いつから、私は境界を越えてしまったのだろう。
何も見えない、何も聞こえない。そんな暗闇の中で私は夢想する。
この何も見えない暗闇の中に、ただ一人歩いている。
ただ、どこに向かっているか分からない。落ちているのか、浮かんでいるのか。
そんな認識の境界さえ、私自身は失った。
かつて、そこに在ったはずなのに。いつから見失ったのだろう。
どこにいるのかさえ分からない。ここが本当に、私の居場所なのだろうか。
こんな矮小な私の存在の証明さえ、闇に惑わされ見失った。
だから、私にできるのはただ食べることだけ。本能がそうだと叫ぶように。
それだけで、私の存在を肯定できるという不可思議にも思えるような自信があった。
そんな私の心に闇が落としていったのは……。
そんな私を落としていった世界がくれたのは……。
ほんの少しの甘美な踊る肉塊と。
悪戯に光る炎の洗礼だけなのだから。
◇
「AzoLto!」
流れるように振るわれた細い指に灯るのは歪に光る炎。たった一言の呟きが異物となり現れ、間違いなく世界から逸脱していると感じるこの瞬間は何時見ても感嘆を禁じ得ない。だが、そのような感動はこの戦いの場では最も唾棄すべき存在だ。意思の籠った炎は真っ先に闇へと伸びていく。正確に言うならば、闇の原因である『何か』に向かって、である。
「わわっ、危ない」
攻撃をすれば、子供のような幼さすら感じられる反応を返してくる。だが、その本質を掴むことはできないでいた。そもそも、目の前のあれは本当にこの世のものなのか、と疑わずにはいられない。そもそも、子供と判断した原因が本当に子供であるかすら定かではないのだ。
そして、子供同然のそれが抱える純粋さはその愚直なまでの無垢を体現していたが、それが恐怖と暴力へと向かえばそれこそ刃物と同義だ。容易に周りのモノを傷付ける。その対象は己すらも例外ではない。少女は笑いながらその炎を消し去った。恐ろしいことをさも同然にやってのけているのを見れば、それだけでこちらの現実とはかけ離れた神秘を内包しているのは一目瞭然だ。返す刀で札のような物を懐から取り出し、高らかに宣言する。
「『夜符 ナイトバード』」
二色の光が列を成し、鮮花に殺到する。だが、それは暴力と呼ぶには些か綺麗過ぎた。思い浮かべた第一印象は『芸術品』だった。拙さも感じられるがそれは確かに形を持って、価値を求めて光り輝こうとしている。だが、幾ら光り輝こうが美しくあろうが、それが暴力として生まれたモノならば、それは等しく障害である。できることはこの攻撃を避けるために疾走するだけだ。頬を掠めるように飛んできた光は頬を軽く焼いた。しかし、立ち止まることは暴力に屈するのと同義だ。
「(兄さんたちはもう既に村長の村まで辿り着いているはず……なら本気を出しても問題はなさそう)」
一般的な魔術を行使することにおいて、黒桐鮮花は未熟であると言わざるを得ない。というより、その才能はないと師匠である蒼崎橙子からも伝えられた。それ故に黒桐鮮花は唯一にして最大の武器を十全に使うしかない。
「一か八かよ!」
そして覚悟する。ただ避けるしかしてこなかった暗闇に向かい走る。暗闇の周囲を駆け回りながらその中心を見極め、更には放たれる攻撃が途絶えるコンマの間まで突き詰められた上での愚直なまでの突撃。その姿は猪突猛進する獣の様であったが、そこに至るまでの動きは正に計算され尽くされた機械だと言ってもいい。
そしてその突進はやはり、少女の驚きと痛みを訴える声で終わりを迎えた。
「痛い!」
「くっ!?」
暗闇の中に踏み込んだのはほんの一瞬だったが、跳ね返されるような衝撃と弾き飛ばすような感覚は確かだった。しかし、原因は未だ闇の中にいる。愚直なまでの突進という行動に秘められた意味は確実に仕留めるという強固なモノだけだ。倒れたと、仕留めたと分かるまで己が全力を叩き込む。
「AzoLto!」
チラリと灯った炎の輝きを頼りに即座に二撃目を放つ。ここで引けば二度目はない。それは相手も分かっているはずだ。
「うぐぁっ!」
「っ! FoLLte!」
振るった拳に走る鈍い感覚に確信を得て、更なる一撃に踏み切る。これで確実に止めを刺す。逃がすつもりなど毛頭ない。踏み込んだ足を軸に真上まで振り上げられた足は、体重と重力に後押しされ驚異的な威力を持ち、闇の原因へと殺到した。
「MezoFoLLte!!!」
全力の踵落としと共に炸裂した先ほどまでとは比べ物にならない豪火がただ対象を焼き尽く――したはずだった。
「痛い、のよ!!!」
「え?」
意識を一瞬だけ、確かに失った。そう理解した次の瞬間には地面への落下と粗い砂利による擦過傷による痛みに悶えていた。球体状の闇から10mほどだろう、それだけの距離を吹き飛ばされた鮮花が気絶しなかったのは、この場においては幸運であった。その痛みからの逃避だけを考えるならば、不幸だったのだろうが。
そして鮮花は目撃する。目の前の巨悪と罪を現したような深い闇が風景へと解けるように消えていく様を。そしてその闇の元凶であろうモノの正体を見た。
「ほ……、んとうに、子、供?」
「子供じゃないわ、ルーミアよ。まぁ、最も人間でもないのだけど」
その発言に鮮花は驚いたが、それよりも自分がするべき事は今陥っている状況の理解と打破であると、自身の状況を確認していた。
全身に無数の擦過傷を確認。動作に支障が出るほどではない。腰、左手への打撲を確認。可動域は狭まるが戦闘続行は可能。腹部に鈍痛。今は小さな痛みだが、肋骨にヒビ、最悪折れている可能性がある。恐らくだが、突き飛ばされたのだろう。目の前の少女……否、妖怪の腕力に任せた適当な攻撃で。だが、人間である以上、それに対抗できるほどの力を出すことは不可能である。そもそも人間は人を数十メートル投げ飛ばすような力を持っていない。異能である発火にしてもそうだ。あの威力のモノを受けた後にあの攻撃を放った。反射的ともいえるあの攻撃を以てこの華奢な体を吹き飛ばしたのだ。あれが意識を持った本当の殺意による攻撃だったなら、恐らく内臓で無事な形を保っているものはなかっただろう。
「(これってもしかして、勝ち目なし?)」
ここで取るべき行動は逃走、なのだろうが逃げたところでどうこうできるとは思っていない。同様に戦闘も無意味である。目の前の怪物が持つ膂力の前ではただの女でしかない鮮花はあまりにも無力であり、目の前の少女が持つ神秘の前に半端な魔術師である鮮花は同じように無力だ。
そして何よりの違いは、こちらは向こうの無力化は出来るかもしれないが、相手は無効化はおろか、殺害し完全に脅威を消し去ることができてしまう。
十中八九、黒桐鮮花は目の前の
「で、まだやるの?」
「……当然よ! 私の後ろには私の好きな人がいるんだから!」
少なくとも幹也へと危害が加えられることは避けたい。愛する人の身さえ無事ならばそれでいい。その一心だけで目の前の神秘に絶対に勝てない戦いを挑んだ。無謀だと分かっていてもなお身体は、意思は止まることを良しとしなかった。
「貴女、人間のくせにやるじゃない」
「あら、貴方こそ、化物のくせに可愛い面してるじゃない……燃やし甲斐があるわ」
大胆不敵に笑ってみせる。それくらいしか、今の鮮花にできることはなかった。諦めたように両手を開き、微笑みながらこう呟いた。未だ変わらないこの状況を打破することは不可能。
「それに……あんまり待たせないで下さい、橙子さん」
「……え?」
目の前の少女が驚きと共に振り返る。目に映るのは、遥か彼方まで広がる、夕陽が輝く田園風景のみ。
何も、いなかった。そう認識した時には既に彼女の術中に嵌っていた。いや、術というには余りにも粗末なものであった。結局何をしたのかといえば、唯の騙し討ちである。だが、それで生まれた一瞬の隙は10mの間を詰めるには十分であった。
「AzoLto!!」
掌を顔面に突き出す奇妙な形であったが、少女がそれの意味を理解するには些か時間が足りなさすぎだ。鮮花の意識が言葉に変わったその瞬間にはもう、必中の一撃は文字通り、狙い通りの効果を以て行使されるのだから。
「あっ、があああああああ!!!!」
顔面全体を焼く。掌で目を押し潰すように向けられたそれから迸る灼熱と光。反射運動すら許さず、防御不可能回避不可能の一撃を絶対に効果の現れる箇所に放つ。現時点で黒桐鮮花が思い付いた最大限の一撃である。
だが、獣のような少女にとってそれはただ怒りという火に油を注いだようなものだ。
「嘘吐きがああああああああああああ!!!!!」
何がしようとしているかといえば、ただ噛み付こうとしている。だが、人間でいとも容易く50kgを超える力を生むその行為を化物が行おうとすれば、それはただただ恐ろしい脅威でしかなかった。
だが、一瞬の暗闇さえ生まれれば、それだけでいい。胸倉を掴み、体格差と腕力に任せ、相手の勢いをそのまま自分の後方へと……
「騙される、アンタが悪いぃっ!」
背負い投げの要領で投げ飛ばす、というよりも叩き付けると言った方が正しいだろう。自分の身長と等しい高さからの急転直下。その衝撃は銃撃のそれにも匹敵する。ゴツッ、という音は頭を地面に強かに打ち付けた音だろう。それきり、目の前の、足元の少女は沈黙した。呆気ない、と言ってしまえばそれまでだが、その結末までに鮮花は何度死を覚悟しただろうか。
濃密なまでの、死と隣り合わせの空間。
自分を上回る脅威。全身を襲う恐怖
それが終わったと思えば、どんな結末であれそれは生への実感と安心を生むだろう。
「……眠っていれば、ただの可愛い女の子なのにね」
そういうと、その場に少女を置いて歩き出した。流石に人間でないものを人間と同じように扱うことは難しいのだろう。それもつい数秒前まで本物の命の取り合いをしていたのだ。それはある意味では当然の行為だっただろう。尤も、黒桐幹也であれば、背負って連れて行くまではしなくとも、このように道のど真ん中ではなく木陰にでも連れて行き、傷の手当くらいはするのだろうが。そのようなことをフラリと考えていたその時に、呟きは聞こえた。
「…………その通り」
そしてその呟きが、自分の背後からだということが、唯一の証明だった。それだけで既に何が起きたかは明白であった。自分がやったことをそのまま返されただけなのだから。気絶したふりをして後ろを取り、相手が油断したら仕掛ける。たったそれだけの単調とすら言えるこの手段を選んだのは、少女のささやかな意趣返しと言ったところだろうか。
そんな思考が頭の中でしていられたのは、目の前の光景に対して鮮花は貪欲に傍観者であろうと逃避し続けただからなのだろうか。
闇が、奔る。
ただ、黒く不気味なその塊が今まで持たなかった質量を持って襲いかかるその瞬間……
「流石……橙子さん……」
「その手には乗らな……ッ!?」
闇が闇を喰らう。そんな光景を見たのは初めてだ。少女から現れた闇を喰らうのは無機質な正方形の匣から溢れ出る荊のような『闇』だ。少女の闇を彼女の妖怪としての存在を示すものとするならば、匣から溢れるソレは物質としての意味を得た正真正銘の『闇』だと言えるだろう。
「やぁ、鮮花。随分と元気そうじゃないか?」
「いたなら最初から助けてくれれば良かったのに……」
「着いたのはほんの今さっきだよ。どうした? それにいたなら助けてくれって、何をしたんだ?」
「え、あぁ……いえ、なんでもないです」
「そうか、私を騙し討ちの材料に使えたんだから、それでいいだろう?」
なんだ、知ってたのかと呆れてその場に座り込んだ。だが、今さっき着いたのならばなぜ知ることができたのだろうか。それだけが鮮花にとって疑問だった。
「実を言うとな、お前の制服にルーンの加護として色々付けさせてもらっててな」
「……その所為ですか「そのおかげと言え」」
「さて、この小さな妖怪ちゃんの相手だが……コイツを使うまでもなかったか」
既に橙子が放った匣から伸びる荊が少女の闇を三分の二ほど食い散らかした辺りで、匣の蓋を閉めようとしたその時だ。
『あら、随分と面白いモノを飼っているのね、貴方』
声が響いた。聞こえたのではない。そこにいないはずの第三者が直接脳に言葉を刷り込むような感覚。鮮花は顔を顰め、橙子は楽しそうに笑った。
「私に気付かれずに脳内へと念話を送るとはな……。どこの悪趣味な魔術師だか知らんが、話すならお互い顔を合わせるのが道理だろう?」
『本物も分からない貴方がそれを言うの?』
「……ほう、念話ではなく脳内に侵入しているのか。だが、それではこの状態に説明がつかない。このような魔術となればそれに伴う動作が必要のはずだ。指で相手を示す、目で見る、触る。どれにしたって近距離にいなければ魔術として達成しえないものだ。できないこともないが、それを行おうと思ってもそれに掛かる労力とは圧倒的に釣り合わん……貴様は何者……いや、何だ?」
『クスクス……。私がいつ魔術師だと言ったかしら? 私は正真正銘、妖怪よ。あの可愛い男の子のところで待ってるわ。すべてはそこでお話ししましょう。そこの小娘妖怪も連れてきてくれると嬉しいわ』
それだけのメッセージを響かせると脳内に広がっていた嫌な感覚が嘘のように消えていった。鮮花の顔色は見るからに悪そうだが、橙子はその様子をチラリと見るとルーンの魔術によってそれを容易く治した。鮮花が礼を述べる前に顎で少女を運べと伝える。
「幹也は、大丈夫ですかね……」
見るからに心配している鮮花に向かって、橙子は淡々と言った。
「大丈夫だよ。ああいう変わり種はね、殺すにせよなんにせよ一つ二つ遊びを入れたがるからな。急いでいけば間に合うだろうさ」
皆さん、お久しぶりです。インフルエンザに魘されながらも更新することができました。下-1としたのは丁度話が綺麗に切れて、尚且つ文字数的にこのあたりを超えるのは読み難いという独断と偏見の下での判断であります。
閑話休題。四月からいよいよ三年生です。そこからが、約一年間に及ぶ地獄の期間というところでしょうか。皆様にお話をお届けすることも難しい時期になってくると思います。この三月中に番外編を終え更にもう一本書ければ、と考えております。
最後に毎度のこととなりますが、誤字脱字、感想、評価は遠慮なさらず、思ったことをどしどし書いてくれたり点数にしてくれたりするだけで作者は嬉しいです。皆様、何卒応援の方をよろしくお願いいたします。