆病な私を許してくれと肩を震わせながら。

 

 

 ────大丈夫

 

 

 少女──シリカは、暗がりの部屋で息を殺すように蹲って囁いた。

 

 

 ────大丈夫だよ

 

 

 それは、自分に言い聞かせるように。呪いをかけるように告げる。そうすればこの恐怖を消せる、誤魔化せると願いながら。

 朝には何でも無かったように、笑顔で恩人に報いることができる。

 

 

 ────きっと上手くできる

 

 

 どんなに怖くても苦しくても、悲しくても笑っていれば。大丈夫だよと演じていれば。いつか、それが本当になるような気がした。

 だから命令するように。弱い意志を捩じ伏せるような楔を胸に穿つ。

 

 

 

 

「……笑え」

 

 

 

 

 ────笑え

 

 

 

 

 恐怖に呑み込まれてしまわないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Episode.119 『虚飾(虚勢で心を飾る者)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────キィ、と軋むような音が聞こえた。

 

 

「……っ!」

 

 

 此方を気遣ったような小さな音だったが、アキトの意識は完全に覚醒した。未だ見慣れぬ木組みの天井を眺めるのも束の間、仰向けになっていた寝台から転がるように飛び下りると、即座に寝室の入口に駆け出す。

 焦燥隠さぬ表情で取っ手に手を掛けると、勢い良くその扉を開けた。

 

 

「こんばんはー、アキト君。……もしかして寝てた?」

 

「アキトさん、こんばんは!」

 

「っ……アスナ……ユイちゃん……シノンまで」

 

「お邪魔するわね」

 

 

 勢い良く開いた扉の先にいたのは、腕に籐かごを引っ提げたアスナとユイとシノンだった。その事実だけで、残っていた睡魔は全て消し飛ぶ。

 特に慌てる様子もなく笑みを浮かべる彼女達は、真新しい木組みのリビングを物珍しそうに見渡しながら、籐かごをテーブルへと置いてソファへと腰掛け始める。

 アキトは思わずその足を一歩前に出すが、その次の一歩が思うように踏み出せずにその場で立ち尽くした。

 

 いっそう心臓が高鳴り、強く脈を打つ。彼女らの顔が、真新しい過去の記憶を連れてくる。

 はっきりした意識の中で、仲間に剣を向ける自分の身体。明確に思い出せるのは自らの不気味な嗤い声と、刀身に映る冷たい瞳。恐怖が去来した胸の奥で、恐怖と焦燥が胸に渦巻いていた。

 それら全てを無理矢理押し殺して、アキトはどうにか声を絞り出した。

 

 

「……来るなって、何度も言ったろ」

 

 

 視線を向けることもできずに、歯を食いしばってそう言った。

 何度か口にしてるはずのその言葉一つ告げるのに、どれだけの気力を要しただろうか。口元を震わせ、歯の音を鳴らしながらもどうにか会話を続けようと努めたが、それでもまともに目を合わせることすらできなかった。

 

 現在、アキトは一人で生活をしていた。

 プレイヤー人口が少ない83層の街の外には、常緑樹の森が階層の端まで広がっている。その森に囲まれた大きい湖の畔の先に、先日アキトはログハウスを購入した。一人で暮らすには広過ぎるが、特に使う当てもなかった大金を叩いてまで入手したのは、オレンジカーソルでは《圏内》に入れないからだ。

 前回のボス攻略で、攻略組は物理的にも精神的にも相当な痛手を負っている。仮想世界を成り立たせる《カーディナル》の不具合から残り時間を鑑みても、最優先事項であるゲームクリアまでの間隔はなるべく短くしたい。その為カルマ回復クエストを行っている時間的余裕はなく、拠点を《アークソフィア》からこの場所へと変更したのだった。

 

 

 ────だが、それ以上に。

 

 

「……この前、全部話したろ。一緒にいるのは危険だって」

 

 

 彼らを、今の自分に近付けたくなかった。この身に宿る“暴力”の存在を、彼らは既に身をもって知っているのだから。

 96層のボス討伐作戦後、正にこの場所でその事について自分の知る限りの事を彼らに話す事を決めた。

 自分とよく似た声が脳裏で響き、破壊衝動を煽ってくること。その間身体の主導権を奪われていること。たったそれだけのこと。それでも今まで起きた時の事を覚えてる範囲で語った。それでも、アキト自身でさえ知っていることの方が少なかった。

 

 あの場では、そんなアキトに同情するような顔や誤魔化すような笑みを浮かべては、慰めや励ましの言葉を掛けてくれた仲間。

 だがこの身体が力を奮ったあの時の、彼らの顔が忘れられない。恐怖や驚愕、焦燥に彩られたあの顔が頭から離れない。彼らが今まで通り変わらずに接しようとする程に、その光景は脳裏を過ぎり続ける。

 

 彼らと距離を置くことに決めたのは、彼らの為でもあり自分の為でもある。勿論離れるのは物理的な距離だけで、メッセージのやり取りを怠ったことなんてない。疎かにすれば、もしかしたら此処に訪れるようなメンバーがいるかもしれないと考えたからだ。

 結局、彼らは此方の考え虚しくこのログハウスに侵入してきた。彼女らは、自らの命が獣の目の前に晒されていることを分かっていながら、我関せずで此処に現れたのだ。流石にこれ以上は看過できるレベルを越えている。当たりの強い言い方になってしまうのも仕方がなかった。

 

 

「夕食、一緒にどうかなって。駄目かな」

 

「……駄目だよ。帰ってくれ」

 

「折角ユイちゃんが考えたのになぁ。アキト君と食べたいって」

 

「なっ……それを反対するのが母親の責務だろ……!」

 

 

 この現状なら、ユイの我儘を拒否してでも此処にくるべきではない。娘を守るというのは、一緒になって危険を被ることでは決してない。

 それは子を持つ母親としての役割を放棄してるとさえ思えて、アキトはアスナに───何より、こんな現状を作り出した自分に腹立たしさを覚えてならなかった。こんな事にさえなってなければ、自分だってみんなと。

 ただ原因が不明である現時点で、あの現象がいつ起こるか分からない今、一緒にいるのが危険だという事実は変わらないのだ。

 

 

「自分達の身くらい、自分達で守れるわよ」

 

「シノン……」

 

「それに室内なら、派手な動きもできないでしょうし。幾らでも対策は練れる」

 

「……なら、俺が出てく」

 

「あら、自分の頼みは聞かせようとする癖に人の頼みは聞かないなんて、ちょっと勝手なんじゃないの」

 

 

 そんな思考や意志を裂くような凛とした声。ソファで腕を組んで背に凭れていたシノンは、明後日の方向に視線を向けながら眉を吊り上げている。瞳は、明らかに怒気を孕んでいた。

 アキトは自分の都合で、シノンに自分の身体の状態を秘密にしてもらっていた。彼女の気遣いを無下にして、誤魔化し続けたその結果が今回の騒動だ。故に今後、彼女の言葉や態度に棘があっても仕方がなかった。

 

 

「っ……それ、は……」

 

 

 彼女が言い放ったのは何処までいっても正論で、アキトの言っていることは都合の良いものでしかない。「みんなの為なんだ」と言えば聞こえは言いが、伝えてしまえばそれは此方の意志や意図を無理矢理押し付けたものでしかなくなってしまう。

 それはあまりにも身勝手過ぎた。というか、もう何言っても帰ってくれない気がする。

 

 

「……でも」

 

「やっほーアキト!おっ邪魔っしまーす!」

 

「っ、フィリア……」

 

 

 未だに躊躇するアキトの言葉を遮るようにして勢い良く扉が開いた。俯いた顔を思わず上げれば、ログハウスに入ってきたのは満面の笑みを浮かべたフィリアだった。

 更にその後ろからリズベット、リーファ、クライン、シリカと続けて入室してきたではないか。アスナ達が来た時点で予想はしていたが、流石に唖然としてしまう。

 自分に対しての危機管理能力の薄さは、信頼されていると喜ぶべきか考え無しだと怒るべきなのか。愈々溜め息を吐き出すと、たまたまリズと目が合った。

 

 

「ぁ……リズベットも来たんだ」

 

「何よアキト。文句あんの」

 

「文句っていうか……まあ、みんながそれで良いなら、何も言わないよ……もう」

 

「珍しく素直ね。いつもなら我を通す癖に」

 

「たった今一悶着あって、正論でぶん殴られたんだよ」

 

「……ああ、納得。ま、悪いと思ってるなら、今日は大人しく一緒にいることね」

 

 

 リズベットはソファに座る不機嫌なシノンを見て色々把握したらしい。苦笑した後、アキトの肩をポンと叩いた。

 そんなリズベットも、色々と事情を話した今でも態度を変えたりしなかった。心優しい彼女もきっとシノンと同じで、あの手この手で傍にいようとしてくれる一人なのだと知った。あんまり意固地だと、「武器のメンテしないから」なんて言われそうだと、心の中で苦笑する。

 けどそれは恐らく、此処にいるみんながそうなのだ。

 

 このログハウスは、アスナ達から自分を引き離す為のものでもあった。故にこうして彼らに会いに来られるのは嬉しくもあるが、とても困ることだった。

 何せ、彼らに近付くのが怖くて距離を置いたのだ。また傷付けてしまうのではないかと思うと、震えが止まらなかった。自分で制御できるものではない分、いつまたあの暴走が起きたって不思議じゃない。

《圏内》に戻る為のカルマ回復クエストをやらずに街から離れたこんな森の奥まで来たのは、みんなと距離を置く理由を一つでも増やす為でもあった。

 

 だがそんなもの、きっと彼らには関係無いのだろう。

 だからあの時、96層で残虐の限りを尽くしたストレアを、暴走し獣と化したこの身から守ろうと立ち塞がってくれたのだ。

 あの日、自分の身体に起きていることを彼らに伝えるのはとても怖かった。この世界の不具合やストレアのことなど、そのうえ自分の事でさえ分からないことの方が多い現状で、伝えるのはかなり勇気が必要だった。信憑性の問題もあったが、余計な混乱と心配、そして恐怖させたくなかったのが一番の理由だった。

 それを語ってもなお、こうして身近に彼らがいる。その事実がアキトにとっての全てなのだ。

 

 ────俺は、みんなに寄りかかっても良いのだろうか。

 

 駄目だと分かっていたはずなのに、心が縋って仕方がない。彼らの優しさに甘え、依存してしまいそうになる。この熱の在り処を、心の拠り所を、決して手放したくなくなってしまう。

 本当は身勝手と言われても、この場を解散させるのが正解なのだ。それなのに、彼らの好意を無碍にしたくもなくて。どうしようもなく優柔不断だった。

 

 

「それじゃあ、夕飯作ろっか。今準備するから待っててね」

 

「あっ、アスナさん、あたし手伝いますよ」

 

「あ、あたしもお手伝いします」

 

「ありがとう二人とも。それじゃあ───」

 

 

 キッチンの方で、食材をオブジェクト化しながらリーファやシリカと話し込んでいるアスナに、チラリと視線を向ける。ふと、このログハウス周りの森で彼女から逃げ回ったあの日の事を思い出した。

「頼って欲しい」と再三に渡って言われてきた事。自ら助けを乞うなんてこと、今まで考えたことすらなかったのだ。だから、どういう時にそれをすべきなのかさえ不明瞭で、正解は見つからない。

 彼女のことを思うなら、信じてるのなら、このまま何もせず彼女達の傍にいても良いのだろうか。

 

 

「なーにシケたツラしてやがんだよ」

 

「そーよ、アンタは今日座ってなさい。ほら、黙って待ってる!」

 

「わ、わっ……」

 

 

 突っ立ったままでいると後ろから両肩に手を置かれた。左右を見ればクラインとリズが立っており、そのままソファの方までグイグイとその背を押されながら運ばれて、ソファへと放り出された。

 アキトは慌てて二人に向かって口を開く。

 

 

「ね、ねえ、どういうつもりなの、みんな」

 

「あん?どういうつもりって?」

 

「こんな状況の時にみんなで夕飯なんて……危ないって誰も思わないわけ?」

 

「……まーだ言ってんのかオメー。さっきシノンと一悶着あったんだろ?もう終わりで良いじゃねーか」

 

 

 近くに座るシノンに聞かれぬよう、小声で囁くクラインは呆れ顔だった。流石に執拗いと思われているのだろうか。だが彼女の正論に対しても理解はしてるし反論の余地もないのだが、決して納得している訳ではないのだ。

 アキトという危険が隣り合わせで存在するこの状況に、異議が無いはずもないのだから。

 恐る恐る、聞きたかった事を聞くことにした。

 

 

「……実際、どう思ってるのさ。クラインもリズベットも。この前話した事……怖いとかって思わないわけ?」

 

 

 あの時は自分を慰める為に、励ます為に言葉を重ねただけなのではないか。同情で笑顔を見せて、仲間だと言ってくれたのではないか。こうして此処に来てくれたことも、本当は怖いのを我慢して自分を気遣ってくれているのではないか。そう考えるのは、アキトでなくても当然だった。

 しかしクラインは、下らないとばかりに鼻で笑った。

 

 

「はん、オメーみてーな優男、怖くも何ともないっての」

 

 

 背もたれに寄りかかり、天井を仰いでの即答。しかし、アキトの表情は晴れない。それは何よりも安心する言葉ではあったけれど。信じられないわけでもなかったけれど。それでも、不安は当然残っている。

 すると、目の前に立っていたリズベットが神妙な顔付きでアキトの隣りへと腰掛けると、俯いてポツリと、

 

 

「あたしは……正直、ホッとしたかな」

 

 

 そんな、予想もしなかったことを言った。意味が分からず、アキトもクラインも思わず目を見開いて、儚げに笑う彼女をマジマジと見る。

 

 

「アンタがボス戦の度に倒れたり、調子悪そうにしてたの、結構前から知ってるからさ。あたしはてっきり、現実世界の方で何か重い病気にかかってるのかもって、ちょっと心配してたのよ……聞けなかったけど。もしそうなら、あたし達じゃどうしようもない事だから」

 

「……」

 

「でもこの世界で起きた事なら、この世界の中で解決できるかもしれない。それならあたしにもできる事があるんじゃないかって、そう思えたから」

 

「────」

 

 

 ────意外、とは思わなかった。

 76層到達時、キリトの消息不明によって乱心状態にあった攻略の鬼に対して、自分が親友としてできる事を精一杯模索していた彼女を思い出したからだ。

 けど、こうも優しく心に触れられているような言葉に、身動きが取れない。唖然とするアキトを横目で見て、クスリと小さくまた笑う。

 

 

「それに、逆だったらって考えたのよ」

 

「……逆?」

 

「あたしとアキトが逆の状況でも、アキトはきっとこうして傍にいてくれるでしょ?アンタが何を気に病んでるのかは分かんないけど、あたしらがやってる事って、きっと当然の事なのよ」

 

「……リズベット」

 

 

 そんな風に、思ってくれてたなんて。

 それは少しだけ、意外だった。当の彼女もらしくないことを言ったと、照れ臭そうに朱に染めた頬を掻いていた。

 瞬間、その背後にあるキッチンからアスナの声が響いた。

 

 

「出来たわよー!みんな、お皿そっちに運ぶの手伝ってー!」

 

 

 ピクリと肩を震わせたリズベットは、恥ずかしさを紛らわせるように勢い良く立つと、そのまま勢い任せに口を開いた。

 

 

「ほら!出来たって!さっさと運ぶわよ!」

 

「う、うん」

 

 

 彼女に続けて立ち上がり、キッチンへと向かう。その途中、ニヤけた顔のクラインが「色男め」と肘で脇腹を小突いてきて、アキトはこそばゆい感情を隠せずに口元を尖らせた。

 アスナの元へ向かうと、ワークトップは並べられた料理の皿で埋め尽くされていた。リーファやリズはその皿を取って、シノンとユイがテーブルメイクしているリビングの方へと運んでいく。

 

 

「……あれ」

 

 

 すれ違うその中の一つに、自然と目が引き寄せられる。妙に既視感のあるそれは、以前ストレアがS級食材を持ってきた際にアスナが作ったカツレツだった。

 瞬間、その時の記憶が、彼女の笑顔が、鮮明にフラッシュバックして。

 アキトは思わず、顔を上げた。

 

 

「あー……なんとなく、作っちゃった」

 

「……そっか」

 

 

 アスナの困ったような、それでいて悲しげな笑みに対して、アキトは気の利いた言葉一つ告げられずに頷いた。

 

 あれから、ストレアの姿を見た者はいない。

 96層のボス戦後の一悶着の後、アキトが気絶したと同時に姿を消したらしい。誰も彼女の事を禁句と言わんばかりに語れずにいた。彼女のことを心配していたり、気になっていることがあったりと各々ではあるが、きっと彼女に会いたいのはみんな同じだった。

 今回の行動の理由、それが彼女の抱えるものの全てだと、体感的に皆が理解しているからだ。でも、会いたくても会えない。だからこそ、気持ちは強くなる。気が付けば、彼女との思い出を料理に思い起こしてしまうほどに。

 

 

「……運ぶよ」

 

「あ、うん。ありがと」

 

 

 アキトはアスナの感謝に会釈で返すと、サラダの乗った皿二つを両の掌にそれぞれ乗せると、リビングへ向かうべくそのまま振り返った。

 

 

「っ……!!」

 

「あっ……!」

 

 

 瞬間、視界の中心に現れたシリカにその腕がぶつかった。

 アキトの右の手から、一枚の皿がバランスを崩して零れ落ちる。それは、一種のスローモーションのように、重力に逆らうことなくゆっくり地面へと降下していく。

 

 ────ガシャン!

 

 その音は、ログハウス内に響き渡った。

 テーブルで談笑していたリズやクライン達も何事か視線を此方に向ける。そこにいたのはアキトと、青ざめた表情のシリカ。

 その足元にはアスナ手製のサラダが、皿から離れて床へとぶちまけられていた。割れた皿は、そのまま光の粒子となって消えていく。そうして漸く、シリカが動いた。

 

 

「す、すみません、あ、あたし……っ!」

 

 

 変わらず青い顔のまま、シリカは膝を付いて散らした野菜を手で掻き集め始めた。アスナは怒ることもなく慌てて彼女に駆け寄った。

 

 

「だ、大丈夫、シリカちゃん!?」

 

「は、はい……すみません……折角の料理を……」

 

「ううん、気にしないで。アキト君は?平気?」

 

「う、うん……」

 

 

 アキトは狼狽えながらそう伝えた。アスナの作ってくれたサラダを零したのもあるが、シリカが謝っているのを見て心が傷んだ。

 今のは完全に此方の不注意だ。碌に前を確認しなかった自分が悪いのに、シリカは申し訳なさでその表情を曇らせている。アキトは左手に乗せたサラダを一先ずキッチンのワークトップに戻してから、アスナ同様シリカの元へと向かう。

 

 

「ごめんシリカ。俺前見てなかった」

 

「っ!!……ぁ、いえ……あたしこそ、すみません……」

 

 

 シリカはアキトと目が合った瞬間、口元が戦慄き、俯いた。顔を背けたようにも見えたそれは、心配をかけまいとした行動のように彼には見えた。

 肩を震わせ、青くなった顔。アキトは思わずしゃがみこみ、彼女と同じ目線になる。

 

 

「大丈夫?どっか打ったりとか」

 

「へ、平気です、平気ですから……」

 

「……なら、良いけど。ほら」

 

 

 アキトはその掌を、シリカへと伸ばす。

 それは、彼女を立ち上がらせようとして差し出した右手だった。特に躊躇いもなく、その華奢な指を広げた。

 

 

「っ……ぁ」

 

 

 その手の先に────シリカはいた。

 この時、今までに見た事のないような顔をした彼女に、アキトは気付かなかった。ただその手を彼女に差し伸べることしか考えていなかった。

 自分が悪いのだから。アスナも怒ってないのだから。シリカが気に病むような事はないのだと、そう伝えるつもりだった。

 

 

「……ゃ……ぃ、ゃ……」

 

「……シリカ?」

 

 

 小さく、何かを呟いている。

 しかし、この距離でも上手く聞き取れず、アキトは眉を顰める。その身を乗り出し、シリカへとその距離を詰める。

 途端、膝を付いて立っていた彼女は後ろへとバランスを崩し、尻餅をついた。

 もしかして、心配させまいとして気丈に振舞おうとしているのではないか。本当はどこか打ったのではないかと、慌てて近付こうとしてしまった。

 その瞬間に初めて、アキトはシリカの顔を見た。

 

 

 ────瞬間だった。

 

 

 

 

「────来ないでっ!!」

 

 

 

 

 パァン────!!と乾いた音が響く。

 

 

 気が付けば、彼女に差し出していたその手は、あさっての方向へと弾かれていた。

 何が起きたのか分からず、誰もが口を開けずにいた。静寂を壊したその音は、残酷なまでに現実味を帯びた音だった。

 誰もが唖然とした。何が起きたのか、その頭が段々と思考を始める。その光景を見て、アキトの顔を見て。

 

 

 彼の右手が、シリカの拒絶によって弾き飛ばされたのだと、漸く理解した。

 

 

「ぁ……」

 

 

 当人は自分のした事を理解して、その顔を三度青くした。けれど、もう遅い。全てが、終わってしまっていた。

 アキトは気付いてしまったのだ。思えば此処に来てから、一度も彼女と会話を交わさなかったことに。

 

 そして見てしまった。自分を見上げる彼女の顔に。

 瞳の揺れ、口元の戦慄き、掠れた声、肩の震え、青ざめた表情。それが伝えてくるのは────拒絶と、恐怖。

 

 

 彼女が自分に向けたものは、虚勢で飾られた心。

 

 

 本当は、知っていた。分かっていたのだ。アスナ達が優し過ぎるから、勘違いしていただけだ。

 誰もが同じなわけじゃない。変わらないものなんてない。永遠だと信じていたものも、いつか終わる時が来る。

 きっと一瞬で。

 

 

 シリカのその表情には、あの日の恐怖が確かに刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 あれからログハウスを逃げるように飛び出したシリカを、アキトは追いかける事ができなかった。自分に恐怖を抱いている少女を追いかけようだなんて、恐怖心を煽る事でしかないと思ったからだった。

 

 そわそわしながら待つのも束の間、リズベットから、シリカを見付けたという報告と共に『今日はシリカを連れて《アークソフィア》に帰る』という主旨のメッセージを受信する。

 リズベットとシリカとリーファ、そして女性ばかりだと危険という事でクラインをお供にエギルの店へとみんなより先に帰宅するそうだ。

 

 

「……よかった」

 

 

 小さく息を吐くと、ベランダの柵に両腕を組んで脱力した。

 一応上層であるが故の危険性というのは、比較的モンスターが倒しやすいこのフロアでも適応される。夜の森となれば視界も暗いうえに戦いにくい。一人なんて尚更だ。

 リズ達が見付けてくれたと報告を受けるまで、ログハウスの中を右往左往しながら心臓は酷く脈打っていたが、漸く安定した呼吸ができるようになっていた。

 

 

「……アキト君」

 

 

 不意に後ろから小さく声が掛けられる。振り返れば、屋根の陰に埋もれた人影がゆっくりと此方に歩み寄って来ていた。

 やがて月明かりに照らされて現れたのは、神妙な顔持ちのアスナだった。その後ろをふと見れば、中ではフィリアとシノンとユイが、トランプを片手に笑い合っている。

 アキトは柔らかな笑みを浮かべながら、視線をアスナへと戻した。

 

 

「ああ、アスナ。シリカ見付けたって、リズから。このまま《アークソフィア》に帰るって。リーファとクラインと一緒に」

 

「……そっか。よかったね」

 

 

 そう呟くとアキトの隣りに並び、同じようにベランダの柵に両の手を置く。そうして、湖を一望できるこの景色をと揺れる瞳で眺め始めた。といっても、夜の森の暗さは景色を闇に溶かし、昼のように鮮やかには見えなかった。

 思ったよりも薄い彼女の反応に、アキトは元気の無さを感じた。料理を作っていた時はシリカやリーファとあれほど楽しそうに談笑していたというのに。

 ふと気になって、思わずその顔を覗く。

 

 

「……どうしたのさ」

 

「……今日、ゴメンね。突然押しかけといて、こんなになっちゃって……」

 

「何でアスナが謝るんだよ。別に怒ってないよ」

 

 

 アキトは仕方なさそうに笑う。

 実際、アスナが申し訳なさそうにしているのは間違っていると思った。確かに勝手にログハウスに入ってきた時は危機管理がどうのと言って怒りはしたが、最終的にそれを受け入れたのは、彼女達が自分の為に企画してくれた事が何より嬉しかったからだ。

 感謝こそすれ、怒る理由なんて何も無かった。寧ろ色々考えてくれたのに、申し訳ないと感じるのはアキト自身だった。

 

 

「あの……シリカちゃんのこと、許してあげてくれないかな」

 

「シリカだって別に何も悪くないよ。寧ろあれが普通の態度なわけで……」

 

 

 思えばアキトは、シリカとそれほど交流を築いてきたわけではなかった。

 攻略組に入ったばかりの頃は色々な人達と多くの確執があり、彼女と会話をすること自体、実際には少なかったように思える。

 

 自分は、シリカの何を知っていただろうか。

 80層にして現れた、最年少の攻略組。優しい少女。きっとそれだけだ。だがその恐怖はきっと誰よりも大きかっただろうと、今にして思う。

 彼女と二人だけで会話したことがあったろうか。クエストに出掛けたことはあっただろうか。どんなものが好きで、何が楽しくて、ピナとはいつ出会って、キリトとはどんな思い出を共有していたか。

 シリカとはこれまでも、それほど積極的に関わってきた訳ではなかった。勿論気不味いと感じたことなど一度もない。だが彼女がそうであったかは分からない。仲間の中で誰よりも年下である彼女は、元々赤の他人であったアキトに物凄く気を遣っていたと思う。

 

 あの日以来彼女はずっと、自分が怖かったに違いない。

 それをどうにか誤魔化して、笑顔でいようとしてくれたのだ。アスナ達は皆、アキトの暴走行為に何を言うこともなく変わらずにいる。だから自分もそうでなくてはと、追い詰められていたのかもしれない。

 彼女は虚勢を飾ることで、自分との距離を保とうとしてくれたのだ。そして自分は、そんな彼女を知る努力を怠った。

 

 

「……フィリアやストレアの時に、散々反省したはずなのに……そりゃそうだよな。シリカは俺に嗤われながら首締められてんだもんな」

 

「っ……そんなっ、あれはっ……あんなの、アキト君の所為じゃ……シリカちゃんも、分かってるよ……」

 

「そう、かな……でも、凄い怖がらせてるみたいで、嫌だな」

 

 

 理性で理解していても、感情が納得しない。

 あの日、恐怖に怯える彼女の瞳に映ったのは、どっちにしろアキトなのだから。アキトと獣、その区別がつくわけもない。彼女からすれば恐怖の対象はいつだって自分でしかない。

 そして思い出すのは、心優しい彼女のあの時の表情。恐怖に支配され、アキトの手を弾いたと気付いた時の後悔と悲哀に歪められた顔。

 そこにあったのは、仲間を傷付けてしまった罪の意識。優しい彼女がそれに耐えられるかどうかなんて、アキトには分からない。だから言ってあげなきゃならない。君は悪くないんだよ、と。怖がらせてごめんね、と。

 

 怒ったりしない。怒れるはずがない。怒る資格もない。悲しくないといえば嘘だった。心にズキリと走る痛みは拒絶によって生まれたキズ。今までと違う感触のそれは生々しくも心に刻まれている。

 慣れない痛み、真新しい苦しみ、だがこれはシリカの悲しみでもあった。自分なんかより彼女の方が、きっとずっと痛がっていた。

 

 

「……本当に、怒ってないの?私のこと」

 

「……アスナ?」

 

 

 視線を景色からアスナへと向ける。彼女は変わらず遠くを見つめながら、悲しそうにポツリと呟いた。

 

 

「私が君に、事情を話して欲しいなんて言わなければ……」

 

「いやそんなこと……みんなだって、知らない方が怖かったと思うし」

 

「でも……解決策があるわけでもないのに……私は、ただ貴方の事情を周りにひけらかして混乱させただけ。今日みたいなことも、なかったかもしれない……」

 

 

 柵の上に置かれた手が、キュッと握り締められる。僅かに震えるその腕と口元が、悔しさと切なさを伝えてくる。

 そんなことないと、慌てて言葉を続けようと口を開けたその時、アスナは立て続けに告げた。

 

 

「私は……っ、貴方に、結局何もしてあげられない……」

 

 

 震えるその声を聞き、アキトの動きが止まった。景色を眺め続けていた彼女の瞳には、大粒の涙が溜まる。悲痛にその顔を歪めて、小刻みに肩が上下する。月の光に照らされて、宝石のように美しく輝いていたその涙は、次々に頬へと滴り落ちていく。

 

 

「アキト君がいなきゃ、この先戦っていけない……『頼れ』と言ったその口で、戦うことを強要してる……また君に仲間を傷付けさせてしまうかもしれないと分かっていながら、私は……っ」

 

「……アスナ」

 

 

 彼女はただ、自分の負担を少しでも減らせればと考えてくれただけだった。誰かの想いを共有し、分かち合う。それが仲間の在り方であるとアキト自身も分かってた。アスナもきっと、そうなる未来を見ていたのだ。

 けれど、誰も彼もが強いわけじゃない。誰もが恐怖に打ち勝てる心の強さを持っているわけじゃない。シリカが正にそれだった。

 自分の甘さがシリカやアキトを傷付けてしまったのだと、アスナは思ってしまったのだ。

 

 

「ごめん……っ、ごめんね……」

 

 

 攻略組の人数は前回の作戦で減少し、戦力も落ちた。現実世界の自身の身体を考えても、ゲームクリアは迅速でなければならない。下層のプレイヤーの育成を待っている余裕がない今、アキトというプレイヤーは攻略組に欠かせない。アスナはアキトに、「自分達が支えるから、暴走覚悟で戦って欲しい」と言っているに等しかった。

 

 “暴力”が、また仲間を傷付ける可能性がある。そしてそれは、アキト自身が一番に理解している。だから、こうして彼らから離れて森の奥に逃げ込んだ。そんなアキトを今、引き上げようとしているのがアスナだ。

 傷付けるのが怖くて、仲間を遠ざけようとした。でも仲間が拠り所だった。だから本当は戦いたくないはずなのに、そんなことはできなくて。

 

 未だ啜り泣くアスナに、自分がかけられる言葉は少ないかもしれない。彼女が人一倍責任を背負い込んでしまう性格なのは、キリトの記憶と、何より共に過した時間が教えてくれたから。

 けれど、そんなアスナに何度も救われたのは、きっと自分の方で。

 

 

 だから────

 

 

「……“僕”がずっと抱えてたものを取り払ってくれたのは、アスナだよ」

 

 

 優しく、感謝の気持ちを忘れないように。溢れる想いを順番に紡ぐ。

 忘れない。初めて、自分に近付いてくれたその存在を。何度もその手を伸ばして、時に守って、支えようとしてくれたこと。

 自分のことのように涙を流し、想いを共有してくれたこと。

 

 

「参ったなぁ……元々ゲームクリアの為にここまで来たっていうのに、そんなに泣かれると」

 

「……」

 

 

 星空の下、月明かりに照らされて思い出す。

 それはまるで、いつの日かに見上げた夜空のようで。誓いを立てるには、約束を交わすには、これ以上ない景色で。

 アキトは照れ臭そうに、面白可笑しく笑ってみせた。

 

 

「仲間は、頼り頼られるもんなんだろ?なら頼ってよ」

 

「っ……アキト、くん」

 

 

 ポタポタと伝う涙を拭うこともせずに此方を見つめるアスナ。小さく微笑んで、月が照らす湖の光を眺めながら、これまでの過去に想いを馳せながら。

 歌うように楽しげに言葉を紡ぎ出す。

 

 

「戦うのは、いつだって怖いよ。けどそれはみんな同じ。だから、誰もが支え合って生きている。一人じゃないから頑張れるんだ」

 

 

 そんな、当然のことを音にした。

 けど人として当たり前で、それこそがアキトの在りたい生き方だった。

 誰かを助けたい。誰かを守りたい。邪魔だと思われても、お節介だと言われても、自己満足なのだとしても。その人が笑顔になってくれたなら、自分も笑顔でいられるような気がしたから。

 そうして紡いできたものが、この世界で築いた二年間が、自分の背中にはついてくれている。

 

 

「僕はもう、独りじゃない。君が教えてくれたんだ。だから、ありがとう」

 

 

 彼女を安心させるように笑う。そして、今まで言えなかった感謝を告げる。

 それは決して強がりでも嘘でもない、純粋な本心。

 過去のような悲劇は、もうたくさんだ。あの暖かさや微笑みがこの世から消えてなくなる日など、来させはしない。

 

 アキトの世界は、とっくの昔に変わっていた。

 気付かない振りをしていただけで、本当はずっと前から知っていた。この心に宿る熱の正体。そして、それを生み出したもの。

 ずっと前から望んでいて、失いたくないと願ったもの。そして一度はその手から零れ、落としてしまったもの。二度とあんな思いはしたくないと、自ら切り捨ててしまったもの。

 

 その大切さを教えてくれたのは、アスナ達だ。

 

 アキトは、満月を見上げて目を細める。今宵は、誓いを立てるに相応しい夜だ。過去の記憶と薄れていく、あの日の誓いと約束を、今一度再確認するには、とても似合う月夜。

 

 

────“できるかな、君に”

 

 

 脳裏の声に目を瞑る。頬を撫でる風が不穏な冷たさを運んでくる。それでもアキトはもう、怯えることなく再び目を見開いた。

 

 

 

 できるとも。

 

 

 あまり、舐めてくれるなよ。

 







小ネタ① 一軒家の値段


シノン 「……それにしても、このログハウス買うだけのお金、よく持ってたわね。SAOで一軒家買うのって相当大変なんでしょ?」

アキト 「まあ、普段も必要最低限のものしか買わないし、攻略組になる前からクエストとかやってたしで、実はまだ結構残ってるんだ」

シノン「……まあ、アンタは装飾品に拘りとかもなさそうだしね。……にしても一人で住むにはちょっと広過ぎない?」

アキト 「……まあ、うん。そう、かも?」

シノン 「あ……ねぇ」

アキト 「うん?」

シノン 「……泊まっていってあげよっか」

アキト 「!?」

アスナ 「!?」

ユイ 「!?!?」









小ネタ② あれ、エギル……?


76層《アークソフィア》


エギル 「……」

アルゴ 「アレ、みんなは?」

エギル 「アキトんとこだよ」

アルゴ 「フーン……ダンナは?」

エギル 「店番だよ。腹減ったなぁ……」







③ やっぱり


フィリア 「んー……やっぱアキトにオレンジカーソルは似合わないよ」

アスナ 「やっぱりカルマ回復クエスト、行った方が良いんじゃない?」

アキト 「え、や、でもそんな時間無さそうだし……それに、これは戒めっていうか……」

シノン 「《圏内》ならアンタが暴走したって誰も傷付かないんだから、どう考えたってそっちの方が良いじゃない。カッコつけないで行ってきなさいよ」

アキト 「……はい」










小ネタ④ その唇の感触


アスナ 「……そ、そういえばアキト君」

アキト 「ん?何?」

アスナ 「キリト君の記憶を、自分の事のように思い出す時があるって……言ったじゃない……?」

アキト 「うん」

アスナ 「そ、それって、えと……つまり……私と、キリト君がその……き、キ……したこと、とか」

アキト 「き?」

アスナ 「っ……」///

アキト 「……何か歯切れ悪いね。言い難いこと?」

アスナ 「……キスの、感触……とか、思い出したり、するの……?」///

アキト 「っ!? え、あ、いや、その……」(青ざめ)

アスナ 「……」

アキト 「……ゴメン」

アスナ 「っ……! そ、そう、なんだぁ……へぇ?」///

アキト 「あ、アスナ落ち着いて!感触とかそこまで生々しくは覚えてないから!」(震え声)

アスナ 「……わ、私、アキト君とキス、したことになるの……?」///

アキト 「ならねぇよ!しっかりしろ!」


END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。