学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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11話完全版です。
後書きに原作との変更点を載せました。


#1st day⑪

 血と泥にまみれた清田の戦闘服は、汗を吸って重くなっていた。

 空挺隊員に支給される戦闘服は通常のものとは細部が異なり、空挺降下という任務内容に適した作りとなっている。

 迷彩服Ⅱ型空挺用に於ける一般との相違点は、各ポケットタブや袖口の止め方がスナップボタン形式に改められており、上衣については左袖のペン差しに耳栓入れの追加、前合わせ部はボタンとファスナーの併用、ウェスト部は紐で絞り込める点であり、ズボンについては裾に小ポケットの追加、臀部の生地が二重となっている。

 そして若干、通常のものと比べると細身に作られているという特徴があり、空挺団は一般部隊よりも体格の良い隊員が多数いるのでワンサイズ大きめなのを着用している事が多い。

 清田は高い秘匿性を要求される特殊作戦群に所属する以上、訓練や任務で着用する戦闘服は右胸に偽の名札を貼り付けるか全くの名無しだが、左胸には自由降下徽章と空挺レンジャー徽章、そして冬季遊撃徽章が燦然と輝いていた。

 同業者である陸上自衛隊員からすれば、それらの徽章は尊敬の眼差しで見られるものだが、生憎と民間人である京子にはその意味を知りようがなかった。

 ただ、京子にも、なんとなくだが、その三つの徽章を保有する凄まじさは伝わり、彼が流した血と汗の量は常人の及ばぬ域に達しているのが推察できた。

 京子は、洗濯籠に放り込まれていた、汗に濡れた清田の戦闘服を手にして眺めながら、感慨に耽っていた。

 今日、地獄と化した学園で出会ったばかりだというのに、彼との結び付きがこの一日でたとえようもなく強くなったように思われた。

 職員室の机の下で震えていると、僅かな物音も立てずに現れた彼に発見されたのが出会いの始まりである―あの時ほど、恐怖に顔をひきつらせた事は無かった。

 それからは、常に彼が先頭を進み、立ち塞がる障害の全ては悉く薙ぎ倒していった。類い希なる勇敢さと行動力を示し、常に第一に無力な自分達の為に身を粉にしてくれた。

 その強くて大きな彼が、涙と鼻水と汗を垂らしながら庭に穴を掘っている姿を見た時は、流石に衝撃的であると同時に安堵した。

 清田武という男は、まるで無敵の鋼鉄艦のように揺るがない存在だと思っていたが、情けなく嗚咽を漏らす様子を見て、彼も同じ弱味を持った人間であると知り、より親しみを感じた。

 彼もまた、この異常事態に心を酷く痛めているのだ。

 でなければ、穴を掘って犠牲者を埋葬してやろうとはしないだろう。

 私は、そんなこと少しも考えなかった―今日という一日を無事に乗り切れた事に安堵していた京子は、こんな状況下でも他者を思い遣れる清田と自身の矮小さを比べ、己を強く恥じた。

 だが、余りにも他者を優先し過ぎるその姿勢には危うさを感じたのも事実だった。

 確かに、自衛隊員である彼はこの非常事態にあっては課せられた使命を果たす責任があり、義務がある。

 己を削り、他人を救わねばならない。

 その事を承知で自衛隊という組織に入ったからには、今更泣き言などは言っていられないのかもしれない。

 しかし、それでも、己の使命に忠実で真っ直ぐな若者が、苦痛に喘ぎ、魂が引き裂かれんほどの悲しみに暮れる姿を目の当たりにすれば、放っておけないと思うのが人情だろう。

 だから、少しでもそんな彼の為に何かをしてやりたくて、京子はこうして彼の汚れた衣服を洗おうとして―といっても、洗濯機に放り込んでボタンを押すだけだが―脱衣場にいた。

 目を遣ると、曇りガラスの向こうでは、清田が身体に染み付いた血と汗と硝煙を落としている。それは、ガラス越しの朧気な輪郭と身体をタオルで擦る音で確認できた。

 思わず、あの逞しい肉体を脳裏に描いてしまい、京子は己の煩悩塗れの思考に恥じた。

 別に私は邪なことは―そう心の中で自らに言い聞かせるように呟き、手に持っている彼の戦闘服に再び視線を戻した。

 清田の戦闘服は、お世辞にも良い匂いを発しているとは言えなかった。

 しかし、この匂いは嫌いではない。

 京子は卓球部の顧問を務めており、放課後は教え子と共に汗を流している。

 若さ溢れる健全な青少年がスポーツに打ち込んで流す汗は尊く、美しいものだと彼女は考えていた。

 それはまさしく人間賛歌であり、父母から授けられた健康な肉体を鍛え上げる事は正しき喜びであるのは間違いない。

 尊く、正しく、美しい行為によって生じた汗を、どうして汚いと言えようか―それは清田の行為にもそっくり当てはまった。

 だが、京子は、そう考える一方で、何も全ては綺麗事で片づけられない自分の感情を素直に認めていた。

 正直に述べると、年下の若く逞しい男性が、命懸けで守ってくれるという映画やドラマでしか見れないようなシチュエーションに少しばかりときめきを覚えていた。

 恋愛をするなら、勿論、同年代か若干年上の落ち着いた男性が好みであるのは変わりはない。

 だが、女だって若い男が好きである。それは男が若い女を好きであるのと変わらない。

 京子も、恋愛を抜きにして、若くて逞しくて、強くて優しい男が好きなのだ。

 初めて清田の素顔を見た時、従順で優しい大型犬のようだと感じており、不覚にも“ペット”にしたいと思ってしまった。

 昨今では経済力のある三十路女性が“ペット”を飼う感覚で若い男を囲うのが密かなブームとなっている。

 流石に教師という聖職者である以上、京子はそのような不埒な事をするほど軽率ではない。

 正確に言うならば、職業上、“若い男”と密に接する場面が多い為、そのような欲求は充分に満たされているというべきか。

 だが、この異常な状況と、今まで接してきた“若い男”にはない強さと逞しさには、強く惹かれたのも間違いない。

 同時に、先程見せた弱々しさがギャップとなって、母性本能も擽られてしまった。

 白状すると、強く逞しいけれど何処か放っておけないと年下男性の体臭を嗅いで発情した事実は否定しない。

 今だって、彼の汗を吸った戦闘服の匂いを嗅ぐと、興奮のあまり自身の“女の部分”が熱く濡れそぼるかのようだった。

 京子はこれがはしたない事だとは承知しているが、こういった状況下だからこそ慰めを欲しているのを認めていた。

 少しだけ、ほんの少しだけ。そうすれば明日も頑張れるから―下世話な欲望をそれらしく飾り立てて正当化しようとする己の浅ましさに辟易としつつ、京子は清田の戦闘服を抱き締め、顔を埋めた。

 胸を満たす、若い男の体臭は、まるで力強い父親に守られているかのような安心感を齎した―その時である。

 

「誰かそこにいますか?」

 

 薄いガラス越しに、風呂場で反響した清田の声が聞こえた。

 慌てて京子は、彼の戦闘服から顔を離し、洗濯籠に戻した。

 心拍数はかつてないほどに上昇していたが、京子は取り繕うように平静を装った声音で応じた。

 

「あ、林です。清田さん、こちらの服は洗っても大丈夫かしら?」

 

 全くいつも通りの自分を演じられたのを、京子は褒めてやりたかった。

 

「わざわざすいません。お願いします」

 

 まさか自分の戦闘服の臭いを嗅がれているとは露とも知らず、清田は素直に頼んだ。

 

「わかりました」

 

 何も知らない彼に罪悪感を覚えながら、京子は彼の衣服を洗濯機に放り込でスイッチを押し、若干名残惜しげに退散した。

 

 

†††

 

 

 ボディソープを染み込ませたタオルで何度擦っても、手の汚れが落ちた気がしなかった。

 それはもはや魂にこびり付いた罪悪の染みであり、この先の人生の中で永遠に拭い去る事は出来はしないだろう。

 清田はじっと己の両手を見た。

 右手には常に銃の握把を握り締め、人差し指は引き金に添えられていた。

 初めて生きた人間に銃を向けた時―正確には対戦車ロケットランチャーだが―、欠片も躊躇いがなかった。

 それは相手がそうされても仕方がなかった輩であり、同情を挟む余地はなかった。

 その後の市街地での暴徒集団も同様である。こちらの警告に従わず、明確に危害を加えようとしてきた。

 だから皆殺しにしてやった。

 頭と胸に鉛玉を撃ち込んでやった。

 いい気味だ、ざまあみろ、くたばりやがれ悪党ども!―嗜虐的な喜びを心の奥底で感じたのを否定する気はなかった。

 習い覚えた技が正しく駆動し、効果的な威力を発揮する様を目の当たりにすれば、誰だって達成感を覚えるだろう。

 それは練習を重ねたアスリートが、試合でいい結果を出せたのを喜ぶのと何ら変わりはしない。

 自分が苦労して積み重ねてきた努力が実を結ぶのを喜ぶのは正常だ。

 そうだ。俺は間違ってはいない―たとえそれが、必要に迫られて行ったとはいえ、殺人である事に変わりはなくても。

 だが、果たして、あの子にやった事も正しいと言えるのだろうか―左手には、まだあの感触が残っている。

 思い出したくなくても、勝手にあの恐ろしくおぞましい記憶が、生々しい感触と共に再生される。

 握り締めたナイフの柄から感じたのは、硬軟入り交じる幼子の未発達な組織を裂く感触だった。

 薄い皮膚、柔らかな肉、弾力のある軟骨を一緒くたに切り裂き、脳髄を犯して殺した。

 それは幼子の肉体を凌辱しているかのような強烈な嫌悪感を伴った行為だったが、途中で止める訳にもいかず、その魂の抜けた肉体の痙攣が収まるまで抱き締めるしかなかった。

 全てが終わった時、自身も抜け殻のようになってしまった。

 幼子の魂と一緒に、己の魂の純潔も失ってしまった。

 もう、戻れない。

 何もかもが同じように感じる事はない。

 人生を全うするその瞬間まで、俺はこの重荷に悩まされるのだろう―清田は重い疲労と疼痛を覚えながら、身体に纏わりつく泡を熱いシャワーで流した。

 ふと、人の気配を感じ、ガラス戸の方を振り返った。

 曇りガラスの向こうに人影が見えたので、清田は声を掛けた。

 

「誰かそこにいますか?」

 

 ほっそりとしたシルエットから、耕太以外の人間であるのは察しがついた。

 

「あ、林です。清田さん、こちらの服は洗っても大丈夫かしら?」

 

 ガラス戸の向こうで、京子が窺うように言った。

 

「わざわざすいません。お願いします」

 

 彼女のその何気ない心遣いが嬉しくて、清田は洗濯を頼んだ。

 

「わかりました」

 

 了解の言葉とちょっとした物音の後、脱衣場から京子が出て行った。

 清田は再び、正面に向き直り、風呂場に備え付けられている鏡に映る己の姿を見た。

 右胸に刻みつけられた痣は、まるで苦悶の表情を浮かべる人面疽のようであり、今日一日で殺した死者の怨念が宿っているかのようだった。

 いや、怨念は俺そのものか―暗い情念を宿した瞳の男が、鏡の中から清田を睨んでいた。

 

 

†††

 

 

 風呂から上がり、他の世帯で見つけた男物のスウェットに着替えたが、大柄な体格と発達した筋肉に鎧われた清田では辛うじて入るサイズだった。

 鍛え込まれた胸筋が今にも布地を破らんばかりで、競輪選手の如き太腿もぱつぱつに張っている。

 おまけにスウェットは寸足らずで、手足がつんつるてんとなっていた。

 戦闘服が乾くまでの辛抱だ―特に清田は風体を気にする事なく、生存者達の様子を見ようとリビングへ足を向けた。

 死者の埋葬を終えた一行は、思い思いの時間を過ごしていた。

 清田はそれに関しては特に何も言わず、各人に自由に過ごさせる事にしていた。

 ただの素人が始まりから終わりまで、親しくもない誰かの指示によって拘束されるというのはかなりのストレスが溜まるものだ。

 それが生き残る為に必要だとはいえ、当人達は自覚している以上の鬱憤を抱えてしまうだろう。

 ストレスを発散できる環境があるならば、今のうちに存分に利用するべきだ。

 明日は、今のように寛げるとは限らないのだから。

 清田がリビングに足を踏み入れると、そこに人影はなく、代わりにキッチンから和気靄々とした女性達の声が聞こえた。

 キッチンを覗くと、そこには沙耶を除いた女性陣がおり、和やかな雰囲気の中で料理に勤しんでいた。

 料理をする女性というのは、やはり心を穏やかにしてくれる麗しい存在だと清田は思った。

 昨今では料理上手の男性が持て囃されているが、古来から台所は女性の仕事場であり、男はそこでは彼女らに素直に従うしかない。

 人類が獲物を求めて山野を駆けずり回った遥か太古から、男女の仕事はそれぞれの性別に見合ったものと決まっていた。

 男は外で働き、女は男の留守を守る。

 その仕事に優劣をつける事は出来ない。

 どちらの仕事も大事であり、尊いものだと考えていた。

 清田は時代錯誤の性別主義者ではないが、男女の性差を鑑みない訳にはいくまい。

 特に肉体労働を要求される兵士という職業にあっては、銃火器の発達によって男女の戦力差がほぼなくなっているとはいえ、やはり女性よりも体力に優れる男性の独占市場であるのは変わらない。

 それに、女性に危険で辛い事をさせたりするのは、男としての良心が咎める。

 戦い、傷つくのは男の役目でいい―今の時代とあっては、清田は古臭い男だった。

 そして清田はキッチンを覗き込んでから面食らった。

 炊事場に立つ女性陣の、三者三様の格好に―特に冴子の後ろ姿は直視できなかった。

 静香は普段からこの部屋に泊まる事があるのか、自前のパジャマを着ている。

 静香から借りたのか、京子は彼女のものとよく似た色違いのパジャマ姿だが、サイズがあっていないようで袖などを捲っている。

 その二人は普通の格好である。

 問題なのは冴子のみであった。

 何故か彼女は、裸身にエプロンと下着―その下着というのがまた過激なものである―のみという、非常に肌の露出の多い格好をしていた。

 どうしてそのように破廉恥な格好をしているのかを訊ねる清田ではないが、それとは別に驚嘆の吐息を漏らしていた。

 冴子の、陸上選手のようにしなやかに鍛え上げられた肉体は、まるで彫刻のように美しかった。

 十代の少女にしては高い上背に纏う筋肉に一切の無駄はなく、過剰になりすぎてはいない。バレエダンサーのように大胆な躍動性と柔軟性を併せ持った肉体の上に柔らかな脂肪が乗っており、女性特有の円やかな姿態を形作っている。

 女性にしてはやや幅広な背面はまるで変声期前の少年のように中性的ではあるが、それすらも人間が持つ肉体美の発露に他ならない。発達した肩の筋肉によって陰の浮かぶ上腕は、やや男性的ですらあるが勇ましい冴子にはよく似合う。

 背面から脇腹に至るラインには肋骨のパセティックですらある陰影が微かに浮かんでおり、その先には摘み頃の果実を彷彿とさせる乳房の、柔らかそうな側弦が見て取れ、剛健と豊艶の美しい対比構造を作り出している。

 くびれた腰からむっちりとしたヒップに至るラインは、少女が女へと成熟し始めたのが窺えた。

 非常にセクシーなデザインの黒のTバックを穿いている為に、お尻の山の間を通る細い布地の存在が、綺麗につり上がった臀部を強調していた―柔らかな脂肪の下にはあの運動量を支える筋肉の存在が認められた。

 すらりとした脚は見るからに健康そうで、運動量に秀でた健脚であるのが一目でわかる。雌鹿のようにたおやかさと瞬発力を備えた脚は、横に並ぶ他二人より太く見受けられるが、それが溌剌とした健康美を感じさせた。

 竹刀を握る握力、竹刀を振る腕力、竹刀を振り上げ、振り下ろす時に使う腹筋と背筋、突進する時に使う脚力―つまり剣道とは全身運動であり、筋肉を効率良く連動させる事に重きが置かれている。

 冴子の均整の取れた格好良くすらある肉体は、剣士故に獲得したものだろう。

 だが、冴子の特筆すべき点は体幹の強さだろう。

 決して軽くはない、素振り用の本赤樫の木剣を恐るべき速度で打ち込みながらも体軸に一切のブレが見られなかったのは、彼女が生半可な鍛え方をしていないという証に他ならない。

 アウターマッスルは派手なワークアウトで見栄えよく鍛える事は出来るが、インナーマッスルは地道な鍛練を積まなければ機能的に鍛える事は出来ない。

 見れば見るほど、冴子の肉体は機能性を集約する過程で生まれた美の顕現そのものであるように思えた。

 俺にはあんな鍛え方は出来ないな―強靱な体力を備える清田だが、素直に毒島冴子という少女の壮烈さには舌を巻いた。

 そうして清田が、ある意味で熱い視線を送っていた為だろうか。

 

「ああ、清田さん」

 

 その視線に気付いた冴子が、清田を振り向いた。

 またしても清田は驚嘆した。

 布地を突き上げる、冴子の張りのある乳房は格好良いという印象すら受けたが、それよりもエプロン越しでも引き締まった腹筋にはうっすらと筋肉の凹凸が浮かんでいるのが見て取れたのに感動した。

 男が腹筋を割らすのと、女が腹筋を割らすのとでは意味が違う。

 プロの女性アスリートでもなかなか腹筋を割らすのは難しいのだ。

 何故なら女性は男性に比べて皮下脂肪と遅筋の割合が多く、相当長期的に鍛えなければ無理である。

 女性が腹筋を割るには、遅筋を鍛えて徹底的に体脂肪を落とすか、速筋を鍛えて太い筋肉をつける必要がある。

 冴子の場合はその両方であり、若干速筋の割合が高いのだろう―清田はまじまじと彼女の下腹部を観察し、そう結論付けた。

 

「…やはり、はしたなさすぎましたか?」

 

 じっくり眺める清田の視線に気恥ずかしさを覚えたのか、冴子はお玉を持った手で、身体を掻き抱くように隠した。

 流石の清田も、己のしている事の重大さに気がついた。

 

「あ、いや…すいません」

 

 慌てて視線を外し、目を伏せる。

 俺に女子高生を視姦する趣味はない―それについての言い訳を探したが、正直に冴子の研ぎ澄まされた肉体美に見惚れていたと白状するのも躊躇われた。

 

「サイズの合う服が無かったので…鞠川校医のパジャマは数がないので、林先生に使って頂いたものですから」

 

 冴子が、己の露出の多い格好の理由について話した。

 成る程、それならば仕方はないのかもしれないが、もっと別の服はなかったのだろうか、と野暮な事を聞く清田ではなかった。

 

「私みたいなおばさんが毒島さんみたいな格好したら、それこそ目の毒になってしまうわ」

 

 茶化すように京子が冴子をフォローする。

 いや、恐らくそれも充分魅力的かもしれない―清田は、だぼついたパジャマ姿の京子を、脳内で裸エプロンに変換してからそう思った。

 しかし、パジャマ姿というのは愛くるしさと気怠げな色気を感じる。

 寝心地が良いようにゆったりとした作りが、なんだか子供が大きな衣服を着ているようなアンバランスな可愛さと、生活感のある雰囲気が妙な魅力を感じさせた。

 日常に潜むエロス、というのだろうか。

 夜、就寝する前、共に寝床に潜り込み、どちらともなくちょっかいを出し、やがて情事に耽るという妄想が、現実味を持って想像できるという事に強い興奮を覚えそうだった。

 静香も京子も、その点では冴子にはない魅力を備えているといって良いだろう。

 幾ら美人とはいえ、そういういかがわしい妄想の相手に冴子を選ぶのは、流石の清田も罪悪感を覚えた。

 相手は子供だ、子供なんだぞ―子供、という単語に、胸の奥がざわついたが、清田は敢えてなんでもないように装った。

 

「ところで、味見は如何です? 今夜の夜食にと作ったのですが」

 

 冴子が小皿に鍋の中身を掬い、清田に差し出した。

 小皿を受け取った清田は、一口で中身を飲み干した―口内に広がるのは、濃厚で温かな味噌味だ。

 しかし、ただの味噌味ではない。まったりとしていてコクが強く、バターが入れられているのが分かった。

 バター豚汁か―それは清田にとっては、馴染み深い味だった。

 高校生の頃、既に今と遜色ない体格だった清田は、日々の激しい部活で消費するカロリーを摂取する為にかなりの大食らいだった。

 そこで手軽に高カロリーを取る為に、母親がバターの塊を入れた豚汁をよく作ってくれた―懐かしい家庭の味に、清田は涙腺が緩むのを感じた。

 泣くな、もう泣くんじゃない…みっともないだろ―思わず眉間を強く摘み、涙を堪える。

 だが、今まで考えないように抑えていたものが心の奥底から噴き出してきた。

 ずっと家族の事が気になって仕方がなかった。

 この一度しかない人生で、命を捧げるに値する仕事という事で自衛官を選んだが、命を燃やし尽くすという目的の他には、勿論大切な人を守りたいという想いもあった。

 それなのに、こんな時に一番に守りたい人達の傍に居てやれない矛盾ともどかしさに、心が狂いそうだった。

 だから無理にでも、何の根拠もなく家族の安全を信じていた。

 そうだ、きっと大丈夫だ。なんといっても親父がいるんだ―父親は清田と同様に大柄で頑健であり、きっと家族を守ってくれているに違いない。

 若い頃は自衛官であり、今も腕っ節には自信のある血気盛んなオヤジだ。

 お前には負けねえ、と口癖のように言っては久し振りに帰郷する清田に力比べを挑み、自分の年齢も考えずに無茶をしては負ける。

 その都度、心底悔しそうにしては、もっと鍛えていつか倒してやる、と実の息子を相手に息巻いては母親に苦笑いされていた。

 父親とは対照的に、小柄で細い母親と、母によく似た妹も、親父が守ってくれている。

 親父なら…きっと、親父なら大丈夫―そう信じたいが、ふと、脳裏に、もう年だなぁ、と溜め息を吐く父親の弱々しい背中が蘇った。

 そうだ。親父だってもう年なんだよ。じゃあ、そんな親父は誰が守ってくれるんだ?―自分を除いて他にはいない、という強い思いに駆られ、飛んでいけるならば今すぐにでも家族の元へ駆けつけたかった。

 俺の父親と母親と妹を、一体誰が守ってくれるんだ?

 俺は、大切な人を守りたくて、自衛隊に入ったんじゃないのか?―多くの自衛官が抱える葛藤に、清田も悩まされていた。

 日本国民を守る為、とは言うが、顔も知らない誰かの為よりも家族の為に命を懸けたいと思うのが人の情だろう。

 中には本気でそう考えている人間もいるかもしれないが、大多数は身近な人の為になるならばと職務に励む。

 清田も、無力な民間人の為に身を粉にする覚悟は充分に備えていたが、度重なる疲労と心労、人格を根底から揺るがす心的外傷が、公私の境を曖昧にしていた。

 だが、服務の宣誓を誓った自衛隊員としての矜持が、清田を踏み留まらせた。

 正直に言えば家族を助けたいが、現実的に考えてそれは出来ない。

 出来ない事を言及しても仕方がないなら、目の前で助けを必要としている人々の為に命を懸ける他ない―仮に己の職務を放棄して駆けつけたとしても、家族はそれを喜んでくれるだろうか、赦してくれるだろうか。

 俺は清田武であって、清田武ではない―自衛隊員である以上、個人を優先する事は出来ないのだ。

 それに、家族の安否に身を焦がさん焦燥に苛まれながらも、職務を遂行せんと命を懸けている仲間や、警察官、消防士、その他全ての勇気ある男女に申し訳が立たない。

 なんとか自分を理屈で納得させたが、それでも悲しみと不安を堪えきれない己の情けない心の働きに、清田は嗚咽を漏らさないようにするので必死だった。

 

「凄く…美味い、ですね」

 

 両目を手で覆い、涙声でそう言いながら清田は小皿を冴子に返した。

 そして背を向け、足早に玄関に向かった。

 サンダルも突っかけず、裸足で外廊下に出ると、壁に背を凭せ掛け、ずるずるとその場で膝を抱えた。

 もう、堪えきれなかった。

 清田は膝に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。

 今、自分がしている事がどれだけ情けなくて、どれだけ愚かな行為であるのかは自覚していた。

 この場にあっては、無力な民間人を守り、それとは別に高城沙耶の身柄を最優先に考えなければいけないという任務を帯びている。

 しかも、清田はただの自衛官ではない。

 陸上自衛隊が擁する特殊作戦群に所属する最精鋭である。

 その隊員にと求められるレベルは自ずと高く、心技体の何れも常人を超えねばならない。

 どんな苦境に遭っても弱音一つ吐かず、課せられた任務を果たす為には人間的な要素の全てを切り捨てのも厭わない、狂人でなければならない。

 狂ってる、何もかもが狂ってる―今の今まで、この道を選んだ事を後悔した事は無かった。

 会いたい、家族に会いたい、会って無事を確かめたい。

 たとえ死体となっていてもいい。それならばまだ手厚く葬ってやる事が出来るから―清田は、もう二度と家族と会えない事を恐れていた。

 それに泣きたいのは清田だけではない筈だ。

 家族や肉親がいない人間は兎に角として、いる人間は一行の中には何人もいる。

 沙耶の両親は床主にいるが、耕太や冴子の肉親は国外にいる。

 彼女の両親の安否を確認する事は可能であり、一行の当初の目的でもある。だが、後者二人はどうしたって連絡を取るのすら難しい。

 顔には出さないだけで、二人とも気にしているに違いない。

 家庭に問題がなければ、家族の事を気にしない人間がいる筈がないだろうから。

 そう考えると、自分よりなんて強いんだ、と改めて清田は己の弱さと情けなさに落ち込んだ。

 一頻りぐすぐす泣いていると、誰かの気配を感じ、清田は思わずびくりと身体を震わせた。

 恐る恐る顔を上げると、目の前には京子が佇んでいた。

 表情までは見えなかったが、恐らくこんな情けない自分の姿を見て失望しているに違いないと、清田は諦観していた。

 それは当然だろう。

 今まで無敵の兵士を演じていたのに、蓋を開ければ泣き虫の大男だなんて情けないったらありゃしない―自分が同じ立場になったら、間違いなくそう思う。

 京子は何も言わず、無言で隣に腰を下ろし、清田と同様に膝を抱え、顔を埋めた。

 清田は彼女のその行動の真意が分からず、泣き腫らした目でじっと見た。

 膝に顔を埋める京子の頭には、包帯は巻かれていなかった。

 

 彼女の頭の傷は包帯を巻くほどのものではなく、静香が丁度良い大きさの絆創膏を貼ってやり、それは前髪に隠れる程度のものだった。

 

「私もね」

 

 ぽつり、と京子が唐突に呟いた。

 

「いっぱい酷い事をしたわ」

 

 懺悔をするような、そんな声音で彼女は続ける。

 

「私は、教師なのに、教え子を誰一人救えなかったし、救おうともしなかった…」

 

 そう告白した京子は、肩を震わせていた。

 

「私は教師である事に誇りを持っていたし、この仕事が好きだった。生徒の未来の為に尽くすのはとても崇高で、そんな自分にちょっとだけ酔っていたわ…でも、いざこんな事が起こってみると、自分の事だけを考える最低な女だって分かった」

 

 清田は掛ける言葉が見つからず、黙って耳を傾けるしかなかった。

 

「同僚や生徒が大勢死んでいく中で、私は自分の事しか考えていなかった。私は教師で、先生で、親御さんから預かった子供達を守らなくちゃいけなかったのに…!」

 

 ぎり、と奥歯を噛み締める音が、清田にも聞こえた。

 

「こんな事が起これば誰だって」

 

「仕方なくなんかない!」

 

 ようやく見つけた言葉が、京子の血を吐くような叫びに掻き消された。

 

「仕方ないの一言で済ませられる訳がない!…確かに、私一人でどうにか出来る筈がないって分かってた。でも、私は、教師で、子供を守る義務があったのよ。子供を亡くした親御さん達にどんな顔をして会えばいいのか、なんて言えばいいのか、分からない…分からないの」

 

 職務の重責を感じているのは、京子も同様だった。

 確かに、あんな事態が起きてしまえば、彼女に出来る事など何もなかっただろう。

 だが、それでも教師であるからには、その責任を果たさなければいけないという思いがあった―あったが、実行に移す勇気が彼女にはなかった。

 ただそれだけの話であり、たとえ実行していたとしても、今頃彼女は学園で亡者の一人として生者の血肉を求めて彷徨していただろう。

 人間であるならば誰もが持つ生への願望と、教師として生徒を守らなければいけないという使命の狭間で、京子も人知れず悩んでいた。

 それは清田が抱える、自衛官の葛藤とよく似ているように思えた。

 暫し重い沈黙が二人の間に訪れたが、ややあって清田が口を開いた。

 

「…過ぎた事は、もう取り返す事は出来ません。この問題は当事者ではない俺が何と言ったところで、林先生が納得する訳がないと思います」

 

 言葉を慎重に選び、清田は相手の反応を窺いながら続けた。

 

「出来るとするならば、最後まで生き延びて、死んでいった生徒達を葬ってやり、その親御さん達の元に還らせてやる事ぐらいですね」

 

 それが一番、死んでいった彼らの為だろう。

 それは今この瞬間も、世界中で蠢いている死者達の全てに当てはまる事だと清田は思っていた。

 

「俺も、自衛官である以上は皆を守らなくちゃいけないのは解っています。でも、一番に守りたいのは、やっぱり家族なんです…そんな事は出来ないのは解ってます。自衛官の全てがそんな事をしたら、忽ち大勢の人間が死んでしまう。生きているか死んでいるかも分からない家族よりも、目の前で助けを必要としている人を救うのが、現実的だって解ってるんです」

 

 自らに言い聞かせるように、清田は言った。

 

「俺が今一番やらなければいけないのは、皆を無事に安全なところまで連れて行き、そしていつか家族に会う事です…死んでいても構わない。見つけ出して、ちゃんと葬ってお墓に入れてやりたい。家族だけじゃない。庭に埋葬した人達も、そこらを歩き回ってる犠牲者も、全て何時かはちゃんと送ってやりたい…だから、俺は、生き抜いて、生き抜いて、生き抜いて、生き抜くって決めました」

 

 これが都合の良い話だとは思っていた。

 幼子を殺しては泣き、家族を想っても泣く。

 なんと身勝手な人間だろうと、清田は己に呆れ果てていた。

 だが、何時までもうじうじと悩んでいても仕方がないのも事実だ。

 今は、今だけはこの問題を先延ばしにしなければならない。

 でなければ、自分の助けを必要とする人達の為に立ち上がり、武器を手に取る事が出来なくなってしまうから―常に感じる、鋭い胸の痛みを、忘れる事など出来る筈がない。

 目を閉じれば今すぐにでも脳裏にあの光景が蘇る。

 気を緩ませれば左手にあのおぞましい感触が蘇る。

 右腕に抱いた重みも、温もりも、襟を握る小さな手も、最後の吐息の音も、痙攣する華奢な身体も―五感の全てで感じたあの幼子の存在は、清田の魂に消えぬ傷跡を残した。

 

「…それが自己満足に過ぎなくても、目的がある限り、俺は生きるって決めました」

 

 そう言って、清田は押し黙った。

 暫くは、再び訪れた沈黙の中で手持ち無沙汰に体育座りをして、京子の反応を待った。

 

「やっぱりなぁ」

 

 やおら、京子が顔を上げて清田を見た。

 その目は充血して潤んでおり、声も出さずに泣いていたのが窺えた。

 

「清田さんは凄いのね…私、自己嫌悪するだけで、そんな事考えもつかなかった」

 

 そっと、京子が清田の肩に頭を凭せ掛けた。

 急に接近した互いの距離に、清田は内心ではどきどきしていた。

 

「なんだか貴男を好きになってしまいそう。まだ、会って一日も経っていないというのに」

 

 京子の何気ない言葉に、正直、どうしていいか解らなかった。

 学生時代にまともに異性と付き合った経験など清田には皆無であり、そうしたいと願った事もない。

 ましてや入隊してからのこの数年間は恋に現を抜かす暇などありはしなかった。

 いや、正確に言えば恋愛はもっぱら興味の対象外で、清田はひたすらに己を高める事だけに打ち込み、汗を流して肉体と精神を痛めつける行為に没頭し続けていた。

 自他共に認める生粋のマズヒストである事を否定できない清田だが、かといって彼に正常な性欲がない訳ではない。

 精気溢れる、頑強にして健全な男子である以上はそれなりの欲望がある。

 しかし、その発散の仕方は、白濁とした欲望が透明になるまで自らを慰めるか、悶々としたら性欲が失せるまで肉体を追い込むという両極端な手段であり、異性との間に性交渉を持とうだなんていう発想には至らない。

 先輩からは大人の遊びとして風俗に行く事をよく勧められたが、わざわざ安くもない金を払うぐらいならその金でサウナで汗を流した後に冷たいビールとそこそこ美味いつまみをたらふく腹に詰め込む事がよっぽど建設的であると考えており、彼は事実その通りの余暇を過ごす事が多い。

 風俗嬢を相手にするのを嫌悪しているという訳ではなく、単純に性交は金を払ってまでする価値がない行為だというのが清田の持論であり、だからといって一般女性との恋愛とセックスを楽しもうだなんていう気概も持ち合わせていないのだ。

 ムラムラしたら二八〇kgのバーベルを持ち上げればいい―清田武という男は、意識的か無意識的かに関わらず、徹底して色恋を排している存在だった。

 だが、京子ほどの年上の美人に、真っ向から好きと言われるのは、正直良い気分ではあった―心の奥底では、今の自分は人に好かれる資格はないと思いつつも。

 ええい、浮かれるんじゃない。お前はハリウッド映画の主人公か―まるで映画のような状況だが、これは現実であると戒め、素直に酔いしれるような気分ではないのも事実であると認めた。

 かといって、上手く返す言葉が見つからない。

 先輩の浜岡ならば女性の扱いには長けているから、咄嗟に殺し文句の一つや二つが口から出るのだろうが、清田にそんな器用な真似が出来る筈がなかった。

 ああだこうだと考えあぐねていると、京子が手を伸ばし、清田の頬に添えて振り向かせた。

 彼女の手はすべすべとしていて、ひんやりと気持ちが良かった。

 今の京子は眼鏡を掛けていなかった。

 重なり合う視線の向こうには、潤んだ女の瞳があった。

 濡れた瞳の熱っぽい輝きに、流石の朴念仁の清田といえども彼女が何を伝えたいのかは察せられた。

 一瞬、清田は躊躇った。

 きっと今ここで頷けば、傷を舐め合い、慰め合う事で多少なりとも心の重石を軽くする事は出来るだろう。

 しかしそれは結局は逃避に過ぎない。

 何をしても満たされるものでも、癒されるものではない。

 自分自身を許す事が出来ないのであれば、何をしたって無駄なのだ―清田は京子の手を取って頬から離すと、首を横に振った。

 

「すみません。俺は…その、まだ自分が許せません。だから、こういう事は、出来ません……」

 

 これが女性に対して途轍もなく失礼な事なのは承知していたが、曖昧な気持ちで彼女を受け入れるのはそれ以上に相手を侮辱している行為だと思った。

 京子は傷付いたというよりも、少し残念そうな表情で微笑んだ。

 

「分かっていたわ。きっと、貴男は断るだろうって…」

 

 でも、と言って、京子はそのまま清田にしなだれかかった。

 

「今だけは私のわがままを聞いて…抱き締めてくれるだけでいいから」

 

 お願い、と消え入りそうな呟きに、清田は京子を掻き抱く事で応じた。

 

 

†††

 

 

 それから京子と別れたのは暫くしてからだった。

 どちらともなく身体を離し、お互いに見つめ合うと、気恥ずかしそうに笑い合った。

 そして、ちょっと夜風に当たってきます、と言って京子はそそくさとその場から立ち去ってしまった。

 清田も、何だか嬉しいような恥ずかしいような気持ちだったが、幾らか心が軽くなっている事実に気力が湧いてくるような覚えがした。

 そうして扉を開けると、其処には沙耶が仁王立ちで待ち構えていた。

 今の彼女はタンクトップに下着姿と大胆な格好をしていたが、そんなものは清田の目には入らなかった。

 

「ちょっといいかしら、色男さん?」

 

 若干棘のある声音に、清田は己の迂闊さを嘆いたが、今となってはもう遅いだろう。

 

「手伝って欲しいのだけれど」

 

 清田は一言も弁解する事なく、沙耶の後ろに付き従って二階の寝室へ移動した。

 そこでは耕太が重厚なロッカーを開けようと悪戦苦闘しており、全体重を掛けてこじ開けようとしていたがびくともしていない。

 

「見ての通り、デブチンこと平野がやってるけど、軟弱なデブオタじゃ梃子でも動かないって訳」

 やれやれと肩を竦める沙耶は、恐らく高みの見物を決め込んでいたのは想像に難くない。

 それについてとやかく言うつもりは清田にはなかった。

 

「で、そこでアンタの出番って訳よ」

 

「…中身は?」

 

「わからないけど、多分役立つものが入ってるのは確実ね。隣のロッカーには弾薬があったし」

 

 沙耶の言葉通り、隣のロッカーには多種多様な弾薬の紙箱が、堆く積まれていた。

 

「ぜえぜえ…清田さん、お願いします」

 

 汗だくで荒い息を吐く耕太からバールを受け取り、清田は扉の隙間に差し込むと、一気に力を込めた。

 清田の背中の筋肉が隆起すると同時に、扉が金属を無理やりねじ曲げる音と共に解放された。

 

「おいおい。一体こいつを持ってるなんて何者なんだ?」

 

 思わず口をついて出た言葉は、彼も舌を巻く代物が収められている事の証だった。

 ロッカーに収まっている三挺の銃器は、どれもこれもが日本国内では手に入らないものだった。

 清田はそのうちの一つを手に取り、細部を改めた。

 サンドイエローに塗装されたその銃は通常のものよりもずしりと重く、長く肉厚の銃身と機関部上部に据え付けられた高倍率の狙撃眼鏡から、半自動式(セミオートマチック)の狙撃用ライフルであると判別できた。

 

「それはH&KG28スナイパーライフル!HK417の民間向けの軍用仕様!」

 

 嬉々として耕太が解説せずとも、清田にはこの銃が何であるのかは知っていた。

 H&KG28は、7.62mm×51弾を使用するHK417の民間向けバージョンであるMR762A1を、軍用向けに改良してドイツ連邦軍が採用したセミオートマチック・スナイパーライフルである。

 ドイツ連邦軍に於いてはHK417は、半自動狙撃銃としての精度に関しては、先代のDMR(選抜射手ライフル)であるG3ライフルに劣るとされ正式採用は見送られた。しかし、競技用の高精度マッチバレルを搭載した民間のMR762A1は、精度、操作性、携行性の全てに於いてG3を上回ると判断され、G28の名称を与えられて採用された。

 民間のスポーツシューティング向けの改造を施した途端、軍に採用されるなどとなんとも皮肉めいた経緯を持った銃だが、性能が良ければ関係ないという証明でもある。

 HK416の扱いに習熟している清田は、G28をすんなりと構える事が出来た。

 各部に設けられたピカティニー・レールには様々なオプションが追加されており、伏射用の二脚(バイポッド)、CQB用のフラッシュライト内蔵型フォアグリップ、シュミット&ベンダー製高倍率狙撃眼鏡の上部には近接戦闘用の小型レッド・ドットサイトが搭載されていた。

 勿論、バックアップ用のアイアンサイトも装備しているが、まず出番は無いだろう。

 狙撃仕様という事で若干重量があるが、それが苦にはならないほどの扱いやすさがあった。

 槓桿を引くと、その滑らかさと汚れ一つない機関部から、この銃がよく手入れをされているのが窺えた。

 機関部から立ち上る真新しいガンオイルの臭いには、流石の清田も新しい玩具を手に入れた子供のような気持ちになった。

 

「でも、まぁ、俺には必要ないな」

 

 清田はそう言って、傍らでうずうずしている耕太にライフルを手渡した。

 既に清田は充分に重武装している。一人で二挺も三挺も持ち歩く必要はない。

 受け取った耕太はそれこそ、子供のように目を輝かせてライフルをいじるのに夢中になった―その妙にこなれた手つきは、ソフトエアガンなどの玩具で培ったようなものではなかった。

 続いて清田はもう一挺を手に取った。

 

「それは?」

 

 銃器に疎い沙耶は、清田が手にする銃を訊ねた。

 

「モロトVEPRセミ・オートマチック・ショットガン…半自動式の散弾銃ですよ」

 

 ロシアのモロト社製のVEPRセミ・でオートマチック・ショットガンは、同社が製造するRPK軽機関銃のノウハウをフィードバックした軍用散弾銃である。

 外観はRPK軽機関銃に酷似しており、小銃弾よりも大きな散弾を使用する為に銃身や機関部は再設計されているが、それ以外の幾つかの部品はそのまま流用されている。

 ロシア製銃火器ではお馴染みとなっている、堅牢で確実な作動には充分な信頼性があり、過酷な状況でも安心して使用できるだろう。

 長い銃身を装備しているので、これが軍向けではなく民間向けモデルであるのが分かったが、装弾数八発のスチール製インサート入りの強化プラスチック製弾倉は軍向けのものだった。

 八発もの十二ゲージ・マグナム・ショットシェルを装填出来るので、その気になれば一瞬で辺り一面を挽き肉の海に変える事が出来るだけの火力を備えているだろう。

 これも機関部上にダットサイトが装備されており、正確かつ迅速な照準がしやすくなっている。

 例によって清田はこれも耕太に渡し、泥濘の中でも作動する質実剛健なロシア製銃器は彼を大いに喜ばせた。

 

「さて、問題はこいつだな…」

 

 残る一挺を手に取り、清田は驚きの余り感情を表す事が出来なかった。もはや呆れていたのだ。

 昨今の銃は軽量合金と合成樹脂の部品が多用され、まさに近未来然とした形状であるものが多いが、これはまるで鉄塊から削り出したかのように旧態依然の無骨で古臭いものだった。

 自衛隊の主力小銃として長年使用されてきた六四式小銃―それに違いないのだが、原型を留めぬ程に手が加えられていた。

 まず銃身が通常のものよりも延長され、更に肉厚で倍ほどの太さがあり、銃口部の消炎制退器(マズルブレーキ)、着剣装置である剣止め、脚固定筒、皿型座金、二脚、前部銃床部に取り付けられている照星もなかった。勿論、機関部後方にある照門も廃止されていた。

 被筒部(ハンドガード)は従来のちゃちなものではなく、スチールから削り出したピカティニー・レール・ハンドガードであり、G28と同様に可変式二脚(バイポッド)、フォアグリップとフラッシュライト、レーザーモジュールが装備されていた。

 機関部のデザインも大幅に変更されていた。

 遊底を操作する為の槓桿が上部から右側へと移行している。そして照門があった所から排莢口の前、前部機関部までレールが渡してあり、その上に低倍率のACOGサイトとブースター・サイトが据え付けられていた。

 試しに槓桿を引いてみると、通常の六四式は機関部上面が開くようになっているが、これは右側だけが開放された。

 槓桿の位置が右側に移行しているのは、そのままではライフルスコープをオフセットで装着しなければいけない問題点を解決する為だろう。スコープは銃の真上に装着するのが一番精度の高い射撃を行える。

 握把や銃床は木製ではなく、合成樹脂製に改められていた。木製部品は湿度によって膨張したりするので、それが射撃の精度を狂わせる事が往々にしてあるのだ。

 左手でフォアグリップを握り、右手で握把を握り込んで肩付けし、サイトを覗き込む。

 しっかりと“血に馴染む”感触は、やはりこの銃に流れる血がそう思わせるのだろう。

 この六四式小銃は見ての通り、ただの六四式小銃ではない。

 六四式小銃は採用されてから、A、B、Cと初期型から改良されて使用されていたが、S型と呼ばれるものもごく少数だけ生産された。

 スペシャルのSと、スナイパーのSを冠したS型は、自衛隊と警察の一部にしか配備されていない代物だ。

 どちらの組織も近年では新型狙撃銃を採用しているが、それによって余剰となったS型が民間に出回るなどという事は有り得ない。

 幾多の自衛隊員の汗と涙を吸った六四式小銃は、重みと誇りを備えた小銃である。

 ただの銃ではないのだ。

 六四式小銃S型に手が加えられたこれは、六四式小銃S型改というべき代物であり、何を如何こうして手に入れたのか定かではないが、本来なら民間に出回る筈がない。

 しかし、既に高機動車を所有している点からして、静香の友人がただ者ではないのは知れている。自衛隊の装備火器を持っていても別段驚くほどの事ではないのかもしれない。

 三挺の銃火器に加え、狩猟用コンパウンドボウも弾薬が保管されているロッカーにあった。

 現代の優れた物理学と、軽量高耐久の部品によって作られたこの種の狩猟弓は、正しい使い方をすれば銃器にも負けない威力を発揮する。

 実際、アメリカでは若干十七歳の女子高生が狩猟用コンパウンドボウで体重二〇〇kgの熊を仕留めた事例がある。使い手もさることながら、現代の優れた科学が作り出した弓矢の威力も馬鹿にならないという証明でもあった。

 幾つかの矢筒には強靭なカーボン製の矢がびっしりと収められていて、先端に装着されている狩猟用の大型の鏃は剃刀のように鋭く、威力が高そうだ。

 弓矢の威力は知っているが、残念ながら自分には扱えそうにない―清田は各種銃火器ならば問題なく使用できるが、流石に弓矢の扱いは心得ていなかった。

 恐らく、サウンドサプレッサーを装着した銃火器よりも高い消音性能を持つ狩猟弓は、この状況下では役立つ場面が幾つもあるだろう。

 もしかしたら冴子ならば多少の心得があるかもしれない。折角手に入れた武器を活用出来るならばそれに越した事はないだろう。

 

「さて、これらは有効に活用させて貰うとして…」

 

 清田は六四式小銃を胸の前に抱えたまま、耕太と沙耶に向き直った。

 

「平野君は兎に角として…高城さんは、銃の扱いは?」

 

 聞くまでもない事だろうが、一応形だけでも訊ねておいた。

 

「か弱い女子高生がそんな物騒な代物、扱える訳ないでしょ」

 

 自信満々に言ってのける沙耶に、清田は銃の基礎的な扱い方と操作方法を教えなければならなかった。




SR-25風AR-10→H&K G28

M1A1スーパーマッチ→六四式小銃S型改

イサカM37→モロトVEPRセミオートマチック・ショットガン

バーネットワイルドキャットC5→狩猟用コンパウンドボウ

ハンヴィー→高機動車

以上が原作からの変更です。
ちなみに六四式小銃S型(六四式小銃改とも)は鳴海章先生の『冬の狙撃手』、『夏の狙撃手』、『雨の暗殺者』に登場しております。

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