学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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お久しぶりです。
前回の投稿から半年以上空けてしまって申し訳ありません。
キリがいいので投稿します。
完全版は年内には…例の如く作中時間はあんまり進んでません。
殆どが清田の回想になってしまってすいません。


#2nd day③

寒い。

堪らなく寒い日だった。

清田は、落下傘と武器のみを装着した状態ー空挺降下に於いては限りなく身軽であるーで滑走路横のコンクリートの上で、冬も間近の晩秋の分厚い曇り空を仰ぎながら寝転がっていた。

海上自衛隊下総航空基地ーーそこは教育航空集団司令部、海上自衛隊第三術科学校、海上自衛隊航空補給処の下総支処などが置かれており、対潜哨戒機を使用した海上自衛隊航空要員の教育訓練を行っている基地として知られていた。

しかし、それ意外にもこの決して航空基地の中では広大とは言い難い下総基地は、陸上自衛隊が唯一擁する落下傘部隊である、第一空挺団の訓練支援を担当している事でも有名であった。

新隊員後期教育課程を終えた清田は、中隊に配属されその空気に馴染む暇もなく演習に参加し、漸く落ち着いた所で空挺隊員にとっては必須技能である、基本降下技能を修得する為に再び空挺教育隊に入隊していた。

着地訓練に始まり、落下傘装着訓練、模擬扉訓練、跳び出し塔訓練、降下塔訓練、傘回収訓練などを経て、今日はいよいよ実機からの実降下訓練である。

地上約八十メートルから吊り下げられ、その後に切り離され落下傘で着地する降下塔訓練を終えてはいたが、やはり実機となると勝手が違う。

降下塔訓練は地上からワイヤーによって吊り上げられ、その後に切り離されるという恐怖もあったが、実機は時速250kmで飛行している。そこから跳び出さなければならないのだ。

降下に必要な技能と知識は全て修得している。だから後は実降下でもそれらを発揮出来れば何も問題はない。

全ての訓練は何事も問題なく、つつがなくこなしていたから大丈夫だーー不安な気持ちを押さえつけるように、清田少年は自らに言い聞かした。

現在、清田達は降下待機中だった。降下場である習志野演習場の風速が若干強いため、天候の回復を待っていたのだ。

その待機時間が殊更に不安を煽り、掻き立てるのだーー周囲に目を遣れば、清田と同様に落ち着かない様子の者や、中には顔面蒼白な者もいる。

皆、後期教育を共に過ごした同期であるが、一様に不安であるというのは隠せない。

聞くところによれば、背中に背負ったメインの主傘が開かない確率は三十万分の一らしい。それは事前教育という事で読まされた、空挺団出身のとある有名な格闘漫画家の自伝漫画にもそう描いてあった。

おまけに主傘が開かなくても胸にサブである予備傘を着けている。この両方が開かないという確率は殆どゼロだろう。

だが、頭ではそう解っていても、不安な気持ちに陥るのは止めようがない。

ある墜落死した隊員の指の爪は全て剥がれていたという。予備傘を開こうとしてパニックに陥り、激しく掻き毟った末に爪が剥がれてしまったそうだ。

自分がそうならないとは絶対に言い切れないのだーー冷たいコンクリートの上だというのに、背中は冷や汗でじっとりと濡れている。胸の予備傘の上で組んだ、空挺手袋を嵌めた両手は微かに震えていた。

その時だった。

 

「注目!」

 

降下長を務める、ベテラン空挺隊員である教官の曹長が、青い顔をしている清田達のところにメモを片手にやってきた。

清田達と違って小銃を収納した携行袋を体の左横に装着していない、落下傘のみの身軽な格好である。首元から覗く空挺マフラーが様になっているのは流石だった。

 

「先程、習志野降下場の気象が入った。風向は大きく変化なしで295度。侵入方向に対しほぼ真後ろ。風速は上空で最大四メートル、最低二メートル、平均三メートル。地上で最大六メートル、最低四メートル、平均五メートル…以上、降下可能である!」

 

その言葉を聞いた瞬間、覚悟を即座に決めなければならないと分かったが、頭の中は真っ白だった。

 

「それでは搭乗!お天道様が気分を変える前にとっとと立て!」

 

清田達は助教らに急き立てられるように立ち上がり、エプロンに駐機しているC-1輸送機に向かって重い一歩を踏み出した。空挺靴が、じゃり、とコンクリートの地面を踏みしめたが、足元は心許ない。

しかし直ぐに搭乗という訳ではない。輸送機の横には三脚の上に載ったカメラを手に待ち構えている助教がいた。

初降下は精鋭と名高い空挺隊員としての記念すべき第一歩である為、こうして写真が撮られるのである。

しかし、ただの記念写真という訳ではなく、もし不運にも墜落死すれば即座に遺影となるーーらしいが、万が一にもそうなって欲しくはない。

初降下前の吐き気を催す緊張の中、ぎこちない笑みを浮かべてフレームに収まった清田は、脱落防止の紐が付いた耳栓を耳腔にねじ込み、薄暗く窮屈な機内の簡素な座席に収まった。

屈強な野郎どもが三十人ほども収まれば、輸送機としては小さいC-1の機内はすし詰め状態である。

加えて人並み以上の体格を持つ清田少年は殊更に肩身を狭めなければならなかった。

全員が搭乗し終え、教官や助教らが空自のロードマスターと何やら手順を確認している間中、清田は込み上げる吐き気を堪えるので必死だった。

十分ぐらいそうしていただろうか。降下する順番が最後の方である為、清田は操縦席付近に近かった。

操縦席と貨物室は壁で隔てられており、後から機体側面の搭乗口から乗り込んで来たパイロットの姿はちらりとしか見えなかった。

やがてロードマスターが機壁の操作盤を弄ると、後部貨物扉がモーター駆動音と油圧の作動音を発しながら閉鎖され、いよいよ機内は丸い小さな窓から差し込む晩秋の昼光と、申し訳程度の室内灯の明かりしかない。

そうして突如、耳を突き刺すように甲高いエンジンの始動音が轟き、やがてけたたましい唸りへと変わる。

この時点で清田は空挺団に来たことをかなり後悔していた。

微かな振動の後、とうとう機体が動き出した。電車よりも少ない揺れで滑るように移動しているので、注意しなければ分からなかっただろう。

民間の航空機と違って、自衛隊ではわざわざ機内放送を流してくれるほど親切ではないし、外の風景を見る余裕もない。

ノロノロと動く機体がいつ離陸するのか分からないが、長大な滑走路の端まで移動するのは時間が掛かるだろうーーやがて揺れが収まり、いよいよ離陸に移るのだろうというのが察せられた。

今まで唸っているだけだったエンジンが、大量の空気を取り入れて爆音と共に咆哮を上げた。刹那、急加速によって生じたGに体は傾き、隣の隊員に凭れかかった。

傾いたまま浮遊するような感覚を僅かに感じたが、最早清田は気が気ではない。更に機体は上昇しながら旋回しつつあるので、生まれてから一度も感じた事が無い複雑なGに不安と恐怖と吐き気は最高潮である。

暫くして水平飛行に移った時には、右スネのポケットに入れてあるジップロックを取り出して吐瀉しようかと思ったが、下手に動くとそれだけで胃が暴れ出しそうだった。

水平飛行中も機内は縦やら横やら不規則に揺れ動き、今にも墜落するのではないかと思うほどだ。民間航空機よりも乗り心地が良い軍用機などありはしない。

清田は終始気が気ではなかったが、そんな彼を他所に機体はいよいよ降下経路に侵入を開始していた。習志野駐屯地と下総基地は車で一時間も掛からない距離にあるので、航空機ならば離陸して降下高度に達するぐらいには目的地にすぐ着いてしまう。

空自のロードマスターが降下扉を開いた瞬間、気圧が変わり、機壁を隔てて聞こえていたエンジンの唸りを肌で感じた。機内に吹き込む風はジェット燃料の排気ガスの匂いが混じっており、それは灯油ストーブの匂いだった。

降下長は降下扉の点検を済ませ、降下扉が何かの拍子に降りてこないようにする為のプロテクターを装着し、ジャンププラットフォームを足で何度か踏んで異常がない事を確認し、眼下に流れ行く市街地のランドマークー北習志野駅、日大滑走路、演習場近くのイオンモールなどがそうだーを見定め、両手を叩いて降下員達の注目を集めた。

そうせずとも、隊員達は離陸してから常に降下長を注視していたが。

 

「いっせんかーい(第一旋回)、いくぞ!」と声を張り上げる降下長。

 

「おう!」と己を不安な心を鼓舞するように応える隊員達。

 

何度もやってきたその呼応は、もはや条件反射として心身に刻み込まれている。

清田は頭の中が真っ白になりながら、声の限り叫んでいた。

俺に飛べるのか? 本当に飛び出す事が出来るのか?ーー緊張と不安が普段よりも五感を研ぎ澄まさせていた。

降下長の表情筋が具に見て取れる。

耳栓をしていても機壁が僅かに軋む音が聞こえた。

排気ガスと男達の汗と体臭、それと誰かのシェービングクリームの臭い。

今朝食べたパック飯のカレーが喉元をせり上がりそうになる。

隣に座る同期の血流と、微かな震えが服越しにもわかる。

 

「いくぞ!!」

 

「おう!!」

 

「いくぞ!!!」

 

「おう!!!」

 

「降下よーい!…たてぇぇぇぇい!!!」

 

隣の者と肩をぶつけ合いながら立ち上がり、パイプを組み合わせただけの簡素な座席を折り畳み、自動索環ー落下傘を引っ張り出す紐の為のアンカーとなる特殊なカラビナーを右手で握り、左手はそれを引っ掛ける為に機首から機尾に向かって機内に張ってある繋止索を掴んだ。

誰もが降下長の一挙一動を食い入るように見詰めている。清田も瞳孔の開き切った目を血走らせ、臓腑を揺さぶる不規則な揺れに耐えながらその時を待った。

自動索環を握る右手は、空挺手袋の中で湿り気を帯びていた。

 

「環掛けぇぇ!!!」

 

降下長は大きく、指をフックにかけるような動作をした。

 

「自動索環二重ロック良し!」

 

自動索環を繋止索に引っ掛け、しっかりと掛かっているのを確認し、別命なく自動索ーパラシュートを引っ張り出す為の紐ーと自動索環を右手で一緒に持った。

 

「そぉぉぐてんけぇぇぇん!!(装具点検)」

 

降下長も負けじと声を張り上げ、空挺隊員の卵達の孵化を促した。

隊員達は何度繰り返したかも分からぬ点検動作を、呼称しながら各部を手で触って行った。

 

「いち!」ー自動索環。

「に!」ー空挺用鉄帽の顎紐、首紐。

「さん!」ー肩部離脱器。

「し!」ー両脇腹の救命胴衣。

「ご!」ー胸帯。

「ろく!」ー予備傘。

「しち!」ー股帯。

「はち!」ーその他の装具。

 

それが済むと、今度は前の隊員の背面を点検する。

 

「いち!」ー自動索環。

「に!」ー自動索の流れ。

「さん!」ー主傘の閉鎖。

「し!」ー主傘の外観。

「ご!」ー股帯。

「ろく!」ーその他の装具。

「よし!」ー異常がないという事を知らせてやる為に、前の隊員の尻を左手で叩く。

 

それら全ての降下前に必要な儀式を終えると、一瞬だけ機内は静寂に包まれるーー耳を聾するようなエンジン音が絶えず咆哮している最中だというのに、全員の心は一つになり、まさに明鏡止水の如くであった。

目をギラつかせる降下員達の顔を見渡し、降下長は頷いた。

 

「ほうこぉぉく!(報告)」

 

瞬間、隊員達は最後尾から「よし!」と前の者の尻を叩くと同時に機壁側の左足を一回だけ踏み鳴らして行く。

その合図が順番に巡って行き、先頭降下員の番になると「右扉よぉし!」と降下長に報告する。

降下長はそれを確認すると、再度地上のランドマークを見定め、更なる合図を送る。

 

「成田街道通過…この位置まで前へ!」

 

両手を水平に広げ、前のめりに低い姿勢で一歩を踏み出す。

先頭降下員は、不規則な揺れの中、覚束ない足取りで床に貼られているテープの線まで進む。

降下長はまた地上のランドマークを見定めて合図を出す。

 

「ストリップ通過…位置につけ!」

 

先程の動作に、手の動きを加えた合図を出す。

先頭降下員は右手で握っていた自動索環を思い切り繋止索に沿って投げつけると、いよいよ降下扉の前に立ち、扉横の降下ランプを凝視していた。

降下長は先頭降下員の腰辺りを掴み、何かの拍子に勝手に飛び出さないようにしている。

清田の位置からでは先頭降下員をよく見る事が出来ないが、あとほんの十数秒の後にはあそこに自分も立つのである。

今更不安がっても仕方が無い。

乗りかかった船、もとい離陸してしまった飛行機の中である。

地上に戻るには飛び出すか、もしくは降下長に泣きついて降下を中止し、他の同期達が空挺隊員として華々しく大空に躍り出る姿を惨めに見届けるしかないのだ。

絶対に後者にだけはなるまいと決めていた清田である。ならばすべき事は決まっていた。

 

「コースよし、コースよし。用意、用意…」

 

降下長の呪文のような号令が、最後尾付近の清田にもエンジンの爆音の最中でも聞こえるような気がした。

そして運命の合図が出された。

 

「青!」

 

その号令と共に今まで赤だった降下ランプは青へと変わり、鼓膜に刷り込まれたけたたましいベルの音が鳴り響いた。

先頭降下員は号令と共に弾かれたように顔を上げ、降下長に尻を叩かれてから、何の躊躇いの素振りも見せずに、勢い良く機外へと跳び出していった。

機内の繋止索に引っ掛けていた自動索が飛び出した隊員の落下傘を引っ張り出す為に緊張し、やがて開放し終えると風に靡いていた。

完全に開傘したのを確認してから、風に靡いていた自動索を助教の一人が回収する。次の降下者の邪魔をしないようにする為だ。

とうとうやりやがったーー清田は本当に後戻りできないところまで来たのを自覚した。

そうして次々と前の者が跳んでいくーー落下傘が開かなければ死ぬかもしれないというのに、皆恐怖に怯える事など一切なかった。

いよいよ清田の番となった。

清田は自分の番がくると右手で自動索環を繋止索に沿って投げつけ、降下扉の両脇を掴んでその前へと立った。

踏み出した足が震えて今にもくずおれそうだったが、自分が飛ばなければ後ろが飛べない事が分かっていたから、恐怖に竦む心を叱咤していた。

眼前にはだだっ広い習志野演習場、そしてその周囲を取り囲む市街地の様子が見える。

吹き込む風の強さ、流れる景色、遠くに聞こえるエンジン音ーーそれはまるで映画館で流れる映像のように、何処か空々しく他人事のように思えた。

周囲の市街地では普通の市井の営みが今日も行われている。

演習場の東側に広がる工場の群れ、何処かの高校の野球場、コジマ電気の看板、演習用品を買いに行ったロイヤルホームセンター、同期と飯を食いに行った大阪王将ーーそれらがミニチュアのように見えた。

尻に僅かに衝撃を感じた。

それが降下長による降下の合図であることは分かった。

瞬間、全ての音が消え去った。

風の音も、エンジン音も、自身の鼓動すら聞こえない。

目の前の出来事は無声映画の一幕のようにしか感じられなかった。

だから、清田は少しも恐怖を感じなかった。

あれだけ不安と恐怖に落ち着きをなくしていたのに、いざそうなると、もはやどうでもいいというような投げ槍的な思考になっていた。

失敗して死んだとしても後悔する事はない。

死人が後悔などできる筈がないのだから。

ただ、中途半端に生きているのだけは嫌だなーーそんな事をぼんやりと考えながら、清田は肉体に刷り込まれた反射によって四肢を駆動させ、吹きさすぶ風の中に身を投じた。

 

「初降下ぁ‼︎」

思い切りジャンプステップを踏み、顎をしっかりと胸につけ、両手を予備傘の上で組み、両足を一本の棒のように揃える。

清田は力の限りそう叫んでいたが、緊張に裏返った声は猛烈な風にかき消されていた。

不思議と落下の重力を感じなかった。

降下扉から飛び出し、自動索が切り離される僅かな瞬間だが、航空機に引っ張られるのだ。

それはさながら、巨大な怪鳥に連れ去られる獲物の気分である。

重力を感じる暇などない。

感じたのはジェットエンジンの熱い排気のみであり、それも直ぐに遠ざかり、代わりに刺すような冷気が頬を嬲った。

清田の長駆は頼りない枝のように大空を踊り、緊張した自動索が落下傘を引っ張り出し、やがて完全に切り離された。

背後ではバタバタと布が突風に煽られる音が聞こえ、主傘を収めたコンテナが背中からずるりと引っ張り出されるのを感じた。

それは見えない巨人の手が清田の首根っこを摘みあげようとしているかのようだった。

 

「二降下、サン降下、ヨン降下…」

 

清田は一本の棒のように堅固な姿勢でその時を祈るように待ったーー四秒ほど経ったら頭上を仰ぎ見て、落下傘が開いているのを確認しなければならない。

もし、開いていなければ、即座に予備傘の手動索を引かなければならない。でなければ墜落死は免れないだろう。

主傘が開かなくても予備傘が開けば何も問題はないのだが、初めての降下でそのような緊急事態に遭遇したら、たとえレバーを引くという簡単な動作ですらこなせる自信がない。

仮に予備傘を開く事が出来ても、その後は冷静でいられる筈もなく、着地に失敗する可能性が高いだろうーーいや、この際、着地云々よりも先ずは傘が開くかどうかを心配していた。

落下傘が開くまで約四秒ほどの短い時間の中、清田は生まれて初めて神に祈ったーー来るべき猛烈な開傘衝撃を心から待ち望んだ。

 

「点検‼︎」

 

顔を上げ、頭上を仰ぎ見る。

肩の装着帯(ハーネス)から上方に伸びるは懸吊帯(ライザー)確かにその先の傘本体と繋がっており、傘は今まさに空気を孕んで開かんとしていた。

世紀の花よとはいったものだが、成る程、これほど感動する花の開花も無いだろうーー直後、完全に開いた落下傘が急制動を清田の体に与え、股帯が強烈に締め付けられる。

清田は瞬間、陰嚢がゴリゴリと音を立てるのを感じ、股帯を締め過ぎた事を後悔しながら腹の奥底からやってくる耐え難い圧痛から吐き気を催したが、なんとか堪えた。

だが、直ぐにその吐き気も何処かへ吹き飛んだーー目の前の光景にハッと息を飲んだ。

煩雑な市街地の光景だというのに、全てが輝いて見えた。

雲間から射す陽光が灰色にくすんだ市井を淡く照らし、荘厳な宮殿のようにさえ見える。

忙しない市街地の上だというのに、喧騒は失せ、聞こえるのは穏やかな風の音色のみである。

命の綱と言えるのは落下傘のみであり、風に吹かれるまま、自らの意思で行き先を変える事は出来ない。

たった数百メートル上空だというのに、そこは下界から隔絶された別世界であり、それが酷く神秘的に思えたのだ。

空を飛ぶ鳥は常にこの風景に慣れ親しんでいるのかーー暫くの間、自身の短い人生の中で最も凄烈な経験を呆然と受け入れていたが、やがて現実に引き戻される。

 

「五番!オラァ!脚を閉じろォ!このボンクラァ!」

 

地上にいる助教が拡声器で激烈な指導の声を飛ばし、一旋回五番降下者ーー清田は我に返った。

下方を注視すれば、鉄帽に白いカバーを被せた助教が、清田に拡声器を向けながら先に降下した隊員の所へ走り寄っている真っ最中だったーーやがて隊員は助教に蹴り倒され、傘の畳み方の不十分を指導されている。

鬼の助教の存在を思い出し、清田は別の意味で大きな身体を縮こませた。

そうだ、トグルを掌握して操作しなければーー清田は足を揃え、トグルを掌握し、風下に正対しようとした。

しかし、初めて実際に降下中にやるものだから上手くいかず、そうこうしている間に地面が迫ってくる。

あれこれともがいている間に地面が近づいてくるーー最早あの神秘的な体験から得た荘厳な気持ちは綺麗さっぱり吹き飛んでいる。

またもや顔を青ざめさせながら、清田は着地の衝撃に備えた。

 

†††

 

がくん、と衝撃を感じた。

すわ 、着地の衝撃かと思って周囲を見回したが、あるのは見慣れぬ部屋の光景だった。

暫くの間、夢と現の判別のつかぬ、鈍った脳髄がぼんやりと思考を停止していたが、口元のよだれを拭い、両頬を両手でぴしゃりと叩いた。

どうやら、ほんの少しだけ居眠りをしてしまったようだーー清田が床の上に座ったまま背伸びをすると、関節が湿った音を盛大に立てた。

朝食の後、清田は生存者達に出発準備をするように指示を下し、自身は二階の寝室で空になった弾倉に弾薬を込めていた。

胡座を掻いた膝の上には、5.56mm小銃弾を途中まで詰め込んだ弾倉が落ちている。手にはバラの小銃弾を握ったままであったから、安全管理を疎かにし過ぎていた。

昨晩は新たに入手した銃器を使用できるように準備したり、操作方法を教えたり、あの母子を救出したりで自身の武器の手入れをする暇がなかったので、こうして僅かに空いた時間を利用して整備に当てていたが、昨日から殆ど動きっ放しでろくに眠れなかったから、今になって眠気がやって来たのだろう。

悪い兆候だ。状況に慣れる余りに緊張感を持続出来ていないーー人間の集中力などたかが知れてはいるが、肉体的な限界の所為にするのはまだ早い。

取り敢えず、その他の雑多な物品と同様にして手に入れたキシリトールガムのボトルを手元に手繰り寄せ、タブレットガムを二三個口の中に放り込んだ。

ガムには様々な効能があるーー正確には物を噛むという行為にだが。

ガムを噛む事で顎の筋肉が運動し、脳への血行が促進され、脳細胞の働きが活発となり、思考力、集中力、判断力が増し、更に眠気防止の効果がある。

また、ものを噛むという行為は食べるという行為であり、生物にとって生きていく上でどうしても避けられない飢餓感へのストレスを和らげるので、手軽に緊張を解す事が出来る。

清田は、長く辛い単調な作業である長距離行軍時にもガムを噛み、眠気と気分を紛らわす事がよくあったーー尤も、歩き終わった後には顎が酷い筋肉痛になっており、レーションを食べるのもひと苦労な為、パック式のお粥を流し込む事で当面の餓えを凌いでいた。

ガムを噛みながら、清田は弾薬を込める作業に戻ろうとしたが、もはやそんな気分になれる筈もなく、作業を中断して片付けた。

火器類のクリーニングとメンテナンスは既に終わっていた。

リカの私物のクリーニングキットを拝借して銃身と部品に付着したカーボン汚れは綺麗にこそぎ落とし、上等なガンオイルをたっぷり注した。

目の前には清田が身に付けていた武器類が並べられていたーーHK416アサルトライフル、USPタクティカル、ケルテックKSGショットガン、M72LAW、破片手榴弾、特殊音響閃光手榴弾、煙幕手榴弾、C4爆破薬、各種爆破用雷管、導爆線(デトネーターコード)、導火線、発火装置、マルチツール、タクティカルナイフ、弾倉、散弾、40mmグレネードランチャーなどがまるで警察に押収された証拠品のように整然と陳列されている。

小銃を手に取り、槓桿を握り遊底を引くと小気味良い程に滑らかに動く。銃に装着されている各アタッチのスイッチを入れ、構える。ホロサイトのドットが浮き上がり、エイミングモジュールからはフラッシュライトと可視光レーザーが照射されるーー清田は精緻にして機能美の局地とも言える兵器に嘆息した。

武器を何時でも万全な状態に保つのは気分が良いし、何が起きても問題なく戦えるのだという安心感があった。

ひとしきりそれぞれの武器を点検し、問題がないのを確認したが、唯一それだけは意識的に避け、結果として最後に手に取る羽目になった。

無骨な鞘(シース)に収まったそれは、罪深い原罪そのものが顕現したかのような忌避を想起させたーー昨晩、幼子の命を容赦無く奪ったタクティカルナイフである。

それも他の武器同様、使用したのならば点検しなければならないが、手にとってみたものの鞘から抜く事が出来ない。

柄を握るので精一杯だったーー抜こうとすると途端に発作によく似た症状が出そうになった。

冷や汗がダラダラと背中を流れ、手は震え、強烈な目眩と動悸に呼吸も侭ならない。

心臓は冷たい死神の手で鷲掴みにされているようで、上手く血流を送ってくれない。

糞、糞、なんてザマだ!ーー清田は荒く息を吐き出し、ナイフを床に置いた。

想像以上に傷ついている。

精神が、今まで多くの苦痛と困難に打ち勝ってきた兵士の心が、首の皮一枚を残して繋ぎ止められている現状に、清田は蹲りたい衝動に駆られた。

蹲り、泣き叫び、自身の無実と悔恨と不可抗力の諸々を誰かにぶち撒けたいーーそれは冴子によって叶えられ、清田に再起を与えたが、心に巣食った病巣は簡単に取り除く事は出来ない。

一体いつまで続くのだろう?

この胸の痛みはいつまで抱え続ければいいのだろう?ーー答えは分からないが、少なくとも十年二十年で晴れるような代物ではない。

涙が出た。

止め処なく涙が滂沱となって零れ落ちた。

このまま子供のように嗚咽を漏らして泣ければいいが、寸でのところで留まる理性が阻止する。

清田は一頻り嗚咽を堪えながら涙を流すと、床の上に広げていた仕事道具をデイパックに詰め直し、装備を整え、完全武装の完全無敵の兵士へと変身し、階下へ降りていった。

 

†††

 

リビングに足を踏み入れると、清田の心臓が縮み上がった。

心拍数は急激に上がり、一気に精神と肉体はレッドへ突入し、ブラックに至ろうとするーー戦闘に最適なイエローを保てない事実に、またしても清田は辟易とした。

ぐわんぐわんと歪む視界の中、女の子がいた。

その女の子は、あの女の子だったーー殺した筈の女の子が、耕太と 童歌を唄って遊んでいた。

気でも狂ったのかと思った。

いや、事実、幾らか狂っているのだろう。

でなければこんな幻覚を見る筈がないーー清田の精神は、冷静に自己を分析する傍ら、目の前の幻覚を掻き消すべく肉体に指令を送ろうとしていた。

右手が咄嗟にレッグホルスターから拳銃を抜こうとしていた。

まるでこれは悪夢とでも言いたいかのように、銃弾をぶっ放して悪い夢から醒めたいとでも言いたいかのように。

銃を抜いたら向けるその先は、あの女の子ではなく、狂った自分の脳髄にしようーー

 

「清田さん」

 

だが、自身の脳味噌を吹っ飛ばすどころか、拳銃を抜く事も無かった。

背後から誰かに右腕を掴まれ、硬直したーー振り返ると、冴子が立っていた。

もはや彼女は裸エプロンではなく、所々血痕の薄まった藤美学園の制服姿だった。

唯一普段の制服姿と異なるのは、タイトスカートに穿き替え、黒いガーターストッキングを身に付けている点だった。

年頃の少女が身に付けるにしては大人び過ぎているそれも、すらりと背が高く、容貌の整った冴子には似合っている。

結果として反射的に動こうとしていた肉体の反応は未遂に終わった。

いや、冴子が止めてくれたというべきだろうーーもしも彼女が、清田が発する異質な雰囲気を感じ取れなかったら、彼は唐突に拳銃自殺を行う羽目に陥っていただろうから。

 

「顔色が優れませんが、大丈夫ですか」

 

そう冴子は気遣うが、当の清田はヘルメットにタクティカルゴーグル、フェイスマスクといつも通りの正体不明のマスクマンだった。

不安定な精神状態を見破られまいと考えた末の処置だったが、やはり彼女はお見通しなのだろう。

 

「いえ、大丈夫です」

 

何も大丈夫じゃない、精神状態は最悪で、発狂寸前だーーカラカラに乾いた口の中を唾液で潤そうと舌先で犬歯を突ついたが、干涸びた舌が上顎に張り付きそうになった。

 

「今後について話したいので、取り敢えず席について下さい」

 

今はそんな話をしたい気分ではないが、もうそろそろベソベソと泣いて塞ぎ込む時間は終わりだ。

清田は気を取り直し、睨み付けるような気持ちで正面に向き直った。

耕太と一緒にいたのは、 昨晩救出した女の子だった。

名前は希里ありすといい、母親の優子と共に保護をした。

昨晩はあまり元気のない様子だったが、休息を得て回復したのだろう、耕太と楽しそうに遊んでいる。その屈託のない笑顔とは対照的に、清田の心は重く沈んでいた。

しかし表面上は平静を取り繕い、生存者達が一堂に会したのを確認し、本題を切り出す。

 

「今後についてですが、当初は高城さんの実家、その次に新床第三小学校を目指したいと思います。理由としましてはー」

 

「私の両親の安否の確認、じゃなくて、何かしらの通信手段がある可能性が高いから…でしょ?」

 

唐突に清田の言葉を遮り、沙耶が言葉を引き継いだ。

結果的にこのメンバーの中で肉親が床主市に健在である沙耶の実家へ赴き、その安否を確認した後に避難所を目指すという行動指針が藤美学園で決定された訳だが、それを真に受けるほど彼女はお人好しではない。

沙耶は一晩経った今、清田があの様な行動指針を了承した理由は、やはり損得勘定からであろうと結論づけていた。

事実、父の壮一郎が組織する憂国一心会はただの右翼団体ではない。

かの三島由紀夫が組織した楯の会に準ずるとも劣らぬ、過激派武装集団であり、沙耶はその細部を知らぬが恐らく物騒な代物を幾つも所有しているのは間違いないだろう。

その中には、連絡用の本格的な通信機材もあるだろうーー通信手段が途絶した状況下でも唯一有効である、衛星電話を一心会が所有しているのを沙耶は母親が管理するパソコンの帳簿データから知っていた。

沙耶はその事を清田に教えてはいないが、相手は特殊部隊である。著名で過激ー高度に武装したーな右翼団体のリストや大まかなデータぐらい公安警察や自前の情報組織から入手していても何ら不思議ではない。

それらも加味して、清田はあの様に判断したのだと、今では自信を持って言えた。

 

「…今となってはそれも理由の一つではありますね」

 

渋々といった様子で清田は認めた。

 

「高城さんの家で通信手段を得る事が出来れば、小学校を目指さずに脱出できる可能性があるのでは、と考えましたが…しかし当初の行動理念に偽りはありません」

 

清田はゴーグルを額の上に押し上げ、優子に目を向けた。

 

「優子さん。御主人やその他に肉親がいるのであれば、そちらの安否の確認も協力させて頂きますが…如何なさいます?」

 

清田の提案を、優子は暫し考え込んだ。

 

「…いえ、大丈夫です。主人の両親と私の両親も田舎ですし、床主には特に親戚もいませんし……それに主人については、もう、諦めております」

 

俯き、今にも消え入りそうな声で優子は言った。

母子二人の命からがらの逃避行の経験から、もはや夫の生存が絶望的であると判断しての言葉だろう。

生きていて欲しい、探しに行きたいというのが優子の偽らざる本心だろうが、そうする事で一行であるばかりか娘の命をいたずらに危険に晒す可能性が高くなるのであれば、諦める他ないというのが現状だった。

成り行きで身を寄せた清田たちのグループに無理強いを出来る程、優子は我の強い女性ではなかった。

 

「……分かりました」

 

その事を察せない清田ではないが、優子がそういうのであれば素直に従うしかない。

今まさに娘と夫を秤に掛け、両者のどちらかを優先しなければいけないという苦渋の決断を迫られ、結果として娘を選んだ優子を誰も責めはしないだろう。むしろ母親として至極真っ当であり、また苦しみながらも現状に基づいて冷静な判断を下せていると断言できた。

 

「それでは予定通り、高城さんの家を目指します」

 

清田の決定に誰も異論は差し挟まない。

「あと、全員、出発準備は大丈夫ですか?」

 

前もって清田は一行に必要最低限の個人の準備ー最低限の着替え、動き易い服装、歩き易く丈夫な靴、ライト、手袋、保存の効く食料、水分、救急品などーをするように達していた。

全員、清田が言った通りの準備は出来る範囲で済ませており、各人がデイパックに纏めて武器弾薬類と共にリビングの片隅に集積していた。

 

「この先、何処で物資を入手できるとも限りません。まだ充分ではないという人は正直に言ってください…いないようであれば結構。それでは、気持ちを切り替えて行動しましょう」

 

清田の言葉に全員頷き、席を立ち上がる。

ひと時の休息は終わったーー再び、死者の蠢く街に繰り出し、生存を賭けて戦わなければならない一日が幕を開けたのだ。

その中で唯一ありすだけが、緊張した面持ちの大人たちをきょとんとした様子で見上げていた。

 





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