ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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感想、指摘、アドバイス、願望、どしどし送ってください。


Ep.29 願う事は一つだけ

 

 

 

 

 

 

 ── 78層の迷宮区を、一匹の黒猫が駆ける。

 

 

 暗がりで先が見えない。未知の恐怖がアキトを襲う。だが構いはしない。この足を、止めたくない。

 途中に蔓延るモンスター達を躱し、その隙間を縫って走る。多数の時は切り伏せる。

 左手に持つは片手用直剣《ティルファング》。メンテナンスを怠っていたその武器は、もう耐久値が限界を迎えていた。

 それでも彼はその選択を変えない。武器よりも、失いたくないものの為に。

 

 

 「くそっ…ボス部屋はどっちだ…!」

 

 

 78層マッピング中に《ホロウ・エリア》に強制転移させられたアキトは、この辺りの地形、迷宮区の道を把握し切れてはいなかった。道に迷うのも当然なのだ。

 ここまで来れたのもかなりの速度だが、それでも、まだ足りない。

 

 

 「────っ!」

 

 

 いつの間にか背後にいたオークの斧による攻撃を躱し、その剣を横に薙ぐ。流石に魔剣、オークは一撃で破片と化した。

 このまま迷って、間に合わなかったらと思うと、途端に背筋が凍る。

 かつての過ちが、脳裏を駆け巡る。

 

 迷宮区を独り駆け抜ける、あの光景が蘇る。かつての記憶が、焼き付いて離れない。

 アキトの走る目の前には、多くのモンスターがポップし始める。その光景に、アキトは焦りを感じる。

 だけど、その足は止まらない。あの場所は、あの世界は。

 

 キリトの、大事なものだから。

 

 

 

 

 「『っ!そこを…どけぇぇぇええぇええぇえ!』」

 

 

 

 光の差し込む余地の無い迷宮区で、ティルファングは確かに光り輝き、目前のモンスター達を一掃した。

 そのポリゴン片を撒き散らす広場の先には、大きな階段が見えた。

 アキトは途端に目を見開く。恐らく、あれを登ればボス部屋に辿り着く。

 

 

『っ…!アスナ…!』

 

 

 「間に合え…!」

 

 

 ひたすらにその階段を駆け上がり、その走りは風を作る。

 頭の中はグチャグチャで、それでいて冷静で。このどうしようもない矛盾を無視して、それでも必死にその足を動かす。

 自身の思考と、そうではない何かが、完全に重なったような気がした。

 

 

 「…っ、あれだ…!」

 

 

 階段を上った先にあったのは、ただの一本道。暗がりに包まれ、その道の先に見えるものは闇のみ。

 だが分かる。この先にあるのがボス部屋だと。

 

 

 「────っ」

 

 

 気が付けば、アキトは再び走っていた。左手に剣を持ち、今までよりも速く、その道を駆ける。

 何故こんなに必死に走っているのか、自身でも考えてしまう。誰かの為に走る事など、もう無いものだと思っていたから。

 ずっと偽って、誤魔化して、何もかもを斬り捨てて行くものだと思っていた。

 失うくらいなら、二度と求めたりしない。けれど、それでも手を伸ばしてしまう自分が許せなくて。

 それでも彼らは、キリトの大切なものだから。

 

 そうして辿り着いたボス部屋の扉は、いつもより大きく見えた。その巨大な扉を見上げるアキトの瞳には、未だ闘志が宿っていた。

 アキトは、その扉に手を掛け、一気に押した。

 

 

 ────だが。

 

 

 

 「……!? …っ、…っ…!……開かない……!?」

 

 

 どんなに押しても、その扉は開かなかった。

 急に背筋が凍りついた様な気分に襲われ、アキトは焦りを抱き始める。目を見開き、驚愕を隠せないでいるが、それでも懸命に扉を押す。

 だがそれでも、扉は開かなかった。

 

 

 「っ…なん…で、だよ…!なんで開かないんだ…!」

 

 

 その問いに答えてくれる者はおらず、アキトはただ開かない扉を押すだけだった。そんなアキトの変わらぬ行為に、扉も応えてはくれなかった。

 そうして、アキトは思い出していた。今までのボス戦の事を。

 

 アキトが参加してからのボス戦において、結晶アイテムが使われていなかった事に、彼は疑念を抱いていた。

 アスナの乱心時も確かにピンチではあったが、転移結晶を使う場面はアキトのおかげで免れていたような部分はあったと思う。だが、回復結晶すら、ボス戦では使われていなかったのを思い出す。

 そして、74層のボス部屋は以前と違って結晶が使えなかったという話を下層で耳にした事がある。さらに、75層のボス戦も同様だった事も。

 74層、75層と結晶が使われておらず、そして76層以降も攻略組が結晶アイテムを使っていた場面をアキトは目にしていなかった。

 つまるところそれは、今後のボス戦では結晶アイテムが使用出来ない仕様に変わっているという事実へと、アキトを導いていた。

 

 

 「…そんな…事って……、嘘、だろ……?」

 

 

 アキトは乾いた様に笑う。扉に両手を添えつつ、目を開きながら、嘘であって欲しいと、神に願うかの如く。

 

 

 「…開けろよ」

 

 

 ポツリと、そう呟く。誰に言った訳でもない。だがそれでも確かに、怒りをぶつける様に、その扉を拳で叩く。

 

 

 「開けろよ……開けよ!…ここを開けろよ茅場ァ!」

 

 

 今はもう生きているのかすら分からない男の名を叫ぶ。この世界の創造主、神である彼の名を。

 そう。この世界に、自身に都合の良い神様などいない。それなのに、彼はその神に願いを乞うた。

 何度も何度も、血が出てしまうのではないかと、心配する程に壁を叩き、そして叫ぶ。

 

 

 「また奪うのか!俺から…アイツから!…早く開けろよ!おい!」

 

 

 アキトの脳裏を巡るのは、かつての仲間。そして、76層で出会った、キリトの仲間達。

 近付いてはならないと、一緒にいてはいけないと、心の中で感じつつ、どこか暖かみを感じるあの空間を。キリトがいなくても、彼を中心としたその世界を。

 その輪の中に、自分が入る必要は無い。

 だけど、それでも。守りたいと思うこの気持ちは、本物だから。

 

 扉は、開かない。

 

 知っていた。この世界で、自身に都合の良い願いは叶う事がない事を。

 感じていた。どれだけ願っても、頼んでも、現実は何一つ変わりはしない事を。

 理解していた。奇跡なんていう概念はこの世に存在せず、全ては数字の羅列だという事を。

 

 それでも、願わずにいられるだろうか。感じる事無く生きていけるだろうか。

 この世界は、紛うこと無き、もう一つの『世界』だと。

 

 

 「っ………頼むよ…」

 

 

 アキトはその扉に頭を付け、そのまま下へと崩れていく。

 理解していた。だからこそ、この扉は決して開かないのだと気付いてしまった。

 世界は残酷なのだと、誰かが言った。

 その世界は、まさにこの場所なのだと知った。

 

 

(あの時と…同じ…)

 

 

 前もこんな風に、開かない扉を叩いた事があったような気がする。かつての記憶が、今と重なる。モンスターを無視して、斬り捨てて。求めるものの為にひたすらに走って。

 あの頃は、凄く弱虫で、泣き虫で。失いたくないものの為に必死に泣き叫べていたのに。

 今目の前の扉は、自分の願いを叶えてはくれなくて。叩いた勢いで開いたりはしてくれなくて。

 今、何かを諦めてしまいそうで。

 自分が『独り』なのだと、感じてしまいそうで。

 

 アキトは扉から頭と両手を離して、へたり込んだその場所から扉を見上げる。

 見上げる程に大きいその扉にはまるで、見えない門番が立っているようで。

 そして、その顔を下に向け、乾いた声でつぶやく。

 

 

 「……俺には…もう…」

 

 

 為す術が無い。自分はゲームマスターでもなければシステムでもない。ただのプレイヤーだ。

 このゲームを楽しむ為に現実世界からやって来た、デスゲームの奴隷。このデータの塊の中のデータの一つ。

 手に持つ剣も、黒いコートも。全ては数字の羅列。目の前の扉は、彼の意志で開いたりはしない。

 なら、もう諦めるしかないじゃないか。

 

 

 「何も…変わってなかったんだ……なんにも…」

 

 

 一年前からきっと、自分は何も変わってなどいなかった。変わったのは態度だけ。それも自然なものではなく、意志によって変えただけの紛い物。

 弱いから、いつも仮面を付けていた。

 強がりという名の仮面を。

 そうすれば過去の自分が消えたつもりになれたから。

 だけど、それは偽りの強さで、決して自身のものでは無い。

 自分はずっと、人との繋がりを、欲していたものを二度と失わない為に、かつての仲間を裏切らない為に、仮面でその境界を隔てていただけだった。

 そうやって、逃げ続けていただけだった。

 シリカから、リズベットから、クラインから、エギルから、ユイから、リーファから、シノンから。

 もしかしたら、ストレアとフィリアからも。

 そして、アスナとキリトからも。

 それでも、その強がりを続けていれば、いつかは本物になると信じていた。

 いつか、嘘が本当になる日を、ただ待っていた。

 待ってる、だけだった。

 

 

 俺は、何か一つでも、彼らにしてあげられただろうか。

 

 

 何も、出来ていない。ずっと、一緒にいられると思っていたから。

 

 

 このまま、現実世界に帰れると思っていたから。

 

 

 時間は、残されていると思っていたから。

 

 

 「…こんなにすぐに居なくなるなんて……思いも、しなくて……」

 

 

 ここまで走って来た。それでも、また間に合わなかった。過去の事を繰り返し、変化無き自分を痛感する。

 泣いても、時間は戻らない。目の前の扉も、きっと開かない。

 ポツリと呟く声も小さく、迷宮区には響かない。扉の向こうの状況だって変わりはしない。

 ユイと、シノンと、約束したのに。きっと、アスナを助けるって。絶対に、帰ってくるって。

 だから───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─── 信じてるから… ───

 

 

 

 

 「……え」

 

 

 ふと、俯いていた顔を上げる。勢い良く立ち上がり、扉から離れ、辺りを見渡した。

 周りには誰もいない。索敵にも反応は無い。けど、確かに。

 聞いた事のある声が、耳に届いた。

 決して間違えはしない。ずっと好きだった、大切な人の声。

 

 

 「……サ、チ…」

 

 

 アキトは目を見開いた。幻聴かもしれない。けど、そうは思いたくない。確かに聞こえたんだ。彼女の声が。

 それは明らかに非現実的な事で、それでも決して違うとは言えなくて。

 

 

 「…見てて、くれてるのか…俺を……」

 

 

 信じて、くれているのか。こんな、弱い自分を。

 ずっと、伝えたかった言葉があって。届かなかった言葉があって。

 受け取った言葉があった。

 彼女は彼の事を笑ったり、怒ったり、文句を言ったりしていたけれど、最後には『信じてる』と言ってくれていた。

 だからこそ、アキトはその期待に応えたかった。

 

 アキトはその足を、ボス部屋に向ける。見上げた扉は、やはりとても大きくて。

 右手と頭を扉に付け、その瞳をゆっくり閉じる。背中に、手が添えられているような感触がする。

 

 そして、その扉の向こうに、たくさんの命を感じた。

 

 

 ああ…誰かが泣いている。

 沢山叫んでる。

 たった一人を除いて、この強敵に抗おうともがいてる。誰も、諦めてなどいなかった。

 世界に挑み、現実へ帰る為に。

 

 

 「……キリト……サチ……」

 

 

 まだ、間に合うだろうか。

 この意志を、貫く事が出来るだろうか。

 

 

 「…もう一度、二人の力を当てにさせてくれないかな…」

 

 

 アキトは小さく、寂しく笑う。

 誰もいないこの迷宮区で、彼は懇願する。再び願う。

 同じ過ちを、二度と犯さんとする為に。

 

 

 「俺…一人じゃ何も出来ない…弱虫なんだ…だから…」

 

 

 だからこそ、この手を伸ばす。

 きっと、最初から間違っていたんだ。自分は、諦めてなんかいない。

 諦められなかったから、自分はここにいる。

 

 

 「俺…頑張るよ。これから先も、何度も何度も転ぶだろうけど」

 

 

 それでも。いつか誓った『約束』の為に。

 アキトは扉に触れた右手に力を入れる。今こそ、自分のしたい事をする為に。後戻りしない為に。

 思う事こそを、力にする為に。

 

 

 

 その扉からは、軋むような音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 78層、そのボス部屋。

 その場所では、今まさにボスとの戦闘が勃発していた。

 どれほどの時間が経っただろう。団体としての統率は愚か、個人の連携すら儘ならぬ様子が目立ち、彼らは皆、決して小さくないダメージを追っていた。

 

 

 「くっ…」

 「くそっ…!」

 

 

 そう呟くプレイヤー達の目の前には、その標的が立っており、その咆哮がボス部屋と、プレイヤー達を震撼させる。

 ボスは二足歩行ではあるが、見た目で言うならさしずめ闘牛。その巨大な角を持ち、銀色の胸当てを装備し、巨大な斧を有している。

 その牛ならざる巨漢は、ギラギラと目を光らせ、こちらを見下ろしていた。

 

 

 No.78 : 《The Horn Of Madness》

 

 

 アキトが《ホロウ・エリア》で戦ったマッスルブルホーンに酷似しているが、その大きさは恐らく倍以上。

 その巨大な斧からは、同じ斧を持つエギル同様、両手斧のソードスキルが放たれる。全方位攻撃で、攻略組のプレイヤー達は四方へと吹き飛ばされていくのだ。

 幸いにも死者はゼロ、ボスのHPも、残り1本にまで減少していた。

 だが、ボスはまだ余力を残している様で、その咆哮にも弱さを感じない。

 その立ち姿に、攻略組の彼らは怯えている様に見える。

 何人かは倒れ、地面に伏している。弱腰になる彼らには、攻略組の威厳を感じなかった。

 

 

 「このままじゃ…」

 

 

 リズベットはその状況の悪さに歯噛みする。

 自身は攻略組ではなかったから、詳しい事は分からないが、ボスの強さはクォーター・ポイントという例外を除けば安定していると聞く。

 だが、76層以降攻略組は全てのフロアボスに手を焼いている。

 アルゴリズムの変化も理由の一つではあるだろうが、それはきっと戦力の低下と意志の弱さによるもので、リズベット一人ではどうしようもない事だった。

 撤退しようにも、ボス部屋75層以降、一度入ったら出られない仕様という絶望的なものへと変わっている。ヒースクリフがそう言っていたらしいので、それは恐らく事実だろう。

 結晶アイテムも、今後は使えない。

 なら、このボス部屋は死ぬか生きるか、そういう世界に変わったという事。

 リズベットは、心が折れそうだった。

 クラインもエギルも、まだ諦めてはいない様だが、全滅も時間の問題だった。

 どうしてこうも上手く行かないのだろう。キリトがいないと、こんなにも違う。

 

 

(…アキト…!)

 

 

 キリトを思い出せば、自然とその脳裏には、キリトと良く似た少年の顔が映る。

 77層で自身が傷付けた少年の顔を。あの時の儚げな笑みを、決して忘れない。

 けど、もう二度と会う事も無い。

 

 

 アキトの位置情報のロストを確認してから、もう数日が経っていた。フレンド登録をしているプレイヤー自体が少ない為に、アキトのロストは公にはならなかった。

 シリカとリズベットとシノン、事情を聞いたリーファとクラインとエギルにも探してもらったが、結局アキトは見つからなかった。

 

 だが彼が不在の中始まった攻略会議では、彼の名前すら上がらなかった。それとは別にアスナは心做しか元気が無いように見えたが、会議は滞り無く進み、その輪にはアキトの居場所など無かった、アキトというプレイヤーは、初めから存在していなかったかのようだった。

 

 そうして初めて、アキトがしてきた事の辛さを理解した。

 自身を犠牲にして、攻略組を少しでも纏めようとした事。アスナへの敵意を、自身に向けさせ、更に自分へとヘイトを集めていた事。

 そうして、彼はずっと独りだった事を。

 そんな彼の頬を、自分は。

 

 ─── また、私は間違えたのだろうか。

 

 リズベットは会議の後、自身の店でへたり込んだ。自然と涙が流れていた。

 出会って間もないアキトの事を思い出して、リズベットは後悔した。

 キリトの時に学んだ筈だったのに。知っていこうと、そう思っていたのに。

 辛いのは、誰だって同じなのに。

 自分はアキトに、甘えていただけだった。

 彼だけが、みんなの事を考えていたんだという事に気付いて、そんな自分が嫌になった。

 謝るつもりだった。知っていくつもりだった。今ある時間を大切にするつもりだった。

 けど結局、考えていたのは自分の事だけだった。

 アキトは死んだのだと、そう理解するのに、キリトの時以上の時間を有した。

 

 どうして、彼は人の事を優先して考える事が出来るのだろうと、そう思った。

 きっと彼も、大切な何かを失った経験があるだろう。何よりも守りたいものがあっただろう。けれど、彼は失っても尚立ち上がり、今まで自分達の手助けをしてくれていた。

 どれほどの勇気が、どれほどの意志が必要だった事だろう。

 

 

 「っ…!?」

 

 「アスナッ!」

 

 

 その巨大なボスがアスナを蹴り飛ばす。壁が近かった事もあり、アスナはそのまま壁に激突した。

 リズベットは彼女の元へと駆ける。

 激突したその勢いでアスナは息が出来ないのか、咳き込み、荒い呼吸をし、蹲る。

 辛そうな表情で見上げれば、ボスがこちらに近付いてくるのが見える。

 ボスの周りには、全方位のソードスキルで跳ね飛ばされたプレイヤーで溢れていた。体勢を立て直そうとしている彼らでは、アスナの援護に間に合わない。

 

 

 「っ…!?リズ…!」

 

 「……」

 

 

 リズベットは、そんなボスとアスナの間に割って入る。ボスに睨みを聞かせ、メイスと盾を構える。

 アスナは、焦ったように目を見開いた。

 

 そうだ、私も誰かを、アスナを助けたいと思っていたから、アキトのように行動出来た。

 怖かった筈なのに、最前線に赴く事が出来た。

 どうして彼が他人の為に動けるのか、分かったような気がした。

 自分もきっと、そんな彼のように、後ろの少女を守れるように。

 

 

 「…だーいじょうぶよっ!そんな顔しないで、アスナ」

 

 

 だからこそ、こうして笑う。その盾を前に突き出し、強がってみせる。

 キリトだって、アスナに死んで欲しくない筈だから。自分も、アスナに死んで欲しくないから。ユイちゃんが、待っているから。

 アキトが、それを望んでいた筈だから。

 もう二度と、会う事はないけれど。

 

 ボスは持っていた両手斧を光らせる。その光とモーションは、ソードスキルの発動を意味するものだった。

 リズベットは逃げない。アスナを守る為に、ただ盾を構えるだけ。

 もう後悔しない為に。大切なものを、失わない為に。

 

 

 「…来なさいよ…アンタなんかに…あたしの親友を…」

 

 

 リズベットはアスナにも聞こえぬ声で、そう呟く。

 だがボスは、そんなリズベットに応えるかのように、その体を動かした。

 

 両手斧重攻撃七連撃技<クレセント・アバランシュ>

 

 ここへ来て、連撃数の多いソードスキル。専門のエギルは、大きく目を見開いた。他のメンバーも、あのスキルは不味いと察しただろう。

 アレを全部受けたら、生存は絶望的だと。

 それでも、リズベットは逃げない。震える足を、確かに地面に突き立てる。

 アスナは、そんなリズベットを、ただ見る事しか出来なくて。

 

 やめて。私の為に。私のせいで。

 

 アスナはその焦りを隠せぬまま、倒れたまま。

 そうしてリズベットに、決して届かぬ手を伸ばす。

 

 

 「…リズ…早く…早く逃げ…」

 

 「…嫌よ…絶対に…逃げない…」

 

 

 お互いに声が震える。アスナはリズベットの危険を案じて。リズベットは目の前の恐怖に。

 ボスのソードスキルは七連撃。耐えられるわけがない。

 でも。

 私は────

 

 

 ボスの斧が迫り来る。

 リズベットはその軌道に合わせて盾を動かす。その一撃一撃が重く、飛ばされそうになるのを何とか耐える。

 だが、ボスの攻撃はとても重く、リズベットのHPは勢い良く減少していく。

 

 

 「…くっ…!…っ…!」

 

 

 痛みを感じる。

 頬を、腹を、腕を、足を、その斧で斬られていく感覚。

 痛みは感じない筈なのに、その一撃は重く、とても痛い。

 リズベットは、それでもその場から動かない。

 きっと、キリトの方が。アキトの方が。何倍も痛くて。何倍も辛かった。

 彼らが残したものを、無駄にしない為に。必ず、現実世界へと帰る為に。

 みんなと、親友と一緒に。

 

 6回目の斬撃で、リズベットの盾を持つ腕が跳ね飛ばされて、リズベットはその場にへたり込む。

 アスナは目を見開き、攻略組のメンバー達は、そんなボスを怯える目で見上げる。

 ボスは最後の一撃の為に、その斧を振り上げる。

 

 

 「リズ…!…お願いだから…逃げて……逃げてよ……!」

 

 

 今にも消えてしまいそうな、メイスも盾も地面に置き、力が抜けたように俯き座り込む親友の背を見つめ、アスナは途端にそう発した。

 その瞳には涙が。もう何度も流した筈の、流す事は無いと思っていた涙。

 その届かない手を、再び伸ばす。

 リズベットが、あの時のキリトと重なった。

 

 

 「…あーあ…だから…泣かないの…」

 

 

 リズベットは、そんなアスナを見て儚げに笑う。

 悲しくはない。だから、泣いたりしない。

 親友の涙を見て、なんだか嬉しかった。自分の為に泣いてくれている。

 彼女はやはり、変わったわけじゃなかったんだって。そう分かって。

 迫る最後の一撃を背に、リズベットはアスナに笑ってみせた。

 かつてアスナが、キリトに見せていた時の笑顔のように。

 

 

 リズベットは目を瞑り、瞼の裏に、かつての想い人を描く。

 その黒の剣士は、この世界の暖かみを押してくれた。

 もう一人の黒の剣士は、それとは対照的に、この世界の残酷さを教えてくれた。

 二人とも死なせてしまって、ちゃんと知る事も出来なくて。

 

 

(私がこのまま死んだら…会えたりするのかな…)

 

 

 そのボスの一撃が、リズベットの腹を貫く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─── そのボスの視界を、『不幸の象徴』が横切る。

 

 

 ボスは斧を動かしながら、確かにその姿を目に入れる。

 その黒い猫は、その爪をもって、ボスの瞳を斬りつけた。

 ボスは視界が消えた事で、その斧をリズベットの体の横をギリギリで通り過ぎ、その斧の重さで地面へと倒れた。

 リズベットとアスナの近くに、その衝撃で風が通り抜ける。

 

 リズベットとアスナはそんなボスに目を見開き、そして、やがて上から降りてくる一人の少年に視線が動く。

 リズベットは、その少年を見て、その開いた瞳から涙を流した。

 死んだと思っていた、その少年の顔を見て、色々なものが決壊した。

 

 

 「…ア……キト…」

 

 「……よう。随分とまあ、ナイスタイミングだったろ」

 

 

 そこには、ずっと謝りたかった顔が。アキトが、そこにはいた。

 エギルもクラインも、攻略組のメンバーも、現れたアキトを見て、驚愕の視線を向けていた。

 そんな彼らに対しても、いつもの高圧的な態度で、不敵に笑ってみせていて。そんな顔が、リズベットはずっと見たかった。

 その流れた涙を拭い、リズベットは笑う。

 

 

 「…もう少し…早くても良かったかな…」

 

 「我慢しろよ」

 

 

 アキトはフッと笑ってそう切り捨てる。リズベットはそんなアキトを見て、再び涙を流した。

 どうして位置情報がロストしたのか。開かない筈の扉をどうやって開けたのか、聞きたい事は山ほどあった。

 けれど、何よりもただ、生きていた事が嬉しかった。

 

 アスナもただ目を見開いて、アキトを見上げていた。

 アキトはそんなアスナを見下ろしていたが、やがて彼女に近付き、彼女の前にしゃがむ。

 アスナは、何か言われる前にと、皮肉を込めて言い放つ。

 

 

 「貴方の言った通りだった…。私はもう、使い物にならない…生きてる意味が…もう無いの…もう私は…」

 

 

 ── 頑張れない。

 ずっとどこかで、死に場所を探していた。

 キリトが居なくなってからずっと、死にたいと、そう思っていた。

 自殺が出来ないなら、戦いの中で死のうと、ずっとそう思っていた。

 現実で失われた時間、自分は確かにこの世界で生きていて、そこでは失いたくない大切な人が出来た。

 現実世界では二度と手に入らない、自身の宝がそこにはあった。

 それが自分の全てであり、この二年間の意味であり、生きた証だった。

 それが無い今、自分はもう頑張れない。

 

 

 「私は…キリト君がいないこの世界では…こんなにも、弱くて…」

 

 「言い訳だな。それに、強さなんて別に求めてないよ」

 

 「…え?」

 

 

 アキトのその言葉に、アスナは目を丸くする。流していた涙は、止まる事無く溢れていた。

 

 

 「強さも意志も目的も、俺が持ってる。だから、お前はそのままでいい。ただ……命だけは捨てるなよ」

 

 

 その言葉はとても重くのしかかる。生きる意味の無い世界で生きるなんて、どうしてそんな残酷な事が出来よう。

 アスナは唇を噛み、アキトを見ていた。

 

 

 「けど…私はもう…」

 

 「……ユイが待ってる。君の帰りを」

 

 

 それはアキトの、素直な願い。

 その言葉に、アスナは言葉が詰まる。

 自分に向けてとびきりの笑顔を見せる彼女を頭に思い浮かべて。

 

 

 「母親なんだろ。だったら、途中で投げ出すな。お前の生きる意味なんて知るかよ。意味が無いとか、もう頑張れないとか、そんな言葉で娘を捨てるのは、可哀想だろ」

 

 「っ…」

 

 「俺は投げない。独りでも逃げ出す事はしないと決めた。何が何でも、このまま100層まで駆け上がる。その邪魔は、誰にもさせない」

 

 

 忘れるところだった。自分の実力、キリトとの差。

 自身の境遇。そんなものは全て後回しだ。

 そんな言葉で誤魔化して、危うく逃げ出すところだった。

 ユイが、全部思い出させてくれたんだ。だから自分も────

 

 

 「っ…!くっ…!」

 

 「っ…!?」

 

 「きゃあ…!?」

 

 

 アキトはリズベットとアスナを即座に掴み、その場から離れる。

 その瞬間、先程までいた場所に、重い衝撃が響く。

 目の前には、その巨大な斧を持った、巨大な牛のような異形が立っていた。

 HPは残り僅か、とは言い難いが、それでもあと一本。

 

 アキトは、ティルファングを握り締める。

 その行為で、リズベットはティルファングに視線が映る。

 

 

 「…!?アキト…耐久値は…」

 

 「何ともねぇよ」

 

 

 ここで耐久値が無いなんて話をしてもどうにもならない。攻略組全体の状況から考えても、決着は早めに付けるべきだ。

 ならば、武器のステータスは高くなければいけない。何より、アキトにはこれしか無いのだ。

 

 こんな時に、ツイてない。

 なんて、理不尽な世界だろうか。

 だが、それがこの世界。

 望んだ事は決して叶わず、どれだけ願っても聞き入れられる言葉は無い。

 この世界に神はおらず、あるのはただのシステム。

 けれど、それでも必死に抗わなければならない。

 アキトは不敵に笑い、ティルファングを構える。

 そして、その瞳を閉じる。

 逃げたりしないと、この手に、二人に誓ったから。

 

 

(…キリト…サチ…見ててくれ…二人の願いを、俺が叶えるところを…)

 

 

 アキトはゆっくりと瞳を開き、ボスを見上げる。そして、後ろにいるリズベットとアスナ、攻略組に向けて、ニヤリと笑って見せた。

 涙を流していたリズベットは、そんな彼の姿がとても頼もしくて、心が暖かくなるのを感じた。

 

 

 この世界に、都合の良い未来は無い。

 望んだものが手に入る事など、ありはしない。

 あるものは、ただ虚無。

 希望も無く、願いも潰え。奇跡は起きず、意志を抱く事は無く。

 力は消え、心は揺れる。

 夢は幻のまま。

 絶望が膨張し、願いは、暗闇を彷徨う。

 だが、それでも────

 

 

 

 

 「…悪いな、話は後だ。…そこにうるせぇ牛がいるからよ…」

 

 

 

 

 ─── まだ、俺が残っている。

 

 

 

 

 

 「ちょっと、斬ってくるわ」

 

 

 

 




次回 『生きる意味』

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