学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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#1st day④

「こんなものでいいだろう。ありがとう。助かったよ」

 

「いえ、お役に立てて良かったです」

 

 清田は男子生徒と協力して、職員室にあった机やダンボールなどの雑多なものを戸口の前に積み重ね、即席のバリケードをこしらえていた。

 これで感染者達が押し寄せてもある程度の時間は稼げるだろう。清田はそれらを一度、纏めて吹き飛ばせる程の武器と爆薬も携行している。悪あがき程度ならば充分に可能だ。

 生存者達は概ね落ち着いている様子で、給湯室の冷蔵庫に入っていた飲料を飲んだり、乱れた呼吸を整えていたりと、各人が思い思いに過ごしている。

 沙耶はひとしきり泣いた後、漸く平静を取り戻したらしく、職員室に併設されている給湯室で浴びた返り血や肉片を洗い落としていた。女子生徒は涼しげな顔で椅子に腰掛け、寛いでいる。女性はこの中で最も疲弊しているらしく、自分の教員机に突っ伏したままぐったりとしていた。教諭らしき女性は、自分の机で呆けたように頬杖をついていた。

 清田も少しだけ疲労を感じていた。肉体的よりも精神的なものによるのが大きかった。

 五人の民間人を、誰の助けも無しに安全地帯まで連れていかなければならないのだ。

 流石にこれからの事を考えると疲れを覚えずにはいられないが、下手に顔に出す訳にはいかない。救助すべき対象の前で、救助に来た自衛隊員がそんな顔をすれば余計な不安を与えるだけだ。

 何事にも動じない、糞度胸を備えた鋼鐵の兵士を演じなければならないのだ。

 清田はフェイスマスクを僅かにずらして口元を少しだけ露出させると、水筒に口を付けた。

 口を付けた途端に清田はその水筒が先程、女性に渡したものである事を思い出し、急に恥ずかしさが込み上げて来た。

 思わず、女性の様子を見遣る。彼女は突っ伏したままで清田には気が付いてはいなかったが、彼の脳裏には先程の情景が生々しく否応もなしに再生されていた。

 自分が今、手にしている水筒の口を、あの女性の、瑞々しくぽってりとした魅力的な唇が触れていた。

 飲み口の縁を注意深く観察すると、無味乾燥な暗緑色のプラスチックに薄っすらと口紅が付着していた。清田が口を付けた時、水の量は大分減っていたから、あの女性は貪る様に飲んだのだろう。

 水にはあの女性の唾液が多く含まれている。意識していなかったとはいえ、清田は女性の〝体液〟を水と一緒に飲んでいた。

 だからだろうか。代わり映えのしない水道水が、妙に甘美な飲み物のように感じられたのは。

 他人の粘膜からの分泌物を自身の身体に取り込むという行為は、少なからぬ性的な妄想を惹起させるには充分だった。

 それも、あれ程の美人ともなれば殊更に妄想を掻き立てられるのも仕方がない。清田は健全な青年なのだから。

 女性は、大柄な清田からすれば一回りも小柄だが、女としては充分に背が高く、恐らく一七〇半ばほどもあるだろう。

 しかし、ただ背が高いばかりではない。大人の女として充分に成熟しており、たっぷりとした乳房に充実した腰周りと豊艶な肉付きをしている。

 柔和な顔立ちの美人で、穏やかな雰囲気を漂わせているのも彼女の魅力の一つだろう。先程、彼女の体臭を嗅いだ際に消毒液の微かな匂いも嗅ぎ取れたので、この学園の保険医なのかもしれない。

 優しそうな容姿の美人で、肉体的に充分に成熟し、尚且つ学校の保険の先生という三つの要素に清田は強く心を動かされるものがあった。

 自衛官は、看護士や保育士といった職業に従事する女性と結婚する傾向が高い。

 両者に共通するのは職場に同性ばかりという事もあり、異性との出会いが少ないので自然と出会いを求めて、既知のつてを頼っての合コンが開かれたりする事が多く、更に自衛隊では未婚の曹を主な対象とした〝ふれあいパーティー〟なる、約二五万人もの人員を擁する日本最大の組織力を背景に開催される所謂お見合いパーティーがあり、独身隊員はここで将来の伴侶を見付ける事が多い。

 また、それらの職業に従事する女性のイメージに、包容力があり、命を扱う仕事である以上しっかりとしている、というのがあり、自ずと演習などで家を留守にする事の多い自衛官は、安心して家庭を任せられる女性に惹かれるのだろう。

 或いは、有事の際には戦場に赴く兵士という職業柄なのか、癒しを与える存在を無意識のうちに求めているのだろうか。

 彼女ほどの容姿の持ち主を、世の中の男は黙って放って置く道理がない。

 引く手数多な彼女は、今までの人生で恋人に不自由した事が無いのだろう。それもやはり、彼女の魅力に見合う男達が、熱烈にアタックしていたのだろう。

 一体、今まで何人の男と寝てきたのだろうか。そして彼女は、その男達とどのようにしてベッドの上で乱れるのだろうか。

 母性的ですらあるあの優しい目が淫靡に輝き、男を悦ばす為だけに口は食物以外のものを咥え、豊艶な肉付きの姿態で奉仕し、綺麗な指先が無骨な身体の上を妖しく這い回る様子を思い浮かべ、清田は場違いな興奮を覚えると同時に、そんな自分がとてつもなく恥知らずな人間に思えた。

 糞。こんな時に俺は何を考えているんだ。そんな事を考えている余裕がお前にあるのか清田武―己を激しく罵ると同時に、そのような妄想に耽る事が出来るのであれば、今の自分はそれほど切羽詰まってはおらず、余裕があると見做すべきだろうか。

 余裕がなくなると、くだらない妄想を抱く事すら出来ないものだ。思考に余裕があれば、それだけミスを犯す確率も減る。

 それが済むとフェイスマスクを直ぐに戻し、心の隅ではその水が金と同価値であるように想いながら、水筒の口を閉めてケースに乱暴に突っ込むと、改めて生存者達一人一人の様子を見て回って声を掛けていった。

 

「大丈夫かい?」

 

 最初に、床に腰を下ろして手にした武器―ガス圧式の釘打ち機―の簡単な点検と手入れを行っている小肥りの男子生徒に声を掛けた。

 

「は、はい」

 

 男子生徒は清田に声を掛けられると驚いた様子で顔を上げ、戸惑いの表情を浮かべていた。

 男子生徒と目線を合わせる為に清田は片膝を付いた。足に装着した防弾レガースが硬質な音を立てる。タクティカルゴーグルを鉄帽の前額部まで上げた。

 

「何処か怪我はしていないかい? 何かあれば遠慮なく言ってくれ」

 

「僕は何ともありませんけど…その、高城さんが……」

 

「高城さん?」

 

 男子生徒は給湯室の方を心配そうに見遣った。

 清田は高城沙耶の事を知ってはいたが、当然の如く敢えて知らない振りをした。

 

「ツインテールの女の子です。何時もは強気なんですけど……さっきみたいに泣いているのなんて初めて見ました。何とも無ければいいんですが」

 

 驚いた事に、彼はこの状況下で自分よりも他人である高城沙耶を心配していた。

 そう言えば、この男子生徒は、バリケードの構築を手伝って貰う前に給湯室にいる沙耶の様子を見に行って、彼女に何やら当たり散らされていた。

 その頼りない外見とは裏腹に、このような非常時に他者を気遣える優しさを備えているとは存外に人間が出来ているらしい。

 清田は彼が少しばかり頼もしく思えた。

 

「こんな時に他人を心配するなんてそうそう出来る事じゃない。君は凄いな」

 

 清田は拳を握り、男子生徒の胸を軽く叩いた。

 

「いや、別に僕は…」

 

「謙遜しなくてもいい。これから暫くは行動を伴にするんだ。俺の名前は…田中だ。どうか俺を助けてくれよ」

 

 心苦しさを覚えつつも、清田は本名を名乗る事はしなかった。

 彼は右手のタクティカルグローブを外すと、その手を男子生徒に差し出した。

 

「平野耕太です。宜しくお願いします」

 

 耕太が怖ず怖ずと清田の手を握ると、少し強めにそのぷくぷくと肉付きの良い手を握り締めた。

 耕太は痛みに顔をしかめたが、負けじと清田のごつい手を握り返した。

 

「いい返事だ。男だったら女を守らなくちゃいけないからな」

 

 出会ったばかりで間もなく、素性も世代も異なるとはいえ、清田は耕太との間に確かな信頼を感じた。

 

「宜しく頼むよ」

 

 清田は立ち上がり、次は給湯室にいる沙耶の様子を見に行った。

 

「調子はどうかな?」

 

 給湯室の出入り口を潜りながらそう声を掛けた清田だったが、直ぐに彼は石像のように固まってしまった。

 先ず最初に目に飛び込んできたのは、真っ白なヒップから脚にかけての流麗なラインだった。

 白桃を彷彿とさせる小振りなヒップは十代の健康的な少女らしく、染みや弛みとは一切無縁で、張りがあって瑞々しい。

 小鹿のようにすらりと伸びた脚は、清田の鍛え上腕と同じぐらいの太さしかなかった。

 沙耶は、先程の自身の失禁の後始末をする為に、スカートとショーツを脱ぎ、下半身に何も身に付けていない状態で、給湯室の流し台に向かってそれらを洗っていた。

 彼女も、清田と同様に微動だにせず、厳つい闖入者を凝視していた。

 

「……」

 

 先に動いたのは清田だった。

 男を魅了して止まない、女子高生の剥き出しの白いヒップから視線をそっと外し、そのまま、まるで凶暴な獣を刺激しないように細心の注意を払いながら、そろりそろりと後ずさった。

 

「……最低っ! この変態! 変態! 変態!」

 

 だが、直後、沙耶は火が着いたかのように激昂し、声を張り上げて清田に罵声を浴びせ、顔を羞恥に染めながら思わず手にしていた自身のショーツを握り締めて彼に投げつけていた。

 清田の視界が、白一色で覆い隠される。

 丸まったまま投げ付けたショーツは、放物線を描いて丁度彼の顔に直撃し、その視界の殆どを隠すように被さっていた。清田は、頭に布を被せられた犬のように、そのままじっとしていた。

 顔に被さっているショーツは、今時の女子高生らしく、シンプルな意匠ながらも自身のスタイルをより良く見せたい為か股上の浅いスキャンティーで、手触りの良い高級そうな生地のものだった。

 湿り気を帯びた生地からは水の匂い以外に、微かなアンモニア臭とその他の排泄物の臭いが嗅ぎ取れ、そういった趣味の人間には堪らないアイテムかもしれないが、清田は思わず他人の排泄物の残滓の臭気にえずきそうになるのを堪えると同時に、どんな美少女の下着でも臭いものは臭いものなのかと少しばかり驚愕した。

 美少女も、出すものは出すという訳だ。

 ショーツを投げつけてから沙耶は、はっと冷静になって気が付いた。清田が硬直している理由が、自身の下着の発する臭気にある事を察し、己の迂闊さと、他人には知られたくはない個人的な実情を暴露してしまった恥ずかしさに、更に顔を赤く染めた。

 そして、今の自分が下半身に何も身につけていない事実を今更のように思い出し、慌てて上着の裾を引っ張って前を隠そうとしたが、清田の完全に隠れていない視界には、沙耶の萌え始めた下腹部の草原がちらりと映った。

 

「か、返しなさいよっ! この変態!」

 

 腰が引けたまま沙耶はそう言った。

 確かに、下着を投げつけるきっかけを作ったのは清田だが、実際にそうしたのは自分自身であり、彼が彼女の手から奪った訳ではないのでいまいち説得力に欠けた。

 今の彼女には学園史上類を見ない才媛と謳われた面影はなかった。

 目尻に涙を浮かべ、必死になって前を隠そうと上着の裾を引っ張りながら縮こまる沙耶は、追い詰められた小動物のようにしか見えなかった。

 清田は、顔に覆い被さっている沙耶の下着を指で摘んで引き剥がすと、彼女を見ないように視線を背けながらずいっと一歩前に出て、その手を差し出した。

 沙耶は清田の手から自身が投げ付けたショーツを引ったくるように奪うと、急いでスカートと共に身に付けた。

 濡れた衣服が肌に触れる感触は不快だが、何時までも下半身を外気に晒している方がよほど不快で心許ない。無論、沙耶が衣服を身につける間、清田は彼女を視界に入れないように背を向けていた。

 本来ならばこの時、清田は気を利かせて給湯室から出ていくべきであったが、当初の目的は沙耶の様子を確認する事であり、それを果たさずに出ていったのであれば覗きにきたとしか思われても仕方がない。

「何処か怪我や、具合が悪いというのはあるかな?」

 

 訓練などの小休止の際に健康状態を具に把握するのはもはや習慣と化していた。

 我慢する事も時には大事だが、体調が優れないのに無理して訓練をしても普段通りの効果は得られないし、事故を起こしてしまっては元も子もない。

 それに、指揮下の隊員の状況を把握するというのは非常に重要であり、これを疎かにする者は何処の国の軍隊でもいないだろう。

 この事はそっくりそのまま今のこの状況にも当て嵌まる。

 今は、生存者達の状態をよく把握しなければその後の行動に支障をきたす恐れがある。

 仮に誰かが足を怪我しているのであれば、自ずと集団の移動速度は低下する。

 それを事前に把握していれば対策や意識をする事が出来、全く知らないというよりも行動は円滑に行えるだろう。

 知っていると知らないのとでは大きな差があるのだ。

 そういう事を踏まえて清田は沙耶にそう窺ったのだが、彼女は黙したままだった。

 やはり、早々と退散するべきだったか。

 これぐらいの年頃の女の子は、自分の父親ですらに嫌悪感を抱くものである。それが、見ず知らずの男に自分の裸の下半身を見られて平気な筈がない。

 怒りよりも羞恥でどうしていいか解らなくなっているのだろうか。

 尤も、今時の大多数の女子高生は早熟でませていて、何人もの男との性交渉を持っているというのも珍しくはない。

 そういった手合いならばそれほど羞恥を抱く事も無かっただろうが、沙耶に限って性に対して堕落した少女という訳ではないだろう。

 あの苛烈な両親の血を引き、それ相応の教育を受けている彼女がそんな好奇心からのセックスなど自ら進んでやる筈がない。

 自身の価値を承知しているからこそ、自身を安売りする真似など絶対に有り得ない。恐らく、今時にしては珍しい、貞淑な美少女というのが、清田の沙耶に対する見解であった。

 長々と清田は思索に耽っていたが、結果として導き出されたのは、やはり沙耶も恥ずかしいので、早く目の前から消えて欲しいと思っているが、言葉に出せずにいるだけなのだろう。

 こんな簡単な事を察してやれない自分の朴念仁振りに清田を辟易としつつ、給湯室を後にしようとした。

 しかし、一歩を踏み出した所で、清田の足は止まった。

 不意に右腕を掴まれ、僅かにくいっと後方に引っ張られる。

 ゆっくりと肩越しに振り返ると、沙耶が俯きながら、防弾素材のアームガードに覆われた清田の右腕を掴んでいた。

 これはいよいよ怒らせてしまったのか、と清田は内心では身構えた。

 沙耶の気性はお世辞にも穏やかとは言い難い、というのは何となくだが察しがついている。

 元々、良家のお嬢様なのだ。一般的な庶民よりも自尊心は高く、我も強いだろう。家柄に見合う為にはそれ相応の人格を身につけなければならないのだ。

 

「……とう」

 

 小さく、ぽつり、と沙耶の口から言葉が漏れた。

 声量が小さく、不明瞭であった為、何を伝えたいのか解らなかった。

 沙耶が怖ず怖ずと見上げると、清田は小首を傾げ、何を伝えたいのか理解しかねる、という感情を瞳に表していたので、意を決して再び口を開いた。

 

「助けてくれて、ありがとうって言ってるのよ…あと、私の名前は高城沙耶」

 

 それだけ言うと、沙耶は耳まで赤くして目を伏せてしまった。

 今の彼女は、コンタクトレンズではなく、シンプルで洗練されたデザインの眼鏡を掛けていた。

 人によってはきつい印象を与えるアーモンド形のぱっちりとした釣り目が、オーバル型の眼鏡フレームの御蔭か、幾分和らいだものに感じられた。

 先程とは打って変わって、今の沙耶は随分としおらしく、そして可憐(いじら)しかった。

 これが、この少女の本当の姿なのかもしれないな、と清田は思った。

 データでしか知らないが、高城沙耶という少女が背負うものは余りにも大きすぎるのかもしれない。

 偉大な両親を誇りに思うからこそ、それに見合う娘として振る舞わなければならず、相応の能力と人格を身につけようとがむしゃらで、それが知らず知らずの内に尊大な態度となって顕れているのだろう。

 父親が右翼団体の首領ともなれば周囲からは畏怖の入り混じった目で見られるものだろうから、それに屈さない強力な防壁を自分で築き上げねばならなかったに違いない。

 人を寄せつけなくなってしまったのには、それなりの理由があったという訳だ。

 先程の沙耶は全身の毛を逆立たせて威嚇する猫のようだったが、今は頭を垂れる従順な子犬のようだった。

 清田はそんな沙耶を微笑ましく思った。

 

「いや、それが俺の務めだからね。気にしないで。それと俺のことは田中と呼んでくれ。今後ともよろしく」

 

 控え目に言った言葉だが、我ながら臭い台詞だな、と清田は思った。

 

「何処か具合が悪い、怪我等があれば遠慮なくいって欲しい。応急処置程度ならば出来るから」

 

 沙耶はこくりと頷いた。

 取り敢えず、今の彼女は落ち着いているから、それほど心配しなくても良さそうだ。

 他の生存者の様子を見に行こうとした清田だったが、沙耶は依然として彼の腕を掴んだまま離そうとはしなかった。

 どうしたものかと沙耶を見遣ったが、彼女は暫く黙って清田の腕を掴んでいた。

 ややあって、顔を上げ、清田の目を真正面から見据えた。

 その瞳には、先程の弱々しい少女のものではなく、明確な強い意志の輝きが見て取れた。

 

「聞きたい事があるんだけど、ちょっといいかしら?」

 

「…答えられる範囲であれば構わないよ」

 

 嫌だとは言わせない、という強固な意志を言外に滲ませた沙耶の声音に、清田は内心で身構え、彼女のあまりの変貌ぶりに困惑していた。

 

「分かったわ。じゃあ、ちょっとこっちに来て」

 

 沙耶に手を引かれるまま、清田は給湯室の奥まった所まで連れてこられた。

 こういう場所に引き込んでの話というからには、他人には聞かれたくない内容なのだろうか。沙耶は彼の手を離すと、真正面から向き直った。

 

「あんたの素性と、目的と、<奴ら>についてよ」

 

「…<奴ら>?」

 

 素性と目的を聞かれ、一瞬表情が険しくなりそうな清田だったが、何とか表には出さず、話を若干逸らす為に最後の質問だけをおうむ返しに言った。

 清田は察した。

 沙耶が他人に話を聞かれたくないのではなく、わざわざ自分に配慮してくれたのだ。

 仮に清田が自身に纏わる事を白状したとしても、それは二人だけの秘密に留めておくという意志の表明なのだろう。

 だが、迂闊に口を滑らす清田ではない。常日頃から機密情報に接する機会の多い特殊部隊の兵士が、己の秘密を軽々と口にするようでは務まらない。

 

「歩く人喰い死体の事よ。映画やゲームじゃあるまいし、ゾンビと呼ぶ訳にもいかないでしょ。あんたは自衛隊員なんだから、私達一般市民よりは何か知っているんでしょ?」

 

 正直、生ける亡者に関して現段階では何も分かっていない。

 判明しているのは、彼等に噛まれれば必ず死亡し、やがて同じ血肉を求めてさまよう獰猛な化け物となるぐらいだ。完全にその行動を停止させるには頭部の破壊及び首の切断、肉体を行動不能になるまで損壊させるしかない。

 つまり、清田も沙耶と同じで大した知識は持ち合わせていなかった。

 

「現段階では感染者…いや、<奴ら>に関しては何も分かってはいない。分かっているのは、まぁ、噛まれると同じようになるという事ぐらいかな。あと、感染者と呼んでいるのもあくまでその病理現象が感染症のようであるからであって、この症状を発現させる細菌やウィルスが具体的に発見された訳ではない」

 

「つまり<奴ら>に関して知っている事は、あんたも私達も大差がないってことね。ま、いいわ。<奴ら>の発生の原因を知ったところで私達にはどうする事も出来ないし…それで最初の質問に戻るけど、あんたの素性と目的を教えなさいよ」

 

 先程の可憐しい少女の面影は消え失せ、今の沙耶は射るような厳しい眼差しで清田を睨みつけていた。

 フェイスマスクに隠された清田の表情は少しも窺い知れない。

 唯一露出しているその瞳にすら、爬虫類のように何の感情も浮かんではいなかった。

 沙耶にはそれが気に食わなかった。

 幼少の頃から、屋敷に出入りする両親の部下などの身の回りにいる大人は自分に傅き、類い稀なる才媛故に同世代は言うに及ばず、教師からも一目置かれていた。

 決して自惚れている訳ではないが、沙耶は自身を客観的に評価した上で根拠のある傲慢さを誇示していた。

 自慢の両親とその娘である自分は生まれながらの才能に恵まれ、またそれを伸ばす為の努力も怠ってはいない。

 私は凄い。

 私は偉い。

 自慢じゃないが、それが純然たる事実なのだ―なのに目の前の男は、これっぽっちも自分の事を歯牙に掛けてすらいないのだ。

 沙耶にとっては面白い筈がない。

 自身の能力に纏わる事に関して清田は知りようがないのでそれは譲ったとしても、この美少女といっても差し支えない容貌にこれといった興味を示さないのが、沙耶の女としての自尊心に傷を付けられたというのもあった。

 見るからに堅物な兵士、というのは分かるが、こんなに美少女な女子高生を見て、目尻の一つも垂らさないのはどういう事か。

 おまけに、失禁する姿を見られ、尚且つその後始末の現場まで見られている。他の異性である耕太にもそれは失禁は目撃されているのだが、沙耶にとって彼は男としてカウントされていないので論外だった。

 確かに、彼は命の恩人だが、だからといってその行為が気分を害さないという訳でもない。

 それとこれは全くの別問題だった。

 沙耶は些か自分自身が感情的になっているのを、己の冷静な部分で自覚していたが、心の一部分が理性の制御から外れていた。

 理由などどうでも良かった。

 泰然としている目の前の男の、多少なりとも狼狽した姿を見たいという嗜虐心が鎌首を擡げていた。

 ジョン・ウェインに代表される、銃を身に帯びた姿こそが男らしいという欧米的な男根主義思想の実体であるかのような清田を、言葉で虐めてみたかったのだ。

 沙耶自身も気付かぬ内に、その深層心理では、目の前に現れた、この場にあっては市民を守るのを当然の義務とする自衛官である清田に鬱憤のはけ口を求めてしまっていた。

 普段の彼女からすれば、他人に当たり散らすという行為は唾棄すべきものだが、やはりこの生死の掛かった極限状況下では無意識の内にそういった対象を求めてしまったのだろう。

 どういった形であれ、人は何よりも自身の平穏を優先する。

 幼稚なストレスの矛先を向ける適当な相手がいれば多少なりとも安らかになれるものだ。

 

「…俺は自衛官だ。ここには生存者の救出に」

 

「それが嘘だっていう事が分からないほどこっちは馬鹿じゃないわよ」

 

 氷のように冷たい声音で、淡々と沙耶は遮るように言った。

 先程まで従順な子犬のようだった少女の口から発せられた言葉とは到底思えなかった。

 

「平野…あのデブチンが言ってたわ。あんたが百歩譲って自衛官だとしても、恐らく、普通の自衛官じゃないって。あんたのその過剰な装備が何よりの証明じゃないの? 確か、あんたの部隊は、特殊作戦群っていう極秘の秘密部隊なんでしょ」

 

 あくまで沙耶は淡々としていたが、その胸中は鼠を遊び殺す猫そのものだった。

 追及して下さいと言わんばかりに様々な材料をぶら下げている清田は幾らでも料理の仕方がある。

 先程、自分の様子を見に来た耕太から齎された情報と推測は、彼のその膨大且つ深遠な軍事知識に基づいているだけあって無駄なく合理的なものであり、軍事に疎い沙耶ですら納得のいくものであった。

 想定していた事態が生起した、と清田は冷静に受け止めていた。

 過剰ともいえる重武装と重装備で全身を固めた清田の物々しい姿が与える印象は、確かに素人にも彼が一目でただ者ではないという事が解るだろう。

 自身の正体が露見するという可能性が全くのゼロだとは思っていなかったが、まさか、たかが高校生にその正体がばれるとは思ってもみなかったし、同時に己の今後を危ぶんだ。

 見えないテロやゲリラとの戦いでは、正体が明らかになったらその時点で戦わずして勝負は決している。

 相手を先に探知した方が圧倒的に優位に立つのは常識だ。

 テロリストやゲリラを、隙あらば寝首を掻いてでも容赦なく殺す特殊部隊の兵士は、その存在自体が彼等にとっては天敵である。エリートフォースの男達は、絶えず不穏分子を監視し、追跡し、不正規戦を仕掛けるテロリストを、不正規戦によって制するのだ。

 故に彼らがテロリストのブラックリストに載るのは避けられない。

 彼ら自身は元より、その家族や親交のある者にすらテロリスト達は容赦しない。少しでも報復できるのであれば、一般市民を巻き込むのも辞さない、だから彼らはテロリズムに走るのだ。

 そういった事態を避ける為に、特殊作戦に携わる男達はその存在を必要以上に秘匿する。

 それらが彼らを銃弾以外から身を守る唯一の手段だからだ。

 たとえ話したとしてもそういった可能性が全くの皆無であろうと、自身の正体についてべらべらと喋る奴はいない。そういった者は高い秘匿性を求められる特殊作戦では使い物にならないと見做されるからだ。

 故に清田は先程、耕太に名前を偽って告げていた。

 高校生に正体を言い当てあられるようでは、いざ対テロ作戦に従事する際に自分は使い物にならないのでは、と清田は思わずにはいられなかった。

 

「何処も彼処も<奴ら>だらけで、この学校と同じような状況となっている場所は幾つもあるのに、敢えて此処にやってきたのにはそれなりの理由があって然るべき。ただの人命救助だなんて嘘っぱちでしょ」

 

 この状況と、特殊部隊の性質を知っていれば、自ずと答えは導き出される。

 但しそれには、耕太のような軍事オタクがこの場にいてこそだろう。そして彼は清田の正体に感づいていたとしてもわざわざそれについて言及しなかっただろう。

 特殊部隊の男達が最も嫌っている事が、自身の正体が露顕するという事を知らぬ筈がない。

 どうしても清田にはそれが理解出来なかった。耕太はそれを承知している筈なのに、わざわざ沙耶にその事を話した。

 今は余計な疑念を抱かせるべきではない。それが団結を阻害する可能性が十分にあるというのにだ。

 ただ単に、耕太の考えがそれほど回らなかっただけなのだろうか。所詮は高校生という訳か。誰かに自分の推論を話したかったに違いない。

 いよいよ清田は居心地が悪くなってきた。

 このような思いは、特殊作戦群の選考検査の最終試験である口頭試問以来だった。

 清田はその試験に於いて、剣崎群長を始めとした本部幕僚達が勢揃いした目の前で罵倒され、精神的に痛め付けられた。自分がこれまでこなしてきた全てを否定され、究極の自己否定の波が押し寄せる中で、それをまた自ら口にする事を要求された。

 今の状況はまさにそれだった。

 決して公にしてはならない己の存在を、自ら口にする事を要求されている。口が裂けてもそんな事は言えない。言ってしまえば、今まで積み重ねてきた全てを、自分から殴り捨てるようなものなのだ。

 それは、特殊作戦群の一員となる為に人生を彩る多くものと決別してきた自分を裏切る行為であり、清田の魂は血の叫びを上げて拒否している。

 そもそも、女子高生に自白を強要されているという状況には軽い眩暈を覚えずにはいられなかった。

 何処の世界に、女子高生に詰問される特殊部隊の兵士がいるのだ。そのような兵士は、恐らく、自分が世界で初めてだろう。

 そもそも、文字通り小便臭い餓鬼の戯言なぞに生真面目に付き合う必要はない。

 適当にはぐらかせばそれで済む筈なのに、清田は上手いカバーストーリーが思い付かなかった。

 理由は解らなかった。

 この少女に見詰められると、何故か洗いざらい吐き出してしまいたい衝動に駆られ、胸に得体の知れない甘い疼きを覚えるのだ。

 俺は、マゾだとでもいうのか―苦痛に親しんできたからこそ、清田はある意味では真性のマゾヒストと言えなくもなかった。

 己の命を投げ出すのも辞さない覚悟を求められるエスの一員は、どんな無理難題な命令にも従い、その遂行を求められている。

 苦痛と困難を〝愛している〟からこそ出来る芸当である。特殊部隊の兵士は、皆自覚がないだけのマゾヒストであり、命令され支配される喜びを無意識の内に感じているのだ。

 一回りも年下の美少女に問い詰められているという、倒錯的ですらあるこの状況に、本人の心が与り知らぬ所で少なからぬ興奮を覚えていたのだ。

 

「さて、反論の余地があるのならばどうぞ御自由に…まぁ、あんたの口から何も言える訳がないわよね」

 

 しかし、この問題はあっさりと沙耶が引き下がる事で決着した。

 厳しい顔から一転して、彼女は表情を和らげ、肩を竦めて見せた。

 

「平野から色々聞いたけど、そういった部隊の兵士は自分の事や部隊の事なんて決して明かす事は出来ないものなんでしょ? 端からあんたの口から語られるだなんて期待してないわよ。私も意地悪くあんたに言ったけど、無理に言う必要はないわ。今、大切なのはあんたの素性や目的よりも、協力して脱出する事だもの。但し…」

 

 不意を突いて伸ばされた沙耶の手が襟を搦め捕り、体重を掛けて体勢を崩されが、清田はすんでのところで堪え、若干前のめりになった。

 真正面から沙耶に眼を覗き込まれていた。

 触れそうになるほど間近に迫った沙耶の、凄みを帯びた瞳に、思わず気圧される。

 

「根っからあんたを信頼している訳じゃないからね。それを、忘れないで」

 

 沙耶の慎ましやかな口許から、一言一言が囁かれる度に彼女の吐息がフェイスマスク越しに感じられた。

 甘い痺れにも似た悪寒が背筋を走り、腰骨の辺りがざわついた。

 清田は自分の心のその反応が信じられなかった。

 十代半ばの、それも一回り以上も小柄な少女に、凄まれて〝喜んでいる〟なんて!

 

「これで私の話はおしまい。とっとと他の人の面倒でも見てきなさいよ」

 

 沙耶は手を離し、身を引いてそう言った。

 先程の雰囲気から打って変わって、今度は何処にでもいる、普通の女子高生のものだった。

 清田は暫し、狐に摘まれたような顔で沙耶をじっと見た。

 ころころと表情と雰囲気を一変させる彼女が、いまいちよく解らなかった。

 

「…なによ。私の顔に何かついてるっていうの?」

 

 沙耶が、無言で立ち尽くす清田に怪訝そうな表情を浮かべたので、彼は慌てて給湯室から退散した。

 これ以上、豹変しやすい沙耶を刺激するのは得策とは言えない。

 やはり、彼女は精神的に不安定と見做すのが妥当だろう。一行の中では注意深く目を配ってやる必要があると胸に刻んだ。

 

「何処か、具合が悪いというのありますか?」

 

 清田は、次に職員室で保護した女性教諭の様子を窺った。

 彼女は、救助した一行の中では最年長と見られた。

 年齢は三十代前半だろうか。しかし、年齢にはそぐわない滑らかな肌と成熟した色香が組み合わさった、とても魅力的な年上の女性だ。保険医と思われる女性ほどではないが、肉付きは豊満で、ベージュのブラウスの乱れた胸元から覗くむっちりとした谷間が白く眩しい。

 険のある顔立ちは少しきつい印象を与え、先程机の下から保護した時と変わって、リムレスタイプの眼鏡を掛けており、更にそれを強めている。

 座っている机の位置からして、それなりの地位と役職にあるのだろう。だが、頬杖をついている左手の薬指には何もない。それは右手も同様だった。

 

「あっ…いえ、大丈夫です」

 

 女性は少し、心ここにあらずと行った表情で応えたが、タクティカルゴーグルの下から現れた清田の目と合うと、ほんのりと頬を赤らめた。

 

「…先程はすいませんでした。いきなり抱きついたりして…御迷惑をお掛けしました」

 

 暫し間を置いてから女性は席から立ち上がり、恥じらいながら一礼した。

 険のある美人のしおらしい姿が、思わず胸を焦がした。

 

「いえ、お気になさらないで下さい」

 

 内心では先程の出来事は満更ではなかったので、逆に清田の方が恥ずかしかった。邪な欲望を一瞬でも抱いてしまったので、彼女を正視できなかった。

 机の上に置かれたネームプレートに目を遣ってから口を開いた。

 

「林…京子さんでよろしいんですよね? 私は田中といいます。これからの道中を御一緒させて頂きますが、どうかよろしくお願いします」

 

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 恙無く自己紹介と挨拶を済ませ、次は女子生徒の様子を窺った。

 この生存者達の中で、その静謐な美貌とは裏腹に、肉体的にも精神的にも最も頑健なのは彼女であると見做して間違いないだろう。凛々しい顔立ちは涼しげで、大して疲労した様子もなく、教職員の椅子に座って清涼飲料水で喉を潤していた。

 

「何処か具合は悪くない?」

 

「いえ、私は大丈夫です。それよりも、鞠川校医の体調があまり優れないご様子ですが…」

 

 女子生徒の言葉通り、その隣で机に突っ伏している女性―机の隅にあるネームプレートには【校医:鞠川静香】と書かれていた―は、確かに、先程よりも具合が悪そうだ。

 

「君も何かあれば言ってくれ。その為に俺はいるんだからな…それと俺の事は田中と呼んでくれ」

 

 そのよう自己紹介を済ませてから清田は念を押し、静香の傍による。

 

「具合はどうですか?」

 

 そう呼びかけてみたが、先程の妄想の残り香の為か、清田は己の内面に深い羞恥を抱いた。

 思わず、顔を俯かせ、視線が足元を彷徨う。

 それが、タイトスカートが大きく破かれて露わとなった静香の白い太腿と、高級そうな紫紺のレースの下着を目にする結果となり、純朴な青年の心を責め苛んだ。

 

「…どうして、私達はヘリに乗れなかったのですか?」

 

 少しの間を置いてから、静香は、突っ伏したまま清田に尋ねた。

 心なしか、その声にはやるせなさと憤りが感じられた。

 事情を知らない彼らからすればその質問をぶつけたくなるのは当然だろう。

 清田は暫し、これから告げる内容を躊躇ったが、どの道納得しようがしなかろうが、動かぬ事実である事に変わりはない。

 

「この陣容で、感染者…ではなく、<奴ら>の集まる屋上を目指すのは危険と判断したからです。その数は膨大で、武装した一個分隊でも苦戦するほどのものでした。そこへ非武装の民間人を連れていけばどうなるか……簡単に想像はつくと思います。まぁ、何名かはこの修羅場を自力で潜り抜けられたようですが…」

 

 ちらり、と清田は女子生徒を見遣った。

 

「毒島冴子です。剣道部で主将を務めております」

 

 その視線に気付き、簡単な自己紹介をして軽く会釈をする女子生徒―冴子の、毒島という珍しい苗字に清田は思い当たる節があった。

 以前に、特殊作戦群に講演の為に招いた、海外でも高名なある剣術師範の苗字が毒島といい、その一人娘は高校生でありながらかの千葉佐那子にも勝るとも劣らぬ剣の腕前と記憶していた。

 成る程。それならばこの修羅場を木刀一本で潜り抜けられたのも納得がいく。そして同時に、世間の狭さに驚きを隠せなかった。

 

「全員が全員、毒島さんのような実力を持っている訳でもなければ、自分のように銃火器で武装している訳でもありません。そして何よりも…」

 

 沙耶のいる給湯室を見遣り、そして机に突っ伏す静香の薄い背中に告げた。

 

「先程の高城さんの精神状態と、著しく体力を消耗した鞠川先生を連れていくのは余りにも危険と判断したからです」

 

 清田の率直な物言いに静香は、突っ伏したままぴくりと身体を震わせた。

 

「…ヘリに乗れなかったのは、私と高城さんの所為なの?」

 

 腕に埋めていた顔を僅かに擡げ、静香はどんよりとした瞳で清田を見上げた。

 それは光の消え失せた、絶望に染まり諦観した眼(まなこ)だった。学園から脱出できず、更にその原因が自分にあるような事を言われ、おっとりとした人柄である静香の胸中も流石に穏やかという訳にはいかなかった。

 

「それも一つの要因である、と考えてはいますが、必ずしもそれが全てではありません。数々の要因が重なった末に、現在の状況下に置かれていると思って下さい。貴女方二人だけの所為では決してありません。自分が単独ではなく、仲間と此処に来ていれば、ヘリを目指す事も可能でした。そして…」

 

 未熟な自分ではなく、経験豊富な先輩隊員なら、もっとましな言葉をかけてやれただろう。

 清田は言葉を紡ぐ中で、ただひたすら自分の不甲斐なさを悔やんでいた。

 

「今、重要なのは、過去を悔やむよりも次に向けて思考を切り替えていく事です。その為には全員が冷静になり、落ち着いて行動しなければなりません。それが、集団の生存率を高めます」

 

 規律と統率を失った集団が、砂上の楼閣よりも崩壊しやすいのは歴史で何度も証明されている。充分に訓練された軍隊ですらそうなるのだから、素人ともなれば言わずもがなである。

 自分が先ず最初にやらなければいけないのは、化け物を吹き飛ばす事ではなく、生存者達を落ち着かせ、冷静な判断をさせられるようにする事だと清田は自覚していた。

 

「それに…自分は、貴女達を無事に安全地帯まで送り届ける為に残りました。どうか、自分を信じてください」

 

 清田は膝を着き、静香に目線を合わせてそう言った。

 その言葉に偽りはない。

 当初の目的は高城沙耶の身柄の確保であったが、可能であれば他の生存者の救出も念頭に置いて行動していた。

 今は、この五人を必ず守り抜き、無事にこの地獄から脱出させる事を固く心に誓っていた。でなければ、今まで血反吐に塗れて行ってきた訓練の全てが無駄になってしまう。

 任務の完遂は、単に己の義務を果たす為だけではなく、自分が自分である為に必要な証明に他ならなかった。

 清田の真摯な想いが通じたのか、静香は突っ伏していた机から半身を起こすと、ゆっくりと頷いた。

 今、この場で清田を責め立てても全くの無意味であり、自身の鬱憤を晴らしたとしても特に有意義な事ではない。

 それに間近で接して解ったのだが、目出し帽から僅かに露出する清田の目元が思った以上に若く、その瞳は大人しい獣のような、大きなジャーマンシェパードのような可愛さがあると感じていたので、静香は彼に当たり散らす気にもなれなかった。

 清田という男の素性は不明だが、その人となりは責任感の強い若者である事が察せられた。

 

「それで、あんたの気持ちは解ったけど、これからどうするの?勿論、何か考えがあるんでしょうね」

 

 不意に背後から掛けられた声に立ち上がって振り向くと、沙耶が腕組みをして佇んでいた。

 写真通りの強気な瞳を見て、精神状態は安定していると見做して問題ないだろう。

 

「新床第三小学校を目指します。現在、床主市全域で大規模な避難計画が立案されています。指定された避難場所からヘリで民間人を順次脱出させ、安全な地域へ空輸するというものです。その指定避難場所の一つに新床第三小学校があり、そこが此処から一番近い避難場所でもあります」

 

「それでどうやってそこまで行くつもり? 歩くのは嫌よ」

 

 歩かせるつもりなど毛頭なかった。

 清田は、冴子を除いた全員に強靭な体力など期待してはいない。

 

「車を使いたいと考えていますが…」

 

 職員室ならば、教職員の誰かしらが通勤で使う車の鍵があるだろうと考えたが、仮に鍵があったとしてもどの車のものなのかまでを判別する方法は、いちいち車に鍵を刺して確かめる以外にない事に気付き、些か現実的ではないという結論に至った。

 行き当たりばったりな自分に清田は愕然とした。

 

「車なら私のを使いましょう」

 

 静香がそう申し出た。

 その言葉に清田は幾らか救われた気持ちになった。

 

「それならば歩くよりも安全で速く移動できるものね」

 

 体調も回復し、新たな脱出の可能性がある事を清田から告げられたからか、静香は先程よりも気を取り直した様子だ。

 プラダのハンドバッグの中から鍵を探し出そうとごそごそとやりだした。

 

「ところで鞠川校医、それは全員を乗せられる車なのか?」

 

「うっ…」

 

 冴子の指摘に対し、静香はバッグを漁る手を止める事で答えた。

 静香が所有するコペンでこの人数を乗せるのは難しく、特に清田のような大柄な人物には相当窮屈だ。

 

「無理…かも」

 

「それならば部活遠征用のマイクロバスはどうだ? 壁の鍵掛けにキィがあるようだが…」

 

 冴子は職員室内を見回し、学園が所有する二台のマイクロバスのキィがまだ壁の鍵掛けにある事を確認してから、そう提案した。

 剣道部の遠征で幾度も使用した経験があったからこその閃きだった。

 

「まだ、あります」

 

 耕太が窓辺に寄り、駐車場にマイクロバスがあるのを確認した。

 

「よし。それでは、移動にはバスを使いましょう」

 

 清田は鍵掛けからマイクロバスのキィを一つ取り、キーホルダーとして付いているタグに書かれた数字を確認した。

 それはマイクロバスのナンバープレートの数字で、清田は窓辺に寄り、並んで駐車してあるバスの後部に双眼鏡を向けた。手に取ったキィは、手前に駐車してあるバスのものだった。

 

「鞠川先生、運転をお願いします。車番は42-39です」

 

「車番?」

 

「あー…車のナンバーの事です。手前に停まっている車両です」

 

 うっかり口に出してしまった自衛隊用語に静香は不思議そうな表情を浮かべたので、清田はすっかり骨の髄まで染まりきった自分に嫌気が差しつつ、彼女にキィを渡した。

 

「あの、一ついいですか?」

 

 手を挙げ、耕太が怖ず怖ずと申し出た。

 

「避難所に向かう前に、家族の無事を確かめませんか? 僕の両親は外国にいるのでその必要はありませんけど、やっぱり家族の事が気になる人もいると思うので」

 

 ちらり、と耕太は清田の顔色を窺った。

 清田はその提案を了承するべきかどうか迷った。

 耕太の、他人を気遣える優しさを無下にしたくはないが、それが全員の命を危険に晒す可能性が無いとも言い切れない。

 家族の安否を確かめようとして自分達が危機に陥っては本末転倒であり、また確認しに行っても出会えるとは限らない。

 家族は家族で別の場所に避難しているかもしれないので、この行動が全くの無駄となる恐れがあった。

 それかもしくは既に犠牲となり、歩く亡者と化して血肉を求めているのかもしれない。

 暫く考えた末に清田は、黙って頷いた。

 血も涙もない野郎と思われたくはない。それに自分の安全を優先すべきという選択も間違ってはいないが、家族を助けたいと思う人間として当たり前の感情こそ、この状況下では大切にするべきだろう。

 

「決まりのようですね。しかし私も平野君と同様にその必要はありません。家族は父一人で、今は国外の道場にいます。心配ですが確かめようがありません」

 

「私も大丈夫。もう両親はいないし、親戚も遠くだから」

 

「私もです。父と母は田舎で、長いこと一人暮らしなので…」

 

 冴子と静香、京子の申し出を受けてから、清田は沙耶に目を遣った。

 

「私の家は御別橋の向こうよ。多分、パパもママも無事だと思う。そう簡単に死ぬような人たちじゃないし」

 

 両親の事は多少なりとも心配だが、沙耶はそれほど不安に思ってはいない口ぶりで言った。

 沙耶の両親の素性については、事前に剣崎から知らされていた。

 父親はこの県の国粋右翼団体の首領、母親は若い頃からウォール街では有名なトレーダーとして活躍していたらしい。

 そんな両親を持つ沙耶の出自には驚きを通り越して何処か別世界に住まう天上人のようで、青森の片田舎で育った庶民の清田は思わず呆れてしまいそうだった。

 

「それでは、当初は高城さんの家に向かい、その後に避難所を目指すという事でよろしいですね?」

 

 清田の言葉に一同は頷いた。

 当面の計画はこれでいいだろう。具体的な目標があればそれに対して全員が一丸となって行動する事が出来る。

 危険なのは、抽象的な目標を設定する事だ。闇雲に動き回ってしまい、状況を悪化させる可能性がある。

 いつまで経っても目に見える結果が出せないと息詰まってしまい、それが士気を下げてしまう原因となる。

 

「ところで、またヘリで迎えに来て貰うっていう選択肢はないの? 無線機ぐらい持ってるでしょ」

 

 沙耶が、疑問を差し挟んだ。

 事情を知らない彼等からすれば、その方が安全だと考えるだろう。清田が先程の無線のやり取りを話すと、沙耶はそれで納得したようだ。

 

「それと蛇足ですが、自分が装備している無線機は交信距離が非常に短いものです。流石に遠方の司令部と連絡を取り合う事は出来ません」

 

 清田が左脇腹のポーチに携行している個人用無線機はあくまでも隊員間同士での交信が目的であり、遠方の司令部と交信するならば浜岡が背負っていたマンパック型のように高出力でなければならない。もしくは、米軍のように衛星電話を持っていれば良かったのだが、生憎と特殊作戦群も防衛予算縮小の煽りを受けており、なかなか便利な装備を調達できないでいた。

「へぇ…意外と役に立たないのね」

 

 それを聞いて沙耶は残念そうに呟いた。

 もしも清田ではなく、この場に通信担当の浜岡がいれば状況は少し違ったかもしれない。逐一、推移する状況を知る事が出来れば、わざわざ新床第三小学校を目指す事なく、もっと単純簡便な方法が見付かるのかもしれないが、仮定の話をしても意味がない。

 それに清田は、浜岡の大型無線機とは違い、大量の武器弾薬と爆薬を満載したデイパックを背負っていた。

 無駄撃ちをしなければ充分過ぎる量だ。そして極め付けが、パックの横に括り付けてある、長大なポーチの中に収めてあるアルミニウムとグラスファイバー製の筒だった。

 清田の装備はその気になれば戦車すらも撃破可能といっても過言ではない。

 それが二本、左側のポーチに収まっている。正直、この任務でこれは過剰な装備だと考えていたが、いざとなったらこれ以上に頼れる火力はなかった。

 

「概ね、今後の行動については纏まりましたね」

 

 清田がそう締め括ると、一行は何時でも行動できるようにと身支度を始めた。

 清田も、槓棹を引き、排莢口から弾き出された銃弾を手で受け止め、小銃から弾倉を取り外して異常の有無を確かめた。

 装填してあるCマグにはまだたっぷりと弾薬が込められている。弾き出した弾薬を込め直してから、弾倉を小銃に叩き込んだ。

 

「行動する前に何点か。先頭は自分が進みます。左側面は平野君、右側面は毒島さん。自分の後方を鞠川先生、高城さん、林先生の順番で行きます」

 

 <奴ら>を退けられる武器を持っている者が前面に出て、その後に非力な者が続くという陣形は当然だろう。

 そして、耕太に左側面の警戒を担当させたのは、清田は右利きである為、自ずと左の脅威に対して銃を向ける場合は僅かに遅れるからだ。

 実銃と比べるまでもないが、曲がりなりにも飛び道具を有している耕太ならば左から接近する脅威を比較的速やか且つ安全に排除できるだろう。

 右側面に配した冴子には、撃ち漏らした脅威を白兵戦で排除して貰う為だ。

 清田は左よりも右の脅威に対して強いので、そうなる可能性は低いが、万が一という事を考えての保険だった。

 

「あと、可能な限りエンゲージ…交戦は避けて下さい。今は、スピードが命ですから」

 

 それが済むと清田は封鎖された引き戸の前までやってきてバリケードを退かし始めた。

 生存者達も彼を手伝おうとして加わる。あっという間にバリケードは撤去され、鍵を解き、清田は音を立てないように戸をそろそろと開いた。

 廊下には<奴ら>が二体いるだけだった。

 清田は据銃し、サイトを通して狙いを定め、引き金を引いた。

 押し殺された銃声が二度響き、蹴り出された薬莢が床を跳ね転がる。肉の叩き付けられる音が職員室まで聞こえてきた。

 それが有無を言わさぬ、行動の合図だった。


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