~見えも聞こえもしない屋敷~
周りを鬱蒼と茂った木々で覆われ、深い霧に包まれ、そして差し込む太陽の光は晴天のそれと変わらずにその屋敷を照らしていた。
「藍、この術式はもうずいぶん経ったから新しいのに掛け直しておくわよ」
誰にも気付かれず誰にも覚られず誰にも認識できないそこに妖怪の賢者たちは住んでいた。
「分かりました。あと紫様、足元にある衣類、一切合切洗面所に送っておいてください。私が洗濯しますから」
そしてそこには妖怪の賢者の従者の姿も見えた。紫よりも少し背は高く、美しい金髪を持ち、人の姿をしているがその背には九本の狐の尾が左右に小さく揺れている。察しの通り、彼女は九尾の狐である。名を八雲藍という。八雲の姓を貰い受け、長い間賢者の式として生活している彼女は紛れもなく幻想郷の中でも屈指の実力者である。そしてそれを使役する紫も強力な妖怪であるということは説明せずとも分かるはずだ。
「藍様、こちらの結界もそろそろ変えた方がいいのでは?」
その後ろに張り付くように歩いているのはその藍の式である橙である。見た目は子供と大差ないが、頭に生える猫の耳と、二本のひょろりと長い尻尾は彼女もまた妖怪であると証明するには十分であった。まだ八雲の姓を貰ってはいないが、この三人の関係は家族といっても過言ではないほどに深いものだ。橙も姓が貰えないことについては何の文句もないようだ。
「そうだな、橙。とりあえず印を付けておいてくれ」
ところで、彼女たちはこの通り大急ぎでこの屋敷の清掃活動に勤しんでいた。衛宮切嗣から聞いた、またその記憶から見て理解した聖杯戦争。紫としてもかなり凄惨なモノと予想はしていたが、実物はその予想を遥かに上回るものだった。そんなものに挑戦しようというのに、その本拠地が足の踏み場もないようなボロ屋敷では話にならない。ということで屋敷の片付けに勤しんでいた次第である。
その傍ら、紫の思考は張り詰めた矢のようであった。
「(幻想郷の争いがスペルカードであるように、外の世界の魔術師の戦いは決闘なのね。命と血統の全てを懸けた……)」
この幻想郷でならば、平和的な戦いになるのだろうか。マスターは弾幕ごっこのルールに則り、戦いサーヴァントも真剣勝負を是とし、誰も死なずに済むのだろうか。
「(恐らく、無理でしょう)」
衛宮切嗣の戦いを見た今となっては、それは甘い希望でしかなく、その希望は実現しないと分かり切っていた。裏切り、騙し、欺いて、それでも手にすることができたのは悲劇を生むあの黒い太陽のみだった。この幻想郷を救うならば、彼の言う通りに戦うしかできない。
「(私がこの聖杯戦争を戦おうと思っても……)」
恐らくできない。守ろうとする甘さが、回り回って自分を殺す。そう理解していても納得できないのだろう。相手が幻想郷を乱そうとするならばその時は全力を以てそれを蹴散らす。だが、相手が幻想郷の住民だったら、自分は躊躇しないだろうか。その確証はない。
ふと、頭の中にパチリと火花が散るような感覚があった。しかし、これはただの感覚によるものではない。幻想郷を覆う二つの結界のうち、どちらかに異常が発生したときに響くよう定められたそれは、ある意味知りたくない悪い出来事の兆候である。同じように藍もそれを感知したようだ。漂う雰囲気が先ほどよりも鋭くなっていた。
「藍、お客様よ。それも『三人』も。丁重に、持て成してあげましょう」
スキマを開き、その中へと足を進めていく紫。そしてそれに続いていく藍。
「はい、紫様。橙、済まないが片付けを進めておいてくれ」
「分かりました! 紫様、藍様、頑張ってください!」
二人がスキマに入るとそのスキマは入口を閉じて消えていった。
side 空蔵 創也
「ここか……ここが、俺の求めていた忘れられた地か!」
目の前に広がる無限の緑と空の蒼にただ感動していた。胸を撃たれた。ただ、その在りもしないと言われ、否定された空間を知り、そこに存在している。己が今までの定説を覆し、その証人となっている。
息を吸う。ただ、穢れの感じられない空気であると分かった。鼻を通り、肺を気持ちよく冷やすような感覚を味わった。これほどまでに空気の変化を感じたことはなかった。ただ、その空気の変化はそれだけではなかった。
「魔力で満ち溢れている……一般人にはちょっとキツイだろうな」
外の世界では薄れてしまっているのか、はたまた
ふと、自分の右手の甲に熱く、鈍い痛みが走った。その痛みの元凶は何なのかなどということは考えず、ただその原因は何なのかを確認したかった。そしてそれを見た瞬間、空蔵創也という魔術師は正に魔術師として最上の幸福に包まれたといっても過言ではないだろう。
「令呪! そうか、聖杯戦争か! まさか俺が経験するとは思わなかった! あぁ、幸せだ……。魔術師として、まだ生きていけるのか!」
狂ったように叫び、全身でその喜びを露にする。ただ、魔術師である自分に訪れた幸福にひたすら酔いしれていた。
side 八雲 紫
「あれが、魔術師ねぇ……切嗣みたいなのは異端だと知っていても、流石にあれはどうかと思うわ」
「同感です」
幻想郷の上空。ぱっくりと開かれた、両端をリボンで結ばれたスキマからその二人は見下ろしていた。眼下に広がるのは幻想郷の大自然。その中でひたすら踊り狂う人間が一人。
「紫様、ここで見ていてください。侵入者は確実に私が仕留めます」
眼下の大自然へ、もとい目標であり侵入者である人間の元へスキマからその身を投げ出そうとする己の式を紫は止めようとはしなかった。
「分かったわ。でも、いいこと? これだけは守りなさい」
そういうと一呼吸付いて紫は言い放った。
「慢心しないこと、相手が人間であっても。驕らないこと、相手に幻想郷のルールは通用しない。そして危なくなったら素直に私に助けを求めること」
「委細承知」
そう呟くと藍はスキマから飛び出していった。眼下の人間も藍に気付いたようで咄嗟にその場所から移動していた。もう間もなく、藍が地面に到達するであろう。そして一瞬の間を置き、ズドンッ、というとてつもない音が地面から響いた。それだけではまさか生物が空中から着地した音だとは誰も思わないだろう。
「さて、お手並み拝見といきましょうか。可愛い魔術師さん」
side 八雲 藍
目下の人間めがけて、重力に逆らわず真っ逆さまに落ちていく。その身体には幾重にも妖力による強化が行われていた。この状態ならば、ほぼ無傷で地面に到達することができる。しかもこのままいけば、人間を地面と自分に発生している運動エネルギーの二つによって醜い肉塊へ変えることも容易に可能である。
最も、そんな簡単に済めば八雲紫も魔術師という相手を問題視などしなかっただろう。
相手の人間は此方を確認するとただニヤリと笑い、その場から即座に移動しそれを回避した。
「へぇ、まさか九尾が、というより妖怪が人の皮を被っているのか、この世界は」
ズドンッという音とは裏腹に藍へのダメージは驚くほどゼロに近かった。そんな目の前に降り立った彼女を舐め回すようにこちらを見つめていた。放たれたその一言に若干の怒りを感じつつも、相手の様子を窺う。
「まさか俺を殺そうと……するんだろうな。正に今から殺してやろうって匂いがするよ、君からは」
「ほう、物分かりは良いようだな。それならこのまま投降してくれないか? 利口そうな君なら理解できるだろう? 人間じゃ妖怪に、ひいては私がその人間であっても勝てない」
「そうか、そうだね。じゃあ
思いのほかあっさりと投降した。背中に背負った大きな鞄を地面に降ろし、その場に伏せていた。腕は頭の上で組まれ、その状態から反撃できるような武器も透視では見当たらなかった。鞄から武器を取り出すことも不可能だろう。一応の透視はしてみたが、中には何も入っていない、というより武器足り得るものを
「で、君はしばらく拘束されることになる。というより、十中八九君を殺すことになるだろうな。何か言う事はあるか?」
今まで、というより飛び降りてきた時から張り詰めていた緊張はあっさりと解決した事件に拍子抜けして、既に霧散していた。
「そうだね……。じゃあ君に一つ教訓を授けよう。……『最後まで油断しない方がいい』」
そう言って目の前の男はただ口元を歪ませた。
それと同時に私の身体が何かによって真横に吹き飛ばされたことに気付いたのは、森へ突っ込み木を三本ほど圧し折り、四本目の大木に叩きつけられ止まった時であった。
「ガハァッ……!」
肺から空気は搾り出され、その衝撃の重さに気が動転していた。あの屈んだ状態から、何もせずに、何か魔術を使う素振りも見せずに、何かが私を吹き飛ばした。それだけは分かったがその疑問は遠くに見える男の傍らに立つあるものによって解消された。
「人……間……だ、と……!?」
「ほう、やっぱりそう見えます? こう見えるようにできたのは五年前、二十四歳の時かな? いやぁその夜は身体が火照って眠れなくてね、その感動の何たるかを全人類に説いて回りたいくらいには燃え上がっていたね」
蹲っている男の傍ら、もとは大きな鞄があったそこには先ほどの男と何ら変わらない人間が立っていた。いや、それを人間と評するには些か不気味すぎると言えた。何の色も写さない瞳。微動だにしない唇。呼吸をしない肺の動き。それはあまりにも静止しすぎて、いや、完成していると言った方がいいのだろう。
あれは紛れもなく人間として完成していた。一人の人間として、一つのモノとして、それは完璧なものとして生まれるべくして生まれ落ちたのだろう。それが朽ちる姿を藍は思い浮かべることはできなかった。
だが、その人形の頭が突然ゴトリ、と地面に落ちたのだ。元からそこには何もなかったように。そしてそれを見た男は更に口元に笑みを浮かべた。
「これだけじゃただの人形なんだが、まぁ君くらいならばこの状態でも構わないか。なんだかここの世界の妖怪、ずいぶん弱いみたいだからね」
「……抜かせ!」
自分に放たれたであろうその言葉に怒りを感じずにはいられなかった。
自分はあの九尾の狐なのだ。
人間が語り継ぎ、恐怖と絶望の権化であったあの大妖なのだ。
その誇りを傷付ける発言をした男を許すことはできない。
大木を蹴り、目の前の男に襲いかかる。右腕はまっすぐ相手の首を貫くような形で固まっていた。妖力で強化した腕と爪は正に刀と言っても良いほどの切れ味と銃弾と変わらぬ破壊力を持っていた。
「
だが、男の方は特に怯える様子もなく小さく呟くと、人形の左手がそれを受け止める。空中に浮いたままの藍に向かって首のない人形はお返しと言わんばかりに左手を貫手のように固定して撃ち込む。狙いは同じように頭それを右手を軸に回転し回避する。
「ほう、人間、まさか口先だけだかと思ったが意外にやれるものだな?」
「そういう君こそ、こいつの攻撃を避けて見せたじゃないか。お互い様だよ」
「そういえばさっき、降参するとか言っていたような気がするが」
「あぁ、こっちは降参しただろう。だから今度はこっちが戦うのさ。人間が妖怪と殴りあって勝てる訳がないじゃないか」
そう言いつつ傍らの人形を指差す。なるほど、と頷くわけではないが、彼の言っていることに嘘は何一つない。ただ、此方が少し注意して聞いていればあの不意打ちも未然に防げたかもしれない。そう思うと自分にひたすらイラつきを感じる。戦いが始まる前にも言われていたはずだ。油断するな、と。
「どうしたんだい、そんなイライラして」
「あぁ、分かり切っていた問題をミスしてしまった時のそれと同じようなものさ。気にすることはない」
その目に油断の色は欠片も見られなかった。あるのは、ただ全力で目の前の敵に対する純粋な敬意と警戒だけであった。
だが、それだけで攻撃を防げたならば、それほど簡単なことはない。
それが迫ってきたのは正に地面。そう、滑り落ちた首から。正確にはその首から覗く瞳から発せられたそれを視界の端で捉えられたのは偶然であるとしか言えなかった。目と目が合ったのは時間にしてコンマ一秒にも満たない。その目から黒い弾丸が飛び出したのを見て首を捻りギリギリ回避した。反射的ではあるがそれを回避して正解であったと思う。
何故ならその外れた弾が直撃した木の幹に拳程度の大きさの穴を穿ったからだ。
ガンド撃ち。本来ならば対象を指差すことでその対象の体調を崩す共感魔術と呼ばれるものだ。その動作が人に失礼に当たるというのもこの魔術が由来と言われるが、それはこの際どうでもいいことだ。大切なのはこの魔術がより強力になるとそれは対象に物理的なダメージを与えることができることである。そうなるとこの魔術は名前をフィンの一撃というものへと変える。これは正にそのフィンの一撃と呼ばれるものと何ら変わりない。
だが、その避けるという一拍の動作は相手の狙うところである。その一拍を相手は逃すことなく掴んだ。畳み掛けるように人形は肉弾戦を仕掛けてきた。異常なほど綺麗な正拳突きを更に躱す。否、躱させられた。まだ、相手の予定の内なのだろう。
「
余裕すら感じられるその三節の呟きと共に人形はもう一方の左手をこちらの腹に押し当てた。その瞬間、最初に喰らった衝撃と同じものが容赦なく藍を襲う。
「カハッ……」
その呻きと共に肺から空気が無理矢理吐き出される。だが、そこで動きを止める訳にはいかない。ボゴッ、という炸裂音と共に人形が吹き飛ばされる。吹き飛ばされる寸前に蹴り上げた足が人形の胴に直撃した。双方空中で受け身を取り、ダメージはない。表面上は、の話であるが。
「(今のと最初ので二発……これが後から効いてくるというやつか)」
嫌に身体が重い。内臓のどこかは分からないが、内側にまるで鉄でも背負わされたように重い。その二撃のダメージは外部から見れば何にもなかったと言えようが、それはそもそも間違いだ。その二発とも、外傷を目的としたものではない。内臓へのダメージ、更に言えばスタミナを削り取ることが目的である。
「(長引けば不利、速攻も数的不利の前ではどうなるか……全盛期であれば瞬きの間に二度殺して御釣が来る程度にはやれるのだろうが……)」
人間からの恐怖の消失。言い換えれば妖怪の影響力の低下ともいえるそれは間違いなく妖怪全体に弱体化を招いている。その妖怪の中にはもちろん藍も含まれている。もしそれがなければこの魔術師を殺すことは造作もない。
だが、それは有り得ない話だ。今目の前にいる敵は幻想郷を脅かす怨敵であり、自分はそれを打ち倒す義務がある。
権利でもなければ努力目標でもないそれは、紛れもない義務であると言える。
その義務を果たすのが今の自分に必要なことである。
その目標がどれだけ高かろうと、実行しない理由はない。
その目標を達成するためならば、手段は選ばない。
「さぁ、続きを始めよう。九尾の狐」
まだ、この戦いは始まったばかりだ。
はい。久しぶりの投稿です。そして夏休み中の更新は最後になります。恐らく。何せこの馬鹿作者は夏休みの宿題から逃げて避けて感けて逃げて、ほぼ手付かずのままここまで来てしまいました。全く、何をやっているんでしょうね、この馬鹿作者。
閑話休題。今回の話、正直言って藍様の力を少し低く書きすぎてしまったか、空蔵さんの方を強く書きすぎてしまったか自分でもわかっておりません。なんてダメな作者だと罵りたい人もやり過ぎだと思う人もこれでいいと思う人も感想をお聞かせ願えればと思います。ご意見ご感想評価のほどを何卒よろしくお願いいたしします。