始まりの地、カッツェ平野
深い霧に覆われたカッツェ平野。そこに、かつて鬼神と称された男がいた。
「……ここは?」
深い霧の中、男がそうつぶやいた。男は筋骨隆々とした肉体をもった偉丈夫だ。しかしそれとは裏腹に、もとは精悍な顔立ちだったのだろうが目元にはくまができており、ほほもやつれている。さらには髪も乱れており、いっけん粗野な出で立ちだ。だがそれでも、男の目つきは鋭い。それはいくつもの修羅場をかいくぐってきたような目だった。
そして、その男の前に立って初めて感じる圧倒的な威圧感。そこに何者も寄せ付けぬ城があるかのような圧迫感を覚える。――その男が、鬼神と称されるのも頷けるほど。
「俺は戦に負け、首を刎ねられたはず……」
彼が最期に見たのは頭と胴が離れ、だらりと力なく倒れる自らの肉体。頭部が地面を転がり、ぐらりと視界が揺れる。目の前が暗くなっていくなか見たその光景で、自分が死んだことを認識したのだった。
男は数多くの死地を切り抜けてきた一騎当千の武将だった。ひとたび彼が戦場に出れば、敵は恐れおののき、隊列を崩して逃げ惑う。無謀にも男に挑む者は、赤子の手をひねるようあしらわれる。
特に一騎打ちでは無敗だった。数えきれないほどの者が男に挑む。出世、名声、財宝。それらに目がくらんだ者たちだ。彼らも故郷では相当な実力者だったのだろう。男の実力は話には聞いていた。しかし、人の噂など尾ひれが付くもの。彼らはみずからの自信からそう決めつけていた。自分を超える者などいないと自負し、まわりにも名声を高めるために公言する。だが鬼神と呼ばれた男と対面し、彼らは噂が本当だと気づかされた。
彼らも実力があるのだ。だから一兵卒では感じえない、武人としての格の差を思い知らされた。身体が震える。武者震いではない。恐怖だ。圧倒的な恐怖。彼らがいつも戦場で敵に与えているその恐怖を、全身で浴びていた。恐怖という、目には見えないだが確実にそこにあると感じる死の槍が、分厚い鎧に守られた彼らの心の臓を貫いた。それでも、男として逃げることはできない。それは荒れ狂う濁流に飛び込むようなものだ。木をなぎ倒し、大地を削るそれに挑んで何ができるのだろう。しかし一縷の望みに懸け、馬の腹を蹴って鬼神に挑む。
馬に乗っているだけよかっただろう。自らの足で歩いていけと言われたら、途中ですくんでしまうかもしれない。そんなみっともない真似ができるはずもなかった。馬が地を蹴るたびに振動が体を震わせる。それは恐怖による震えを誤魔化すのにちょうどよかった。目に映る鬼神、あるいは堅固な城壁へと確実に近づいていく。男たちは手にした得物を振りかぶる。質量と速度の乗算でできた強烈な破城槌が眼前の城門を食い破ろうとする。
だが、あまりもあっけなく勝負が付いてしまった。近づく男たちに鬼神は一振り。それだけで、馬ごと真っ二つにされる。一合も打ち合うこともなく。男たちはただの骸となっていった。鬼神の名声が天下へと轟く。地の先まで彼の名が伝わった。
それから十年。鬼神の知らぬ間に時代は変わっていった。かつての数千、数万規模の戦闘ならば彼ひとりで戦局を変えることはできただろう。しかし、時代は個の武勇から、統率のとれた十万規模の軍隊を求めた。彼がそれに気づいたときには、すでに居城は包囲され、援軍もなく、そして味方の士気は低迷していた。
奮戦むなしく彼は捕らえられた。華々しく戦場で討ち取られたわけではない。最後は部下の離反だった。
男は両腕を縄で何重にもきつく縛られ、敵の大将の前に跪かされた。その大将は鬼神と幾度となく戦った者だ。だがそのたびに大将は逃げていた。男は最強だと自負していた自分がこんなことになるとは、と歯を噛みしめる。そして野獣のような目で敵を睨みつける。だが、その大将は動ずることなく男にこう言った。「貴様は間違いなく最強の漢よ。だが悪戯に武を振るうその姿は鬼神ではない。ただの獣であったわ」
大将の剣が振り落とされる。熱気がうずまく合戦の風景、血しぶきが飛び交う戦場、男の人生そのものだったそれらが走馬灯のようにまぶたに浮かんだ。
そして武に生き、天下に名を轟かせた漢はそこで死んだ――
――はずだった。
だが一度閉ざされた目に再び光が差す。霧の中であるため淡い光であったが、それは深い闇の中にいた彼にはちょうどいい明るさだった。
男が顔を上げ辺りを見渡すと、そこにいたのは歩く屍。骨だけのからだに剣をもったアンデッドだ。
「この霧は……これが冥府だというのか」
男はその光景に茫然としたが、ふと右手を動かすと何かを握っているような感覚を得る。それは彼の愛武器である方天画戟。成人男性の身長よりも長い鉄の塊だ。さきには鋭い刺突部位と薙ぎはらうための柄が付いている。斬る、突く、払う。そのすべてがこれ一本でできる万能武器だ。
「この地で、こいつが役立つかは分からないが何もないよりはいい」
ながらく戦場をともにし、数多の将兵を切り伏せてきた得物ゆえ、手足のように扱うことができる。身に着ける防具は首を斬られたときのまま彼専用の重厚なものだ。武骨な漆黒の鎧に、兜には地面にまで届くほど長い赤い鳥の羽が付いている。
(この霧はどこまで続くのだ。俺以外の者はいないのだろうか。赤兎があれば容易いのだが……)
赤兎とは彼の愛馬だ。血のような赤い体表に一日で千里を駆ける脚力をもった名馬。長年彼とともに戦場を駆け、男の名声を高める一因となった。
ないものをねだってもしかたない。男はこの霧の中、歩くことにしたようだ。
その途中、男は試しに近くにいた
すると、それまで男を無視して歩いていた他のアンデッドが敵対してきた。彼の方を向いてよたよたと近づくスケルトンたち。その動きはあまりにも鈍重だった。そんなスケルトンたちに、男は手にした得物を振り回す。鉄の塊だと思わせないような、軽やかな攻撃。だがその威力は凄まじい。ひと薙ぎで五、六体の
そのとき、男は霧の中に一際大きな影を見つけた。
それは不気味な印象を抱く大きな船だった。地上にも関わらず、不思議なことにまるで海のようにはしっている。
男が怪訝な顔を浮かべてそれを見ていると、徐々に近づいてくる。そして、その船の船首に立っている者を見つける。
そこいらを歩いていたアンデッドとは違う。仮に
それはこの霧の中を進む上位アンデッドである幽霊船の船長。もとは一般のリッチであったがその知名度ゆえ、冒険者から畏怖を込めて『ロジャー』の名が付けられリッチ自身も次第にそれを使うようになっていた。
リッチゆえ魔法が専門ではあるが、海賊として箔をつけるため、その証であるカットラスを腰に差している。彼がこの平野を船で移動するのも、海賊の真似をするのも。生前の残滓が影響しているのだろうか。
ほかのマントや眼帯も、このカッツェ平野へやってきた冒険者から奪ったものだ。とくに眼帯は、とある有名な冒険者パーティーから奪ったものだ。その冒険者は「その眼帯が無ければ、わたしの内に封じ込めた暗黒の力が……」と言っていたようだがお目当ての眼帯を手に入れ、そそくさと逃げたロジャーは知らないことだった。
そしてロジャーがここへ来た理由は、このカッツェ平野に現れたこの偉丈夫の所為だ。
「やけに大きな負のエネルギーを感じたが、お前が原因か。見た目は人間に近いということは、アンデッドになったばかりのようだな」
ロジャーは男を見て、そう納得したようでふむふむと頷いている。この地で何年も、何百体もアンデッドを見てきたロジャーにとっては、また新入りが来たな。ぐらいの感覚だった。
だが船首を見上げる男は、その様子に腹が立ったのだろうか。苛立っている。
「おい、貴様。ここはどこだ? そして何をしている?」
「……まだ混乱しているようだな。ふむ、ここは人族のあいだでカッツェ平野と呼ばれる場所だ。自分でも分かっているとは思うがお前は死んだのだ。そしてアンデッドとしてここに生まれた」
ロジャーはこういったことに慣れているのか、男の物言いをさして気にしていないようだ。アンデッドになりたての者は、わけもわからず自暴自棄になるものが多いため、この男はまだ会話ができるだけましだったのだ。
ロジャーはアンデッドの先輩として、懐の深さを見せたのだ。
「やはり俺は死んだのか……。カッツェ平野? どこなんだそれは? 俺の知っている中原にそんな場所はなかったと思うが……」
男はロジャーの言葉を受け、疑問がわきあがっていた。男がカッツェ平野を知らないのは当然だ。そこは男の生きてきた大陸や時代はおろか、そもそも世界すら違うのだ。
「悩んでいるようだな。無理もない。そうだな……」
ロジャーは彼を見て、考え込むしぐさを見せる。男のまわりに散らばる白い骨。そしてさっき見た彼の戦いぶり。それはロジャーにとって魅力的に映った。
ロジャーは船からふわりと飛び降りて男のそばに着地する。重力を感じさせないその挙動には、もちろんリッチである彼の魔法が掛かっている。そして男を招くように、手を差し出してこう言った。
「私の名はロジャー。貴公の行く当てがないなら、私の船にでも乗っていくか?」
突然の勧誘。狙いは何なのか、男は考えを巡らせる。だが情報が少なく判断ができない。男は迷いながらもロジャーの誘いに乗った。この地を知るためにも、ロジャーについていく方がいいと判断したのだろう。いくばくかの不安はあるものの、そう決断した。そして男はロジャーへと名を告げた。
「……俺の名は呂布。呂奉先だ」
それが鬼神呂布の、この地での第一歩だった。