ポーションの補充、完了。
武器の耐久値、問題無い。
ウィンドウからティルファングを取り出し、その耐久値を確認し、再びウィンドウに仕舞う。
フロアボス戦の経験は殆ど無いが、その準備の手際の良さはまるで、長年最前線で戦ってきたプレイヤーのそれだった。
「っ……?」
突如、目の前の手の感覚が無くなるかのように感じた。
今日のボス戦は、何故かこの前のボス戦前よりも緊張している気がした。
なんとなくではあるが、その体は震えており、心臓が高鳴る。
常に死と隣り合わせのこのゲーム、日に日に強くなるモンスターを目前に戦う攻略組は流石の一言に尽きる。
こんな恐怖を、彼らは今まで76回も経験してきたのだ。
何故彼らは、こんなにも強くいられるのだろう。
『怖いか?』
「…怖くなんてないよ…誓ったろ…誰一人死なせないって」
その幻聴に乾いた笑みを零す。
そうしてアキトは、アスナの事を思い出した。
血盟騎士団の現団長であり、<閃光>の二つ名を持つその実力は本物だ。
現在のその攻略進行速度は驚きの一言で、彼女の表情は冷徹そのもの。
だがそれでいて、どこか悲哀に満ちていた。
キリトの死というその事実が、彼女の行動をここまでさせた。
だがそれは決して、 キリトの無念を晴らすための行動ではない。
キリトに会いたい一心での行動のようだった。
アキトはここに来る以前に一度、彼女の事を間近で見た事があった。
あれは確か、キリトと血盟騎士団の誰かが決闘をしていた時だったか。
キリトを心配する彼女の顔、キリトの帰りを待つ彼女の顔を。
そして、キリトの前で見せた、あの笑顔。
アキトは、それを素直に美しいと感じた。
この世界は、現実とは違う。そんな考えを揺らがせるくらいには。
誰かを思う笑顔はこんなにも美しいのかと、そう思った。
そして、その笑顔の理由がキリトだと知った時、何とも言えない気持ちになった。
だがそれは、決してプラスの感情では無かった。
キリトの隣りに人がいる事が。キリトが笑っている事が。どうしようもないくらいに嫌悪感を抱かせた。
何故、お前はそんなに笑っていられるんだ。どうして、何もかも忘れたかのように振る舞えるんだと。そこまで思った瞬間、ふと考えてしまったのだ。そうではないと、そんな筈ないと思いつつも。
キリトは、あの頃の事をなんとも感じてないんじゃないかと。
そう思ったら、今までやってきた事が無駄になった気がした。
けど実際はそんな事はなくて。
キリトはいつも周りの事を見ていて、人の事を思える人で。
だからここへ来た時に、キリトを慕う仲間が羨ましいと感じた。
自分とキリトは違う。
あの時はきっと、失望と、決別を込めた意味だった筈だ。
だけどここへ来て、キリトの仲間に触れて、その思いはきっと真逆なものへと変わっていた。
そして同時に羨ましかった。
キリトのようになりたいと、そう思った。自分も彼のように強く、守りたいものを守れるように。
だけどその願いすら、かつて自分が抱いていたものとは違っていた。
本当はずっと、独りでも生きていける強さが欲しかった。
いつからか、仲間がいる事を前提に考えていた。
いつからだろう。他人との繋がりを求め始めたのは。
いつからだろう。自分の望みが分からなくなったのは。
いつからだろう。誰かの笑顔を欲していたのは。
アキトはベッドから立ち上がり、その私服を装備へと変える。
黒いシャツに黒いレリーヴ。そして、黒いコート。
かつての英雄と同じ色を持つその装備を見て、アキトは静かに顔を伏せる。
(もし、彼女の傍に君がいたのなら…)
アキトは、そのコートを翻す。
宿の扉を、ただ静かに開いた。
下に降りると、そこにはいつものメンバーが何人か椅子に座っていた。
シリカやリーファ、シノンにユイ。そしてカウンターの向こうにはエギルが立っていた。
彼らはアキトに気付くと、各々が挨拶を送る。
「あ、アキトさん、おはようございます」
「おはようアキトくん」
「おはようございます」
「…ああ」
アキトはそう返すと、視界の端にいるシノンと目が合った。
その瞬間、昨日の事を思い出した。
あの時見せた弱さを、また思い出した。
それがたまらなく嫌だった。結局変われていないんだと、そう立証されたみたいで。
「…おはよう」
「…おう」
どうしてあの時、俺は彼女に。
そんな思考を振り払い、アキトはカウンターに座る。
彼女達は依然アキトを視界に収めていた。
エギルはいつものようにコーヒーを差し出す。
アキトはそれを手に取りつつ、エギルを見据えた。
「あと二時間後くらいには転移門集合だってな。アンタも参加すんのか、ボス戦」
「おう、まあな。お前も勿論参加だろ?」
「ああ…アンタ、商人じゃなかったのかよ」
「あ?そうだが?」
「それでもボス戦には参加すんだな」
「戦利品は欲しいからな。…前は毎回参加してたって訳じゃなかったんだが…今は、こうしなきゃいけねぇと思うんだよ」
エギルはそう言うと、寂しげに笑う。
それはきっと今の攻略組、ひいてはアスナを心配しての言葉だっただろう。
誰だって、今のこの状況をよく思っていないだろうから。
周りを見渡せば、ボス戦に参加するであろうプレイヤー達の何人かを確認する事が出来た。
彼らは装備をしっかりと整えた状態で食事を取っていた。
そんな張り詰めた雰囲気を、リーファもシリカも察しただろう。
「…なんか私まで緊張してきちゃったな…」
「あたしもです…」
「きゅるぅ…」
リーファとシリカはそう言って体を震わせた。
ピナも、シリカのそんな思考を読み取ったのか、体を忙しなく丸くした。
そんな彼女達を眺めた後、アキトは再びエギルの方を向く。
「じゃあボス戦中はこの店どうすんだ?閉めるのか?」
「あ…ああいや…」
「…?」
その質問をした瞬間、エギルの顔が強張るのを感じる。
あまり変わった質問ではないと思ったのだが、とアキトは首を傾げる。
するとエギルは困ったような表情で呟いた。
「普段なら店番を頼むんだが…」
「店番?」
アキトは周りを見渡す。
シリカとユイは年齢的に任せられる訳はない。リーファとシノンはここへ来たばかり、店を任せられなくはないが、きっとないだろう。
クラインはボス戦参加なので選択肢からは外れる。
ならば、自ずと答えは見えてくるが───
「…リズベットか。それで、何か問題でもあるのか?」
リズなら似たような職種だし、勝手も分かるだろう。
だがエギルのその躊躇いのような、焦りのような、どうしようもない表情が気になった。
しかし、次の言葉を聞いた瞬間、今度はアキトの顔が強張る番だった。
「アイツ、どうやら今日のボス戦に参加するらしい」
気が付けば、アキトはリズベット武具店へとその足を動かしていた。
その足取りはどんどん速くなり、否、既に走っていた。
何故こうも自分は必死になって走ってるのだろう。
いや、その言葉に意味は無い。
きっと、本当はもう答えを知っている。
ふと、エギルの店での会話を思い出した。
リズベットがボス戦に参加すると聞いて、椅子を倒す勢いで立ち上がってしまったのを覚えている。
『な…なんでそんな事になってるんだ…!?』
『俺達も最初は止めたんだけどよ…だけどアイツは譲らなかったんだよ。足でまといにはならないって言って…』
『アイツの経験値は全て生産職で得たものだ。モンスターとの戦闘経験は皆無に等しい、まともに戦えるとは思えない』
『……』
『…どうして止めなかった』
『アキト…さん…』
『ど、どうしたのアキト君…』
シリカとリーファのその小さい声に、アキトはハッと我に返る。
周りを見れば、そのアキトの雰囲気に呑まれたのか、皆怪訝な表情でコチラの様子を伺っていた。
アキトもそれを見て、次第に心が冷えていくのを感じた。
そうだ、何故自分は焦ってるんだ。
(どうして…こんなにも俺は…)
『…アイツも、色々考えたんだろうさ。だから…止められなかったんだ』
『…閃光は…止めなかったのか…』
『……心配は…してるだろうが…………』
その沈黙は、最早答えだった。
アキトはらしくないと感じながらも、その拳を握り締める。
どうしてアスナは、そんなリズの意志を見て見ぬ振りが出来るんだ。
どうして仲間を、蔑ろに出来るんだ。
どうしてもっと、真剣に向き合ってやらないんだ。
何故、自分独りで完結するんだ。
それは全て自分に問いかけられたものに感じた。
『…リズベットは…友達なんだろ…?…巫山戯るなよ…』
その言葉はとても小さい。
だけど、確かに周りには聞こえていた。
だからそれを聞いた彼らは、酷く困惑しただろう。
それは、今までのアキトのイメージを大きく変える言葉だったから。
「リズベット!」
「わぁっ!? …って、アキト?…驚かさないでよっ!?」
扉を勢いよく開け、中にいたリズを凝視する。
リズはいきなりの事で体をビクつかせていたが、アキトだと分かると、その怒りを顕にする。
だが、アキトにとって、そんな事はどうでもいい。
リズベットに聞きたい事だけが、頭の中を占めていた。
「…武器のメンテナンス?だったらちょっと待ちなさい、今片付けを…」
「今日のボス戦…参加するのか?」
その問いは、リズの行動を止めるだけの力があった。
しかしリズはすぐにまた動き出す。持っていた武器達をテーブルに置き、笑いながらコチラを向いた。
「何よ急にー、クラインにでも聞いたのー?」
「何だっていいだろ、そんなの」
「……そっか。ボス戦間近まで黙っててって言ったんだけどなぁー」
「それだけお前の事を心配してるんだろ。シリカ達も心配してたぞ」
「…意外ね。アンタの口からそんな言葉が聞けるなんて」
リズは二ヒヒと口元に弧を描く。
その楽観的な態度に、アキトの焦り、苛立ちが募っていく。
「大丈夫よ!私、こう見えてマスターメイサーなのよ?」
「生産職で稼いだ経験値だろ、戦闘で得たものじゃない。ボス戦、初めてなんだろ?」
確かに、メイス使いの少ない攻略組で、マスターメイサーである彼女の能力は今回のボス戦において役に立つ。しかしそれを念頭に置いたとしても、リスクが大き過ぎる。戦闘経験の浅いリズベットに、今回のキーであるメイスを振らせる訳にはいかなかった。
しかしリズは、なんて事無いといった顔で悪戯げにニヤける。
「誰だって最初は初めてよ。…もー何よ、心配してくれてるのー?」
「…知り合いに死なれちゃ、後味悪いだけだ」
「ちょっと!死ぬって決めつけないでよ!」
「…実際、死ぬかもしれない」
「…アキト…」
何をこんなに必死になって止めてるんだ。
独りでいいと、そう考えていたのに、どうしてこうも他人を気にかける。
いや、本当はもう理解している。
決して矛盾なんかじゃない。単に自分が認めたくなかった、怖かっただけで。
会って間もないが、アキトにとってリズベットという少女は、ここへ来て初めてフレンド登録した人間という関係以上に、どこかで失くしたくないものに変わっていたのかもしれない。彼女だけじゃない。シリカもエギルも、リーファにシノン、そしてユイも。
きっと、失いたくないもの。
だからこそ、また失ってしまうかもしれないものだった。
アキトは本当は優しい人間だ。
誰かを傷付けたり、馬鹿にしたりなど、決してしない性格で、だからこそ今まで無理をしてきたのだ。
だけど、だからこそ断言する。
もう過去と重なる光景を目の当たりにしたくない。同じ目にあって欲しくないのだ。それがリズだからというわけじゃない。きっと、目の前で誰かが死んでしまうかもなんて考えて攻略に望みたくない。
いっそ自分が世界最強の、全知全能の神のような強さなら、どれだけ良いだろう。
たった独りでボスを倒せる強さがあれば。周りを巻き込まなくて済むというのに。
そう思うのは傲慢だと分かっている。どれだけ不相応な願いを抱いているのかも理解している。
だけど、そう思わずにはいられない。
だって。俺は────
「…俺が行くから心配はいらねぇよ。
死んで欲しくない。
だけど、リズベットは折れなかった。
「そう言ってくれると助かるけど…あたしは行くわ、行きたいのよ。…アスナの事、放っておけないもの」
「っ…だから、それは俺が…!」
「…あたしね、アスナの攻略の様子を見たくてさ、シリカと一緒にクラインに連れて行って貰った事があるの」
「え…?」
それは、アキトがここへ来る前の話。
その時、シリカとクラインと共に見た彼女の顔からは、かつての笑みが消えていて。
飛び散ったポリゴン片、モンスターを見るその瞳が、あまりにも冷たくて。
「あんなアスナ…もう見てられない…見てるだけじゃ嫌なのよ…笑っていて欲しいのよ…あの娘の悲しみは、あの娘の問題なのかもしれない。だけど、ただ見てるだけっていうのは違うでしょ…?あたしがアスナに出来る事は少ないかもしれない。けどだからこそ、出来る事は精一杯やりたいの」
「……お前に出来る事なんて……武器作る事、だけだろ」
「…確かにあたしは戦闘に関しては、アンタ達よりも弱いし、何も出来ない普通の女の子かもしれない」
「だけどね」っとリズは顔を上げ、笑ってみせた。
「けど、普通の事くらいは出来るのよ?……友達を助けるのは……普通でしょ?」
「っ……」
その言葉は、アキトがかつて抱いていたものだった。
『誰かを助けるのに、理由はいらない』
今は亡き、父親の言葉。
それをどこかで守りたかった。
そんな綺麗事を、確かなものにしたくて。
誰もがきっと、見返りを期待する。
口では誤魔化していても。心からそう思おうとしていても。
きっと何処かで期待しているのだ。
だけどきっと、リズのこの言葉にそんな意味は無い。
そう思えた。
それはかつて、自身が抱いたものだったから。
彼女と自分は同じ、そう思ったから。
今回のボス戦で、例え死のうとするアスナを助けても、それは解決した事にはならないかもしれない。その場凌ぎに過ぎないのかもしれない。
だけど、リズベットにはそんなアスナを助ける事は出来ない。
でもだからこそ、今の自分に出来る事をしたかった。
「……けど、ね。やっぱりちょっと、怖いかな……」
だが、リズベットのその手は少し震えていた。
ボス戦は初めてだから。死ぬかもしれないから。
そう分かっても尚、リズベットはこの意志を変えない。
どうして、死ぬかもしれないと分かっていて、そんな事が出来る?
何が、彼女をそうさせるのか。
けど、理由は知っている。
彼女からはシリカと同じ、かつての英雄、その意志と影を見た気がした。
だからこそ、彼女のこの強い意志を捻じ曲げる事など許されない。
もう会えはしない、唯一無二の英雄、その意志を継いでいるように見えたから。
「……危なくなったら、エギルやクラインにでも守ってもらえば良い」
「……アキトは守ってくれないの?」
「は?あ、いや……俺は……」
アキトは顔を伏せる。
かつて守れなかった仲間を思い出して。
だけどリズはそんなアキトの前に達、小指を突き立て差し出した。
「もし、さ…あたしが襲われてたら、助けてくれる?」
そう不安気に聞く彼女の顔は、恐怖のせいか、目に涙が溜まっていた。
それはリズベットの、縋りたいものだったのかもしれない。
死にたくない。けど、友達を助けたい。
矛盾を抱えた、そんな彼女の。
「……俺は、守れない約束はしない主義だ」
そう言って、アキトはリズベットの小指に自身の小指を絡ませた。
守れない約束はしない。けどそれは、守りたいけど守れないから。
だけど、だからこそ。
そんな約束を守りたいと思う。
そんな覚悟を持った彼女に、誠意をもって応えたい。
「……だから約束する。必ず、君を守るよ」
「っ……!」
リズベットはその目を大きく見開く。彼女から見たら、アキトがキリトに重なって見えたのかもしれない。
やがて、涙を流し、その頬を緩めた。
恐怖に抗う、世界に抗うその彼女の笑顔は、涙に濡れていてもとても美しいと感じた。
俺は英雄なんかじゃない。だから、困っている人全てを助けるヒーローになんてなれない。
正義の味方なんてなれない。
だけど、この目に止まる人くらいは、自身の手を伸ばしたい。
リズベットを見て、そう思った。
『怖いか?』
怖くない。
あまり、舐めてくれるなよ、キリト。