本日も気持ちの良い程に晴天なり。
澄み渡った青空は全てを飲み込まんとばかりに青く染まった葉を宙に巻き上げ、何処へと流していく。
太陽に照らされ輝く銀色のペンケースは時折こちらへと反射し、その眩ゆさに思わず目を瞑る。前の女子にはもうちょっとこの被自発的リスクも考慮して筆箱を非金属の物にして欲しかったまである。
しかし今の俺はすこぶる機嫌が良い。今なら唐突に背中から翼が生えたら世界を三秒で一周できそうな程心が軽い。ふわふわと、それこそタンポポの綿のように。だから良かったな前の女子生徒よ、今回は許してやろう。……許さなかったとしても何もしないし何も出来ないのが悲しい一匹狼の性なのだが。
ともかくだ。
何故俺がこんなに快調も快調、ブータン並みに幸福度MAXなのか。その答えは単純明快で、今日から一ヵ月の間奉仕部の活動が無いからだ。
雪ノ下はこの事実に猛烈な反発を覚えたらしく平塚先生に抗議をしたのが、至極真っ当かつ徹夜を重ねた恐ろしい容貌により開いた口を秒で閉じざるを得なかった。平塚先生サマサマである、そんなことを考えたら俺も睨まれて萎縮してしまったのだがそれはともかく。
本日最後の授業が終わり、帰り支度をしていると不意に聞き覚えのある声が知らないグループの混じっている事に気付いた。
「そういや掲示板見た?」
「う、うん……」
戸惑いがちに返事をしたのは由比ヶ浜結衣だ、先日の奉仕部部活内容詐欺事件の尾が未だ引いているのだろう。授業中や昼休みに合間を縫うようにこちらへ視線を向けていたのは気付いていたが、俺の思っているよりもまだそれは心に残っているらしい。
「うん!奉仕部って何かエロい響きあるよね!もしかして奉仕と言っても男同士の汗と体液の交わるメタグ……」
「姫菜、それ以上は禁止」
金髪の気の強そうな女……確か三浦だか浦賀だかは、姫菜と呼ばれた眼鏡を掛けた女の口を手で塞いだ。
「でも確かに男としてバリ感じないことは無いっしょ!」
「翔、少し空気読めよ……」
「……スマン」
カチューシャみたいなものを付けた、語尾がウザ……じゃなくて特徴的な男は大柄な男に指摘されて漸く空気を察した様にしょんぼりと身を縮める。お前は一生黙ってろ……はっ。つい本音が。まあいいか。
「でも部活動停止って何をやったんだろうね。そうそう部停なんてならないはずなんだけど……」
「あははは……何でだろうね……」
我がクラスの憎むべき金髪イケメン、葉山隼人の言葉に由比ヶ浜が苦笑いで誤魔化す。……何だろう、とても心をボルトで締め付けられているような気分だ。さっきまでの全能感に満ちた心意気が台無しである、うん。早く帰ろう。今すぐ帰ろう。帰宅本能の赴くままに。
そこはかとなく感じるジト目の視線を振り切りながら、バックを肩に掛け俺は教室を出た。
さながら廊下突き当りの階段をスーパーカーのようにグリップを利かせて素早く曲がると、トテトテタッタと階段を降りる。
いつも通り下駄箱の中にラブレターがないことを確認して、校舎を出て早歩きで自転車乗り場に行こうとして―――右手をズンと後ろに引かれた。
「うお……!?」
想定外の力に堪えきれず俺は背後から尻もちを付いてしまう。……こんな事をする人間は俺の知人では一人くらいしかいない。
「……なぁ雪ノ下、偶然見かけて呼び止めるのは分かるがもうちょっと加減とか出来ないのか」
俺のそんな予想は当たるべくして当たり、背後に首を回すとそこには既に見慣れてきた雪ノ下雪乃の表面だけは凛々しい立ち姿がそこにはあった。
雪ノ下は転んだ俺を見下すと。
「何を言っているのかしら?私は常に合理的な手段を取り続けているわ。それにこれは偶然じゃないわ、必然よ」
「……偶然じゃない?」
「だって私はここでずっと貴方を待っていたのだもの」
「……え」
はっ!
不覚にも雪ノ下の言葉に虚を突かれてドキリとしてしまった。なあにこの美少女、もしこいつがポンコツじゃなかったら俺の心はシールドブレイクされてたぞ。いやまあ、雪ノ下にその気がないのは十分に知っているから特に邪念は過らなかったのだが。……いいや、考えてみればこれはぼっち歴の勝利だ。俺は孤独だったからこそこの天然アホ災児に惑わされなかったのだ。嗚呼、素晴らしきかなぼっち。孤高こそ人間を効率良く成長させる糧なのだ。
尻に付いた砂埃を払いながら、独りでにそんな事を考えていると雪ノ下はフッと笑った。
「貴方、ぼっちであることを強引に正当化しようとしているわね。だからいつまで経っても比企谷君は八幡なのよ」
「いや、俺の名前が変わることは未来永劫無いから」
そもそも何で俺の脳内が分かるのお前、マジで怖いんだけど。何?もしかして岸部露伴?
「まあそんなことはどうでも良いわ。それよりも早く行くわよ」
俺的には全くどうでも良いことじゃないんだが……。
「だがしかしどこへ行くって?奉仕部は一月の部停食らってるんだぞ?」
「私がそんな公権力の圧力に屈すると思っているのかしら?もしそう思っているなら、私を見縊りすぎだわ」
いやいや、屈してくれよ。この高校の生徒の一員として。
雪ノ下は俺の右手を再び掴むと校門へと無理矢理に引きずり歩く。……本当に奉仕部の部活動をする気満々のようだ。今日から一ヵ月は自由な日のはずだったのになぁ……何とも言えない虚無感が心に到来して、思わずナイーブな気分へと俺のテンションパラメーターは逆転する。
「お、おい。部活の件はまあ良いが、どこで部活動をするつもりなんだ?」
雪ノ下は俺の手をガッチリ握りしめながら毅然とした表情でこちらへ振り向いた。
「決まってるじゃない。私の家よ」
……ん?
「……えっと。今なんて」
「私の家よ、聞こえなかったのかしら耳無し君」
「待て、最早俺の名前の原型無いだろそれ」
どちらかと言えば天使がビートな鍵アニメの主人公のような名前だ、もしかして雪ノ下ってアニメとか結構見るのだろうか?ってそうじゃなくて!
「何で部活動の為にお前の家に行かなきゃならないんだよ。そもそもお前の家どこだ?」
「市川よ」
「こっから電車で20分強はかかるだろうが!良いか、俺は自転車通学だぞ?そんな金あると思うか?」
「あるわね。バイトしてるじゃない、貴方も私も」
口早に雪ノ下は告げた。時間が止まる。確かに今日の俺の財布には諭吉が二人ほどルームシェアしている。
「じゃ、じゃあ俺の自転車はどうするんだよ?言っておくがここに放置していくことは俺は嫌だからな」
「それならまず自転車を家に置いてから私の家に向かえば良いだけの話だわ。何を戸惑ってるのかしら」
た、確かに……っておい俺!論破されてどうする!もっと頭を使え比企谷八幡!この状況を解決する方法を考えろ……!
「……そうだ雪ノ下、じゃあこういうのはどうだ―――」
俺は見慣れた少々高めの天井を仰ぎながら、後悔した。
果たして何故こんなことになってしまったのだろうか。幾らテンパったとはいえ、もっと最良の選択肢を選べたはずだ。
夕焼けに影を投じられ、俺を嘲笑うかのようにカーテンは揺れている。電柱の上で羽休めをするカラスはカーカーと濁った鳴き声を上げ、飼い猫のカマクラはブスッとした表情で低く可愛げのない欠伸をすると、ベッドの座る雪ノ下の膝の上でゴロンと転がった。
……おかしい。どうして、どうしてこんなことに……!
「比企谷君、それじゃあ部活を始めるわよ」
雪ノ下はカマクラをそっと撫でながら空いた手で器用にバックを開ける。―――そう、ここは俺の家、つまり比企谷家だ。
幸か不幸かまだ妹の小町は学校から帰ってきていない。親父とお袋は今日も遅くまで仕事なのでそこは心配していない、となるとやはり問題は小町だ。
小町はいつも六時くらいには帰宅する、のだが今日は珍しく6時を過ぎても尚家にいない。何か所用でもあるのかは分からないが好都合だ、これにより俺のミッションは明々白々となった。そう、小町が帰って来る前に雪ノ下を家に帰らせるのである。
俺は後悔を喉奥に飲み込むと、カマクラを膝に乗せて撫でる雪ノ下に口を開いた。
「んで、今日は何をするんだ」
「特には考えていなかったのだけれど……そうね。七月に迫った文化祭での出し物について、なんてどうかしら?」
「いや待て。文化祭に出店する気なのか?」
「ええ、当然じゃない。奉仕部の知名度が上昇するチャンスだわ、やる他の選択肢はないわよ」
とは雪ノ下は言うものの、残念ながら奉仕部には備品が無い。あるのは精々机に椅子に黒板くらいだ。その環境で出来ることと言えば人生相談くらいだろうか、それにしては俺に人生経験が足りないし雪ノ下は論外だから無理だろうが。
「まあやるのは一向に構わないが、何を催すつもりなんだ?」
「催すなんて女子高生の前で汚らしい、恥を知りなさい恥を」
「そっちじゃねえよこの下ノ下!文化祭で何やるかって聞いているんだ!」
どう聞き間違えたら便意の話になるんだ。ホント、こいつには一回頭を叩いて脳内の混線を直す必要があるかも知れない。
俺が溜息を吐きながら呆れていると、雪ノ下はバックからごそごそと何かを取り出した。何だかこの光景も毎度の日常と化してきたな。
雪ノ下が取り出したのは何かが印刷されたコピー用紙のようだ。……何故だろう、とても嫌な予感がする。
「比企谷君、まずはこれを読みなさい」
言われるがままに俺は雪ノ下から紙を受け取ると、その内容に目を通す。どうやらウェブサイトからそのまま印刷したもののようだ、そう思いながら文字を追っていくと俺の嫌な予感がそれはそれはもう、百発百中のガンマーもびっくりするほどに的中していたことを自然と察してしまった。
「なぁ、雪ノ下。本気なのか?いや、学校からの許可さえ取れれば確かに出来なくはないが……」
正直これは準備よりも高校側からの許可を取ることの方が難しそうだ。というか取れるのか、これは。
雪ノ下は髪を邪魔そうに掻き上げカマクラを床に下すと、こちらに近寄って一緒に身を寄せて手元の紙を覗き見る形になった。カマクラは特にそれに関して何も思う事は無いらしく、そのまま俺の部屋から出て行ってしまった。
「いいえ、許可を取るつもりはないわ」
「は?」
「勝手にやるつもりよ。ここを見てみなさい、このサイズなら手軽にバレずに持ち運べるわ」
「いやそりゃそうだが……」
「折角の文化祭じゃない。ここで奉仕部の力を一発、いえ、一発と言わず千発くらいぶちかしまして行くわ」
「そんなぶちかませるかよアホ。それで費用はどうするんだ?」
「カンパに決まってるじゃない。何のためのアルバイトだと思ってたの貴方は」
「いやいや、文化祭の為ではなかったろ!お前が「高校生がバイトをするのは人生の損失だけれども実際にやってみないと分からないわ」とかほざいた挙句結局あやふやになってそのまま惰性で続けてるんだろうが!」
しかも最近は仕事内容を覚えてきたからか店長に戦力扱いされて滅茶苦茶辞めにくいんだけど本当にどうしてくれんだよまじで。そろそろ受験も近くなってきてるし辞めたいんだが。
雪ノ下は俺のその言葉におもむろに右手を顎に当てて小首を傾げた。
「……そんなことあったかしら?」
こいつ、都合の悪いことだからって忘れやがったな……。
再び呆れていると、素っ気ない顔をした雪ノ下はこの話題は終わりとばかりにコピー用紙を回収した。
「まあこれはまだ少し先の話だから今は良いわ。それより今気にすべきことは定期試験だと思うのだけど、どうかしら?数学の調子は」
「まだ昨日の今日なんだが。変わる訳ないだろ……」
一応雪ノ下から指示された問題は少なかったから解き終えたものの、それでも流石に数学力が上がったとは到底思えない。
「私なら一日で小学生レベルからアリストテレスクラスになるわよ?」
「じゃあそのお前に教わる俺は差し詰め、アレクサンドロス大王にでもなるのか?」
「身の程を知りなさい。貴方にはペルディッカスが関の山よ」
いや、一応ペルディッカスもオリエントを支配するギリシャで有名なアレクサンドロス死後の後継者候補だったんだが……しかし何故に世界史。この前習ったばかりの箇所じゃなかったら分からんて。
ドヤ顔でこちらを見る雪ノ下に辟易しながら、バックから教科書を机に並べる。正直この空間で勉強に集中できるとは全く思えないが、勉強をやる姿勢だけは取っておこうと思う。
「そりゃ光栄だ、で。それはともかく今日は何をするんだ?」
「そうよ。それよそれ」
「は?」
本日二度目の問いに謎の同意を返す雪ノ下。コイツの脳味噌は遂にカニ味噌とでも交換されてしまったのだろうか。
「結局、今日の部活動はどうすんだったかしら?」
「知らんわ!お前が考えてたんじゃないのかよ!」
「いいえ、さっきも言ったじゃない。特には考えてないって、……もしかして貴方健忘症?」
「俺はたった今この右手に持った生温いコーヒーをお前にぶっかける準備がある。……次の発言は慎重にな」
すると本気に取ったのか雪なんとかさんは微妙に慌てた面持ちで。
「貴方、あれよアレ。そう、有史以来のアリストテレスを凌ぐほどの凄い天才よ……!」
「慎重に発言した結果がそれかおい。前々から知ってはいたがお前の頭花火以上にはじけてるな」
それに何でさっきからアリストテレスが基準みたいになってるんだ。コイツの人類史は古代史止まりか。
雪ノ下の歴史観にそこはかとなく疑問を抱きつつも俺は生温くなってしまったコーヒーを啜る。口の中には程良いとは言えない口を刺すような鋭い苦味が広がり、反射的に顔を顰める。インスタントはやはりホットに限る。或いは砂糖たっぷりのミルクを加えた疑似マッカンだ。本物には当然及ぶべくもないが、それでもマッカンの補完財くらいにはなる。最近は諭吉が列を組む程度には余裕がある為にマッカンを箱買いしてるのでそれを飲む機会はほぼ無くなったのだが。まあどうせバイトを辞めたらまたお世話になるだろう、グッバイ補完財その日まで。
マッカンに思いを馳せていると、下でドアがガシャリと開く音が聞こえる。次いで「ただいまー」と俺的可愛らしい千葉の妹声ランキング栄光の1位に輝いている声が聞こえてきた。そしてこの俺がその声を聞き間違えるはずがなく、疑いようもなくそれは我が妹である比企谷小町その人だ。
そこで、俺は隣にいる雪ノ下に目線を移す。雪ノ下はきょとんとした顔で、こちらを見ている。
数秒すると雪ノ下は納得したように口を開いた。
「もしかして、今帰ってきたのは妹の小町さんかしら?これは奉仕部部長として挨拶しない訳にはいかないわね」
……この二人、めっちゃ会わせたくなかったのに。こうなるんなら早くコイツ家に帰しとくんだった……!
奉仕部が文化祭で何をやるつもりなのか、答えは文中に実はあったりして。いや無くても分かるかも知れないけど。