時系列は、物語開始の10年くらい前から、3巻の辺り。バニル視点。
――ある日の事。
ベルゼルグ王国の王都を北上した場所にある、人類に敵対する魔王軍の本拠地、魔王の城。
その禍々しい城の廊下を、魔王軍幹部のひとりにして、斬りこみ大隊の隊長でもある、デュラハンのベルディアが歩いている。
ベルディアが手に持つ頭の、視線の先には……。
つい最近まで、凄腕の冒険者として数多くのモンスターや賞金首を倒してきたが、今では魔王軍のなんちゃって幹部になっている、駆けだしリッチーのウィズ。
冒険者として、長い間魔王軍と敵対していたからか、リッチーになって魔王の城を襲撃してきたからか、魔王軍の中にウィズを警戒する者は少なくない。
そんなウィズを、背後から真剣な様子で見つめていたベルディアは。
「おおっと手が滑ったー!」
そう言って自分の頭をウィズの足元へと転がし……。
転がっていった頭は、ウィズのスカートの中を覗くのにちょうどいい位置で止まって。
「華麗に脱皮! フハハハハハハハ! お色気リッチーと思ったか? 残念! 我輩でした! うむうむ、生前は人間であったためか、汝の悪感情はモンスターにしては美味である」
ウィズの姿をぐにゃりと歪ませ、本来の姿に戻る我輩に、足元のベルディアが絶句する。
我輩はそんなベルディアの頭を拾いあげ。
「そんなに我輩の股間が見たいのであれば、好きなだけ見るが良い。ほーれほれ、ほーれほれ」
「ちちち、ちがーっ! やめろ! 目が汚れる! ああっ、本当にやめろ!」
「……ううむ。汝のイラっとした悪感情は、それほど美味ではないな。やはり人間の悪感情とは比べものにならぬ」
「そう言うならさっさと頭を……、頭を返せ……!」
我輩がベルディアの頭をくるくる回すと、頭を取り返そうと我輩に向かってくるベルディアの体が、目が回ったせいか廊下を右往左往する。
首なし中年の間抜けな姿を見るのは、これはこれで愉快だが、あまり美味しい悪感情を味わえないのが不満である。
と、我輩がベルディアの放つ悪感情の味に内心ガッカリしていた、そんな時。
横から伸びてきた手が、我輩からベルディアの頭を奪っていき。
「バニルさん、あんまり城にいる方達を困らせてばかりいると、また魔王さんが胃を痛めて寝込みますよ」
我輩が目を向けると、そこには、『氷の魔女』と呼ばれ、数多のモンスターや賞金首を討伐していた凄腕冒険者ではなく、リッチー化の禁呪を使ったせいかすっかり牙を失ったぽわぽわリッチーが立っていた。
「悪魔である我輩にそんな事を言われても」
「バニルさんが悪感情を食べるのは仕方がない事ですけど、もう少し手加減してあげてもいいんじゃないですか? ほら、ベルディアさん、頭ですよ」
「お、おお……。ありがとうウィズ……。俺はお前やお前の仲間達に呪いを掛けたというのに」
「もう済んだ事ですから、それはいいですよ。冒険者が戦闘で命を落とすのは仕方がない事です。あの頃の私達は敵同士だったんですから、今さら恨み事なんて言いませんよ。というか、どうしてバニルさんに頭を取られるなんて事になってしまったんですか? デュラハンの弱点は頭なんですから、気を付けてくださいね」
ベルディアに頭を差し出しながら、そんな事を言うウィズに、我輩は。
「汝に化け、廊下を歩いていた我輩の足元に、そこの首を失ったくせにいつまで経っても煩悩を失わぬ永遠の中年騎士が、スカートの中を覗こうと頭を転がしてきおってな」
「…………」
「ウィズ? ウィズ! 熱い! あああ、熱い熱い! 頭が焼ける! おかしいおかしい! この状況は絶対におかしい! なんで俺はお前のスカートの中を見たわけでもなく、ただガッカリしただけなのにこんな目に遭わねばならんのだ!? あ、いや、悪かった! 俺が悪かったから頭を返してください……!」
無言でベルディアの頭を焼こうとするウィズ。
そんなウィズから発せられるのは……。
「フハハハハハハハ! これこそ我輩が望んだ悪感情! やはり汝の悪感情は格別である! 美味である美味である! フハハハハハハハ!」
「ところでバニルさん。バニルさんは、どうして私に化けて廊下を歩いていたんですか?」
静かだが氷の魔女と呼ばれていた時のような迫力を秘めたウィズの言葉に、我輩は高笑いをピタリとやめる。
だが、悪魔である我輩に後ろ暗いところなど何ひとつない。
「なに、我輩の見通す力により、この場をお色気リッチーと首なし中年が通りかかる事は分かっていたのでな。あとは我輩がほんの少し手を下してやれば、年甲斐もなく発情するエロ中年からガッカリの悪感情を、年甲斐もなく恥ずかしがる駆けだしリッチーからイラっとした悪感情を食らう事ができるというわけだ。我輩の見通す力は本日も絶好調である」
正直に話す我輩を、ウィズがとんでもない魔力を練りあげながら、冷たい目で睨みつけてくる。
それはまさに、氷の魔女と呼ばれていた時のような……。
ウィズは、詠唱しながら我輩に手のひらを向けて。
そんなウィズに、我輩は攻勢呪文に対処すべく――!
「『テレポート』!」
……!
詠唱はフェイントで、そちらに気を取られた隙にテレポートを使うとは……!
うっかり抵抗しそびれた我輩が飛ばされた先は、火口であった。
我輩でなかったら即死だった。
*****
――ある日の事。
我輩が魔王の城の廊下を歩いていると、魔法で創られたと思しき店舗が現れた。
建物の廊下に店があるという異常事態に、流石の我輩もしばし絶句していると。
「いらっしゃいませ! ウィズ魔道具店、魔王の城支店へようこそ」
店のドアを開け中から現れたのは、エプロンを身に付けたウィズだった。
「こんなところで何をしているのだ破天荒リッチーよ」
「見ての通り、お店を開いているんです。バニルさんとの約束を果たすためには、私の魔法だけでなくて、お金がたくさん必要になるじゃないですか。私は冒険者をやっていましたから、魔道具の見立てには自信がありますし、魔道具店を開いてお金を稼ごうと思いまして」
いつか魔道具店を開くための練習として、ここで店主の真似事をしているらしい。
「我輩との約束を果たそうとする心掛けは良いが、練習と言うならもっと普通に店を開くべきではないか? こんなおかしな場所に店を構えても、なんの練習にもならぬと思うのだが」
「普通にですか? すいません、モンスターの常識には疎いもので……」
建物の中に店を創るのは人間の常識から見てもおかしいと思うのだが。
「まあいい。しかし、こんなところで店を開いていても、客など来るのか?」
「大丈夫ですよ。お城の中でも皆さんがよく通る場所を選びましたから。それに、お店に入ったお客さんは、皆さん、商品を買っていってくれるんですよ! 店員をやるのは初めての事ですが、物を売るというのは楽しいですね。ひょっとしたら冒険者よりも向いているかもしれません」
「汝がそれで良いのなら我輩から言う事はないが……。客が皆、商品を買っていく? この城に詰める者どもは、魔王軍の中でも精鋭であり、半端な魔道具では満足せぬはずだが。一体どのような品揃えなのだ?」
「バニルさんも見ていきますか? 自分で言うのもどうかと思いますが、なかなかのものですよ。気に入るものがあったら買ってくださいね」
我輩はウィズに招かれ店に入る。
廊下の片端という立地条件のせいで狭い店内には、様々な魔道具が並べられ……。
…………。
「なるほど。どれもこれも、貴重で効果の高い魔道具ばかりのようだな。これなら魔王軍の精鋭でも欲しがるだろうて。……ところで、これらの品々はどこから仕入れてきたのだ? 我輩の記憶が確かならば、この城の宝物庫に仕舞われていたもののようだが」
「そうなんですか? 不思議な事もありますね。確かにお城の中で拾った物ばかりですけど……。この品々は、誰も近付かないような倉庫の奥で、埃を被っていた物ばかりなんですよ。魔王さんが、必要なら城の中の物は自由に使っていいと言ってくれたので、使っていない物なら売ってしまってもいいと思って持ちだしてきたんですが」
「汝の言うその倉庫とやらは宝物庫の事であろう。それらは埃を被っていたのではなく、大切に仕舞われていた物である」
「ええっ!? 違います違います! だって、魔王さんのお城の宝物庫なら、防犯対策もしっかりしているはずじゃないですか。あんなに簡単に出入りできるところに、宝物を仕舞っておくはずがありませんよ!」
「……その言葉を担当者が聞いたら泣くであろうな」
どうやら、リッチーのあり余る魔力のせいで、宝物庫の防犯装置が誤作動を起こし、その隙を突いて魔道具を持ちだしてきたらしい。
今さら事情を察したらしいウィズは、オロオロと店内の品々を見ながら。
「ど、どうしましょう? これって、売ってしまってはいけないものですよね?」
「当然であろう。何せ魔王の城の奥深くに仕舞いこまれていた魔道具である。ひとつひとつが世界を引っ繰り返す級の力を秘めていてもおかしくはない。というか、世に出せば何が起こるか分からないからと、魔王が封印した魔道具があったはずだが……。…………店内にないところを見ると、どうやら窃盗リッチーの魔の手を逃れたようであるな」
「……倉庫にあった物は根こそぎ持ちだしてきたんですが」
…………。
「この店に我輩の求める物はないようなので、ここらでお暇させてもらう事にしよう」
「待ってくださいバニルさん! 見捨てないでください! 一緒に魔王さんに事情を説明してくださいよ! だ、大丈夫です! 誰に何を売ったかは、きちんと帳簿を付けてありますから、その封印されていた魔道具を取り戻す事も出来るはず……!」
と、ウィズが半泣きで我輩に縋りついてきた、そんな時。
魔王の城のどこかから、何かが爆発するような音と、誰かの悲鳴が聞こえてきて――!
*****
――ある日の事。
我輩がウィズとともに魔王の城の廊下を歩いていると。
胸元が大きく開いたドレスを着た、一見すると人間にしか見えない長身の美女が向こうから歩いてきた。
魔王軍幹部のひとり、強化モンスター開発局局長、グロウキメラのシルビア。
事あるごとに合体したいなどと口走り、魔王を困らせているオカマを前に、我輩は十分な距離を置いて立ち止まる。
「あらバニル、久しぶりね。今日もいい男じゃない。それに、そっちの元凄腕魔導士のお嬢ちゃんもね」
「お嬢ちゃん! 私、お嬢ちゃんなんて呼ばれたのは久しぶりです!」
からかうようなシルビアの言葉に、ウィズが無邪気に喜ぶ中……。
「何度も言うが、悪魔である我輩に性別はないので、そんな事を言われても困るのだが」
「それは奇遇ね。私にも性別なんていう取るに足らない些細な括りは存在しないわ。私達って、気が合うと思わない?」
「どちらでもある汝と、どちらでもない我輩を同列視するのはやめてもらおうか」
この男だか女だか分からない混ぜ物とは、廊下で擦れ違うだけでも緊張感が漂う。
それというのも。
「『バインド』!」
「華麗に脱皮!」
シルビアが腰に吊るしていたロープを使い放った拘束スキルは、我輩の抜け殻をぐるぐる巻きにする。
なぜ普通に廊下を歩いていただけの、なんの罪もない我輩がいきなり拘束されなければならないのかは分からないが、シルビアのバインドの射程内で油断していると、拘束されシルビアに吸収されるかもしれないというのは魔王の城では常識だ。
「フフッ。あなたの本体を吸収できないのは残念だけれど、この抜け殻だって十分な素材だわ。地獄の公爵、バニルの抜け殻! この土くれに含まれる豊富な魔力を使えば、新しい強化モンスターの研究が……!」
「喜んでもらえたならば、悪魔としては残念であるな。それに満足したならば、問答無用でバインドを使ってくるのはやめてもらいたい」
「あら、それとこれとは別の話よ。アタシは美しいものが好きなの。もっと美しくなりたいし、もっと強くなりたい。そのためなら、なんだって吸収するわよ。……そうねえ、今一番吸収したいのは、美しくて強いあなたかしら。ねえ、ウィズ?」
そう言ってウィズを見つめ舌なめずりをするシルビアに、ウィズは。
「う、美しい……! 美しいお嬢ちゃん……!? どうしましょうバニルさん、こんなに褒められたのはすごく久しぶりですよ!」
「そ、そう……。まあ、アタシ達は人間とは寿命が違うから、あなたくらいの年齢でもお嬢ちゃんって呼んでおかしくわないわね。というか、あなたはリッチーなんだし、永遠の二十歳と言っていいんじゃないかしら」
「……! ありがとうございます! 冒険者をやっていた頃は気づきませんでしたが、シルビアさんはとてもいい方ですね!」
「あら、ありがとう。……なんだか予定と違うけど、油断してくれるなら好都合だわ。アタシと合体してちょうだい。……『バインド』!」
シルビアが再び放った拘束スキルを、魔法使い職のウィズは躱しきれず拘束される。
「……フフッ。アハハハハハハッ! 悪く思わないでちょうだい。リッチーとはいえ、元は人間! いくら魔王様の命令でも、あなたを幹部に加える事には賛成できないわ。アタシ、人間は信用しない事にしているの。心配しないで。あなたは死ぬわけじゃなくて、アタシとともに生きていくだけ……! あなたの力を取りこむ事ができたら、魔王様もアタシの命令違反を許してくれるでしょう……!」
「ええっ!? それは困りますよシルビアさん!」
高笑いするシルビアに、ウィズが拘束されたまま緊張感のない文句を言う。
「汝、節操なく合体したがるナンパ野郎よ。今からでも遅くないので、考え直すが吉」
「……そういえば、ウィズはあなたの友人だと言っていたわね。地獄の公爵であるあなたを敵に回すのは得策ではないけれど、あなたが何かするよりもアタシの方が速いわ。吸収しさえすれば、いくらあなたでもどうする事もできないはず……!」
「そうではなく、その駆けだしリッチーは狂暴なので注意した方が良いであろう」
我輩が言うよりも早く、ウィズは拘束スキルのロープに引っ張られてではなく、自らシルビアとの距離を詰めて……!
「……ッ! またドレインタッチかしら? 残念だけど、来ると分かっていれば、吸収するまでの間くらいは耐える事ができる……! それに、アタシには魔法に対する抵抗力が……!」
ウィズを正面から迎え撃とうとしたシルビアに。
「『テレポート』」
ドレインタッチのみを警戒していたシルビアは、ウィズのテレポートに抵抗しそびれ、その場から姿を消した。
――数日後。
体の半分以上を焦がした状態で戻ってきたシルビアは、ウィズを見ると距離を取るようになり、誰彼構わずバインドで拘束して吸収しようとするのをやめたという。
*****
――ある日の事。
城の入り口にて。
我輩は、アクセルの街へと旅立とうとするウィズと向かい合っていた。
「それでは、バニルさん。いろいろとお世話になりました」
「うむ。リッチーである汝に言う事ではないが、体に気を付けて暮らすが良い。魔王軍の幹部をやるのも飽きてきたところであるし、我輩もそのうちアクセルへ行き、汝の魔道具店で下働きでもするとしよう」
「分かりました。お待ちしていますね。バニルさんの夢のために、二人で頑張りましょう! ……ところでバニルさん。私のテレポートの魔法の事ですけど、どうして火口を登録先から消しちゃったんですか? 元に戻してくださいよ」
「……汝が切り札と言うそのテレポートは危険すぎるので、呪いで封じさせてもらった。これから汝が行くのは駆けだし冒険者の街であり、汝は冒険者でもリッチーでもなく、魔道具店の店主になるのだから、そのような危険な魔法は必要なかろう」
と、我輩達がそんな話をしていると。
城の中から、大柄な老人が現れ。
「やれやれ、どうにか間に合ったようだな。結界の維持を頼んだだけとは言え、魔王軍の幹部の出立なのだ。見送りくらいはさせてもらいたい」
「魔王ではないか。こんなところまでのこのこ出歩いて良いのか?」
「側近には止められたがな。そう心配せずとも、ウィズを見送ったらすぐに引っ込む。それに、凄腕の魔導士がリッチーになって、ライトオブセイバーの魔法で結界を切り開き襲撃してくる事など、二度はあるまい」
「そ、その節はご迷惑をお掛けしました……!」
苦笑しながらの、魔王のそんな言葉に、ウィズがペコペコと頭を下げる。
「……それにしても、魔道具店の店主か。それだけの力の持ち主をただの店主にしておくのももったいない話だが……、いや、中立でいてくれるだけありがたいか。それに、魔王の幹部が人里で店を開いているとは思われまいし、結界の維持をしてくれるだけでも助かる。もう会う事もないかもしれないが、達者で暮らせ」
「ありがとうございます。魔王さんも、もう若くないのですから体には気を付けてくださいね」
別れの挨拶を終えると、ウィズは我輩達に頭を下げ。
「それでは……! 『テレポート』!」
ウィズの姿が消え、後には我輩と魔王だけが残される。
城の中に戻ろうとする我輩に、魔王がしみじみと。
「それにしても、お前がウィズを紹介してきた時には驚かされたぞ。お前とは古い付き合いになるが、お前が誰かを友人と呼ぶとはな……。それも、人間を友人扱いするとは……」
「我輩をどこぞのぼっち勇者のように言うのはやめてもらいたい。我輩は相手を選んでいるだけであって、友人くらいはいる」
と、我輩達がそんな事を話していると、魔王を探しに来たらしい側近が駆けてきて。
「ああっ! 魔王様、こんなところにいましたか! まったく、一人で出歩かないでくださいとあれほど言ったのに!」
「心配せずとも、魔王の無事は我輩が保証してやろう。ほれ、魔王よ。ヘルパーさんが来たぞ」
「ええいっ! どいつもこいつも、ワシを呆け老人扱いするのはやめんか!」
*****
――ある日の事。
魔王の城の会議室にて。
「……魔王様が決めた事ならば、俺は従うだけだ」
筋肉質で背の高い、茶髪を短く切り揃えた男、ハンスが、不機嫌な表情でそんな事を言う。
会議室にいるのは、ハンスの他にはシルビアと我輩、そして猫科を思わせる黄色い瞳が特徴の、スタイルの良い赤毛の美女。
その美女、ウォルバクはハンスの言葉に、余裕のありそうな微笑を浮かべて。
「それは助かるわね。私は事を荒立てたくはないの。仲良くしたいとまでは言わないけれど、敵対はしないでくれるかしら?」
「魔王様だけでなく、占い師も賛成しているんでしょう? 私は構わないわよ。ウィズは中立だし、占い師は城から動けない。まともに動ける魔法使い系の幹部はいなかったから、丁度いいじゃない」
「ありがとう。正直、今は本調子ではないのだけれど、それなりに期待してくれて構わないわ」
目を細め舌なめずりをするシルビアに、ウォルバクはそう言って微笑む。
幹部同士の顔合わせが終わると、ハンス、シルビアは部屋を出て。
「顔合わせは終わりでいいな。じゃあ、俺は行くぜ。仕事が残ってるんでな。……言っとくが、俺は貴様を信じたわけじゃねえ。少しでもおかしな真似をすれば、骨も残さず食い尽くしてやる」
「おかしな真似をするつもりはないけれど、肝に銘じておくわ」
「あら、おかしな真似をしてくれてもいいのよ。あなたを吸収する大義名分ができるもの。……まあ、アタシはあなたでもいいけどね。ねえハンス、アタシと合体する気はない?」
「ハッ! お前が俺を食うだと? バカを言うな。……というか、以前、俺の体の一部を吸収した時は、半年くらい腹を下していただろう」
……ハンスとシルビアが出ていくと、部屋にはウォルバクと我輩だけが残される。
ウォルバクは我輩をじっと見つめ……。
「この気配。あなたは悪魔ね? それも、最上位クラスの悪魔」
「ふむ、汝からは忌々しい神気を感じるな。随分と神格が低いようだが、女神のひと柱に違いあるまい」
見つめ合う我輩とウォルバクの間に、剣呑な空気が漂い……。
すぐに、ウォルバクは構えを解いて。
「本来、神と悪魔は敵対するものかもしれないけれど、今はお互い、魔王軍の幹部をやっているのだから、味方だと思ってくれないかしら? さっきも言ったけれど、事を荒立てるつもりはないの。改めて、私はウォルバク。怠惰と暴虐を司る女神よ。もっとも、長い間封印されていて、今ではほとんど忘れ去られているけれどね」
「これはこれはご丁寧に。我輩の名はバニル。地獄の公爵にしてすべてを見通す大悪魔。魔王軍幹部でありながら、魔王よりも強いかもしれないと評判のバニルさんとは我輩の事である。我々悪魔の宿敵である女神が、この我輩を恐れ、見逃してくださいと頼んでくるとはなかなか気分が良い。まあ良かろう。魔王軍幹部の誼で目こぼししてやろうではないか」
きちんと挨拶のできる常識的な幹部が、我輩以外に増えた事は喜ばしい。
「ありがとう。助かるわ。ここであなたと争っても、私にはなんの得もないもの」
「ただし、分かっておるだろうな? 我々悪魔に物事を頼む際にはそれなりの対価が必要だ。大悪魔である我輩の対価は高く付くぞ?」
「ええ……。そうでしょうね。それで、あなたは私を見逃す対価に何を要求するのかしら?」
我輩は、かすかに緊張した様子で挑むように我輩を見つめてくるウォルバクに。
「これから汝は、ベルディアという首なし中年と会う事になるだろう。その時、『ずっとファンでした!』などと言って、この色紙にサインを求めるのだ。可能であれば、腕に抱きつき胸を押しつけるなどすると良い。そして、サインを貰った直後に色紙を破り捨て、『残念! バニルさんのガッカリ郵便でした!』と言ってその場を立ち去るが良い。我輩は近くで見守り、色ボケ中年のガッカリの悪感情を食らうとしよう」
「そ、それが私を見逃す対価? どういう事なの? い、いえ、悪魔が悪感情を食らうのは当然の事なのかしら……?」
「うむ。とあるポンコツリッチーが去ったこの城で、最も我輩好みの悪感情を発するのは、頭を失った事で下半身に栄養を行き渡らせている色欲中年なのだが、あまりにも何度も騙してきた結果、あやつは疑い深くなっていてな。最近では我輩とは無関係な事まで、いちいち我輩の関与を疑うので、上手く騙して美味しい悪感情をいただくのが難しくなっている。その点、新顔で、しかも神気を発している汝は、あの疑り中年を騙すのにうってつけであろう。力を失っているとはいえ、女神が悪魔の使い走りをしているなどとは思うまいて」
「わ、分かったわ。そのベルディアというのを騙せばいいのね? 良心は咎めるけれど、地獄の公爵に頼み事をして、これくらいで済むのなら喜ばなくてはね」
――その後、我輩がわざと会議の時間を遅らせて伝えておいたベルディアは。
サインを求めるウォルバクの言葉を怪しみながらも、サインを書いて……。
…………。
しばらくの間、気の毒に思ったらしいウォルバクが、お詫びと言ってベルディアの世話を焼いていたが、それすらも我輩の差し金と疑われたようで、難儀したという。
*****
――ある日の事。
普段は人間の姿をしているが、その正体は大きな屋敷ほどもあるデッドリーポイズンスライムの変異種である、魔王軍幹部のひとり、ハンスは。
魔王城の廊下にて。
我輩が点々と置いた豪華料理の数々を、拾っては食い、拾っては食いながら、我輩の望む場所へと誘導されていた。
進めば進むほどに美味になっていく料理を食べていき、やがて辿り着いた食堂。
そのテーブルには、料理を覆うボウル型の蓋が置かれていて……。
ハンスがボウル型の蓋を取ると、そこには――!
『スカ』と書かれた紙が乗せられただけの、空っぽの皿が置かれている。
「…………」
ボウル型の蓋を元に戻し、無言で食堂を去っていくハンス。
……ふぅむ。
どんどん美味になっていく料理に、食堂というあからさまな舞台設定、そしてボウル型の蓋によるワクワク感。
そこから生み出される期待が裏切られた時の、ガッカリの悪感情を食らってやろうと思っていたのだが……。
食欲が満たされないガッカリから来る悪感情は、やはり我輩の好みからは外れるようだ。
というか、スライムの感情は人間とはかけ離れていて、人間の悪感情を好んで食らう我輩にはあまり美味しく感じられない。
「食べる事しか考えていない軟体生物の感情は、我輩の求める美味なる悪感情には成りえぬようだな。悪感情を食べるのであれば、やはり人間を狙った方が良いらしい。せめて人間に似た精神構造の者を……」
「そう思うんならバカみたいな嫌がらせを仕掛けるのはやめろ」
と、ハンスが去っていった食堂で、姿を隠す魔法を解き独白する我輩に声が掛けられ……。
我輩が振り返ると、そこには去っていったはずのハンスが立っていた。
「スライムとしての姿を利用して床を這いずり背後に回ったか。食べる事しか考えていない割には知恵が回るではないか。本性を現すと巨大化し知能が下がるという、やられ役としか思えない能力を持つ軟体生物よ」
「うるせえ! 貴様は城の者の悪感情を食らわないよう、魔王様に命じられてるはずだ。魔王様の古い知り合いだかなんだか知らないが、命令に背くつもりなら俺が食ってやる」
「我輩が魔王軍の幹部をやっているのは魔王に頼まれたからであり、命令を聞いてやる義理などないのだが……。それにしても、いくら食欲の権化とはいえ、土くれで出来た我輩の体まで食べたがるとは思わなんだ。……華麗に脱皮! このような粗末なものでよければ、いくらでも出してやるので好きなだけ食らうが良い。恵まれぬ食生活を送る腹ペコスライムよ」
「誰がそんなもん欲しがるか!」
魔王に食う物も貰えていないらしいハンスに同情した我輩が、せっかく抜け殻を恵んでやろうというのに、なぜかハンスは激昂し我輩の抜け殻を振り払い……。
「いいだろう……。そっちがその気ならぶっ殺してやる!」
「その悪感情、そこそこ美味である。しかし、やはり相手がスライムでは物足りぬなあ」
「クソ、ちょこまかと逃げやがって……! 貴様こそ食べる事しか考えてないじゃねえか!」
「ところで、アルカンレティアの温泉に毒を混ぜるはずが、なぜかところてんスライムを混ぜたようだが、あれには一体どのような意図があったのだ?」
「クソがーっ!」
「おっと、その悪感情はなかなか美味である。ご馳走様です」
我輩がハンスの攻撃を躱しながらからかい続けていると、やがて激昂したハンスが城の中だというのに本性を現して……。
それからしばらく、廊下にまで溢れ出たデッドリーポイズンスライムのせいで、城の中の空気が悪くなり、城に住む者達が健康被害を訴えたという。
*****
――ある日の事。
城の入り口にて。
大量のアンデッドを背後に従えたベルディアが、一人の少女と向かい合っていた。
出発するベルディアを心配そうに見つめる少女に、ベルディアは。
「……この戦いから戻ったら、俺と……。……いや、なんでもない。戻ってきたら話したい事がある。……聞いてくれるか?」
その少女は、ベルディアが生前、騎士だった頃から、そして、モンスターとなって長い時を経た今もなお一途にベルディアを想い続ける村娘の霊。
ベルディアに救われ、ベルディアを慕っていた少女は、ベルディアが不当な理由で処刑された事にショックを受け、その後を追うように流行り病で命を落とし。
そして、アンデッドとなって長い時をさまよった少女は、数年前に、デュラハンとなったベルディアと運命的な再会を果たした。
という設定の……。
「残念! 我輩でした!」
「えっ」
村娘の姿をぐにゃりと歪ませ、本来の姿に戻る我輩に、ポツリと呟いたベルディアは。
「……えっ? ……ど、どういう事だ? あの娘は?」
「む。せっかく長い時間をかけて騙してきたというのに、あまり美味しい悪感情が発生せぬのはどうした事か」
「……?」
状況が理解できないらしく、手にした首を傾けるベルディアに、我輩は。
「あの村娘はフィクションであり、実在の人物とはなんら関係がない、我輩の創作である。もちろん、汝が生きていた頃に、汝に救われ、汝を慕っていた村娘なども実在しないし、その村娘がアンデッドになったなどという事もなければ、長い時を経て汝と運命的な再会を果たしたなどというお涙頂戴のとんでも展開もない。そんな都合の良い出来事が本気で起こると思っていたのか?」
ベルディアは、我輩の懇切丁寧な説明を聞いて。
「えええええええ!? はあああああああ!? いやいやいや、それはないだろう! いくらなんでも、それはない! お前ふっざけんなよ! それはやっちゃ駄目なヤツだろう!」
「フハハハハハハハ! フハハハハハハハ! これは素晴らしい悪感情! 美味である美味である! やはりモンスターの中では汝の悪感情はなかなか美味しい。いつもご馳走様です」
「畜生、ぶっ殺してぇ……。ていうか、マジで? あの娘と最初に会ったの、何年も前の事だぞ? 正直、最初の頃はまたお前に騙されてるんだろうと疑ってたのに……。そそそ、そんなバカな! 信じない! 俺は信じないぞ! 帰ってきたら、あの娘に交際を申しこむんだ! それで、アンデッドの永遠の寿命を二人で仲良く暮らすんだ!」
「そこまで入れこんでもらえたならば、我輩も清楚な村娘を演じた甲斐があったというもの。何度も同じ方法で騙したせいで、疑い深くなった汝を信じさせるために、露骨に誘惑するのではなく焦らす方向性を狙ってみたのだが。上手く行ったようで何よりである」
「コイツ、殴りたい……!」
「フハハハハハ! その悪感情、美味である! 思わせぶりな事を言って戦場に赴くなどという、よくある死亡フラグを折ってやったのだから、我輩に感謝しても良いと思うのだがどうか?」
「クソ! クソ! ああもう、行きたくない……! 俺は何を励みに今回の任務に当たったらいいんだ? 駆けだし冒険者の街なんて、歯応えのある相手もいないだろうし、強い光の調査なんて俺の仕事じゃないだろう……」
少し前、占い師のヤツが、アクセルの街に強い光が現れたなどと言いだした。
ベルディアは、その強い光とやらの調査を命じられたらしい。
我輩は、テンションの下がるベルディアを元気づけようと。
「……頑張ってください、ベルディア様!」
「やめろ! あの娘を汚すな! いや、そもそもあの娘の行動も言葉もすべて、お前の演技だったのか……?」
「うむ。当然、汝が他の者には黙っておいてくれと言っていた秘密も知っているし、二人きりになると汝が」
「よし! 行ってくる! 皆の者、出陣だ!」
「おっと、その羞恥の悪感情、美味である!」
我輩から逃げるかのようにベルディアは出発し……。
後日、その顛末を聞いた魔王から、老人らしく長ったらしい説教を受けた。
*****
――ある日の事。
ウィズが去り、ベルディアも調査のために城を離れている今、城の者達の発する悪感情では我輩を満足させる事は難しく……。
「だったら城の連中の悪感情を食らうのはやめてくださいよ……」
「悪魔の我輩にそんな事を言われても。汝は食事をせずに生きていけるのか? 食事をしない者だけが我輩を止めるが良い。もっとも、止められてもやめるつもりはないが」
「バニル様は食事をしなくても生きていけるでしょう」
魔王城の最上階にて。
物足りない食事を終えた我輩が、何をするでもなく暇を持て余しながら、鬼の小言を聞き流していた、そんな時。
いつもは城の奥に引っこんでいる魔王が、珍しく姿を現して。
「ベルディアからの連絡が途絶えた。どうやら、何者かに倒されたらしい」
「……ほう? あの首なし中年はかなり高レベルのデュラハンだったはずだが……。駆けだし冒険者の街に、あやつを倒せるような冒険者がいるとは思えぬ」
「ワシとしても、まさかベルディアが倒されるとは思ってもみなかった。おそらくは、例の強い光とやらが関係しているのだろう。バニル、お前にはベルディアを倒した者の調査と、引き続き強い光の調査を頼みたい。どうせ暇を持て余しているのなら、ワシの部下をいじめていないで、働いてもらいたいのだ」
「悪魔である我輩に頼み事をする。その意味は当然、分かっているのだろうな?」
「もちろんだ。出来る限りの事をしようではないか。もっとも、城の中でこれだけ好き勝手しているのだから、すでに対価は十分払っただろうと思うがな」
そんな魔王の言葉に、我輩はニヤリと笑い。
「フハハッ! この我輩をタダ働きさせるつもりか! 流石は魔王と呼ばれるだけの事はあるな! だがまあ、退屈していたところであるし、汝の思惑に乗ってやろうではないか」
……アクセルの街にはウィズがいる。
以前から、我輩が魔王軍の幹部をやめたがっていて、最近は特に、城でやる事がなくて退屈している事を、長い付き合いの魔王は察しているのだろう。
いつも周りの事ばかり考えている、このお人好しの魔王に、我輩は……。
「……ところで、鬼よ。こいつをどう思う? この魔道具は、魔王がまだ若い頃に、絶世の美女サキュバスの格好で近づいた我輩のために作り、贈ったものなのだが……。それをこやつは、世に出せば何が起こるか分からないなどと言って、城の宝物庫に封印しておったのだ」
「は、はあ……?」
魔道具と魔王を見比べ、鬼がリアクションに困る中。
魔王は年老いた顔を真っ赤にして。
「あの騒動で見つからないと思っていたら、貴様が持ちだしていたのか! ええいっ、付き合いが長いからといって、いつまでも若い頃の話を蒸し返すのはやめんか!」
「フハハハハハハハ! その羞恥の悪感情、美味である美味である! 久々に美味しい悪感情をいただいた事だし、調査とやらを頼まれてやろうではないか。おっと魔王よ、もうあの頃ほど若くはないのだから、そんなに怒ると血管が切れてポックリ逝くぞ?」
「クソがーっ!」
「フハハハハハハハ! フハハハハハハハ!」
年甲斐もなく恥ずかしがり怒る、ひょっとしたら二度と会う事がないかもしれない古い友人を前に、我輩は大笑いして――!