学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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去年の秋から放置してすいません
仕事の都合で色々とありまして…
やはりというかなんというか、作中時間はそれほど経っていません
スローペースですがなにとぞよろしくお願いします


#2nd day②

 あれは入隊したばかりの頃だろうか。

 平地ならば肌寒い日々が増え始めた中秋、部隊に配属されてから初めての演習は、既に寒さの厳しい北富士演習場だった。

 新隊員教育隊は同じ釜の飯を食らう同期と、兄のように慕っていた班長しかいなかったが、部隊に配属されてしまえば同期も少なく、自分以外の殆どが先輩という環境の中で慣れない事をしなければならなかった。

 初めて経験する事が多く、それ故に疲労も大きく、演習三日目の夜は今にも眠り落ちそうな目蓋を擦りながら、躯の芯まで冷える秋雨に打たれつつ、円ぴを振るってひたすら蛸壺を掘っていた。

 防御陣地を構築する前に、先ずは空挺降下から始まり、富士の火山性の固い地面に叩きつけられるように降着し、全ての装備と重い落下傘を持って集合地点へ全力疾走で目指してから約一〇〇kmもの道程を行軍しなければならなかった。

 疲労のピークの中、赤色に遮光したヘッドライトの僅かな明かりを頼りに、火山灰の固い地面に円ぴを突き立て、雨を吸って重くなった土砂を掬い、放り投げる―何時終わるとも知れぬルーチンワークに、心身は疲れ切り、思考する余力すら残っていなかった。

 ぱらぱらと降りしきる秋雨が鉄帽に当たり、庇から雨水が絶え間なく滴り落ちる。

 雨衣のフードを鉄帽の上に被っているとはいえ、時折首筋に雨水が流れ込むのを防止する術はない。雨に打たれ続けた透湿防水繊維製の雨衣は既に防水性と撥水性を失い、下着まで濡れている。

 もう心は不快感を覚える事すらなかった。

 ざく、ざく、と規則的に掘り進み、動く度にガチャガチャと身に付けた装具が鳴り、背負った小銃が揺れた。

 がつ、と大きな石を掘り当てた感触を覚え、一旦手を止めてヘッドライトで足下を照らし、目を凝らす―何度目になるかもわからない岩石の発見に、溜め息をつく事すらなかった。

 漬け物石ほどもありそうな火山岩を円ぴで掘り起こすのは大変な作業だ。そこでツルハシに持ち替え、頭上に掲げるほど大きく振り上げた。

 ふと、顔を上げると、煌びやかな光が網膜に映った。

 演習中は灯火管制が行われているから、色とりどりの光なんて見える筈がないのに―訝しみながらツルハシを下ろし、それの正体を見極めた。

 それは演習場の麓、河口湖畔に面した町の光だった。

 暗闇と赤色灯に慣れた目には、遠い町明かりすら眩しく、思わず目を細めた。

 あの光の一つ一つが人の営みなのだろう。

 中秋の夜雨に打たれながら穴を掘っている人間などには関係ない、平和な日常がそこにはあった。

 暫し眺めていると、一瞬視界がぼやけ、雨が目に入ったのかと思ったが、なんて事はない、涙が溢れただけだった。

 いったい俺はなにをやっているのだろう―止め処ないやるせなさが胸中に溢れ、思わず涙腺が緩んでしまった。

 それから清田は、涙を零しながら穴を掘り続けた。

 自分が本当にやりたかった事と現実の落差に、根底から否定されたような気がした。

 俺は穴掘りをする為に自衛隊に入ったんじゃない―心は現状に対する不満を抱いていたが、頭では個人用掩体壕の必要性と重要性を認識していた。

 それこそが自ら望んだ事の一つであると理解していたから、心を宥め賺して目の前の蛸壺掘りに没頭した。

 そうしなければ今にも座り込んでしまいそうだった。

 高校を卒業して入隊したばかりの少年が、遠く故郷を離れ、仲の良い同期とも別れ、慣れない環境で冷たい夜雨に打たれながら穴を掘り続けるという苦行に、心が折れ掛けていた。

 泣くな、泣くんじゃない。これがお前の望んでいた事だろう?―半ば自虐的に己を励まし、清田は嗚咽を堪えながら円ぴを振るった。

 演習が終わったのは、清田が十個目の蛸壺を掘り終えた頃だった。

 無事に演習を終えたという余韻に浸る暇もなく、今度は掘った穴を埋め戻す作業が待っていた。

 涙はとうに枯れ果てており、砂漠のように渇き、疲れ切った心で、清田は重い躯を引きずるように動かした。

 心にあるのは、早く全てを終わらしたいという思いと、“もっと刺激的で過酷で使命感溢れる”任務に携わりたいという望みだった。

 

 

 どうして今になって、新隊員の頃を思い出したのか―清田は己の心の働きを、漠然とだが察した。

 初心に還れ、という事なのだろう。

 何を成す為に肉体を鍛え、技を磨き、苦難に挑み、打ち勝ってきたのか。

 与えられた任務をこなし、寸分の狂いもない機械のような兵士で在り続ける―それは研ぎ澄まされた刀と等しい。

 だが、本来であれば刀は鞘から抜かれぬまま錆び付き、朽ち果てるのが好ましいが、今となってはそのような事は言ってられない。

 抜かれたからには刃零れ一つなく、一刀の元に斬り伏せる威力を保たなければならない。でなければ鍛え上げた意味がないのだ。

 鈍った瞬間、死に近づく。

 いや、鈍れば、それは死に直結するといっても過言ではない。

 人間である以上、エラーを完全に排する事は不可能だが、その為の努力を注ぎ込む事は可能だ。

 触れれば容易く柔肉を裂く切れ味を持ち続けなければならない―清田は今一度、密やかに自己を戒めた。

 刀のように在続けるには、切れ味を鈍らす要素を排除しなければならない。

 清田は眼前に右手の人差し指を翳し、引き金を引く動作をした。

 俺は引き金だ。ただそれだけでいい―外科医のような精確さと判断力を併せ持った引き金でいるには、余計な感情はいらない。

 眼前の対象が脅威なのか、無害なのか。

 脅威であれば速やかに撃ち殺すか、刺し殺すか、殴り殺すか。

 対象を無力化する最適な手段と方法を選択し、何の躊躇いも翳りもなく実行する。

 それについては既に立証されている。無法者を何人も殺しているのだから。

 だから大丈夫だ。俺はやれる―何度も自らに言い聞かせ、夜が明ける四月の涼やかな空気を肺一杯に吸い込み、吐き出す。

 清田はキャンプ用の折り畳み椅子に腰掛けていた。

 これは敷地の片隅の物置から引っ張り出してきた代物で、こうして庭で見張りに立つのに都合が良かった。足下には蚊取り線香も置いてあり、用意は万全だ。

 膝の上には小銃を乗せ、傍らに置いたもう一つの椅子の上にはチーズやサラミ、雑多な菓子類と飲料を置いてあった。

 あの後、冴子が二階の寝室に引っ込むと同時に見張りの時間となり、清田は軽く摘める物をかき集めて耕太と交代した。

 チーズとサラミを摘んでいると、ついついビールが飲みたくなった。

 こんな状況でなければ、曙光を肴に朝からビールという贅沢を楽しみたかったが、致し方ない―尤も、絶え間なく聞こえる亡者の呻き声でそんな気分になれる筈もなく、任務中という状況下でそんな軽率な事を出来る訳がなかったが。

 双眼鏡を床主大橋に向けると、もはやそこは犇めく亡者に埋め尽くされており、放棄された車両が散乱していて通行が困難だった。

 必死に封鎖線を張っていた警察や消防の姿は見えない。

 <奴ら>の群れの中に、警官や消防士の姿が混じっており、既に封鎖が破られてしまったのは明白だ。

 これで床主大橋を通行するという選択肢は消えた。

 高機動車が米軍のハンヴィーみたいに渡河能力が高ければいいのだが―高機動車は膝丈程度の浅瀬ぐらいしか問題なく渡れないので、渡河という選択肢も有り得ない。

 計画としては、可能であれば御別橋を渡りたいが、駄目ならば別の橋を探すしかない。

 御別橋は大橋よりも下流にあり、此処からでは望める事は出来ない。

 偵察が必要だろう。

 何の情報も収集せずに御別橋に向かえば、そこで身動きが取れなくなるという可能性もあるのだ。

 折角手に入れた車両や武器、物資をそのような詰まらない事で手放すのはなるべく避けたい。

 そうと決まれば行動に移るべきだろう―空が白み始めてから少し経つと、部屋の中から人の気配が感じられた。

 何名かが起きて、今日の行動の準備をし始めているのだろう。最早見張りは必要ない。

 清田は椅子から立ち上がると、残っていた菓子類を口に放り込んでバリバリと咀嚼し、チーズとサラミにかぶりついて数口で食べ終えた。

 小銃を片手に庭に面したガラス戸からサンダルを脱いで部屋に上がり込むと、毛布にくるまった耕太が床で盛大に鼾を掻いていた。

 何の悩みもなく爆睡している耕太を羨ましく思いながら跨ぎ越え、台所を見やると、エプロン姿の冴子の背中があった。

 今の彼女は昨晩の裸エプロンではなく、藤美学園の制服の上からエプロンを身に付け、朝食の準備に勤しんでいた。

 だが、腰に穿いているのは学生服のスカートではなく、黒いタイトスカートだった。

 ぴったりと張り付くような生地が、冴子のきゅっと引き締まりながらも大きめな臀部を控えめに強調していた。

 すらりと伸びる足も、レースに縁取られた、セクシーなデザインのストッキングに包まれている。

 スカートの裾から覗く、ストッキングに包まれていない白い素肌が眩しい。

 

「毒島さん」

 

 清田に呼び掛けられ、冴子が振り向くと、家事をしやすいように後頭部で結われていたポニーテールが揺れた。

 

「おはようございます、清田さん」

 

 涼やかに微笑む冴子は、昨晩―といっても今からほんの数時間前だが―の出来事を微塵も気に留めてもいない様子だった。

 毛布の中、互いの吐息と体温を寄せ合っていたのが思い出され、清田は思わず赤面した。

 くそ、気にしているのは俺だけか?―別にやましい事は何もなかった。

 むしろ、冴子の告白を聞いた瞬間、まさしく清田の胸中に生まれたのは、兄が妹へ抱くような愛おしさだった。

 彼女は、自身の異常性に悩んでいた。だが、そのような暴力的な願望は人間にとっては普遍的なものであり、悩むほどのものではない。

 問題なのは、それを制御しうるかどうかという点である。

 冴子がそのような呵責なき暴力性を発揮したのは、暴漢に襲われた時と、現在のこのような状況ぐらいなものだろう。

 それを弁えていれさえすればいい。それすら解らないようでは人格に問題ありと言えたが、冴子は至って“正常”だ。

 清田からすれば、そのような自己同一性に頭を悩ます年下の少女は、まさしく妹のように放っておけない可愛い存在だ。

 ここは年長者として、戦闘に携わる者として教え導いてやらねばなるまい―清田の冴子に対する対応は、このようなものだった。

 

「おはよう。よく眠れたかな?」

 

 何気なく言ったつもりだが、やはり気恥ずかしさがあった。

 妹分と思いつつ、大人びた妖艶さを漂わす美少女と間近で接していたとなればそれなりの照れはあった。

 

「はい…これから何処かへ?」

 

 返事をするものの、清田の物々しい雰囲気を察したのか、そう訊ねる。

 

「いや、ちょっと偵察にいこうと思ってね。御別橋を渡ろうと思うのだけど、そのまま現地に行って駄目だった場合、そこで足止めを食ってしまうかもしれないしね。今は大所帯だから、行動は今までよりも慎重にしなければいけないし」

 

 そう、今まで以上に慎重になる必要がある。

 車両と武器を入手すると同時に、新たな人員の加入により集団の規模が大きくなり、昨日のような無計画で突発的な行動はもうするべきではない。

 何よりも先ず優先するべきは、高城沙耶の安全である。

 どうしてそうする必要があるのか定かではないが、課せられた任務である以上は従う他ない。

 可能な限りリスクを排除し、沙耶の身柄が安全と思われる計画を練り、的確な状況判断を下さなければならない―その為の苦労は惜しむべきではないのだ。

 今まで以上に清田の負担は増加するが、それについては仕方がない。

 その為の訓練を積み重ねてきたのだから。

 

「私も……いえ、何でもありません」

 

 一緒に行きましょうか、と冴子は言い掛けたが直ぐに言葉を噤み、伏せ目がちに力無く微笑んだ―その笑みの理由は、暴力に餓えた己に対する自嘲だろうか。

 上手く掛ける言葉が見つからなくて、清田は冴子の手元を何気なく見た。

  まな板の上にはさっと茹で、冷水で冷やして水気を切ったほうれん草の束があった。

 その他には炒り胡麻の袋があったから、冴子はほうれん草の胡麻和えを作ろうとしているのだろう。

 清田はそっと冴子の肩に手を置いた。

 はっとして彼を見上げる瞳には、戸惑いの色が浮かんでいる。

 

「一つ、頼んでもいいかな」

 

「え?」

 

「胡麻和えにはめんつゆを入れて欲しい」

 

 一瞬、間が空く。

 冴子はきょとんとしていた。

 

「めんつゆで味付けすると美味いんだ。鶏の照り焼きは作れる?」

 

「え、ええ。作れますけれど」

 

 狐狸に化かされたような面持ちで、眼前の清田の問いに答える。

 

「ちょっと甘めで頼むよ。それとは別にベーコンエッグも。ウィンナーもあれば食べたいな…後はそうだな。他の部屋で見つけた国産牛のパックがあったね。朝から豪勢に焼き肉といこう。それとお歳暮用のハムもあったなぁ。兎に角、高カロリーなものを食べさせて欲しいかな」

 

 清田は自分の食べたい物のリクエストを一通り伝えると、にっこりと笑った。

 それに毒気を抜かれたのか、冴子もつられてくすりと笑う。

 

「朝っぱらから辛気臭いのは駄目だよ。君は立派だ。卑下しなくてもいい…嘘じゃない、本当さ。だって俺の命を救ってくれたし、俺の話を聞いてくれた」

 

 昨晩の寝物語が思い起こされると、胸が痛むと同時に、少しばかりの安堵感が蘇った。

 清田からすれば、心につかえていた重石を聞いてくれただけでも冴子の存在は有り難かった。

 

「君という少女は強くて立派で、おまけに料理上手だ。本当にありがとう」

 

 冴子の手を取り、万感の思いを込めて両手で握る。

 触れ合った清田の肌から感じる彼の真摯な想いに、冴子は凝り固まった心を解きほぐされるようだった。

 

「ふふふ…そんなに私なんかを褒め殺しても、何も出ませんよ?」

 

 冴子も、清田のごつい手を握り返す。

 細やかな指先からの圧迫感が愛おしい。

 

「それじゃあ、俺は準備が出来次第、出発するよ。朝飯までには戻る」

 

 冴子の手を名残惜しげに離し、清田は準備に取りかかった。

 レッグホルスター、レッグパネルを両太腿に装着し、弾帯を腰に巻き、抗弾ベストを頭から被るように着込み、その上に更にタクティカルベストを着込む。

 両腕にアームガードを付け、玄関の上がり框でタクティカルブーツを履き、膝当てと一体化した防弾レガースをしっかりとベルトで固定する。

 最後にタクティカルグローブを填め、フェイスマスク、鉄帽を被って準備は完了となった。

 携行火器のチェックも忘れずに済ます。

 小銃、拳銃はもとより、破片手榴弾、四〇mmグレネード弾についても異常がないか確かめる。

 昨日撃ち尽くした弾倉については新たな弾薬を込め直す暇がなく、小銃には箱型弾倉を装填していた。

 デイパックと散弾銃については置いていく。

 携行する弾薬と火器は充分すぎるほどであり、散弾銃でブリーチングする状況が生起する可能性は低く、火力についても小銃と拳銃があれば事足りるし、そもそも交戦はなるべく避けるつもりだ。

 それぞれの銃の遊底(スライド)を引き、薬室が空である事を確認してから弾倉を装着し、弾薬を装填する。

 薬室に弾薬を送り込む小気味良い金属音が、清田を戦闘する者として目覚めさせる。

 何度繰り返したかも覚えていない手順だが、それこそが重要だった。

 精神がどのような状態であろうとも意識せずに肉体が寸分違わぬ動作を自動的に実行する。

 弾薬を装填した小銃を構え、玄関の壁に掛けてある姿見に向けてACOGサイトを覗き込む。

 姿見に写っているのは、フルカスタムされた小銃を構える重武装の兵士だった。

 いつも通りの清田の姿がそこにはあった。

 大丈夫だ。俺はやれる―喪失しかけていた自信を無理にでも叩き起こし、奮い立たせる。

 

「待って下さい、清田さん」

 

 自己暗示も済んだので小銃を手に框から腰を上げたところで、背後から冴子に呼び止められた。

 振り返ると、冴子が皿を持って佇んでいた。

 皿の上には海苔に包まれた特大の握り飯が二つと沢庵が盛られている。

 

「せめて軽く食事を取ってからにしませんか?」

 

 冴子のその心遣いが素直に嬉しかった。

 清田は偵察程度で死ぬつもりなど毛頭なかったが、これが最後の食事になるとも限らない。

 温かな食事を取る事で少しでも生きる活力となるのならば、それに越したことはないだろう。

 

「ありがとう。喜んで頂くよ」

 

 清田が再び框に腰を下ろすと、貞淑な妻よろしく、冴子が傍に膝を折り敷いて座った。

 

「どうぞ。召し上がってください」

 

 皿ごと受け取り、グローブを填めたままの手で握り飯の一個を手に、フェイスマスクの口元を露出させて豪快にかぶりつく。

 清田の大柄な体格に合わせて握り飯は大きめだったが、それでもほぼ一口だった。

 口内に広がるのは、濃厚なバター醤油味と、とろりと溶けたチーズのまろやかな味わいだった。

 高カロリーな食事を望む清田に合わせて、冴子が気を利かせて短時間で用意してくれたのだろう―朝っぱらからチーズ入りのバター醤油おにぎりとは、なんとも胸焼けがしそうだが、代謝の高い清田にはこれ以上ない食べ物だった。

 

「美味い。凄く美味いよ。ありがとう」

 

 思わず顔が綻び、清田は感謝の言葉を口にする。

 そうして沢庵を口に放り込み、最後の一個も瞬時に平らげた。

 

「お口にあって何よりです」

 

 空の皿を受け取り、冴子がほっとした表情で言った。

 

「それじゃあ、朝飯、楽しみにしてるよ」

 

 胃も心も満たされ、清田は晴れやかな気分で立ち上がった。

 肉体の欲求が満たされるだけで士気は上がる。

 それで充分だった。

 

「あ、でも…」

 

 扉の取っ手を握り、清田が振り返る。

 

「肉類は止めた方がいいかもしれないね。こんな状況だから…さっきの事は忘れて欲しい」

 

 既にこの状況に慣れてしまった清田だが、死体が溢れ返る現状に於いて朝から肉を食べられる図太い神経を持ち合わせた生存者がいるのだろうか。

 少しばかり配慮が足りなかった事を反省しつつ、清田は死者の街へ赴いた。

 

 

 こいつは思った以上に厄介だな―塀の上に陣取り、双眼鏡を覗き込みながら、清田は溜め息を堪えた。

 御別橋は床主大橋よりも立派なトラス橋で、上下三車線の立派な代物だった。

 無論ながら此処も封鎖されていたが、放棄された警察車両や消防車両の周囲に生存者の姿はない。

 幅の広い道路に屯する<奴ら>の数はそれほどでもなく、上手く誘導すれば乗り切れるだろう―尤も、一掃するという訳にもいかない程の数だが。

 ただ、問題なのは、対岸に渡りきろうという所に、大型のコンクリートブロックがバリケードとして並べられており、車両での通行が不可能という点だった。

 あれを退かさない限りは御別橋の通行も諦めねばなるまい。

 清田は後ろ腰のバットパックからジップロックで防水処置された、床主市の地図を取り出した。

 地図を広げ、他のめぼしい橋を指で追う。

 此処から上流に四、五kmほど遡上すれば橋があるが、其処も通行できるとは限らない。

 いっそのこと、高機動車が渡河可能な浅瀬がある上流まで遡上するという手段もあるが、時間は有用であり、なるべく速やかな方法を選びたい。

 コンクリートブロックを爆破処理できるほどの爆薬は携行していない―護岸工事に使われるような大型コンクリートブロックを爆破するとなると、TNTが百キロ単位で必要となる。

 無論ながらLAWでも無理だろう。

 対戦車榴弾は戦車の装甲はもちろん、バンカーなどにも有用だが、あくまでもモンロー効果で装甲やコンクリートに穴を穿ち、内部の人員や機材を破壊するだけであり、そのものを粉々にするだけの威力はない。

 御別橋は諦めるしかない―地図を仕舞い、清田は改めて双眼鏡を向けた。

 その時、あるものが目に留まった。

 それを一目見た瞬間、清田は故郷の雪国で身に付けた技術が役に立つ時が来たのだと直感した。

 警察や消防の車両と同じく、それは放棄された車両なのだが、車体が黄色に塗装されたそれは、間違いなくこの状況を打開できる代物だった。

 問題は燃料が残っているかどうかだ。

 その車両の周囲に<奴ら>が群がっていない事から、エンジンが停止しているのは明白だが、それはエンジンを点けたまま燃料を消費し尽くしてなのか、運転者がエンジンを切ったものによるのか。

 それを確かめない限りはぬか喜びに終わってしまう。

 清田は身に付けている全ての火器の薬室を確かめ、考え得る不測の事態に対する予行演習を脳内でざっと済ませてから、塀の上から飛び降りた。

 

 

 目覚めは、多分、悪くはない。

 フローリングの床に毛布を敷いただけで眠るなんて、町内の子供会で催されたお泊まり会以来だろうか。

 むくりと起き上がり、座ったまま頭上に手を伸ばして背伸びする。

 関節が湿った音を立て、凝り固まった筋肉が少しだけ解れた。

 沙耶は、枕元においてあったケースから眼鏡を取り出して掛けた。

 ぼんやりとした視界がはっきりとした輪郭を形作り、実像を形成する―薄暗い寝室内は、女だけで雑魚寝しているという有り様だった。

 それについて沙耶は不満を抱いている訳ではない。

 今は非常事態であり、こうして安全な場所で睡眠を取れるだけマシだ。多くの人間はそれどころではなく、自分達がこうしている間にも過酷な生存闘争を繰り広げているに違いない。

 そう。私達は運に恵まれている―沙耶は、学園で出会った人物について思いを馳せた。

 まるで映画から抜け出てきたかのような、完全無欠の重武装(ヘヴィメタル)のたった一人の軍隊(ワンマンアーミー)。

 まさかそんな存在が、アメリカではなく、日本にいるとは予想だにしていなかった。

 沙耶からすれば見上げるような巨体に重装備を施し、魔法瓶そのこけの巨腕で軽々と重たげな銃火器を操り、鬼のように力強く歩み、銃弾の一発一発を致命部位に必中させる外科医のような技量を備えている。

 スクリーンの中でない限り、ランボーもメイトリクスも彼にはかなわないだろう。

 唯一彼に匹敵するような男は、自分の父親ぐらいなものだろうと沙耶は思っていた。

 そのように屈強な兵士が、どうして藤見学園にやってきたのか。

 清田の存在を有り難いと思う反面、素直に喜べないのも事実だった。

 学園以外にも救いの手を求める人々は幾らでもいる。

 そのような状況なのに、どういった基準なのか定かではないが、一介の私立高校を救出対象として選定して部隊を派遣するとは到底思えない。

 仮にただ救出にやってきただけならば、彼らを投入する必要があると言えるのだろうか。

 精鋭部隊はここぞという場面まで温存されるべきであり、いたずらに使い減らす訳にはいくまい。

 それらを鑑みて、普通の私立高校に日本の国防上の最高機密に属するであろう特殊部隊を投入する必要があるのだろうか―裏を返せば、彼らが投入されて然るべき理由があったという事でもある。

 故に彼には何か目的があると考えるのが自然だ。

 それが判明しない限り、清田武という男に全幅の信頼を置く事は出来ない。

 我ながらひねくれているとは思うが、合理的かつ論理的でないと気が済まない性分なのだ。

 どう考えたって筋が通らない以上、不審に思うのは仕方がないだろう。

 但し、自身の感情はさておき、清田は見上げた野郎であるという事実も沙耶は認めていた。

 自分達の為に先頭を歩き、命を危険に晒している。それが彼の職業上の責務とはいえ、その勇気は讃えて然るべきだ。

 同時に、このような状況下では忘れてしまっていた、人間らしさを目の当たりにした―死者の埋葬など考えもしなかった自分に、沙耶は少しばかりの嫌悪感を抱いた。

 <奴ら>といえど、動かなくなれば無害な死体である。

 沙耶とて平均的な日本人として、死者の亡骸は丁重に扱い、手厚く葬るべきだと考えている。

 だがそれはあくまでも平時であり、この非常時にあって優先すべきは自己や仲間といった生ける存在であり、ただの肉塊に成り下がった元人間に心身のリソースを割く余裕はなかった。

 人間も死ねばただの有機質の塊である。

 死者が泣いたり笑ったりする訳ではないどころか、何も思う事はない、ただの物体になるだけだ。

 そこに湿っぽい情けが介在してなんになるというのだ?―唯物論的な思考が、この時ばかりは便利だと思った。

 しかし、それにも関わらず、彼は人間らしさを忘れず、己の心身の疲労など気にする事もなく、涙を流しながら死者を葬ろうとした。

 それは無言の抗議に思えた。

 俺はこんな現実は認めないし、受け入れる訳にはいかない!―この変貌した世界に対して彼は抗おうとしているのだと、沙耶は察した。

 こんなにも強く気高い男が、まだ日本にはいたのかと、心底から感嘆した。

 目的が不明である故に信頼できないとはいえ、その精神性までを否定できる訳ではない。

 取り敢えずは、そこまで彼について心配する必要はないのかもしれない―寝起きの頭でこんな事を考えるのは少々疲れるわね、と沙耶は胸中で呟き、何気なく寝室内を見渡した。

 部屋の中央に置かれているキングサイズのベッドでは、昨晩保護した母子が眠っている。

 流石に子供を床で寝させるのは可哀想だし、何より命辛々生き延びたばかりなのだ、少しでも二人には寛いで休めるように配慮してやるのが当然だろう。

 沙耶の他には京子と静香が毛布にくるまって床で寝ていたが、冴子が横になっていた場所にはきちんと畳まれた毛布が置いてあるだけだった。

 耳を澄ませば、階下から微かな物音がする。

 冴子の事だから、恐らく皆の食事の用意でもしているのだろう。

 取っ付きにくいが、冴子は意外と面倒見が良い。

 学園内では有名な人物だったが特別に接点があるという訳でもなく、女子剣道部に所属するクラスメイトからその人となりは多少なりとも耳にしていた。

 しかし、このような慣れない状況でも他者を配慮して行動できるのには恐れ入る。

 きっと彼女には余裕があるからだろう。

 冴子が備える並外れた武力が、彼女に余裕を与えているに違いない―その技前は清田とはぐれた後の道中で目の当たりにしている。

 耕太も釘打ち機で戦ったが、木刀一本で何体もの<奴ら>を壮絶に薙ぎ払っていくその姿は驚愕するばかりであり、父親の剣術に勝るとも劣らない。

 女子高生が木刀だけでゾンビを容易く屠るなんて、漫画やアニメの中でしかあり得ないと思っていたが、真に術を身につけた達人というのは実在するのだと、考えを改めさせられた。

 父の壮一郎も剣の達人だが、冴子は齢十七の少女なのだ。時代が違えば剣聖と謳われていたかもしれない。

 毒島冴子という少女に対する沙耶の評価は大変好ましいものだが、なにもその全てが手放しで賞賛できる訳ではない。

 一つだけ懸念事項があった。

 それについては、この後にでも問い質す事にしようかしら―寝ている者を気遣って物音を立てないように寝床から立ち上がり、沙耶は階段を静かに降りた。

 台所では冴子が朝食の支度に取りかかっていた。

 高城家の令嬢ゆえに家事には疎い沙耶だが、洗練された無駄のない動きから冴子が家庭的なスキルに長けているのを察すのは簡単だった。

 暫く、沙耶は台所に向かう冴子を観察した。

 見目麗しく、慎ましやかで、更に料理も上手いとくればこれ以上の男が理想とする結婚相手はそうそういないのではないだろうか。

 冴子が小皿に取った味噌汁を味見し終わったところで、彼女は漸く沙耶の存在に気がついた。

 

「目覚めはどうかな?」

 

「悪くはないわね。ところで…あのアイアンマンは?」

 

「アイアンマン?」

 

「あいつよあいつ。あの自衛官よ。ごてごてした格好なんてアイアンマンそっくりじゃない」

 

 ああ、清田さんの事か、と納得した冴子は、くすくすと笑った。

 

「彼ならば偵察に行くといって出掛けたよ。もうじき帰ってくるだろう」

 

 ちらり、と壁の時計に表示されている時刻に目をやる。

 清田が此処を出てから一時間と少しが経っている。何時までに帰るとは言わなかったが、なんとなく、彼はもうそろそろ帰ってくるような気がした。

 

「朝食の支度もそろそろ終わる。顔を洗ってきたらどうかな?」

 

「そうね…そうさせて貰うわ。でも」

 

 沙耶は歩を詰め、冴子の眼前に立った。

 冴子は不意に間近に迫った沙耶に戸惑い、朝餉の支度をする手を止めた。

 

「あなたに一つ、忠告しておきたい事があるの」

 

 薄いレンズ越しの沙耶の瞳が剣呑な光を帯びているのを察し、思わず冴子は身構えた。

 沙耶は腕組みをし、自身よりも背の高い冴子を射抜くように見上げている。

 

「軽率な行動は止めておいたほうがいいわよ」

 

 その言葉が何を指しているのか、冴子は一瞬分からなかった。

 沙耶はそんな様子の彼女に対して些か大仰な仕草で肩を竦めて見せる。

 

「どういうつもりでアイツの布団に潜り込んだのかは知らないけど、あなたの行動一つでこの集団を瓦解させるかもしれないんだから。安っぽいゾンビ映画じゃないし、男女の痴情のもつれで全滅だなんて御免被るわ」

 

 昨夜の事が全てばれていた―瞬時に血液が冷え込むような錯覚に陥り、冴子は狼狽を顕わにしそうになった。

 しかし寸での所で思い留まり、冷静に考える。

 沙耶の言葉から察するに、彼女は昨夜の出来事の細部までは知らない様子である。

 でなければ『どういうつもりで』や『男女の痴情のもつれ』という言葉を口にする必要はない筈だ。

 後ろ暗い感情を共有する者同士の秘密を知ったのであれば、『あなたやあいつの頭のネジが吹っ飛んでても驚かないわよ』と彼女なりの軽口の一つや二つは言っているだろう。

 高城沙耶という少女は、自分や清田の深層に根差す人間性を知ったところで侮蔑を露わにするような薄っぺらい人間ではないのは間違いない。

 彼女は、己の感情を切り離して合理的に思考する事が出来る、予想以上に酷薄な人間だ。

 たとえ快楽殺人者であろうと、生存に必要だと判断すれば取り入れる程の度量は備えているだろう―だからこそ、彼女はあの惨禍を生き延びる事が出来たのだ。

 どちらにせよ、昨夜の冴子の行動を軽率でふしだらな行為だと沙耶が勘違いしているのであればそれに越した事はない。

 あの秘め事がバレたところで特にこれと言って影響はないが、冴子としてはやはり秘密にしておきたいという感情があった。

 男女の仲となるよりも、もっと強く深い絆で結ばれた自分達の間柄は、二人だけの秘密にしておきたかった。

 そうなると此処はその勘違いを訂正するべきではないだろう。

 

「すまない…その、私もどうかしていた。神経が高ぶって眠れなくて、あのような行動に及んでしまった」

 

 冴子は取り繕うようにはにかみ、気恥ずかしさを演出する。

 沙耶は暫しじろじろと胡散臭そうに冴子を眺めていたが、まぁいいわ、と溜め息を一つ吐き、それ以上この問題について追求する事は無かった。

 冴子はそれで漸く、少しばかり胸をなで下ろした。

 

「確かに、ちょっとばかりイケメンだけどさ。まぁ、どっちを選べと言われたら解らないでもないけど」

 

 ちらり、と沙耶は豪快に床で大鼾をかく耕太に目を遣り、冴子に同意を求めた。

 それに対して冴子は、甘いな、とでも言いたげに、立てた人差し指をチッチと左右に振った。

 

「平野君もあれはあれで立派な男子(おのこ)だ。昨日の彼の働きは君も知っているだろう?」

 

「そりゃあ、ね…あのデブチンがまさかあんなに頼りになるとは思わなかったわ。でも、やっぱ、平野は平野って感じね」

 

 寝転がっている耕太に対して、呆れているような、それでいて安堵しているような表情で、沙耶は言った。

 

「男も女も中身こそが重要だ。平野君はよい男になるぞ。それは私が保証しよう」

 

「ええー。平野がぁ? ちょっとあなた、趣味悪いんじゃないの?」

 

「趣味の良し悪しは兎に角、彼の銃火器に対する造詣の深さとそれの操作法及び戦術は大いに我々を助けてくれた。そしてただそれらを身に付けているだけではない。それらを非常時にあっても遺憾なく発揮する彼の胆力こそが最も評価する点だ。こればかりは並み居る男など足元にも及ばない」

 

 自信たっぷりに語る冴子の言葉も一理ある。

 あのまさにデブオタと言っても過言ではない容姿の平野だが、世界がこうなってからと言うものの、予想以上に並外れた行動力で一行を支えていたのは事実だ。

 特に清田とはぐれてからは冴子、沙耶、耕太の三人で約束の集合地点を目指さねばならなかったが、無事に其処へ到達できたのも彼の存在が大きかったのは改めて言及するまでもない。

 それらの事実を鑑みて、平野耕太という少年に対する評価はちょっと所か物凄く上がってもいいものだが、沙耶の生来からの気質と、彼女が心密かに思いを寄せていた幼馴染みの少年の存在がそれを許さなかった。

 

「まぁ、確かに、度胸はあると思うけど…」

 

 合理的でドライな沙耶にしてはなんとも煮え切らない態度である。

 耕太の事を認めたくない、というよりも、認めるのが照れ臭いという感情が勝っていた。

 沙耶は耕太と同じクラスに所属していたが故に普段の内向的でおどおどしていた彼の様子を知っており、如何にも気弱で虐められっ子なオタク少年といった姿に我慢ならなかった。

 父親の壮一郎やその思想と生き様に共感して付き従う彼の部下に囲まれて育った沙耶の理想の男性像は、まさしく強さと優しさと気高さを備えた厳格な武人であり、その対極に位置する耕太は箸にも棒にも引っ掛からない。

 それなのに、まさかそのデブオタが自分を守ってくれたという現実が、彼女に苛立ちを募らせた。

 沙耶は密かに、耕太ではなく、幼馴染みの少年が傍にいてくれたら良かったのにと何度も空想した。

 その少年があの惨劇の中、自分の元に駆けつけ、この手を引いて連れ出してくれたらどんなに良かっただろう―尤も、その少年は沙耶ではなく別の少女を選び、既に自衛隊に救助されているという事実を彼女は知る由もないが。

 だが、現実は、その少年ではなく、耕太こそが沙耶を守った。

 叶えられる事の無かった自身の幼稚な願望と少年への憧れが、耕太によって否定されたような、そんな錯覚があった。

 だからといって沙耶は耕太を恨んでいる訳ではないし、そんなつもりは毛頭ない。

 彼の勇気ある数々の行動は賞賛するべきであり、自分の身勝手な妄想による怒りなど向けるべきではないのだ。

 かといって、思春期の少女が己の心の働きを完全に制御できる筈もない。

 沙耶はどうにもままならぬ己の心を持て余していた。

 

「難しく考えるような事ではないよ。ただ一つ、彼に感謝の言葉を述べてみたまえ。そうすれば世界はがらりと変わるよ」

 

 こちらの心を見透かしているかのように諭す冴子の語りに、沙耶は渋々と頷いた。

 確かに、今の今まで、耕太に礼の一つも述べてはいなかった。

 いや、耕太ばかりではなく、眼前の冴子や清田にも述べてはいない―それは常識ある人間として、礼節を重んじる高城壮一郎の娘としてはあるまじき行為ではないだろうか。

 今更のように、沙耶はその事実に気がつき、自分がとても恥知らずな人間に思えて、顔を赤面させた。

 

「平野よりも、さ、先に言っておくわ!…今まで、ありがと。平野ばかりじゃなくて、あなたにも世話になったし」

 

 一瞬、冴子はきょとんとしていたが、直ぐに爽やかな笑みで応じた。

 

「毒島家の女として当然の事をしたまでさ。礼には及ばないよ」

 

 嫌味一つない冴子の人となりが余計に羞恥心を煽る。

 沙耶は堪らなくなって、照れ隠しにそっぽを向いた。 沙耶がそっぽを向くのと、ガラス戸の外に清田がのそっと姿を現したのはほぼ同時だった。

 

「やあ、起きていたのかい。昨晩は眠れたかな?」

 

 ガラス戸をがらっと開けるなり、清田が沙耶にそう訊ねた。そして手早くブーツを脱ぎ、リビングに上がり込む。

 重武装・重装備で相変わらずロボットのようで否応なく威圧感を与える姿だが、唯一露出している目許に浮かべた人懐っこい笑みが彼の純朴な人柄を表しているようで、その厳つい印象を和らげていた。

 沙耶は先程の冴子と同様に、清田にも礼を述べようとしたが、いざ本人を目の前にすると言葉に詰まってしまった。

 冴子に対しては少々の照れが入り交じりながらも素直に述べる事が出来たが、何故だか清田に対してはそれが出来ない。

 沙耶は思わず視線を外し、俯きがちに言った。

 

「寝心地は兎も角、安心して眠れただけマシだったわ」

 

 ぶっきらぼうに答えながら、意固地な己を恥じた。

 ありがとうの一言も言えないなんて!―悶々と沙耶が悩む傍ら、清田は言葉を続ける。

 

「思いの外、収穫はあったよ。飯を食ったら今後について話そう。それで…他の人はまだ寝ているのかな?」

 

 目の前の冴子と沙耶、床の上で寝転がる耕太以外に気配を感じなかったので、清田はそう訊ねた。

 

「そのようですね」と冴子が応える。

 

 

「それじゃあ、起こしてきてくれないかな。今は少しでも時間が惜しい」

 

 冴子にそう頼み、清田は耕太の元へと歩み寄り、屈み込む。

 

「耕太君、起きてくれ。朝だぞ」

 

 揺り起こすと、むにゃむにゃと耕太が呻きながら瞼を開いた。

 

「ふぁ…おふぁようございまふ」

 

 寝起きで呂律の回らない耕太が、視界いっぱいに広がる厳つい清田に動じる事なく、朝の挨拶をする。

 

「おはよう。まずは顔を洗ってくるといい」

 

 目脂のこびり付いた目元を擦りながら、耕太はもそもそと起き上がり、のっそりとした動作で洗面所へ向かった。

 

「さて…俺達は、朝飯の準備でもしようか?」

 

 清田は盛りつけ途中の調理済みの料理に顎をしゃくり、沙耶を促す。

 台所には清田が所望したものとは違うが、ほっけの塩焼きや玉子焼き、おひたし、味噌汁といった典型的な朝食が用意されていた。

 

「…美味しそうなんだけど、食欲があんまり湧かないわね……」

 

 料理を前に沙耶がげんなりとした表情を浮かべる。

 

「食える時に食わないとね。後で後悔しても遅いよ」

 

 装備をつけた姿のまま、清田は、人数分の碗に味噌汁をよそっていく。

 沙耶も清田に倣い、副菜や主菜、炊き立ての白米をよそってはテーブルに運んでいく。

 厳つい格好のまま朝食を準備する兵士の姿は何ともシュールであり、沙耶はそれだけで非日常であるというのを否応なく実感させられた。




 空挺隊員の一般的な任務について

 先ずは空挺降下、降着、降着戦闘、集合地点へ前進、徒歩機動(60〜100km)、最後にようやく戦闘(攻撃or防御)となります
 ちなみに降下後は傘取りといって自分の落下傘を回収しなければなりません(実戦では多分やらない?)
 落下傘(約15kg)と背嚢(約30kg)、自分の携行火器(84射手は大変)を持って集合地点まで荒れ地や背の高い草地の中をダッシュし、落下傘を集積してからが演習スタート
 また、空挺降下するまでもが大変で、夏場ともなれば重装備を身に付けたまま天候によっては長時間待機し、いざ搭乗となっても駐機してある輸送機まで長い滑走路を歩かなければならず、乗り込んでからも待たされる事があるらしく、ここで脱水症状になる隊員も出るほどだとか(一度落下傘を装着すれば背嚢の水を飲むことが出来ないので)
 任務内容が過酷なので、身体を壊して空挺団から他の部隊に移る隊員もいるとのことです
 空挺団は恐ろしいところです(迫真)

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