学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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#1st day⑥

 踏み出す一歩は重く、履き慣れたタクティカルブーツが鉛のように感じられた。

 だが、疲労を顔に出したり、気取られるような事があってはならないと、清田は何度目になるかも分からない自戒を心の中で繰り返した。

 先を進む清田は、時折肩越しに振り返ってはとぼとぼと歩く静香の様子を気にかけていた。

 今の彼女は酷い有様だった。

 長い髪は千々と乱れ、服も所々が破けたり裂けたりで殆どボロ切れ同然だ。剥き出しの脚も至る所が擦り傷や打ち身だらけである。

 まるで強姦された後のようだ。

 そんな静香を気遣うように、京子が寄り添って歩く。

 彼女も静香と同様に酷い状態だが、自分がそんな状況にあっても他者を思いやる姿には頭が下がる思いだった。

 視線を空に転じれば、遥か後方に過ぎ去ったバスの残骸が噴き上げる黒煙が見えた。

 炎上したバスによって冴子らと分断されてから約二時間ほど、三人は徒歩で市街地を目指していた。

 分断された地点はまだ田園地帯の途中であり、市街地まではかなりの距離を歩かねばならなかった。

 途中、清田はヘルメットを被ったライダースーツ姿の<奴ら>が一体いたので、それに銃弾を撃ち込んで沈黙させてから周辺を探した。

 もしかしたら、乗り捨てられたバイクがあるのではないかと。

 元々、清田は第一空挺団の普通科大隊の情報小隊―偵察を主な任務とする小隊―に所属しており、偵察用オートバイの操縦に関しては自信があった。

 軽装備では勿論、動きづらい重装備を身に付けての操縦も訓練している。今のこの状態でも何ら問題はないだろう。

 しかし、清田は多くの事を見落としていたのに気が付いた。

 自身がどんな状態だろうとバイクの運転に支障はないが、他に二人の人間がいるのだ。

 二人を乗せる事は出来ないし、かといって一人だけ乗せてもう一人は置いていくなんて事が出来る筈がない。

 考えれば考えるほど、自分の考えが甘かった事に気がつかされる。

 それは先刻の学園でも味わった経験だ。

 車両を移動手段としようとするも、それの入手方法を全く考慮せず、もしも静香や冴子の機転が無ければどうなっていた事か。

 つくづく、己の考えの足りなさに絶望しそうだ。

 結果としてバイクは発見したが、それは電柱に衝突して大破しており、とてもではないが乗れそうな状態ではなかった。

 しかし、逆に清田は安堵していた。

 考えれば考えるほど危険な試みだった。

 それをどうやっても実行可能な状況でない事は、危うい選択肢を選ばなくて済むという事なのだから。

 重装備を身につけ、重い背嚢を背負っての峻厳な山道の登攀に慣れている清田には、市街地までの道程など苦にはならなかった。

 舗装されている道を歩く程度など、彼がこなしてきた訓練内容からすれば散歩にすらならない。

 しかも幸運な事に、先程のライダー姿のものに出会ったきりで、道中でほぼ<奴ら>を見かける事も無かった。

 たとえ見かけたとしても遠目から様子を窺い、静かに歩いて移動すれば気付かれる事もなかった。

 しかし、消耗している静香と京子からすればこの二時間以上の徒歩行軍は大変な労働であり、彼女達から更に気力を奪っていた。傍から見ても二人は気の毒なほど落ち込んでいる。

 

 

 静香は今の自分の状態があまりにも惨め過ぎて、出来れば泣き出したかった。

 シルクのブラウスは薄汚れ、スカートは大きく破けて腰に纏わり付くだけの布切れとなっている。

 どちらもブランド物でお気に入りだった。

 パンティも必死になって逃げる際にいつの間にか脱げ落ち、今の静香は歩くだけで大事な所が露出しそうになってしまうという有様だ。

 更に、逃げ出す際、あまりにも急だったので用を足した後の処置を行っていない。

 清田に気付かれないようにティッシュで軽く拭き取りたかったが、手に握っていた筈のそれも混乱の最中に失われていた。

 ブラウスの袖で拭き取るのも考えたが、薄汚れた布地で自身の特別にデリケートな部分を擦るのも躊躇われた。

 ボロボロの見てくれに、後始末を出来なかった為の不快感は最悪以外の何物でもない。

 しかし泣いた所で状況が好転する訳でもない。

 もう二十代後半に差し掛かり、あと数年も過ぎれば三十路の大台に乗る妙齢なのだ。

 所謂いい歳の大人が愚図るのも恥ずかしい。

 やはり、ここは我慢するしかないのだ。

 静香は力無く溜息を吐く事で堪えた。

 

 

 先頭を歩く清田は、背後から静香の溜息が聞こえる度に心が痛かった。

 何とかしてやらなければ、と清田はあれこれ考えるが、現状で大した事はしてやれない。

 殆ど代わり映えしない内容の励ましの言葉を掛けてやるしか出来ない自分に苛立った。

 同時に、残してきた他の生存者達も気掛かりで、どうする事も出来なかった自分に嫌気が差す。

 あの場は燃え盛る爆炎と<奴ら>から逃げるのが精一杯だったが、今となっては他にやりようがあったのではないかと、暫く逃げ延びた後に落ち着いた際、清田は自身を責めた。

 生徒達の学園での凄絶な生存闘争の顛末を知らぬ清田にとって、残してきた彼らの能力は未知数だが、簡単に死ぬ事はないだろうという感慨を茫洋とだが抱いていた。

 しかし、それは自身の希望的な観測に過ぎない。

 今更何を言っても意味はない。

 改めて現実を受け入れるしかない。

 彼らを、目的である高城沙耶を見捨てて逃げ出したという現実を。

 糞。思考を切り替えろ。何時までも引き擦るな―考えの纏まらない自身の鈍い脳髄を叱咤する。

 今、優先すべきは、静香と京子を連れて集合場所である床主城に向かう事だ。

 分断された彼らも、自分の言葉を信じてそこへ向かおうとしている筈だ。

 ならば、その発案者である自分がそこへ到達できないというのは本末転倒だ。

 自ら結んだ約束を破るのは格好もつかない。

 

 

 先頭を歩く清田は、時々立ち止まっては此方を振り返る。

 鉄帽、フェイスマスク、ゴーグルで顔を隠しており、表情は少しも窺い知る事は出来ない。

 巨躯に重装備を施し、ロボットのように無機質な兵士に一瞥されると、内心では少しどきりとする。

 彼は無力な自分達を全力で守ろうとしてくれてはいるが、頼もしく思う反面、日常生活では接する機会のない自衛官―それはほぼ兵士のようなものだと京子は考えている―という異質な存在を、心の何処かでは畏れていた。

 京子は元より、藤美学園の教師陣は日教組とは縁も因(ゆかり)もない。多分に偏執された政治問題を教育しようとする人間は、まずこの学園に採用されないだろう。

 京子は思想的に右翼でもなければ左翼でもない。そもそも、京子に限らず殆どの国民は政治にそれほど関心はないだろう。

 自衛隊という組織は、警察や消防以上に馴染みが無い。一般市民にとって後者二人の世話になるのは、出来ればない方がいいに決まっている。

 自衛隊についてもそれと同じだろう。

 出来れば関わる事が無いのが一番いい組織だ。

 一般市民が自衛隊に関わるという事は、大災害が発生するか、戦争が勃発するといった、起こるべきではない事態に直面するという事に他ならない。

 京子が心の何処かで、清田という存在を忌避しているのは、自衛隊という日本最大にして得体の知れない『軍事組織』に潜在的な畏れを感じていたからだろう。

 知らない、分からないというのは、即ち異質であり、それは未知への恐怖となる。

 出会ってから数時間が経過しているが、京子は清田の素顔を一目も見ていない。

 唯一目にしたのは、学園で休憩時にゴーグルを押し上げて垣間見えた目元、手袋を取った右手の素肌のみだ。

 澄んだ優しそうな目をしており、従順な大型犬のような印象を受けた。露出した素肌は、男性にしては驚くほど白いというのを覚えている。

 それ以外は、迷彩服と防弾繊維、武器弾薬類に隠されてしまっているので、いまいち人間らしさを感じなかった。

 ただ、此方がどう思おうと、彼は自らの命を省みずに自分達二人を優先するのだろうという、確信にも似た説得力を持って行動しているのは伝わった。

 それが証拠に清田は、黙々と歩き、油断なく周囲を警戒しては、此方の身を案じるように後方も確認する。

 

 

 強行軍の末、三人は市街地に到着した。

 普段ならば多くの人々が生活する息遣いを感じられる町並みはひっそりと静まり返り、ゴーストタウンさながらの様相を呈していた。

 そこかしこに人間同士か、はたまた人間と<奴ら>が争った形跡が散見され、血溜まりや血痕が見られる。

 市街地では、学園で繰り広げられていた惨劇が今も進行しているのだ。

 

「誰も……いない…」

 

 静香がぽつりと呟くと、春にしては珍しく冷たい風が閑散とした通りを吹き抜け、彼女の長い髪がたなびいた。

 思わず背筋を駆け抜ける寒気に、静香は薄着の肩を自ら掻き抱いた。

 

「逃げたか、死んだか…死んで<奴ら>になった者は生きている人間を追い掛けていったのでしょう」

 

 人気のない通りに注意の目を向けながら清田は言った。

 血溜まりの中に沈む幼稚園児の鞄と、そのすぐ傍に幼児用の小さな靴が片方だけ脱げ落ちているのを見つけ、思わず顔をしかめた。

 あの持ち主だったであろうと子供と、その親の安全を祈らずにはいられなかった。

 暫く三人は市街地をざっと探索したが、迂闊に建物や狭い路地には入り込まなかった。

 もしも狭い空間で<奴ら>に囲まれて退路を断たれでもしたら厄介だ。

 清田が重武装しているからといってその力は絶対ではないのだ。

 交戦はなるべく避け、自ら危険に飛び込む必要は無い。

 

「田中さん、あれ…交差点の右側」

 

 京子に袖を引かれ、指差された先に清田は目を遣った。

 交差点に停車するパトカーのフロント部分が確認できた。

 清田も思わず、組織は違えど国民の生命と財産を守る為に働く同志の姿を見付け、安堵に胸を撫で下ろした。

 職務質問をこの際されても仕方がないが、一応自衛官の身分証明書は携帯している。

 といっても、本物だが実際に清田自身を証明するものではない。

 公にする事の出来ない部隊に所属している以上、自衛隊の中ですら偽装した身分を与えられるのは当然だ。

「!」

 

 だが、安堵したのも束の間の出来事だった。

 三人は交差点を曲がってから絶句した。

 確かにそこにはパトカーが停まっており、運転席と助手席には警官が二名座っていた。

 しかし、パトカーの車体後部は横合いからきたであろうダンプカーによって完全に押し潰されており、二名の警察官はダッシュボードと座席の間で圧死していた。

 

「酷い…」

 

 いまだ惨たらしい末路の死体に慣れぬ静香が、口許を手で押さえながらぽつりと漏らした。

 そう簡単にこの状況は好転しないらしい。

 清田も頭を抱えたくなったが、ふと、ある事に気が付き、一か八か調べてみる事にした。

 衝突の衝撃で前席のドアは両方とも歪み、開いたままだった。

 今更、死体に手を触れるのに抵抗感が無くなっていた自分の変化を、清田は当然のように受け入れた。

 人間も死ねばただの有機質の塊に過ぎないのかもしれない。

 生き残る為であれば躊躇っても仕方がないのだ。

 静香と京子は、黙って彼の行動を見守っていた。

 清田が運転席で絶命している警察官の死体を調べると、目当てのものを所持したままだった。

 もう一人の死体も調べるが、こちらは破損していて使えそうにないが、込められていたものに異常はなさそうだ。

 それも一応、回収しておいた。

 

「役立つかどうかは分かりませんが、どちらかが持っていてください」

 

 警官の死体を調べ終えた清田は、手に入れたものを二人に差し出した。

 米国S&W社製のリヴォルバー式拳銃、M37エアウェイトだ。

 原型となったM36にアルミ合金を多用しており、大幅に軽量化されたモデルである。元々、M36は小型で携帯性に優れており、米国の一般市場では女性の護身用としても売れている。

 

「これを私達に?」

 

 京子は、清田の手で鈍い光沢を放つ、黒塗りの拳銃と彼の顔を交互に見比べた。

 明らかに困惑している様子だ。

 

「この先、何があるか分かりません。自分がもしも〝そうなった〟場合、自身の身を守れる手段を備えておいた方がいいでしょう」

 

 死ぬつもりなど毛頭なかったが、物事に絶対はない。

 <奴ら>か、それとも別の原因によって清田が命を落とす可能性は充分にある。

 そして銃器という最も手軽な方法があるのならばそれの操作方法を簡単でもいいから教えておくべきだ。

 二人は、暫しの間、差し出された拳銃をじっと見詰めていた。そして、互いに顔を見合わせると、京子が頷き、やがて覚悟を決めたのか、それを手に取った。

 

「…意外と重いんですね」

 

 初めて手にする、小さいながらも人を殺せる力を充分に秘めた道具に対する京子の呟きが漏れた。

 握把は手の小さな女性にも握りやすくデザインされており、小柄な京子でも何ら問題はなかった。

 少しの間、京子は手に感じる重みを感慨深げに眺めていたが、取り敢えずタイトスカートのウェストバンドに差し込み、流石に見せびらかすようにするのも気が引けたから、その上からブラウスの裾をたくしこんで隠した。

 そしてひんやりとした金属の感触を素肌に感じ、思わず怖気が走る。

 しかもそれが殺傷能力を備えた道具ともなれば尚更だった。

 簡単に暴発する事はないと思うが、もしもそうなった際に誤って発射された銃弾が腰椎を砕くのではないかと恐くなったが、携行するのに他に適当な箇所がない。

 警察官のホルスターを入手するというのも考えたが、死体の凝固し掛けた血液が付着している物を肌に触れさせるのは躊躇われた。

 自分ならば人並み以上にボリュームのあるバストの間に収納する事も可能だが、銃器を女性にとっての大切なシンボルに触れさせるのは以っての外だ。

 そうなるとスカートのウェストバンド以外に選択肢はない。

 ついでに手渡された五発の銃弾は、お尻の右付近にあるポケットに捩込んだ。

 

「取り敢えず、何処か休憩出来そうな場所を探しましょう。そこで拳銃の扱い方を説明しますから…あとこれは、鞠川先生が使って下さい」

 

 更に清田は伸縮式の特殊警棒を静香に渡し、彼女も警棒を京子と同様にウェストバンドに挟んで携行した。

 清田が先頭に立ち、移動を再開する。

 拳銃という簡易且つ強力な護身の手段を手に入れて、京子は少しだけ気分を持ち直していた。

 確かに、初めて手にする銃器には少なからず畏怖を覚えたが、同時に心強くもあったのは事実だ。

 <奴ら>と遭遇しても、京子が手に入れた小さな拳銃よりもずっと大きくて強力な銃で清田が薙ぎ倒すので、恐らく彼と一緒にいる限り使う機会は滅多に訪れる事は無いだろう。

 勿論、それが最良だ。

 しかし、彼の庇護を得られない状況に陥れば、たとえ<奴ら>に対してあまり役に立たなかったとしてもお守り程度には感じられる。

 気力を奮い立たせられるのであれば無いよりかはマシだろう。

 また、<奴ら>に効果が無くても、生きている人間に襲われそうになったら脅しぐらいにはなる。

 これからは<奴ら>と同様に、理性を失った人間に対してある程度の心構えを備えておくべきだ。

 自惚れている訳ではないが、京子は年増だが自身の豊艶な姿態が一体男をどれだけ魅了するかを自覚していた。

 追い詰められ、種を残そうとする牡としての本能が暴走した男性が現れないとも限らない。

 そういった輩は、暴力によってこちらをその意に従えようとするだろうから。

 また、そのような対象となるのは自分だけではなく、静香も同様である。

 自分よりも若く、ボリュームのある肉感的な身体は、自分以上に狙われるだろう。加えて、優しく穏やかな雰囲気を持つから、その隙をつけ込まれるかもしれない。

 心の傷ついた後輩を、これ以上辛い目にあわせてなるものか、と京子は密かに誓った。

 そうして銃を手に入れてそれに対する興味が芽生えたからだろうか。

 自然と、京子は前を歩く清田の動きを注視するようになった。

 彼は小銃を両手で抱え、銃口を下に向けている以外は普通に歩いているだけだった。

 映画のように、市街地を歩く兵士が、常に銃床を肩付けしていつでも発砲できるようにしているのとは異なった。

 映画と本物とではやはり違うのだろうか。

 素人である京子には、清田が随分と悠長に構えていると思えたが、俳優の演じる兵士と違って、彼は本当に鍛え上げられた兵士なのだ。

 その動作の一つ一つに理由があり、洗練され合理的なものなのだろう。

 実際のところ、清田は肉体をリラックスさせていた。常に小銃を油断なく構える体勢は結構疲れる。

 突発的な遭遇戦が生起しやすい屋内などであれば、油断なく構えるのは当然だが、現在のようにだだっ広い道路の真ん中を歩いている分には、たとえ<奴ら>が現れても早期に発見できるので余裕を以って構える事が出来る。

 本来の市街地戦闘行動(MOUT)であればそのように道路のど真ん中を歩くのは撃ってくれと言わんばかりの行動だが、<奴ら>は別に銃を持った兵士ではない。

 重要なのは如何にして早期に発見し、回避するかという点だ。

 そうなれば自ずと道の端よりも中央を歩く方がいい。

 抜く時は抜く、集中する時は集中する。めり張りを以って事に臨むのが一番効率がいい。まだ、先は長いのだから、あまり気を張り詰めても仕方が無い。

 しかし、かといって精神まで緩めている訳ではない。

 むしろ、市街地に入ってから清田はこれまで以上に周辺を注意深く観察していた。

 市街地は構造物が複雑に入り組んでいるので標的が発見しづらく、また、<奴ら>よりも生きている人間の対処を常に念頭に入れなければならなかった。

 <奴ら>には問答無用で武器を以ってして制圧しても問題はない。

 しかし、生きている人間はその脅威の度合いを冷静に見極めて対処しなければならない。

 こちらに助けを求めているのか、それとも見境が無くなって襲い掛かろうとしているのか。

 人質が、間近で炸裂するスタングレネードや発砲音で混乱し、救出部隊の兵士に思わず掴み掛かろうとして射殺されたという事例もある。

 民間人を誤射する等といった事態を引き起してはなるまい。

 こんな世の中だが、清田は日本国憲法を遵守する義務を負った自衛官である。必要最低限、守るべき法律を守らねばならない。

 創隊以来、高度経済成長の繁栄を享受する傍ら、国家として何処か歪んでしまった日本の姿を写し出すかのように、強力な近代兵器を保有しているのに軍隊として認められない自衛隊だからこそ、守るべき規範を破れば防人たりえないのだ。

 榊の冠の上で、大鷲の翼を広げて今にも羽ばたかんとする布都御魂剣を象った特殊作戦群の徽章を着けていても、たとえエリートフォースとはいえ任務の為であれば好き勝手にしていいという訳ではない。

 むしろ一般部隊よりも高い規範を求められるからこそ、敵地で孤立無援の状態での任務遂行を成し遂げられるのだ。

 通りを道なりに歩くと、やがてガソリンスタンドが見えてきた。

 休息するにはあそこが適当だろう。

 事務所と休憩所を兼ねる建物には軽食や飲料の自販機を備えているだろうし、何よりも広い給油場は見通しが良く、<奴ら>が押し寄せて来ても上手く立ち回れば切り抜けられるだろう。

 

「ここで少し待っていて下さい。自分が様子を見てきますので」

 

 給油場に到着すると、清田は二人に待機を促した。

 しかし、拳銃や警棒を身に帯びているとは、女二人では心細い。

 特に静香は、縋り付くような眼差しを清田に向けた。

 

「何かあれば呼んで下さい。すぐ駆け付けますから」

 

 不安なのを察しているが、二人の安全を考えると連れていく訳にはいかない。

 それに少しの辛抱だ。

 一見したところ、周辺に<奴ら>の脅威はなさそうだ。

 クリアリングも直ぐ終わるだろう。

 清田は不安げな二人を残し、建物へ向かった。

 予想通り、建物内に脅威は皆無だった。

 争った形跡や血痕は見当たらず、常駐している筈の店員の姿もない。全くの蛻の殻だった。ここなら、作戦開始以来初めてとなる休息を得る事が出来そうだ。

 流石の清田も、緊張状態に置かれ続けて神経が疲弊してきた。

 ストレスと疲労が限度を超えて蓄積されれば、やがて集中力の欠如へと繋がり、簡単なミスを犯すようになる。その小さなミスが取り返しのつかないほど大きなミスを誘発するとも限らない。

 そうなる前に予防をした方が良い。可能な限り快適な環境の追求が確実な任務の遂行へと繋がる。

 タフな事が男らしいとしても、そうする必要がないのに自ら進んで悲惨な状況に自己を陥れるのは愚か者のする事だ。

 人間は、自分が思っている以上に脆弱な存在である。

 濡れた衣服を着続けているだけでも闘志は衰え、肉体は弱っていく。

 靴の中が蒸れ、ふやけた足の裏の皮膚が擦り剥けるだけで機動力は低下する。

 所詮はその程度でしかない。その程度の自身の弱さを受け入れ、如何にしてそれを和らげられるかが重要だ。

 清田が、張り詰め続けていた神経を緩め掛けた時、それは起こった。

 

「きゃあああああああっ!?」

 

 静香の悲痛な叫びが耳朶を打った瞬間、清田は深い後悔と強い自責の念に駆られた。

 残された静香と京子の、不安げな表情が脳裏を掠める。

 二人を連れて来なかったのは、その身を危険に晒さない為ではない。

 素人である二人を連れてのクリアリングに不安があったからである。

 つまりは、心の何処かで己の技量に自信が持てなかったからこそ、それらしい理由を付けて彼女をあのような目に逢わせてしまった。

 全ては、自分の不甲斐なさが招いた結果だった。

 だが、神経に刻み込まれた反応故か、心の動きよりも先に肉体が駆動していた。

 左足を軸にしてその場で回転するように身を翻し、ローレディの銃姿勢で全速力で外に出た。

 

「…!」

 

 目に飛び込んできた光景に清田は絶句した。

 <奴ら>に無惨にも食い殺された二人の死体を目の当たりにしたからではない。

 静香が、見知らぬ大柄な男によって背後から羽交い締めにされていたからだ。

 身長が一七○半ばほどもありそうな静香より、男は更に背が高く肩幅も広い。

 清田と比べても遜色ない堂々たる体躯だ。静香の括れた腰に回された腕は太く発達しており、あれでは非力な女性では身動きなど取れはしないだろう。

 京子は、静香を羽交い締めにする男の後ろで倒れていた。

 気を失っている様子だが、傷がどの程度かも分からない。一刻も早く、詳細を確かめねばなるまい。

 清田が恐れていた事態が最悪の形となって目の前に現れた。

 <奴ら>よりも、生きている人間の、しかも暴漢ともなれば尚更だ。

 男は、何処かに潜んでいて、自分達の動向を観察していたのだろう。

 助けを求めているのであれば静香に対してそのような行動を取る必要はない。

 気が酷く動転していたとしてもそのような行動を取るとも思えなかった。

 明らかに、自分が彼女達の傍を離れたのを見計らっていたのだ。

 そして男の要求は、少なくとも平和的な手段によるものではなかった。

 それは、静香の白い首筋に突き付けられたナイフが雄弁に物語っていた。

 

「ひゃーっはっはっはっ! 自衛隊サンよぉ、随分とエロい姉ちゃん連れてるじゃねーか。一人は年増だから俺の趣味に合わなくてな。ちょっとぶん殴ってネンネしてもらってるが、なに、後でたっぷり可愛がってやるぜ」

 

 男はあみだに被ったキャップの下で目を血走らせ、邪悪な笑みを浮かべていた。

 剥き出した歯には歯列矯正の器具が嵌められており、それが殊更に男を醜悪に印象付けていた。

 清田には、男が人間に見えなかった。

 訓練でひたすら額を撃ち抜いてきた、人質を盾にして拳銃を構える覆面姿の凶悪犯の標的としか思えなかった。

 初めて、生きている人間に銃を向けるという事実に躊躇う暇さえなかった。

 肉体に刻み込まれた行動がごく自然に出る。

 銃口が流水の如く淀みなく持ち上げられ、ホログラフィックサイトの光点が男の額に重なる。

 既に引き金に指が掛かっていた。

 

「おーっと、下手な真似は止せよ。武器を捨てな。でなけりゃ姉ちゃんが死ぬぜ?」

 

 しかし男が口を開くのが紙一重の差で早く、ナイフを握る手にこれみよがしに力を込める。

 鋭い切っ先が、ぷつり、と薄皮を裂き、静香の首筋に血が滲むのが見えた。

 静香は身がすくんでしまい、出血しても恐怖が勝っていた為に痛みを感じていない様子だった。

 顔面は蒼白で、完全に血の気が失せていた。

 涙の潤む瞳が、助けて、と切実に訴えかけていた。

 清田は引き金に掛かった指の力を緩め、銃口をゆっくりと下げた。

 相手を下手に刺激するべきではない。悔しいが今は従うしかないだろう。

 男のナイフは静香の動脈を捉えている。

 清田は、男から目を逸らさず、時間を掛けて身を屈めて足元に小銃を丁寧に置き、屈んだのと同じくらいのスローな動きで真っ直ぐ立った。

 

「脚に付けてるのはピストルだろ? そいつも足元に置け」

 

 レッグホルスターから拳銃を抜き、小銃の傍に置く。

 武器を一つずつ手放していくと、まるで服を一枚ずつ脱がされる心許ない気分となった。

 しかし、武装を解かれたからといって闘志の萎える清田ではない。

 レッグホルスターから拳銃を抜く時に手を下げる際、手を尻ポケットの上を這わせるようにしてそこから小型のマルチツールを取り出し、掌に隠していた。

 寸鉄程度のものでも身に帯びているとまだやれるという気になれた。

 何事も諦めてはいけない。

 

「へへへ…映画だったらここでヒーローが助けてくれるのにな。残念だなぁ、え、姉ちゃんよぉ?」

 

 男は清田が言葉通りに従ったのに満足したのか、余裕のある表情でナイフを弄び、その腹で静香の頬を撫でた。

 すっかり怯えきっている静香は、冷たい金属の硬質な触感に小さく悲鳴を漏らして震える事しか出来なかった。

 

「た、たな、田中、さん…」

 

 懸命に絞り出した声はか細く、震えている。

 静香は今にも恐怖で崩れ落ちそうな足腰をなんとかして支えていた。

 急にその場に座り込んでしまえば、極度の興奮状態にある男が一体何をするか予測がつかない。

 自分の命が、他人の邪悪な気まぐれによって生かされているという事実に気が遠くなる思いだった。

 

「…ひぐっ!?」

 

 静香は声にならぬ悲鳴を漏らした。男が、不意に彼女の豊満な胸を鷲掴みにしたのだ。

 欲望の赴くままに行われるその行為は愛撫とは程遠く、力任せに玩ぶだけで苦痛しか感じなかった。

 同時に、静香は、自分の身体を望んでもいない相手に好き勝手にされるという恥辱に震えたが、結局抗う事も出来ず、ぎゅっと目を閉じて耐えるしかなかった。

 

「あー…声も胸も最高だぁ。こんなにでけえ乳した女なんて初めて見たぜ!」

 

 男は、掌から零れそうになるほど大きく柔らかな乳肉の感触を愉しんでいた。

 静香の、大きく、そして形の良い乳房は男の揉む力に合わせて柔軟に姿を変え、その劣情を殊更に煽った。

 

「……!」

 

 静香はびくりと身体を大きく震わせた。

 尻に、硬いものが押し当てられるのを感じたからだ。布地越しにもそれは熱く脈動しているのが分かった。

 

「ケツもでかくて柔らけぇ…姉ちゃん、あんた最高にエロい身体してやがるぜ!」

 

 男は己の醜く高ぶった劣情を隠そうともせず、静香の肉付きの良い臀部に腰を密着させ、小刻みに動かし快感を得ようとしていた。

 直接肌を合わせず衣服の上からとはいえ、男の興奮は頂点に達しようとしていた。

 それはこの異常な状況下というのもあるのだろう。

 これからの未来は絶望でしかない。

 それが、男の種の保存本能を燃え上がらせていた。加えて、非力な女性を刃物で脅し、その命と肉体を自由にするという、かつての平穏な日々では想像すらしなかった背徳的な行為もまた一因だった。

 静香はただ、恐怖と屈辱の混ざった感情を胸の奥底で押し殺し、耳元で獣のように息を荒くする男の行為に耐えていた。

 吐き掛けられる生臭い吐息と、尻に感じる高ぶった劣情の感触に嫌悪感が募った。

 

「ああくそ! 我慢できねえ!」

 

 男は急に獰猛に吠えると、静香の乳房を弄んでいた手を彼女のブラウスの襟元に掛けた。

 

「……!!!」

 

 襟元に掛けた手を一気に引き下ろし、静香のブラウスとブラジャーを力任せに引き裂いた。

 今まで衣服に押さえ込められていた乳房が、弾けるようにまろび出た。

 静香の乳房は、たっぷりとボリュームがありながらも美しい紡錘形を保っており、色素の薄い珊瑚色の乳首がツンと上を向いていた。

 男の乱暴な手つきによるものだろう、新雪のような肌はほんのりと朱く色付き、谷間にはうっすらと汗の露が光った。

 

「ひゃわはははは! 本当にたまんねぇぜ!」

 

 美術品もかくやという素晴らしい乳房を目の当たりにして下品に笑う男を背後に、静香は恥辱に顔を俯かせて赤らめ、ぐっと唇を噛んで堪えた。

 これ以上ない辱めに、出来るならば今にもその場に座り込んでしまいたかった。

 そして、早く清田が助けてくれるよう祈った。

 

「へへへ…姉ちゃんよぉ、アンタいい匂いするなぁ」

 

「うっ!…いやぁ、やだぁ」

 

 べろり、と男の舌が静香の頬をいやらしく舐め上げる。

 ざらざらとした舌の感触とヤニ臭い唾液から逃れようと、静香は咄嗟に顔を背けようと男の腕の中でもがいた。

 最早、耐えられなかった。これ以上の辱めは我慢できなかった。

 そうやってささやかな抵抗を試みた静香だったが、それも直ぐに潰えた。

 

「暴れるんじゃねぇ!」

 

「あぅっ…!」

 

 完全に従順となったとばかり思い込んでいた男は、静香の思わぬ反抗に苛立ち、左前腕で彼女の首を締め上げ、ナイフを握った右手でその頬をしたたかに殴った。

 それで静香に一時沸き起こった反抗心は瞬時に萎えた。

 改めて現実と、自身の無力さを突き付けられ、静香から抵抗する気力が失われた。

 

「次暴れてみろ。ただじゃ済まねえぞ」

 

 男は、低くドスの利いた声で囁きながら、すっかり打ちのめされた静香の眼前にナイフを翳した。

 そして、その刃をゆるゆると下方へ下げていく。

 静香はその行方を目で追い、やがて男のやろうとしている事を察し、顔から血の気が引き、足元が遠退くような錯覚に陥った。

 

「姉ちゃんの大事な所にコイツを突っ込んじまうぞ」

 

 鋭い切っ先が、スカートの薄い布地越しに柔らかな下腹部から秘所に掛けてすぅっとなぞった。

 女体の中で一際敏感な器官に金属の硬さを感じた瞬間、それが引き金となった。

 

「ひゃーはっはっは! こいつはいい! 傑作だぜ!」

 

 堪えきれないとてつもなく大きな恐怖が、目に見える形となって現れた。

 静香は、恐怖の余り、堪える間もなく失禁してしまった。

 心が麻痺していた為に、排尿を堪える理性が働かなかったのだ。

 足を伝い落ちる生温い液体の感覚とアンモニアの微かな刺激臭など最早気にする余裕など無かった。

 今まで自分が積み重ねてきた人生の全てが、液体となって滑り落ちて足元に溜まるような感覚を、静香は心の何処かでぼんやりと他人事のように感じていた。

 心が空白となっていくのが解った。

 男の嘲笑など耳に届いていなかった。

 目の前に佇んでいる筈の清田の姿もぼんやりとした人影にしか見えなかった。

 全てがもうどうでも良かった。

 臨界点を超えた恐怖が、彼女の心に諦観を齎していた。

 その刹那、滲んだ視界の中で黒い人影が微かに動いた。

 何かが耳の直ぐ傍を唸りを上げて過ぎった気がしたが、静香にとっては預かり知らぬ現実だ。

 視界の中を、やがて黒い人影が占領していく。

 そして静香が感じたのは、人影によって横に突き飛ばされ、糸の切れた傀儡のように力無く倒れ込む自分の身体だった。

 一体どれだけの間、そうやって地面に倒れていたのだろうか。

 気が付くと、誰かが自分を抱き起こして顔を覗き込んでいた。

 自分を覗くその人物の顔は解らなかった。

 何故なら、ヘルメットを目深に被り、スモークレンズのゴーグルを掛け、目出し帽で顔を完全に隠していたからだ。

 これでは人相など解る筈がない。

 ただ、その覆い隠された口許が、言葉を紡ぐ形となって開いたり閉じたりしているのは理解できた。

 一体、何を叫んでいるのだろうか―静香が意識を向けた瞬間、全てが戻った。

 

「鞠川先生! 鞠川先生! 自分の声が聞こえますか!?」

 

 掻き消されていた音が一気に戻った気分だった。

 耳元で怒鳴る清田の声の大きさに反射的に固く身を強張らせ、ぎゅっと目を閉じた。

 恐る恐る目を開くと、やはり清田が変わらず自分の顔を覗き込んでいた。

 どんな表情をしているのか解らないが、恐らくほっとしているような気がした。

 直ぐ傍で、京子も此方を覗き込んでいた。

 彼女は額に血の滲んだ包帯を巻かれていたが、静香が無事であるのを確認して安堵した表情を見せた。

 

「私…一体……」

 

 寝起きのようにぼんやりとしているが、静香に異常はなさそうだった。

 清田は一先ず安堵に胸を撫で下ろした。

 

「立てますか? 無理なら自分に掴まって下さい」

 

 労るように優しい声音で伺うと、腕の中の静香はこくりと頷き、首に両腕を回して絡めてきた。

 清田も、静香をそのまま抱き上げるようにしてそっと立ち上がった。

 そうして暫く静香は、清田の太い首に抱き着いたまま顔を埋め、その感触と匂いを確かめるように何度も深呼吸した。

 彼の汗と、真新しい化学繊維の匂いを嗅いでいると、次第に心が落ち着いてきた。

 グローブを嵌めた彼の大きな手が、後頭部を抱き、背中を優しく摩ってくれている。

 父親に抱きしめられたように心地好い安堵感が心に広がっていく。

 

「本当に大丈夫ですか?」

 

 やがて落ち着きを取り戻した静香は、再三にわたる清田の気遣いの言葉にはっとなり、急に気恥ずかしくなって身体を慌てて離した。

 その際、バランスを崩しそうになったので、伸ばされた清田の手が彼女を繋ぎ止め、改めてしっかりと立たせた。

 

「はい…なんとか」

 

 破かれた衣服の前を両腕で隠し、静香は顔を俯かせながら答えた。

 急に見当識が正常に戻り、自分が服を着ている意味が殆どない事を思い出し、忘れていた羞恥心が込み上げてきたのだ。

 

「鞠川先生…ごめんなさい。私、貴女のことを守ってあげられなかった」

 

 ファーストエイドキットの圧縮包帯を額に巻かれた京子は、瞳の端に涙を溜めながら己の不甲斐なさを静香に詫び、そして自分が着ていたクリーム色のジャケットを彼女の肩に掛けてやった。

 全てはあの暴漢が悪いのに、京子は何も出来なかった自分を悔いていた。それは恐らく、清田以上に。

 怪我まで負わされたのに、自分の事より他者を気遣う京子の優しさに、清田ばかりでなく静香も、何だか居たたまれない思いになった。

 そして、決して思い出したくはないが、ほんの数瞬前に繰り広げられていた凌辱劇が脳裏に蘇る。

 ふと、あの暴漢の姿が見えないので不安になり、静香は清田に問うた。

 

「一体、何があったんですか? 私、あの……あれから何が起きたか覚えてないんです」

 

 静香は失禁してからの記憶が曖昧だった。

 同時に、今まで自分が失禁していた事実も忘れていたのだが、我に返ってみると己の股の間から靴の中まで感じるアンモニア臭のする液体の不快感と、更なる羞恥心が込み上げてきて、静香は清田の顔を直視できなかった。

 

「先程の男は自分が無力化しましたので安心してください」

 

 清田が指し示す方を見遣ると、男が俯せになって倒れていた。

 背中に回された両腕には手錠が嵌められており、あれでは何も出来はしないだろう。

 男の顔の周囲には血溜まりが広がっており、ぴくりとも動かなかった。

 清田は、男が隙を見せるまでじっと耐え忍んでいた。

 目の前で守るべき者が凌辱される様を見せ付けられ、己の不甲斐なさと歯痒さを堪えながら頭脳を冷静に保つのは相当な精神力が必要だった。

 転機は、恐怖で失禁する静香を男が嘲笑った瞬間だった。

 男は静香の心を征服した事に満足していた。それが大きな隙を生み、結果として清田によって地面に沈められたのだが。

 清田は手に隠し持っていたマルチツールを、男の無防備な眉間目掛けて投げ付けた。

 小さいながらも強度と耐久性を保つ為に強固な合金が使われており、様々な工具がぎっしりと詰まっているマルチツールはずしりと重く、そんなものが唸りを上げて飛来すれば相当な威力を持つ。

 それを眉間に受けた男は、突然の予期せぬ衝撃と激痛に反射的に頭を抱えて庇った。

 その間に清田は距離を詰め、少々乱暴な方法だが茫然自失となっている静香を凶刃から遠ざける為に突き飛ばし、ナイフを握る男の右手をその背後に回って手加減無しに捻り上げた。

 男は右腕の関節を恐ろしい力で極められ、激痛に喘いで思わず膝を地面に着いたが、そこへ清田の防弾レガースに覆われたごつい膝が顔面に襲い掛かる。

 男に逃れる術もなく、鈍い音と共に鼻と前歯の殆どが砕け、そこで意識は完全に断ち切られて今に至る。

 男の両腕の自由を奪う手錠は、先程の警察官の死体から拳銃と一緒に入手したものだ。

 清田は手早く小銃と拳銃、散弾銃を回収した。

 最早身体を休める所ではなかった。早急に移動しなければならない状況となっていた。

 

「二人とも一息付きたいとは思いますが、此処から移動しなければなりません…周囲を見てください」

 

 清田は声のトーンを落とし、囁くように二人に言った。

 

「…!」

 

 静香が周囲を見渡すと、いつの間にか<奴ら>が集まりだしていた。

 男の下卑た高笑いが思った以上に閑散とした市街地に響いたのだろう。

 既に何体かは給油場に侵入していた。

 

「…解りました。ところで」

 

 ちらり、と静香は倒れ伏している男に視線を遣った。

 あの男には肉体と精神の両方を散々踏みにじられた静香だったが、それでもなお少しだけ憐れみを感じていた。

 もしも世界がこんな事にならなければ、男もあのような振る舞いをする必要は無かったかもしれない。

 その行いは決して赦されはしないだろうが、ある意味では男も人生を狂わされた犠牲者といえた。

 そう考えると静香には憎み切れなかった。

 

「……あの男はそのままにしていきます。連れていく訳にもいきませんので」

 

 清田はポケットから手錠の鍵を取り出すと、男の目の前の地面に放った。

 ちりん、と小さな金属音に釣られて<奴ら>が男の方へ誘導されていく。

 

「運が良ければ生き残れるでしょう。今はそれしか言えません」

 

 用は済んだ、と言わんばかりに清田はガソリンスタンドに背を向けて歩きだした。

 静香は胸元を押さえながら慌ててその後に続いた。京子も彼女を気遣うように追従する。

 果たして、あの男の生存率はどれ程だろうか。

 目を覚まし、<奴ら>の様子を窺いながら音を立てずに手錠を外し、逃げ延びる事が出来るだろうか。

 それは限りなく不可能だが、生存の可能性を与えられただけマシだろう。

 清田は直ぐに、一人の人間を死に追いやった事実を頭から締め出した。

 こういう事はこれからもあるのだから、いちいち取り合っていては肉体と精神がもたない。

 己の行いを振り返るのは、無事に任務を遂行してからで充分だ。

 三人は、<奴ら>を避けてガソリンスタンドを後にした。




にじふぁん時代に投稿していた分の加筆修正版はこれで最後です。
続きは完全新規なので今まで以上に時間がかかるかもしれません。
御容赦して下さい。

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