グラズヘイムでヒレルを突き放したジュリエッタの胸中は複雑だった。
キャットウォークに軍靴のヒールが甲高く鳴り、何ものかから逃げるように足早になる。スキップジャック級戦艦の最奥、たどりついたドックの片隅で、ジュリエッタはやっと呼吸を取り戻した。
グラズヘイムはさすがに息が詰まった。ギャラルホルンの次世代を担う凛々しき女騎士だなんて華美な称号は、身軽さを武器に戦ってきたジュリエッタには重すぎる。アリアンロッドを象徴するエンペラーグリーンの軍服、そしてエリオン家の色彩であるヨルムンガンド・レッドの外套は、華奢な双肩を今にも押しつぶしそうだ。
敬愛する恩人のため鍛えあげた肉体もロングコートに引きずられてしまって、思うようには動けない。
どうにか心を落ち付けようと息を吐く。
(ラスタル様のために、わたしは……っ)
適切な振る舞いという名の仮面をかぶるジュリエッタはもう、思うことを口にすることもかなわない。ヒレルの純粋な目に追い立てられるのは、わずらわしさを越えて苦痛でさえあった。
……どうせ蝶よ花よと何不自由なく育てられてきたセブンスターズの御曹司に、この重責はわからないのだろう。
だって、あんなふうに人前で、無様に泣き崩れることができるのだから。
白い手袋の拳を握る。短い爪がきめの細かい生地に食い込む。複雑な思いを吐露する術もなく、すがるように見上げた視線の先には、女騎士の乗騎がさながら聖母像のように眠っている。
厳かに安置された新型機の名は〈レギンレイズ・ジュリエッタ〉。
レギンレイズ・ジュリアの後継機であり、厄祭戦後はじめてエイハブ・リアクターを二基搭載することに成功した機体だ。
起動状態にある限り疑似重力を発生させる相転移炉は取り扱いが難しく、ひとつの機体にふたつのリアクターを搭載する技術は、ガンダムフレームを開発したメカニックの死とともに失われていた。
当時の技術書は多くが印刷物であり、貴重な情報を紙だなんて脆弱な媒体に収めてしまった人類を嘲笑うように、厄祭戦の中で焼失した。
七十二柱のガンダムも
ヤマジン・トーカ整備部長がくるりと癖づいた赤毛を揺らす。
「ダインスレイヴ、宙域のはすべて回収できたそうよ。今回はさすがに数が減ったけどね」
肩をすくめてみせると、ジュリエッタの視線を追って顔をあげた。
レギンレイズの発展機【ジュリエッタ】。機体にはパイロットと同じ名がつけられている。
「……せっかく用意したのに、活躍の機会は当分なさそうねえ」
スキップジャック級の艦長となってしまったジュリエッタには、戦場に赴く理由がない。戦局を見据えて部隊を動かすのが総司令官の役目だ。恩人の剣となって最前線で戦いたいジュリエッタの思いが届く日はいつになるやら。
開発者であるヤマジンもまた残念に思う。戦うために仕上げたはずの機体が式典用の壁の華では、腕をふるった甲斐がない。
「まあ、ダインスレイヴがあれば味方の犠牲は最小限で済むわけだしね。仕方ない、か……」
ヤマジンの独り言に、ジュリエッタの細い肩がふるえる。うつむいた横顔に落ちた陰は、悔恨だ。
「回収部隊の発進を急いだせいで、数十機ものレギンレイズを失いました」
「あの状況じゃ戦闘になるのは仕方ないでしょ。相手が阿頼耶識隊だったのは運が悪かった。ダインスレイヴの射線をさかのぼるだなんて無茶やらかすパイロットだったってのもね。これって
「それでも、ラスタル様から預かった艦隊を、わたしのせいで……っ」
声が揺れる。揺らぐ。圏外圏での掃討作戦におけるダインスレイヴ解禁は、月外縁軌道統合艦隊の通常業務の範囲内だ。
条約がある以上は人目のある宙域での射出は制限されるし、当然ながら目撃者を全滅させたのちに弾頭を回収するまでが仕事である。
というのにジュリエッタはまた、ダインスレイヴの運用を知る
専用グレイズも二十機あまりが大破させられ、随伴していたフレック・グレイズもほぼ同数を失った。そればかりか、暴発したダインスレイヴがハーフビーク級戦艦に命中し、非戦闘員からも犠牲が出ている。
戦艦の改修、部隊の再編、
ギャラルホルンが打ち出したヒューマンデブリの取り締まり計画は、中断を余儀なくされてしまった。
この隙に海賊が跋扈すれば航路の治安はまたたく間に悪化するだろう。
鉄華団残党は、一度ならず二度までもギャラルホルンの権威を失墜させ、世界の治安を乱そうとしている。
地球外縁軌道統合艦隊のグレイズ七機がガンダムたった一機によって撃墜されたという報せを受けたときから、嫌な予感はしていた。火星近辺でも同じエイハブ・ウェーブが観測されており、固有周波数は
火星行きの民間輸送船が襲撃され
正体不明のヒーローの活躍に火星が湧くかたわら、ギャラルホルン火星支部に突き出された海賊どもは、連中は白いMSを駆り、「鉄華団」を名乗っていたと証言している。
白のナノラミネート塗料は安価だが視認性が高く、敢えて的になるような塗装を施すMSは珍しい。カラーリングから見ても間違いないだろう。
航路の安全が守られたという、真実とはおよそ異なる上辺の報道が火星を賑わせている。これはプロパガンダだろう。実行部隊は鉄華団残党だと、関係者にだけ伝わる状態で流布されている。
圏外圏の治安維持はアリアンロッド艦隊の職域だというのに、ダインスレイヴの一斉掃射という効率的かつ地味な作戦をこなしていたがため、名声において鉄華団に先を越されてしまったのである。
ネズミ一匹討ち漏らさない徹底ぶりが完全に裏目に出た。
事態を重く見たラスタル・エリオンは急遽グラズヘイムへと上がり、ジュリエッタと面会するという。
通信記録を残さないためには直接顔を見て話すしかないからだ。恩人の手を煩わせる前に決着をつけたかったのに、アリアンロッド艦隊司令ジュリエッタ・エリオン・ジュリス一佐は、宇宙ネズミの蛮行に歯止めをかけることができなかった。
「あのとき発進命令がちょっとでも遅れてたら、ダインスレイヴの回収は間に合わなかったよ。ホラ、顔あげて」
あんたはよくやったよ。ね。――幼子に言い聞かせるようにヤマジンはジュリエッタの両肩をつかみ、なだめてやる。
そのしぐさがいつかの仮面の男と重なって、ジュリエッタはぎゅうと柳眉を歪めた。
くちびるを噛む。作戦開始前にわざわざガエリオ・ボードウィンと話をしたのに、何も生かせなかった。
アリアンロッド艦隊のダインスレイヴ隊は、言わば死刑執行人部隊だ。その多くは汚職の発覚によって立場を追われた将校たちだが、中には行き場のない拾い子たちもいる。もしもマクギリスが生きていたなら加えられていただろう掃き溜めだ。
禁止兵器を常時使用する部隊だけに妻子にいたるまで管理下に置かれ、艦を降りることも許されない。ハーフビーク級戦艦に控えていた非番の執行人たちもまた、脱出を許されず、救助の手を差し伸べられることもなく船とともに沈んだのだろう。
いや、艦内であってもヘルメットの着用を義務づけられていたから命は助かったかもしれない。どうせバックパック内の酸素が尽きるまでの儚い灯火だが。
戦艦をも撃ち抜く脅威だとして条約で保有・使用を制限されているダインスレイヴは、射手への負担も並大抵ではなく、射出にともなうプラズマの加熱はコクピット内部の気温を摂氏一〇〇〜一二〇度にまで上昇させる。火傷、熱中症、脱水症状、内臓をかき回されるようなGの負荷に絶えきれずコクピット内で絶命するパイロットもあるほどだ。
二基のエイハブ・リアクターを搭載した機体ならば、あるいは発射の反動を相殺することもできただろう。だがダインスレイヴ専用グレイズは汎用フレームの流用機にすぎない。
禁断の弓を引くために左腕を挿げ替えられ、リアクターは発射のために、スラスターは射撃精度のためにそれぞれ力を使い果たす。姿勢を維持するための全方位噴射に特化したブースターに推力などあってないようなもので、フレック・グレイズの牽引がなければ射出座標までの移動もかなわない。
もがく腕も逃げる脚も持たない固定砲台で、宇宙ネズミの襲撃を受けたのだ。パイロットたちの恐怖はどれほどのものだったろう。
沈痛に目を伏せるジュリエッタも、MS操縦技術がなければ射手のひとりであったかもしれない。運良く腕前を認められ、運が良かったからエリオン家の養女にしてもらえたけれど、それでも成り上がりの小娘だと嘲笑する兵士たちの声はやまない。
ラスタルが女性の地位向上プロパガンダとして期待をかけているのも、ジュリエッタではなくクーデリアだ。
ギャラルホルンの次世代を担う女騎士だとこうも持ち上げられているのに。クーデリア・藍那・バーンスタインが女性指導者としての模範を示してくれなければ、ジュリエッタは恩人の娘になれない。
このまま力を示せなければダインスレイヴ隊に落とされてしまうことだってありえる。
「しんどいだろうけど、指揮官っていうのはそういう仕事よ。これくらいのことで自分を責めてちゃいけない」
「 これくらい の……?」
心細いひとみを大きく見開いて、ジュリエッタは大きすぎる犠牲を矮小なものと言い放った技術者を見つめる。
「そう、これっぽっちの失敗でへこんでたら頭は張れない」とヤマジンはすんなり肯定してしまった。
迷いなくジュリエッタの双眸を見つめ、指揮官として最も合理的な判断をしたのだと、喜ぶに喜べない評価を与えようとする。
「犠牲から学ぶことで人は成長するんだ。ジュリーが大好きだった
はっと目をみはる。あの男。ジュリエッタを拾い、育てた傭兵のことを言っているのだと、すぐにわかった。
爆弾テロで家族を失い、地下倉庫で膝を抱えていたあの日。あのとき。差し伸べられた手は、冷たく歪んだ世界に差し込んだ唯一の光だった。頭を撫でてくれた大きな手。豪快に笑う胸板、たくましい腕を特等席にして、
子供特有の小柄な体躯を生かした作戦に取り立てられればうれしかった。やってくれるか、と男くさく笑んだ傭兵のひげ面に、こみあげた誇らしさは忘れない。もちろんですと胸を張って、ジュリエッタは天性の戦術家があやつる舞台の袖をくるくると駆けた。
おじさまは誰よりも強くて、やさしくて。……今のジュリエッタにはわかる。彼の強さは、名を捨て、出自を捨てて数々の死線をくぐり、生き残る過程で培われたものだ。
戦って、戦って、生きて、生きて、死んでいく仲間の中でただひとり生き残って。幾千幾万の屍を見送り続けた彼の手の中に残されたものこそが
彼はだから、気まぐれにジュリエッタを助けたのかもしれない。甘いホットチョコレートを振る舞ってくれたのも、ギャラルホルンに預けたことも。彼が主導した白色テロから生還した幼子への、せめてもの――。
まぼろしの死を悲しむことすら許されなかった小さな胸に、痛みは今も息づいている。
複雑な胸中を透過して、ヤマジンは
「ねえジュリー。再生治療がこんなにも発展したのはどうしてだと思う?」
「それは、ギャラルホルンの医療技術部が――」
「違うわ」
すんなりと遮ってみせたヤマジンは、当惑げに持ち上がるジュリエッタのまつげの剣先が向くのを待って、オペレッタのようにゆったりと両手を広げてみせた。
「人体は脆いパーツよ。だけどね、刺されたくらいじゃ死なないの。なのにぶつけただけで死ぬときもある。だから人は考える」
――どうしてあいつは死に、わたしが生き残ってしまったのかって、ね。
ヤマジン・トーカの死生観を受け止めて、ジュリエッタのくちびるがわななく。
かつてガンダム・バルバトスと交戦した折り、重傷を負ったジュリエッタはスキップジャック級戦艦に備え付けられたメディカルナノマシンによって見事生還を果たしている。
現代の医療技術では死にゆく命をつなぎ止めることだって可能だ。
その開発過程には『瀕死の重傷』という症例があった。そして、救いたいという強い願いがあったのだろう。消えゆく命の灯火を死神に吹き消されまいとあがいて、失敗して、死なせて、無力に打ち拉がれて、やっと再生治療は『致命傷』を克服した。
……大切な人を失った痛みに駆り立てられる気持ちは理解できる。ラスタルはだから、ジュリエッタに
だが、みずからのうちからは生まれない発想を噛み砕くのは存外困難だった。
いつもドックにいてMSと暮らすヤマジンはアリアンロッドにおいてもどこか浮いた存在で、それでいて整備クルーからの信頼は厚い。ラスタルにも一目置かれている。
才女の立つ足場は、ジュリエッタの居場所とはあまりに違うのだと、思い知るようだった。
戦闘技術ひとつで成り上がったジュリエッタと、手に宿した技術という
それは『野心』の有無だった。
ヤマジンはより強い兵器を作りたいという情熱を胸に抱き、己の願いを叶えるためには上官すら利用するしたたかさがある。
アリアンロッドに来る前はマクギリス・ファリドの息のかかった研究所に在籍していた来歴さえ持っている。旧時代の戦闘用インターフェイスの再現に携わっていたと聞けば、昔のジュリエッタならば一蹴しただろう。
唾棄すべきギャラルホルンの恥部だと、忌むべき力だと切り捨てたこともあった。
三百年の時を越えて蘇った阿頼耶識システム搭載機〈グレイズ・アイン〉は、彼女の作品だ。
厄祭戦当時のマン・マシーン・インターフェイスを組み込んだMSのプロトタイプ。試作機にしては最高の出来映えだとヤマジンは自負していた。
ところがエドモントン郊外で初陣に臨んだグレイズアインは、システムであるアイン・ダルトン三尉の自我が復讐心をたぎらせ、市街地に侵入して暴走。半径数十キロメートルにもおよぶ都市機能が麻痺し、病院などの医療機関は大きすぎる打撃をこうむった。
そうした民間の犠牲はグレイズアインのみの罪科ではない。ツインリアクター機であるガンダム・バルバトスの武力介入もあってのことだ。
というのに、バルバトスの健闘なくしてグレイズアインの暴走は止められなかった――と、阿頼耶識システムの開発をうながしたはずのマクギリス・ファリドが喧伝した。
戦闘の終結とともにアンリ・フリュウ議員とイズナリオ・ファリドの政治的癒着が明らかになったことで、図らずも内政干渉を援護してしまったグレイズアインは醜聞の一幕として処理されてしまったのである。
プロトタイプの戦果を見守っていたヤマジンは、急ぎエドモントン市中へと走った。
せっかくの研究対象をここで失うのはあまりに惜しい。人体実験の許諾を本人の口から得た被検体だなんてそうそう手に入るシロモノではない。レーダーもシグナルも機能しない中ではなかなか戦場にたどり着けず、それでもヤマジンは貴重なサンプルを取り戻すべく車を飛ばした。
ギャラルホルン医療技術部の腕章をつけた白衣姿で走れば救護者として見逃されるはずだという思惑通りにグレイズアインにたどりつき、後始末のため出動していた地上部隊に適当な噓をついてごまかして、回収をこころみた。
そして研究の続行を唯一許可したアリアンロッドに逃げ込んだのだ。
MS技術者ヤマジン・トーカはグレイズアインとともにラスタル・エリオンに匿われ、マクギリス・ファリドの目をくぐり抜けてガンダム・キマリストルーパーを奪取した。
これで所有者の合意を得てのガンダムフレーム強化を研究できる――! マッドサイエンティストは存分に腕を振るった。
非人道的だと批判されて研究の打ち切りを命じられやしないかと怯える必要はもうない。条約で禁止されているのだから運用記録は残らず、ロストしても始末書は書かなくていい。
それは阿頼耶識にせよダインスレイヴにせよ同じことだ。実験の犠牲になった兵士たちも
研究者としてこれほど恵まれた環境は他にないだろう。倫理も人道も、知的好奇心とテクノロジーの発展を邪魔するものはすべて無視して研究に没頭できる。
ラスタルの手のひらから一歩でも外に出ればあるべき世界の正しい秩序がヤマジンに裁きを下すのだろう。恒久平和の象徴であるガンダムフレームを研究対象として見つめるような不届きな技術者は、ギャラルホルンでは当然つまはじきに遭う。
しかしここは、生命倫理とは乖離したヤマジン・トーカの楽園だ。
アリアンロッドだからこそガンダム・キマリスは改修できた。キマリスヴィダールの開発過程ではエイハブ・リアクターの複数搭載にも成功した。〈阿頼耶識Type-E〉の実用化にもこぎつけた。搭乗者が敵対者をフレーミングすれば、命じられるまま脳が焼き切れるまで戦う生体兵器。ガンダム・バエルとの死闘の末に焼き切れてしまったが、その尊い犠牲はギャラルホルンに大いなる技術革新をもたらした。
式典の中心に据えるレギンレイズ・ジュリエッタに生体デバイスは乗せられなかったにしろ、エイハブ・リアクターの複数搭載、ダインスレイヴの射出機構といった新技術は、アイン・ダルトン、ガエリオ・ボードウィン両名の協力なしにはありえなかった。
「世界って相対的なものよ。成功と失敗、生還者と戦死者、許可と禁止……片方だけでは成り立たない。平和だってそう。犠牲なしには実感できない、曖昧なモノよね」
全人類の生殺与奪を握ってマッドサイエンティストは朗らかに笑む。
死があるから生は尊い。そうだろう? 戦場があるから人々は日常のありがたみを感じられる。犠牲から学んだ者はギャラルホルンが与える平和を享受し、喉元を過ぎた痛みを忘れた者がまた立ち上がる。
戦いがあるから武器の需要が生まれ、戦って武器が壊れるループを糧に軍需産業が栄える。治安が安定してしまえば兵器は不要になってしまい、そうすれば兵器を売りたい商人たちが戦場を求める。傭兵たちが雇われ、自作自演で戦場をひっかきまわして経済をまわす。それによって民兵の組織が起こる。武器を買うよりも安く手に入る「子供」という労働力は、肉の壁という職業を得る。学校のないスラムの子供たちはPMCに就職して、明日をも知れない命と引き換えに今日の食事を買うわけだ。
ギャラルホルンの監視があれば大規模な戦争は起こらず、定期的に膿を除いていれば経済は滞りなく回る。
「……わたしには、わかりません」
「わからないならそれでもいいよ。こういうことを考えるのは、わたしたち
ジュリエッタ。狡猾なくちびるがなぞった響きは蛇のように、女騎士の四肢にまとわりつく。
「人として最高に強くなれる方法は、数年後にも確立される見通しよ。そのときを楽しみにしていて」
戦いの中で学びを得、悲しみを背負って、人は強くなっていく。長きに渡る厄祭戦の中で人類がMSを開発し、破滅の未来に抗い続けたように。何十年かの周期でガンダムフレームが反抗の嚆矢となり、希望の象徴となって、そして討ち取られてきたように。
(……悪いねラスタル、わたしは数年後を待つ気なんてさらさらない。大事な秘蔵っ子を悪い科学者なんかとふたりっきりにした、あんた自身の軽率さを恨んで)
いつかヒューマンデブリ掃討作戦が完遂され、駆除された宇宙ネズミの存在を世界が忘れ去ったなら。
阿頼耶識システムはふたたびギャラルホルンの力となる。
ライドを引きずって戻ってきたエンビに、一同は騒然となった。
長身に育ったエンビが肩を貸す格好ではライドの痩身がことさら危うくうつり、それでなくとも死体かと疑うほどに生気がない。人気のない操車場とはいえ血のついたパイロットスーツ姿のまま連れてくるなんてと、危機意識の欠如を咎める声すらあがらなかった。
駆け寄ったデルマが手をとりあげても反応はにぶく、脈も頼りない。舌打ちして頸動脈を探ればやっと正常な拍動が感じられたが、……体温が三十九度近い。
簡易メディカルチェックのために目元に触れたデルマは、ハッと鋭く息を呑んだ。
双眸のエメラルドグリーンがぼんやりと濁っている。のぞき込んでも視線が合わない。
もしかして、視力が――。誰もが言葉を失った。
リミッターの解放にともなう膨大なフィードバックに視神経をやられたのだろう。両手足は無事だったようだが、両目とも持っていかれてしまっては不幸中の幸いとも言えない。
地球へと降りたシラヌイは、船体こそ満身創痍であったものの艦内施設の充実ぶりに価値が見出され、売却ルートに乗せることができた。ガルム・ロディ三機も無事に買い手がついている。アジーらの配慮で手配されていた着替えをコンテナの陰で手早く済ませ、ライドの目覚めを待つばかりだと思っていたのに。
発車時刻が差し迫り、取り急ぎエリゴルの積み込みまでは済ませたが、エドモントンまでは約十二時間。
ライドが耐えられる確証はない。
六人掛けのコンパートメント席は緊張感にぴんと張り詰め、重々しい沈黙が降りている。誰も言葉は発しない。高熱にうなされるライドの呼吸が絶えないことを固唾を呑んで祈るばかりだ。
ぐったりとエンビの肩にもたれかかるライドの体温は上昇する一方で、うめくような寝息は細い。
「はやく医者に……っ」
額に浮かぶ汗を拭ってやりながら、エンビが声をうわずらせる。
頬杖をついて外を眺めていたイーサンが斜向かいから冷ややかな白眼を向けた。
「おれたちはテロリストだ。町医者は頼れない」
再生治療を主とする地球の医療はギャラルホルンと縁が深い上に、時間も金もかかる。中古のガルム・ロディを十機売り払ったってまかなえる額ではない。病院は慈善事業団体ではないのだ。
「アーブラウならきっと、」
「反ギャラルホルン寄りってのは経済圏としての立場だろ。市民全員がそうってワケじゃない。鉄道を降りたらテイワズはもうおれたちを守ってくれないんだぞ」
「だけどっ……エドモントンにはタカキがいる」
「ああ、そうだな。無事に再会したかったら大人しくしてろよ」
「イーサン、言いすぎだ」
「お前は黙ってろよウタ! だいたい……ッ」
喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、拳を握りしめたイーサンは「もういい」とふたたび外に目を向けて押し黙った。
窓際にイーサンとウタ、通路側にはデルマとエンビがそれぞれ向かい合わせて、六人掛けの席はひとつだけ不自然に開いている。
空席のままの隣を視界に入れるのがつらいのだろうイーサンの八つ当たりを責めることもできそうにない。
デルマの膝にすがるように伏せていたエヴァンがおろおろと視線をさまよわせ、イーサンとの間にある空席とデルマを見比べて、気まずそうに口を閉ざした。うつむく幼子をなだめるようにデルマは生身の右手で小さな頭を撫でてやる。
「悪いね」とウタはそっと眦を下げ、苛立つ相棒の乱心を詫びる。
それにはエンビがゆるく首を振って応じ、今にも死神に奪われてしまいそうなライドの手を強く握った。
おれたちはテロリストだ。……その通りだ。民間警備会社として合法的に営業していた鉄華団とは違う。情勢もあのころとは大きく変わった。
当時は治安維持組織であったギャラルホルンは四大経済圏と肩を並べる政治的な組織になったし、鉄華団の残党であるエンビたちは
雇われの傭兵として日銭のために戦っているわけじゃない。
「おれたちはたどり着く。だから今は、今できることをやらなきゃ」
鉄華団の本当の居場所へ、たどり着くまで止まることはできない。道中で支払った犠牲に報いるためにも。
疲労の色濃いひとみに決意に宿すエンビに「ああ」とウタは静かに、みずからに言い聞かせるように首肯してみせた。
「そうだね……」
車窓から臨む初夏のアーブラウは緑豊かで、進行方向を向くウタからは山頂に白い帽子をかぶったカナディアンロッキーが見える。
高くそびえるあの山々を無事に越えることができれば、エドモントンにたどり着ける。
#059 悪魔
懐かしい手が触れていた。
あたたかく、気遣わしい指先が目元をなぞる。汗で重たくなる前髪をすくいあげて、冷たいものが触れた。水気を含んだタオルがひんやりと熱を奪っていく。
そして何かに呼ばれるように、ライドの意識はおもむろに浮上した。
鉤爪のようなまつげがまたたく。目を開けても視界は黒々として不明瞭だが、そのぶん他の感覚が研ぎすまされるのだろう。よく知る気配が感じられる。
夜よりも暗い闇の中にぼんやりと、しかし明確に、そこにいる金髪の盟友がわかった。
「 タ……カキ……?」
探すように伸ばした手が取られ、両手で祈りの形に握られる。
「まだ寝てなきゃだめです」
ライドさん、と呼ぶ声は少女のものだ。続くように上等そうな革靴が鳴って、近づく長身の男の気配。どうやらライドの盟友はこっちらしい。
「フウカが帰省してくれてて助かったよ。おれひとりじゃ何もできなかった」
スーツの上着だけ脱いだタカキはふうと嘆息して、肩で壁にもたれかかった。ライドが横たわるソファにひざまずくフウカもまた、細く安堵の息を吐く。
エドモントンを遠く離れた寄宿制の女学校で学ぶフウカは、一昨日、うちに帰ってきたばかりだ。
学生寮が閉じる夏の長期休暇は通常議会の閉会時期と重なるため、兄妹ふたりで治安のいい場所へ移って静養するのが常だった。
今年は結局、それどころではなくなってしまったのだけれど。
テーブルから顔をあげようとしないウタが「ごめん」とタカキに詫びを入れる。湯気の途切れた紅茶のまるい水面にうつる表情はかたい。その足元で片あぐらに頬杖をつくイーサンもまた不機嫌なようすで口を鎖している。デルマとその膝で寝こける幼子と相性がよくないらしいことは、鉄華団を離れて長いタカキにも察せた。
ひとつしかないテーブル、ふたつきりの椅子。ソファがひとつ。……食器は三人ぶん。あのころと何も変わらない間取りにかつての仲間が揃うことには、複雑な思いがあった。
窓辺に飾った家族写真の向こう側に、タカキはよく晴れた空を見通す。
「……エンビが議事堂まで走ってきたときは、本当にびっくりした」
背が伸びていたこともそうだが、最寄り駅から議事堂まで軽く五キロはあるはずだ。一息に駆けてきたらしいエンビに腕をつかまれたときは何事かと思った。
――タカキ! タカキだろっ?
――ライドを助けてくれ!! ライドが死にそうなんだ、
議事堂の裏手とはいえ少なからず人目がある場所で禁止兵器の名を叫ぶのはさすがにまずい。とるものもとりあえず迎えの車に押し込み、事情を聞きながら駅に向かえばデルマとイーサン、ウタらを拾うことができたわけだが……、通常の議会はいくらか前に閉会を迎えている。
なぜタカキが議事堂にいるのかエンビは知らないようすであったから、深く問いつめることはやめて紅茶に睡眠薬を盛って別室に寝かしつけた。
この家には寝室がひとつしかないのでライドはソファに横たえ、目覚めを待って今に至る。
「三日月さんみたいに戦おうだなんてむちゃくちゃだよ。ライドはおれたちと一緒で阿頼耶識一本なんだから。昔、ダンテさんがバルバトスに乗ろうとしたときのこと、ライドだって覚えてるだろ? ――まあ、これは、おれが説教することじゃないんだけどさ」
三本の端子を背負った鉄華団のエースならまだしも、阿頼耶識のヒゲ一本きりの宇宙ネズミにできることなど限られている。
ヤマギとは連絡を取り合っていたから、ガンダムフレームがよこすフィードバックは脳に相当な負荷をかけることも聞いていた。情報の塊に殴りつけられることで脳細胞が損傷すれば、麻痺、記憶障害、認知や行動に支障をきたすなど多くのリスクが考えられるという。
無理を押して、こんなにぼろぼろになるまで戦っていたライドに何もしてやれない無力が腹立たしい。
「副団長に連絡入れたからね。チャドさんたちも、みんな心配してたんだよ」
「……うん」
「ダンテさんだけは『よくやった』って言ってたけど……」
あのやろう、とデルマが苦い顔になる。
おれも同じ思いだとタカキは肩をすくめて、ライドに向き直った。目を逸らすことなく、硬質な革靴で歩み寄る。長身の膝を折ることはせずに真上からライドを睥睨した。
「おれにできるのはここまでだよ」
宣言はひどく冷たく、静寂を鞭打った。突き放す声音にウタが弾かれたように顔をあげたが、タカキは取り合わない。
おれにテロリストは匿えない。――暗に言い放つ表情からあたたかみは消え失せて、いつも温和であったタカキの印象を手ひどく裏切る。
ぎゅうとライドの手を握ったフウカも、何も言わずに目を伏せた。
確かに
だがタカキ・ウノは政治家だ。いかなる事情があってもテロリズムは肯定できない。武力による解決を容認することは、アーブラウの治安悪化を推進することになる。
かつてギャラルホルンによる紛争幇助で傷ついたアーブラウ・SAUの国境地帯には、反ギャラルホルン感情を持つ市民が多く、ギャラルホルンの軍事介入そのものに否定的な空気がある。だからライドたちはバンクーバーを経由してエドモントンを目指すルートを選んだのだろう。
しかしアンチ・ギャラルホルンは同時に『反ギャラルホルン市民』への不信や猜疑も生んでいる。
反ギャラルホルン感情を叫ぶ声が大きくなれば、あいつらは復讐心を口実に暴れ回る無法者だと印象付けられてしまう。デマの拡散だけは何としても避けなければならない。
敵の敵は味方だ。アーブラウの立場を親ギャラルホルン寄りに傾けることで既得権の恩恵に預かりたい市民だって中にはいる。医療関係者がその筆頭だろう。再生治療の最先端であるギャラルホルンがメディカルナノマシンに関税をかけようものなら、アーブラウはギャラルホルンに尻尾を振るしかなくなる。
だが政権が親ギャラルホルン派に取って代わられれば、あの無音の戦争で鉄華団が流した血は忘れられてしまう。犠牲は黙殺される。そうなればタカキがいくら反対したって、自分が代表指名選挙で選ばれなかったからどうのと筋の通らない反論を受けるはめになるだろう。
家族の犠牲が無駄にならないようにタカキは戦っている。光を目指して進んできた。家族同然であった戦友を看取り、家族と信じた裏切り者を銃殺したこの地球で。家族を戦場に奪われないために、何ができるのか。ずっと模索し続けてきた。
ライドだってそうだろう。五年前、IDの書き換えの折りに再会したエドモントンで、こんなふうに道を違えることになるとは実に皮肉だ。
「おれの戦いは、死ぬとか殺すとか……そういう戦いじゃない。ライドたちが
腕時計を確認したタカキはおもむろに踵を返すとスーツの上着を手に取った。慣れたしぐさで袖を通す。ネクタイを締めなおすと、肩越しにライドを振り返った。
ライドがそうであるようにタカキ自身もまた、反撃の旗頭としての素地を持っている。立場が背負わせる重責も、矛盾も、この中では一番よくわかっているはずだ。
「自分たちが何をしたのか、もう一度よく考えて」
半ば一方的にタカキは吐き捨てる。
「あとで車を寄越すから」と続けたのは、エンビの目が覚めたら出て行ってくれという意味だ。
ウタが目を伏せて、首肯する。ダインスレイヴを撃たせる座標を算出したのはウタである。寝室のほうを振り返って、くちびるを噛んだ。
モンターク夫人の思惑によって撃ち込まれた凶弾の行き先を、隣室で眠るエンビだけがまだ知らない。
スキップジャック級戦艦の中枢ブロックにジュリエッタの私室はある。おそらくダインスレイヴも届かないだろう巨大戦艦の奥深く、廊下は噓のように静かだ。
ラスタル・エリオンを運ぶシャトルは数時間後にもグラズヘイムに到着する見通しだという。
停泊するスキップジャック級でジュリエッタと面会するまでも、あと数時間。
誰もいない静謐を逃げるように駆け抜けて、私室のロックにパスコードを打ち込む。やっとの思いでひとりになったジュリエッタは、閉まる扉に背中を預けて、天井をあおいだ。そのままずるずると座り込む。
糸が切れた操り人形にでもなったみたいだった。ロングブーツに覆われた両脚を投げ出して、目を閉じる。けれど暗闇に馴染めなくて、憂いのキトンブルーをのぞかせた。淡い金色のまつげが惑う。ブロンドが細い肩をすべりおちる。
ヤマジン・トーカの言葉は難しくて、わからなくて、おそろしかった。
作戦開始前にガエリオと話したことを含めても理解に遠く及ばない。
鉄華団と相まみえる前に、ジュリエッタはヴィーンゴールヴのガエリオと話をした。養父ラスタルがグラズヘイムに向けて出立したと聞いて、不安だったからかもしれない。
腰から下が動かなくなって車いす生活を余儀なくされてなお快闊なガエリオの顔でも見れば、気持ちもいくらか晴れるだろうと考えたのではないかと、――他人事のように振り返る。
『きみがおれに通信をよこすとは珍しいな』
脳裏に蘇る声は明るく、戦うどころか歩くことすらできなくなった悲愴を微塵も感じさせない。
アリアンロッドの女艦長もそう多忙というわけじゃないのか? なんて軽口をたたいてみせる余裕すらある。
「因縁の相手と戦うことになったのです」
『……へえ?』
特に何も聞かずに、ガエリオは曖昧に相槌をうった。ジュリエッタが暇だなんて本気で思ってはいないだろう。ラスタルがこのスキップジャック級の艦長であったころからの付き合いなのだ。
モニタ上部の時計をちらりと見やって、ジュリエッタはガエリオに向き直った。アリアンロッド艦隊は二時間後にも鉄華団残党と思しき小型船〈シラヌイ〉をとらえる。
「単刀直入に聞きますが、あなたはどうして禁断の力を受け入れたのです?」
『……きみに蒸し返されるとは思わなかったな』
「鉄華団の残党とふたたび相まみえる今だからこそ、問いたいのです」
阿頼耶識使いと戦う前に。仮面をかぶって【ヴィダール】を名乗っていた、ガエリオ・ボードウィンに。
『……あれは一度、アインを生き返らせた力だ』
かつての部下を追想しているのか、ガエリオは自嘲気味に笑んだ。ダルトン三尉の名をつむぐくちびるは気遣わしく、大切なものを抱きしめるように『アイン、』と繰り返す。
アイン・ダルトン三尉は、誇り高き従者であったとしてボードウィン家の墓の隣に葬られている。
火星人との混血児であったという彼は、その出自ゆえ、ギャラルホルン兵士の共同墓地には葬れない。その最期ゆえに葬儀を出すこともできなかった。
行き場のない死はセブンスターズの特権によって、ヴィーンゴールヴで弔われた。
立派な墓石が居並ぶ中、ぽつりと所在なげに、アイン・ダルトンの墓はある。
墓碑に名前が刻まれなかったのは、妹・アルミリアへの配慮だろう。葬式すら出されなかった逆賊マクギリス・ファリドを討ったのは、英雄の乗騎ガンダム・キマリスヴィダールだ。そのメインシステムであった男をボードウィン家の従者として眠らせることには、多くの葛藤がともなったに違いない。
ジュリエッタは押し黙り、続きを待つ。
『アインを生き返らせる唯一の手段だと聞いて、おれは飛びついたんだ。おれをかばって致命傷を負い、生命維持装置に生かされているだけの部下を、助けてくれるという甘言にな。……おれが否定するわけにもいかないだろ?』
「彼をあなたの力としたのは、どうしてだったのです」
『強い力をおれは欲した』
「ひとりでは手に入れられないから、借りて戦ったのですか」
ああ、と吐息で肯定したガエリオは、しばし言いよどんでから『いや』と首を振った。
『おれには何もなかったんだ。大義も、野心も、理想も。そんなだから、上官の復讐に燃えるアインがまぶしかったんだろうな』
「まるで他人事のような言い方です」
『今さらだからさ。昔のおれはいつも野心家に憧れて、追いかけて……。おれ自身には成し遂げたいことなんて何もなかったのに』
だから借りるしかなかったのだとガエリオは当時を振り返る。
何かを成し遂げようとする姿に憧れるのに、その
だから借りた。
真似をしようとした。
それがマクギリスでありアインだったのだ。
幼馴染みのマクギリスは幼少のころから勤勉で、勉強も木登りもピアノもスポーツもバイオリンも、何をさせても一番だった。天性の負けず嫌いであったガエリオは、そんなマクギリスを必死になって追いかけた。理想を語る横顔に、高みを目指す背中に、ガエリオは憧憬を抱いた。
隣に並べることは誇らしかった。群れを嫌うマクギリスが、ガエリオにだけは隣を許す。女学校に通うカルタと違って、年だって半年ほどしか違わない。
父たちには言えないような革命の志をこっそりと明かされるたび、おれはマクギリスの
そんな盲目を嘲笑うかのように、マクギリスは剣を振り下ろした。
『マクギリスへの復讐は、おれがはじめて抱いたおれ自身の野心だった』
友の手にかかり、残骸の中に残されたのは理想も志も持たない、ただのガエリオ・ボードウィンだった。
レールの上を歩くばかりの人生だったと気付いた。今日の天気に似合う紅茶だって銘柄は執事が選ぶ。淹れるのはメイドだ。アルミリアのように、みずから望んで誰かのために紅茶を淹れてやりたいだなんて、そんなモチベーション、持ったこともなかった。
将来はどうせ家柄の釣り合う女と見合いをして、嫡男をもうけてボードウィン家を継がせるのだ。再生医療のおかげで寿命はたっぷりとある。面倒なことは先延ばしにして、今くらい羽を伸ばしたっていいじゃないか――。そうやって、愛を夢見るカルタの熱情も、恋に恋するアルミリアの華やぎも、どこか冷めた目で見ていた。
当然だ、ガエリオは
セブンスターズの一家門・ボードウィン家の正当な血統を持って生まれ、老人たちに都合のいい人形に成長し、夢も理想も何も持たずに流動食のような平和を享受するだけの、家畜だったのだ。
隣で育ったマクギリスは穏やかな笑顔の裏に苛烈な復讐心を秘めていたというのに。
幼馴染みであるカルタは、愛する男の前では無様な姿をさらすまいと、息絶えるその瞬間まで気丈であり続けたというのに。
ガエリオだけが空っぽだった。
何も持たない両手に気付き、ガエリオは焦った。おれにも何かあるはずだと、砂漠の米粒を探すようにもがいて、やっと見つけ出したものがマクギリスへの復讐だった。
結局はそれもアリアンロッドのような閉鎖的な空間で、潤沢な予算を投じられて叶えてもらったようなものだった。ラスタルの大義を借り、カルタのためにと大義名分を掲げ、アインの力で成し遂げた。
おれ自身の仇を討つと叫ぶだけの自信を持てなかった、ガエリオの弱さだった。
人形がいかに心を求めようとも、腹には綿をぎっしり詰め込まれてしまったあとだ。蝶よ花よと三十年以上の月日をかけて、ものを考えないように、体制に都合のいいように育てられた傀儡は、みずからの意思で考える脳を持たない。
『……武運を祈るよ、ジュリエッタ』
ガエリオは最後にそう言って、愛嬌のある双眸に悲しみをうつして微笑した。
「あなたに祈られるまでもありません」と突っぱねてしまったジュリエッタにも、淡く、やさしく。
鉄華団との戦いに今度こそ決着をつけたかったジュリエッタは結局、ダインスレイヴ発射用グレイズ隊、ダインスレイヴ回収用レギンレイズ隊に途方もない犠牲をこうむって、アリアンロッド・グウィディオン両艦隊を活動停止にまで追い込んだ。
ヤマジンの言うように、この程度の犠牲で悲しんでしまうのは指揮官としてふさわしくない感傷かもしれない。何も考えずに命令に従うことが、人形のように落ち着き払っていることがジュリエッタに求められる
けれど、この失態では『女騎士』の称号が『戦犯』という蔑称に挿げ替えられたって不思議ではない。恩人の役に立ちたくて頑張ったのに、このざまでは、もう――。
ジュリエッタは冷たい床から身を守るように膝を抱えて小さくなる。
まるで、死にゆく母親の手で暗い地下倉庫へと突き落とされ、寒さと飢えに膝を抱えていたあの日のようだった。くちびるを噛む。泣いてしまわないように、暗闇をふりあおぐ。
何も持たないジュリエッタは、世界に抗いたいだなんて大それた野望は抱けない。ゆくゆくはギャラルホルンの後継者となるためにと与えられた本を熱心に読み、勉強もしたつもりだ。
そのせいでジュリエッタは恩人のすべてを肯定できなくなりつつある。
鉄華団の悪魔を討ち取った功績を認められて、分不相応に出世してしまったけれど、ガンダム・バルバトスを倒したのは
キトンブルーのひとみに涙の膜がふくれあがる。泣いてしまうまいと手のひらでぬぐうのに、涙はあふれてとまらない。
軍服にしずくが落ちないように立ち上がろうとして、長い裾を踏んづけてつんのめった。
(わたしは、ラスタル様の……っ)
冷たいフロアにぽたり、ぽたりと涙は落ちて、細い肩が幼子のようにふるえる。髪も背も伸びて、大人になったと思っていたのに、ジュリエッタはあのころと何も変わっていない。
なのにどうして、差し伸べられる手が今はこんなにもおそろしいのだろう。
【次回予告】
人が人らしく生きられる世界……そのためにギャラルホルンは生まれたんでしょう? お兄様はマッキーのこと何にもわかってないわ。
お話をしましょう、お兄様。わたしたちの、本当のしあわせのお話を。
次回、機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ雷光。第十話『アルミリア・ボードウィン』。