ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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────復讐に意味はないかもしれないけど、多少の溜飲くらいは下げたいもんな。





Ep.128 幽者

 

 

 

 

 

 

 ────ねえ、アキト。

 

 

 今更、ずっと一緒に冒険がしたかったって言っても、もう信じてもらえないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 ストレアが彼────アキトに出会ったのは2022年の11月6日、《ソードアート・オンライン》の正式サービス開始日の時だった。

 

 それは特に劇的な出会いでもなければ視界に留まっただけの偶然で、出会ったというよりもこちらが一方的に知っただけのものだった。

 あの大広間でのチュートリアルで、茅場晶彦によってこの世界が現実と隔絶された事を告げられたあの日に、窓の外から景色を俯瞰するような感覚で見渡した人々の中で───その一万人の中で、たった“独り”を見つけてしまったのだ。

 

 

(────震えてる)

 

 

 恐怖と諦観に打ちのめされ、絶望を孕んだ瞳で膝を抱えて怯える少年。

 取るに足らない矮小な存在で、同じような反応の人間はそこに溢れかえっていた。彼が特別他の人間と違った点があった訳ではなかった。本当に偶然、その目に留まっただけだった。

 

 茅場晶彦からの半ば死刑宣告に近い話を理解したプレイヤー達が取る行動は、その時点で既に大体三つに分けられていた。幽閉された事実に恐怖し動けなくなる者、現状を受け入れられずに騒ぎ立て暴れ出す者、その世界を脱出する為に正攻法を取る者の三つだった。その中でも一番多いのが一つ目で、一番少ないのは三つ目だった。

 

 この地獄と化した世界でもなお己を失わずに行動できる人間の方が余程見応えがあっただろうに、ストレアはただその広場から人が捌けていくのを何も考えずに眺めていた。同じ感情であっても見せる表情や顔色に個性が現れていて、観察対象には事欠かなかった。

 

 

(────あ)

 

 

 やがて広場にいた幾千もの、そして幾ばくかのプレイヤーは姿を消し、それでも未だ動けずに固まったまま蹲るプレイヤーの一人一人に視線を移していく内に、そうしてまた彼を見つけた。

 

 

(────まだ居る)

 

 

 最初に見た時と同じ膝を抱えた状態で、石造りの床をその瞳に映したまま青い顔をしている。

 見たところ仲間も居ない。はぐれたか、それとも最初から独りか。今後リソースの奪い合いとなるこの世界で信頼のおける仲間をつくるのは酷く難しい。彼がここからどのような生き方を選択するにしろ、既にマイナスからのスタートだった。

 

 

「……」

 

 

 ───ストレアは自覚する。自分が彼に向けているのは、恐らく“憐れみ”と呼ばれる類の視線なのだと。

 彼らの気持ちはおよそ推測できるもので、同情の余地もある。こんな世界、彼らからすれば広大な牢獄と変わらない。罪なき人を閉じ込める、茅場晶彦の理想に巻き込まれた“懲役”とも呼べる仕打ち。現実と乖離した事により、それまで当たり前に生活を共にしていた家族の元へは二度と帰れないかもしれない。

 その瞳に何も宿していない彼が……不憫、だとは思った。

 

 何か、話しかけるべきか。干渉しても良いのか。そもそも、話しかけられるだろうか。

 ────自分の声は、彼に届くだろうか。

 

 

(────……)

 

 

 ただと気まぐれ、ほんの僅かな興味と好奇心、それか暇潰し。自分の前にそんな言い訳染みた言葉を並べ立て、彼に干渉するべきか否か、口を開いては閉じてを繰り返して。

 

 

『っ……あ、あの……!』

 

 

 ────透き通った声と共に怯えたような気配が彼の元へと近付いて来たのは、そんな時だった。

 

 

「……っ」

 

 

 伸ばしかけたその腕を下ろし、喉まで出かかっていた声をどうにか抑える。慌ててそんな素振りをしたところで、こちらの存在に決して気付くはずもないのに、あるはずもない心の臓が一際跳ねた気がした。

 

 ストレアは胸を撫で下ろしながら声の主を見る。

 彼に声を掛けたのは、細身の少女だった。セミロングの黒髪で、前髪は綺麗に切り揃えられている。右目に泣きぼくろと、肩から足にかけてその身を震わせる子猫のような様相。

 既に泣き腫らした後なのか、目元が赤みがかっていた。

 

『だ、大丈夫……?』

 

『……誰』

 

『ぇ……あ、えっと、その……』

 

 少女は酷く慌てふためいていた。その見た目や表情、声音から推測するに、およそ赤の他人に気さくに話しかけられるような性格には見受けられない。なけなしの勇気を振り絞ったであろう事は、感情に疎いストレアにも理解できるものだった。

 話し掛けられその顔を上げた彼は、しかし彼女の言葉が要領を得ないばかりに、その眉を寄せていた。

 

『……放っといて』

 

『え……?』

 

『どっか行って……』

 

 彼の声を、ストレアは初めて耳にした。

 ぶっきらぼうに言い放つ声色は、目の前の彼女を疎ましく思い、退けようという意思を孕んでいたように思う。聞き取りやすくも若干の幼さが残る声で、まるで意地の張った子どものようにまた蹲った彼。

 ────彼女はそれでも、その場所を離れる事はしなかった。

 

『よかったら……私たちと、一緒に行かない?』

 

『────……ぇ』

 

 少女そんな提案に彼と────そして、何故かストレアの瞳が揺らいだ。誰も信じられなくなった世界で、顔も名前も知らなかった相手に掛ける言葉と表情ではない。震えながらも、優しく取り繕うその笑みからは、不器用ながらの気遣いを感じた。

 彼女が何故、彼を選んだのかは分からない。彼女も未だ、この絶望に抗う術を知らず、縮こまって震えているだけの存在に他ならない。

 

 

『……私、サチっていうの。君は?』

 

 

 それなのに、自分の恐怖さえ拭い切れぬままに彼に手を伸ばすその姿に。

 ストレアは、この地獄でなお変わらない、人間の善性を垣間見た気がしたのだ。

 

 

『────……僕、は』

 

 

 おずおずと、差し出されたその手に向かって伸びる彼の腕。自分の役目を目の前の彼女に奪われたような感覚。そして、それに応えた彼の救われたような横顔。

 彼女────サチが声をかけて初めて、ストレアは彼の名前を知った。その事によるもどかしさと、若干の悔しさ。

 

 

「……」

 

 

 その時感じた羨望や嫉妬にも似た感情を、ストレアはまだ理解し倦ねていた。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 サチは、ストレアが目を付けた先の少年────アキトと違って孤独ではなかった。現実の世界で繋がりのある仲間達と共に、攻略組としての貢献を目標とする五人組で、ケイタ、ササマル、ダッカー、テツオとを合わせてのパーティだった。

 

 当然、異物であるアキトが彼らと馴染めるはずもなく、彼らがどれだけの善人だったとしても、その心を溶かすのにかなりの時間を有した。壁を作っていたのは彼らよりもアキトだが、初対面の人間に仲間にならないかと誘われて疑わない道理は無い。

 だというのに、サチは毎度彼の部屋の戸を叩きながら声をかけ、その献身的な様にあてられたメンバーでさえ彼に声を掛け続け、ひと月経つ頃には彼らの攻略に参加するまでに、アキトは打ち解けていた。

 

「……」

 

 ストレアが何を思って彼を覗いていたか、そう問われれば明確に言葉として出てくるものはない。ただ引き寄せられたような、目が離せないような。

 しかしあれ程までに冷たく、地獄に浸かったような表情をしていたはずのアキトが、次第にその顔に色を取り戻していく様を見るのは少しばかり面白かった。

 

 やがてギルドが結成できるようになると、彼らは《月夜の黒猫団》というギルドを立ち上げた。サチとパーティを共にしていたケイタ達に、アキトを加えての計六人の小規模ギルド。

 結成した日の夜に乾杯の音頭をとったダッカーを皮切りに、肩を組んで笑うアキトの姿が、ストレアにはただただ物珍しく映った。

 

 当初あれほど彼らを警戒していたはずのアキトが、彼等の輪の中で小さく笑みを浮かべている。普段は仏頂面の彼が、隣りで微笑む彼女を見てその口元を緩ませている。その視線が僅かではあるが他のメンバーに向けるものとは違う気がして、また興味を唆られた。

 

(……これ、もしかして)

 

 彼に最初にその手を差し伸べたのはサチだ。その分、彼女に傾ける感情が大きいのかもしれない。しかしこれはもしかすると、“恋愛感情”というものが芽生える瞬間を目の当たりにできるのではないかと、ストレアはその瞳を幾ばくか見開いた。ただ目に留まっただけの存在が、自身の興味を引く存在になってくれるというのは嬉しい誤算だった。

 

 ストレアはその特殊な出生のせいか、他者の感情に酷く疎かった。それを学ぶ場としてこの世界を提供されたのもあって、恐らく現状は他の誰よりもこの世界のプレイヤーと関わる機会が多かった。といっても、自分から何かしらのアクションを起こす訳ではなく、一方的に俯瞰で観察しているだけではあるが、それでもゲーム開始時から今に至るまでに飽く程に見ているのは、“恐怖”に顔を歪めるプレイヤー達だった。

 

 デスゲームだと宣告されて数日間、誰も彼もが似たような感情を宿らせ、揃いも揃って表情を歪め、そうして浮遊城の外周部の柵に手足を掛けて身を投げ出した者は少なくなかった。彼らはこの世界に絶望しか見い出せず、或いは見い出そうとはせず、その生を自らの手で呆気なく終わらせていく。そんな予定調和な地獄絵図などには、最早興味すら湧く事が無かったといえば酷い話だ。

 だが、そうした負の感情しか見る事の無かったストレアにとって、アキトと彼を取り巻く黒猫団の笑顔には、言葉とするには難しい価値があった。

 

 幸せ、幸福。笑顔、楽しさ。そんな感情を抱く時に見せる表情。彼らのその“笑顔”に、ストレアは魅せられた。ほんの偶然目に付いただけの存在が、ここまで自身の興味を引くケースを見せてくれるなんて、と。

 

 ────ストレアのその瞳は、目の前の光景の新鮮さと面白さに揺らいでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────“まだ見てるのか、そいつを”

 

「……文句あるの?」

 

 背中越しに投げかけられた()()の声に思わず身を竦める。疚しい事をしている訳では無いにしろ、ここ数ヶ月同じ人間を観察している事に対して、変な勘違いを起こされるのも癪だった。バツが悪いような、気恥ずかしいような感覚が胸中にあって、それを悟った気になられるのも嫌だった。

 

 ────“よくもまあ飽きもせず……物好きだな、どうせ干渉できないと分かっているのに”

 

「……うるさいな」

 

 膝を抱えた姿勢で蹲り、ただ視線は変わらずアキトの方に。外野の声など無視してなお、ストレアは食い入るように彼らを眺めていた。あれからの数ヶ月で、黒猫団は徐々にではあるがこの世界で堅実に戦う術を確立しつつあった。

 ギルドの平均レベルが最前線に遠く及ばなくとも、焦りと勇み足で危険を犯す事はせず、不足マージンの階層に足を踏み入れるようなギャンブルは決して起こさなかった。

 

 少しずつ、けれども着実に。確かな手応えを感じながら黒猫団は各々の能力値を上げていく。

 アキトもギルドの一員として活動する事になると、自ずとその成長ぶりをストレアに見せていく。最初の印象が臆病者だっただけに、徐々に黒猫団と打ち解け、スキルを磨き、レベルを上げていくにつれて見違えるその姿や表情、言動の変わりようには驚くばかりだった。

 

 実力が伴えば自信も自然と形になってくる。それまで周りの顔色を伺い、気を遣うばかりだったアキトの行動にも変化が怒り始めていて、自身で思考して発言、行動して仲間を守る立ち回りに感動すら覚えていた。

 

 それまで自分はあくまで他人で、現実世界で既に出来上がっている仲間内の空気に完全に溶け込む事はできない────そういった気持ちが、アキトの中にあったのではないかと思う。

 

 けれど今では素直になれず憎まれ口を叩き、それに対してダッカーが突っかかり、ケイタが諌めて輪の中で笑みが零れる、そんな気の置けない関係が構築されつつあるのが分かって。

 五人と一人ではなく、ちゃんと六人で一つのギルドとして機能し始めていて、そこで彼が小さくではあるが、笑っている姿に。

 

 ストレアには何とも────

 

 

「────……っ」

 

 

 ふと、口元を抑える。その口角が自然と吊り上がっているのを理解する。自分は今、笑っていたのかと困惑し、緩んでいた口元が震えた。

 体験したことのない変化、体感したことのない感情。そこに戸惑いと、僅かな興奮。

 

 もしかして自分は、アキトが居場所を手に入れた事実を嬉しいと感じている────?

 

 

「……はは」

 

 

 無意識に零れる笑み。込み上げてくる胸の熱さ。

 思わず、感慨の吐息が漏れそうになった。他者の笑顔を見てストレアがこんな風に感じることは非常に珍しい────否、初めてのことかもしれなかった。

 

 最初は、ただ世界の絶望に抗うことなく怯えるだけの見慣れた存在だった。何処にでもいる死ぬのが怖いだけの子どもだと。そこに対して思うところがあったわけではない。自ら死にに行くか死を待つだけかの違いというだけでカテゴライズは変わらない。

 それを臆病だと罵るつもりも嫌悪感もなく、ただ純粋に見飽きただけのつまらない存在だった。彼も他のプレイヤーと大差無い、そんな不遜な決め付けはアキトを見続けていくうちに掻き消えていった。

 

 彼の立ち回りや考え方は当初、お世辞にもロールプレイ向きのものではなかった。独善的な動きにパーティ度外視の発言が足を引っ張ったりした状況は何度もあって、およそずっと一人用のゲームをプレイしてきたのであろうことは想像に難くなかったが、それらを補って余りある懸命さがあった。

 

 初めから戦う意志を持ったプレイヤーも、死を覚悟しつつも最後まで世界に抗う覚悟を決めたプレイヤーもストレアの目に留まっていたのは事実だ。今や“ビーター”と呼ばれる者だったり、“閃光”と謳われる最前線では珍しい女性であったり、そんな彼らもストレアにとっては確かに興味の対象になり得る者だった。

 

 技の冴え、技術、思考力、伸び代があるのは恐らく彼ら。それなのに、拙さが目立つ少年の剣にそれ以上のものを感じるのは何故なのか。

 その答えはきっと、至極当たり前で、笑えてくるほど単純で。

 

 

「……変なの」

 

 

 ────少年の剣には、ただ想いが込められている。

 

 その一振りに自身の力の無さを嘆く悔しさが、故に強く在ろうとする情熱が、その力でみんなを守りたいと願う優しさが、黒猫団に全てを捧げようとする────祈りにも近い切なさが、一心に込められている。

 

 言葉で言えば簡単な話で、先に挙げた者達の件にも同じものがあったかもしれないと思っていたけれど、その強さは比べ物にならない。

 

 自身を孤独から救ってくれた存在。アキトには、きっと彼らしかいない。彼らに報い、その夢を自分の夢として一緒に追いかけて叶えたい。叶えてあげたい、そんな少年の情熱がここにある。

 

 彼にはそれしかない。みんなと共に在るのは、剣を握ることでしか有り得ない────在り得ない。まるで暗闇を照らす月のような、そんな在り方。

 

 

「……変、なの」

 

 

 みんなが寝静まった夜更けに一人、剣を片手に同じモーションを繰り返して技の熟練度を上げる彼の献身的な後ろ姿を、目を細めて見つめ続ける。

 少し見方を変えれば度の越えた自己犠牲。けれど誰に気付かれることもなく、称賛されるわけでもないひたむきな陰の努力に、ストレアは本物を垣間見た気がした。

 

 

 

 

 

『シッ────!』

 

 毎日毎日、雨だろうが風だろうが雪だろうが、継続を怠りはしなかった。空を切るその刃は、重ねる度に研ぎ澄まされていく。毎夜月明かりに照らされた彼の横顔は、元々の容姿の良さもあってか芸術に近かった。

 周囲に誰もいない草原はまるで自分と彼の二人きりの様で、毎夜逢瀬の気分になって、少しばかり心が跳ねた気がしたが、ただ一振りの剣たる彼の姿に、見惚れたなんて認めたくなくて。

 

 

「ホントは怖がりの癖に……」

 

 

 つい、かつての記憶の棚から情けない頃の彼を持ち出して呟いた。

 

 

「……“強がり”の、癖に」

 

 

 本当はもう、そんなこと思ってすらないというのに。

 二人きりの照れ臭さなのか、はたまた慣れずに居心地が悪いのか、そんな言葉を吐き捨てては、そうじゃないと否定する。

 

 自分の予測や常識をその度に凌駕して、色んな感情や表情を見せてくれる。それ故だからかもしれないが、まるでこちらの存在に気付いていて、こちらが勘違いする度に、正しい姿を見せてくれているように思えた。

 それはきっと錯覚に違いなかったけれど、彼に意識されている気がした。

 

 取るに足らない臆病者だったはずの彼。強がりであることに変わりはない。そんなストレア自身の思い上がりを跳ね除けて今なお成長を続けてくれる存在を、他に見たことがない。

 

 彼だけだ。彼だけが、自分の予想を越えてくる。知らなかった景色を見せてくれる。何千人と見てきた自分にも、その果てが見えない。

 退屈だと決め込んでいた自分だけの狭い世界で、思い通りにならない彼の存在に救われている自分がいることに、薄々気付いていた。

 

 彼が笑う姿が、焼き付いて離れない。また見たいと、そう思わせる。

 あの顔を意図も容易くさせてしまえる黒猫団が、サチが、心底凄いと尊敬にも似た感覚を抱いた。あの空間でないと、彼は笑わないと知っていたから。

 中でもアキトに最初にその手を差し出したサチが、彼が身を削る程の研鑽を重ねている理由の果てにあるのだと思うと、人の原動力というのは分からない。

 

 その人の為に、人はこうも進んで行けるのか。

 その一つの夢の為に、人はこんなにも強く在れるのか。

 それとも、アキトが他の人と違うのか────

 

 

「アタシも────っ」

 

 

 一緒に、居れたなら。ふと、そう言葉が零れそうになった。それを理解した途端に口を噤み、高鳴った心臓をギュッと抑え込む。

 何を馬鹿な。世迷言だ、気の迷いだ、心にもない事を口走ったと、自分を律する。自分と彼らは違う。触れられない距離、届かない声、一方通行の傍観。決して干渉できるものではない。

 

 それに、自分が立ち入る隙なんて何処にもない。

 彼らはきっと、あれで完成されている。他に誰かの入る余地はない。きっと、今後も自分は見ているだけだ。手の届かない場所だからこそ、自分は気になって仕方がないのだ。

 

 

 ────だからきっとこんなにも、自分は彼が気になっているに違いないのだ。

 

 

 そう思っていた。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

『命の恩人キリトさんに、乾杯!』

 

『『『『────乾杯!』』』』

 

『か、乾杯……』

 

 ────よりにもよってアキトが不在の際に、それは起こった。

 

 ゲーム初心者にありがちな、耐久値という概念を見落として自身の武器を失うという状況。それだけ仲間の為に一心不乱にその身を磨いていたのだといえば美談だが、デスゲームにおいては命取りだ。

 故に武器を新調しに出掛けたアキト抜きで、とある日に黒猫団はいつもの狩り場に赴いた。しかし予想以上にモンスターのリポップ数が多く、アキトの抜けた前衛の穴を付いてくる集団の猛攻に、彼らは後退を強いられていた。

 

 ────それを、ただアキトのポジションを埋めただけでいつも以上に手早く片付けてしまったのが、今まさに乾杯の音頭に乗り遅れた“ビーター”その人だった。

 

 

「……キリト」

 

 

 現実での彼と同じ名を持つキリトという少年は、助けに入ってから黒猫団の宿に戻るまでで、既に彼ら仲間然雰囲気に惹かれている様にストレアには映った。

 それもそのはずで、彼の苦悩も苦痛も、ストレアは彼らより先に知っていた。彼はストレアが暇潰しで見に行く攻略組に属するプレイヤーであり、βテスターということもあって他者と距離を離して久しかった。

 

 殺伐とした最前線において、フィールドでの助力はお互い様という暗黙の了解がある。自分がいつ助けられる側に回るか解らないこともあり、助太刀した所で殊更に礼などしないし求めない。軽い挨拶を交わす程度で、その後はすぐ次の戦闘へと向かう在り方は、攻略組として求めうる最大の効率と、単純な合理性のみだった。

 

 だが、既にストレアも攻略組と黒猫団があまりにも違うことを知っている。比べるまでもなく、その空間の居心地の良さや温かみが違うのだと骨の髄まで理解している。たった一つの戦闘に勝利したことを全員で大いに喜び、各々の健闘を称え合うその姿はきっと、口にはせずとも最前線での日々に精神を擦り減らしていたキリトにとっては眩しく、故に魅入られてしまったのだろうと。

 

『あのーキリトさん。大変失礼ですけど、レベルって幾つくらいなんですか?』

 

『……二十、くらい』

 

 ────だから、ケイタの質問に彼が自身のレベルを実際の二十も下に偽って答えた時は、もしかしてと思わないでもなかった。

 本来のレベルを伝えれば下層荒らしだと思われないとする根拠は理解出来た。それでも、キリトがどういう意図でその嘘を貼り付けたのかが、表情から読み取れてしまった。

 

 純粋で優しい彼らだからこそ、すぐに人を信じてしまう。頼ってしまう。だからこそ、だからこそなのだ。この世界で知り合ったばかりのアキトに手を差し伸べてしまえる彼らだからこそ、ケイタが次に告げるその言葉にも予想が付いていた。

 

 けれど。

 

『へえ、そのレベルであの場所でソロ狩りが出来るんですか!俺達とあまり変わらないのに凄いですね』

 

『ケイタ、敬語はやめにしよう。ソロって言っても、基本的には隠れ回って、一匹だけの敵を狙うとかそんな狩りなんだ。効率はあまり良くないよ』

 

 ────やめて。

 

 なんだろうか。脳内で、自身の声が拒絶する。

 

 

『そう……そうか。じゃあさ……キリト、急にこんな事言ってなんだけど……君ならすぐに他のギルドに誘われちゃうと思うからさ……』

 

 

 ────言わないで。

 

 この場にもう一人、それを決めるのに必要な人がいないのに。

 

 アキトが、居ないのに。

 

 

『良かったら、うちに入ってくれないかな』

 

『え……』

 

 

 ────そんなの、勝手に決めないで。

 

 

 

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

『シッ────……っ、はぁ、はぁ……』

 

 キリトが加入してから、アキトの深夜の熟練度上げは度を越していた。目に余る程に修練の時間が増え、三日徹夜で剣を振るっているのも珍しいことじゃなくなった。

 

 練度を上げるだけじゃ実感としては物足りないのか、圏外でソロを決め込むこともあった。元々ソロプレイのきらいがあった故か、デスゲーム開始時に独り怯えていたのが幻だったのではと思う程に、次第に個人のレベルやステータスを気にし始めた。

 

 何が彼をそうさせたのかなんて、キリトが加入した翌日には理解した。彼を含めた七人での最初のレベリングで、彼がアキトと同じ前衛のポジションに入った瞬間に、全ては決まってしまったのだ。

 アキトにとって、その後格段に効率の良くなった黒猫団の背景にはキリトの存在があったからだと盲信して疑わなかった。

 前衛が二枚から三枚になったのだから、戦略的な意味でもパーティーバランスが改善されたのは当たり前だった。だがアキトにとってはそれは、ただキリトの存在を際立たせただけで、充分過ぎる意味を持っていた。

 

 彼の正確な太刀筋、敵の予備動作に合わせた的確な指示、それに応える仲間の動きは格段に向上し、それを同じポジションに居たからこそ、アキトには彼が自分の上位互換であることが理解出来てしまったのだ。

 

 キリトと肩を並べて前衛をすればする程、その立ち回りや頼もしさに差を感じ始めていた。サチの前衛転向を却下する為なのか、盾を持ち出す夜もあった。まるで何か自分にしかできない役割を見つけようと足掻いているようで、その情けなさが痛ましかった。

 それを決して彼らの前で態度には出さなかったけれど、事実として夜に一人で振るう剣には、悔しさや妬ましさによって乱暴になった一振りが確かにあった。

 

 ────いつしかストレアが魅せられた、想いの込められた彼の一振りは、邪念によって鈍く濁って見え始めていた。

 

 仲間の為にあった刃が、キリトに負けたくない、越えていきたいとその刃を錆び付かせ、洗練されていたはずの動きはムラを生み、その呼吸は酷く乱れ出す。ただ彼らの為にあったはずの剣は、酷く頼りなさげに思えた。

 その表情だけは、最初の日に戻ったように見える。

 キリトの存在によって、自分の居場所を見い出せなくなり、焦りと動揺が顔に現れ、その瞳が揺れている。

 

 ────“……漸く壊れたか、ソイツも”

 

「……っ」

 

 また背中から声がかかる。久しぶりに話しかけられた気がする。ただただ煩わしかった。そのまま放っておいて欲しかった。こんな酷く情けなく、余裕と頼りのない彼を、誰にも見せたくはなかった。

 

「……用がないなら、放っておいてよ」

 

 ────“もう奴には目を見張るものは何もない。何故彼をそこまで気に留めるんだ”

 

「……アンタには、分かんないよ。分かんなくていい。分かって欲しくも、ない」

 

 ────“……あっそ”

 

 声の主は、さもつまらなそうに吐き捨て、掻き消えた。それを背中で感じ取りながら、ストレアはたった今の自身の発言を反芻していた。

 

 そうだ。この気持ちは、自分だけが分かっていればそれでいい。

 誰にも分からなくていい。

 アキトをずっと見てきたのは自分だけだ。

 

 彼の今の気持ちを、そしてストレア自身の気持ちさえ、軽々しく共感して、分かって欲しくなんてないのだから。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 ────サチがいなくなった。

 

 ケイタの口からそれを聞いたストレアは、意味が分からずただ困惑した。それを聞いてすぐ探しに飛び出したアキトに勝るとも劣らない慌てようだった。彼女が居なくなるとは思いもせず、その理由にさえ皆目見当も付かなかったからだった。

 

 その日の夜、夕食後に二階に集められた彼らがケイタから伝えられた報告は、兼ねてよりの貯蓄が間もなくギルドホーム購入の目標金額に達成するという喜ばしいもののはずだった。

 

 実際に黒猫団の戦力強化は特筆すべき速度で、キリトの加入時には十あった前線層とのレベル差は五にまで縮まった。無論、攻略組だった彼の陰ながらの誘導による功績は大きかったが、そうやって最大限の効率を出し続けることで、黒猫団の平均レベルは完全にボリュームゾーンから頭一つ抜け出していた。

 

 ────ただ、サチの前衛転向だけは順調とは言い難かった。けれど、それだって予想出来た問題だった。

 

 確かに前衛として至近距離で戦う為に必要なのはステータス以前に精神的な部分に寄るところが大きい。この世界が始まってからほんの一ヶ月でプレイヤー二千人が命を落としたのは、情報収集を怠ったのもあるが、その接近戦でのパニックが原因だった事を、ストレアは知っている。

 サチはどちらかと言えば大人しく、臆病な性格で、とても前衛に向いているとは思えない。彼女と話した事もないストレアにも分かっていた。

 

 サチの転向が芳しくないことが議題になるのは時間の問題だった。心優しい彼女がそれを自責に感じてしまうことも目に見えていた。そしてそれはきっと、アキトが一番分かっていた。でなければキリトに助力を乞うてまで、秘密にステータスを上げたりしない。

 そのお陰か今や戦闘技術はキリトに届く。本人のお墨付きだ。アキトはそこで漸く、ケイタ達に『自分が壁役を兼任するから転向はさせなくていい』と、自信を持って伝える事ができたのだ。

 サチはこれまで通り後衛で、使い勝手の良い槍での援護。それでこの話は終わった────はずだったのに。

 

「どこ……どこにいるの……っ」

 

 ストレアは自分の手が届きうる限りの範囲を捜索し始めた。ギルドメンバーリストから彼女の居場所を確認できないのは、単独で迷宮区にいるせいだとケイタ達は考えていたが、彼女にそんな命知らずな行動が起こせるわけがない。

 彼らがこぞって圏外に探しに行くのに対して、ストレアは圏内に絞って探し始めた。あの性格で夜に圏外に出るはずもないし、地の利が無い場所も同様だ。自分の知ってる範囲で、かつ見つかりにくい所。

 

「あ……よかった、いた……」

 

 主街区の外れにある水路。小さな流水音と水の滴る音がそれぞれに響く影の中で一人、隠蔽能力が付与されたマントを羽織って蹲っているサチの姿を見付けた。

 ストレアは一気に口内に溜まった安堵の息を吐き出した。圏外な訳が無いと決め付けてかかっていたが、無事な姿を見るまでは安心できないものだ。誰にも見付けて欲しくないと言わんばかりに縮こまり、ただ目の前の水の流れをぼうっと見つめている。

 今にも泣き出しそうな彼女の顔を見てすぐに、アキトが近くにいないかと辺りを確認して────その声を耳にした。

 

 

『────サチ』

 

 

「……ぇ」

 

 聞き慣れた声。聞き間違いであって欲しかった。

 思わず視線を戻し、水路に近付く影を視認する。自分と同じ考えに至り、此処に辿り着いた存在の姿だった。それがアキトだったのなら、どれだけ良かっただろう。

 視界端に映る、全身を黒に包んだ細身の少年。ストレアは思わず彼の名を口にした。

 

 

「キ、リト……?」

 

 

 ────早過ぎる。

 

 確かに全員でサチを探していたのだから、誰が見つけたところで不思議ではない。彼が単独行動時にサチが消えたと共有を受けてから、まだそれほど時間は経っていない。しかも、彼が一度宿に戻っていることは確認している。それなのに、先に探し始めていた誰よりも────アキトよりも早くだなんて。

 

 

『キリト……どうして、ここが分かったの?』

 

 

 暗闇に響くキリトの声は、サチを驚かせるには充分だった。小さな肩がピクリと動き、ゆっくりと顔を上げた彼女は、ストレアがまさに気になっていたことを、覇気のない声で聞いてくれた。

 

『……勘、かな。サチなら、こういうところに行くんじゃないかって』

 

『……そっか。凄いね、勘で私の居る場所が分かっちゃうなんて……帰らないとって、思ってはいるんだけど……足が竦むんだ』

 

『……そっか。無理しなくても、ゆっくりでいい』

 

 ストレアが困惑する中でやり取りが続き、やがてキリトはサチと少し離れた位置に腰を下ろした。その微妙な距離感が、そのまま彼なりの不器用なりの気遣いの表れなのだと、サチも、ストレアも理解した。

 

『みんな、私のこと探してるよね。もしかして、アキトも圏外に……?』

 

『心配ないさ。アキトは強い……いや、強くなった、かな。だから、最悪の事態にはならないよ』

 

『そう、だよね……アキト、すごく、強くなったよね』

 

『……サチ?』

 

『なんだか私……置いてかれたみたい』

 

 膝を抱えて俯いて、目の前の水の流れを見ているようで、どこか遠くを眺めているような憂い顔を、キリトは何も言わずに見つめていた。

 

 ────彼女は、何を言っているんだろうかと、そう思った。

 アキトがサチの代わりを努めると言ってくれたのに、何処か寂しそうに笑う彼女が、ストレアには理解できていなかった。

 サチが何を伝えようとしているのか、何か思うところがあるのか、不満だと言うのか。純粋ゆえに見抜けず、そのまま口を噤んだまま彼らの様子を見ていた。

 

 

『……私、死ぬの怖い』

 

『え……』

 

『怖くて、この頃あんまり眠れないの』

 

 

 ────それは、サチがアキトにさえ面と向かって伝えたことのなかっただろう本音だった。傍で見ていたストレアだけが知っていた、彼女の本心。

 思えば知っていた気になっていただけで、その実彼女の言葉としてそれを聞くのは、ストレアでも初めてのことだった。

 

 

『……ねえ、何でこんなことになっちゃったの?なんでゲームから出られないの?なんでゲームなのに、ホントに死ななきゃならないの?あの茅場って人は、こんなことして、何の得があるの……?』

 

 

 立て続けに重ねられた質問の数々。根本まで知りえなかった彼女の気持ち。彼女が今まで何を思って、どう感じていたのか。その断片を、ストレアはこの瞬間初めて本当の意味で知ったのかもしれない。

 だがストレアには、サチのその問いがキリトに何を求めたゆえのものなのかが分からず、変わらず沈黙を崩せずにいた。

 

 

『……多分、意味なんてない……誰も得なんてしないんだ。この世界が出来た時にもう、大事な事はみんな終わっちゃったんだ』

 

 

 キリトの、その曖昧で中身のない逃げるような酷い嘘に、サチはその膝を抱えたまま俯いた。涙を流さず泣いている彼女の叫びに応える誠意など、微塵も感じられない保身の為の嘘だった。 強さを隠して黒猫団に入り、悦に浸る彼自身の、矛盾を抱えた答えにストレアは戸惑った。

 

 分からない。どうして。何故。その光景を眺めながら、ぼうっと考える。

 アキトは今日この日まで、彼女が安心できる世界を作る為に戦ってきた。今までの自分を捨て、彼女を守る為の強さを磨いてきたはずだった。

 そしてそれが手に入ったと、彼女の代わりになると、ケイタにそれを伝えたことで彼女の不安を取り除くことができたと思っていたのに、彼女は変わらず死に怯えていた。

 

 

『……君は死なないよ』

 

 

 その言葉は、静寂の中で強く響いて聞こえた。

 安心させるように、優しげに伝わる声の主に、自ずと視線が吸い寄せられていく。

 

『なんでそんな事が言えるの?』

 

『……黒猫団は今のままでも充分に強いギルドだ。マージンも必要以上に取ってる。あのギルドにいる限り、君は安全だ……だから別に、“無理に剣士に転向することなんてない”んだ』

 

 彼の最後の一言が、ストレアの胸に突き刺さった。

 それは、アキトの言葉だった。彼女の為に努力した彼だけが伝える資格のある言葉だった。彼女の為に強くなった彼だからこそ、言っていい言葉だった。

 なのに、宿でアキトがケイタに伝えた時よりも、今キリトがサチに向けて伝えた言葉の方がより重く、信じられる気がした。

 

 ────その差は皮肉にも、レベルに裏打ちされた強さがあるかどうかの自信の違いだった。

 

 

『……ほんとに?ほんとに私は死なずに済むの?いつか、現実に戻れるの?」

 

 

 彼女の縋るような視線がキリトに向けられる。

 彼を見るサチの瞳が、僅かに希望を映し出した気がした。

 

 

『ああ……君は死なない。いつかきっと、このゲームがクリアされる時まで……俺が、君を必ず守るから』

 

 

 その時、何かが音を立てて壊れた気がした。

 

 

 ────アキトがその二人のやり取りの一部始終を聞いていたことにストレアが気付いたのは、キリトのその言葉を聞いたサチが、彼の近くににじり寄ってその顔をキリトの左肩に当てて泣き出したすぐ後だった。

 

 

『────……』

 

 

 アキトは何も言わず、彼らから見えない位置に背中を預け、少しの間だけ満面の星空を見上げた。その長めの前髪に瞳が隠れて表情は分からない。だがその右手の握り拳が僅かに固くなるのをストレアは見逃さなかった。

 

 

『……そりゃ、そうだよな……』

 

 

 アキトは何かに納得したように、自分に言い聞かせるようにそう口ずさむと、壁に預けていた背を離して来た道を帰っていく。

 ストレアは、二人から離れていくアキトと彼らを交互に見やり、慌ててアキトに向かって口を開いた。

 

 

「ち、ちょっと待ってよ……なんで、なんで行かないの」

 

 

 ストレアのその声が届くはずもなく、アキトはまるで自分が邪魔者であるかのように割り切って、その夜道に消えていく。宿へと戻る帰路に立ち、星空を見上げながらフラフラと覚束無い足取りで進んでいく。

 変わらずキリトの肩で涙を流すサチを尻目に、ストレアは何もかも自分の想像と違う展開に困惑するしかなかった。

 

 だって、だって。

 サチの為に頑張っていたのは、アキトだけだ。

 彼女が怖がりで前衛に向いてないからと、その役目を担う為にステータスを上げていたのは彼だけだ。彼女の心の奥の怯えに気が付いていたのは、誰よりも苦心していたのは、彼だけだ。

 

 ────彼女を守れるのは、彼だけ。彼だけなのに。

 

 

「……なんでよ、サチ」

 

 

 どうして、貴女は気付いてあげないの。

 アキトは、貴女の為に頑張っていたんだよ。アキトだけが、貴女の悩みに気付いて、努力していたんだよ。

 

 どうして、気付いてあげないの。どうして、その本音をアキトに話してあげないの。どうして、キリトの肩で泣いているの。

 アキトが行っちゃう。さっきまで貴女のすぐ近くにいたんだよ。キリトより遅かったかもしれないけど、ちゃんと見つけてくれてたんだよ。

 今度は貴女が、見つけてあげないと、ダメじゃんか。

 

 ────どうして。どうして、キリトなのだろうか。あれほど一緒にいて、あれほど尽くしてもらって、それなのにどうしてその本音を告げる相手が、彼じゃないのだろうかと。ただそれだけが頭の中で巡っていた。

 

 何より、キリトがサチの居場所を誰よりも早く特定した事実にも驚きを禁じ得なかった。特に探し歩いた訳でもなく、宿から一直線にサチの居る場所に辿り着いたのだ。流石に見つけるのが早過ぎる。

 

 まして、サチを一番に理解しているであろうアキトよりも先だなんて────そう思った時、気付いてしまった。

 

 

「……ぁ」

 

 

 索敵スキルから派生する上位スキル《追跡》。

 使用すれば探し人の足跡が自身の視界に現れ、後は探すまでもなくその道を辿っていけば、そこに続くだけで対象を見付けてしまえるスキル。

 キリトが上位プレイヤーであるがゆえの───そして、彼が皆に素性を偽ったがゆえに、誰も知り得ないスキルだった。

 

 

「っ……ズルいよ」

 

 

 アキトにはないスキル。その事実が実力差を痛感させる。

 ストレアはなんで、どうしてと叫ぶ声を止められなかった。やめてくれと願う声を聞かせてやりたかった。

 

 ────酷いよ、そんなの。

 だって、サチのことならアキトが一番よく知っているのに。現実からの付き合いのケイタ達でさえ気付いていないことにだって、アキトは気付いているのに。誰よりも、サチを想っているのに。

 それを嘲笑うかのように。

 

 そんなの、かないっこないじゃないか。

 

 初めから強かった君が。素性を隠して、騙している君が。

 なんでも持ってる君が────彼らしかいないアキトから、その一つまで取らないで。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 キリトとサチの間に交わされた、誓いのようなやり取り。

 

 その翌日の夜から、サチは夜が更けるとキリトの部屋を訪ね、そこで眠るようになっていた。彼の『君は死なない』という言葉を聞けばどうにか眠れるのだと、そんな理由だった。

 

 毎夜まじないのように重ねられるキリトの言葉に、彼女は一時的にではあっても安らぎを得られている様だった。

 キリトとサチは、決して恋愛をしていたわけではないのだろうと、ストレアは思う。同じベッドで眠っても背中合わせで、互いに触れることも、愛の言葉を囁くことも、見つめ合うことすらしていなかった。

 けれど、それでも。

 

 

「……分かんないよ」

 

 

 ストレアは、膝を抱えてしゃがみこむ。

 思い出されるあの日の出来事が、頭から離れない。

 二人の会話を、あの場所に後から辿り着いたアキトが聞いていた事実が脳裏を過ぎるのだ。

 

 彼は────アキトは、何も言わなかった。

 あの日、サチがその場凌ぎの安らぎの為にキリトの言葉に縋ったことに対して、それを陰で聞いておいて、怒りも悲しみもせず、仕方なさげに口元を緩めるだけだった。

 

 

「っ……なんでよ……」

 

 

 何かを、言って欲しかった。

 自分の場所を奪ったキリトに。尽くしてきたサチに。何か、傷付ける言葉を告げて欲しかった。そんなことを思う人じゃないと、優しい人なのだと分かっていながら。

 

 ストレアはただ、彼女の為だけに時間を費やしたアキトの努力が、あの日漸く実を結ぶのだと、そう思っただけだった。報われる瞬間が訪れたのだと、そう信じて疑わなかった。

 罪悪感を抱きつつも感謝を伝えるサチを見て、俺は大丈夫だよと、笑みを浮かべてみせるアキトの姿を想像していただけだった。

 

 彼はただ、“仲間”という初めての存在を、まるで綺麗なものを汚さないようにと、まるで自分が触れることで壊れないようにと、壊さないようにと、手探りだっただけなのに。

 

『……私、キリトが羨ましい』

 

『え……』

 

 ────唐突な、しかも思いも寄らない言葉に、背をを向けていたキリトの瞳が見開く。頭を少しだけ動かし、視線だけをサチへ向けるキリト。彼女は変わらず彼に背を向けたままだったけれど、その続きを口にし始めた。

 

『いつも冷静で、危なくなってもすぐフォローしてくれて……強くて、羨ましい』

 

『……サチ』

 

『私もキリトみたいに強かったら……怯えることなく立ち向かえたら……アキトに、あんな風に言われることはなかったのかな』

 

 

 ────“あんな風に”。

 

 それが、サチの前衛への転向に反対したアキトの言葉だと知った時、憤るのを通り越して、ただただ切なくて、哀しくて、どうしようもなかった。

 

 

 ────“ケイタ、みんなも。俺はこのままでも大丈夫だから、サチを前衛に転向させなくても良いんじゃないかな”

 

 

 もっと言い方はあったかもしれない。頼りなく見えたかもしれない。それでもあれは、自分の言葉で現実世界から既に出来上がっていた彼らの輪を乱すことを恐れていたアキトが、それでもなおサチの為にと告げたなけなしの勇気だったのだ。

 

 彼女を守る為の言葉だった。

 あれを告げる為の努力だった。

 それが、ショックだったとでも言うのか。

 

 

「……何よ、それ」

 

 

 アキトの努力が、否定されたような気がした。

 彼が誰の為に強くなりたかったと思っている。

 勝手だと思った。縋っていた癖にと罵ってやりたかった。

 

 じゃあ────それなら、アキトはどうすれば良かったのだろう。サチにとって、どんな存在なら満足だったの?

 

 言葉にしなければ、伝わらないのか。口にしないと、分かってもらえないのか。

 

 ────彼は。

 

 アキトは、貴女がケイタ達に決して言わない悩みだって、口にしなくても分かってくれてたんだよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 二十七層迷宮区で、ケイタとアキトを除いた黒猫団がトラップにかかった。

 

 ストレアは、少し目を離しただけだった。

 目標額に達したギルド資金全額を持ったケイタとその護衛にと抜擢されたアキトの二人が、ギルドハウス向けの小さな一軒家を売りに出していた不動産仲介のプレイヤーの元に出掛けて行った後の話だった。

 

 護衛にアキトを行かせた本音は、ギルドハウス購入の打ち上げに合わせたアキトの誕生日パーティーのサプライズの為だったらしい。

 ギルドメンバー共通アイテム欄の残高が底を尽きかけていたので、ケイタがアキトを連れている間にパーティーに必要な額をちょっと多めに稼いで、購入したギルドハウスで盛大に催してアキトを泣かせようという、実に彼ららしい発案だった。

 

 ────ただその後で、次いでに新しい家用の家具を揃えてケイタも驚かせようと、誰かが言い出した。

 

 仲間想いの彼らは誰一人その案に反対することなく、予定よりも多い金額が必要になったことで、いつもより上層の迷宮区に向かうことになったらしい。

 ストレアが逸早く気付けなかったのは、ここ最近のアキトの様子に不安を覚え、彼に付きっきりになっていたからだった。

 

 ダッカーが警戒もせずに宝箱を開けたことでアラームがけたたましく鳴り響き、そこで漸くストレアは彼らがいる場所を理解した。そこはまだギルドとしては一度も足を踏み入れたことのない、最前線から僅か三層下のダンジョンだと気付き、三つほどあった部屋の入り口からモンスターが怒涛の勢いで押し寄せてきたのを見て、全員の生存が絶望的だと悟った。

 

 

「────」

 

 

 それをただ見ていることしかできないストレアの耳に、やけに場違いな誰かの薄ら嗤いが聞こえた。

 自分じゃない。自分が今見ている誰かのものでも。けどそれはとても聞き慣れた、よく知っている身近な声。この状況も面白可笑しく嗤う存在を、ストレアは知っていた。

 

 自分のすぐ後ろで、何度何度もちょっかいをかけてきた、悪意の笑い声だと。

 

 

「────助け、ないと」

 

 ────“どうやって?”

 

 

 そんな嘲笑混じりの問いを無視して、ストレアはアキトが映った“()”に手を付いた。奴に笑われるままに、このまま見過ごすことなどしない。

 何もしないで見過ごすのは、きっと殺人と変わらない。アキトなら、見捨てたりしない。

 

 キリトに実力で劣ったと痛感し、大切だった居場所も譲り、負けを認めて全て諦めてしまったアキト。

 ここ数日、人形のように意志なく過ごしているように見えた彼を、ストレアも半ば諦めつつあった。

 

 だけど、彼女だけは。サチだけは、諦めさせない。

 彼女を救えるのは、彼女が笑える理由は、いつだって貴方しかいないのだから。

 

 

「アキト……急いで、早く……!」

 

 

 ────お願い。届いて。

 

 

「お願い……気付いて……っ!」

 

 

 ────アタシには、これしかできない。

 

 

「早く……っ、早く迷宮区に行って!仲間なんでしょ!?」

 

 

 ────その叫びが、彼の動きを止めたのだと気付いた。

 アキトが自身の頭を抑え、声の発生源を探して辺りを見渡すのを見て、ストレアは思わず安堵の息を零した。

 今まで誰一人として自分の声を届かせることは叶わなかった。死に直面したプレイヤーを前に、何もできずに見てるしかなかった。それが今、漸く彼と繋がった────その喜びを噛み締めるには問題が多過ぎた。

 だが彼がこちらの声を幻聴だと疑わず、フレンドリストで彼らの居場所を把握したのを見て、僅かに希望が見えた気がした。

 

 

「────二十七層だよ!急いでっ!!」

 

『っ……!』

 

 

 それを聞き取り、そして信じてくれた彼は、すぐさま身を翻して走り出した。その背中を呼び止めるケイタを置き去りに、行き交う人の隙間を縫いながら。

 その顔はもう、何かを諦めた者の顔ではない。今までストレアが彼に見てきた、守る為に強くなろうとした者の横顔だった。

 

 

「……お願い、間に合って」

 

 

 数字と言語で作られた娯楽の為の嘘の世界で、神に祈るしかない滑稽な自分に笑うしかない。今のストレアにできるのは、唯一干渉できたアキトに彼らの居場所をガイドすることでしかない。

 それでもアキトが映る“()”とキリトやサチ達が映る“()”を交互に見やりながら、まだ間に合う、まだ助けられると励ますことがアキトにとって必要なのだと。自分にしかできないことだと信じたかった。

 

 

 

 

 ────二十七層の迷宮区は、完全に敵の巣窟と化していた。

 

 フロア中に鳴り響いているのではないかと思わせるほどに大音量のアラートに絶叫が混じって聞こえ、危険を想起する赤に塗り替えられた回廊が血臭を錯覚させる。

 

 恐らくトラップで出現した敵の数に圧倒され、原因である宝箱を未だに破壊できていないのだろう。その迷宮区全域に及んでいるのではと思わせるほどに凄惨な状況に、ストレアの鼓動が早くなる。

 

 幾度となく人が死を迎える瞬間を目の当たりにしてきた。だが自らの手ではなく、他者や外敵によって望まずに押し付けられる死は、恐怖、焦燥、絶望、その尽くが世界を易々と塗り潰す。

 

 その空間が続くにつれ、次第にその通路に敵が溢れ始めていく。進行方向を塞ぎ、無視して抜き去ることさえ難しくなっていくその回廊は、アキトにとっては永遠に等しい地獄の時間に違いなかった。

 

 一歩踏みしめる度、一秒を痛感する度、焦りと恐怖で顔が修羅の如く歪んでいく彼の姿を、ストレアはただ見ていることしかできなかった。

 彼が辿るべき道を、繋がっているこの間に叫び続けることしかできない。

 

 

「もっと先!早くしないと、間に合わな────」

 

『分かってるよ!』

 

 

 ストレアの声を遮って、眼前に迫る敵二体を横一文字に薙ぎ捨てる。その剣はただ最短距離を進むのに障害を排除する為だけの刃と化し、その一振りを生み出す度に、絶望を振り払うような怒号を絞り出した。

 

 種族入り乱れる魑魅魍魎にすれ違いざまに斬られ、貫かれ、その跡が赤く深くその華奢な身体に刻まれようとも、アキトは止まらない。微塵の躊躇もなく、彼らの元へと走り続ける。

 

 

「チッ────!」

 

 

 ふと振り返れば、すぐ傍に殺意の塊が二匹。振り下ろされたその得物を弾き返し、空いた左手に光が纏う。体術スキルが一閃し、その顎を砕く。返す刃で、二体目のモンスターの腹を突き破っていた。

 舌打ちし歯軋りするその口元は、現実なら血が出てしまっていたかもしれない。その瞳は怒りを顕にし、苛立ちが殺意へと変貌する。その瞬間の感情を、ストレアは共有していた。

 

 

「────このっ……邪魔をっ……」

 

『するなああああぁぁぁああっっ!!』

 

 

 刀身が鈍く光を放ち、直線に振り切る。次から次へと襲いかかるその敵が、お前は間に合わないのだと嘲笑う。

 

 

『……退けよ』

 

 

 目視残り六体、その首を断つ。

 

 

『……退けって』

 

 

 残り五体、その四肢を斬り飛ばす。

 

 

『────そこを、退けよっっっ!!!』

 

 

 残り四体、縦に両断する。

 

 

 怒号が木霊し、血のようなエフェクトが辺りに飛び散る。プログラムの分際で消える寸前には人と変わらない反応をする。不要な演出に苛立ち、障害となるもの全てが今は煩わしい。

 余韻なんて要らない。前に進むだけの強さがあればいい。その速度はストレアの目から見ても上がっており、このままならみんなの元に辿り着けるかも────そう思えた矢先だった。

 

 

『うああああああああぁぁぁぁっっ!!』

 

 

 ────別の“()”からの叫び声に、ストレアの身体が硬直する。ほぼ反射的に視線が映る。そこに映ったのは、現在キリト達がトラップにより閉じ込められている一室。

 

 

「────ぇ」

 

 

 ────倒れ込んだダッカーの背中に夥しいほどの刃が突き立てられ、その身を硝子のように飛び散らせ、霧散していく光景。

 

 

「……………………………………ぇ?」

 

 

 世界が静止する。色彩が暗転する。

 僅か数秒の出来事。それまで耐えていた他の者の動きも止まる。何が起こったのか、すぐに理解することができない。

 

 

「だ、だっかー…………?」

 

 

 その空間から消えた存在の名を、どうにか絞り出す。そして見渡す。どこにも、どこにも彼の姿がない。

 さっきまで彼がいた場所に散る光の粒子が、転がり落ちた彼の短剣が、それを見て呆然とする四人の顔が、全てを物語る。

 

 

 ────ストレアの目の前で今、ダッカーが命を。

 

 

『やめろおおぉぉおおぉぉぉぉぉおぉおおぉおぉぉぁああああぁぁぁぁぁあ────っっっ!!!!』

 

 

 瞬間、アキトの絶叫が木霊する。

 この空間全てに響き渡る獣の如き叫び声が、ストレアの耳を劈く。見れば、アキトが左手で頭を抑え狼狽し、直後その剣を持って再び暴れ始めた。

 まるでダッカーの死を感じ取ったとしか思えないタイミング────彼のその絶叫の意味を、ストレアは理解した。

 

 

 アキトは今、ストレアが見たものと同じ光景を見たのだ。

 彼と繋がったことによる副産物────ストレアの目を通して、ダッカーの死を、恐怖に怯え叫びながらその身体を散らした瞬間を目の当たりにしたのだと。

 

 

『邪魔だあああああああぁぁぁぁっっっ!!!』

 

 

 蔓延る全てを、殺意を持って消し飛ばす。脳裏に焼き付いて離れないそれを、現実と受け入れたりは決してしない。まるで誤魔化すように、ただ強がるように、ひたすらに剣を振り回す。

 けれど、如何に嘘だと否定しようと、見ないふりをしようと、それは現実だった。

 ダッカーが。ダッカーが、死────

 

 

『信じないっ……!』

 

「────」

 

 

 思考を遮り、否定する声。

 同じ光景を共有したはずなのに、それでもなお、震えながらその足を一歩前に押し出す彼の姿を見て、視界が歪む。

 

 

『……まだ、間に合う……まだ、みんな生きてる……!』

 

「っ……ア、キト────」

 

『なぁ……?そう、なんだろ?だから、俺を、ここまで……連れて来て、くれたんだろ……?だから……』

 

 

 残酷なまでの問いだった。

 嘘でも間に合うなんて、口が裂けても。

 歪んだ視界のまま、その唇が震え、泣きそうな声が零れた。

 

 

「──── 無理、だよ……もう……だって……!」

 

 

 一人、居なくなっただけであの世界は変わる。変わってしまう。もう二度と、アキトが望んだものは手に入らない。あのギルドのメンバーの誰かが欠けただけで、あの場所は二度と元には戻らない。戻せない。

 

 

『っ……があああああぁぁぁっっっ!!!』

 

 

 再び獣のような絶叫が世界に轟く。今目の当たりにした景色を杞憂にする為に、ただの幻覚だと信じる為に、再びアキトは走り出した。

 その間にまた、誰かの絶叫が聞こえた気がして、ストレアは堪らず耳を押さえた。アキトに届かぬようにと、聞いてしまわぬようにと。

 

 

『大丈夫……大丈夫だ……っ』

 

 

 ────まるで、自身に言い聞かせるように。それはまるで呪いのように。

 

 

『大丈夫……っ……そうだろ、キリト……!』

 

「……っ」

 

 

 キリトの名を呼ぶ彼の声に、思わず身体が震える。

 ストレアが仲間の危機を伝えてからアキトがこの迷宮区に足を踏み入れるまで五分足らずの速度ではあったが、結晶アイテム無効化エリアでのトラップならば生存は絶望的。

 

 それでもアキトがなお走り続けているのは、まだ誰も死んでいないと信じられるのは、皮肉にも羨望と嫉妬の対象であるキリトの存在があったからだった。

 彼女を守ると告げたキリトを認めているが故だった。信頼しているが故だった。だからこそ彼は信じない。ストレアを通して見えてる光景が、決して現実のものだと。キリトが、自身の望みを叶えてくれることを────

 

 

『────っっっ』

 

「っ……アキト!!」

 

 

 ────折り重なる剣技の中で、その片腕が宙を舞う。

 

 左腕が巨体の敵に斬り飛ばされ、破片となって崩れ散る。騎士のような鎧に身を包み、嘲笑うようにこちらを見下ろすその獣に、アキトはただ残った右腕を、その手に持った剣を叩き落とした。重力に逆らうこと無く、アキトの最大筋力値で振り下ろされたそれは、ストレアが見てきた中でも仮想世界最速最強一撃だった。

 アキトの体力ももう少ない。だが目の前の騎士の大振りの大剣が唯一の救い。躱して殺す。何の造作も無い。

 

 

『────遅せぇよ』

 

 

 人には決して向けない殺意。底冷えするような冷たい瞳。初めて見る彼の姿に、驚きはしても怯えはしない。藻掻いて、足掻いて、仲間を救う為に傷を作り続ける彼の願いが、ただ一つで良いから叶って欲しいだけだった。

 

 敵の気配が再び近付く。アキトは三度その剣を振って、全ての命を等しく奪う。簡単に、いとも容易く。

 斬って、斬って、斬り刻んで殺して、怒号と断末魔で不安を掻き消して。叫ぶアタシの声を頼りに、障害全てを押し退けていく。

 

 その歪な程に真っ直ぐな彼を見て、ストレアは耳を塞ぎ、彼だけを見続けた。アタシも信じない。何も見ない。彼だけを見て、信じるのだと。

 

 

「────お願い」

 

 

 二度と話せなくてもいい。見てるだけでいいの。

 繋がるのが、届くのが、これきりでも構わないから。

 

 

 お願いだから、間に合うって思わせて。

 

 

 

 この為に、アタシと彼が繋がったんだって。

 

 

 

 アタシがアキトを救うんだって。

 

 

 

 彼がサチを救うんだって、そう信じさせて───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、ストレアにはサチの声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────サチは最後まで、アキトの名を呼んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 

 

 

『……みんな。メリークリスマス』

 

 

 聖夜の黒鉄宮の中、黒猫団のメンバーの名前に横線が引かれた《生命の碑》を見上げて、アキトは小さく笑った。その言葉はきっと、黒猫団だけでなく死んでいった全ての者に向けての言葉だった。

 

『あ……ここじゃあ分からないかもだけど、外は雪が降ってるんだ。ホワイトクリスマスってやつ』

 

 カラカラと乾いた笑みを貼り付け、再び石碑を見上げる。

 ケイタ達の名前を改めて目視した後に、クエストでドロップしたアイテムをオブジェクト化させて彼らの前で広げて見せた。

 

 

『……そうそう、黒猫団のみんなにだけなんだけど、プレゼントがあるんだ』

 

『ダッカーは、この片手剣。敏捷値が高めだから、君によく合うと思う』

 

『テツオはこれ、ちょっと重たいけど、鎧防具だよ。前衛のテツオには、どっしり構えてもらう必要があるからね』

 

『ササマルは……これかな。ふふ、綺麗な指輪でしょ?女の子扱いしてる訳じゃないよ。実はこれ、筋力値を底上げできるんだ。与えられるダメージが少ないって言ってたの、思い出したんだ。だから……』

 

『……ケイタには、新しい武器が手に入ったんだ。リーダーはやっぱり、みんなよりちょっとだけ優秀な武器が無いとね』

 

 

 仲間一人一人の為のアイテムを、まるで供えるように碑に立てかけていくその後ろ姿は、死を受け入れて墓参りをしている家族そのものだった。

 その瞳は虚ろで真っ暗で、何も映してはいなかった。彼がどれだけ声をかけても、返って来る事は永遠に無い。独り言の声だけが静寂に響き渡り、反響するその木霊を鼓膜に受け止めてなお、狂ったように口を開き続けていた。

 

『……ねぇ、ケイタ。あの日買ったギルドホーム、色々考えたんだけど売ることにしたんだ。残して置くのもアリかもとは思ったんだけど……もう、あの家に帰る人は誰も居ないから。最近、漸く買い取り手が見付かったんだ。昔の俺達を思い出させるような、少人数のギルドだった。あまりにも似てたから、安値にしちゃったよ、はは』

 

 途切れ途切れになりながらも、これまでにあった事を楽しげに話す。勿論返事は無いけれど、もし彼が生きていたら、笑ってくれただろうか。

 責任感が強くて、仲間想いで、心配性で。ケイタが、一番リーダーに相応しかったとストレアも思ってた。

 

 

 なんで。

 

 

 どうして。

 

 

 ────なんで、救えなかったんだろう。

 

 

 ────なんで、間に合わせてくれなかったんだろう。

 

 

『さち』

 

 

 アキトの声は、乾いていて。誤魔化すような笑みを孕んで────震えていた。

 彼女の為にと抗った最後の戦いでさえ、望むものは手に入らなかった。その疲れも、絶望も疲労も、喪失感さえも、今は無い。

 彼女の名を呼び、不思議で綺麗な輝きを放つ宝石を、石碑の前に掲げる。

 

『これ、蘇生アイテムなんだ。ボスは俺一人で倒せたんだよ……?ずっと“強がり”だったけど……少しは、“強さ”に変えられたかな……?』

 

「────……っ」

 

 ずっと、アキトだけを見てきた。

 色んな感情を見せてくれる、面白い奴だと、それだけだった。知らなかったことを与え、教えてくれる存在だと、閉鎖的なこの空間で暇を潰してくれる存在だと、そう思っていた。

 

 

「……アタシ、は……」

 

 

 この感情は、何だろうか。

 今、自分の頬に伝っているのは、何だろう。

 

 

「……アキト……アキト……あき、と……っ」

 

 

 ────アタシが今、生まれて初めて泣いている理由は、一体何だろう。

 

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさいっ……!」

 

 

 自分はあの日、アキトをサチの死に目に会わせただけなのではないだろうか。いや、間に合ってないのだからそれすら叶わなかった。

 それとも間に合わないと分かっていて、見たくもない瞬間を見せただけに過ぎないのではないだろうか。

 

 それでも、声を届かせることしかできないストレアは、ただ彼に向けて謝罪の言葉を繰り返すことしかできない。謝っても、謝っても、何度それを繰り返しても足らない。彼には聞こえてない。届いてない。

 この無意味なやり取りこそが、届いてないと自覚して生まれる胸の痛みこそが、自分への罰なのだと思いたかった。

 

 ────どうして、自分は彼に謝っているのだろう。彼が悲しい想いをしてるって、どうしてそう思うのだろう。

 

 今まで、何度も何度も人が死ぬ瞬間を見てきた。そんな人ばかりで、自ら死を選ぶ人間が多くて、だからそれは悲しいことではないのだと思っていた。そう決めつけていた。

 

 ────生きるって、なんだろう。

 

 ────死ぬって、どんな感覚だろう。

 

 命は有限で、別れを避けられない。

 いつか必ず訪れるのに、それが来るよりも先に自分の手で捨ててしまえるのなら、大切なものではないのかと思っていた。

 もう二度と会えなくなるとしても、関係無いと割り切れるものなのかと思っていた。けれど、アキトを見ているとそれだけが一面ではないのだと、そう思えるようになった。

 

 生きるっ というのは、一言では片付けられない、分からないことばかりで、苦しい事ばかりで。

 人と出会って、繋がって、それが楽しくて。やがて居なくなって、取り残されて────独りになる。そんな彼を見て、考えさせられることや、考えたいこと、やってみたいことが、次第に胸に込み上げてきて。

 

 心がどれだけ人間に近付いたとしても、この身体に血が通うことはない。

 世界が続く限り、終わることの無い存在だけど。それでも、自分がアキトの隣りで生きてみたいと思うのは、故障だろうか。エラーだろうか。

 

 知りたい。彼を、人を知りたい。

 沢山の感情を、彼の傍で学びたい。彼を、独りにさせたくない。

 

 

 ────彼と、一緒に、いたい。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 それから二年の時を経て、まさかあんな風に一緒に世界を旅する日が来るなんて思わなかった。決して交わる事なんて無いと思ってた。見てるだけで終末を迎えるんだと思ってた。

 だから声を届ける事ができただけで、充分だったのに。

 

 会って、顔を見て、話をして。そうやって時間を傾けるにつれて欲が出て。一緒にもっとずっと一緒に居たいと、そう願うようになったんだ。世界が終わりに近付くにつれてその想いは肥大化していき、辿り着いた先に決意した誓いと、決断した別れが過ぎ去ったこの場で。

 アタシが手に入れたものって、何だったのだろう。

 

 ────ねぇ、アキト。

 

 ずっと、貴方を見てきた。

 この世界の創世から終末に至るまでの短い一生を、君の傍で過ごすと決めていたけれど。会って、言葉を交わして、同じ時を過ごせるなんて思ってなかった。叶わないって分かってた。だから刹那であったとしても、触れられない存在だったのに、話をして、共に笑い合う事ができて。

 

 奇跡かと、運命かと思ったんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────そうだ。アタシはただ、彼に救われて欲しかっただけだった。

 

 

「……っ!」

 

 迫る刃、突き出される槍の先端。殺意の台風、その眼の中心で、振り撒かれる悪意をいなし続けるストレアの研ぎ澄まされる剣技。紫電を走らせ、冷たい床を駆け、その一挙手一投足に周りの整合騎士が恐怖と焦燥に顔の色を変える。

 

 一対多数の中を、未実装のスキルを駆使して暴れ狂う。暴力を生み出した自分自身が、数多の暴力に立ち向かう術は誰もが初見の御業。困惑と混乱の中で、統率が完全ではない隙を穿つよう振る舞う。それでも藻掻き、これでもかと食らいつくプレイヤーに囲まれて、ストレアは笑った。

 

「……さっきまでとは、大違いだね」

 

「アンタの動きが鈍くなってるんじゃないの、ストレア」

 

「……っ」

 

 彼らがこうも足掻き、敵意を向ける理由など自分は既に知っている。その敵意を一番宿している彼女(・・)の姿を探しながら、ふと呟く。

 

「今のアンタなら、私一人でも殺せる」

 

「っ────」

 

 再び死角から呼びかかる冷たい声。

 射撃スキル独特のライトエフェクトの輝きを背中で感じ、反射的にその場から飛び退く。一瞬交わった彼女の視線がストレアの急所を貫いた。

 

 

射撃技《ターゲット・ウィーク》

 

 

 紙一重で通過する矢の連撃を弾き飛ばし、飛んできた方角に立つ射手を睨み付けた。向こうも同様に此方を睨み付ける────その瞳には、憎悪の炎を垣間見た。

 

「────次」

 

「……っ!」

 

 血盟騎士団の囲いなど構わずに、シノンはその矢を引き絞る。仲間をただの塵芥だとしか思わない、標的以外見えていない、そんな瞳を見てストレアは震えた。

 咄嗟に構えた反逆の剣(トレイター)を眼前に突き出し、手首捻る。回転する刃は次第に盾となってシノンとの間に壁を作り出す。それは、片手剣の中でも防御に即した《スピニングシールド》という妙技。

 

 

「────“撃ち抜け心臓(ストライク・ノヴァ)”」

 

 

 穿つ新星。爆ぜる光芒。盾など躊躇の理由にならない。

 閃光を帯びて勢い緩まず直進する最強の一撃に、再び剣で迎え撃つ。重なる刃と矢で引き起こされた火花と共に、斬撃を乗せた散弾染みたエフェクトがストレアの身体を斬り裂いていく。

 

「っ、が、ぁ……」

 

「まだっ……!」

 

 呼吸さえままならないストレア。その中で一歩、シノンは踏み出す。

 超至近距離での多重展開、引き絞る複数の矢全てが神々しく光り輝く。かつての仲間に躊躇さえ見せず、その瞳はただ一点ストレアのみを見つめて。

 

 

射撃技《ヴァレスティ・レクト》

 

 

 灼けるような高熱を帯びた閃光をその身に浴び、触れた皮膚が爆ぜるような感覚に目を細める。焼け焦げたような匂いと雑に溶けたコートを見据えてその実を翻す。

 唯一無二を連続で引き起こす初見の押収。その脚で何度も方向を変えつつ矢を捌き続ける。道中の騎士団の攻撃を幾度と無く躱し、弾き、体力を徐々に削りながら最大の脅威であるシノンから距離を取る。

 

「うおおおおおおおっっ!!」

 

「っ────……!」

 

 背後から聞き慣れない雄叫びに、思わずその身を反らせば、そのコンマ数秒には槍が通過する。視線を介せば、有象無象の血盟騎士。正義感からか怒りからか、はたまた死に直結する原因を絶やそうとする恐怖心か。

 瞳を揺らしながら、殺意を躊躇いながら突き出されたその槍を見て、ストレアは持ち主の腹部に鋭い蹴りを放つ。

 

「がっ……」

 

「はああああああああああっっっ!!!」

 

 プレイヤーが吹き飛び、更に別のプレイヤーが両手剣を振り下ろす。雑な交代(スイッチ)、即席にしては不意を突くに適した連携。舌打ちを混ぜながら躱し弾く。その隙をまた突くように騎士風情が追い打ちを狙う。

 数の暴力、個の押収。しかしながら統率が取れてる分、崩しやすい。綻び、隙間を縫うようにストレアはその剣を振るう、が────

 

「っ、ぁ……!」

 

 降り注ぐ連射に再び踵を返す。その矢の雨を切り払い、有象無象を蹴散らしながら、徐々に体力と精神力をすり減らしていく。身を振って回転し、勢い任せに剣技を振り抜く。光芒を纏う刃が矢と交わり火花を起こす。

 

「ぐ、ぅっ……!」

 

 何本かが再びストレアのその身を掠め取り、その身が地べたを跳ねる。冷たき声と視線に宿る殺意を躊躇無く乗せるシノンの瞳と再び交わった。

 これまで共に日々を重ねてきた中で、一度として見せた事の無い殺意。自分に向けられたものだと自覚して、小さく震えた。

 

「どうしたのよ?さっきまで私達全員を圧倒してた、あの勢いは何処に行ったのよ」

 

「……」

 

 無くなったのならそれでも構わない────そう言わんばかりにシノンは再び矢を引き絞る。此方に差し向けられた鏃を見据えながら、ストレアは再び剣を構えて立ち上がろうと、その膝に力を込め────

 

 

「……っ、ぇ?」

 

 

 ────どしゃり。

 

 ストレアは再びその膝を折り、俯せに倒れ込んだ。目の前で矢を絞るシノンでさえ口を開き、ストレアは自分の身に起きたことを正確に判断できずにいた。

 三度その足に力を込める。だがその力が全て外に逃げていくようで、糸の切れた人形のようで、身体が思うように動かない。

 

 その事実に、苛立ちが募っていく。歯を食いしばり、出鱈目な声を漏らしながら腕に力込めるていく。

 此処で倒れるわけにはいかない。何の為に彼らを敵に回したと思っている。目的の完遂は目の前まで来ているのだ。最大の障害であったアキトを殺し、後は残りを排除すればいい。

 そうすれば────

 

 

「アタシ、は……!」

 

 

 ────そうすれば。

 

 

「……アタシは」

 

 

 ────なんで、アキト達を殺そう思ったんだっけ。

 

 

 全ての根幹が揺れ、再びどしゃりと音を立て崩れ落ちた。意志とは裏腹に立ち上がることを拒否する身体。吐きそうなほど歪んだ視界の中、視線をどうにか左上に移動させ、体力が残り僅かなのを認識し、漸く自分が瀕死であることを自覚した。

 

 だが、ストレアにとってそんなことは瑣末事に過ぎなかった。自分の体力、命など惜しくない。どれだけ身体をボロボロにしようと、決して諦めない。

 アキトなら。アキトなら、きっと────

 

 

「……あ、れ」

 

 

 ────なんで、そんなことを。命が惜しくて、だから戦ってきたはずなのに。

 

 ────どうして今、ア⬛︎トならって。

 

 ────アキ⬛︎はアタシが⬛︎した。

 

 ────なんで殺⬛︎た。

 

 ────アタシは、この⬛︎⬛︎でしか⬛︎きられない。

 

 ────アキトと、⬛︎⬛︎に居られない。

 

 

「っ……頭、が……!」

 

 自己矛盾に頭を抑える。記憶が曖昧になっていく。自分の願いが、欲望が、根本的にかけ違っていく感覚に戸惑い、言葉にならない声が零れる。

 ノイズが走り、虫食いだった記憶のピースが、戦っていく中で見えてきた見覚えのない記憶の景色によって埋められていく。

 不明瞭だった視界が、靄がかかっていた頭が、次第に晴れていく。

 

 

「────ああ」

 

 

 ────そっか。アタシは。

 

 

 

 

「……終わりね」

 

 すぐ近くに、シノンの声と存在を感じた。今度は力を入れなくても、腕の力だけで上体を起こせた。ゆっくりと顔を上げれば、へたり込むストレアの頭蓋の直線上で、矢を引き絞る氷の狙撃手が立っていた。

 

「お、おい!シノン────」

 

「黙って」

 

 クラインの静止を遮り、彼女は一歩前に出る。その冷たい声音にどのプレイヤーもその身を強張らせ、これから起こる処刑を止められずに固唾を飲んでいた。

 リズやシリカ、リーファは戸惑ったままどうしたらいいか分からずにいて、フィリアは変わらず涙を流してこちらを睨み付けていて。そこに救いを望むほど、行ってきた非道が軽いものとは思ってなかった。

 

「……そう、だね」

 

「……酷い顔。殺すまでもなく死んでるみたい」

 

 睨み付けながら、そう言って嗤うシノン。その弓は震えることなく静止しており、彼女が如何に冷静かを突き付けてくる。アキトが死んだことに戸惑いはあっても、ストレアを殺すのに躊躇いを感じていないことが見て取れた。

 

「でも、私は貴女を殺す。自分の為に。……ゲームクリアの為に」

 

「……そう」

 

 取ってつけたような言い訳の理由に、場違いながらも笑いそうになる。復讐したところで死人が生き返ることはない。それでも、自分が死ぬ事で彼女の憂さ晴らしくらいにはなるだろうか。

 少なくともアキトの為だと言わない彼女は、まだ人間らしいと言えるだろう。

 

 

「────……アキト」

 

 

 ────さっきまで見てたのが、走馬灯ってやつなのかな。

 

 

 76層に来て、覚えてないことの方が多かった。記憶が混濁して、自分どういう存在だったのか、どんな人生を送ってきたのかが欠落して、どうしようもなくて。それが、さっきまで見えていたもので繋がっていく感覚を抱いていた。

 

 記憶がなくても、使命を忘れても。それでも、アキトのことだけは知っていた。その海馬に刻まれ、魂が覚えてた。

 あの過去があったから、彼をずっと見てきたから、アタシは彼と話がしたくて、彼と一緒に笑い合いたくて、彼の支えになりたくて、彼の味方でありたくて。

 

 

 ────ああ、そうだよ。アタシは。

 

 

「……きだった」

 

 胸が高鳴る。何度も、何度も、彼を見る度に。

 自分の知らなかったことを、彼が無自覚に教えてくれる度に。聞こえてないとしても、その声を届ける度に。優しい表情を見る度に。

 

 “窓”の向こうにいる、決して触れられないに彼に恋をする。

 叶わなくても、届かなくても、何度でも。この電脳の存在は彼に恋焦がれる。

 愛おしい、愛おしいのだ。苦しくて、堪らないのだ。

 

 ────何があっても、彼の味方でいたいのだ。

 

 

「……何、を……してたんだろ……アタシ……」

 

 

 ────ただ、アキトとずっと一緒に居たいだけだった。

 

 彼と一緒に居たくて。ずっと一緒に居たくて。

 でもこの世界でないと、きっと一緒には居られなくて。この世界でないと、きっと自分は生きていけなくて。

 

 だから世界を壊させないようにと、それだけの戦いだった。

 アキトと────みんなと、できるだけ長く一緒に居たいが為の戦いだった。生きていたいと思える理由を、自分は殺してしまった。

 

「────」

 

 頭を垂れ、俯く。全てを諦め、受け入れた。前方の矢によって頭蓋を貫かれ、殺されるその瞬間を待ち構える。

 もしも天国なるものが存在したとしても、仮初の魂でしかない自分が彼や彼女と同じ場所に行けるだなんて、露ほどにも思ってはいないけれど。

 

 もう、生きている理由なんて。

 彼はもう、この世の何処にも────

 

 

「────……」

 

 

 沈黙の刹那が、何もない時間が酷く続いた。

 あるいは永遠とも感じられる時間が、困惑と焦燥感をその胸に押しつけてくる。誰も一言も喋らず、矢が飛んでくる気配すら感じ取れない────そう思った瞬間だった。

 

 ────自身の頭が翳ると同時に、すぐ目の前に誰かの存在を感じた。

 

 冷たい床に視線を落とし続けていたストレアの視界が、暗く染まる。自分と殺意の鏃の間に、何かが割って入ってきた。

 その存在を確認すべく、その顔をゆっくりと上げる。視線が、段々と上に傾いていく。

 

 見間違うはずもない、その亜麻色の髪を。全身を白い衣装に染め上げた、最速の剣を。

 

 ────きっと、ストレアは見るまでもなく初めから知っていた。

 

 

「……アスナ」

 

 

 その背中が、かつて自分が焦がれた存在と重なる。ストレアのその瞳は、自身が映し出したその幻影に揺らめき、彼女の名を呼ぶその口元は震えていた。

 

「……シノのん。もうやめよう?」

 

「っ……アス、ナ……」

 

 彼女の乱入が予想外だったのか、シノンの弓が初めて揺れ動く。周りも動揺でざわめき、二人のやり取りを傍観することしかできずにいた。

 だがその間、シノンはその弓を構え直し────アスナを見て、睨み付けて、今にも暴発しそうな感情をどうにか押し殺したような表情と声で、わなわなと唇をと向けた鏃を震わせながら、それでもどうにか冷静に努めようとして、告げる。

 

「退いて」

 

「……退かない」

 

「っ……退いてよっっ!!!!」

 

 ────彼女の悲痛な叫びと共に、その矢が放たれる。迸る光芒が槍のように鋭く形を取り、アスナのすぐ傍を爆音と共に駆け抜ける。被弾した壁は火花を散らし、容易く亀裂を生み出した。

 

 一歩間違えれば直撃していたかもしれない。その威力は死に至らしめるものだったかもしれない。だが、そんなまるで癇癪玉のようなシノンの痛ましい姿を前にしても、アスナはただ真っ直ぐで。

 

「こんなの……アキト君は望まない」

 

「そんなのっ……関係ないわ、アイツはもう死んだ……っ、死んでしまったの!アスナが……アスナが今、庇ってる奴のせいでっっっ!!」

 

 泣き叫ぶような荒らげた声。無表情を保とうとする彼女の瞳に、大粒の涙が溜まっていることにようやく気が付いた。

 アキトが居なくなって、彼を知っている人間が悲しまないはずがない。彼が死んで、親しかった人間が泣かないはずがない。

 

 彼女の顔は、かつて仲間を失った時のアキトと同じ顔だった。

 漸く思い出した自身の記憶。かつて救えなかった後悔を、自分は彼女達に繰り返していたのだと、漸く理解した。

 

「シノのんに……友達に、誰かを傷付けて欲しくない。アキトくんだってそう思ってるよ」

 

「っ……やめてよ……アキトの名前を出さないで……そんな顔で、私を見ないでっっっ!!!」

 

 再び放たれた矢は、アスナの足元へ突き刺さる。衝撃による風圧が彼女の亜麻色の髪を撫で上げ、ストレアは反射的に目を瞑る。

 風が止んで目を開くと、アスナの立ち位置が僅かに動いていることに気が付いた。矢の正面に立つ彼女はまるで、こちらを庇おうとしているみたいに見えて────ストレアは思わず、口が動いた。

 

「……退いていいよ、アスナ」

 

「……嫌。退かない」

 

「っ……アタシを、許そうって思ってる?」

 

「……まだストレアさんから、何も聞いてないから。アキトくんも、きっと同じことをすると思うから」

 

 ────アスナの声音は、泣きたくなるほど優して。

 胸の内の混乱と、煮え滾る激情が綯い交ぜになるのを感じながら、その唇を歪めてみせた。

 

「っ……アスナは、真っ先にアタシを殺しにくるって思ってたのに、見当違いだったかな……アキトのこと、好きだったクセに……」

 

「……そうだね。好きだった」

 

 ────アスナの返事には、責め立てる言葉が何一つなくて。

 怒りさえ感じない彼女の声に、罪の意識が鉛のようにのしかかって来て、苦しくて、解放されたくて。

 

「なら……なら、好きな人が死ぬのは二度目だし慣れたってことかな……ああ、それとも、キリトほど想ってるわけじゃなかったってことかな……?」

 

「……ストレアさん」

 

 ────振り返ったアスナの顔は、惨めになるほど優しく見えて、悪態を吐こうとした喉が潰れそうな程に痛んだ気がした。

 

 違う。こんなことが、こんなわざと怒らせるみたいなことが言いたかったわけじゃなかったのに、それを聞いていたアスナは、それでも────

 

「……なんでよ。なんで、何も言わないの……」

 

 アキトは、もうこの世の何処にも居ない。殺したのは、他でもないアタシだ。さっきの悪態も、何も言ってくれないならいっそ責めて責めて責め切って、殺された方がきっと楽かもしれないと思わなかったわけじゃなかったからこそ零れたものだった。

 

「……アキトを、アスナ達を襲ったのは……自分の為だよ。自分が良ければ、それで良いって奴なの、アタシは。……けど、意味無かったみたい……アタシの願いは叶わないって……アキトが死んで……漸く、分かった」

 

 確かに、ストレアはアキト達に何一つ自分のことを話してこなかった。どうしてと聞かれても、話す選択肢なんて初めから除外していた。

 分かるはずがない、叶うはずがないと、勝手に決めつけていた。彼らからしてみれば、仲間だと思っていた存在から理由も語られずに殺されかけただけだった。

 

「……ここで見逃せば、また次の層で同じことが起きるかもしれない……シノンの、言う通り……ここで、殺した方が……気持ちが、晴れるなら……っ」

 

 胸中に溜まり切った子どものような我儘を吐き出して、ストレアは上体を支えている、自身の震える腕の力を緩めた。

 吐き出し切ってなお、自責の念が消えることはない。吐き出したら少しは軽くなると思っていたのに、それが薄れることすらなく絶望する。そのうえ、言葉にして漸く自覚した自らの愚かしさに、羞恥で死にたくなるほどだった。

 

 そしてそれだけの汚濁をぶちまけておいて、彼女達に対する謝罪よりも、失ったものの大きさに絶望する自分のことばかり考えている、その弱さがなによりくだらなかった。

 

「……はは、もう……動かないや……」

 

 変わらず身体は上手く動かせない戦意無きプレイヤーに、アバターは操れない。自分で生きる目的を消しておいてそれがないから生きられないなんて、虫のいい話だった。

 

 いや────そもそも、この身体に血の通わない自分は、初めから彼と同じ意味では生きていなかったのかもしれない。曖昧だった記憶を追いかけて、集め切って、思い出して────自分は初めから、彼らと何一つ同じではなかった。

 彼らと一緒に生きていたいなんて、初めから叶うものじゃなかった。それなのに、ただ無意味にアキトを手にかけた。

 

 それなのに────それでも変わらない彼女のその表情が、泣いて泣いて泣き腫らした赤いその目元が、ただストレアの罪の意識を重くしていく。ストレアは最早アスナを直視することさえできない。

 

 

「……ねぇ、ストレアさん。シノのん」

 

 

 アスナは武器を抜くことも、その場を立ち去ることもせず。殺してくれと願ったストレアの言葉を聞いて、アスナはとうとうストレアを見限ることをしなかった。

 

 

「……私、ね。団長を────茅場晶彦を殺したいって思ったこと、あるんだ。何回も」

 

「────……っ」

 

 

 涙が混じる優しい声のまま告げられた思いもよらない告白に、ストレアは顔を上げた。静かに、訥々と、押し黙り呆然とするストレアや彼らを前に、彼女はそう零し始める。

 

「自殺を考えるくらい、キリトくんが大切で……自分で死ねないなら戦って死のうって思ったりして……そうやって周りを巻き込んで……それでも、そんなの知らないって顔して……」

 

 何も口を挟めずにいるストレアの前で、引き絞る矢を震わせながら涙を目に溜めたシノンの前で、たたみかけるように続ける。

 

「キリトくんは、私にとって……此処で過ごした二年間の意味で……生きた“証”だった。彼と出会う為に、あの日ナーヴギアを被ったんだって……ずっと……ずっと、そう思ってる」

 

「……だから、なによ……そんなの、私も同じだった……私にとって……私にとっては、アイツがそうだったのよっ……!!」

 

 感情的に叫ぶシノンの鏃が僅かにブレる。アスナの立つその隙間から、背後にへたり込むストレアに向かってその矢が放たれ────それを、アスナが身代わりに受け止める。

 

「ぐっ……!」

 

「なっ……!?」

 

「っ!?あ、アスナ……!!?」

 

 ストレアを庇い、貫かれた右肩の不快感に顔を歪め、アスナのその体力が減少するのを見てシノンが目を見開き、リズが叫ぶ。周りがざわめき、混乱する中で、それでもアスナは、笑って言葉を紡ぎ続ける。

 

「っ……キリトくんが居なくなって……私の中で、キリトくんの記憶が色褪せていくのが怖くて……キリトくんは、もう居なくて……生きる意味が無いと思って……でも、でもアキトくんは……それでもいいって、変わらなくていいって、言ってくれた……」

 

「っ……なんでよ……やめてよ……」

 

 一歩、一歩、アスナはシノンに歩み寄っていく。仲間を傷付けたことで、構えていた弓が震え、足が竦み、これ以上聞きたくないと耳を塞ぎ、それでもアスナは変わらない。

 

「……生きる意味を無くした私に、誰かの生きる意味になれって……そう言ってくれた……そうやって人のことばっかで、寂しそうに笑う顔しか見たことがなかったアキトくんの、生きる意味になってあげたかった……」

 

 アスナはきっと、刹那的に生きるアキトを、誰よりも見てきた。76層で初めて出会い、キリトに似たその雰囲気に踊らされ、振り回されて、いつしかキリトとは違うのだと突き付けられてなお、彼の傷付く姿に心を痛めて。

 

「……そんな話、しないでよ!アキトは、アキトはもう────」

 

「アキトくんは、ずっと此処にいる。私の、すぐ傍にいた……彼に教わった生き方に、こう在りたいと望むその中に……っ」

 

「……っ!」

 

「アキトくんに誇れる自分で在り続けていられる限り、私の中で彼が消えることはない。私はっ……私、は……!」

 

 自分の胸を抑えて、想いを絞り出して。その万感の想いが言葉にならなくて、声にならなくて。

 目に溜まっていた涙が、ぽつりぽつりと溢れ出して、止まらない。

 

「……キリトくんが居なくなって……何度も死のうとして、その度に救われて……そんな、っ……そんなアキトくんに憧れて……焦がれて……誰かを助けるアキトくんを、たすけて、あげたくてっ、……あの人の隣りに行きたくて……」

 

 ────止められない。声にせずにはいられない。

 とめどなく溢れ出る涙を、何度何度も両手の甲で拭いながら、それでも伝えたいことを、必死になって吐き出して。

 

「アキト、くんは……アキトくんは、私にとって……っ、私にとって、これからも生きていくと決めた意味で……生きていく“力”なの……っ」

 

「────」

 

 キリトは彼女にとって、これまでの二年間の意味であり、生きた証。そしてアキトは彼女にとって、これからを生きていく意味で、生きる力。

 何も言えず、ただそれを聞いていただけのストレアの瞳に伝う涙。止まっていた時間を、凍りついていた心を、甘やかに溶かしていく。

 

「シノのんの中にも、きっとある……っ、それを『もう死んだ』なんて、そんな簡単に消さないで……!」

 

「……っ、そんなっ……月並みな言葉で……!」

 

 変わらず近付くシノンとの距離。苛立ちと焦燥と、後悔と恐怖。綯い交ぜになって突き出された矢。止まらない震え、軋む弦。アスナとシノンは、同じ顔をしていた。

 大切な人を失い、絶望に侵され、泣いて泣いて泣き腫らしたから。

 

「────……っ、ぁ」

 

 ────その弓を構えた彼女の手に、アスナの指が触れた。その熱がシノンの何かに触れて、溶けていく。引き絞る腕の力が弱まり、やがて手から離れた弓と矢が、音を立てて落下した。

 

「……いま……アスナが、アキトに重なって見えた……」

 

「え……」

 

「……やめてよ、ホント……アイツと何にも変わんないんだもん……アイツの前で……人殺しの私なんて、見せられない……」

 

「……シノのん」

 

 シノンにも────そして、ストレアにも。きっと、周りの誰しもがそうだった。ストレアを庇う動き、立ち姿に、かつての勇者を見た気がした。

 アスナの意志として、彼がまだ存在しているのだと、訴えてきた気がした。

 

「ごめんなさい、アスナ……痛かった……?」

 

「ううん、平気……私の方こそ、ごめんね……っ」

 

 傷付けて、謝り合って、散々泣き腫らした顔は赤くて、ぐちゃぐちゃで。鏡写しのような二人は、互いの顔を見て笑い合った。

 そうして一頻り笑った後、シノンは自身が傷付けたアスナの右肩に触れ、撫でるように労り、俯いた。

 

「……ねぇ、アスナ。私も、アイツに会えるかな……?」

 

「アイツに教わったこと、たくさんある。だから……だから、私もアイツの生き方を追っていきたい……そしたら、私も会えるかな……?」

 

「っ……うん……うん、勿論だよ……っ」

 

 彼と同じ生き方をすれば、その隣りに彼を見ることができる。アキトは、常に自分たちの隣りにいる。体を寄せ合って、涙を流しながら微笑む二人を見て、ストレアの頬にも、とめどなく溢れるものがあった。

 

「あ、れ……アタシ……」

 

 なんで、泣いているのだろう。

 アキトが、もう居ないからか。アスナが自分を守ろうとしてくれたからか。誰も責めてくれないからか。誰も自分を見てくれてないからか。リズやシリカが、リーファやフィリアが、クラインやエギルが駆け寄る彼らの輪の中に、もう自分の居場所がないからか────

 

「……ストレアさん」

 

 不意に呼ばれる声に、肩が震える。

 目の前までアスナが間合いを詰めてきて、その細い膝を立て、視線を合わせる。最早逃げる気力も、戦う意志も持ち合わせていないストレアは、漸く罰が下る時間かと構えた。

 

「────……っ、ぇ」

 

 俯いて動けないストレアの首に腕が回された。引き寄せる力は強くないのに、無抵抗のストレアは為す術なく彼女に抱き締められた。わけも分からずに固まり、呆然とその温かさを感じ取る。

 すぐ隣りで彼女の声が響くのを聞きながら、

 

「私達の助力は、貴女の抱えてる問題を解決できるものではないのかもしれない。私達はただのプレイヤーで……きっとストレアさんの望むものの為の支えには、ならないのかもしれない」

 

「────」

 

「アキトくんが私にくれたもの……どれだけストレアさんに教えてあげられるか分からない……けれど、それでも私はこの先ずっと貴女と、みんなと共に在りたい……一緒にいたいと思ってる」

 

「────」

 

 回された腕が、強く、優しく。温かな感触が、伝わる熱が、存在しないはずの心臓の鼓動を、より一層に感じる。ストレアの胸の内に、言葉にできない感情が膨らんでいく。

 動けずにいた手足に血が通い出し、視界と脳内を埋め尽くしていたノイズが、段々と晴れていく感覚。

 

「アキトくんが望むからじゃない。アキトくんを見てきて、アキトくんの傍で戦って、一緒の時間を重ねていって、私もそう想えるようになったの。彼に多くのものを彼に与えてもらった───生き方を、教えてもらった。だから……だからね、分かるの」

 

 変わらず涙声で話すアスナは、それでもその笑顔を崩していないだろうと、そう思えた。

 

「アキトくんはきっと───みんなで笑える明日が欲しかった。だからその為に、貴女は絶対にいなきゃいけない存在だった。……誰か一人欠けてもダメなの、ストレアさん。私達の求める明日には、貴女がいるのが当たり前なの。そんな彼の意志と一緒にSAOをクリアするのが、今の私ができることで、生きる意味」

 

「────……」

 

「だから……だから、ね……ストレアさん……」

 

 抱き締めていたその腕を解き、ストレアの正面に顔を合わせる。目元が潤んで真っ赤な彼女の顔が、泣きたくなるほど優しくて、温かくて。

 その姿が、彼女の在り方が、その言葉の真摯なまでに自分を仲間だと肯定していたから、

 

 

「だから、貴女のことを決して投げ出さない。絶対に見捨てたりなんてしない。必ず、私たちが貴女の力になる。なってみせる。だから────」

 

 

 ────差し出したその手は、震えてなんていなかった。

 

 

「だからこの手を取って、ストレアさん。一緒にいよう?」

 

「…………………………っ、ぁ」

 

 

 散々迷って、何度も悩んで、狂おしいほどに戸惑って、泣きたくなるほど何もかもを諦めて、なけなしの覚悟と情けないほどの勇気を手にして、そうしてこの場所に立っていたはずなのに。

 

 なんで自分は彼らと違うのだろうかと、どうして彼らと戦わなきゃいけないのだろうかと、話したところで何も変わらないだろうと、話してどんな風に思われるだろうかとか、自分のことばかりで、こんな当たり前のことに今まで気が付かなかった。

 

 

 ────アタシはきっと、この言葉が欲しいだけだったんだ。

 

 

 おずおずと、躊躇いがちに伸ばされ、引っ込めそうになったその手を────アスナが掴み取ってくれた。その力強さと優しさが秘められた、アキトによく似たその腕が、あまりにも愛おしくて。

 

 

「……あ、すな……アタシ……アタシ、ね……」

 

「────おかえり、ストレアさん」

 

 

 ────ポロポロと零れ落ちる涙。

 言葉にしたいことが、たくさんあったはずなのに、呂律が回らなくなるほどに色々なものが込み上げて、自分ではどうにもならないその涙を、向かい合うアスナが裾で拭って、優しく微笑んで。

 

 

「アンタがっ……なんでアンタが泣くのよ……泣く資格なんて、アンタにはっ……!」

 

 

 弱々しく、倒れそうになりながらも、もう殺すつもりなどなくても、言わずにはいられない。そんなシノンをリズとフィリアが抱き留め、抱き締め────そうして、誰もが涙を流していた。

 

 

 ここに居る誰もが、彼を────アキトを、大切に思ってくれていた。

 ストレアは、かつてアキトが望んでいたものを、欲しかったものを、この場所で漸く見た気がした。

 

 彼が求めていたもの。縋っていたものに、本当は、自分もなりたいだけだった。

 

 

「……アキト」

 

 

 ────ねぇ、アキト。

 

 今更、ずっと会いたかったって言っても、手遅れかな。

 恋してたって言っても、信じて、貰えないかな。

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

 

 

 ────これで、良かったんだよね。

 

 シノンの殺意を抑えて、ストレアを助けて、みんなでこの世界をクリアする。その為の行動をしたいと思った。そう在りたいと願った。

 リズベットとフィリアに介抱されて漸く落ち着いたシノンを見て、自分の目の前でポロポロと静かに泣いているストレアを見て、仲間を失った事実に歯噛みするクラインやエギルを見て、アキトならもっと上手く、誰も傷付けずに済んだのかななんて、そんなことを考えて。

 

 それでも────結果の善し悪しがあったとしても、彼が望んだはずのことができたのだと、それだけは確信を持って誇ることができた。

 

「……終わったよ、アキトくん」

 

 ストレアを抱き締めながら、変わらず止まらない涙を流し続けながら、ふと天井を見上げる。既に霧散し消えていったアキトの光の残滓が少しでも残ってくれていれば、今の今まで自分たちを見てくれていたのではないかと、そう思えたのだけれど。

 

 ────そっか。もう、居ないんだ。

 

 アキトがもう、この世の何処にもいない。

 自分の生き方一つで、いつだって隣りに感じることができると信じているけれど。もう彼の顔を見て、言葉を通わせ、触れ合うことは叶わないのだと、それを痛感する。

 

「……っ、ぁ」

 

 ────枯れ果てるかもと思った涙が、嗚咽が、再び込み上げてくる。

 彼を心の底から笑わせてみたいと思っていた。美味しいものを作って、キリト以上に喜んで欲しいと願っていた。ユイともっと仲良くなって欲しかった。隣りに居させて欲しかった。伝えたいこと、言わなきゃいけないこと、余すことなく全て伝えさせて欲しかった。

 

 ────好きだった。

 

 ────淡い恋を、していた。

 

 

 ────アキトと、もっと一緒に居たかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────それが、君の望みか?」

 

 

 不意に、そんな声が静寂を裂いた。

 驚くほどに透き通ったその声音は、人間の感情の根源から恐怖を引き摺り出し、底冷えするほどの何かを感じた。

 

 悪寒が、アスナの背中を駆け上がった次の瞬間、部屋の中心からまるで鎖が床を削るような轟音と、微かな風が巻き起こる。

 

 

 ────直後、

 

 

「……………………………………ぇ、ぁ?」

 

 

 ────何かが肉を抉るような不快音。

 鮮血舞うかのような赤いエフェクトに視界が染められ、それが生まれた場所へと視線が集まっていく。その先で────

 

 

「……すとれあ、さん?」

 

 

 背後から伸びたその剣が、ストレアのその胸を貫いていた。

 

 

「君のその願い、僕が叶えてあげるよ」

 

 

 彼女を貫くその刃の先で、最初に聞いた声が聞こえた。この場と空気にそぐわない、冷たくて震えてしまいそうな声だった。

 

 世界から色が失われたかのような白い髪に、白い外套────この世の白は彼の為にあるとさえ思わせるその姿に目を奪われて、一瞬誰なのかを判断できなかった。

 

「……ぇ?」

 

 その顔、その瞳。忘れるはずがなかった。

 雰囲気の冷たさはかつての彼の影さえない。それでも、その名を呼ばずにはいられない。

 

 

「────アキト、くん」

 

「────やあ」

 

 

 勇者と同じ顔の少年が、悪魔のような顔で嗤った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.128『幽者(かすかにほほえむ、ほろぼすもの)

 

 

 

 








何年振りかの投稿。
何年経っても感想くれる方がいて泣いた。

END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)

  • ‪√‬HERO(キリトが主人公ルート)
  • ‪√‬BRAVE(アキトが主人公ルート)
  • ‪√‬???(次回作へと繋げるルート)
  • 全部書く(作者が瀕死ルート)
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