薄れてく。消えていく。
自分が歩んで来た道が。進んでいくべき道標が。
黒く、◼く染まってく。
《ホロウ・エリア管理区》
ホロウリーパーというエリアボスを倒し、アキトの持つ《虚光の燈る首飾り》が光り出したのを目にした彼らは、次のエリアに行く事が出来る事実に歓喜した。
だがホロウリーパーとの戦闘は想像以上に時間を有し、アキトとフィリア、クラインの三人はそれぞれかなり消耗していた。時間も時間だったので、次のエリアボスを倒すのは翌日にしようとアキトが提案したのだった。
この状態で戦っても危険なだけだと判断した各々はそれに賛同し、現在三人は《ホロウ・エリア》全体のマップが見れる管理区へと戻って来ていた。
PoHの企てた、言わば《ホロウ・データ》でアインクラッドで暮らすプレイヤーを上書きする大型アップデートを止めるには、管理区地下のダンジョンの奥にあるという中央コンソールを使うしかない。
そこに行き着くには、《ホロウ・エリア》にいるエリアボスを全て討伐しなければならないのだ。
だがユイ曰く、この規模のアップデートは実装まで数日の時間がかかるらしい。ならまだ時間は残されているわけで、焦るばかりでは良い結果に繋がらない。
「だあ〜〜〜!疲れたぁ……」
「私も……」
管理区に転移して早々、クラインがコンソール前の床にバタリと仰向けに倒れる。フィリアも膝から崩れ、休みやすい体勢へと身体を動かして座った。
そんなだらしなく休む彼らが可笑しくて、アキトはクスリと小さく笑う。そのままクラインの隣りを通り、コンソールへと手を伸ばした。
天井に煌めく星の下に開かれた数々のウィンドウの一つである《ホロウ・エリア》全体のマップが目に留まる。
そこには既にエリアボスを倒したエリアと、そうでないエリアの区分が明確にされていた。
《
《
《
《
倒していったボスと、それがいたエリアを一つずつ目で確認していく。そうして追い掛けた先にあったのは、まだ行っていないエリア。今回ホロウリーパーを倒した事で、新たに行けるようになるであろう未開の地。
そして、そこが最後のエリア。
その場所の地図の上から重ねて表示されたのは、凡そエリアの名前だろうか。
《アレバストの異界》という名が表示されていた。
「あと一つだね」
背中からフィリアの明るめの声が聞こえ、アキトは振り返る。疲労が募っていたはずの彼女の表情は決してマイナスのものではなく、嬉しそうだった。
アキトは頷いて、再びマップへと視線を戻す。
「……ここのボスを倒せば、管理区の地下に行ける」
「……間に合うかな」
「大丈夫だよ、きっと。間に合わせてみせる」
そう答えたアキトは、ゆっくりと腰を下ろす。
ホロウリーパーとの攻防で既に達成感すら覚えていたアキトは、最早立っているだけでも結構な労力を使うのだと苦笑した。
上体を支える両の腕は、心做しか震えていた。
「おいおいアキトさんよぉ、腕震えてんぜ?」
「はは、そりゃ、ね……あれだけ長かったら疲れるよ」
「へっ、違いねぇや……」
「私も、もうヘトヘトだよ……」
揶揄うつもりだったクラインでさえ、仰向けた身体を起こす事も億劫な程。フィリアも楽な姿勢をとって身体を休めていた。
そんな彼らに先で背を向けて座るアキトは、ポツリとその言葉を呟いた。
「……楽し、かった」
「え……?」
フィリアとクラインは、そんな彼に目を丸くした。アキトも自身が今言った事を思い返してはっとしていた。独り言のように口を開いたはずだった。だがフィリアの問い返しに我に返ったのか、自分が失言をしたのだと思い、慌てて振り返る。
「あ……あ、いや……その……こうして誰かと力を合わせて、全力で戦って……そういうのって、久しぶりだったから……」
確かに今回は、いつもの戦闘と違った。敵は想像以上に思考してきていたし、人間にも似た知性を感じた。長期戦にさせられたし、回復する暇を与えさせてはくれなかった。
死が現実に直結するSAOの中では、絶望するはずの相手。なのに、それでもアキトはその戦闘に懐かしさすら感じたのだ。
フィリアがいて、クラインがいて。
自分もかつて仲間と呼べる人達と共に、こうして攻略を重ねていたはずだから。
「……そうだなぁ。俺も、割と楽しめたぜ」
「確かに。結構危なかったけどね」
「……二人とも」
────怒られるかな。
そんな考えは、寧ろ彼らには失礼だったのかもしれない。クラインもフィリアも、きっと合わせてくれているわけじゃなくて、本当にそう思ってくれているのかもしれない。
この考えはきっと、不謹慎ではないのかもしれない。
これはゲームであって遊びじゃない。けれどゲームは、本来娯楽。楽しまなきゃいけないものなのだ。だからたとえデスゲームだったとしても、この想いは間違いなんかじゃないのだと、そう思ったから。
「ありがとよ、アキト、フィリア」
「え?」
「そう思えたのはきっと、お前さんのおかげだからよ」
「そ、そんな事ないよ……」
クラインは照れ臭そうに笑う。フィリアも顔を赤くして否定する。
アキトは呆然としていたが、やがて込み上げてくる何かを感じて、俯いた。
クラインの放った言葉が、嫌なくらい心臓を動かした。
たくさん人が死んで、たくさん人が苦しんで、たくさん人が泣いて。いつか、100層を突破して、このゲームをクリアして。それでも最後に、楽しかったと、そう言える日が来るのだろうか。
●○●○
「……あー!帰って来たー!」
エギルの店の前まで歩いて来ていたアキトとクラインは、入り口付近に立っていたストレアの声で顔を上げた。
こちらを見て元気良く思い切り手を振っている彼女に、アキトとクラインは顔を見合わせて笑った。天真爛漫な彼女の満面の笑みに惹かれ、二人は入り口まで歩く。
すると、扉の向こうから勢い良くユイが飛び出して来た。恐らくストレアの声に反応したのだろう。アキトは驚きで少したじろぎ、ユイはそんなアキトをすぐに見付けた。
「アキトさん、クラインさん、おかえりなさい!」
「おう、ただいまユイちゃん!」
「……ただいま」
クラインは大きく手を上げ、アキトは小さく微笑んでユイに応えた。ユイは満足したのか、嬉しそうに顔を緩ませ、アキトの隣りに並んだ。
「もー、二人とも遅い!もうお腹ペコペコだよー!」
「えっ!俺ら待ちだったのか、悪ぃ悪ぃ」
ストレアとクラインの会話を聞きながら、彼らはそのまま歩き出す。エギルの店へと足を踏み入れれば、いつもの場所でテーブルを囲う仲間達がいた。
アスナ、シリカ、リズベット、リーファ、シノン、エギル。みんなが入り口に視線を向けており、アキト達の姿を捉えて顔が綻んだ。
「二人ともおかえりなさい」
そう言ったアスナに軽く手を挙げて応える。シリカやリーファも各々に同じように言葉を重ねた後、リズベットが意地悪を思い付いた子どものような笑みで二人を見た。
「随分遅かったじゃない。おかげでお腹と背中がくっつきそうだわ。これだけ待たせたんだもの、勿論ボスは蹴散らしたんでしょうね?」
「……うん。勝ったよ」
「へへー!ポリゴン片になってお空の彼方に飛んでったっつーの!」
「本当ですか!?」
「やったぁ!」
アキトの肩に腕を回し、クラインがリズベットにピースしてみせる。その勝利の報告に、シリカとリーファを一声に、一同が歓喜に包まれた。
みんなが嬉しそうにハイタッチを交わす中、肩を抱かれたアキトがクラインを見上げれば、鼻を高くした野武士面の男が立っていた。
「いやー、手に汗握ったぜ。なんたって今の今までやり合ってたんだからよ。今回はまさに死闘、そんな中活躍したのはこの俺様の────」
「はいはい、それは良いから」
「おい!まだ触りも話してねぇだろうが!」
シノンの一蹴にクラインが崩れる。苦笑いするメンバーの中、アスナが勢い良く立ち上がった。
「二人とも、本当にお疲れ様。それじゃあ、シェフが腕によりを掛けてディナーを作るわね」
「わぁ!アスナの手料理楽しみにしてたんだ〜!」
「よっ、待ってましたぁ!くー!頑張った甲斐があったってもんよ!」
料理スキルコンプリートのアスナの手料理。その事実だけで、ストレアは兎も角クラインの喜びようといったら凄い。周りが引き気味にそれを眺めて笑う中、アキトはクラインからアスナへと視線を移していた。
今から料理を作る。つまりそれは、アキト達を待ってたという事実に繋がった。
それに気付いたアキトは、小さな声でアスナに言った。
「……待っててくれたんだ」
「冷めたら勿体無いじゃない。折角なら温かいものを食べて欲しいもの」
「……別にそんな凝ったものじゃなくても良いよ。まだ解決した訳じゃないんだし、なんなら待たせたお詫びに俺が────」
「良いの良いの、私が作りたいんだから。功労者のアキト君は座ってて」
アスナはニコニコしながらアキトの背中を押してテーブルまで連れて行くと、そのまま厨房の方へと足を運んで行った。それにユイも付いて行く。
ストレアも便乗し、アスナに向かっていった。
「エギルさん、厨房お借りします」
「ママ、私も手伝います!」
「はいはーい!アタシも手伝う!」
「実は良い食材を仕入れたんだ。俺も何か作るぜ。アキト、クライン、お前らは休んでな」
そうして四人は厨房の方へと消えて行く。
エギルの男らしい声に何故か安心感を覚えつつ、リズベット達と何やら談笑しているクラインを背に、アキトはそのまま2階へと向かう階段の方へと移動する。
すると、階段に一番近い席に座ったままのシノンがこちらを一瞥し、アキトはシノンと目が合った。
「部屋に行くの?」
「……少しだけ。すぐ戻るよ」
そう言葉を返し、アキトは階段を上がる。それを見上げたシノンは、そこから数秒、階段から目を離せなかった。
そんなシノンの隣りで、クラインとリズベット達が何やら言い合いを始めていた。
「アンタ本当にそんな活躍したのー?アキトやフィリアがどうにかしてくれたんじゃないの?」
「へっ、聞いて驚け!俺様は今日、《
「なっ!」
「嘘ぉ!」
「ところがどっこいこれが現実。嘘だと思うならアキトに聞いてみ……ってあれ?アキトの奴は何処行った?」
「部屋に行ったわ」
アキトを探すクラインにそう一言告げるシノンは、その後厨房にいるアスナとユイに視線を向ける。二人は顔を見合わせては笑顔を作り、楽しそうに料理している。
けれど初めてシノンがアスナを見た時は、まさかあんな笑顔が出来る女の子だとは思っていなかった。何処か儚く、触れれば壊れてしまいそうな、そんな雰囲気を感じた。
(……アスナが今、あんな風にユイちゃんと笑えるのも……きっとアキトのおかげなのよね……)
そんな事を考えずには居られない。キリトという人物を失った当初はとても険悪なイメージで、何も事情の知らないシノンからしてみれば、この空間は居心地の悪いものでしかなかった。
それが今ではどうだろう。誰もが笑って暮らせている。今シノンの目の前で繰り広げられているクラインとリズベットの言い合いだって、笑いながらリズベットを抑えるシリカやリーファだって。
そしてそれはひとえに、あの黒の剣士のおかげ。
鼻歌を歌いながらアスナと談笑しているストレアだって、アキトが初めに知り合った。
「みんな出来たわよー!……あれ、シノのん、アキト君は?」
「……階段上がって行ったわ」
「えー、料理なんてすぐ出来るのに……」
満面の笑みで料理を持って来たアスナは、すぐさま右左へと頭を動かす。アキトを探しているのは分かっているが、そんなに動かされると手に持つ料理が危うい。
シノンは慌てて口を開いた。
「……私、呼んでくるわ」
「ゴメンねシノのん、じゃあお願いね」
「分かった」
シノンは半ば食い気味に立ち上がり、軽い足取りで階段を駆け上がる。一つ一つ段差を飛び越える度に、アスナ達の笑った顔と、アキトの顔が交互に脳裏に映し出される。
それが少し嬉しくて、足の動きはより軽快になっていった。
誰もいない2階へと辿り着くのはすぐだ。上り切って右奥がアキトの部屋。入った事はないけれど、きっと大丈夫だ。
シノンは下から聞こえる仲間達の楽しげな声に微笑みながら、その足を前へと進める。
これらは全て、アキトが作り出してくれたもの。今自分がこうして生きているのも、アスナ達が楽しそうなのも。
「……」
彼は周りからどれだけ嫌われても、蔑まれても、憎まれても、疑われても、決してその人となりを変えなかった。
常に一点、前だけを見つめていて。必ず誰かの為を思って行動し、そして誰かを救ってしまう。
そんな事が出来る人など、この世に何人いるだろうか。自分を犠牲にする事を厭わないその精神は、決して見習って良いものではないし、褒められたものでもないのかもしれない。
けれど彼のしてきた事は周りを思っての事で、そしてそれは周りの為になっている。
だから、シノン自身に何か言いたい事があった訳じゃない。
けれど────
(少し……人が良過ぎるんじゃないの……)
歩む度に前後に揺れる手のひらが拳に変わり、やがてそれは強く握られる。浮かべるのは、周りから疑惑の視線を向けられて、傷付いた表情を見せるアキト。
86層のボス攻略で見せたアキトの動きは、明らかにいつも見ていた彼のそれではなかった。シノンは見た事がなかった《二刀流》。一人でボスを圧倒した技量。
そして何より、知らない人のような表情。
みんなはそんな彼を“キリト”と呼んだ。
アスナの恋人で、ユイの父親で、リーファの兄である彼。そんな彼に重ねられ、居場所を感じ取れなくなってしまったアキト。
傷付いて当然なのに、彼はやはり戻って来た。そして、《ホロウ・エリア》でフィリアに罠に嵌められても尚、彼だけはフィリアを信じ、そして一人で助けに行ってしまった。
心配させたくないからと、何も言わずに。
自分達はアキトを散々な程に傷付けた。なのに彼はまだ、誰かの為に動く。そんな残酷なまでの優しさに、シノンはずっと、心が痛かった。
そして、アキトから聞いた自身の事情。
アキトの中には、“キリト”がまだ生きているという事。その事実は信憑性のあるもので。見せられたのだから当然で。
それを初めて聞いた時から、シノンはアキトから目を離せなくなっていた。
何故だかは分からない。ただ一つ、言う事があるとするならば。
嫌な予感がしたから。
そして、それは現実のものとなる。
「アキト、アスナが料理出来たって……アキト?」
ノックしても返事は無かった。シノンは不思議に思い、何度も彼の名を呼ぶ。
そして、その扉は少しばかり開いていた。
「……開いてる」
恐る恐るドアノブを手にし、ゆっくりと前へ押し出す。その先に広がるのはシノンが普段使っているのと造りはさほど変わらない部屋。だがその空間に明るさなど微塵もなく、あるのはただ冷たい薄暗さだった。
次の瞬間、シノンは驚愕で目を見開いた。
そこにいたのは────
呻きながら頭を抑え、倒れているアキトの姿だった。
「ぇ……!?」
シノンは、その場から一瞬だが動く事が出来なかった。
何が起こっているのか分からない。
けれど気が付けば、頭を必死になって抑えて苦しむアキトが、目の前にいた。
「────アキト!?」
呪縛から解き放たれたような解放感と共に、シノンは急いでアキトへと駆け寄る。薄暗かった電気は、シノンが入った事によって明るく照らされた。
シノンはすぐにしゃがみ込んでアキトに触れる。その身は震え、呼吸は荒かった。
同時に、アキトは頭の痛みで声が上がる。
「ぐぁっ……がぁっ……はぁ、はぁ…ぁぐ……!」
「アキト!しっかりして!アキト!アキト!」
アキトは苦しそうに頭を抑える。痛みで何かを言う事も難しそうだった。呻き声を上げる程に痛いのか。目を見開き、必死になって痛みを抑えようと頭を掴み、それでも苦しみは変わらなくて。
どうしたら良い────?
こんな現象を見た事も聞いた事も無くて、シノンは自分のすべき行動が分からない。
《圏内》では死ぬはずが無い。けど今のアキトは、今にも消えてしまいそうで。
(アスナ達を呼ばなきゃ────!)
必死になって考えた結果、選ばれた選択肢は恐らく最良のものだった。
シノンはアキトを置いて行く事を躊躇ったが、やがて意を決してその場から離れようと膝を立てる。
だがすぐに腕をアキトに捕まれ、それ以上立つ事を許されない。引き戻されたシノンは、慌ててアキトを見下ろした。
「っ!?あ、アキト……!?」
「はぁ……はぁ、まっ……ぐっ……待って……っ!」
「な、何言ってるのよ、アンタこんなに辛そうじゃない……!」
シノンは自身の腕を掴むアキトの手を引き離し、それを両手で握る。
だがそれでも、アキトの様子は変わらない。徐々に、徐々に痛みは増して行き、
────ドクン
そして────
「『ああああぁァァぁああああアアァぁアァあぁアアああ!!!!』」
その叫びと同時に、アキトのアバターにブレが生じ始める。その身体が歪む。
ザー、とノイズのようなものが辺りに響き、アキトの身体が変容を遂げていく。
そして、苦しむアキトの姿が一瞬だけ変わったのを、シノンは見逃さなかった。
アキトの姿が一瞬だけ、別の誰かに見えたのだ。
「っ……!? 今のって……」
「『はあ、はぁ、っ、くっ……はぁ……!』」
アキトは、その手を頭から離した。痛みが引いたようだったが、その身体はぐったりとしていた。
もの凄い量の汗をかき、その黒髪は濡れたばかりのようだった。
「……何なの、今の……」
震える声で、シノンが問う。だがアキトは横になりながらも、首を左右に振るのみだった。
けれど、今この目に映った少年が誰か、シノンはとっくに理解していたのかもしれない。
知らない顔だけど、アキトとは別の黒いコートを身に纏っていて、そして何処か同じ雰囲気を持っていた。
あれが誰なのか、容易に想像出来ていた。
「……もしかして、“キリト”なの……?」
「……」
呼吸はまだ整っておらず、アキトはただシノンを見上げるのみ。
沈黙は肯定。そんな言葉を、シノンはこれほどまでに実感した事はなかった。
そんなシノンの表情を見て、アキトは諦めたように目を瞑った。
●○●○
目の前でシノンが困惑した表情でこちらを見下ろしている。
アキトはそんなシノンに、返す言葉が見付からなかった。ただ、この状態の自分を彼女に見られてしまった事に対する言い訳を考え始めている程で。
《アークソフィア》に戻って来てから途轍も無い頭痛に急に襲われ、悟られぬようにと部屋まで逃げて来たというのに。よりにもよってシノンに見られてしまうとは思わなかった。
段々と引いていく痛みを感じながらも脳裏に映るのは、自分のものではない
第1層でクラインと出会い、基礎をレクチャーしている記憶。
アスナと出会い、力を合わせて第1層のボスを倒し、ビーターの汚名を付けられた誰かの記憶。
ピナが殺された場面に居合わせ、シリカと一緒に47層へと赴いた、花園の記憶。
新たな武器を求めて、リズベットと共に雪山を登り、竜の巣で夜を明かした記憶。
アスナと二人寄り添い合い、愛し合い、そんな中、ユイという大切な存在に出会った記憶。
75層でヒースクリフと戦った時の、この殺意までもが。
まるで、自分の事のように思えて、何処かで納得すらしていた。
そしてそれと同時に映るのは、そんな記憶を持つ誰かの、
とある一室の、パソコンの向こう側。窓の外を眺めれば、短髪の黒髪の少女が必死になって竹刀を振っている。そんな彼女に感じるのは、罪悪感と不信感。そして後ろめたさ。
彼女は一体何処の誰で、自分とはどういう関係なのだろうかと、そんな想いで埋め尽くされる。
分かってる。これは、自分の記憶じゃない。
だけどアキトは、この記憶がやけに脳に馴染んでいた。自分の記憶じゃないはずなのに、誰かの記憶のはずなのに。
いや、誰かだなんて、もうとっくに分かっていた。
(……キ、リト……)
遠のきそうな意識を引き寄せながら、親友の名前を反芻する。
脳裏に映った今の場所は、キリトの現実の家。そして竹刀を振る少女はきっと、かつてのリーファ。
何処か納得していて、馴染んでいて、これは自分の記憶なのだと、何処かでそう言われているみたいで。
そして、同時に────
家族の名前が、一緒に暮らしたはずの人の顔が、どんな性格だったのかさえ薄れていく。
現実でどんな人生を送っていたのか、その光景が霞んでいく。
開いていた手を、弱々しく握る。
この世界にログインしたばかりの、デスゲームだと知らされた時に感じたものが、記憶が、キリトの記憶に上書きされていく。
段々と自分が、かつての英雄に染まっていく。
SAOの根幹、《カーディナルシステム》。
この世界に必要とされる勇者の役割を、アキトへと押し付ける。かつての勇者を、上書きしていく。
それと同時に、自分が消されていく感覚。
その手が震えた。なんとなく気付いてた。エリュシデータがすぐに馴染んだのも、アスナが幽霊が苦手な事を知っていたのも、クラインがどんな性格だったのか理解していたのも、初めて見たはずのPoHの存在にすぐ気付けたのも全て。
全てが────
「……ねぇ、アンタ分かってるんでしょ……?自分の身に何が起こってるのか」
「……」
「……話して」
「……」
シノンのか細い声にも、反応を示せない。瞳だけを彼女に向けて、壊れそうな彼女の表情を見つめる事しか出来ない。
何故か、力が入らなかった。
「アキト……!」
話して──そう彼女は言っているように思えた。
だけどアキトは、何も言えなかった。口を開く度にキリトの記憶が脳を埋めていき、その分だけ、自身の何かが潰れていく。
「っ……」
シノンは下唇を噛み締め、俯いていた顔を上げた。
「……すぐ、アスナ達を呼んでくる」
それを聞いたアキトは、こちらに背を向けたシノンの手を掴み、こちらに引き寄せた。バランスを崩したシノンは、立ち上がる事も出来ずに床に手を置いた。
シノンは突然の事で驚き、慌ててアキトに視線を合わせた。
「っ……アキト……?」
「……みんなには、黙ってて」
「なっ……何言って……!」
「心配、させたくない……」
「最悪の事態になってからじゃ遅いのよ……!?」
「……」
押し黙るアキトは、ゆっくりと起き上がる。近くにあったベッドの端に寄り掛かり、シノンからは目を逸らした。
行かせまいとシノンを引き寄せた手を、いつの間にか、彼女は握り返していた。
上げた顔は戸惑いと焦りが感じ取れ、その瞳は揺れていた。
シノンは既に、アキトの状況に凡その検討は付けていたのかもしれない。
紡がれる言葉には、全てを悟ったような音が響いていた。
「……アンタの話を聞いてから、ずっと気になってた。だって、他人の意識が植え付けられたって事なのよ……?絶対に良い事ばかりじゃない」
シノンの言っている事は、正しく正解だったのかもしれない。
何故ならそれは、人が逃避の為に新たな人格を形成する二重人格といった精神的な病とはまるで違う。この世界でちゃんと存在していた本当の人間の意識が、記憶が、システムによって後天的に植え付けられた事になる。
そしてそれは《二刀流》を手にしてからの出来事だった。このスキルを手にしてから、アキトはキリトを感じるようになった。
《二刀流》にキリトの意識が混在していたのはユイ曰く、75層のシステムエラーによるとの。つまり、バグによって今のアキトは形成されているという事なのだ。
それは、決して許容されたものではなかったのだ。
「……ああ、そうだね」
《二刀流》を手にして、そこにキリトが居た時点で、こうなる事は決められていたのかもしれないとさえ思う。
この世界は勇者を必要としている。《カーディナル》が、勇者としてキリトを選んだ。
そのキリトが、《二刀流》として存在しているのを知った《カーディナル》は、アキトに何度も干渉してキリトを
そしてそれは、きっとキリトにもアキトにも、どうにもならないものなのかもしれない。
なら、このまま《二刀流》というスキルを保持し続けてしまえば、自分は────
「……アキト、今すぐ《二刀流》をスロットから外して」
「え……」
アキトの手を握るシノンが、なけなしの声を奮ってそう告げる。まるで、叶わないと分かっている願いを、必死になって叫んでいるようで。
シノンの考えている事は、やはりアキトと同じだった。元々賢い少女だったし、キリトという存在無しで自分を見てくれているからだと、アキトは思った。
そして、シノンのその提案はアキトの為になる正しいものなのかもしれない。
けれどアキトは、首を横に振る。
「……駄目だよ。このスキルは消せない」
「っ……どうして!友達の形見だから!?」
「ただでさえ、攻略組には……戦力が足らないんだ。その中でもユニークスキルは、他のスキルよりも強い……敵も強くなってきてる……今このスキルを失う訳にはいかない」
消したところでこれが元に戻る確証も無い。アキトの代わりとなる二刀流使いが攻略組に現れる可能性だって低い。今手に入れたところで使いこなせるかはまた別問題だ。
キリトの形見だからというのも間違ってはいなかった。だけど、シノンはアキトの手を握る力を強め────
「使い続けたらどうなるのか、想像くらいしてるんじゃないの……?」
「……かもね」
ふと鏡を見れば、映るのは黒い瞳。
青かったはずのその瞳は、まるで闇に濁ったようで。けど同時に思い出すのは、キリトの瞳の色。それに良く似た色へと侵食し始めていたのを知ったのは、結構前だった。
アキトはきっと、無意識にこうなる事を予想していたのかもしれない。だから、86層でキリトに代わるまで《二刀流》を使わずひた隠しにしていたのかもしれない。
けれど、《二刀流》無しに今後戦い抜く事は難しい。
使う事でもしかしたら、自分じゃなくなるのかもしれない。
だけど、それでも────
「……シノン。俺……今凄く、楽しいんだ」
「ぇ……?」
下を向いていたシノンの顔が、ゆっくりと上がる。
そこに居たのは、虚ろながらも確かに高揚が宿る瞳を持ったアキトだった。
瞳を揺らし、何処か遠くを見つめ、その心臓部分を強く握り締めていた。
「ずっと孤独だと思っていたのに、こんなにも仲間が出来て。デスゲームなのにこうして笑い合う事が出来て、そんなみんなを見る事が出来て、力を合わせて強敵と戦って……必要とされている自分が、とても誇らしかった」
かつて、大切だった仲間がいた。そんな彼らと戦った時の懐かしさが、楽しさが、鮮明に蘇る。楽しかった日々を思い出せて、仲間だと言ってもらえて、とても充実したような毎日を送れていた。
そんな日常の為にも、自分にはやらなきゃならない事があると思った。
この苦行が、誰かの為になる。それだけでとても満たされた。
「……今、確かな生き甲斐を感じてるんだ」
「っ……」
「こんな気分は、久しぶりなんだよ……」
シノンにとって、その時の彼はとても歪だった。
アキトのその決意は歪んでいた。
守りたいものしか見ていない、そんな残酷な存在に思えた。自分の状況さえも、見えていないのかもしれないと、そんな不安に駆られてしまった。
シノンは悔しそうに、その唇を噛む。
そんな彼女に構う事無く、アキトは小さく笑いかけた。
「アップデートまで時間が無い。アインクラッドだって、あと10層近くでクリア出来る。それまで持ち堪えてくれれば良い。だから……」
「……私に……見逃せって……そう言うの……?」
「……うん」
シノンの身体が震える。
「誰にも、言わないつもり……?」
「……うん」
アキトの答えは変わらなかった。
「ユイちゃんにも……?」
「……うん」
「……アスナにも……?」
「……ゴメン」
「っ……!」
シノンの空いた手の拳がこれ以上ない程に握られる。怒りのような、哀しみのような、そんな感情が綯い交ぜになる。
アスナとユイの笑った顔が、アキトに見せる柔らかな表情が呼び起こされる。そんな彼女達は知らないのだ、アキトが今、どんな状況なのか。
そして、そんな彼女達に、アキトはこのまま隠し通すつもりなのか。
そう思うと、どうにかなりそうだった。
「アンタ、いい加減に……っ!」
そうして声を振り絞ったはずのシノンの頭に乗せられたのは、誰よりも優しい少年の柔らかな手のひらだった。
シノンの視界が、何故か歪み始めていた。たどたどしく撫でられた頭は熱を持ち、近くで囁く彼の言葉の全てが、とても脆く聞こえた。
「……ありがとう、シノン」
「……なんで、そこまで出来るのよ……」
感謝される事なんか何も無い。なのに、すんなり言葉が心に響く。
俯くせいで、互いに互いの顔は見れない。
握られたその手は、離された。
「料理、出来たんだよね。呼びに来てくれてありがとう。行こう」
へたり込むシノンの隣りを過ぎ去って、アキトはゆっくりとその部屋の扉に手をかける。シノンを一瞥し、アキトは目を伏せる。やがてその扉は優しく閉められ、ガチャリと閉めた音が聞こえた。
「っ……」
シノンはただただ、その場から動けなかった。
地面へと落ちる雫は、涙だろうか。
どうして、こんなにも苛つくのだろう。
どうして、こんなにも切なくなるのだろうか。
アキトがいなくなるのかもしれない、そんな予感だけで心がざわついた。
この気持ちの正体は何────?
(守ってくれるって……そう言ってくれたのに……)
「……嘘吐き」
消えゆく未来は、あともう少し────
君ハ、コノ世界ニハ勝テナイ。
モウ、ヤメテ。抗ワナイデ。
辛イデショウ? 苦シイデショウ?
私モ辛イノ、苦シイノ。
ダッテ、伝ワッテ来ルカラ。感ジルカラ。
君ノ心ハ、ホラ────
────コンナニモ、痛イ。