学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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待ったかおめぇら待たせたな!自慢のスコップおっ勃てて、今か今かと待ってたか! (中略)

半年ぶりの投稿ですいません。
今回は清田ではなく、毒島先輩が大変な目に遭いますが、きっと大丈夫でしょう。


#2nd day⑤

 何度目だろう。

 

「イチ!ニ!イチ!ニ!」

 

 折れかけた心を叱咤し、繋ぎ止め、立て直すのは。

 

「れんぞくほちょーう!ちょう、ちょう、ちょう…かぞえ‼︎」

 

 朦朧とした頭で、清田はぼんやりと考えた。

 地獄と名高い空挺レンジャー課程教育に入校してから早半月、駐屯地に於ける基地訓練は半分も終わり、ひたすら精神と肉体に耐え難い苦痛を与えられる日々を過ごしていた。

 現在、レンジャー学生達は、体力調整運動ーとな名ばかりのシゴキーの一環である、小銃を胸の前に掲げたままの持久走ー所謂ハイポートーを行っていた。

 体力調整運動は空挺式体操と呼ばれる11種目の筋力トレーニング、一周約三〇〇メートルの障害走コースを十五周、不意のダッシュを織り交ぜたハイポートを約七km、最後に巨大な丸太を担いでひたすら降下塔広場と呼ばれるグラウンドを歩かせられる。

 午後の課業開始と共に始まった体力調整運動は、その全てを終える頃には日も暮れており、煌々とライトで照らされた芝生の上、屈強な空挺隊員といえども疲労困憊で呆然としてしまう。

 勿論、運動着などという身軽な格好で行うわけもなく、戦闘帽、戦闘服、半長靴、弾帯、サスペンダー、銃剣、小銃を携行した状態でその全てを行うので、身体に与えられる負荷は並大抵ではない。

 全国の普通科連隊で行われているレンジャー教育は集合教育であり、好き好んで志願した学生は容赦なく篩い落とされるため、課程教育である空挺レンジャーよりもキツイとは言われるが、清田にとってはこれが初めてのレンジャー教育なのでその差などわかりはしない。

 とにかく、きついことに変わりはない。

 

「イチ‼︎」

「そぉーりゃ‼︎」

「ニ‼︎」

「そぉーりゃ‼︎」

「サン‼︎」

「そぉーりゃ‼︎」

「シ‼︎」

「そぉーりゃ‼︎」

 

 声を荒げ、汗の飛沫を滴らせ、男達は気力のみで走っている。

 既に肉体のエネルギーは枯渇しようというのに、足並みは規則正しき揃っており、残熱を孕んだアスファルトと軍靴がスタッカートを刻む。

 

「くーてい!」

「はぁっ‼︎」

「レンジャー‼︎」

「くーてい!」

「はぁっ‼︎」

「レンジャー‼︎」

 

 旗手を務める清田は、小銃を背負い、空挺レンジャー隊旗の翻る旗竿を両腕で高く掲げながら走っていた。

 幾多の男達と共に灼熱の炎天下、鬱蒼と茂る樹海、凍える氷雨の下で血と汗と涙に塗れた隊旗だ。

 落下傘と金剛石、そして髑髏を記した空挺レンジャー隊旗はボロボロに擦り切れ、向こう側が透けて見える程である。

 

「我ら‼︎」ー「我ら‼︎」

「精強‼︎」ー「精強‼︎」

「精鋭‼︎」ー「精鋭‼︎」

「空挺‼︎」ー「空挺‼︎」

「レンジャー‼︎」ー「レンジャー‼︎」

「日本一の‼︎」ー「日本一の‼︎」

「空挺‼︎レンジャー‼︎」ー「空挺‼︎レンジャー‼︎」

「いやいや‼︎」ー「いやいや‼︎」

「世界一の‼︎」ー「世界一の‼︎」

「空挺‼︎レンジャー‼︎」ー「空挺‼︎レンジャー‼︎」

「れんぞくほちょーう!ちょう、ちょう、ちょう…かぞえ‼︎」

 

 声は枯れ、全身の筋繊維はズタボロであり、大量の汗を吸って重くなった戦闘服は殊更に不快だった。

 叫びながら清田は、ただ時が過ぎるのを切に願ったが、非情なるホイッスルの鮮烈な響きが、やけに鈍い脳髄の中に響いた。

 

「おら‼︎走れ‼︎走らんかい‼︎おせーぞゴラァ‼︎」

 

 鬼の助教達の怒号が飛び交い、汗水漬くの学生達に容赦なく浴びせられる。

 ホイッスルは全力疾走の合図であり、それが鳴った瞬間、学生達は限界を超えて下半身へと命令を下さなければならない。

 その中でも旗手である清田は特に走らなければならなかった。

 旗手に選ばれる隊員は体力に秀でているというのもあるが、部隊の団結の象徴である隊旗を任されるというのは大変な名誉と責任がある。仰せつかったならばやり通すのが男としての矜持だろう。

 そして旗手は常に先頭を走らなければならないので、たとえどんなことがあっても落伍してはならないし、他の学生に追い抜かされてはならない。

 肺は焼けつくように痛み、もはや酸素を取り入れはくれない。視界が徐々にぼやけ、ブラックアウトする寸前まで意識が朦朧としていく。

 不意に清田の横から誰かのごつい手が伸び、掲げる旗竿をむんずと掴んだ。

 清田は白目混じりの視線を、その手の主に向けた。

 

「辞めるか?辞めるんか?」

 

 学生達に並走する助教の一人だった。元ラグビー部出身のその助教は、衰弱した今の清田から旗を奪い取るなど造作もない事だろう。

 清田が先頭を駆ける間、隊列から遅れだした最後尾の学生は、助教に襟首を掴まれて引きずり回されるようにしてよろよろと歩いている。

 その学生にもはや意識はなく、白目を剥いており、頭はガクガクと前後左右に揺れているーー助教は殴り、蹴り、その学生を無理矢理でも走らせた。

 出来るならば清田もその学生のように意識を手放してしまいたかった。

 

「レ、レンジャー‼︎」

 

 だが、息も絶え絶えの清田だが、気力を振り絞り、助教の手から旗竿を取り戻し、再び疾駆する。

 体を突き動かすものがもはや自分の意思であるのかすらわからない。

 わからないものの為に肉体と精神は限界を超えてなおその先へと至ろうとしていた。

 だが、このわからないものが、途轍もなく巨大で恐ろしいもののように思え、清田は脅迫されているかのように肉体を駆動させた。

 走れ、足を止めるな、旗を持て、助教なんか無視しろ、腕が痛い、足も痛い、身体中が痛い、喉がカラカラだ、目が見えない、くそ、五月蝿え、耳元で怒鳴るな、俺はまだやれるーー混濁した頭の中、思考が取り留めも無く流れていく。

 畜生、まだいけるだろ、ああ、くそ、くそ、誰だ。

 お前は誰だーー閉じかかった視線の先、薄闇の中、誰かが立っている。

 そこを退いてくれ、俺は走り続けなきゃいけないんだ、頼む、退いてくれ、退けよーー刹那、疲労で泥のように蕩けていた思考が凍り付き、急速に清田に現実を提示した。

 いや、それは現実などではなかったが、夢現つの清田の思考を停止させるには充分だった。

 それは見慣れたあの少女だった。

 

 †††

 

「あああああああああああああ‼︎」

 

 トランシーバーから流れてくるのは、およそあの冷静な戦士である筈の清田とは思えないほど、猛り狂った男の声だった。

 その声に車内は一瞬、凍り付くーーまさかあの清田が餌食となってしまったのだろうか。

 そんな清田の異変にいち早く気が付いたのは、冴子と京子だった。

 後部座席に座る生存者達も、幌の透明なビニル製の採光窓から清田の動向を見守っていたが、前席に座る彼女達は彼らよりも視界が開けており、彼の詳細な様子を見る事が出来た。

 初め、冴子は余りにも清田らしからぬ危険な闘い方に疑念を抱いたーー重火器で武装しているのだから、ある程度距離を置いて正確な射撃で〈奴ら〉の群れを減らせば突破は容易な筈だろう。

 しかし、彼は射撃しながら群れとの距離を詰め、在ろう事か群れに飛び込んで重火器を乱射するという戦法を展開した。

 勿論、瞬く間に彼は取り囲まれたが、散弾銃に持ち替えると恐るべき弾幕で〈奴ら〉の殆どを挽肉に変えたーーそれからだ、清田が恐慌状態に陥ったのは。

 遠目から彼に何が起きたのかを知る術はないが、只ならぬ出来事があったのは察せられた。

 鍛え抜かれた兵士をあそこまで混乱させる何かがあったのだ。

 冴子は隣の京子や、後部座席を振り返るが、皆一様に硬直しているーーグループのリーダーであり、庇護者であり、守護神である清田の豹変は少なからぬ衝撃を齎していた。

 どうする。どうしたらいい?ーー呼吸を落ち着け、冴子は前方の混沌とした惨劇を見遣った。

 清田は未だ暴れ狂っており、驚くべき事に、素手で何体かの〈奴ら〉を瞬く間に始末していた。

 鬱憤を晴らすかのように猛烈なスタンピングで踏み躙り、次なる獲物を定めると駆け出し、前蹴りで蹴倒すと同様にして息の根を止めていた。

 体術の心得のある冴子だが、膂力は成人男性に比べるも無く、ましてや大柄な清田には遠く及ばない。あのような力任せに蹂躙する事など出きるものではない。

 そして次に清田は腰のポーチから何かを取り出し、投擲した。

 刹那、爆音が轟き、高機動車のフロントウィンドウがビリビリと震えるーー橋上で起こった爆発は、何体かの〈奴ら〉を纏めて吹き飛ばし、死血と肉片を周囲にぶち撒け、それらの焼け焦げた幾つかはボンネットの上に落ちてきた。

 爆煙にけぶるその向こう、清田は健在だったが、頭から〈奴ら〉の腐った血と臓物を被った姿はまさに狂戦士そのものであり、獣じみていた。

 全身はどす黒く染まり、装備や武装の全てが死血と脂肪に塗れている。まるで地獄の兵士(ポコルゲッペ)だ。

 だが、そのまま戦い続ければ、やがて彼も本物の獣になるだろうーー〈奴ら〉と同じ、死してなお血肉を求める不浄の獣に。

 それは駄目だ、今、彼を失うわけには行かないーー冴子は手早く矢筒やその他の必要のないものを身体から取り外し、木刀一本を携えた身軽な格好となった。

 

「平野君。君は此処から援護してくれ」

 

 ドアノブに手を掛け、後席の耕太を振り返りながら冴子は言った。

 

「毒島さん?」

 

「今の彼は非常に危うい。私が何とか正気に戻させる」

 

「それだったら僕も行きます!」

 

 耕太はH&KG28からモロトVEPRセミオートマチック・ショットガンに持ち替え、後部扉から降りようとしていた。

 

「いや、君は此処に残った方がいい。今は機動力が重要だ。私の方が身軽で素早いし、二人だと囲まれやすい」

 

 銃器の扱いには長けているが、鈍重な耕太では暗に足手纏いだと冴子は言外に含ませた。

 

「それだったら尚更、銃火器による援護が必要じゃないですか。囲まれたらショットガンで蹴散らせばいい!」

 

 それに反発するかのようにこれ見よがしに耕太は弾倉をモロトに差し込み、槓桿を引いてショットシェルを装填したーー自覚はないだろうが、その顔には凶暴な笑みが浮かんでいたが、冴子は敢えて気付かないふりをした。

 

「そうではないんだ、平野君。君が此処から狙撃してくれた方が都合がいいし、何よりも私が不在の間は君がグループを指揮してくれた方が適任だろう」

 

 今、このグループで戦力として期待されているのは冴子と耕太のみであり、その他のメンバーは一応は銃器の扱いを教わったとはいえ、彼らほどの戦闘力は発揮できないだろう。

 そこでこの両名が不在となるのは些か分の悪い博打じみており、残された者達の安全が危ぶまれる。

 

「なによ、私らだけじゃ不安だって言うの?…と、言いたいところだけど、確かにねえ」

 

 沙耶は自らを含めた居残り組の顔ぶれを見て素直に現状を認めた。

 

「銃を持ってるとはいえ、私達みたいな素人軍団じゃ、ゾンビ映画でよくあるヤラレ役の軍隊以下だし…」

 

 その発言に異論を差し挟む者は誰もいなかったーー耕太は周囲を省みない行動を危うく起こしそうになった自分に対し、ばつが悪そうだ。

 

「という訳で平野、あんたのことは頼りにしてるわよ」

 

「え?」

 

「え?じゃないわよ。あんたねえ、冷静に考えなさいよ。あんたはちんちくりんのどうしようもない軍ヲタだけど、今はその知識と技術が必要なのよ。それは今までに十分発揮されてたでしょ?」

 

 思いがけない沙耶の言葉に、耕太はしばしポカンとしてしまう。

 確かに、今まで耕太はその能力を遺憾なく発揮してきていたが、こうやって沙耶から自身を認めるような発言はされていなかった。

 それだけに思いがけない彼女の言葉は、彼に戸惑いをもたらしていた。

 

「この天才があんたを認めるって言ってんの。それにあんたは男の子なんだから、か弱い女子を守る義務があるでしょ」

 

「え、あー……」

 

「分かったら返事!」

 

「イエス!マーム!」

 

 有無を言わさぬ沙耶の雰囲気に、耕太は姿勢を正して敬礼した。

 

「そういう訳で私らは可能な限り此処から援護するわ。といっても、平野ぐらいしか当てにはならないだろうけど…ほら、あんたはちゃっちゃと準備なさい!」

 

「はい!」

 

 沙耶に促され、耕太は天井の幌布を捲り上げ、ライフルを手に屋根へ身を乗り出した。

 二人のやり取りに、冴子は思わず苦笑した。

 

「フフ…それでは、頼りにしているよ」

 

 そうして後顧の憂いがなくなったところでドアを開けようとした冴子だったが、不意に呼び止められた。

 

「毒島さん」

 

「何でしょうか? 林先生」

 

 運転席に座る京子が、おずおずとライトウェイトを差し出した。

 

「役立つかは分からないけど、これを持っていって」

 

「いえ、銃は私の性に合いませんので」

 

 しかし冴子はその厚意は謹んで辞退しようとする。少しでも身を守る火器が此処にある方がいいだろうと考えてだ。

 

「でも…木刀が折れてしまったらどうするつもり?」

 

「う…」

 

  流石の冴子も、京子のその指摘には反論できなかった。

 しかし、かといって銃など撃ったことはない。試した事もない武器に信頼を置く事は出来なかった。

 こんな事なら他の得物を探しておけばよかったと冴子は後悔した。

 

「毒島さん、これならどうかしら」

 

そこへ静香が、エアウェイトと共に入手した特殊警棒を冴子へ差し出した。

今の今まで、静香はあれから護身用に持ち歩いていたのだが、この場にあっては冴子にこそ相応しいだろう。

 

「これなら使えるでしょ?」

 

「確かにこれならば予備の武器としては申し分ないですが…よろしいのですか?」

 

「大丈夫よ。鉄砲はたくさんあるし、平野君もいるし…それに、少し位役に立たせて欲しいわ」

 

静香がにこりと微笑んで見せると、冴子は渋々ながら警棒を受け取り、制服のポケットに差し込んだ。

  彼女のその微笑みは己の無力さを自嘲するかのような陰影を湛えていたが、これから死地に赴かんとする冴子には構っていられる問題ではない。

 

「それでは…行って参ります」

 

ドアを開け、冴子はそっと地面に降り立つと、音を立てないように閉めた。

前方を見据えると、未だ清田は暴れ狂い、今度は小銃の銃床で〈奴ら〉を殴り付け、蹂躙していた。

一刻も早く彼を正気に戻さなければならないーー今は〈奴ら〉の数も大分減り、一体ずつ白兵戦で仕留める事も可能だが、大橋の対岸からぞろぞろと集まり始めている。

あの集団が到達するまでになんとかしなければ、理性を失って暴れる清田は一瞬で飲み込まれ貪られてしまうだろう。

冴子は木刀を握り締め、深呼吸を一つすると、羚羊のように駆け出した。

それと同時に、耕太の援護射撃が始まったーー超音速の銃弾が傍を掠め飛ぶ破裂音がしたかと思うと、冴子の進路上に立ち塞がる三体の〈奴ら〉が瞬く間に頭部を爆裂させ、崩折れる。

しなやかに躍動する冴子はそれらが地面に倒れ伏す前にその脇を駆け抜け、清田へと距離を縮めていく。

ゆらり、と一体が危うげな足取りで眼前に躍り出てくるーー耕太の援護が来るかと逡巡したが、それを待つよりも自らが排除した方が早いと判断し、駆け抜けざまに脇構えからの逆袈裟斬りを一閃する。

充分に体重の乗った一撃は狙い誤ず、その腐りかけた頭部の顎から上を削ぎ飛ばした。腐りかけの頭はNFLのプレイヤーが投げる鋭いパス並の速度で、橋の欄干を越え川面に落ちた。

仕留めたのをわざわざ確認する必要はない。

 木刀を打ち込んだ瞬間に伝わる手応えのみで、今の冴子はその有無を判断できるほどに経験を積んでいた。

そして続け様に跳躍、速度エネルギーと位置エネルギーを載せた真っ向からの振り下ろしが、新たな一体の脳天を唐竹割り、というよりも熟れ過ぎた西瓜のように割った。

着地し、猫科動物のように低い姿勢のまま油断なく周囲に視線を走らせ、清田への最適な経路を探るーー刹那、頭上を銃弾が飛び越え、数体の〈奴ら〉を撃ち倒して道を切り開いてくれた。

ありがたい!ーー止まったのもほんの一瞬、冴子は再びトップスピードで走り出す。

立ち塞がる〈奴ら〉は冴子を認識する前には、既に破壊的な運動エネルギーを秘めた木刀の切っ先がその腐敗し始めた頭を刈り取っている。

その姿を濁りきった目が捉えたとしても、鈍い腕では疾風のように駆ける体を掠め取る事もできない。

目の前のその一体を倒すと、もはや清田との間を遮るものはなく、冴子は彼に駆け寄った。

 

「清田さん!」

 

清田は〈奴ら〉の一体に馬乗りになり、ぐちゃぐちゃに潰れたその頭に銃床を突き立てたまま、獣のように荒い息を吐いていた。

間近で見るとその有様は酷いものだーー腐臭を漂わす人間の臓物を頭から被り、精神強度の低い者であれば嘔吐は確実であっただろう。古代の蛮族の戦士ですらここまで野蛮ではない。

  今の彼に本来の分別があるのか分からない。

もしかしたら、不用意に近付けば、即座にその丸太のような腕で殴り倒されるかもしれない。〈奴ら〉をボロ布のように屠る大男に襲われては、流石の冴子もひとたまりもなかった。

しかし、今は躊躇うのすら時間が惜しい。

 〈奴ら〉の大群はそこまで迫っているのだ。

 

「清田さん…私が分かりますか?」

 

 眼前に屈みこみ、正面から清田と相対するーー視線を合わせるが、そのゴーグルは元々がスモークがかかっているのに更に血脂に塗れて透過性が失われ、その下の瞳を窺う事はできない。

 冴子は手を伸ばし、慎重にゴーグルに触れ、頭上へと跳ね上げてやった。今の清田は燃え続けるタンカーみたいなものだが、とうに燃え尽きたのかそれとも新たな発火源が爆発する前なのかは不明だが、不思議と彼女にされるがままだった。

 ゴーグルの下から現れたのは、死人のように虚ろで、落ち窪んだ瞳だった。とても数分前まで何事もなく会話をしていた人物とは思えないし、まともな精神状態でないのはあの蛮行を見れば一目瞭然だったが、全く生気の失せた瞳には動揺を禁じ得なかった。

 一体何があったのかーー冴子は周囲を見回したが、転がるのは腐敗臭を漂わす死体とその血腥い部品ばかりであり、彼をこのような精神状態に至らしめた原因はついぞ分からなかった。

 ただ、原形を留めぬほど踏み砕かれた一盛りの小さな腐肉の塊が、冴子に不穏の直観をもたらしめた。

 だが、兎も角、今の彼は重火器とケブラーを纏っただけの案山子であり、可能であれば戦闘に復帰させ、無理であるならば立ち上がって移動できるようにしてやらなければならない。

 二人揃って豚の内臓が腐ったような臭いのまま死ぬ未来は御免蒙る。

 冴子は懸命に清田に声をかけ続けた。

 

「清田さん! どうしたんですか! 立って下さい!立って戦って下さい!」

 

肩を掴み、前後に揺さぶっても反応は皆無だ。

微かに、獣が唸るような低い声が声帯から漏れ聞こえる程度だーー冴子は清田を揺さぶりつつ、周囲に視線を走らせる。

〈奴ら〉の集団はもはや目と鼻の先にまで迫っている。

清田を再び戦士として奮い立たせる時間はない。冴子は彼を背後に庇うように立ち上がり、木刀を構えた。

肺腑の底から空気を絞り出し、一拍間を置き、呼吸と精神を落ち着ける。

頼りにしていた清田は案山子以下であり、耕太による援護があるとはいえ、状況は最悪だ。このまま清田が正気に戻らなければ彼を車両まで運ぶ方法を考えねばなるまい。

もしくは、車両にこちらまで来てもらうべきかーー冴子は今後の展開を考えつつ、テーピングの巻かれた手で木刀を握り直して八双に構え、地面を蹴った。

 

「はぁっ!」

 

裂帛の気合いと共に木刀を振るい、瞬く間に二つの頭を刈り取り、返す刀で更に三つの脳天を叩き潰す。

軽快なステップを刻みながら、次なる獲物を忙しなく選定するーー体重を乗せた効果的な一撃でなければ、木刀によるゾンビの撲殺は困難を極める。

仮にも相手は屍体とはいえ人体であり、人智を超えた論理により駆動するその身体を行動不能となるようにするには、その腐った神経系を破壊しなければならないのはこれまでの戦闘で嫌というほど身に染みている。

普通の人間であれば撲殺可能な一撃であっても、〈奴ら〉に対しては、木刀で頭部を切断しなければならないとなれば並大抵ではない。一振りでも誤れば命取りになるのは、重火器を操る清田以上に精神と体力を削られていく。

腐臭を漂わす膿汁を白妙の顔に浴びながら、冴子はまるで一陣の旋風となって亡者の最中を駆けたーーもはやどす黒い木刀を握る手に感覚はなく、肺は焼きつき、足は今にも縺れてしまいそうだ。

激動と興奮によって紅潮した頬を伝う汗を拭う暇はなく、髪が張り付いている様は扇情的ですらあった。

瑞々しく活力に満ちた肉体はもはや限界へと近付いていたが、分泌される脳内麻薬が冴子に嘗てない多幸感を齎し、死地の中にあっても込み上げる愉悦を、汗と血と膿に汚れた頬に浮かぶのを抑えられなかった。

時折、思い出したかのように飛来する耕太の狙撃は意識の外であった。超音速の銃弾が奏でる、身の毛もよだつ擦過音は蝿の羽音以下の耳障りさしか感じない。

身体中の筋繊維が疲労よりも斬り伏せる快感に酔い痴れていたーー清田の存在は既に忘却の彼方である。今は少しでもこの悦楽に浸っていたいと、冴子は心底から望んだ。

目の前に佇む腐肉の群れは、ただの巻藁以下だ。冴子が望むままに陵辱が許されている。

限りなく込み上げる破壊衝動を満たしてくれる〈奴ら〉は、まさしく愛おしくさえあるーーだが、刹那の油断が思わぬ事態を招いた瞬間、昂ぶっていた神経は氷水を浴びせられたかのように一気に冷え込んだ。

一体の〈奴ら〉の頭を横に薙いだが、打ち込み角度が悪かったのか、はたまた耐久の限界に達していたのか、木刀の半分から切っ先までが折れ飛んで行った。

戸惑うのは一瞬、冴子は用を成さない木刀の残骸を放り捨て、ポケットから伸縮ロッドを取り出し、振るった。

木刀に比べれば心許ないロッドが伸び、正眼に構えるーー刀身は短く、握りが甘い警棒では、痛覚の遮断された死体を葬るのは正直かなり厳しいだろう。

 だが、やるしかない。

 今までの興奮が嘘のように覚めきり、神経を冷たく研ぎ澄ませる。

 ロッドの全長は約60cmほどであり、脇差と同じぐらいだが重量は合金製で軽く作られており、人体の中枢を破壊するほどの威力を有する打撃武器として用いるには不安が残る。

 上段からの唐竹割り、眼球などの脆弱部を狙った刺突でなければ一撃死とはいかないだろうーー迷っている暇はない。既に第二波が眼前に迫っていた。

 冴子は手近な一体の懐に飛び込み、伸ばされた腕を掻い潜り、寸分違わず眼球部に踏み込んだ刺突を叩き込む。

 腐った眼球を押し潰し、眼窩の底の薄い蝶形骨を突き破って大脳皮質はもとより、脳幹もが破壊され、瞬時に行動を停止するーーその腐り始めた身体が弛緩するよりも早くロッドを引き抜きに掛かった。

 

「!?」

 

だが、弛緩し始めたとばかり思っていた肉体が動き、なんと眼窩に突き刺さったロッドを掴んだ。

浅かった、迂闊な!ーー瞬間、寒気に背筋が粟立つ。

亡者はそのままリミッターの切れた怪力を以ってして冴子に食らい付かんと迫るが、眼窩に突き刺したままのロッドをつっかえ棒にしてなんとか堪える。

このまま押し合いへし合いしている訳にもいかない。新手が直ぐ傍まで迫っていた。

冴子は咄嗟にロッドを手放し、最小限の動作でかつ最大限の力で踏み込む。

 

「はぁっ!」

 

中国武術に於いては震脚、日本武道に於いては踏鳴と呼ばれる強力な踏み込み動作から放たれたのは、背面による激烈な体当たり、鉄山靠だった。

体重が軽く、筋力の低い冴子でも正しく技が発揮されれば、下手な大男を吹き飛ばすのも容易いーー鉄山靠によって、組み合っていた亡者はロッドが眼窩に刺さったまま大きく体勢を崩して吹き飛ばされた。

更にバックステップで距離を空け、次の脅威を索敵する。もはや冴子に武器はなく、あるのは父より教えられた徒手空拳のみである。

力任せの素人相手ならば素手でも遅れをとることは無い冴子だが、今は相手が悪過ぎる。素手でゾンビを容易く破壊する人間など現実には数えるほどもいないだろう。

状況はもはや絶望的であり、先程までの昂揚感が信じられなかった。

下腹部に力を込め、淀みない動作で呼吸に集中するーー空手の息吹に代表される丹田呼吸により、肉体と精神の緊張を和らげ、少しでも体勢を立て直す。

 雲霞の如く押し寄せる亡者を一体ずつ捌いていくのは、まさに薄氷を渡るが如くだ。

徒手空拳で戦いを余儀なくされるのは想像を絶した死闘であり、一挙一動のミスすら許されない。

横合いから掴みかかってきたのは、咄嗟にその突き出された腕を掴み、巧みな体裁きと体重移動による合気で投げ飛ばし、倒れた所を空かさず全体重をかけた踏みつけにより脊椎を踏み砕く。

 次は前方ばかりか左右からも襲いかかり、無理と判断した冴子は最も迫っていた一体の胸を軽く小突いて大勢を崩れさせ、離脱の暇を少しでも稼ぐ。

 だがそうやって討ち取りが可能となるような目標を選んで戦っていても、数を頼みに群がる亡者にとっては焼け石に水であり、瞬く間に後退を余儀なくされる。

 とうとう、未だに彫像のように固まっている清田を背後にして追い詰められてしまったーーだが、諦めずに死ぬ冴子ではない。

肩で息をしながら、冴子は酸素濃度の低下した頭で必死に考え、咄嗟に清田の傍に駆け寄った。

銃火器の素人である自分にでも何か使える武器はないかと、彫像のように座り込む清田の身体を躊躇なくまさぐった。

清田が身体の前に下げている小銃や散弾銃を彼から奪い、更に新たな弾薬を装填している暇はない。太腿のレッグホルスターに収まっている拳銃はどうだろうかーー幸い、脱落防止用のランヤードの長さに余裕はある。

冴子は膝立ちの姿勢で慣れない拳銃を両手で構え、安全装置を解除し、トリチウムサイトで狙いを付ける。〈奴ら〉の揺れる頭部に狙いを定めるのは意外と難しかったが、冴子は構わず引き金を引いた。

刹那、手の中で拳銃が生き物のように暴れ、危うく取り落としそうになった。

勿論、銃弾は何も掠る事無く、中空に消えた。気を持ち直し、再度射撃するが、結果は同じだった。

もはや素人の冴子が拳銃を手にしたところで状況が好転する筈もなく、時間稼ぎ程度にすらならない。

半ばヤケクソ気味に引き金を引き続け、あっと言う間に弾倉を撃ち尽くすと命中弾こそあれ、一体すら仕留めるには至らなかった。

自分の絶望的な射撃センスを嘆く暇はなく、次なる武器を清田から物色すると、タクティカルベストの胸ポケットから丸い金属製の物体が出てきたーーそれが映画などで見る手榴弾であるのは冴子にも分かった。

自衛隊が採用している手榴弾は米軍のM26手榴弾にジャングルクリップを追加したM61手榴弾だが、特戦は直ぐ起爆できるよう予めクリップを外していた。

よって映画での見よう見まねで冴子は安全ピンを外すだけで済み、間近に迫った先頭集団の足元に向けて放り投げた。

手榴弾の行く末を見届ける事なく、冴子は清田の頭を胸に掻き抱き、押し倒した。

直後、間近で爆音が轟き、熱い爆風が叩きつけられるのを感じるよりも早く、冴子の身体は枯れ葉のように吹き飛ばされた。

吹き飛ばされた勢いはそのままに、冴子の華奢な身体は何度かバウンドしながら固いアスファルト上を転がったーー全身を強かに打ち、余りの激痛に呼吸さえ忘れた。

至近での爆発により耳鳴りがする。頭も打った為か、意識は朦朧とし、四肢に力が入らない。冴子はなんとか歯を食い縛って腕に力を込め、うつ伏せから上半身を少しだけ起こす事が出来た。

霞む視界に映るのは爆煙にけぶる惨状であり、金属と火薬と腐肉の焼ける不快な臭いが鼻を衝いたーー手榴弾を放り投げた集団はあらかた吹き飛ばされていたが、後続は爆発を意に介する事無く、のろのろとこちらに向かってくる。

清田は冴子が押し倒した所に身体を投げ出したままだった。彼が生きているのか死んでいるのか分からないが、もうこうなってしまっては二人とも駄目だろうか…

気力が削がれていた。肉体に負った痛みが回復して立ち上がれるようになる前に、亡者の餌食だ。

冴子は痛む身体に鞭を打ち、清田の傍まで這っていったーーどうせ死ぬなら二人一緒がいい、などという軟弱な考えからではない。

厳格な父に徹頭徹尾叩き込まれた、毒島家の女としての生き方が、心身ともに疲弊している冴子を突き動かしていた。

清田はまだ手榴弾を持っているだろうか。まだあるのであれば、ありったけ投擲し、更に時間を稼ぎ、トランシーバーで耕太達に救援を求めるしか生き延びる方法は無い。

既に車両で待機する耕太達は動き始めているかもしれないが、今はとにかく戦い続けなければいけない。

身体の至る所に打撲や擦過傷、更には手榴弾の破片を幾らか受けた血塗れのぼろ布の如く、散々な状態で冴子はアスファルトに爪を立てて這い進んだ。

漸く清田の傍に辿り着いた頃には、冴子は疲弊の極みにあり、全てを投げ出してしまいたかった。

最後の気力を振り絞って、清田の胸の上に崩れ落ちたーー装備で嵩張る彼の胸が、この場にあっては驚くほど穏やかに上下していた。

冴子は、清田に再び立ち上がって欲しかった。あんなにも体験を共有し、死線を潜り抜け、特別な絆で繋がったのにーー感傷に浸りながら、指先をタクティカルベストのポーチに滑り込ませた。

だが、冴子が新たな武器を手にする必要はなかった。

タクティカルグローブに包まれたゴツい手が、彼女の手首を掴んでいた。




いよいよ高城邸に到着するかも?
次回も清田と地獄に付き合って貰う。

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