近日中に完全版をあげておきます。
あまり物語は進展していません。
自律神経は、交感神経系と副交感神経系から成っている。
殆どの器官がその両方の神経系から信号を受けとっているが、両者の神経系は正反対の働きをする。
例えば、交感神経系は心拍数を上げ、副交感神経系は下げるというように。
交感神経系は消化を抑制し、アドレナリンとノルアドレナリンの分泌を促し、気管支と心血管を拡張させ、筋肉を緊張させる―つまり身体のエネルギー資源を戦闘という目的に向けて振り向ける役割を担っているのだ。
副交感神経系はその正反対で、内臓の働きを活発にして消化を促し、身体にエネルギーを溜め込む―これが優勢になるのは睡眠などリラックスしている時が多い。
そして朝が来て目覚め、シャワーを浴び、コーヒーを飲むと、いわゆるホメオスタシスに達する。これは交感神経系と副交感神経系の働きが釣り合っている状態である。
だが、戦闘などの生命の危機的状況に陥ればそれどころではない。
肉体の反応は完全に交感神経系に支配され、消化吸収などの副交感神経系の働きは全て放棄される。
消化なぞしている場合ではないのだ。
緊張や恐怖の為に唾液が分泌されずに口の中が渇くのはその為である。
そういった体験を、清田は今日という一日で何度もこなしていた。
そういう強烈な体験の後の揺り戻しは凄まじいものであり、それはセックスの際に男性の肉体に起きる現象に似ていなくもない。
勃起し、射精すると、急激に生理的な虚脱が起きるというのは、戦闘も同じなのである。
死線を潜り抜けた直後に堪えようのない眠気や倦怠感に襲われるのは、交感神経系に費やされていたエネルギーを生産して充填しようとする肉体の正常な反応なのだ。
だが、今の清田の肉体と神経は異常なほどに高ぶっていた。
動悸は早く、頭は冴え渡り、ぶるぶると筋肉が震え、身体が疼いて仕方がない―これが過剰に分泌されたアドレナリンの燃え残りの所為であるのを、清田は自覚していた。
原因は、休息をとろうとしていた矢先にあの母子を救出した為だろう。
幾度となく強烈な体験をし、自己を否定したくなるような心的外傷を伴う行為も実行して、清田の心身は疲れ果てていて、彼の感情は別として、肉体は休息を欲していた。
あの恐ろしい行為の後、清田は自ら進んで仕事を探して体を動かして何も考えないようにしていたのだが、それが結果として今日一日で放出されたアドレナリンを燃やし尽くしていた。
そうして何時でも身体は休める態勢にあったのだが、そこへあの救出劇によってアドレナリンが大量に放出されてしまった。
体内を未だに強力な神経伝達物質が駆け巡っており、それを燃やす手段がないまま清田は寝床についた。
戦闘に狙撃手として参加した耕太も同様の症状を現していたので、清田は彼に一時間ほどの見張りに立って貰い、高ぶる神経を宥めるように取り計らった。
冴子だけは特に変わった様子もなく、アドレナリンの残滓を燃焼させる必要がなさそうなので、他の女性陣と同様に二階で休んで貰っている。
清田は、自分も耕太と一緒に見張りに立てば良かったのではないかと後悔し始めていたが、新たに加入したあの親子の事が気になっており、すぐに駆けつけられるよう当初は一階のリビングに陣取る事にした。
目が冴えて眠れないので起きていようかと思ったが、肉体が疲弊しているのは事実であり、取り敢えず毛布にくるまってフローリングの床に寝転がった。
眠れなくとも目を瞑って横になるだけでも体力は回復する―この状況は最悪とは言い難い、と自らに言い聞かせた。
雨風をしのぐ寝床があり、温かい毛布があり、餓える事も渇く事も今の所はない。
任務遂行中に衣食住の心配をしないで済むのはかなり助かる。
清田は、地獄の空挺レンジャーの最終想定中、豪雨に見舞われた経験があるが、それに比べれば今の状況はまさに文明の恩恵を充分に受けられるといえた。
乾いた寝床と衣服があるだけでもはや何も望むべきではないのだ―戦闘行動中に衣服は一度濡れれば乾く事はなく、そうなれば状態は悪化の一途を辿るだけだ。
惜しむらくは、頼れる仲間とあらゆる支援が皆無であるという点だが、そればかりはどうしようも出来ない。
そうだ。どうしようも出来ない。どうしようも出来なかったんだ―清田の思考は、気を緩めると、あの冒涜的でおぞましい出来事へと向かっていってしまう。
永遠に赦される事のない罪と、誰にも与えられる事のない罰が、清田の疲れ果てた精神を苛む。
止めろ。そんな事は考えるな。考えたって仕方がないじゃないか―疼痛のように胸がずきずきと痛み、呼吸が苦しくなる。
目を瞑れば、あの光景が蘇ってしまう。
だから、涙に潤む瞳で天井を見上げ、加工された合板の紋様を目で追った。
精神が肉体を凌駕していた。
疲れ果てているというのに、今にも押し潰されそうな精神が休息を許す事はなかった。
そうやって悶々と悩んでいると、みし、と床板が微かに鳴った。
瞬間、行き場を失っていた血中のアドレナリンが本来の用途に使われるべく燃焼され、清田の五感が鋭敏となる。
侵入者、だろうか―清田は寝返りを打つ振りをして、身体をガラス戸に向けた。
玄関には鍵が掛かっており、出入りは庭に面しているリビングルームのガラス戸からではないと出来ないようになっている。
暗闇に慣れた視覚には、不審な人影を認める事は出来なかった。
みしり、と再び床板が鳴った。
それは背後からであり、どんどん清田に近づいてくる。
寝ている振りをしている清田の緊張が高まった。
鼓動は早まり、思考が高速回転していた。
侵入者という訳ではないだろう。無論、感染者でもない。
だとすれば、今、この家にいる人間の内の誰かという事になる。
誰だかは分からないが、こんな時間に一階に降りてきて、清田に目的があると思われる以上、喉が渇いて水を飲みに来た訳ではなさそうだ。
しかし一体誰だというのだろうか?―清田は別の意味で身体を緊張させ、起きているのを気付かれないようにした。
やがて気配は背後で立ち止まり、謎の人物の呼吸を微かに聞き取る事が出来た。
呼吸音が近付いた―気配と音の変化から、その人物が屈み、座り、そして寝そべるのが分かった。
一瞬、清田の時間が停止した。
その人物は、清田の毛布にするりと身体を滑り込ませ、広い背中にぴたりと密着させてきた。
背中には女体の軟らかな肉体の感触を覚え、項にその人物の、熱と湿り気の混じった吐息を感じた。
シャンプーだと思われるが、妙に甘やかな芳香にはとろけそうな気分にさせられた。
一体、こんな夜這い紛いの事をするのは誰だろうか―興奮と緊張がない交ぜになった頭で、清田は考えようとした。
刹那、清田はびくりと身体を振るわせそうになったが、寸でのところで堪える事が出来た。
女人の細い指がシャツの隙間に入り込み、つぅ、と脇腹をなぞったのだ。
ひんやり、しっとりした感触に肌が粟立ち、ぞくぞくとした悪寒が背筋を這い上る。
指先は、脇腹を通り過ぎ、清田の岩のように割れた腹筋に至ると、その割れ目の一つ一つに沿って滑り落ちていく。
ある意味で清田の頭の中では警報が鳴っていた。
マズいぞ。こいつはマズいぞ―腰骨のあたりにぞわぞわした感触を覚えながら、勝手に反応しそうになる自分の体の一部分を叱責する。
腹筋をなぞる感触から、その人物の爪が綺麗に整えられているのが判った。
同時に、ざらり、とした掌の感触に、清田は背後の人物が誰なのかを特定する事が出来た。
清田は、やんわりと悪さをする手を捕まえた。
びくり、と背後の人物は驚きに体を震わせたが、抵抗する事なく素直に従っていた。
全く、どうしてこんな事を―清田はやれやれといった心情で、背を向けたまま静かに声を発した。
「毒島さん」
思いの外、暗闇の中で声が響き、冴子は再び身体をびくりと震わせた。
手の中で、ざらざらとしたテーピングに包まれた冴子の手がぎゅっと握り締められるのが判った。
「どうしてこんな事を?…いや、言いたくなければ構いませんが」
清田は捕まえていた冴子の手を離し、お互いに顔を合わせるのが気まずかったので背を向けたままにした。
暫く冴子は押し黙ったまま清田の背に身体を預けていたが、やおら口を開いた。
「眠れなくて…すみません、軽率でした」
ぽつぽつと話す冴子は、いつもの冷涼と落ち着き払ったイメージからは懸け離れていて、妙に歯切れが悪かった。
眠れないのは解るとして、それがどうして夜這い紛いの行動に繋がるのだろうか。
最近の女子高生はよく解らないな―つい五、六年前まで自分が高校生だった事を棚に上げ、清田は溜め息を堪えた。
「実は自分も眠れなくて。ずっともやもやしてました」
「…では、最初から気付いていたのですか?」
「ええ」
清田の言葉に冴子は羞恥に頬を赤らめ、彼の背に顔を埋めて誤魔化した。
そうやっていじらしく誤魔化そうとする冴子を、清田はちょっと苛めたくなってしまった。
まだ一日しか経っていないが、毒島冴子という苛烈にして凄艶な美少女は容姿通りに気高い女武者であり、近寄りがたい雰囲気を纏っているのは充分に理解できた。
そんな彼女が、今はこうして年相応な恥じらいを見せているというのは一種のギャップであり、それがまた可愛らしいのだ。
だから、年上の男として、この少女をちょっとだけからかってみたくなったのだ。
「それで、こんな事を?」
清田は追及の手を緩めず、理由を問いただした。
眠れないからといってそれが破廉恥な行動に出る理由とはなり得ないが、やはり清田としては確かめずにはいられなかった。
世界がこんな有り様とはいえ、未成年と淫行紛いの事をするほど分別を失ってはいない。
五、六年前まで小学生だった少女とどうしてそんな事が出来よう。
清田の好みは年上の落ち着いた大人の女性であり、あわよくば包み込んでくれるような優しさがあるとなおよい。
「…解らなくて」
ぽつり、と冴子が答えた。
「心と体が堪え難いほど興奮していて、でも、どうすればいいのか解らなくて…自分でも、今、何をしているのか解りませんでした」
絞り出された声音は不安げであり、心細そうだ。
清田のシャツを掴む冴子の手は震えており、それが先程の戦闘で放出されたアドレナリンによる症状であるのが察せられた。
少しばかり芽生えた悪戯心も、自己に起きている変化に戸惑いと恐怖を覚えている少女を前にしては萎えてしまった。
武道に精通していても、戦闘という極度のストレス環境下で人体に生じる生理現象までは知らないのだろう―今までは戦闘に次ぐ戦闘で、単純に自覚がなかっただけなのだろうと清田は考えた。
清田と同様に冴子も、死者の埋葬や夕食の準備などの雑事によって身体を動かし、頭を働かせた事で結果としてアドレナリンの残滓を燃やし尽くしていたが、母子を救出する為に戦闘に参加してそのままにしてしまったが為に、こうして今はその後遺症に悩まされているのだ。
その知識がない冴子は、高ぶった興奮を収める為に、本能的に手近な雄との性的接触によって疼く身体を鎮めようとしたのかもしれない。
あながちそれは間違いではないかもしれない。
戦闘の興奮醒めやらぬまま、兵士が民間人の女性を強姦するというのは古今東西では多くあった事例だ。
あたり一面の死と破壊と恐怖を目の当たりにすると、自分が生きているという事を確かめたいという強い衝動が生まれ、それが人を性に走らせる事があるのだ。
遣り場のない戦闘の興奮を、性的な興奮によって代替的に満たす事で取り繕おうとするのは自然な反応だろう。
少女が戦闘後の後遺症に悩んでいると察する事が出来なかったのを悔やみつつ、清田は対処法を検討した。
アドレナリンは単純に体を動かす事で燃やし尽くすのが最も良い。サーキットトレーニングを四セットもこなせばクタクタになってぐっすり眠れるだろう。
だが、アドレナリンの残滓の他に、心的ケアも行った方が良いだろう。
冴子は年齢に反して気丈そうに見えるが、どんな人間にも絶対というのはない。
今日という一日で経験した過酷な体験は、本人が思っている以上に心身を蝕んでいるものであり、自覚のないままストレスを積み重ねればいつか暴発を招いてしまう。
そうなる前にある程度のガス抜きをする必要がある。
方法としては、過酷な体験をお互いに話し合い、共感を得るというものだ。
辛い記憶を抱えて独りで塞ぎ込むよりも、誰かの共感を得て寄り添って貰った方が慰めにはなる―それは清田も同様であり、彼自身が誰かに胸中を吐露したいという思いもあった。
これを情けない行いなどとは最早思わない。
自分の身を守る為に必要な行いであり、戦い続ける為に必要な儀式なのだ。
苦しみの共有は悲しみの割り算であり、人は抱え込んだ秘密の数だけ病んでしまう―人間は強くはないのだ。それを自覚しなければならない。
清田は寝返りを打ち、毛布の中に潜り込んで冴子と間近で目を合わせた。
冴子は、彼の突然の行動に戸惑い、慌てたが、真剣な眼差しに圧倒され、じっとしていた。
「今から自分は…いや、俺は自分の心を洗いざらいぶちまける。だから君もさらけ出してくれ。いいかい。これは必要な事なんだ。生き残る為に必要な事だから、恥ずかしいだなんて思わないでくれ」
冴子はこくりと頷き、清田は秘密を共有する同志としてひそひそと話し始めた。
清田は軽く深呼吸してから、胸中を吐露した。
「まず、俺は今日という一日で大勢の人間を殺した…嘘じゃない。死んで歩き回ってるゾンビじゃない。生きている人間を殺したんだ」
冴子の瞳は逸らされる事も、侮蔑の感情も浮かんではいなかった。
それに少しの安堵を覚えながら、胸の中に抱えた鉛を吐き出すように、言葉を続ける。
「俺が撃ち殺した連中はどいつもこいつも悪党だった。俺と鞠川先生、林先生を殺そうとする。だから俺はそいつらの頭と胸に一発ずつ鉛玉をくれてやった」
言葉と共に脳裏にあの時の光景がフラッシュバックする。
引き金の感触、発砲の衝撃、硝煙の臭い、弾き出される空薬莢、血飛沫と飛び散る肉片―全てが鮮明に網膜に蘇っては消えていき、新たな映像を再生させる。
「俺はろくでなし共を殺した事については少しばかりの罪悪しか感じていない。殺されて当然だ。そんな事をした代償を支払って貰わなきゃいけない。それが嫌なら最初から敵対なんかしなければいいのに、あいつらは馬鹿みたいに俺達に突っかかってきやがった…ぶっちゃけると、ざまあみろと思った」
殺人を犯したというのにほんの少しだけの罪悪感しか抱いていないのは、別に異常ではないと解っていた。
自己を正当化し、またその正当性が客観的に見ても立証されていると確信に足るからだ。
「悪党を殺した事についてはもうどうでもいい。問題は…そう、問題は、もっと、別の所にある」
あの事を思い出すと、呼吸が苦しくなり、瞳は潤み、嗚咽し、鼻を啜る音が混じり始めた。
冷や汗がだらだらと流れ、心拍数が異常なまで上昇する。典型的な発作症状に冴子は心配そうな表情をしたが、清田は苦痛を堪えて言葉を吐き出す。
言葉にして口にするのは苦行であり、今にも逃げ出したいほどだが、乗り越えなければいけない壁であるのならばどうしようもない。
ぶるぶると唇を震わせ、嗚咽しながら清田は続けた。
「俺が…俺が、あの女の子を殺したっていう事実が、途轍もなく怖くて、苦しくて、悲しくて、どうにかなってしまいたいほど全てを投げ出したくて……誰かに助けて欲しいって思った」
そこから先は、どうしてそうする必要があったのか、どうしてそうしなければならなかったのか、それにまつわる諸々を洗いざらいぶちまけた。
己の正当性の主張、抗しがたい要素の数々を並べ立てている間中、清田は自分を情けないと思ったが、仕方がない、仕方がなかったんだと自らに言い聞かせた。
全てを言い終えた時、相変わらず胸はずきずきと痛むが、心に抱えていたものを誰かに聞いて貰えたというだけである程度は休まるような思いだった。
自身が休まる事にすら罪悪感を覚えたが、それが殺人を犯した後に訪れる強烈な自己否定性だと清田は自覚しており、なるべく凪いだ海のような心で受け止めようと必死になった。
暫くの間、二人は無言となり、互いに見つめ合い、静かに呼吸する事ばかりに集中していた。
聞こえるのはお互いの呼吸音と、街中からさざめく亡者の呻きばかりである。
奇妙な静寂の中、冴子はそっと手を伸ばし、清田の頬に触れた。
肉の削げ落ちた頬に添えられた細やかな指先の温もりと感触を、清田は目を閉じて噛み締めるように感じた。
彼女は何も言わなかったが、添えられた指先だけで充分だった。
清田はその手を優しく握り、目を開いた。
眼前の冴子は、何か覚悟を決めたようなのか、少しばかり緊張した面もちだった。
触れたい。
もっと冴子に触れてみたい―乾いた砂に水を垂らすように、心が癒やしを貪欲に求めていた。
誰かの呼吸を、鼓動を、体温を、匂いを、切実に感じ取りたいと願った。
血を流し続ける心には、それを覆い塞ぐような誰かの存在が必要であり、それを感じ取るには肌を合わせるのが最良の方法だろう。
白い顔(かんばせ)を長い黒髪に縁取られた目の前の美しい少女は、きっと求めれば差し出してくれるに違いない。
少しばかり強張った表情も、恐らくその事に対して覚悟を決めている故だろう。
互いに背を預け合い、戦闘を潜り抜けた間柄だからこそ、そんな確信が清田にはあった。
出来るならば甘えたい。
その優しさを享受したい―つい先ほどまで、誰が年下の少女に欲情などするものか、と粋がっていたが、成熟の度合いに関わらず、目の前に自由に摘んでもよい果実がぶら下がっているという事実を認識した途端、この有り様だ。
安らぎを求める餓えた心を必死に宥め、清田は辛うじて押し留まった―実際に状況に流され、事に及んでしまっては取り返しがつかない。
そこまで俺は分別を失ってはいないぞ!―悲しみと苦しみにのた打ち、温もりを渇望する心に魂を身悶えさせながら、清田は強がった。
生唾を飲み込み、奥歯を噛み締めて声を絞り出す。
「ありがとう。俺の話を聞いてくれて」
名残惜しそうに冴子の手を離し、次は君の番だ、とばかりに再び見つめ返す。
冴子は、清田の瞳から視線を外し、俯き加減に口を開いた―彼女もまた、他人の目を直視して語れない、暗く過酷な体験をしたのだろう。
「…私も、人を殺めました」
その事実にさほどの衝撃は受けなかった。
むしろ、同じような経験をした人間がいるという事実に、心が少しだけ軽くなった気がした―清田はそのような自身の矮小な心の働きにまたしても自己嫌悪を感じた。
「学園で、既に手遅れだった生徒を介錯しました」
清田はその言葉を聞いてから逡巡した。
それは全くもって気高い行為だ、君は自身の心が傷つくのを躊躇事なく献身的に尽くした、だから何も気負う必要はない―そのような言葉を、掛けてやるべきだろうか?
だが、声を発しようとしたところで冴子が続けた。
「私は、既にその事については納得…したつもりです。清田さんがなさった事と同列にして語れませんが、避けられない運命として受け入れました」
淡々と語る冴子は、必要に迫られたとはいえ、殺人を犯した少女とは思えぬほど落ち着き払っている。
なんと心の強い少女なのだろうか―半ば取り乱しながら胸中を吐露した自分とは違うその姿に、清田は惨めな気分を味わった。
「私の問題は、もっと別のところにあるんです」
伏せていた目を上げ、冴子は清田を真正面から見据える。
冴子の瞳は暗く淀み、まるで過去を追体験するかのように中空をさまよっていた。
毛布の中はお互いの吐息と体温で汗ばむほどなのに、一気に冷え込んだような錯覚を感じた。
「正直に白状しましょう…私は、殺人を犯した事については、それほど悩んではいません」
「え?」
戸惑いが言葉となって、思わず口から漏れ出た。
人を殺した事を“それほど”悩んでいない?―それは嘘だと、清田は直感した。
彼女は、全く良心の呵責もなにも感じてはいない。
路傍に転がる石ころを蹴ったような、そんな感覚で人を殺めたのだと、心で理解できた。
「最も戸惑ったのは、それを含めた、自分という存在の人間性です…」
冴子の形の良い唇から言葉が零れ落ちる度に、どんどん気温が下がっていくような気がした。
「四年前、夜道で暴漢に襲われました…無論、大事ありませんでした。その時は部活帰りの為、素振り用の木刀を携えていましたので。私はその男の肩胛骨と大腿骨を叩き割ってやりました」
静かな語りだというのに、言い知れぬ狂気を言葉の端々から感じ、清田は何も言えなかった。
「……楽しかった」
口角を僅かに吊り上げ、冴子がくすりと笑った。
「明確な敵を得られた事! それは悦楽そのものだった! 木刀を手にした自分が圧倒的な優位に立っていると知った後は…怯えた振りをして男を誘い……躊躇う事なく逆襲した!」
暗い愉悦を押し隠そうともせず、狂気を宿した瞳は炯々と輝き、饒舌に語る冴子はそれまでとは全くの別人だった。
血に酔い狂う夜叉そのものだった。
「楽しかった…本当に楽しくてたまらなかった」
だが、急に少女の狂気は萎え、再び臥せ目となってしまった。
「……それが真実の私、毒島冴子の本質なのです。まともな理由もなく力に酔える私が、果たして正常といえるのでしょうか」
それから冴子は押し黙ってしまった。
†††
どうしてこんな事を話したのか、冴子には自分自身が解らなかった。
それは恐らく、フェアではない、と思ったからだろう。
目の前の清田は、自分の立場もプライドも投げ捨て、全てを語ってくれた。
大の大人の男が、それも相当な修練を積んできた戦士が、涙と嗚咽混じりで胸の内をさらけ出したのだ。
そのような姿を、冴子は情けないとは微塵も思わなかった。
むしろ、あまりにも人間的すぎるその姿と心が羨ましく、尊いと感じた。
流石に己のうちに潜む狂気を明かすのは躊躇われたが、そうしなければ彼と釣り合いが取れないと思ったのは、まだ少なからぬ人間性が残っている証拠だったのだろう。
貴男の悩みは幸せだ、私は当然のような事を悩めもしないのだから―心の片隅では嫉妬に近い感情混じりに吐露したのも事実だったが。
毛布にくるまり、こうして無言でいるのは随分と長いように思えた。
事の始まりは、高ぶる心と体の行き場を求めたのではなく、殺人の技を身につけた“同類の人間”だと思った清田と二人きりで話したかっただけだ。
皆が寝静まった今の状況が、その為には都合が良かったのだ。清田の身体をまさぐったのは、父親以外の鍛え抜かれた戦士の肉体に興味があったに過ぎない。
冴子は、このような狂気を抱く原因の一つが、幼少の頃より父に叩き込まれてきた、戦う術に因るものと考えていた。
習い覚えた術が本当に効果的なのか、どのような威力を持つのか、それは武道に限らず、誰しも思う事だろう。
料理人の心理も似たようなものだろう―料理を作ったとしても、果たしてそれが本当に美味いのか、自分以外の人間も美味いと感じてくれるのか。
武道に関しては、技を駆動させるには心を同時に鍛えねばならない―肉体だけを鍛えたところで精神性が伴わなければ、ただの無法者だろう。
だが、結局のところ、必要とされる高い精神性も、技を如何に効果的に発動させるかという手段に過ぎない。
どのような状況にあっても平静で、動じない精神があれば、技の威力は更に高まる。
結局のところ突き詰めると、武道は他者よりも物理的に優れているという事を実証するものであり、それに携わる者の多くが優位性を誇示したいと願うものなのだ。 ならば弱者をなぶって悦に入る事は正常だといえる。
だが、果たして本当にそうなのだろうか?
そう考えているのは自分だけではないのか?―人間は孤独に耐えられない生き物だ。
だから、このような自分の狂気が発露しやすい状況に置いて偶然出会った、“戦士”を職業とする人間に聞いてもらいたかった。
もしかしたら、同類なのかもしれない、と清田に対して淡い希望を抱いていたのだ。
清田は、ずっと黙っている。
その表情は思い悩んでいるようにも、引いてしまっているようにも見える―やがて彼が口を開くのには、随分と時間が掛かった。
「それはなんという事はないよ。謂わば練習を積んだアスリートみたいなものだ」
妹に聞かせる兄のように、清田は親身になって語った。
「…俺も白状しよう。昼間、悪党どもを撃ち殺した時、自分がやってきた事は全て無駄じゃなかった、報われたという気持ちがあったよ…暫くの間、その事実を認められなかったけど」
苦笑しながら清田は言った。
「誰だってそういうものじゃないかな? 学力や腕力の違いはあるかもしれないけど、自分の力を誇示したい、他より優れているのを証明したいってのは、別に異常でも何でもないと思うよ。それが今まで積み重ねてきたものであるのならば尚更だよ」
実にあっけらかんとした様子で清田は言った。
むしろどうしてそんな事を悩む必要があるんだ? もっと別の問題で悩むべきだろう―言葉の端々にはそのような響きすらあった。
だが冴子は、清田が本心から述べているのか確かめたくて、再び口を開いた。
「本当に正常だと、そう思うのですか? 私は、木刀で人間の頭を叩き潰したり、骨を砕いたりする事を楽しいと感じるんですよ?…正常な人間は、普通はそんな事に悦びを見出す事はありません」
冴子の言葉に、清田は眉根を寄せると、溜め息を堪えるような表情で言った。
まるで聞き分けがないな、とでも言いたげだった。
「それを含めて正常だと言っているんだよ。ならば俺は、銃で人間の頭を吹っ飛ばしたり、胸を撃つ事を楽しいと感じる異常者という事になる…いいかい。何が正常で異常だなんて、自分の尺度でしかないんだ。少なくとも俺は、それは人間の誰もが普遍的に備える暴力性の発露だと考えているよ。ムカつく奴をぶっ飛ばしたい―そう思うのと大差はないよ」
尤も、と清田は最後に付け加えた。
「例えば、幸せな家族連れを皆殺しにしたいのと、凶悪で卑劣な殺人犯を殺してやりたいと思うのは同列には語れないけどね。君がもし、前者すら蹂躙したいと考えるようでは、いよいよお手上げだ―君は自分の暴力性に悩んでいるようだけど、力を振るうべき時と場所と対象を正常に判断できているのだから、それは全く普通だよ…俺だって子供を手に掛けなければ、ここまで苦しまなかったさ」
これでこの話は終わり、とでも清田は言いたげだが、冴子は納得がいかず、しつこく食い下がった。
「…一つだけ、まだ言ってない事があります」
毛布に包まれた暗がりの中、冴子は顔を赤らめ、呟く。
この事実を明かすのは、少しばかり羞恥を伴うので気が引けたが、全てを知った上で清田がどのような判断を下すのか、確かめたかった。
まだ私に羞恥心があったなんて!―少しばかり己に躊躇いがあった事に驚きつつ、冴子は言った。
「暴漢を叩きのめした時、当時中学生だった私は…その、濡れてました」
一瞬、冴子の言葉の意味が解らない様子で、清田は小首を傾げていた。
その反応を見て、冴子はやけくそ気味にはっきりと言って伝えたい内容を清田に浸透させた。
「私は、四年前、相手に容赦なく木刀を振るっている最中に、性的に興奮していたと言っているんです。警察署で事情聴取されている間、自分のもので濡れた下着ばかりが気になって、それどころではなかったんです」
そこまで己の恥ずかしい内面を晒した冴子は、目の前の清田の顔を直視できなかった。
冴子の言葉の真意を理解した清田は、当初はぎょっとしていたが、やおら考え込むように神妙な表情となった。
むしろ学術的な対象を前にした研究者、というふうにしげしげと冴子を眺めていた。
「暴力とセックスの関連性は深いから、それもまた正常な反応の一つと言えるね」
清田の飾らない明け透けな言葉に、冴子は戸惑った。
血生臭い暴力で感じてしまう事が正常だなんて、一体何をどうすればそんな考えに行き着くのだろうか―もしかしなくても、清田武という男は何処か狂っていて、まともな答えを期待するだけ無駄なのかもしれないとすら考えてしまった。
それ以前に、多感な思春期の女子高生に向かって、臆面もなくセックスという単語を言ってのける清田の精神はどうなっているのだろうか―尤も、このように殺人や暴力について語らいあっている時点で、両者とも普通とは言い難いだろうが。
「いいかい。セックスは謂わば征服行為の一つなんだ。男視点のセックス観について言わせて貰うと、女性の顔や膣内に射精する行為は強烈に征服欲を満たしてくれるものなんだよ…銃はしばしば勃起した男性器に例えられるが、成る程、確かにそうかもしれない。銃は勃起したペニスであり、弾丸は射精であり、それが相手を貶めるのはセックスも戦闘も変わらないだろう。ぶっちゃけ、相手を撃ち倒した瞬間、俺は確かな満足感を味わっていたしね」
卑猥な言葉を真摯な眼差しで言ってのける清田の方が、今は圧倒的に変態だと冴子は思った。
「あれは格闘訓練だったかな…初めて暴力で相手を叩きのめした時、恥ずかしながら勃起してたよ。そういう人間は多いものなんだ。それは恥ずかしい事なんかじゃない。兵士の中には、戦闘が病みつきになる者だっているんだ。謂わばセックス中毒みたいになるんだよ。過酷な状況下で、相手を征服したくてたまらないという人間がいるんだ」
清田は、心底から親身になって語りかける。
それがどのような内容であれ、冴子を思っているからこそであり、初潮を迎えた無垢な妹の身を案じる兄のようだった。
「何度も言うが、それは正常の範囲だよ。だから深刻に考えては駄目だ」
「でも…」
しかし、そう諭された所で、直ぐに納得できる訳ではない。
自分に潜む凶暴性を知ってからというものの、冴子はこの四年の間ずっと誰にも相談できずに思い悩んできたのだ。
それ故に少女らしい淡い初恋も諦め、女としては出来損ないという負い目があったのだ。
こんな女が、果たして人を好きになる資格があるのだろうか?―その悩みを氷解させてくれるに足る言葉を、冴子は欲していた。
「…そうか。君はずっとそれで悩んできた訳なんだね」
ふと、清田の表情に翳りが差す。
「自分の居場所がないと、そう思っているんだろう?」
清田の言葉は正確に冴子の胸を抉った。
自己の異常性を認めた時、他者とは違うという自覚が、冴子が自ら居場所を奪った瞬間だった。
身の置き場が何処にもなく、地に足が着かないような心持ちで冴子は今まで過ごしてきた。
誰でもいい。
誰か、こんな自分を認めて、受け入れて欲しい―だが、正体を明かした途端に拒絶されるのではないかという恐れも同時にあり、今まで沈黙するしかなかったのだ。
「俺も居場所がなかった…自衛隊という組織の中に、俺の居場所はなかったんだ」
訥々と語る清田の言葉に、冴子は耳を傾けた。
「何というのかな。馬鹿正直すぎたんだ。国を守るっていう事に。今思えば、聞き分けのないガキだったんだな…でも、肩の力を抜いて、周りを見て、俺と同じ人間が大勢いる事が解ってからは、やっぱり俺は此処にいてもいいんだって知ったよ」
清田は、その大きな手で冴子の頭を撫でた。
父親のように雄大で、兄のように親身なその手の感触に、冴子は目を閉じ、感じ入った。
「居場所がないと言うのならば俺と一緒に戦ってくれ。俺には君の力が必要だ。生き残る為にも、皆を救う為にも、君という存在は必要なんだ」
清田の大きな手に引き寄せられ、逞しい胸板に抱かれた。
薄いシャツ越しに伝わる、清田の体温と鼓動に顔を埋め、雄々しくも優しい体臭に包まれると、無類の安心感を覚えた。
出会ってから一日しか経っていないというのに、まだ見ず知らずといっても過言ではない男に心を許してしまう自分のふしだらさに、冴子は恥ずかしくなった。
だが、戦闘という特殊な状況下で通じ合い育まれた絆は、時には肉親以上に強固なものとなると実感していた。
高鳴る自身の鼓動は、きっと何か別の予感によるものだろう―喪ってしまった、淡い想いを取り戻せるという期待が。
「こう言うのも何だか気恥ずかしいんだけどな」
冴子を胸に抱きながら、清田は照れ隠しに頭を掻いた。
「君はまるで妹のように放っておけないんだ」
冴子のロマンチックな甘い期待は、少々裏切られた。
清田の思考も一般人からすればかなり外れていますが、日常的に戦闘に関する訓練を叩き込まれ、教育を受けているので。
瀕死のライオン原作の言葉を借りるのならば“狂っていて更にその先を求めている”男たちの一人なので、毒島先輩が暴力に酔いしれて“濡れる”ぐらいは可愛いものと考えています。
むしろ“戦闘時に於ける心身の変化”に悩む毒島先輩を可愛いと思っています。
それこそ“初潮に戸惑う少女”のように。