ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

126 / 156






75層分岐ルートのIFストーリー。原作通りキリトがヒースクリフに勝利した事で、攻略組になって色んな人を助け、キリトの支えになるというサチとの約束を果たせなかったアキトの物語。




Ex.その約束が果たされなくても

 

 

 

「────……」

 

 肌に触れる空気の感触が、朧気ながらも意識の覚醒を促す。慣れ親しんだ仮想のものとは違う心地良さと、それを受け入れることができずにいる心。戸惑いの波が押し寄せ、奥深くに沈み込んだ意識が次第に浮上し始めていく。

 

 震えるようにゆっくりと、然れど力を込めるようにしっかりと、その瞳を見開いた。

 差し込んだ光の乱反射に思わず目蓋をぎゅっと閉じ、それらが襲って来ないと分かると再び恐る恐ると開く。ボヤけた視界一面に広がったのは、身に覚えが一切無い白一面の天井だった。何故だか、目を瞬いて呆然とそれを見上げているだけで胸中に不安が募る。

 

 仰向けになって横たわっているのだと理解する。よく分からない場所にいる困惑から脱する為に取り敢えず起き上がろうとするが、身体が全く言うことを聞かなかった。麻痺の状態異常かと錯覚する程で、全身に力が入らない。上体を少しばかり浮き上がらせるだけで息が荒れ出し、情けなく沈み込んでしまった。

 一体全体、何がどうなって───

 

「……っ、ぁ」

 

 鼻腔を僅かに擽る消毒にも似た匂いに当てられると共に、鈍くなった感覚の中でチクリと感じた針のような痛み。同時に右腕辺りに明確になった違和感が疑問を浮上させる。思わず右腕を上げようとするが、力が入らず再び在るべき場所へと落ちた。

 若干の苛立ちを力に変換し、肘から下だけでもと関節を折り曲げる。すると、視界端に辛うじて挙げたなけなしの右手首を確認できて────絶句した。

 

 言葉の通り、骨と皮のみの痩せ細った枯れ枝のような腕がそこには在った。剣を持つには不足過ぎるそれが自分のものであるだなんて、誰が信じられるだろうか。

 青みがかった血管が浮き上がり、手の甲から肩にかけてまで伸び走っている。そうして困惑ながらに視線を止めた先、肘の内側には注入装置と思われる金属の管がテープで固定されて細いコードが繋がれ、寝かされているベッドと思しきものの隣りに聳えた銀色の支柱に吊るされた透明のパックへと伸びている。

 

 ────こ、れは……点滴?

 

 自身の瞳が、段々と開かれていくのを感じる。目の前の光景が事実を有り得ないと否定する。だが、どんなに鍛冶スキルが卓越していようとも、こんなものを作れるはずも、用途も無い。

 思わず、視線を周囲へと向ける。小さな部屋だ。壁も天井も同じオフホワイトで塗り固められ、右手側の点滴の背景には大きな窓と白いカーテン。自分が横たわっているこれは、密度の高い白のジェルベッド。そこから導き出されたのは────病院の一室だということ。

 

 そうして、段々と事の重大さに確信を持ち始める。目覚めてからの、自身のあまりにも鈍くなった五感を研ぎ澄ませて得られた、その圧倒的な情報量に打ちのめされて────彼は。

 

 

 ────逢沢(あいざわ)桐杜(きりと)は。

 

 

「……ぅ、ぁ」

 

 

 その一つの可能性を、認めてしまった。

 ここは、元の世界──《ソードアート・オンライン》に囚われる以前の、桐杜が生きていた現実の世界。二年前に旅立ち、もう戻る事は無いのかもしれないと諦め、いつしか自らの中で忘れ去られた世界だ。

 それを理解するのに、かなりの時間が掛かった。混乱するばかりで、何故、どうしてと疑問が湧き上がるばかりで、納得できずに天井を揺らぐ瞳で眺めている。

 実感が湧かない。桐杜にとって、いや誰にとっても同じかもしれない。長い間、あの剣一本で生きるしかなかったあの世界だけが唯一の現実だった。あの場所で懸命に生き、最後には死ぬのだと、そう納得して生きてきたのだから、そう簡単に受け入れられなかった。

 感慨も歓喜も、何も湧かない。あるのは戸惑いと疑念、そして大きな喪失感だった。

 

 ────……喪、失……感……?

 

 意識の中でさえ掠れゆく声が呟いたのは、その一言だった。誰も彼もが現実世界への帰還を望んでいたはずだ。それは自分自身にだって言える事でもある。確かにあの世界で死ぬかもしれないと諦めては居たけれど、自分なりに絶望せずに懸命に生きようとしていたつもりだった。それなのに、何故。

 

 ────しかしその疑問には、すぐに解が出た。きっと、このゲームクリアに対して、自分には得られる達成感が無いからだと。

 この二年間、最前線にも立つことなく過ごしていた。誰かの為に在ろうと、その為の努力を続けてきたはずだった。けれどそれも虚しく、自分は最前線で繰り広げられたであろう死闘に間に合わなかったのだ。平然と生きていた身で、クリアの達成感を誰かと共有できるはずもない。

 

 そうだ──俺は攻略組に参加して、キリトの力になりたかった。悲しむ人達を少しでも減らしたかった。あの、彼女との“約束”を────

 

 

「……あ」

 

 

 ────“約束”

 

 思わず、声を上げてしまった。そうして漸く、思い出した。いや、思い出してしまったのだ。

 最前線まで賭け上がろうとしていた理由の根幹に住んでいた、その存在に。

 わなわなと震える口元を懸命に動かして、喉の走る痛みなど気にしないと言わんばかりに、その名前を口にした。

 

「……さ、ち……」

 

 サチ。同じギルドで共に生きた、最愛だった少女の名前だった。その名を口にした途端、心臓の音が強く、血の巡りが早くなるのを感覚的に捉えた。その名を愛おしく呼び、彼女の顔が脳裏に呼び起こされ、数多の想い出が走馬灯のように駆け巡り、忘れかけていた掛け替えの無い記憶が再構築されていく。

 

 そうだ、自分は───彼女との約束を、果たす為に……誰かの笑顔を、大切にしたいと願うものを、今度こそ守れる存在になるって……キリトに追いついて、謝ろうって……そう、思ってたのに。

 

 ポツリポツリと紡がれていく想い。けれどそれが形となるにつれ、瞳から零れ落ちたのは涙だった。激しく深い喪失の余韻が胸の奥を貫いて、切ない痛みを生み出していく。浮かべ並べた記憶、それら全てがもう過去のものだと悟った時、思わず心の中で口にした。

 ────ああ、自分はなんて。なんて、滑稽なんだろうか。

 

 己の限界に逆らうように、その全身に再び力を込めた。ありったけを振り絞り、起き上がろうと上体をベッドから切り離すその手前で、自身の頭を固定するそれ(・・)に気が付いた。

 生々しく現実味を運んでくるその存在は、指先が触れるだけでもあまりに機械的で、何故だか堪らないその悔しさが唇を噛み締める。顎の下で繋がった硬質のハーネスを外し、重量感のあるそれ(・・)を頭から徐ろにむしり取った。

 

「────……っ」

 

 上体を起こし、手元に落ちたその物体を見下ろす。濃紺に塗装された流線型のヘルメットだ。輝くような光沢を纏っていたその外装は既にくすみ、所々が剥げ落ちて軽合金の地が露出している。

 二年という月日が流れても、この存在を忘れる事はない。全ての元凶たるそれは、後頭部に長く伸びたパッドからケーブルを放出し、床へと伸び続いていた。

 ────ナーヴギア。あの世界へと桐杜を誘った案内人たる機械。現実の弱い自分を変えさせてくれる、そんな幻想を抱かせた悪魔。そして、あの世界全ての記憶が収められた、今では戦友とも呼べるような存在だった。

 最後まで運命に翻弄された挙句、こんな末路だと突き付けられて、何だかとても堪らない。もう二度と被る事は無いのに、労いの言葉すら出て来なかった。けれど、なんとなしにギアの側面をそっと撫でる。

 

 その時だった。

 左手側から何かが落下して、床へとぶつかる音が鼓膜を刺激した。二年振りの現実の激しい音に、思わず肩がビクリと震える。仮想世界での名残か、敵襲かと思わず視線を向けた。

 床に落ちていたのは、ラッピングされた花束だった。種類には詳しくないが、オレンジや黄色などの明るめの色が敷き詰められたもので、見舞い用だろうというのは想像に難くない。ただ、この部屋には自分しか居ない。ならばこの花は、桐杜への贈り物ということになる。桐杜は天涯孤独だ、故に見舞いに来る人間もそれ程多くない。だからこそ、驚いた。

 

 視線を、顔を上げて────その先にいた少女を見て、衝撃が走った。

 花束を落としたであろう彼女も、此方を見てその表情に驚愕を表していた。

 学校の制服らしきブレザーを着て、肩には鞄を引っ提げて。窓から吹き抜ける風と差し込んだ陽光が、彼女の長く流麗な髪を靡かせ、輝かせている。

 そしてその可憐な容姿であるはずの彼女の瞳からは既に驚愕は消え失せ、代わりに大粒の涙が溜まり始め、すぐに決壊して頬へと伝う。その視線は変わらず、此方を向いていた。

 

「……き、りと……?」

 

 自分を呼ぶ彼女のその面影に、その声に。桐杜は覚えがあった。

 本当は、忘れられるはずがなかったのだ。彼女は、天涯孤独となった自分に、何度だって歩み寄ろうとしてくれた家族の一人だったのだから。

 夢幻を見たかのように動けない彼女に、桐杜は潰れかけていた喉を酷使する事を躊躇わない。ただ彼女の名を呼ぶ為だけに、その口を開く。

 

「……あいざわ、さん……」

 

「っ……!」

 

 彼女の肩が震え、次には駆け寄ってきた。花束を拾う素振りも無くベッドに膝を着いたかと思えば、此方が何かを言う前にその距離はゼロになり───。

 気が付けば桐杜は、彼女に抱き締められていた。自分と同じくらいか細い腕が首に回され、離さないと言わんばかりに、けれど優しく繋がれるように。

 咄嗟の事で訳が分からず、思わず彼女の肩を掴んで引き剥がそうとして────その肩がわなわなと震えているのを知った。

 

「……あ、の」

 

「……ぅ、っ……ひぅ……ぐすっ……」

 

 此方の呼び掛けに応える余裕も無い程に嗚咽を混じらせ、堪え切れない涙を流し続けながら桐杜の存在を確かめるように、その腕に収めて小刻みに震える彼女の温もりを感じて。

 義妹(かぞく)を───逢沢(あいざわ)(たくみ)を二年間も待たせてしまった罪を、桐杜は漸く実感し始めた。二年前は避け続け、拒絶し続けた家族だったのに、彼女が自分に向けている感情がどういうものかを理解した途端、それが途轍も無く贅沢に思えた。

 

「……ただいま」

 

「……」

 

「……あれ、え、ちょっ……」

 

 帰って来たと、そう挨拶したはずだった。けれどそれに返答は無く、それは此方を抱き締めていた腕に力を込められるという形で返って来た。

 余程心配させてしまったようで、嗚咽は止んだが退いてくれそうな気配が全く無い。ほぼ馬乗り上体で流石に此方も恥ずかしく、触れるのを躊躇ったその手を、今度こそ彼女の両肩へと当てた。

 

「……あの、ちょっと……ゴメン……目覚めてこれは、流石に苦しい……」

 

「……ゴメン……ゴメンね……私、ずっと……きりとに……謝りたく、て……!」

 

「……」

 

 ────それはきっと、二年前よりずっと続いていた彼女とのいざこざの話だった。もう過ぎた事だ、終わった事だと言い聞かせていてその実、心の中で凝りのようなものが確かに存在していた問題だった。

 彼女もずっと、それを気にしていたのか───。こんな風に申し訳ないと謝り続けるその姿を見て、胸が痛んだ。耳元近くで囁くように懺悔する彼女の事を、桐杜はもう責める事は無い。

 

「……分かってる。もう、大丈夫だから……泣くなよ」

 

「……うん」

 

 そう頷いて、彼女は漸く桐杜から離れた。泣き腫らした彼女の瞳は赤くなっていて、まだ濡れて真新しい涙の後が陽光に照らされて煌めいている。素直に美しいと感じたが、何処か子どものようにも見えて。

 仕方が無いなと、その頬の涙を親指で拭ってやった。巧は、自分のした事を漸く理解したのか、顔を赤くし、慌ててベッドから飛び降りた。そうして、仄かに笑みを浮かべながら誤魔化すように目を逸らして、

 

「あ……今、お母さんとお父さん、一緒に来てるの。先生と話してて。すぐ、呼んでくるね」

 

「……うん」

 

 そう一つ返事をすると、巧はすぐに病室の扉を飛び出し、廊下を駆けて行った。その音が遠くなると同時に引き戸である扉がガチャリと音を立て、再び静寂が白の部屋を包み始める。

 そうして漸く、現実へと引き戻されるのを感じた。目が覚めて暫く程の時間を掛けて、今やっと理解し、認めてしまったのだ。自分がこの世界に帰って来た事。

 

 ────帰って来てしまった事を。

 

「……そう、か……っ」

 

 忘れていた喪失感が、さざ波のように押し寄せてくる。前向きに進んでいたはずの道の先は閉ざされ、無理矢理に引き戻された新たな道の先は暗闇が広がっていた。目指すべき場所があったのに、叶えたい夢があったのに、果たすと決めた約束があったのに、その何もかもが失われた。

 それを胸に生きてさえいれば、サチの顔を思い出せたのに。あの世界で確かに存在した彼女。笑い、涙し、共に過ごした日々が込められたあの場所へは、もう戻れない。唯一残った約束でさえ、その夢の続きを見せてはくれない。

 

「はは……ははは……」

 

 笑うしかなかった。あまりにも醜く、情けなく、滑稽な自分を。そうでもしなければ、今度は自らが嗚咽する番だった。全て自分の責任で、自分の罪で、罰なのだと受け入れて、進まなくてはいけないところまで来て漸く、取り返しのつかない後悔のツケを払わされてしまった。分かっていたはずなのに、見ない振りをしていたのだ。

 

 ただ、サチと約束をしたのだ。攻略組になって、悲しむ人達を助けて、そしてキリトの支えになるのだと。大切な人を失ってもなお、生き続ける事ができた唯一の生き甲斐だったのだ。

 だが結局、その目標が達成される事は無くなってしまったのだ。命を捨てずに歩き続けた理由が、目の前で消滅したのだ。まだ浮遊城は75層という道半ばだったはずなのに、高を括ったが最後、全ては後の祭りだった。

 

「はは……はは、ぐっ……ぅ……」

 

 キリトがゲームをクリアしたのだろう。何の根拠も無いのに確信だけがあった。それ故に納得して、仕方が無いと、そう思うしかなかった。自分が憧れた英雄なのだから、当然なのだと胸を張る気でいた。

 彼の力になる為に攻略組になるだなんて息巻いておいて、とんだ道化だと笑わずにはいられなかった。そんな一方通行のお節介など、桐杜が憧れた《黒の剣士》には、始めから必要が無かったのだ。

 彼女を死なせてしまったあの日と同じだ。走っても走っても、届かない。それでも───キリトには自分の存在など関係無しに、既に完成された存在だと知っていながらも走り続けて。

 それでも結局、届かなかった。現実世界で浮かべた始めての笑みは涙混じりだったが、決してクリアによる歓喜ではなかった。

 

 

「……俺……また、間に合わなかったよ……」

 

 

 ────サチとの約束は、果たせなかったのだ。

 

 

 

 

 ‪

 

 

 

 ルート : ──フェアリィ・ダンス──

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 その長く美しい金色の髪が、夕焼けの光を前にして煌めく。頭の後ろで束ねたそれを飛翔と共に揺らしながら、愛用のツーハンドブレードを頭上へと持っていく。

 

「せええぇぇぇええいっ!!」

 

 裂帛の気合いと共に放たれた上段からの攻撃が、眼前を飛翔していたモンスターを襲う。慌てて距離を取ろうとするそれに、逃がすまいと背中に伸びる薄緑色の翅が震えた。すぐさまそれは効果を発揮し、飛翔していた自身を加速させる。最後には、驚いたような顔をしたモンスターを置き去りにするかのようにあっさりとその体を分断してみせた。返す刃で背後に迫る同種の敵を斬り捨て、死角から迫った三体目にさえ余裕の対応で返り討ちにする。しかし、炎のように消えゆくそれを長く見る事はしない。即次の標的を視界に捉える。

 

「さあ、次……って、あれ?」

 

 ────つもりで次の敵を警戒し辺りを見渡すが、黄昏色の空には既に未確認の敵は確認できない。つい先程までは十数匹程飛び回っていたというのに。

 どうしたものかと周囲を観測して、漸くその理由に気が付いた。一緒に同行していた者が既に自身の武器を鞘へと収めてぼおっと真下に広がる森を眺めていたからだ。

 その余裕が、彼が自身よりも迅速かつ俊敏にその他を全て屠ったのだという事実を頭の中で結び付ける。

 

「……嘘、でしょ」

 

 風妖精(シルフ)の少女───リーファはまさかとの思いで、顔を青くしながら視線の先に映る少年を見据える。

 同行者も同じ種族かと思いきや、此方は雪のような白で統一された、コート基調の装備を持った水妖精(ウンディーネ)が空中で制止していた。水色がかった白い髪が風に流れ、少し瞳を細めるその仕草にドキリと心臓が一瞬だけ高鳴る。

 しかしそれも束の間、彼女の焦燥混じりの顔を目の当たりにすると、少年はバツが悪そうに目を逸らした後、申し訳なさそうに笑った。それが更にリーファの神経を逆撫でし、感情を抑えられずに思わず両手で頭を掻き毟りながら、

 

「あーん、また負けた!これで五連敗目よ!」

 

「り、リーファちゃん、六連敗目だよ……」

 

「レコンうるさいっ!」

 

「ご、ゴメン!!」

 

 完全に八つ当たりの怒号に縮こまる黄緑色のおかっぱ頭のの少年───レコンを無視し、リーファは再び視線を水妖精(ウンディーネ)へと向ける。つい最近になって《ALO》を始めたというのに、何故か古参である自分の尊厳が危ういかもしれないと警戒する程に、目の前の少年は突出していた。

 今日の狩りは、リーファが彼になんとなく連絡を入れてみたところ、一人で狩りに行くというので無理矢理に付いて来た形だ。といっても、最近はいつもその流れがお決まりになりつつある。そうして、一定の時間を決めてモンスターの討伐数を競うのだ。最初の方こそ良い勝負、ギリギリの勝負と接戦だったはずなのに、今では桁が違う事もある。因みに六連敗とは、今日一日での勝負回数でもある。つまり、本日は全敗である。

 リーファは分かりやすく溜め息を吐くと、彼の元までゆっくりと飛行してその目線を合わせた。彼はといえば未だに気不味そうに視線を横にずらす。

 

「今回の罰ゲームもあたしかぁ……はぁ……今日も《すずらん亭》で良い?」

 

「い、いや、毎回ケーキ奢ってくれなくても良いんだよ?こうしてみんなで遊べただけでも、俺は充分楽しかったし……」

 

「あたしの気が済まないの!負けは負けでしょ!?けど、また近い内にもう一勝負するからね。今度はあたしが勝つんだから」

 

「……」

 

 悔しさを押し殺してそう宣言する。自分で言い出したうえで罰ゲームを無しにしてもらうのは流石にプライドが許さなかった。

 目の前の彼は此方に向かってただ苦笑するばかり。すると緩やかに彼の元まで飛んできたレコンが、申し訳なさそうに首を垂れて、

 

「すみませんホント……リーファちゃんが何度も何度も……彼女、凄く負けず嫌いで……」

 

「ああ、うん、それはもう身に染みて……けど手を抜くと怒るし、勝っても拗ねるんだもんなぁ……」

 

「何よ二人して!……あ」

 

 そこでリーファは、段々と翅の感覚が鈍くなりつつあるに気が付いた。それは彼女だけでなく、目の前の少年も同じだった。

《ALO》の目玉である翅での飛行、その滞空制限の知らせである。あと数十秒もしないうちに翅はその力を失い、暫くは飛べなくなるのだ。

 

「っ……そろそろ限界時間か」

 

「回復するまでに一度ローテアウトして、その後《スイルベーン》に戻りましょうか」

 

 リーファとレコンは互いに頷き合うと、真下の森へと降下を始める。シルフ領からはまだ少し距離がある。此処から歩いていくのも億劫な為、翅の回復を待つのが効率的だ。シルフ領まで続くこの樹海は中立地帯である為、その場ですぐログアウトという訳にはいかず、アバターがその間危険に晒されてしまうのだ。彼女の口にした《ローテアウト》とは、交代でログアウト休憩を取って、残った人が空のアバターを守るという意味である。

 

「……?」

 

 リーファは、ふと気になってくるりと振り返る。白ずくめの彼は降りて来る事無く、未だ空中で何処か遠くを眺めていた。

 一緒に狩りをするようになって気付いたのだが、彼にはたまにこういった時がある。始めてそれを目の当たりにした時のリーファには、それがとても儚げに見えたのを覚えている。何故か、現実にいる兄を思い出して────気が付けば迷惑も考えずに構っていた。レコンに「リーファの時は大胆さ五割増」と言われたのを思い出し頬が紅潮するも、リーファはアキトのいる上空へと向かう。

 早く降りないと途中で翅が消えて彼だけ真っ先に落ちて、運悪ければHP全損まである。少し躊躇ったが、リーファは未だ呆けていた彼の空いた左手を握った。

 

「っ……リーファ?」

 

 

「な、何してるのよ……早く降りよう?────アキト君」

 

 

 アキト────そう呼ばれた少年は何度か目を瞬かせてから、ほのかに口元を緩めて頷くのだった。

 

 

 

 

「すぐ!すぐ、戻って来ますから!アキトさん、くれぐれも僕のリーファちゃんにンギィ!」

 

 レコンがアキトに何かを言い切る前に、その足を思い切り踏み抜いたリーファ。今のレコンの言葉で、彼が変に意識しないだろうかと一気に恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じた。

 幸い彼は少し驚きながら小首を傾げるだけで、リーファは安堵の息を吐いた。

 

「余計な事は言わなくて良いから、さっさと行って帰ってきなさい」

 

「わ、分かったよぅ……」

 

 レコンは涙声のような弱々しい声で項垂れた。その後樹海に降り立ち、周りにモンスターやプレイヤーがいないのを確認してから、ウインドウを開いてログアウトを決行する。ボタンをタップした直後、彼のアバターから魂が抜け落ち、巨木を背にして眠るように寄り掛かった。

 漸く煩いのがいなくなった……と何故か脱力し、思わずチラリと彼を見る。相変らずほんの小さな笑みを浮かべるばかりで、レコンに倣うように近くの幹に腰掛けた。

 

「そういや、今日こっち来て良かったの?」

 

「え?どうして?」

 

「いや、ここ来る前にレコンからチラッと聞いたんだけど……本当は、シグルドって人達のパーティでの狩りが先約だったんでしょ?」

 

 レコンめ、余計な事を……と思わなかった訳では無い。実際、最近は同じ領内の仲間であるシグルド達とパーティーを組んでの狩りが多かったし、いつもなら今日もその予定であった。それを断った事で問題が発生するのを心配して、それとなくアキトに伝えたのかもしれないが、それとアキトは全く関係無い話だ。

 

 そもそもリーファ───桐ヶ谷直葉は、VRMMOにかまけて食事や入浴を適当に済ませると母である翠に叱られてしまうので、なるべく団体行動は宵の口に掛からぬよう気を付けているだけなのである。

 彼女としてはアキトに心配を掛けたくなかったし、気にして欲しくもなかったのだから、現実世界でも知り合いであるあの眼鏡に対して「あのお馬鹿……!」と声を漏らさずにはいられない。

 そんな様子を眺めていたアキトは、クスクスと笑みを零す。訝しげに見やれば彼は少しだけたじろいで、

 

「ああいや……レコンは君が大好きだから、心配してるんだなぁと思っただけだよ」

 

「は、はぁ!?」

 

「彼とは現実でも知り合いなんだよね?あんまり聞くのも野暮かなって思ってたんだけど……二人は、その……恋人────」

 

「じゃないからっ!」

 

 とんでもない誤解をされていた事に驚き、思わずはしたなく大声を上げる。「あ、違うの?」と顔をキョトンとさせる彼を見て、ほんの僅かに胸の奥がチクリと痛んだ。

 今の今までそんな風に思われていたなんて。なんともいえぬ複雑な感情が胸中に渦巻く。

 

「レコンはその……ただの友達よ。VRMMOの事が知りたくてさ、それで話すようになったの」

 

「……ってことは、リーファは普段ゲームとかはやらないんだ。どうして《ALO》に?」

 

「……兄が、ね。凄くゲーム好きなの。だから、それがどういうものか知りたくて、この眼で確かめたいと思ったの。少しでも、近付けると思ったのかな」

 

 仮想世界をこの眼で見てみたいとリーファ──直葉が初めて思ったのは、一年前になる。

 それまで自分にとって、VRMMOは兄を奪った憎悪の対象でしかなかった。だがそれ故に、兄である和人がそこまで愛した世界というものを知りたくなって、自分の眼でみたくなって。そうして兄との距離を縮める努力をしなくてはと、そう思ったのだ。

 今ではすっかりハマりこんでしまい、もし兄がまだこの世界を好きでいてくれているなら、いつかは一緒に遊べるのでは───なんて想像も期待もしてしまっていた。

 そんな風に語った自分のの事を、変わらない微笑で見つめるアキト。それに気が付いて、何だか恥ずかしくなってしまう。頬が熱くなったのを感じて我に返ったリーファは、誤魔化すように笑ってから、話題を変えるべく彼の質問を跳ね返した。

 

「あはは……あ、アキトくんはどうして《ALO》に?やっぱり飛べるから────っ」

 

 ────そう何気無く、質問した事を後悔した。

 アキトの視線は、既に黄昏色から移り変わった星空へと向いていた。しかし、その瞳に星の光が反射しているように見えてその実、彼は何も見てはいなかった。

 いつものように何処か遠くを、此処ではない何処かを見つめているその瞳。何かに思いを馳せ、苦しみをひた隠しにしようとするその瞳は儚く物憂げで、まるで兄ととてもよく似ている。

 リーファは、堪らず唇を噛んだ。言葉が脳内で形となる前に思わず漏れ出す。

 

「あ……あの、アキトくん……」

 

「……どうして、だろうな。自分でも……よく、分からなくて。もう二度と、やらないと思ってたはずなんだけどな……」

 

 何を言っているのか、リーファにはよく分からない。それでも、段々と自身の胸が締め付けられているのを感じていた。

 言葉を紡ぐ度に痛ましく変化する表情。弱々しくなる声に、泣きそうに見えた横顔。これ以上見てられなくて、思わず抱き締めてしまいそうになるくらいに切なくて。

 

「未練がましくも、此処に来れば取り戻せるかもしれないと、思ったのかもしれない。……あの時間を」

 

「アキト、くん……あの」

 

「────なんて、ゴメン。こんな事言っても、ワケ分かんないよな……そう、だな……どうして《ALO》に来たか、かぁ……うーん……」

 

 何事も無かったかのように、その表情を消し去る。そしてまた乾いたような、張り付ける事を強要されたような熱無き笑みが、彼の顔に宿る。

 改めてこの世界に来た「らしい」理由を考え直し、説明しようとする彼の行為があまりにも見ていられない。

 

 リーファは。

 直葉は、寂しげな彼の頬に思わず、その指先を伸ばして────

 

「っ────リーファ」

 

「……っ」

 

 バッとその手を引っ込めた。まさかバレた───?

 恐る恐るアキトの顔色を伺うと、彼は特に何か言うでもなく───視線は別の方角を向いていた。何かを感じ取ったのか腰を上げ、周囲を見渡しながら鞘へと手を伸ばして警戒態勢をとっている。

 どうやら自分の行動に対する咎めではないらしい。思わず彼に近付き、その距離に少しドキドキしながらも耳元で囁いてみる。

 

「っ……な、何?どう、したの?」

 

「何か気配がする……もしかしたらプレイヤーかも」

 

「は、はぁ?気配って……。この世界にそんな第六感みたいなの、あるの?」

 

「いや、分かんないけど……この世界でのこの感じは気の所為なのか……」

 

 ブツブツと小さく何かを呟いているアキト。そんな彼の様子に此方も僅かに不安が募り、つられて周囲を見渡す。やはり誰もいないし、そんな気配も自分には感じられない。

 彼の勘違いだろう───そう高を括って巨木に再び凭れ掛かり、空を見上げた時だった。

 

「っ!?」

 

 木々を掻き分けるようにして緩やかに宙を漂い、赤く揺らめくコウモリのような存在を視界が捉えてしまった。

 思わず息を飲み、咄嗟にアキトの口元を自分の手で抑える。アキトは急な此方の動きが飲み込めず、目を見開いて慌て始めた。リーファは人差し指を自身の口元に持っていき、「静かに」と指示をする。アキトもなんとなく状況を理解したのか頷くと、リーファも漸く彼の口元から手を離して説明を始めた。

 

「しっ!……あれ、見える?トレーサーよ」

 

「……ぷはっ……トレーサー?それって追跡魔法……だっけ」

 

「そう。この距離じゃ、隠蔽魔法使おうにも詠唱が聞こえちゃう……」

 

 爬虫類のようなそれのほぼ真下で、リーファはマップを広げてる為にウインドウの操作をしながら疑念を抱いていた。

 トレーサーに付けられていたということは、最初からリーファ達を狙っていた事になる。しかし、先程のアキトの気配察知を当てにするならば、彼が見られている気がするなどと言い始めたのはあれが初めてなのだ。もし追跡魔法を掛けようと距離を詰めればアキトが狩りの途中で気付いていたはず。考えられるのは、まだリーファがスイルベーンの街中にいた時に既に魔法を掛けられていたという線だ。

 更にいえばあの高位魔法をリーファは何度か見た事がある。現在シルフと敵対関係であり、最近何かとPK事件を引き起こしてくる火魔法が得意の種族────サラマンダーだ。

 

(あたしを狙ってた?それともまさか────アキトくん?)

 

 リーファはチラリと、何処か殺気立ったウンディーネの少年を見た。何処か鬼気迫る彼の姿が少しばかり怖い。だが、最近共に行動し、なんならサクヤとも顔見知りである彼の事を知っている者は少なくないが。

 だとしても何故────そう疑問が浮上したタイミングでマップが開く。此処はシルフ領内付近とはいえ中立であり、距離的にもまだ領まで時間が掛かる。このままでは戦闘は避け切れない。

 幸い、トレーサーの視界は狭いらしく真下で息を潜めている此方はまだ見付けられていないようだ。

 

「このまま隠れてやり過ごそう。離れたら、レコン抱えて一気に飛ぶよ」

 

「分かった……っ、リーファ……!」

 

「きゃっ!?」

 

 焦ったようなアキトの声。同時にリーファの肩に彼の手が周り、一気に引き寄せられた。気を取られ、思わず呆然とし、今彼にされている事を脳が理解し処理するのに、体感的には物凄い時間を有した。

 気になってる異性に────抱き寄せられている。顔を上げてすぐに彼の顔があるこの状況で、リーファは一気に混乱した。

 

「へぁ!?えっ、ちょ、なな、何を……!?」

 

「しっ!もう一匹いる」

 

 アキトの視線の先、二人で寄り掛かっている巨木の後ろからもう一匹、パタパタと音を立てて此方に近付いて来ていた。リーファの肩や足が僅かに木からはみ出ていたから、奴から見られぬよう木の陰に隠れる為の行為だったのだ。

 リーファもそれには納得し、この状況を甘んじて受け入れた。受け入れたのだが……。

 

(ち、近い……!)

 

 恥ずかしいはずなのだが、離れるという選択肢を何故か取る気にならない。心臓の音が脳内で警笛のように煩く鳴り響いているのに、突き飛ばそうとしたその両手は、アキトの胸元に添えられている。

 異性とこんなに距離が近いのは、兄である和人と父を除けばこれが初めてだ。しかも彼に下心が微塵も無いというのがまたタチが悪い。あくまで彼は自分を守る為にと庇ってくれているに過ぎない。何度も深呼吸するが、意識すればする程鼓動のBPMは上昇し、ちっとも落ち着いてなんかこない。

 

 ────何考えてるのよもう、今はそれどころじゃないでしょ、それにあたしにはお兄ちゃんて人がいるんだから、いやそれこそ何考えてるのあたしのばかばか!

 

 こんな状況で何を考えているのか。だがその自問自答が、段々と心を沈めてくれた。そう、自分には好きになってしまった人がいるのだ。だから、この心臓の高鳴りは恥ずかしいから、ただそれだけの理由なのだと、そう心の中で言い聞かせる。

 なら、何故彼を突き離せない?緊急時だから?友達だから?守ってくれているから?

 

 ────お兄ちゃんに似てるから(・・・・・・・・・・・)

 

 その問い掛けが、リーファの心にすっと入ってくるのを感じた。思わず視線を上げ、アキトの横顔に向かう。そうだ、本当は出会った時から感じていた懐かしい雰囲気の理由を、リーファは今漸く理解したのだった。

 そう、何処となくアキトは和人に似ている。何処と言われればよく分からないのだが、何故か。だから気になったのか、だから放っておけなかったのかと問われればそれも分からない。

 ただ、兄と似ているから仕方が無いのだと、この鼓動が止まない理由をそうやって誤魔化そうとしていた。

 

(あたしの顔、赤いよね……バレてない、よね……?)

 

 ギュッと目を瞑る。何も考えないよう、そしてアキトに自分の顔が見られないよう下を向く。やがて飛翔音が近付いて来て、それが頭上を通り過ぎていき、段々とその音が離れていく。

 二匹目も、やり過ごしただろうか。そう思って、思わず顔を上げてトレーサーの方角に視線を向けようとして────

 

「あ」

 

「へ」

 

「な……な、なな……ななな……」

 

 ────現実世界から戻って来たレコンと、抱き合ったような態勢の二人の目が合った。

 緊急事態だと、そう説明する暇も与えてくれなかった。

 

 

「何やってるんですかあああああぁぁぁああ!!!?」

 

 

 そんなレコンの怒りが込められた大声が樹海中に響き渡り、通り過ぎたトレーサーは纏めて此方に振り返ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「っ〜〜〜、このバカッ!!」

 

「ご、ゴメンなさい〜!」

 

 サラマンダーに追跡されている状況だというのに、空の下では説教が始まっている。リーファは恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にし、レコンは悲しげにその眉を潜めて項垂れている。

 自分のいない間に、アキトがリーファに不埒な振る舞いをしようと勘違いしたレコンのなけなしの怒号は、トレーサーが此方を特定するという仕事を見事成功させてしまったのだ。振り返れば、背後からは武装したサラマンダーが組織的な統率をもって此方三人を追跡して来ていた。その数は六、約一パーティ分だ。

 まだ少し距離がある事を確認してから、アキトはレコンとリーファに視線を配り、小さく頭を下げた。

 

「……や、俺が悪かったよ、レコン。リーファもゴメンね。トレーサーに夢中で全然気付かなくて……」

 

「えっ、や、あたしは全然気にしてないからっ!そ、そんな事より急ぎましょう!シルフ領まであと少……レコン!」

 

 リーファの言葉が途切れ、同時にレコンの名を呼ぶ。それにレコンが反応するよりも前にアキトが彼女の視線の先を追う。

 すると、レコンのその背から質量を持った火炎が襲ってくる。アキトは驚愕に目を見開くも、すぐにレコンの肩を引っ掴んで軌道を逸らし、ギリギリで回避した。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

「いや。にしても火炎魔法……チッ」

 

 僅かに舌打ち、後方を見やる。迂闊だったと言わざるを得ない。長年の感覚が染み付いている所為で、この世界で見る真新しい光景に中々慣れないでいる事実を突き付けられた気がした。

《SAO》でなら、この距離でまずプレイヤーが持ち得る遠距離攻撃は使えない。ピックやチャクラムも、サラマンダーより上空にいる此方には届かないからだ。だがこの世界は《ALO》で、弓も魔法も存在するのだ。この距離、この高さにいる自分達に対しても、その攻撃は簡単に伸びてくる。忘れていたそれを今になって思い出し、その体たらく振りに歯軋りした。

 迎え撃つにも状況が悪過ぎる。リーファは現実世界でも剣の心得があるらしいが、レコンは違う。人数的に考えても此方が圧倒的に不利なのだ。それにアキトは───対人戦闘の経験が殆ど無い。

 今も尚上昇してくるサラマンダー達相手に、リーファは逃亡を止めて旋回し、抜刀した。

 

「仕方無い、戦闘準備よ!」

 

「ええぇぇえっ!?もうヤダよぉ……」

 

 逃げの一手だと考えていたアキトの思考を吹き飛ばしたのは、そんなリーファの闘志だった。レコン同様アキトもその判断に言葉を詰まらせる。思わず意見しようと顔を上げるが、目が合った彼女の考えは変わらないようだった。

 

「このままじゃ逃げ切れない。向こうは六人、負けてもしょうがないけど簡単に諦めたら承知しないからね!あたしがなるべく引き付けるから、レコンはどうにか一人は落として」

 

「善処します……」

 

「偶には良いとこ見せてね。アキトくんも、それで良い?行くよ!」

 

「っ……分かった」

 

 何方にせよ、もう逃げるには距離が近過ぎる。戦うしか選択肢は無いのだ。

 だが不利な状況には変わりないし人を斬る経験も無い。不安ばかりが募る中、アキトは震えながらその剣を引き抜いた。

 特にレアリティが高い訳でも無いコモンソード。初期装備に角が生えた程度でしかない、リーファと同タイプの刀だった。翅を制止させ、それを構えて敵を目視する。数は六。気が付けば、その集団に既にリーファが向かっていた。我に返り、レコンを見る。彼も左右に動いて翻弄しながら敵に刃を向け始めていた。それを見て漸く、また忘れていた事を思い出す。

 此処は《ALO》。安全が保障されている《アミュスフィア》によるVRMMOであり、PK推奨のゲームだ。今この刀でサラマンダーを斬り伏せても殺人にはならない。そのはずだ。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 目が眩む。息が荒くなる。落ち着けと何度も呪詛のように唱え、その刀を握り締める。長年の感覚を、武器を手にして戦ってきた記憶を呼び起こす。大した戦闘経験は無いが、レベルは誰よりも高かったのだ。

 だから、だから大丈夫────

 

「レコン!」

 

「────っ」

 

 リーファの叫びに顔を上げた。その瞬間、自分のすぐ隣りを火炎魔法が通過する。思わずそれを追っていくと、その先でサラマンダーの一人と交戦していたレコンの姿があった。

 戦慄する。その背にゾワリと冷たい何かが走った。自分が動けなかった事で、サラマンダーの放った魔法は一直線に彼の元へ向かっていったのだ。

 ────しまった、と。そう思った時には既に遅かった。戦闘中であるレコンは、その魔法の接近に反応が僅かに遅れ、空中で慌ててそれを躱すだけで精一杯だった。その隙を突くように、サラマンダーの槍が彼の胸元に深く突き刺さった。

 

「────ぁ」

 

 伸ばした手は遅過ぎて、絶望を振り絞ったような乾いた声が出た。月を背にしたレコンのその身体は、瀕死に追い込んでいたはずのサラマンダーとの同士討ちでその身を炎へと変えていく。

 

「ごめえええええん」

 

 断末魔と謝罪を共に、緑色の旋風に包まれる。《エンドフレイム》と呼ばれるこの世界の死亡エフェクトだ。それと溶け合うように身体が消滅し、残り火となって消えてゆく。

 すぐに蘇生する───そんな事、アキトは忘れていた。この世界でただ一人のままモンスターを狩る事だけをしていたアキトは今、初めてプレイヤーが死亡する瞬間を目の当たりにした。

 

「あ……っ、ぅぁ……」

 

 ────同時に甦る。記憶の片隅、忘れようにも忘れられないあの世界で起きた悲劇の光景が。また間に合わなかった、また助けられなかった、また何もできなかったと、頭の中で恨みがましく何かが告げている。

 何度繰り返しても、世界や次元を越えようとも、自分は決して誰かを助けられないのだと、そう心に刻み込まれていく。

 その腕を、誰かが掴んだ。虚ろになりつつある瞳を向ければ、焦ったような表情のリーファが自分を引いて樹海へと降下を始めていた。

 

「何ボーッとしてるの!逃げるわよ!」

 

「ぁ……レコン、レコンが」

 

「アイツは今ので《スイルベーン》に戻ったわ!後はあたし達がどうにかしなきゃ!」

 

 ────死んでない。レコンは、生きていると。

 それを聞いただけで、冷え切った魂に熱が灯る。安堵に勝る感情は無く、その瞳は色を取り戻し、感覚が冴えてくる気さえする。ああ、良かったと確かに思った。失ったと思ったものがまだこの手にあるのだと囁かれ、思考が冷静になり始める。

 そして、何処か遠く離れた何かに思いを馳せながら、実感した。ああ、やっぱり此処は、《SAO》では、求めていたあの世界とは違うんだ────

 

「チィ、もう十分か……!」

 

 飛行制限に歯噛みするリーファにつられながら、急角度のダイブによって樹海に逃げ込む。折り重なる枝をすり抜けながら地表近付き、草の繁った空き地に靴底を滑らせながら制動を掛けて降り立つ。アキトの手を彼女が離す事は無く、繋がれたその手の熱を感じたままリーファの背中を見つめる。

 

 ────ああ、前もこんな事が。

 

 彼女に手を引かれ、一緒に喫茶店に行った日のことを思い出す。彼女を守る為に命を懸けた日々が、つい昨日の事のように思い出せる。きっと、この世界に来ればまた───そう思っていた。

 そうして漸く、アキトは気付いた。悟ってしまったのだ。自分がこの世界に来た理由の愚かしさに。

 

 

(────俺、は)

 

 

 ────アキトは《ALO》に、《SAO》の面影をずっと探していた。

 彼女との約束を果たせないまま世界が終わりを迎えた事で、頑張って、努力して、血反吐を吐いて、涙を流しながらも生きてきたその意味を突然に失った事で、ずっと空虚に過ごしていた。情けなくもその未練の先を、きっとこの世界に求めていたのだ。

 

 けれど、違うのだ。どれだけ浸ろうとも、どれだけ過ごそうとも、きっとアキトにとっては違ったのだ。

 死んでも生き返る。守らなくても大丈夫。これは遊びで、ゲームなのだからと。どれだけあの頃を求めようと、此処はあの世界とは違う。気付かない振りをしていたけれど、もう限界だった。

 ────君が、何処にもいない。

 

 

「────アキトくん」

 

 

 静寂を、空虚を貫いた透き通る声。思わず、顔を上げる。

 引かれた手の先にいた少女が、此方を見ていた。彼女の不安げなその表情で、自分がどんな顔をしているのかが容易に想像できる。力の抜けた、情けない顔をしているだろうな、と。

 だが、リーファのその表情はすぐに消え去った。その瞳は真っ直ぐに、アキトへと向けられている。そうして口元が僅かに緩み、少し照れたようにはにかんで、彼女は告げた。

 

 

「心配しないでね。君は、あたしが守ってみせるから」

 

 

 ────その笑顔に、その言葉に、アキトは何も言えなかった。何故そんな事を言うのかと、再び手を引いて走り始めたその背を眺めながら思った。

 自分は、不安そうな顔をしていたのだろうか。怖がっているように見えたのだろうか。初心者だから、守ってあげなければと思わせてしまったのだろうか。

 アキトにとっての、サチに見えたのだろうか──そこまで考えて理解する。今のリーファは、《SAO》での自分と同じなのだと。

 

「いたぞ、あそこだ!!」

 

 背後から、金属鎧を鳴らしながら近付いてくる気配。リーファもアキトもすぐそれに気付き、走る速度を早める。が、此方は飛行制限が尽きており、速度的には分が悪い。

 それを悟ったリーファはアキトの手を放す。やむなく抜剣して構えると、アキトを背に守るようにして立った。

 何を───アキトがそう思った矢先、上空から四人のサラマンダーが滑空して降りてくる。無難な場所で制止すると、彼らは揃ってランスを此方に向けてきた。

 

梃子摺(てこず)らせてくれるじゃねーの」

 

 右端の男が、興奮冷めやらぬ声音を隠す事無くアキトとリーファにぶつける。

 すると反対に、中央辺りで浮遊するリーダー格の男は落ち着きのある声で言い放つ。

 

「悪いがこっちも任務だからな。金とアイテムを置いていけば見逃す」

 

「何だよ殺そうぜ!女相手超久々じゃん」

 

 そんなリーダーの意見に食い気味で反論したのは一番左の男だった。兜のバイザーを跳ね上げた奴が向けた視線は、暴力と性に酔った粘り着くようなもので、リーファにとっては嫌悪すべきものだろう事は想像するまでも無かった。

 すると、三人よりも少し下を飛んでいた四人目と視線が交わった。奴はリーファとアキト、それぞれの位置を訝しげに観察すると、口元を歪めて嗤い出したのだ。

 

「てか、オイ。そこのウンディーネの野郎、女に守られてやがるぜ。普通逆だろ、ハハッ!!」

 

 そのサラマンダーの言葉は屈辱的でもあったが、アキト自身が疑問に思った事だった。リーファにとって自分は他種族だ。そのうえ初心者なのだから、たとえ死んだとしても、奴らにくれてやるようなアイテムは特に持ち合わせていない。普通なら初心者である自分が時間を稼いで、彼女を逃がすのが最善のはずなのだ。彼女がそんな事を容認する性格でない事はもう分かっている。それにしたって、自分を守るメリットなんて何処にも────

 

 

(何、言ってんだ。違うだろ)

 

 

 自分で言ってて、情けなくなった。彼女がかつての自分だと言ったのは他ならぬ自分自身のはずだったのに、また忘れてしまうところだった。

 自分は、メリットデメリットを考えて行動していた訳じゃない。金やアイテムのような報酬が欲しくて誰かを助けたいと思っていた訳じゃない。

 ただ、笑っていて欲しかったから。傍にいて欲しかったから。幸せになって欲しかったから。

 

 

 ────ヒーローだと、言ってくれたから。

 

 

「あと一人は絶対に道連れにするわ。デスペナルティの惜しくない人からかかってきなさい」

 

 

 敵を睨み、低い声で告げるリーファの覚悟に、上空では左右のサラマンダーが猛り経つような奇声を上げながらランスを振り回している。

 リーダーだろうサラマンダーを仕方がないと肩を竦め、ランスを構え始めたその時だった。

 

「ヒヒッ、死ねえええぇぇえ!!」

 

「あっ、テメ……!」

 

 その内の一人が統率という輪を乱し、一人独断で飛び出した。《女性プレイヤー狩り》を最高の狩りだと嘯く輩の一人が、奇声を上げながらランスをリーファに突き出して迫る。

 

「っ……!」

 

 彼女はその刀を上段で構えて迎え撃つ姿勢を取った。

 その背に隠れて、アキトは────刀を握った。震えていたその手を律し、その心はさざ波のように静かに。

 胸の中には、いつだって彼女がいる。

 

 

 ────思い出せ。

 

 

 対人など殆ど経験が無い。ほんの一度や二度だけだ。モンスターと違って思考する敵。そのうえこの世界にはソードスキルが無い。《SAO》だろうと《ALO》だろうと人を斬る事に躊躇いはまだ残っている。それでも最後に天秤に掛けた時、自分の傍にいてくれるのは目の前の彼女が良い。

 ここまで気にかけ、笑いかけ、話しかけ、傍に居てくれたリーファ。孤独を埋める為に利用したサチの代わりではない、リーファという一人の少女を守る為に。

 

 

 ────思い出せ、あの頃の自分を。

 

 

 守る為に臆病になるんじゃない。何を前にしても恐れずに、強がりを張り続けていけたあの気持ち。

 サチが好きになってくれた、あの頃の自分をもう一度。

 今こそ、あの世界で紡いだ、約束の続きを。

 

 

「────」

 

 

 ────刹那。

 

 リーファの後ろにいたはずのアキトの姿が掻き消える。そして、リーファの前方に陣取ったサラマンダーへとその刀を、振り下ろす。滑らかで、高速で、この場の誰もが彼を見失う。

 その振り抜いた剣の先を、エンドフレイムとなったサラマンダーが通過していく。皆が、言葉を失う。誰もが激しく戦慄した。未だかつて目にした事の無い次元へと誘う速度に、衝撃でゾクゾクと震える。

 アキトのその瞳は、既に穏やかだ。遠くを眺めるばかりだったその瞳は、今度こそこの世界の、リーファという少女に向けられていた。守るはずだった少年に助けられ、唖然とする彼女の顔は凄く可愛らしくて、笑ってしまう。

 

「アキト、くん……?」

 

「────こっちの、セリフだから」

 

「え……?」

 

 アキトは、リーファを守るようにして立ち、サラマンダーを見上げる。不敵な笑みを挑戦的に浮かべてみせ、刀を突き出して告げる。

 君と、リーファに誓う。ヒーローに憧れた自分への誓約。強がりばかりの自分が、強く気高く在る為に。

 

 

「心配すんなよ。────お前は、俺が守ってみせる」

 

 

 それは、意地になって最後まで、サチに伝えられなかった言葉。

 それでもどの瞬間、どの世界にいたとしてもやる事は同じだった。そこに終わりがなくとも、彼女が好きになってくれた自分で在り続ける。それに気が付いたから、もうそこに迷いは無い。

 

「っ……な、何、言って……」

 

「そこで見てな、秒で吹っ飛ばしてやるよ」

 

 口調を変えた所為か戸惑ったような声が背後からする。チラリと見れば、何故か顔を赤くして口を開けたり閉めたりしていた。そんなリーファを可笑しく思い、小さく笑ってから、次は誰だと言わんばかりに刀を寝かせる。

 

「……うわぁ」

 

「……へぇ、カッコイイじゃない」

 

 サラマンダー達が顔を見合せ、口笛を吹く。ならばもう、遠慮は要らないとその槍を持つ姿に本気が垣間見えた。

 リーダーが翅を鳴らしながら浮き上がる。左右のサラマンダー達もスティックを握り締めてそれに追随する。同時に三本の槍で貫こうとする魂胆だろう。不安そうにリーファの表情が曇る。大丈夫だと、小さく笑みを浮かべてやる。

 

「来いよトカゲ共────死んでも良いゲームなんて、ヌルすぎるぜ」

 

「行くぞ!」

 

 リーダー格のサラマンダーが、そう意気込んみ───今まさに両者の刃が交じり合おうという、その時だった。

 

 

「────うおおおおぉぉぉおああああ!!?」

 

 

 突如空からそんな絶叫が落下し、後ろに立ち並ぶ灌木がガサガサと揺れ出した。何事かとアキトやリーファ、サラマンダー達も視線が向かう。

 すると、そこから黒い人影が飛び出し、サラマンダー達のすぐ横をすり抜けて、空中でグルグルと錐揉みしたかと思えば、激しい音を立てながら草原のど真ん中に墜落したのだった。

 

「……へ?」

 

 気合い充分だったはずのアキトから、そんな気の抜けた声が漏れる。彼だけでなく、この場の全員の動きが止まった。空気の読めない予想外の闖入者を凝視していると、驚く事が分かった。

 クリアグレーの翅───影妖精(スプリガン)だ、それはいい。浅黒い肌で、ツンツンに尖った威勢の良い髪型やの男性プレイヤーだ、それもいい。目を疑うのは、黒く簡素な胴着(ダブレット)にズボン、貧弱な片手剣一本という初心者丸出しの巫山戯た格好だった。

 

 ……いや、俺もそれに毛が生えたレベルですけど。というか、今の着陸痛そう……。

 

 緊張感を忘れてそんな事を考えていると、目の前のスプリガンが頭を抱えて起き上がった。

 

 

「うう、いてて……着陸がミソだな、これは……」

 

「────」

 

 

 そう言って顔を上げた彼に、アキトは。

 

 

「……キ、リト」

 

 

 ────何故か、かつていた世界の匂いを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Episode.Ex:IF 『その約束が果たされなくとも』Fin

 









《登場人物》


・アキト
本作の主人公。原作ルートでは、75層という半端なタイミングでのゲームクリアによって、サチとの約束を果たせないまま不完全燃焼。生きる理由が迷走中にて、未練がましく似たような仮想世界《ALO》に手を出す。
原作通りに昏睡状態であるアスナを助ける為にログインしたキリトとまさかの再会。互いに色んな感情が錯綜する中、かつてのサチとの約束を今度こそ果たすべく、キリトの支えになりながら一緒にアスナを助ける為、共に行動する事を決意する。
しかし、アキトの成長や功績は75層以降のアインクラッドでの出来事が多い為、それがカットされたこのルートでは高確率でキリトに実力では及ばない。
相変わらずキリトの守れる強さの在り方には羨望と嫉妬を感じ、自分との差に葛藤しながら、このルートなりの成長を遂げる事になる。


────思い出せ、あの頃の自分を。
────君が好きになってくれたあの頃の俺を、もう一度この手に。




・リーファ
このIFでのALO編メインヒロイン。アキトの瞳が和人を重ね、次第に想いを募らせる系のヒロイン。何故か自分よりもキリトの方が、アキトが心を開いている気がしてモヤモヤしながら世界樹までの道案内をする。
共に行動していく中で、キリトを通してアキトの知らなかった部分を多々知っていき、理解して、悩みや過去を共有し、そうして最終的に彼女が行き着く先は────?


────あたしが、ずっと傍にいるよ。
────運命が、何度 君を攫いに来ても。




・キリト
原作でも本ルートでもSAOをクリアし、人々を救った英雄。原作通りに昏睡状態のアスナを探す為にALOにログインする。偶然出会ったアキトとは罪悪感により気不味い空気だったが、アキトの優しさに流され、甘えながら共にアスナを助ける為に奔走する。しかし当初は罪の意識から、顔を合わせる資格すら無いとしていたが、それは彼に対する逃げだと態度を改め、彼に協力を求める。
相変わらずアキトの心の在り方には羨望と嫉妬を感じ、自分との差に葛藤しながら、このルートなりの成長を遂げる事になる。


────お前にどれだけ恨まれようと、隣りにいる。
────お前の前では、お前が憧れてくれた俺で在り続けるって決めたんだ。




・ユイ
キリトのナビゲーション・ピクシー。因みにアキトへの好感度はこのルートではゼロ。残念だったな野郎共!
「好きってどういうことなんでしょう?」





END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。