ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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君が微笑んでくれた時、もう一度立ち上がると誓った。



Ep.123 理由

 

 

 

 

 

 モンスターの反応は、もうこの区画には一体として残っていない。静寂としていて不気味な、以前通りの迷宮区が戻ってきた。今もなお耳に入り込むのは、不規則な呼吸の繰り返しと、そこに入り混じる少女の掠れた声音だけ。

 未だ冷たい黒曜石の壁を背もたれに項垂れるストレアを見て、アキトは小さく息を吐いた。

 

「……」

 

 シリカを探しに来たはずの最前線で、まさかストレアに出会うとは思わなかったアキトは、二人きりになった今でさえ何を口にしたら良いのか分からなくなってしまっている。

 本当は聞きたい事が沢山あったはずなのに、彼女の顔を見た途端にその全てが消え去ってしまったかのように、何もかもが思い出せなくなっていて。無論、今の状況を鑑みるに問答の気も失せてくるというものだが。

 それでも、ストレアの行いをこれ以上見過ごす訳にはいかない。せめて理由だけでも聞かなければならなかった。プレイヤーの生死に関わる問題だからこそ、かつての仲間だという色眼鏡無しに問わねばならない。

 

(軽かったな……)

 

 アキトは、部屋の中央から壁際までストレアを抱えて歩いた時の事を思い出していた。重量のある両手剣をあれ程自在に操る事のできる目の前の少女の身体は、想像以上に、そして恐ろしく軽かった。この世界での体重増減は装備による上下のみで、生身は現実世界に依存する為変化はない。それでも彼女の異常な軽さは、これまでの苦悩や痛みですっかり憔悴し切ってしまったのかと錯覚する程で、正直ゾッとした。

 

 アキトは、そんなストレアのすぐ隣りに腰掛けた。途端、乱れていた彼女の呼吸は次第に調子を取り戻し、そうして漸くストレアはその瞳をゆっくりと開いた。

 

「ん……」

 

「ストレア、平気?」

 

 ゆっくりと目蓋を開いたストレアは、すぐ隣りに座るアキトの顔を見て僅かに驚きを見せる。だがすぐに安堵の目が浮かび、無理が分かるような微笑みを向けてきた。

 

「ありが、とう。大分良くなってきた……」

 

「……そっか。良かった……」

 

 彼女の顔色は確かに先程よりも良くなっていた。まだ何処か辛そうに眉を寄せているが、頭の痛みは収まったようだった。それを聞いて取り敢えずは肩の荷が降り、強張っていた身体の節々が一気に脱力する。

 チラリとその横顔を覗けば、ストレアは薄暗い空間の先をただぼうっと眺めていて。アキトは何も言えずに口を噤んだ。

 

「……」

 

 ────シリカを。本来なら、一番に優先しなければならなかった少女を棚上げにしてまでこの状況を維持したのだ、何か話さなければ、聞かなければ割に合わない。

 

 それは勿論、96層のボス攻略時の事もそうだ。部屋の中心に立っていた彼女が、その地を統べる獣の能力を増幅させ使役していたように見えたあの光景。彼女がそうまでして攻略組の行く手を阻んだその理由。

 そしてストレア自身の正体と、自分との関係。76層で出会う前から、彼女は自分を知っているようだった。見覚えすら無かったが、アキトも彼女には出会った時から懐かしさを感じていたのだ。そしてそれは決して気の所為なんかではなく、アキトも先日になって漸く彼女の存在の一端に辿り着いたのだ。

 彼女の声を、アキトは《アークソフィア》に来る以前から知っていた。《月夜の黒猫団》と苦楽を共にしていたあの時から此処に至るまで、彼女はもしかしたら自分の事をずっと見ていてくれていたのかもしれない。

 

 だが、疲労困憊の今の彼女にそれを聞くのは憚られた。弱味に漬け込むようでそれはただただ虚しかった。何も話してくれないのは、話したところで分かり合えない、解決しないと思っているからだろうか。

 それでも、彼女が何か悩んでいるのなら力になってあげたいと思うのは、傲慢だろうか。

 

「……あんな事をしたのに、アキトはアタシに優しいんだね」

 

 そんな静寂を先に割ったのは、他ならぬストレアだった。彼女を見やれば、儚げに目を細めながら過去に想いを馳せているかのように、未だ遠くを見つめていた。もしかしたら、何も言えずにいた自分に気を遣ったのかもしれない。

 

「アタシの事、憎いもんね。あの時も、あんなに怒ってたし」

 

「……それは」

 

 彼女が言っているのは、96層でのアキトの“暴走”の事だろう。彼女を傷付けた感触を、今でも鮮明に思い出せる。

 弁解か、謝罪か。何か言おうと口を開くが、ストレアは切なく微笑んだ後、ふるふると首を左右に振った。

 

「でも、今日は助けてくれた。アキトには、きっと関係無いんだね」

 

 天井を仰ぎ、感嘆するように息を吐いた。その横顔や瞳に、そんな生き方への羨望を映している事に、自分は気付けていただろうか。

 片腕を抱き、まだ肩で息をし続けるストレアは、隣りで自身と同じように壁に寄り掛かるアキトを見据えて微笑んだ。

 

「凄いなぁ……自分の命より、誰かの命を優先できるなんて……もしそう在れたなら、アタシも……もっと楽に生きられたのかな……」

 

 震える声で、無理矢理に笑った顔を作る彼女。声には悲痛な叫びが混じったように聞こえて、アキトはどう答えたらいいものか少しばかり迷う。

 その言葉に宿る羨望は、今の彼女自身を否定しているように感じた。自身の望みと仲間の命とを天秤にかけた結果、自身の願いに振り切った行動をしてしまった自分への皮肉。

 そして、アキトのような行き方への憧れ。

 

「……そんな、格好の良いものじゃないんだ」

 

 彼女の隣りで、震える声で。そんな心の中はいつだってギリギリで。それを誤魔化し、強がり、自分に言い聞かせる日々を続けているだけ。

 あの頃の自分を思い出したくなくて、あのような過去をもう見たくなくて。ただ、それだけで。

 

「……俺、さ。自分の事なら、まだ諦めが着くんだ。けど、誰かが傷付くのを見るのは……すぐ手が届く場所にいるのに何も出来ないのは……間に合わないのは……もう、本当に……」

 

 ────もう、あの一度限りにしたかっただけ。

 だから、自分と他人を天秤に掛けるよりも先に身体が動いてしまうのだ。決して死にたい訳じゃない。自己犠牲のつもりじゃない。そんな風に、ヒーローみたいに考えていた訳じゃない。

 ただ、誰かの悲劇を見たくなくて、自分と同じようになって欲しくなくて。独り善がりの我を貫いているだけ。

 誰かを助けようだなんて、傲慢だ。そんな自分に酔ってるだけなのだと、そう思う。けれど、だから止めようなんて事もなくて。こうしてここまで生きてきたのだから、きっともう変わらない───変われない。

 

「……それに、“約束”したから。情けないとこ、見せられない」

 

 あの日の、あのクリスマスの約束。

 それは独りぼっちの中、誰に立てたものでもなく。もう既にいなくなってしまった者へ向けての宣誓のようなもの。

 自分で分かっていたのだ。大切な人は、もういない。それでも、本当は見守ってくれているのだと、そう思わずにはいられないのだ。

 

「約束、かぁ……そっか。そう、だったね」

 

 ストレアは、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。冷たい黒曜石の壁に寄りかかり、暗く先が見えない天井を見上げながら、彼のその志しを思い出したかのように口にする。

 

「アキトは今までずっと、その“約束”のおかげで進んで来れたんだもんね……忘れてた。アタシ、本当はずっと前から知ってた……っ」

 

「っ……ストレア、君は……」

 

 その言葉の意味を、聞くほど野暮ではなかった。けれどそれ故に言葉が出てこなかった。その言葉の続きをこれから彼女に尋ね、伝えれば良かったのか。そして、今彼女が抱えているものが一体何なのかを、今聞くべきか否かを、この時本気で迷った。

 

 

「……羨ましい」

 

 

 ────ポツリ、そう静寂の中で零れ落ちたのは、紛れもない彼女の本音。

 思わず顔を上げ、驚いた表情を隠せぬままにストレアを見やる。今も尚弱々しく震える身体をどうにか律し、壁に頼りながらゆっくりと立ち上がった。此方の瞳を真っ直ぐに見据えた彼女は今にも崩壊しそうな悲哀の笑みを浮かべ、心の奥底に宿るものを浮き彫りにしたような声音で告げた。

 

「アタシには、何も無いから……誓いも、約束も、何も無い……空っぽなの。このままアキトの邪魔をし続けて、みんなを倒しても……きっとその先に、誇れるようなものは無い……」

 

「……」

 

「とっくに分かってた……この道の先に、アタシの欲しかったものなんてない……」

 

 不意にその指が動く。彼女を繋ぎ止めようとして自然に伸びたその腕に、彼女は酷く怯えた。過剰な程に震え、逃れるように後退り、胸元で両手を結びながら自身を守るように離れていく。

 アキトに、アキト達に、これ以上近付くのが怖いのだとその身が言っていた。

 

「でも……ううん、だからアタシは……貴方みたいにはなれない。そんなに、アキトみたいに……強くなんてないものっ……」

 

 ────そうやって震えるストレアは、今まで共に過ごしたどの瞬間の彼女にも当てはまらない、泣きじゃくる子どものような顔をしていた。その瞳に涙が溜まっているのを、アキトは初めて目の当たりにしたのだ。

 伝えようとしていた言葉は、全て脳内から霧散した。あまりに衝撃的で、あまりに儚くて、あまりに切なかったから。天真爛漫で自由奔放な彼女が嘘であったかのように、強がりであったかのように、夢幻であったかのように消えていく。

 

「ストレア、話してよ。俺達はまだ、何も話し合ってないじゃんか。君の悩みや気持ち、それを分かってあげられるかは分からないけど……」

 

「分かる……?ううん、他でもないアキトには、絶対に分からないよ……他人を助けようとはする癖に、自分の命は無視してる貴方なんかに……死ぬのが怖いアタシの気持ちなんて……!」

 

「っ、違うっ……俺は別に死ぬ気だった訳じゃ……!」

 

 その皮肉めいた言い方に、流石のアキトも僅かに狼狽える。沈黙を維持するしかなかったにも関わらず、彼女のその物言いに僅かな苛立ちと、焦燥を覚えて、すぐに言い返した。

 

「────っ!」

 

 ────途端に、ズキリと痛みが脳内を通過し、思わず片手で頭を抑えた。直後、ジワジワと身体の中で何かが熱を生み出し、それが込み上げてくる感覚が目元まで昇ってくる。96層でも感じた、自身の内に秘める“何か”の躍動を感じた。

 何故今このタイミングでと呪ったが、まるでストレアへの反論を妨害するかのようにその痛みは継続していく。彼女は、アキトの言いかけた言葉など無視して、自身の言葉を重ね続けた。

 

「確かな命を持っているのに……それをぞんざいに扱う貴方が、堪らなく嫌い。貴方に、アタシの気持ちが分かる訳無い……聞いたって、何も変わらない……」

 

 勝手に自己完結して、一歩一歩と後退りし始める。言いたい事ばかり言って、此方の言葉を待とうともしてくれなかった。何かを伝えなければと口を開いても、声にならない音が呼吸音と共に霞みゆく。

 ストレアはもう、此方を見ていなかった。手元には、青く光る直方体の宝石──転移結晶が握られていた。

 

「……待、て」

 

 まだ何も、君に伝えてない。聞きたい事を聞けていない。痛みなんて知るかと頭を振り払い、思わず一歩踏み締めた。

 彼女を逃がすまいと、その手を伸ばす。僅かに届かないと理解した瞬間、もう此方を見る事は無いだろうと思っていた彼女が振り返って、

 

 

「貴方じゃ、アタシを救えないよ────アキト」

 

 

 ────突き付けるように、そう告げて。

 気が付けば、彼女は転移結晶の淡い光と共に、アキトの手をすり抜けて消え去っていた。

 所在無さげに伸ばした手が虚空を掴み、やがて力が抜けて落ちる。あれ程までに苦しかった痛みは、何事も無かったかのように綺麗さっぱり消えていた。

 けれど、そんな事などどうでも良かった。ただ、アキトはもう何も存在していない闇色の空間をぼうっと見つめながら、彼女の告げた言葉を脳内で繰り返していた。

 

 

 お前じゃ自分は救えないと、確かにそう言われた。

 

 

「……じゃあ、何でそんな顔すんだよ……」

 

 

 涙を零して、縋るような、訴えているかのようなその表情を浮かべて消えていったストレアの顔を、忘れる事なんて出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 色々な事が重なって、それは絡み合う糸のように段々と複雑になってきて。何から手を付ければ良いのかとか、何を優先すべきなのかとか、そんな事を考える以前に、今自分は何をしたいのだろうかと考える。

 最前線で攻略組に参加した当初は、たった一つの目的があった。自身の掲げた誓いと約束があった。けれどその内容すら抽象的で曖昧で、具体的な行動方針は何一つ決まっていなかったなと、今になって思った。

 

 ストレアに話を聞くどころか、痛いところを突かれて癇癪を起こすくらいには、自分もまだまだ子供だったという事だ。シリカの事を後回しにしてまで彼女の傍にいる事を決めたというのに、唯一分かったのはストレアとアキト自身の、思想のズレのようなものだった。

 

 既に帰路に立っていたアキトの視線の先には、現在拠点として使用しているログハウスが常緑樹に囲まれて建っていた。自分以外には誰もいないのだから当然なのだが、日が沈んだ薄暗闇の中では静寂な雰囲気はより一層のものになっている。孤独に建てられたそれに、購入当初何故かとても共感したのを覚えている。

 

「アキト君」

 

「────」

 

 木々の隙間から冷たい風が、甲高い声のような音と共に吹き抜けた。その風上からその音と共に、よく知る声が聞こえてくる。ピタリと、思わずその足を止めた。だが動揺するでもなく顔を上げ、前髪の隙間から僅かに眼を覗かせてその影を辿る。

 態々確認するまでもない。こんな時、いつだってアキトの前に立ちはだかるのは、決まって目の前の少女なのだから。

 

「……アスナ」

 

「……遅かったじゃない。寒い中待ってたんだよ?」

 

「……別にそんなの、頼んでない」

 

 少しばかり冷たく、突き放したように言った。だがアスナは何も言わず、仕方なさげに微笑んだ。此方の皮肉めいた発言もただの八つ当たりだと知っているから。続けるだけ無駄だと、アキト自身もそう思った。

 互いに何も言わない、何も聞かない時間が数秒続く。その何も無い間隔の中で風だけが木々を揺らしざわめかせる。それが不穏だと感じた時、ふと思った。こんな薄暗闇の中、幽霊の類が苦手なはずのアスナがたった一人で自分の帰り待ってくれていたのだと。それに気付いた途端に罪悪感が襲ってきた。

 故に、彼女がそうしてまでここに立つ理由、目的、その先の結果を、自分は伝えなくてはならない。ストレアの事を、彼女に伝えなければならない。だがストレアの事を思い出す度に、自分が惨めに思えて仕方が無くて、気が付けば自然と自嘲気味な笑みが浮かんでいた。

 

「……少しだけ、思ってた。もしかしたらフィリアの時みたいに誰かに脅されてたり、そうでなくても何かに操られてたり、とかさ……」

 

「それは……ストレアさんのこれまでの行動が、自分の意思だったってこと?」

 

「そう、かもね……でも、それを確かめる方法はもう無い。ストレアがどうしてあんな事をしたのか、分かってあげる事すらできないんだ……」

 

 ずっと一緒に居たはずなのに。全然分かってあげられてなかった事に、ストレアが居なくなって漸く気付いた。あんなに思い詰めているだなんて、知らなかった。

 思えば彼女が普段の笑顔とは別に、物憂げな表情を浮かべているところを、アキトは何度も目にしていた筈だった。あのどれか一度でも、親身になって話を聞いてさえいたのなら、今とは違う結果になっていたかもしれない。

 

「何かに追い詰められていて、話してもきっと聞いてくれなかった……もしかしたらシリカも……って、そう思った」

 

「……そんなの、勝手な決めつけだわ」

 

「分かってる。けど、一度壊れたものが元に戻らない事も、きっとあるんだよなって……ちょっと思っただけ」

 

 その一言だけで、アスナは口を噤んだ。事情も何も聞けなかったけれど、これまでの行動は全て、ストレアの意思によるものなのだと本人に告げられたのだから。だから此方が彼女の為に何かしてあげられる事や、助けてあげられる事なんて無い。何より彼女は、アキト達に自分が助けられるとは露ほどにも思っていないようだった。故に、もう話し合いを前提に行動する事はできなくなった。

 永遠に変わらないもの。そんなものは無いのだと突き付けられた気がした。97層のボス戦でも、きっと彼女は────

 

「……っ」

 

「アキト君……」

 

 悔しくて苦しくて、下唇を噛み締める。現実なら血が滲むであろう程に。両の拳は、無意識に強く握り締められていた。これは、何も話してくれないストレアに対する苛立ちなのだろうか。それとも、不甲斐ない自分への怒りだろうか。それさえも、もう分からなくなってしまっていた。

 不意にアスナが自分の名を呼ぶ。けれどそれに応じる事は無く、アキトは顔を逸らした。そうして、もう話す事は終わったと言わんばかりに無視を決め込み、変わらず顔を伏せてその横を通り過ぎようとした。

 

 ────その瞬間、右手をアスナに掴まれた。アキトは立ち止まり、けれど彼女の方を振り返る事はしない。変わらず身体は帰路の先のログハウスへ向かい、顔は相変わらず下を向いている。此処に来てから、アスナの目すら見ようとせずに必死になって長めの前髪の隙間から覗いていた。

 だからアスナが今、どんな表情をしているかは分からなかったが、その声音は何処か真剣味を帯びていた。

 

「ねぇ、こっち向いて」

 

「……」

 

「っ……顔を上げて、こっちを見なさい!」

 

 怒気を孕んだ声と共に、握られた右手を引っ張られた。抵抗する事も無く、アキトの瞳は身体ごと反動で彼女の方へと向けられた。目元を隠していた前髪はそれによって揺れ、顕になった瞳はアスナのものと交わった。

 彼女の表情は、此方を向かないアキトに対しての苛立ちを含んでいた。だがそれも最初の一瞬だけで、目が合った瞬間にその表情は強張って、やがて驚愕に満ちていた。

 けれど、アスナのその表情の理由を、アキトは知っている。

 

 

「アキト、くん……その、眼……!」

 

「……」

 

 

 ────アキトの瞳は、血のような真紅に染まっていた。

 

 それは96層のボス戦時に、ストレアと戦闘した際にアキトが見せたものと同じだった。つまり、“暴走”時の姿という事。その事をアキトは既に、ストレアを迷宮区で見失った後、黒曜石の壁に映る自分を見て気付いていた。暗いダンジョンの中でも赤く鈍く光るその瞳に、自分のものであるにも関わらず戦慄した。

 口元を空いた片手で抑えるアスナに、アキトはバツが悪そうに呟く。

 

「……ストレアの物言いに、少し苛立っただけでこれだよ……案外、自分じゃなくなる日は近いのかもね」

 

 なんて、自嘲気味に笑った。

 僅かな怒りも苛立ちも、この胸に住まう“何か”は許してくれないのだと知ったから。その感情を抱く時、得体の知れないそれ(・・)は隙と捉えて這い寄って、割り込んでくる予感がある。今でさえ頭の中で、粘ついた声でクスクスと何かが笑っている気がした。

 

 シリカやストレアだけじゃなく、アルベリヒの事や、その他にも山積みになっている問題があるのだ。ストレアの言うように、確かに自分を蔑ろにしていた部分は今までにあったかもしれない。しかし正直、このままだと誰かを傷付けてしまう危険性がある以上、今の自分の事まで蔑ろにする訳にはいかなくなっていた。それどころか、最優先事項まである。だから、早くアスナから離れたかった。

 アスナに手を引かれた時に抵抗せず振り返ったのは、彼女にこの眼を見せる為だった。これで彼女をシリカのように怯えさせ、繋がれたその手を払い除けるつもりだった。それがどれだけ最低なやり方であろうとも、彼女の為だと自分に言い聞かせて。

 

 

「っ……アスナ?」

 

「────」

 

 

 けれど。

 

 

「っ……離して」

 

「……やだ」

 

 

 予想に反して、アスナがアキトの手を離す事は無かった。いや、予想していなかった訳ではなかった。今までだって、彼女は決してアキトから離れたりしなかったのだから。それどころか今は、掴んだその手からその細い指を絡めてきていて。

 流石のアキトも、看過できない領域に達していた。

 

「っ……や、マジで……今回はホントに……っ」

 

「独りの方が楽だって思ってるんでしょ。私はまた前みたいに鬼ごっこしても良いけど?」

 

「……」

 

「……え、な、何よ……どうしてそんな目で見るのよ」

 

 信じられないものを見るような目で見つめるアキトに、ふふんと笑みを見せていたアスナが途端に自信なさげに表情を曇らせる。何故そんな余裕そうな表情と声でそんな事言えるんだと、素直にそう思ったし、なんなら少し引いてるまである。

 本当に怖くないのか、それとも気を遣って精一杯演技をしているのか。もしそうなら脱帽ものだと賞賛を送るレベルだ。最も、SAOじゃ感情がダイレクトに表情として現れるので、思った事はすぐにバレる。だから、今アスナがアキトに感じているもの、今見せている表情は、決して嘘偽りではないということ。

 

「……本当に君は、俺が怖くないんだな……」

 

「……怖い事、辛い事……これまでだって沢山あったもの。それに比べたら、アキト君がちょっと短気になったくらい、どうって事ない」

 

「や、短気とかってレベルじゃないと思うんですけど……」

 

「平気だってば。どこかの誰かさんのおかげで、前よりずっと豪胆になった気がするもの」

 

「……その割にまだ幽霊は苦手みたいですね」

 

「な、なんの事かな……」

 

 目を逸らして誤魔化すように笑うアスナを見ていると、少し仕返しが出来たみたいで、何だか可笑しかった。仏頂面を自覚してはいたけれど、気が付けば口元は自然と綻んでいた。

 何を言っても無駄だった事なんて、今に始まった事じゃない。こういう肝心な時ばかりは、キリトの仲間達は揃いも揃って頑固なのだ。

 それを忘れる度に───忘れようとする(・・・・・・・)度に、思い出させてくれるのだ。

 

「んんっ……そんな事よりも、君の話をしましょう」

 

 わざとらしく咳き込み、一度瞑った瞳を再び開く。空気をリセットさせたかの如く、彼女の表情は真剣そのもので、けれど何処か優しさに満ちたものに変わっていた。

 

「……落ち込んでる。すぐに分かる」

 

 触れて欲しくない部分に、土足で踏み入られた気分だった。けれど、どうしてか口は自然と言葉を紡ぎ、気持ちを吐露していく。

 

「……俺じゃ救えないって、言われたんだ」

 

「言われたからって諦めるの?らしくない。私達はまだ、ストレアさんが何に苦しんでいるのかも分からないのに」

 

 そうだろうか。そうかもしれない。自覚はあった。

 色々屁理屈を捏ねて、拗ねて、不貞腐れているだけで。結局のところ心の奥底に沈めてある答えなんて、変わらずそこに在る。けれどストレアの言葉を思い出す度に、それは間違いなのかもしれないと自己完結してしまう。

 奥底に沈めた解を再び引き上げようとするのは、とても難しい事だった。

 

「そうだよ……何から助けるのかも分かってない。そもそも助けて欲しいとも言われてない。こっちが勝手に深読みしてるだけで、実際は本当に助けを必要としてないのかもしれない。知ったところで納得できるとは限らないし、救えるかも分からない。理解の先が────っ」

 

 早口で捲し立てる自分に、他でもないアキトが一番驚いた。ふと我に返り、バツが悪そうにアスナを見る。だがアスナは、何も言う事はせず、笑ったりもせずに、アキトの言葉の続きを待ってくれていて。

 

「……理解の先にあるものが、決定的な決別って事もある」

 

 誰もが相手の事を分かりたくて距離を縮めようとするのだろう。けれど、話を聞いたところで理解出来るかはまた違う問題だ。見解の相違、価値観の違い、性格の相性、ほんの些細なズレで亀裂は簡単に生まれる。その亀裂は修復するよりも壊れる方が早く、容易だ。

 彼女の話を聞いたところで、助けてあげられるかは分からない。無駄な期待をさせるだけなのかもしれない。本当は困っていないのかもしれない。そうやって色々理屈は重ねてごねてはいるが、結局のところ迷いの理由は明白だった。

 

「……多分、怖いんだ。この道を選んだその先で、また後悔するんじゃないかって……そんな予感があるから」

 

 この道を、進みたいとは思う。けれど、それは正しい事なのかは分からない。彼女は既に多くの者を手にかけている。もう一度仲間として引き入れるのは最早難しい領域にまで来ているのだ。

 攻略組から派生して、ストレアの噂は徐々に広がっている。彼女を捕縛、それが無理なら殺すのもやむ無しという考えまで現実味を帯び始めている。本来ならば、無駄に被害を増やさぬ為にもそれに賛同するべきなのだと頭では分かっている。それでも諦め切れないのは、仲間としての情なのだろうか。

 みんなを巻き込んだら最後、取り返しのつかない結末を迎えないという保証も無い。

 

「それでもストレアさんを……助けたいって、思ってるんでしょ?それはどうして?」

 

 ────その問いを聞かれた途端、考えていた思考が弾け飛んだ気がした。

 

「え……どうしてって……理由?な、なんでそんな……んなの、今まで聞いた事なんて……」

 

「彼女を倒した方が良いかもしれないって分かってるんでしょ?でも、そうしたくない、助けたいと思ってる理由……聞きたいの。君の口から、君の言葉で」

 

 理由。理由。ストレアを助ける理由。アキトは、アスナからまた目を逸らした。傍から見れば、確かにストレアは大罪を犯している。行く手を阻まれ、仲間を傷付けられ、攻略組を壊滅させられ、死者も出ている。助けるどころか、打倒しなければならない相手だ。

 ふと、フィリアを助けに行くべきかを迷った時の事を思い出した。アキトの苛立ちを知ってなお、大事なことを言葉に出来ないアキトの癖を知っていてなお、彼女はこうして近付いて来る。

 

「理由、なんて……元々仲間だった訳だし、現状に納得した訳じゃないから」

 

「それだけ?」

 

「それだけって……」

 

 そう伝えても、アスナは何も変わらない。変わらず、此方を見るだけ。それが物凄く腹立たしくて、苛立って。

 理由なんて、アスナ達とそんなに変わらない。言葉を重ねても、単語を言い換えても、付随する何もかもは彼らと変わりはしない。

 

 けれど、分かってる。それとは別に、心の中では確かにストレアとだけ結びついているものがある。誰にも伝えていない、誰にも教えたくないような、あの時間の事を思い出す。きっとアスナには分かっていて、それを言葉にして欲しいのだと気付いた。

 

「ぁ……っ」

 

 口を開き言いかけても、口が何度か形を変えるだけで結局は口を噤む。確かにアスナ達と思っている事は同じだ。けれど、それが全部じゃない。考えて、出し尽くして、絞り出してもなお残っているもの。みんなには無くて、アキトにだけあるもの。

 小さく、息を吐く。なんとなく恥ずかしくて、告げるのが格好悪くて、心の中でだけ掲げていたもの。あの黄昏時の、二人きりのあの場所で。

 

 

 ────“約束する”

 

 ────“何処にいたって”

 

 

「────“君を見つける”って、約束したから」

 

 

 クリア後に不安を抱えているように見えたストレアへ向けた、なんとなしな誓い。けれど、口にしたそれを決して忘れる事はなく、ずっと心の何処かにはあった。

 拒絶されてもなお彼女を助ける為の理由として、言い訳として、誰にも告げずに後生大事に持っていたものだった。それを聞いたアスナは、それで良いのだと微笑んで、

 

「……なら、もう悩む必要なんか無いんじゃないかな」

 

 そうして、アキトの指に絡めていた自身の指を解いた。一歩だけ後ろへ下がり、繋がれていたその手から視線を上げる。

 

「アキト君はもっと、自分のしたいようにするべきだと思うな。君って凄く優しいから、自分の事は二の次……三の次くらいにして色々考えちゃって、ひねくれて、拗らせて……そうやってずっと、遠回りしてきたんだろうから」

 

 まるでそうなった自分の過去を、見てきたかのように呟く。それを何処か嬉しそうに話すアスナから、アキトは目が離せない。

 

「でも今度はね、私が貴方を助けるの」

 

 アスナは誇らしげにそう宣言する。自信に満ち溢れた声と、慈愛に満ちた表情で。そんな、とても格好の良い言葉を。

 

「今までずっと、アキト君に頼って来たんだって……気付いたから」

 

「アスナ……」

 

 アキトには目の前アスナが、これまでのどの瞬間の彼女とも違って見えた。清々しく透き通った声で、見たことも無い表情で、震えるような決意で。アキトは何も言えずに、ただそれを黙って聞いていた。

 ふと、アスナは空を見上げる。つられて上を見れば、満天に星々が煌めいていて、暗い夜道を照らしてくれていて。

 

「この世界に来たばかりの頃は、ただ必死に戦って……独り善がりで奔走する日々だった。キリト君がいなくなってからは、ユイちゃんの事も忘れて自分の事ばかり……それが今は、誰かの為に必死になる事ができる。自分がそう在れる日が来るなんて思わなかったな。……君のおかげだよ」

 

「……そんな、こと」

 

「……この前、アキト君を助けられて本当に良かった。あんなに嬉しかったの初めて。君に助けられてばかりだったから、漸く対等になれたような気がしたのかも。達成感っていうのかな……上手い表現が見付からないや」

 

 それは、96層での出来事。暴走するアキトを、アスナ達全員が身体を張って止めてくれた時の事だった。死ぬかもしれない瀬戸際で、全員がストレアを守る為に、アキトを助ける為に戦ってくれたこと。

 思いを馳せるように呟いて、最後にはまた瞳が交わる。

 

「────君に生き方まで教えられた気がする」

 

「……そんな、大袈裟な事じゃない」

 

「それを決めるのは、私だよ。……決めたから、アキト君の傍にいたいって思った。君から教わった全てに、恥じない自分で在りたいから」

 

 誰かの為が、ひいては自分の為になっていた。傍から見ればそうでなかったとしても、自分の中ではそうだと思う事ができていた。突き詰めれば自分の為なのだからと。故に感謝される事なんかではないと考えていたのだ。

 アスナがそんな風に思ってくれているなんて予想だにしていなくて。驚くと同時に全身が熱くなり、胸の奥から込み上げてくるものを感じた。

 

「ねぇ、アキト君。先の事なんて誰にも分からないよ。どの道を選んでも、その先に間違いや失敗はきっとあると思う。けど、月並みの言葉だけれど、やらないで後悔するよりも、やって後悔した方が良いって私は思うな」

 

「……それでも、辿る結果はあまりにも違うかもしれない。選んだ結果みんなが……死ぬ事も、あるかもしれない」

 

 彼女を倒すよりも、彼女を無力化する事の方が遥かに難しい。その上で話を聞こうだなんて、自殺願望も良いとこだ。それを選んだ結果の方が被害が大きいのは目に見えていた。仲間が、大勢死ぬ事になるかもしれない。いや、恐らく死ぬだろう。いつか見た夢の景色が現実なるかもしれないのだ。

 それでもアスナは、ただ小さく頭を左右に振った。そんな事ないよと瞳が告げている。真っ直ぐにアキトの瞳を見据えて、ゆっくりと口を開いた。

 

「そうならない為に、私がいる。アキト君の生き方を見てきたからこそ、そう思える私は此処にいるの。確かに不安だし、怖くないって言ったら嘘になる。自分でも変わっちゃったなって思う。でも仕方が無いじゃない、それが良いと、そう思ってしまったんだもの」

 

 その頬が、僅かに朱を添えて、揺れた。

 周りの空気が重く感じられていたその中で、アスナの声だけが風や森の音に妨げられること無く耳に入り込む。彼女の瞳は何かを企んでいる様子もなく、何度でも折れること無く此方に言葉を伝える気力だけを確かに感じた。

 一歩、ログハウスへと続く床板を鳴らして近づいた。思わず上げていた視線が、彼女の瞳に吸い付けられる。

 

「アキト君に教えるよ、それこそ何度でも。貴方には頼るべき仲間がいるって事を。誰かを頼る事に慣れてない君が、何度それを忘れても」

 

 ぐい、と瞳を近づけるアスナ。彼女との距離が、驚くほどに縮まる。彼女の瞳の中に映り込む自分の姿がよく見える。互いの吐息が交わりそうなほどの、そんな距離。

 段々と、先ゆく未来の不安が消えていくのを感じる。それが気の所為だとしても、一時の麻薬のようなものだとしても、その身を委ねるだけで何もかもが上手くいく気さえ起こる。今ならストレアを助けられるかもしれないと、理由無き確信が芽生え始めてくる。

 

 また、アスナに助けられたな────と、そんな事を考えていると、彼女はまた一歩、アキトに近付いた。もう、ただの友達では有り得ない程の距離感まで来ている。思わずアキトも、アスナの名を呼んだ。

 

「ア、スナ……?」

 

「けど……もし、アキト君が選んだ未来が、取り返しのつかない酷いものになったとして……その事実に貴方が耐えられなくなって、逃げ出したいと思ったのなら────」

 

 彼女は更にアキトに近付き、周りの木々にさえ聞こえないような声で小さく囁いた。

 

 

 ────その時は、私も一緒に逃げてあげる。共犯だもの、独りになんてさせないわ。

 

 

 それは、脈動する心臓を指で直接絡め取る様な、甘い声だった。思考や精神の支柱を弄び、抗う心を丸ごと奪い去ってしまうような、そんな音色。

 たった今感じていた彼女への感謝の念や、申し訳なさ、今後の問題に対する懸念全てが吹き飛ぶような破壊力。

 当の本人は、悪びれることも無く、クスリと微笑んでいた。自分で放った言葉の意味を分かっているのだろうか。だがまあ、何にせよだ。

 

 

 ああ、そんな事になったらキリトに殺されるから、その選択肢は絶対に取っちゃ駄目だなと、鳥肌になりながら────呆れたように笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.123 『理由(君を助けたいわけは)

 

 









アキト 「……ねえ、最後の意味分かって言ってる?なんか駆け落ちの申し出みたいに聞こえたんだけど」

キリト 「魔性の女やで……!」(震え声)

アスナ 「え、あ……!あ、敢えてよ、敢えて!アキト君は絶対に逃げ出したりなんかしないもの!」

アキト 「お、おう……信頼されてるみたいで何よりです……」

END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)

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