やや肌寒い朝の大気の中、大きめのキャスケットの鍔を少し下げる。
眼鏡のブリッジを指で押し上げつつ、うつむき加減で正面から来る男性とすれ違う。
狭い歩道の中、大きく半円を描くようにして男性を避ける。
気分はまるで探偵か何かのよう。
けして見つかってはいけないスリルが、彼女に程よい緊張感を与え、
どこか本番直前の胸の高鳴りにも似た感覚を呼び起こした。
赤いチェックのパーカーのポケットに両手を突っ込み、
誰とも目を合わせないようにしながら、少し足早に。
目的地に近づくに連れて、徐々に道行く人も増えてくる。
黒いスーツ姿のサラリーマン、黒や紺の制服に身を包んだ学生たち。
人混みの中に突っ込んだため、周囲を伺いながら歩くスピードを緩める。
そうやって周りにペースを合わせて歩いていると、
人の流れに溶け込んだような気がした。
近くの人たちにぶつかってしまわないように注意をしつつ、
今日のスケジュールを軽く頭の中で思い返す。
確か、午前中はレコーディングを1本。午後から歌のレッスンと
雑誌の取材が1本ずつ入っているが、午前のレコーディング次第では
調整もあるかも…とプロデューサーが言っていた。
そういえば、取材をしてくれる雑誌の名前を聞いていなかった。
後で確認、と頭の中でメモ。
「私達の新曲、聞いてください!」
街頭スクリーンから聞こえた自分の声に思わずドキッとする。
なんとなく気恥ずかしい思いをしつつ、立ち止まってスクリーンを見上げると、
満面の笑みを浮かべて歌を歌う自分たちがいた。
「ふわぁ…」
思わずため息のような気の抜けた声が出てしまった。
立ち止まった彼女を慌てて回避し、不機嫌そうに一瞥をくれて
去っていくサラリーマンがいたが、彼女は全く気づかなかった。
彼女はその不似合いな伊達眼鏡の奥の大きな瞳が
こぼれんばかりに目を見開き、まじまじとスクリーンを
見つめていたかと思うと、ぎゅっと強く目を閉じ、何かをこらえるように
腕を真っ直ぐ地面へと伸ばし、固く握りこぶしを握った。
と、ついでその瞬間、まるで内側で何かが弾けたかのように
彼女は走りだした。道行く人たちにぶつかり、そのたびに大きな声で謝りながら、
それでもその声は喜色をにじませ、口元をどうしようもなく緩ませながら、
彼女――天海春香は、彼女の所属する「765プロダクション」へと駆けていった。
後方へと遠ざかっていく男性が、不審げにこちらを
振り返ったことには気づかずに、彼女――天海春香は足早に事務所へと向かう。