学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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#1st day③

 階段を上って現われたのは二人の女性だった。

 一人は手に血塗れの木刀を携えた、墨を流したかのように流麗な黒髪を持つ女子生徒で、凛とした雰囲気を漂わせていた。

 もう一人は白いブラウスに黒いタイトスカートといった格好の、教師らしき大人の女性だ。

 この惨状にあっても女子生徒は冷静そのもので、教師らしき女性を先導している様子だ。その手に握る、血や肉片の付着した木刀を見れば、それ一本でこの修羅場を潜り抜けてきたのが容易に想像出来た。

 息切れ一つしていない女子生徒とは対照的に、教師らしき女性は既に息も絶え絶えの様子だ。しかし、それも仕方が無い事かもしれない。

 服の上からでも分かるほど豊満な乳房に肉付きの良い充実した腰回りは、確かに運動には向かないだろう。

 制服姿の女子生徒はすらりと背が高く、運動力もありそうな健康的な肢体だ。平均的な女子高生以上の体力がありそうだった。

 清田はタイミングを見計らって柱の陰からゆっくりと、相手にわざと視認させるようにして現われた。

 二人は、清田の姿を一目見るなり、硬直した。それもそうだろう。まるで戦争映画から抜け出して来たかのような重武装・重装備の男が突然物陰から現われて驚かない人間がいる筈が無い。

 一瞬にして空気が張り詰めた。

 

「誰だ!?」

 

 しかし女子生徒は直ぐに硬直から立ち直り、今までの感染者と全く毛色の異なる存在である清田に対し、毅然とした態度で誰何を行うと同時に、油断無く木刀を中段に構え、その切っ先を彼に擬していた。教師らしき女性は慌てて女子生徒の背後に隠れた。

 心身を健全に鍛え上げる為の競技としての武道ではなく、相手の息の根を容赦なく止める為の武道に慣れ親しんでいる清田だが、その無駄のない動作を見ればある程度の技量は推し量れる。

 あの少女は、その外見と年齢以上の戦闘能力を充分に有していると見做すべきだろう。近接距離での白兵戦ならば、例え清田といえども不覚を取るかもしれない。真の達人というものは、体格や膂力などに頼らずとも殺傷に到る充分な技を身につけている者を指す。

 特殊作戦群で冷酷無比な零距離格闘術を教えている、あるインストラクターは、見た目は華奢で小柄な中年男性だが、黒縁眼鏡の奥の瞳は尋常ならざる凄みを帯びており、それが彼の壮絶な経験を十二分に物語っていた。あの格闘徽章を持つ白石でさえ、その彼には頭が上がらない。

 清田はその少女の瞳にあの達人の深淵を覗き込んだものを見出だし、その末恐ろしさに思わず背筋が震えた。この少女は一体全体何をやったんだ?

 

「自衛隊です。救助に来ました」

 

 清田は落ち着いた声音と手振りで、相手を諭すように言った。

 手は小銃から離し、スリングベルトで身体の前に吊り下げている。

 本来ならばこの時、清田は小銃の狙いを向けたままでいるべきだが、人質救出作戦の要領をそのまま実行すれば相手がどんな行動に出るか分からない。ましてや相手はまだ子供なのだ。実弾を装填した銃を向けられた事など一度もない筈だし、そんなものを向けられた時の精神的なショックは計り知れない。

 尤も、木刀で感染者を藁のように撲殺してきたと思われる少女が、銃を向けられたぐらいで怯むとは到底思えないが。

 

「…そのようですね。すみません、取り乱して」

 

 女子生徒は木刀の切っ先を下ろすと清田に対して深々と一礼し、己の所作を謝罪した。その一つ一つの動作は日本舞踊のように美しく洗練されており、熟練した武道者特有の普段から自己を律した生活から来るものだというのが見て取れた。

 そして恐るべき事に、この異常な状況下でも冷静な判断力を失っていない。普通であれば、この地獄に自衛隊員が助けに来た事実を、夢か現の出来事に捉えて当惑した表情を浮かべるものなのだが。

 やはり、〝普通の女子高生〟と見做すべきではないだろう。

 

「いや、こんな有様では仕方が無いでしょう。取り敢えず移動しながらお話を」

 

 清田は先程、女子生徒が張り上げた誰何の声に感染者が集まってくる前に移動を促した。二人は素直に指示に従い、清田の後を付いてきた。

 

「救助に来たというのは?」

 

 清田に前方を任せてはいるが、女子生徒は木刀を手に油断無く周囲を警戒しながら訊ねた。

 

「管理棟の屋上にヘリが待機しています。既に何名か収容していますが、時間はあまり残されていません」

 

 正直、清田は焦りを感じ始めていた。

 白石と逸れ、本来の任務の完遂どころか、一体どれだけの生存者を救えるのかも分からない。未だに、目標である高城沙耶との接触すらままならないのだ。

 清田としては、高城沙耶の生存確認もそうだが、先ずはこの二人の安全を最優先にするべきだろうと考えていた。

 当初、この二人を屋上まで連れていき、分隊と合流し態勢を立て直してから再度捜索に取り掛かる方が良いだろう。お荷物を抱えたままでは自由に動ける筈がない。

 経路としては、感染者の多い教室棟の階段を上るのではなく、連絡橋を渡って感染者の少ない管理棟の階段を上って屋上へ到達するというのを考えていた。

 連絡橋を渡り切り、管理棟に差し掛かったその時だ。

 

「ひゃんっ」

 

 素っ頓狂な声を上げて、一行の最後尾を進む女性が派手に転んだ。

 

「やーん! なんなのよもー!」

 

 転んだ際に打ち付けた腰を擦りながら、女性は尻をぺたんと地面に着いたまま零した。女子生徒はそんな女性の様子に呆れたのか、溜息を吐いていた。

 

「走るには向かないファッションだからだ」

 

 清田が駆け寄って助け起こすよりも早く、女子生徒は女性の前にしゃがみ込み、手を伸ばすとあっという間にそのぴっちりとした黒いタイトスカートのスリットを大胆に引き裂いた。

 女性が小さく悲鳴を上げるが、小さかったスリットが今では身に着けている紫色の下着が見えるほどに広がっていた。

 清田は、思わず目に飛び込んできた女性の色っぽい下着に顔を赤らめ、彼女が転んだ事で生じた隙に襲い掛かってくる感染者がいないか周辺を警戒する振りをした。

 しかし、脅威は見当たらず、頭頂部を搗ち割られた男性教師の死体が転がっているだけだった。

 

「あーっ! これプラダなのにぃー!!」

 

 女性は下着が見えるほど破かれた事よりも、先ずブランド物のスカートが破かれた事に対して抗議していた。

 この生死の掛かった非常時にそんな詰まらない事を気にする余裕があるという事は、少なくともこの女性はそれほど精神的に追い詰められている訳ではないな、と周囲に銃口を向けながら清田は冷静に分析していた。女性も女子生徒と同様に、意外と落ち着いているのだろう。

 

「ブランドと命……どちらが大切だ?」

 

「〜〜〜っ、両方っ!!」

 

 女子生徒の呆れた様子の物言いに対し、女性はむきになっていた。

 一体、どちらが大人で子供なのだろうか―清田は背後の遣り取りに辟易すると同時に、美人の下着を見れた事を心の片隅ではちょっとばかり幸運に思っていた。

 

「時間が余り無いという事を忘れないで下さい」

 

 清田はまだ何か言い足りない様子の女性をさっさと助け起こし、移動を再開しようとした。それと同時に、ヘッドセットから須崎の声が聞こえてきた。

 

<タケ、タケ。こちらザキ。送れ>

 

「こちらタケ」

 

<ロックと一緒ではないのか?>

 

 どうやら白石は生存者達を連れて無事に屋上に辿り着き、先行していた須崎と合流したようだ。そこで漸く、清田がいない事に気が付いたのだ。

 まさか、空薬莢を踏んで階段を踏み外したとは予想だにしていなかったに違いない。てっきり、最後尾をついて来るものとばかり思っていたのだろう。

 手短に、清田はこれまでの経緯を説明した。

 

<…燃料が残り少ない。弾薬も大分消耗した。これ以上は持ち堪えられない。目標の捜索を打ち切る。送れ>

 

「タケ、了。確保した二名と共に屋上へ向かう。おわり」

 

 いよいよ、目標の確保を諦めるしかないようだ。清田は直ぐに管理棟の屋上へと続く階段へ向きを変えた。

 

「これから屋上へ向かいます。自分の前に出ないようにして下さい」

 

 二人は無言で頷いた。二人とも表情にこそ出しはしなかったが、少しだけ安堵しているように見えた。しかし、まだ安心するには早いという事も分かっているのだろう。

 小銃を据銃し直し、管理棟の階段へと向かおうとする。が、別の方向から聞き慣れた乾いた音にはっと身構えた。

 あの乾いた音は銃声だろうか。いや、学校にそんなものがある筈が無い。しかし、誰かが何かしている、と考えてしかるべきだろう。

 それが生存者か、それともそれ以外の何かであるのかは分からないが。

 

「職員室の方みたいね……生存者かしら?」

 

 最後尾を進む女性が、一行が抱いた懸念を口にする。

 

「そうだとしたら…助けにいかなければなりませんね。よろしいですか?」

 

 清田は一応、二人に了解を得る事にした。他の生存者を助けに行って窮地に陥る可能性もある。そうなった際の覚悟を決めて貰うのと、後で泣き言を言われては堪らないという考えからだ。

 

「私は構いません。助けられるのであれば一人でも多く助けましょう」

 

「でも、危なくなったら逃げましょうね」

 

 二人の賛同の言葉を得て、清田は銃声らしき音の聞こえた方向へ進む。二人の言葉は素直に心から出たものなのか、それとも銃火器で武装している自衛官にこの場の主導権があるからこそ出た言葉なのかは分からなかった。

 願わくは前者であって欲しいと清田は思った。

 こういう状況になってしまったからこそ、独りよがりになるべきではないのだ。そうすれば、自己の生存を優先するのは生物としては正しいかもしれないが、人間としては疑問を投げ掛けたくなる。

 清田はより一層警戒を強めた。生存者が抵抗する騒ぎを聞きつけて、感染者が集まってくるからだ。

 現に、清田達一行のずっと後方を感染者がのろのろと追いかけてていた。数はそれほど集まってはいないが、何れは廊下を埋め尽くす勢いで膨れ上がるかもしれない。

 

「きゃあああああああっ!!!」

 

 女子生徒のものと思しき悲鳴が職員室の方から聞こえてきた。

 自然と清田は進む速度を上げ、遂には走り出していた。

 ずしりと重い小銃を抱え、重装備を身に纏っていながらも清田はものともせずに軽やかな身のこなしで疾駆した。彼に追随できるのは女子生徒ぐらいなもので、女性は二人に引き離されないように息を切らして追いかけるのが精一杯だった。

 廊下の角を曲がった所で清田はその光景を目の当たりにした。

 廊下に犇く感染者の群れ。そしてそれらに対して必死に抗う二名の生徒。

 一人は眼鏡を掛けた小太りの男子生徒で、片膝立ち―自衛隊風に言うならば膝撃ちの姿勢―で手には銃らしきものを構え、それを感染者に向けて発砲していた。

 もう一人は女子生徒で、間近に迫った感染者に対して腰を抜かしたのか、床に尻をぺたんと着いて必死になって後退っていた。

 

 ―高城沙耶か!―

 

 その女子生徒の姿を一目見るなり、清田の脳裏に、網膜に焼き付けた写真の少女の姿が鮮やかに浮かび上がり、現実の彼女と二重写しになった。

 清田の身体は脳が命じるよりも早く、行動していた。それは最早肉体自身に刻まれた直接的な反応だった。

 殆ど条件反射的に据銃し、サイト内に高城沙耶に迫った感染者の頭部を捉え、レチクル(照準十字線)が重なると同時に引き金は優しく、朝霜が降りるが如く柔らかく引いた。

 清田は重装備で走っても息切れ一つ起こしておらず、且つその精神も平静そのものであり、小銃を構えても決してその狙いはぶれてはいなかった。

 音速を超えるライフル弾で感染者の頭部の爆ぜる様子がサイトを通して鮮明に見て取れた。

 それはほんの一瞬の出来事だったが、清田は腰の回転だけで瞬時に方向転換し、すぐ次の目標に照準を合わせて必殺の一撃を見舞っていた。

 清田以外の人間からすれば、何が起こっているのか全く解らなかっただろう。 それは機械の様な正確さと速度で行われた精緻を極めた射撃だった。

 だが、確実に引き金は五回引き絞られており、放たれた五発の5.56mm完全被甲弾(フルメタルジャケット)は寸分の狂いも無く、感染者の頭部―解剖学的に人間を確実な死に至らしめる、両目と鼻の線を結んで出来る〝死のT字〟―を貫き、音速を優に超える速度とそれに伴う衝撃で爆裂させていた。

 硝煙を燻らせる五個の空薬莢がほぼ同時に金属音を響かせて床に転がった。

 そして数瞬遅れて、本当の意味での死を迎えた感染者達の、頭部を失った身体が糸の切れた操り人形の様に次々と頽れていく。湿った砂袋が叩き付けられるような重い音が響き渡った。

 清田は職員室へと続く廊下に他の感染者の姿が無い事を確認すると、そこで漸く安堵の息を吐いた。

 感染者を排除し終えてから僅かに遅れて女子生徒が到着したが、床に転がる頭部の爆ぜた五体の屍を一瞥し、自分が手に携えている木刀の出番が無い事を察した。更に遅れて女性も到着した。

 

「私の出番はないという訳か…まぁ、それはそれで何よりだ」

 

「ちょ…二人…と……も…走るの、はや、過ぎ…特に……自衛隊の……なんで……そ、んな…格好…で……」

 

 女子生徒は軽く呼吸が乱れている程度だが、女性は手に膝を付いて身体を折り曲げて荒い息を整えるので精一杯の様子だった。

 走るには向かないファッションと、そして走るには向かない肉付きの良い艶かしい姿態であれば仕方が無いのかもしれない。日頃から運動をせず、それも社会人ともなれば体力の低下は学生時代に比べれば激しいものがあるだろう。

 

「自衛隊です。救助に来ました。安心して下さい」

 

 小銃を下ろし、スリングベルトで身体の前に吊り下げると清田は歩み寄り、力無く床に座り込んだままの高城沙耶の前に屈み込んだ。

 沙耶は清田が先程撃ち倒した感染者の脳漿と肉片に塗れた顔で呆然と虚空を見つめていた。清田が視界に入っても一切の反応を示す事は無かった。

 余りにも多くの凄惨な光景を目の当たりにして、まだ十代半ばの少女の精神が耐え切れる筈が無かった。

 ほんの数秒前までは歩く死体に貪り食われる寸前だったのだ。沙耶は精神の崩壊を防ぐ為、本能的に精神と肉体を現実から切り離したのだろう。

 不意に難燃繊維のフェイスマスク越しにアンモニア臭が鼻を衝いた。

 沙耶の顔から目を下方に転じると、彼女がぺたんと座り込んだ場所を中心に透明な液体が輪となってさあっと広がっていった。

 清田がそうしようと考えるよりも早く、床に着いていた片膝に液体の輪が触れた。濡れてしまっては仕方がないし、何よりも避けようとするのは失礼な行為に思え、清田は敢えてそのままにする事にした。

 防弾レガースが沙耶の失禁で湿る。

 恐怖のあまり自律神経の平衡が失われ、結果として膀胱の収縮を引き起こしての失禁は訓練された兵士にもある。ましてや何の訓練も受けた事がなく、生命の危機を強く感じた事のない十代の少女ともなれば尚更だ。

 如何したものかと清田が考えあぐねていると、女子生徒が傍に立ち、彼の肩に手を置いて、自分に任せて欲しい、と目で合図した。清田は黙って頷くと場所を変わった。

 

「もう大丈夫だ……安心していい。何も怖いものなんてないよ。誰も君を傷つけたりなんかしないよ」

 

 女子生徒は沙耶の震える細い肩に手を置き、優しく微笑んで見せた。清田には、その微笑みは不思議と人を落ち着ける魅力があるように思えた。

 同時に、歩く人喰い死体が徘徊するこの状況下で、そのように〝安らかに微笑む事の出来る〟彼女は普通の女子高生ではないという確信に至った。武芸者としての厳しい鍛錬だけで、年端もいかぬ少女を老成させるとは到底思えない。

 人間の根幹を揺るがすほどの強烈な体験をしなければそうはならないものだからだ。彼女は、過去に悍ましい何かに遭遇したのだろう。それが何であるのかは想像がつかないが、人間のどす黒い内面に関連しているに違いない。

 肉体的、精神的に何度も追い込まれた経験のある清田だが、人間の剥き出しとなった邪悪な一面にはまだ遭遇した事はないし、自身が発揮した事もない。それは死と隣り合わせの訓練でも体験する事の出来るものではないだろう。

 それが功を奏したのだろうか。今まで無反応だった沙耶の瞳に生気が宿ったかと思うと、次の瞬間にはぽろぽろと大粒の涙が零れ出していた。

 

「う、ううっ…ああ、ああああ……うわぁぁぁーん」

 

 やがて沙耶は女子生徒に縋り付いて泣きじゃくり始めた。まるで幼子のように胸に顔を埋めて泣きべそをかく沙耶を、女子生徒はその頭を撫ぜ、背中をぽんぽんと優しく叩いて宥め賺した。

 暫くの間、沙耶が落ち着くまでは女子生徒に任せた方が良さそうだ。

 清田はそう判断すると他の生存者に声を掛けて回った。

 

「そこの君、大丈夫かい?」

 

 沙耶を女子生徒に任せ、清田は眼鏡を掛けた小太りの男子生徒に声を掛けた。

 手に持っている銃らしきものはどうやらガス圧式の釘打ち機のようで、照準をつけ易くする為のストック代わりの木製の定規がガムテープで固定されていた。

 釘打ち機は普通、密着させた状態でなければ釘を打ち出させないように安全装置がついているものだが、彼はそれに細工を施して飛び道具として使用しているのだろう。

 一見した所、外傷も無く、精神状態もそれほど悪そうには見えなかった。

 

「は、はい。僕は何ともありません」

 

「そうか。それなら良かった。何かあれば遠慮なく言ってくれ」

 

 次は未だに荒い呼吸を整え続けている女性の傍に寄った。

 

「大丈夫ですか?」

 

 今では女性はその場にしゃがみ込み、非常に具合が悪そうだ。顔色も優れない。

 清田も傍に屈み込み、様子を窺った。

 

「いえ…あの……息、切…れ………ですから……そんなに……気に………」

 

 長い髪が汗でぺたりと張り付いた顔を上げて女性は清田を見遣った。

 白い頬がほんのりと朱に上気した様と荒い呼吸、そして仄かに香る女特有の甘い体臭に、清田は場違いな興奮を覚え、思わず目を逸らした。

 フェイスマスクとタクティカルゴーグルを身に付けていて良かった、と思った。恐らく、今の自分は顔を真っ赤にしているに違いないから。

 同時に、この非常時に何を悠長な事を考えているんだ、と自身を戒めずにはいられなかった。

 

「…よろしければこれを」

 

 清田は弾帯に括り付けている、四発の四〇mmグレネード弾を携行可能なようにデザインされている、SOE社製のキャンティーン・カバーから2クォートの水筒を取り出し、蓋を開けて女性に差し出した。

 

「あ…すみません……」

 

 女性は息も絶え絶えのまま礼を述べ、受け取った水筒に口を付けて喉を潤した。

 あまりにも辛そうな様子なので、清田は背中を摩ってあげようかと思ったが、じんわりと汗によって湿り気を帯びたその薄い背にはブラジャーのラインがくっきりと浮かび上がっており、流石に躊躇われた。

 清田は警戒する振りをして、生存者達から少し離れてから咽頭マイクのスイッチを押し、なるべく聞こえないように小さな声で吹き込んだ。

 少しばかり声音が興奮していたが、それは不可能と思われた目標との接触が達成出来たからだろう。

 

「ザキ、ザキ。こちらタケ。目標の高城沙耶と接触、確保した。これから大至急屋上へ向かう。まだ燃料と弾薬に余裕はあるか? 送れ」

 

 しかし暫く待っても応答はなかった。清田は不意に胸中に芽生えた不安に苛まれた。

 

「ザキ、応答せよ。聞こえているなら応答せよ。送れ」

 

 清田は語気を強めて再度応答を求めた。それはほんの数秒という短い時間だったかもしれないが、清田にとっては針の筵の上で永遠の時を過ごしているかのように居心地が悪かった。

 あのタフで狂った野郎どもがたかが動きの鈍い死体なんかに食われる筈がない、と思いたかった。

 

<タケ、タケ。こちらザキ。感染者の大群と交戦中の為、交信出来なかった。感染者は更に増えつつある。燃料も弾薬も底を尽きかけている。こちらからの迎えは寄越せない。送れ>

 

 清田の心配は杞憂に終わったが、骨伝導ヘッドフォン越しに怒号と爆発音が聞こえ、どうやら向こうは余り喜ばしい状況という訳ではなさそうだった。

 手が離せないほど忙しいという事は、管理棟の屋上に殺到している感染者の数は恐ろしい数という事になる。つまり、屋上のヘリを目指して進めば、それは自ら進んで感染者の餌になりにいくという事を意味していた。

 清田は、振り返って生存者達の様子を確かめた。

 女子生徒はまだ泣きじゃくっている沙耶を宥めすかしており、女性は漸く呼吸が落ち着いた様子だが疲れきっていて、男子生徒は無線でやり取りをする清田に不安げな視線を投げ掛けていた。

 清田一人ならばまだ何とかなるかもしれないが、この陣容で感染者の群れを強引に突破しようというのは無謀以外の何ものでもなかった。確実に何名かが犠牲になるのは避けられない。

 それが、今回の救出目標である高城沙耶となる可能性は充分にある。救助すべき対象をむざむざ危険に晒すべきではないだろう。

 

「こちらからも無理だと思われる。四名の生存者を単独でのエスコートは不可能。送れ」

 

 その後は暫く沈黙が続いた。このまま確保した生存者をヘリで後送して撤退するか、それとも救助班の何名かで感染者の犇めく校内を強行突破するか。現場指揮官である須崎は、恐らく剣崎に指示を仰いでいるのだろう。実行部隊にはかなりの裁量権を与えられているとはいえ、政治のトップクラスからのオーダーともなればやはり後方で控える群長自身の考えを聞かなければならない。

 ややあって、須崎から返答があった。

 

<タケ、タケ。こちらザキ。我々は撤退する>

 

 予想していた通りの答えだった。だが、このまますんなりと従う訳にもいかない。

 

「再ピックアップは不可能なのか? 送れ」

 

 たとえどんな命令であろうと遂行する覚悟と能力を備えているという自信が清田にはあり、またそれを誇りとしていた。ただ、疑問に答えてもらいたいだけだ。

 一旦、ヘリは救助班と生存者達を安全地帯まで運び、そこで給油と補給を済ませて迎えに来てくれるのかどうか、そうすれば校内の何処かに身を隠して少し留まるだけで済む。

 

<燃料の補給が難しいらしい。LST(Landing ship,Tank:戦車揚陸艦。ここではおおすみ型輸送艦の事を指す)の航空燃料が底を尽く寸前だ。燃料の確保が出来ない限り、再度ヘリを迎えに寄越す事は出来ない>

 

「どれくらいで確保できる?」

 

<現在、補給艦が佐世保を出港した。数日中に邂逅すると予測されるが、状況が状況だけに断言は出来ない>

 

 本来であれば、急遽この事態に対処する為に編成された統合任務部隊(タスクフォース)の作戦遂行能力を最大限に発揮する為に必要不可欠な兵站は確保されていて然るべきなのだが、過去に幾度も発生した自然災害と異なり、今回の“歩く人食い死体”による社会秩序の混乱及び甚大な被害は全く以って別次元の問題である。

 各駐屯地、各基地も被害を受けており、統合任務部隊の活動は最初から円滑というのは望むべくもなく、必要最低限の編成で可及的速やかな対応を余儀なくされていた。その為に安定した兵站の確保は後回しにされ、統合任務部隊には初動分の物資しか手元になかった。

 海上自衛隊佐世保基地に停泊する、第一海上補給隊の補給艦が統合任務部隊への同行が遅れたのはこういった事情からだった。そもそも、米軍と違い、自衛隊にはこのように初動対処能力と兵站に大きな問題を抱えており、依然として続く低迷した景気の煽りを受けて予算は年々縮小され、必要な装備や物資が各部隊に行き渡らないという深刻な状況はいつまでたっても改善される見通しが立たないのが現状だ。

 2011年の東北の大地震の際、派遣現部隊は兵站が確保されるまでかんぱんのみで過ごさなければいけない日々もあった。 これで何処か安全な場所に篭城し、補給を済ませた突入班の救助を待つという選択肢は消えた。

 回収が一体何時になるのかも分からないのでは、安全な場所に篭城したとしても限界があり、またそこが本当に安全であるかどうかも確証が持てないだろう。

 数日か、それとも数週間か。長期間に渡って篭城するには相応の物資が必要不可欠だ。学校が避難所に指定されていたとしてもその殆どが名ばかりで、この藤美学園もその一つである。

 ここに充分な物資の備蓄があるとは思えないし、また、感染者の溢れ返る校内を探すとなると現実的ではない。

 

<タケに付与する以後の命令については、救助者の人命、特に高城沙耶の生存を最優先とする。新たなLZ(Landing Zone:着陸地点)は新床第三小学校。五日後の一七○○までに到着せよ。以上で了解か? 送れ>

 

 清田は軽く深呼吸してから、短く応答した。

 

「タケ、了」

 

<……清田、絶対に死ぬな。生きて帰って来い。終わり>

 

 たったそれだけの短いやり取りだったが、それで充分だった。

 清田は直ぐに思考を切り替えた。

 取り敢えず、これからの行動を出会った生存者達に話すべきだろう。この地獄に助けに来た自衛隊員から脱出が不可能である旨を伝えられた生存者達の士気が如何なるのかが予想出来ない清田ではない。

 伝えるのは気が重かったが、それでも自分がやらねばならぬ事である。それに先送りしても仕方が無い。

 清田は一行の元に戻り、先程の内容を伝えた。

 

「計画が変更されました。ヘリでの脱出は困難と判断され、別の方法での脱出を模索します」

 

 生存者達の反応は様々だったが、如何いう事なのか説明を求めようと清田に食って掛かる者がいないのが幸いだった。概ね、落ち着いた様子なのが遣りやすかった。

 それとも、最初からこの地獄から簡単に生還できるという甘い考えを持っていなかっただけなのかもしれないし、清田の今の言葉で諦めただけなのかもしれない。

 

「取り敢えずそこの職員室で休憩しましょう。何名かは息を整える必要があるようですし…ついでに今後の事について話します」

 

 清田は小銃から拳銃に持ち替え、サプレッサーを銃口にねじ込んでから職員室の引き戸を音を立てないように開き、足を踏み入れた。

 拳銃に切り替えた理由は、扉を開ける際に片手で小銃を保持しなければならず、そのような状態では満足に狙いを付ける事も出来ないからだ。拳銃ならば取り回しやすく、小銃よりも素早い照準が出来る。何より、軽量な拳銃ならばクリアリングをする際に疲労が少ないという利点もあった。

 拳銃の照星、照門には放射性物質のトリチウムが埋め込まれており、暗所では微量に発光する。照準をつける際、この白い点を横に三つ並べれば済むので、非常に便利だった。握把(グリップ)を握るとスイッチが作動し、銃身下部に装着されたフラッシュライトが点灯した。

 柱の陰、ロッカーの中、机の下を一つずつ慎重にクリアリングしていく。職員室は雑然と散らかっており、血溜まりや血痕がそこいらにあるのが見て取れた。

 いずれもその痕跡はまだ生々しく、この惨劇が発生してから数時間しか経過していない事実を改めて思い知らされた。感染した教師や学園職員の姿が無いのは、生者の血肉を求めて外に出ていった為だろう。

 血溜まりを踏まないように気を付けながら通路を歩き、最後となる机の下を覗き込もうとする。机上札には“林京子”と書かれていた。 その机を覗き込んだ瞬間、清田は身を強ばらせた。握把を握る手には力が込められ、あわや指先は引き金を引き落とす寸前だった。

 机の下には女性が隠れていた。

 服装からするに、この学園の教師だろう。抱えた膝に顔を埋め、ガタガタと震えている。

 清田は一息置いてから拳銃を床に置き、震える女性の肩にそっと手を触れた。その瞬間、女性の身体がびくりと殊更に大きく震えた。

 

「安心してください。自分は人間です」

 

 精一杯、穏やかな声を掛ける。清田自身も、生存者の接し方には慎重になっていた。

 女性は恐る恐る、顔を上げ、清田を見た。

 年齢は清田よりも十歳ほど上だろうか。三十代と思われるが肌の色艶の良い女性だ。少し険のある顔立ちの美女だが、今はその美貌は恐怖と不安に苛まれており、濡れた瞳が清田を力無く見詰める。

「立てますか?」

 

 女性はこくりと頷いた。清田はしゃがんだまま少し後ろに下がり、彼女が机の下から這い出るスペースを空けてやった。

 もそもそと女性は机の下から這い出た。清田は手を差し出し、彼女が立ち上がるのを助けてやろうとする。

 差し出された清田の、タクティカルグローブに包まれたごつい手を握る彼女のたおやかな手は震えていた。清田は力を入れすぎないように彼女の手を包み込むように握り、もう片方の手はその細い肩に添え、一緒に立ち上がった。

 

「あっ…」

 

 立ち上がる際、女性はバランスを崩し、清田の胸にもたれ掛かった。

 咄嗟に清田は彼女を受け止めた。刹那、ふわりと甘い香りがフェイスマスク越しに鼻腔を擽る。

 それは香水とは違う。何処か懐かしい、甘くて心の安らぐ匂いだ。脳裏に、子供の頃に母に負ぶわれた記憶が蘇る。母の白い項から香る、甘くしっとりした芳香に似ていた。

 不覚にも清田は、この女性の良い匂いを思い切り胸一杯嗅ぎたいと思ってしまった。戦闘によるストレスで神経が、無意識のうちに安らぎを求めているのだろうか。

 

 ―俺はなにを馬鹿な事を考えているんだ―

 

 そんな変態的な欲望が芽生えた事に対して不甲斐なさと腹立たしさを覚え、清田は胸中で己を叱咤した。

 

「あの…大丈夫ですか?」

 

 自分の胸に顔を埋める女性に声を掛けるが何ら反応はない。応える代わりに、彼女は清田の腰に細腕を絡め回し、より強く密着してきた。

 清田はその行動に鼓動が跳ね上がるのを感じた。おいおいちょっと待ってくれ―彼女の突拍子もない行動に戸惑い、反面、こんな年上の美人から抱擁されるのも悪くはないと思ってしまった。

 しかし、何時までもそうしている訳にはいかない。恐らくこの女性は、他の生存者と遭遇して安堵の余りこのような行動にでたのだろう。

 

「取り敢えず、何処か怪我はありませんか?」

 

 名残惜しいが、清田は乱暴にならないように絡みついた女性の手を優しく解き、両肩に手を添えて身体を離した。

 

「あっ…はい、大丈夫………です」

 

 自分よりもずっと背の高い清田の顔を見上げた彼女は、漸く正気に戻り、ぽそぽそと小声で答えた。

 着ぐるみのように装備で着膨れした清田の厳つい姿に、多少たじろいでいる様子だった。

 

「見ての通り、自分は自衛官です。安心してください」

 

 女性の様子を確認してから、清田は床に置いていた拳銃を拾い上げ、銃口からサプレッサーを外してレッグホルスターに収めた。

 

「此処にはあなた一人だけですか?」

 

 清田は職員室内をほぼ調べ終わっていたが、念の為に訊ねた。

「はい。私が此処へ逃げてきた時には、もう誰もいませんでした…」

 

 女性は俯き、力無く答えた。生存者の例に漏れず、相当の惨劇を目の当たりにしたのだろう。心身ともに疲れ切っている。

 

「わかりました」

 

 清田はもう一度、危険がない事を確認してから生存者達を招き入れた。

 

「林先生! 無事だったんですか!?」

 

 職員室に入り、女性の姿を一目見るなり、小太りな男子生徒が驚きを露わにした声で言った。

 

「まぁ、平野君、貴男こそ」

 

 女性は、教師として長年身についた習慣故か、生徒の前では指導者らしくあろうと悄然としていた状態から少し持ち直した振る舞いを見せた。

 

「毒島さんに高城さん、それに鞠川先生も」

 

 男子生徒に続いて入ってきた他の生存者の顔を認めるなり、清田以外の、それも顔見知りの生徒や同僚と再会したからか、幾らか落ち着いた様子だ。 生存者達が互いの無事を喜び合うのを横目に、清田は全員が職員室に入ったのを確認してから戸の鍵を閉めた。

 不意に爆音が鳴り響き、職員室の窓ガラスが震えた。窓ガラス越しに空を仰ぎ見れば、二機のヘリコプターが飛来した時と同様の飛行経路を通って遠ざかっていく。

 あのヘリの中では、生き延びた数少ない生存者達が地獄からの生還に安堵しているのだろう。

 あのヘリの中にいる生存者達と自分達とでは何が違い、何に差があったのだろうか。

 それは考えたところで答えが出るものではないし、仮に導き出されたとしても自分達が脱出できなかったという事実に変わりはない。

 あの機体を見送る生存者達の心境は如何程のものだろうか。

 全員が全員、あのヘリに乗ってこの地獄から脱出したかった筈だ。それは清田とて同じだったが、今更過ぎ去った事をとやかく言っても事態が好転する訳ではないのは誰もが承知していた。 生存者達は、ヘリが見えなくなるまでその姿を目で追っていた。

 


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