学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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第八話完全版です。
キャラクター解説はそのままにしておきます。

 清田武(きよた たけし)
 本編の主人公。
 出展は麻生幾著『瀕死のライオン』に登場する主人公の一人。
 若くして陸上自衛隊が擁する特殊部隊『特殊作戦群(SFGp)』に所属する。
 階級は三等陸曹であり、自衛官としてはまだまだ経験不足だが才能はある様子。
 入隊したばかりの新隊員の頃は問題を多く起こしており、それは自衛隊の理想と現実に苦しむが故であり、己の力を発揮できる場所を探していた。
 SFGp群長である剣崎に才能を見いだされ、新隊員後期教育から第一空挺団に所属し、以後、三曹昇任から地獄の空挺レンジャー、SFGpの過酷な選抜(セレクション)まで彼の目論見通りに全てを成し遂げてきた。
 原作では自分の糧となるものならば貪欲に学ぼうとする、向上心溢れる若者であり、秋葉原で買い求めた部品で自前の盗聴器を製作するほどである。
 新隊員教育隊が多賀城(宮城県)なので、出身は東北だと推測される。
 ちなみに原作『瀕死のライオン』はハードカバーとソフトカバーでは内容が若干異なり、ソフト版では彼の欧州での活躍(列車から投げ落とされたり、寒さで失禁したり、車を盗んだり、人妻と良い仲になったり、チンピラをカラテでやっつけたりetc)がごっそり削られ、ハード版だと『端整な顔立ち』のイケメンなのにそれすらも変更されるという不遇さである。
 しかしどちらにも共通してるのは年上の女性との絡みがある事である。
 尚、選抜課程で一度不合格を言い渡される理由もハードとソフトでは異なり、ハードでは真の特殊作戦部隊兵士とは何なのかを理解していない為に、ソフトでは実任務の一環として潜入した病院で情報収集の為に人妻と不倫した事を『自衛官にあるまじき行為』として咎められたが為に…ありとあらゆる手段を駆使せよといったのは剣崎なのに、と清田は思ったに違いない。
 携行火器はM320グレネードランチャー付HK416A5(M4-2000サプレッサー、PEQ16レーザーサイト、TA150RCO&RMRサイト、マグプル製各種カスタムパーツ)、9mm仕様USPタクティカル、ケルテック・KSG、M72LAW、C4爆破薬、各種手榴弾という重装備っぷりである。

 林京子
 原作『学園黙示録』では序盤の犠牲者の一人。
 <奴ら>と化した同僚の手島に首筋を噛まれ、あえなく命を落としてしまう。
 卓球部の顧問を務める33歳独身で、孝の友人の一人である今村曰わく『完熟ボディから溢れる三十代独身の欲求不満オーラ』を身に纏っているらしい。
 拙作では生存しており、学園に降りかかった災厄を何とかして乗り切り、職員室の机の下で震えているのを清田に発見された。
 当初、清田の存在は心強いと思う反面、重武装の自衛官という未知の存在故に畏怖も抱いていたが、交流を通して徐々に親しみを覚えていった。
 吊り橋効果なのか、彼に発情する場面もあったが、大人の女として己の心の働きを自ら戒めた。
 先輩として職場の後輩である静香を気にかけており、ガソリンスタンドでの暴漢の一件の後は彼女のフォローに回る事が多かった。
 清田から拳銃の扱いの手ほどきを受け、いざとなれば自分や静香の身を守ろうと決意を新たにする。
 拙作のヒロイン(確定)。


#1st day⑧

 不可視の衝撃が右胸で炸裂し、肺の空気が全て叩き出された。

 それはまるで、犀の角で突き上げられたかのように凄まじく、一瞬で呼吸が停止し、肉体から骨格が抜かれたように脱力した。

 被弾するまで清田の状態は、警戒・即応態勢にあり、戦闘の心構えが出来ており、グロスマンの言葉を借りるならば“黄の状態”にあった。

 生理的には平常と何ら変わりなく、心理的な面では良好な緊張状態である。

 それが被弾と同時に急激に心拍数が上昇する。

 明確な殺意を持った他人によって死に瀕するという、人間が感じるストレスの中でも最も強度の高いものによって肉体と精神に変化が起きていたのだ。

 一生の内に何百万という人間と接触していても、相手が自分を本気で殺そうとするのではないかと用心する人はいない。

 日々出会う人間たちが、自分を殺そうとしているのかもしれないと恐れながら生きていくなど、出来る筈がない―尤も、それは日常に身を置く一般人の場合である。

 清田のような緑衣の特別な公務員は、普遍的人間恐怖症に対するストレスの予防接種を行っている。

 非日常を日常とする訓練を積んでいるが為に、初めて実弾によって被弾したというのに清田は冷静そのものだった。

 しかし流石に被弾という状況によって、清田の肉体は自動的に過度なストレス反応を選択せざるを得なかった―生き残る為に、彼の肉体は独自に行動しなければならなかった。

 心拍数は毎分175回にまで跳ね上がり、四肢に流れ込む血液量が増加し、筋肉内の乳酸が燃え、呼吸と心拍数が上昇し、認知反応時間、瞬間視能力、複雑な運動能力が最高レベルに達していた。血液の凝固速度を上昇させるコルチゾールの血中濃度も増え、肉体が負傷した場合に備えていた。

 通常、人間は心拍数が毎分145回を超えると、明らかな能力の低下を招くのだが、清田のように特殊且つ過酷な訓練を受けている特殊部隊の兵士は、そのような状態でこそ最高のパフォーマンスを発揮できるようにしている。

 高度なストレスを接種し続けた予防が、この生死がかかっているコンマ何秒の世界で役立ったのだ。

 だから精神は不思議と落ち着いていた。

 撃たれたというのに、今にも死ぬかもしれないというのに。

 被弾した今の一発は、非常に強烈な警告に過ぎないと考えた。でなければ「撃たれた!」と驚愕する事も出来ないだろう。

 撃たれたと分かるのは生きている証拠であり、これは非常に良い兆候だ。生きているならばまだ活路はいくらでもあるという事に他ならない。

 だからやるべき事が考えなくても解っていた。

 今は掩蔽物を求めなければいけない。

 でなければ次で確実に頭部を撃ち抜かれ、瞬く間に脳細胞のスパークに過ぎない<自分>という自我は永遠に消え去り、約百kgぐらいの蛋白質の塊となるだろう。

 目下の目標は二発目を頭に食らわない事だ。その為に肉体と精神を投げ打たなければならない。

 過度に分泌されたアドレナリンによって、時間は粘り着くように重い液体と化し、周囲の景色がまるで無音のスローモーション映像のように感じられた。

 着弾した右胸から、爆ぜて空気中に舞うタクティカルベストの繊維が見える。

 空気の壁を超音速で突き破って飛来した弾道が、自身の右胸から紡錘形のトンネルを描いてアパートの方向から伸びていた。

 アドレナリンと、死に瀕しているが故に五感が鋭敏となっていた。それのお陰で、空気中に残る弾道の揺らぎのイメージが視覚化され、あたかも実際に目の当たりにしているかのようだった。

 そのイメージは、アパートのどの窓から伸びるのかまでは分からなかったが、着弾した角度から概ねの予測はついていた。

 狙撃手の位置の予測はついたが、当面の問題は、突然の被弾で肉体と精神が乖離しかけているというものだ。

 そして銃で撃たれた者は二つの心理状態に陥る。

 撃たれた!もう駄目だ!―潔くすらある諦観。

 畜生!ぶっ殺してやる!―憤怒に塗れた奮起。

 選りすぐられた精鋭として研ぎ澄まされた兵士である清田は、無論の事ながら、選択したのは圧倒的に後者だった。

 誰だか知らないが俺を撃ちやがって!殺してやる!―冷静な思考の奥底では、生まれて初めて抱く、純粋な殺意が失いかけていた身体の制御を取り戻す切っ掛けとなった。

 数歩、ほんの数歩だけ地面を蹴れば、放棄されている車の陰に逃げ込む事が出来る。

 だが、まるで何十日もの禁欲の果てに得た射精の快感で砕けたように、腰から下は感覚が麻痺していた。

 タクティカルブーツの靴底を通して感じられる筈の地面の感触が、ふわふわとしていて頼りない。

 足の筋肉に指令を送っているのに、何ら反応が還ってこなかった。

 馬鹿野郎!今やらなきゃ死ぬんだぞ?!死んだらどうする?!―コンマ数秒の世界の中、思考だけが本来以上の性能を遥かに超えて疾駆する。

 今、自分が死ねばどうなる?

 高城沙耶の救出という任務はおろか、先刻、守ると誓った筈の静香と京子を孤立させてしまう。

 二人は清田の助けが無くても生き延びるかもしれないが、それは低い確率だろう。ならば何としても守ると誓ったからにはそうしなければならない。

 でなければ、男に生まれた意味がないではないか?!―粘着質の液体から引き抜くような感覚の中、膝をおりかけていた左足がゆるゆると持ち上がる。

 その動作一つが途轍もなく億劫で、目蓋で鉄の扉を開けるように大変な思いだった。

 振り上げた左足を蹴り出し、足底でアスファルトの地面を不安定に捉える。右足も同様にして、渾身の力で地面を蹴って身体を推進させた。

 脳内ではウサイン・ボルトも真っ青な俊足で駆け抜ける自分の姿を思い描いていたが、現実はコマ送りのようにカクカクと歯切れの悪い不格好さでもがいていた。

 手足を滅茶苦茶に振り回し、ドタドタと家鴨のように走っている。

 だがそれで充分だった。

 コンマ数秒の差で、清田の頭があった空間を銃弾が擦過し、鉄帽の頭頂部を掠め、破片が飛び散った。

 まともに受け身も取れず、清田は無様に前のめりに倒れ込むようにして車の陰に滑り込んだ。

 顔面も強かに打ちつけ、口内に血の味が広がった。

 衝撃で息が詰まりそうだったが、既に被弾してから呼吸というものを忘れていた。

 同時に、時間感覚と聴覚も復帰し、獣のように息を荒げて空気を貪る。酸素不足に陥っていた肺が今にも焼け付きそうだった。

 急速に分泌されたアドレナリンのお陰で五感はかつてないほど冴え渡り、荒い息を吐きながらも思考は澄み切っていた。

 異常なほどクリアな頭の中を埋め尽くしていたのは、初めて他者から向けられた明確な殺意に対する激しくも冷たく凍り付いた怒りと、その落とし前を相手に何としてでもつけさせてやるという強迫観念にも似た強い意志だった。

 誰だか知らないが、俺の事を殺そうとしやがって!―心臓が奏でる狂騒曲と同じ赤く染まった思考のまま、デイパックを背中から下ろし、左側面に括り付けていた長大なポーチのジッパーを開こうとする。

 しかし、指先が震えてうまくいかない。

 アドレナリンと死に瀕した恐怖により、心拍数はかつてないほどに上昇しており、繊細な動作が難しくなっていた。

 極度の興奮状態に陥ると心拍数が上昇し、瞬間的な動作が大幅に増幅されるが、その代わりに精密な運動能力と判断力が失われてしまう。

 落ち着け。落ち着くんだ!―震える右手を左手で抑え、その場に身体を丸めて胎児のようにうずくまる。

 明確な殺意の元に実際に死の恐怖を与える訓練は、恐らく何処の国の軍隊でも行われていないだろう。

 本当に隊員を死なせてしまうような訓練はもはや訓練ではない。そんな事で優秀な人材をいたずらに喪失してしまっては元も子もないのだ。

 タフなエリート気取りな清田が初めて受ける、実弾の飛び交う本当の戦場の恐怖が、彼の神経を苛んでいた。

 思考は冷静なつもりだが、それが上手く実行に移せないでいた。抱いた筈の殺意も、恐怖の前には押し潰されていた。

 ストレス接種による恐怖の鈍化は充分すぎるほど受けていたが、やはり訓練は訓練でしかなく、リアルには程遠い。理想と現実のギャップが、一時的な停滞を清田にもたらしていたのだ。

 金属同士がぶつかり合う甲高い悲鳴と、超音速の不気味な擦過音、乾いた発砲音が耳朶を打った。

 どうやら狙撃手が、獲物を仕留め損ねた悔しさを紛らわす為に車に銃弾を撃ち込んでいるようだ。

 唇を噛み締め、恐怖に喚き出したくなるのをこらえた。

 車が着弾の度に揺れ、銃弾が車体を引き裂いて跳弾する。超音速を越えて飛来する銃弾の衝撃波が、清田の巨躯を精神諸共打ち据えた。

 まるで目に見えぬ巨大な獣が、今にも隠れている車ごと清田を引き裂こうとしているように思えた。

 清田はただ、無力な子供のように銃弾の嵐が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。

 耐えれば、いずれ相手は装填の為に発砲をやめなければならない。日本国内であれば狩猟用のライフル銃は、弾倉の装弾数を五発以内にしなければならないからだ。

 合計三発ほど撃ち込んで、漸く発砲は収まった。どうやら相手の銃は狩猟用のライフル銃である可能性が高い。

 未だに恐怖と興奮で神経は高ぶっているが、冷静な思考と判断力は戻っている。相手の戦力を分析するだけの余裕が生まれていた。

 発砲音がより大きく、重かったから、口径も恐らくは一般的な軍用狙撃銃弾である7.62mm×51弾ではなく、より威力の高い30-06弾か、300ウィンチェスターマグナム弾だろう。大口径の狩猟用ライフルのハイパワー弾は狙撃で使用されるのも珍しくはない。

 慌てるな。慌てるんじゃあない―あれほど訓練に訓練を重ねたのに、いざ実際に被弾してみると冷静でいられない自分に失望しながら、清田は掩蔽物となっている自動車の陰から出ないように身体を起こした。

 先ずは状況を確認するべきだろう。

 清田は大きく深呼吸し、暴れる心臓を何とか鎮めようとして、車の後部バンパーに背を預けて座り込んだ。

 現在、清田は放棄されている車両の陰に隠れている。弾が直接飛来してこないのをみると、此処は狙撃手の射界から充分に遮蔽されているという事になる。

 右のタクティカルグローブを脱ぎ、恐る恐る、抗弾ベストの下に手を差し込んだ。

 恐れていたぬるりとした血の感触はなかった。どうやら装甲プレートがカタログ通りの性能を発揮してくれたようだ。

 痛みはまだ無いが、いずれ落ち着いてくれば被弾の衝撃で負った酷い打撲傷に悩まされるだろう。最悪、骨折やヒビになっているかもしれない。

 被弾した場所が右胸なので、肋骨は勿論、鎖骨を痛めている可能性がある。鎖骨は肩の可動に関わってくるので、損傷していれば戦闘行動に大いに支障を来すだろう。

 次にタクティカルベストの右胸ポケットに触れてみる。丁度そこには小型のフォールディングナイフを入れていたのだが、ものの見事に砕け散っていた。

 幸運な事に、右胸のナイフが大幅に被弾の衝撃を和らげたようだ。それにプレートも加わり、大事にならなかったのだ。

 チタン製で酸化被膜加工がしてあるこのナイフは、海での使用を前提に作られているのでかなり高価だった。

 切れ味、耐久性、共に申し分なくて気に入っていたのだが、背に腹は変えられない。むしろ命を守ってくれたのだから、このナイフは物を切る以上の働きを充分にこなしてくれた。

 しかし負傷の程度は不明であり、素直に喜ぶ事は出来ない。加えて、状況は不利なままだ。

 対狙撃手戦(カウンタースナイプ)は、数ある最悪な状況の一つに当てはまるだろう。

 しかも、何の支援も得られないというのは絶体絶命に近い。他に仲間がいれば迂回して攻撃なり何なりとを得られるが、たった一人で狙撃手に挑まなければいけないのは気が滅入る。

 だが、一つだけ運に恵まれている事がある。

 それは煙幕を張る手段があるという事だ。

 背中から下ろしたデイパックに鈴なりに括り付けられているポーチの一つから、煙幕手榴弾を取り出す。

 清田は煙幕に紛れて先程の路地に逃げ込み、別の安全なルートを探す事を目論んだ。

 本音としては無差別発砲犯を放っておくのは忍びないが、今はこれ以上のリスクを被る訳にはいかない。

 煙幕手榴弾は煙幕を張る以外の目的として、ヘリの降下地点などのマーキングの為にある程度の数を持ってきている。

 正面のアパートの方から風は吹いているので幸い風向きには恵まれていた。煙幕手榴弾の煙は微風でも効率良く拡散するように設計されているのだ。

 安全レバーごと手榴弾を握り、安全ピンを引き抜く。そして隠れている車の前方に向かって下から放り投げるようにして投擲する。

 手榴弾は空中で発火し、着地と同時にアスファルトを転がって濃密な煙幕を張り始めた。

 いいぞ、その調子だぞ―煙の濃密なヴェールが、清田が隠れる車を覆い隠そうとした。

 だが、その望みは脆くも崩れ去った。

 乾いた銃声が一発聞こえたかと思うと、今まで調子よく煙を吐き出していた手榴弾が吹っ飛ばされた。

 被弾した衝撃で弾体が大きく裂け、充填されていた化学剤があたりにぶちまけられる。

 それにより上手く化学反応が起こらず、まばらな煙を細々と吐き出すだけであり、充分な目隠しとはならなかった。

 暫くして手榴弾は沈黙し、同時に清田の目論見は失敗に終わった。

 まだ手榴弾の数に余裕はあるが、何度やっても結果は見えている。

 車の陰に隠れたまま手榴弾を発火させても、風向きの都合で煙は上手く広がらないだろう。車の前方からすっぽりと遮蔽しなければ意味がないのだ。

 だが、これで手段が尽きた訳ではない。

 更に清田は、有効な対狙撃手用の攻撃兵器を携行していた。

 清田はデイパックの左側面に括り付けられている、縦に長大なポーチのジッパーを下ろした。

 中から現れたのは、グラスファイバー製の円筒形の筒だった。

 グラスファイバーの筒が二本、ストラップでポーチ内で固定されているので、ストラップを外して一本を手に取る。

 全長約六五cmのそれの重量は三kgにも満たないが、清田が携行する兵器の中では間違いなく最強の火力を有しているだろう。

 安全ピンを外し、リアカバーを開く。本来なら負い紐(スリング)が付属しているが、今回はポーチに収納して携行しているので前もって外していた。

 インナーチューブを引き出すと、三〇cm近く全長が伸びた。同時に、倒立式の照準器が立ち上がる。

 これで発射回路が全て接続され、後は安全装置を解除して引き金を引けばいい。念の為、後方を確認するのは忘れない。

 思わず、振り向いた際に小声で「後方良し」と呟いたのは、訓練で叩き込まれた習慣だろうか。

 M72LAWは、米軍で長らく使用されている使い捨ての軽量簡易な対戦車ロケットである。

 自衛隊も使い捨ての対戦車火器としてパンツァーファウストⅢを装備しているが、如何せん重すぎる為、特殊作戦群ではM72LAWを試験的に導入していた。

 清田が今回携行しているのは榴弾効果を高めたM72E10であり、それを二本、ポーチの中に入れていた。

 これで〝敵狙撃兵〟を吹っ飛ばす準備は出来た―此処は日本で、今は他国からの侵略を受けているという訳ではないが、自衛官を撃ったのならばもう相手は敵と認識するしかない。

 非戦闘員が明確な意志に基づいて、正規軍の兵士を攻撃すればもはや敵兵と認識されても仕方がないのだ。

 一昔前の自衛隊では、敵に撃たれたらまず空に向かって一発撃って警告し、相手の近くの地面を狙って撃ち、それでも相手が対峙するのを止めなければ、漸く相手の手足を撃つ事が許される。ただし、致命部位への射撃は禁止されているというおまけ付きだ。

 だが、そんなのを実戦で守る自衛官など一人もいないだろう。自分と仲間の命が危険に晒されれば、銃後の政治家や学識者達が決めた馬鹿らしい交戦規則になど従える筈もなく、躊躇なく相手の頭と胸に銃弾を撃ち込む。

 目の前にいる相手は今すぐにでも自分を殺せるが、絞首刑の縄はずっと複雑で長ったらしい裁判やら何やらの末に自分を殺せる。

 そして今はそんな事よりも、目の前の敵を如何にして無力化するのかが重要だ。

 どうやら相手は、生死を問わず人間を撃つのが好きらしい。

 それが証拠に、清田の周囲に転がる、頭部を綺麗に吹っ飛ばされた死体の中には、明らかに感染者ではないものもあった。

 その母子の死体は、清田が隠れている車の後方から十メートルほど離れた位置に倒れていた。

 感染者は身体の何処かを食い破られていたりするが、あの親子の死体は吹っ飛んだ頭以外に身体の損傷がない綺麗な状態だった。

 今は頭がぐずぐずに崩れているから詳細は不明だが、恐らくは年若い母親と幼稚園に通う幼い子供だったのだろう。

 着の身着のままで逃げてきた二人の命を襲ったのは人喰い死体ではなく、気の狂った無差別発砲犯だった。二人とも自分の身に何が起こったのかを知る暇もなく死ねた事が唯一の救いだろうか。

 狙撃手は明らかにこちらを生存者と認識して凶弾を撃ち込んできた。いや、生死はこの際関係ないだろう。

 老若男女の区別なく、動くもの全てを撃っているのだ。

 目的は不明だが、そんな事はどうでもいい。こんな馬鹿げていて、畜生以下の相手にはそれ相応の代価を支払って貰う。

 絶対にだ。

 絶対に文字通り粉々に吹っ飛ばして地獄に送ってやる―展開したLAWを握り締め、清田は殺意を再燃させた。

 LAWと共に、小銃もサウンドサプレッサーを外して何時でも弾丸をばらまけるようにしておく。LAWを撃った後に、グレネードランチャーも撃ち込み、更に小銃のフルオート射撃で目標を制圧するつもりだ。

 準備は整ったが、このまま身を乗り出せば頭部を容易く撃ち抜かれるのは目に見えている。

 小さな手榴弾を正確に撃ち抜くのを目の当たりにすれば、それぐらいの芸当は朝飯前であるのは容易に察せられる。

 どうしたものかと清田が考えあぐねているその時だった。

 

「田中さん!」

 

 路地の壁際から、京子が此方を心配そうに窺っていた。

 其処から清田の行動を今まで見守っていた京子からすれば、斥候として道路上に出て間もなく、大きな発砲音と共に彼の巨躯が傾いたかと思うと、猛然と駆け出して車の物陰に滑り込み、暫くうずくまるという奇行としか受け取られていなかった。

 そして漸く、狙撃手から放たれた銃弾が車体を直撃する様を前にして、清田が被弾したのだという結論に至っていた。

 それ故に道路上に飛び出さず、京子は路地から様子を窺うという自制ある行動が選択できていたのだ。

 

「此方にこないでください! 自分は今、狙撃されています!」

 

 そう警告したつもりだったが、被弾の衝撃故か清田の声は掠れていた。

 完全に状況は膠着状態にある。既に西日となっており、あと二時間ほどで日は完全に没してしまう。

 日が暮れる前に此処を脱出しなければならない。

 その為には、静香と京子の手を借りる必要があった。

 清田はポケットから防水メモ帳を取り出し、ボールペンで必要な事項を書き記すと、破り取って傍らに落ちていた小石を包み、京子の方へ放り投げた。

 小石の重みでメモは無事に京子の元まで投げる事が出来た。彼女はそれを拾い、広げて読み始めた。

 

「そこに必要な事が書いてあります! 林先生、無理ならば自分に構わず先に進んで下さい!」

 

 だが、清田の言葉とは裏腹に、メモを読み終えた京子の目には強い意志の輝きが見て取れた。

 

「分かりました! 鞠川先生と私で何とかします!」

 

 拳銃を手に、京子は必要なものを揃える為に引き返そうと背を向けた。

 その背中を見て、清田は何か声を掛けなければという思いに駆られた。

 か弱い女性二人に頼るのは正直情けないが、今の状況では仕方がない。精鋭といっても詰みに近い状態では手段を選べない。

 だから、「頑張れ」とかそういう月並みの言葉を掛けてやるべきなのだろうか。

 

「林先生!」

 

 清田は京子を呼び止めた。

 京子は振り返り、此方を真っ直ぐ見つめた。

 少し言い淀んでから、清田はゴーグルを上げ、彼女を見つめ返した。

 

「自分の名前は田中じゃありません!本名は…これが終わったら、俺を名前で呼んでください!」

 

 思わず口をついて出た言葉に、清田は戸惑った。

 彼は何時までも謎の男でいる事にうんざりしていた。

 何故だか分からないが、京子には偽名の田中ではなく、名前で呼んで欲しかった。

 これが詰まらない感傷であるのは自覚していた。

 ただ、名前で呼んで欲しい。俺を一人の人間として見て欲しい―こんな生死の掛かった状況だからこそ、謎の男のまま死ぬのは嫌だった。

 

「分かりました」

 

 京子は場違いなほど柔和な微笑みを返し、静香と共に路地に消えた。

 後に残された清田は、二人の安全を祈る事しか出来なかった。

 

 

 

†††

 

 

 丸く切り取られた視野だけが世界の全てだった。

 男は、布団を敷いた食卓の上に寝そべり、枕の上に据えたレミントンM700の機関部上に取り付けてあるカールツァイス製の狙撃眼鏡(スコープ)を覗込んでいた。

 男がとる伏射姿勢(プローン)は完璧で、こうして銃を構え続けて長時間にもなるというのに、微動だにせず、集中力もいっさい乱れていない。

 男はしがないサラリーマンであり、育った家庭環境と生来からの気質故か、鬱屈としていて内向的な性格の為に恋人はもとより友人すらいなかった。

 仕事はうまくいかず周囲からは馬鹿にされ、入社同期との出世競争からは早々に脱落し、営業先に頭を下げて回る苦渋に満ちた毎日を送るばかりであった。

 だが、うだつの上がらない男には人よりも優れた才能を備えていた。

 それは狩人(ハンター)としての才覚に恵まれており、また、大地主でありながら猟師でもあった祖父から幼少の頃より狩りの仕方を教えられていたというのが、彼の眠れる能力を引き出す直接の要因でもあった。

 鬱々と過ごす日常から解放される唯一の手段が、ライフルを手に獲物を求めて山に入る事だった。

 野生動物との駆け引きは一切の邪気の混じり気のない、純粋にして神聖ですらある行為であり、くたびれた男の神経を慰めた。

 しかし何時しか、野生動物ではなく、もっと別の獲物を狩りたいという欲求が首をもたげ始めていた。

 人間狩り(マン・ハント)―それは禁じられた究極の狩猟であり、どす黒くなお甘美な誘惑である。

 殆どの人間は同族殺しに本能的な忌避感を備えているものだが、男はシリアルキラーの素質を備えた、殺人に一切の抵抗がない人間だった。

 何時かは人間を撃ってみたい。しかし、かといって男には犯罪者になるつもりも、傭兵として何処かの紛争地に赴くほどの気概も持ち合わせていなかった。

 だから、今日という日を境に世界が一変してしまったのは、男にとっては好都合だった。

 自宅であるアパートの一室という安全な場所から、通りを歩く動く死体や生きた人間を撃つという狂気の遊びに気兼ねなく興じる事が出来た。

 指先一つで老若男女の区別なく、一人の人間の人生を簡単に終わらす事が出来る。

 神のように自由自在な生殺与奪権を握っているというのは、どうしてこんなにも気分がいいのだろう―人狩りを始めて一番気分が良かったのは、幼い子連れの若い母親を撃った時だった。

 手を引かれて走る幼女の頭を吹っ飛ばして、内臓の詰まった血袋に変わった愛娘に起きた事態を理解できずに、驚愕に目を見開いている様子を観察するのはとても興味深かったが、慟哭する前に娘と同様の物体に変えてやった。

 世界がこうなる前は幸せだっただろう母子を、この右の人差し指の僅かな動きでただの肉塊に変えるというのは言葉に表せないほどの邪悪なカタルシスを覚えた。

 だが、そうやって人狩りを楽しんでいると、今までとは全く異なる獲物が狙撃眼鏡に映り込んだ。

 慎重に、注意深く路地から通りに現れたのは、重武装の兵士だった。

 それが網膜に投影された瞬間、男の心臓が高鳴った。

 まさか映画みたいな展開になるなんて!―今までのマン・ハントはただの弱者をいたぶる嗜虐的な愉悦に満ちていたが、今度の相手は違う。

 お互いの距離は二〇〇メートル程度しか離れていない。

 今までの一方的な殺戮ならば何も問題はないが、彼は自分と同等かそれ以上の重火器で武装しており、失敗すれば反撃を食らう。

 まさに命を懸けた一発勝負は、腰が砕けるほどの恐怖と興奮がない交ぜになった感情に満たされた。それはもはや恍惚と呼んでも差し支えがないほどの強烈な陶酔感だった。

 男は照準十字線(レティクル)を兵士に重ね、じっくりと時間をかけて観察した。

 兵士は自衛隊員であり、ニュースで報道される災害派遣の映像ではお馴染みの迷彩服を着込んでいた。その上にヘルメット、ベストを着用しており、顔はゴーグルとフェイスマスクで欠片も窺えない。

 手に構えている小銃は近未来的なデザインですらあり、一目で自衛隊の野暮ったいものではないと判断できた。ゴテゴテとアクセサリーが追加されたそれは重量がありそうだが、大柄なその兵士は軽々と構えていた。

 大きくて強そうで、重武装の兵士をこのチビの俺が撃ち殺すんだ―低身長なのがコンプレックスの男は、これから死ぬであろう兵士に対して優越感に浸っていた。

 男は静かに息を吸い、肺がいっぱいになったところで呼吸を止める。肺胞が酸素を血中に取り込み、細胞の隅々に染み渡るのを待った。

 酸素が消費されるのは五秒から八秒かかり、それを過ぎると酸素不足に陥った筋肉が震え始め、銃口が少しずつ動いてやがて小さな円運動を始めてしまう。

 長く待つ必要はない。

 引き金に当てた右人差し指に僅かに力を込め、遊びを消す。第一関節よりも先の指の腹に、小さな鉄の部品が食い込む感触がした。

 意識を集中すればするほど、自身を取り巻く全てが消え失せ、呼吸や脈拍は無論、皮膚と筋肉の感覚すら無くなり、やがて骨格が支えるライフルの重みだけが残った。

 とうとうそれすらも意識の外に追いやられ、兵士に重なり微かに揺れるレティクルと、引き金にかけた指の表面だけが残る。

 刹那、兵士と目があった。

 彼はゴーグルをしているので瞳すら露出していないが、男は確かに互いの視線が重なり合ったのを確信した。

 その兵士もはや断頭台に上がっているのも同然で、死ぬ運命にあるのは変わりない。

 男は焦る事なく、全く平常心のままレティクルを僅かに下げ、引き金を絞り切った。 

 瞬間、薬室内部で解放された撃針が疾駆し、隙間なく収まっていた300ウィンチェスターマグナム弾の底部を叩く。

 轟音と共に吐き出された銃弾は音速を遙かに超えた速度で飛翔した。スコープの視野が発砲炎(マズルフラッシュ)で白濁し、ライフルが跳ねる。だが、男の左目は兵士の胸に銃弾が命中するのを確認していた。

 兵士の胸で着弾した銃弾が硬質な音と共に白煙を巻き上げる。

 やはり、予想通り相手は防弾ベストを装備しており、右胸に命中したものの仕留めるには至らない。だが、動きが止まれば頭に狙いを定めるのは容易だ。

 投射面積の広い胴体に一発当てて動きを止め、それから頭部を撃ち抜く算段だった。

 男は余裕たっぷりに槓桿を引き、精密な機構が奏でる小気味良い音を楽しみながら、硝煙を燻らせる300ウィンチェスターマグナム弾の口紅ほどもある空薬莢をはじき出し、次弾を薬室に送り込んだ。

 だが、そこで誤算が生じた。

 確かに、間違いなく相手の右胸に一発のウィンチェスターマグナム弾が命中した。しかし、相手は動きが止まるどころか弾かれるように一気に駆け出した。

 予想を遙かに上回る行動の為か、男はスコープを慌てて覗き込み、兵士が完全に車の陰に隠れる前に放った一発は相手のヘルメットを掠めただけだった。

 完全に此方が慢心していた。

 圧倒的な優位だったにも関わらず、この勝負は相手の勝ちだ。兵士の肉体と精神の頑強さが、男の目立てを上回った為の結果だった。

 男は己の目論見の甘さと、仕留め切れなかった悔しさの余り、兵士の隠れる車に残弾を全て叩き込んだ。大口径弾が着弾する度に揺れる車体が引き裂かれても少しも怒りが収まらない。

 確かに男は、手強そうな獲物の出現に喜んでいた。だが、実際に己の命を危険に晒さず、一方的に相手をなぶれるからこそ危険なゲームに快感すら覚えたが、その立場が崩れ今度は命を狙われる側に立つのは御免だった。

 男は歯軋りをしながら、傍らの紙箱からマグナム弾を取り出し、開放した薬室に一発ずつ装填していった。

 まぁ、いい。これはこれで新たなゲームの始まりと考えよう―弾薬を押し込みながら、男は思考を落ち着けていった。

 その後、再びライフルを構え直し、兵士が車の物陰から投げた煙幕手榴弾を吹っ飛ばして、漸く男は良い気分を味わった。

 じわじわと相手を切り刻み、追い詰めていく快感には胸がすくような思いだった。

 

 

†††

 

 

 ほんの十分前に通った路だというのに、まるで冥府魔界へと続くように思えた。

 自然と、京子と静香の歩みは慎重となり、視覚と聴覚を総動員しておっかなびっくり進むしかなかった。

 特に音には過敏になっており、自分達の足音以外の、時折何処かから聞こえる物音を聞くとびくりと立ち止まり、息を殺してじっと様子を窺ってから再び歩き出すという状況だった。

 清田の存在が如何に大きかったのかを、二人は否が応でも認識した。

 彼という存在が弱い自分達にとってどんなに心強くて頼り甲斐があり、そして如何に道中にどれほどの苦労を彼は費やしていたのかを。

 京子は、無言で先頭を進むあの逞しい背中を思い出していた。

 巨壁の如く聳え立つ屈強な兵士は、一言も不平不満を漏らさず、ただ無力な自分達の為に身を粉にしていた。

 脅威がいつ何処から襲い来るのか分からない状況の中、泰然自若とした振る舞いでまさにプロフェッショナルとして彼は行動していた。その間、彼の神経は少しも休まる事が無かっただろう。

 全神経を働かせ、周囲に気を配り、驚異と遭遇したならば的確な判断により排除する―その彼が、自分達の為に、今、命の危機に瀕しているのだ。

 防弾装備を身につけているとはいえ、その身体は紛れもなく銃弾を受けている。

 京子は勿論、銃で撃たれた経験など無いから、それがどれほどの苦痛なのかを知る術はないが、決して生やさしいものではないというのは想像がついた。

 清田は大丈夫だと言っていたが、彼の性格とその職責を考えれば痩せ我慢かもしれない。

 一刻も早く、彼を安全な場所へ連れ出さなければいけないと、京子は焦燥にも似た強い使命感に駆られていた。

 助けられてばかりでは駄目だ。何かしら役に立つというのを証明しなければならない―それは暴漢の襲撃によって味わった、女であるが故の己の無力さを少しでも払拭し、生存への自信を得る為でもあった。

 私だって自分の身ぐらい守れるわ―女である前に京子は一端の社会人であり、自立した大人である。それが何も役に立てないどころか自衛すら出来ないとあれば、社会の一員として築いてきた自信を喪失するのは当然だろう。

 右手に握る拳銃を、その硬質な感触を確かめるように握り締めた。

 いざとなれば<奴ら>や、凶暴な人間を退けるだけの威力を備えたそれは、少しだけ京子の精神の安定に寄与した。

 大丈夫。教わった通りにやればいい―何度目になるかも分からない、言葉の反芻を胸の内で繰り返した。

 その時だった。

 自分と静香以外の、じゃり、という地面を踏み締める音が京子の耳に届いたのは。

 びくりと身を震わせ、思わず京子は立ち止まった。

 背後を振り返れば、どうやら静香もその足音を聞いているらしく、不安げに耳を澄ませて周囲を見回していた。

 じゃり、じゃり、と、ゆっくりと且つ不安定な足音の響きは、十メートルほど前方の右の小径から聞こえてくる。

 二人は音を立てないように慎重に、じりじりと後ずさった。

 足音は徐々に近づいている様子で、自然と京子の緊張は高まり、心拍数も上がる。

 着替えてからそれほど経っていないというのに、じっとりと背中は汗に濡れ、シャツを重くした。

 伝い落ちる汗が目に入り、視界が一瞬ぼやける―ふらり、とぼろ雑巾のような人影が小径から現れたのは同時だった。

 眼鏡を額の上に跳ね上げて慌てて汗を拭い、目を凝らす。

 背後の静香が押し殺した悲鳴を上げて京子のシャツを掴んだので、それの正体を確認するまでも無かったが、一刻も早く脅威を肉眼で捉えなければいけないという焦りが生まれた。

 焦り故だろうか、京子は跳ね上げた眼鏡を取り落としてしまった。

 かしゃん、と眼鏡が軽い硬質な音を立てて足元に落ちた。

 人影が此方を振り返り、歩を向けるのは焦点の合わない曖昧な視界でも確認できた。

 京子の心臓が恐怖に締め上げられる。

 くすんだ人影は、確実に、ゆっくりと不安定な足取りで近付いてくる。

 声ならぬ呻き声はまるでかつては人間だったものとは思えず、二人の硬直状態に拍車を掛けた。

 だが、震える右手に携えた確かな重みと、恐怖に引きつった静香の吐息が、いち早く京子を窮地から脱出させた。

 そうだ。私は、やらなくちゃいけないんだ―京子は右腕をゆるりと持ち上げ、左手で拳銃の握把を握る右手を包み込み、足は肩幅に開いた。

 視界はぼやけているが、この際、それはどうでもいい。

 清田に教わった標的の見いだしは、標的自体に焦点を合わせず、照星にのみ絞るから、相手が実像を結ばない虚像でも構わないのだ。

 深く呼吸し、精神と肉体をリラックスさせる。脅威は確実に距離を詰めているが、まずは落ち着かなければ命中しない。

 それに、距離が詰まれば詰まるほど、命中の確率は上がる。反面、外せばそれだけのリスクを負うのも承知していた。

 ぼんやりとしていながらも人型であるのは認識できた。頭部に照星を合わせ、いよいよ引き金の遊びを殺す。

 ゆらり、ゆらりと頭部が左右に揺れる。不規則な動きをする頭部を銃口で追うのではなく、ここぞというタイミングで撃たなければならないだろう。

 双方の距離は既に五メートルを切っていた。まさに後数歩を踏み出して手を伸ばせば届きそうなほど近い。

 既に腐敗し始めた人体が発する臭気が鼻腔を衝き、肌が粟立ち、背筋を悪寒が走り抜ける。

 逃げ出したくなるのをこらえて、呼吸を止め、身体が発する振動を必要最小限に留める。引き金を引くのは意識せず、真っ直ぐに指を後ろに動かすのだけに集中させる。

 相手の頭部が、照星いっぱい広がる。

 期せずして、京子は引き金を絞り落としていた。

 機構から解放された撃鉄が、38スペシャル弾の底部を叩き、燃焼ガスが130グレインの完全被甲弾(FMJ)を秒速250メートルで押し出した。

 ぱん、と乾いた音が鋭く響き、手の中で拳銃が生き物のように跳ねた。

 銃口より放たれた弾丸は、迫っていた<奴ら>の鼻と唇の間―人体の中で最も効果的な射撃部位―に命中し、その運動中枢を完全に破壊した。

 どういう原理で死亡した人間の脳が活動していたのかは定かではないが、物理的に破壊する事で改めて正真正銘の死を与えられ、その<奴ら>は歩行動作の途中で生じた慣性をそのままにして前のめりに倒れた。

 水が詰まった皮袋が叩きつけられるような湿った音が響く。何かを掴むように伸ばされたままのその腕は、京子の爪先に軽く触れた。

 銃身と銃弾の摩擦により生じた熱と、発射ガスによって加熱された拳銃を下げ、京子は緊張を解くように肩で大きく息を吐いた。

 生まれて初めて行った拳銃射撃は成功に終わった。

 見事、迫り来る標的を撃ち倒し、二人は当面の危機を脱する事が出来た。

 生き延びた。

 その実感が京子には未だに湧かない。

 緊張を解かれた心臓は今にも破裂しそうなほど激しい鼓動を刻み、耳の奥では渦巻く血流の音が聞こえた。

 取り敢えず、眼鏡を拾わなくちゃ―腰を折り、足元に落ちた眼鏡を震える指先で拾い上げ、掛け直した。

 漸く視界が鮮明になり、足元に倒れ伏す無害な死体を認める事が出来た。

 死体は三十代中頃のサラリーマン風と思しき男性であり、スーツの所々が獣に食い散らかされたかのように血塗れだった。

 爪の剥がれた指先が、京子の右足の爪先に触れていた。ぴくりとも動く気配が見られず、本当の死を迎えたと見做して間違いないようだ。

 京子が少しだけ後ずさると、爪先に引っかかっていた死体の指先が外れ、くたりと地面に落ちた。

 すると、死体の袖口から何か小さなものが幾つも転がり出てきて、蠢いているのが見えた。

 よく目を凝らしてから、京子は直ぐに後悔した。

 それは白く丸々と肥え太った蛆だった。それが何匹も蠢動しながら腐肉を求めていた。

 人間だろうと動物だろと、蠅はどんな死体にも蛆を産みつけて苗床とする。それが彼らの生存戦略である。

 その行為には何ら邪気はないが、吐き気を催す不快感に京子はパニックに陥りかけた。

 今にも小さな蛆虫に自分も全身をじわじわと喰われるのではないかという錯覚に震えが止まらない。

 背後に控える静香は、自分よりも上背の低い京子の背中に顔を押しつけて震えている。

 二人とも震えを堪えきれず、暫く硬直していたが、一刻も早く立ち込める死臭と蠢く蛆虫から逃れたくて、京子は静香の手を取って足早に歩き出した。

 今にも悲鳴を上げそうになるのを、唇を噛み締めて我慢するしかなかった。

 ただでさえ発砲音を上げており、近隣に屯しているかもしれない<奴ら>の注意を引き付けた可能性が大いにあるのだ。今更騒々しく喚き散らすのはリスクでしかない。

 一所(ひとところ)に長く留まっていれば、それだけ新たな脅威と遭遇する状況が生起するかもしれない。

 それに、今は少しも時間に余裕がない。

 早くしなければそれだけ清田の命も、自分達の命も危うくなるから。

 

 

†††

 

 

 38口径の拳銃と思しき控えめな銃声は、清田にも届いていた。

 恐らく、京子が何らかの脅威に対して発砲したのだろう。

 二発目が聞こえないので、一発で事足りたのか、それとも次弾を撃てる状況ではなかったのか、今の清田に知る術はない。

 ただ、二人の安全を願わずにはいられなかった。

 計画通りに事が進めば、多少なりとも反撃の余地はあるだろう。

 全てはあの二人に懸かっているが、失敗した場合も想定して別のプランも考えておかなければならない。

 だが、現状で講じられる策は殆どない。何とかして相手にLAWをぶち込んで吹っ飛ばすのが最良の方法だ。

 手持ちの火器は40mmグレネードランチャー装備のHK416、USPタクティカル、ブリーチング用のKSG、LAWが二本、各種手榴弾、ドア爆破用のC4とそれに関する機材が少々である。

 相手との距離は約二〇〇メートルほどであり、小銃でも充分に狙える距離だが、現状では相手にアドバンテージがある。

 今、清田が最も欲しいのは、火力支援パッケージだ。誰かが81迫や120迫の迫撃砲一個小隊を与えてくれたら、喜んで尻を差し出すつもりだった。

 欲を言えば、コブラやアパッチの近接航空支援があれば尚更なのだが、米軍のように贅沢な航空支援は自衛隊に於いては望むべくもない。

 ああ、F2支援戦闘機がJDAM(精密誘導爆弾)を投下してくれたら!―五〇〇ポンド爆弾ならばあのアパートごと忌々しい狙撃兵を跡形もなく吹っ飛ばしてくれるが、所詮は無い物ねだりの空想でしかない。

 清田は伸縮ロッド付きの鏡を取り出し、慎重に車の陰から突き出した。

 鏡が西日を反射しないようにアパートの様子を窺い、狙撃兵の動向を探ろうとする。

 二階建ての古い工業団地用アパートは南北に伸びるように建てられており、東側に面しているベランダは西日が作る日陰の中に没している。

 敵も馬鹿ではないから、ベランダに陣取っている訳ではなく、部屋の奥まった暗がりからこちらを監視しているのだろう。

 部屋を一つ一つ観察するが、狙撃兵の姿は見えない。だが、相手から此方が見えるという事は、此方からも相手を見る事が出来る筈だ。

 伏せているならば、頭と肩のラインを持つ人間特有の形状が判別しづらく、発見は困難だろう。相手は間違いなくライフルが一番安定する伏射姿勢(プローン)をとっている筈だ。

 鏡を僅かに動かし、部屋を一つずつ確認していく中で、ある部屋に違和感を覚えた。

 その部屋のベランダには洗濯物が一つも吊り下がっておらず、ガラス戸が開けっ放しになっていた。

 それならばまだ不審とはいえないが、物干し竿や洗濯ハンガーが一つもないばかりか、黄色いリボンが転落防止柵に結び付けられているのには何らかの作意を感じた。

 あれは風向きを観測する為のものか?―清田の頭に浮かんだ疑問は、すぐに飛来する銃弾によって解決した。

 その部屋の奥の暗がりで小さな閃光が瞬いた刹那、手元の鏡は空気の壁を穿つ音と共に吹っ飛ばされ、大口径弾がアスファルトを抉った。

 着弾によって飛散するアスファルトの破片を身に受けながら、清田は小さな鏡に写った光景を脳裏に焼き付けていた。

 発砲炎(ガンファイア)によって一瞬だけ浮かび上がったのは、紛れもなくライフルを伏射で構える狙撃兵ーというよりも、普通の男ーの姿だった。

 ビンゴ!―冷静ながらも湧き上がる興奮が清田の胸中を支配した。

 狙撃兵は間違いなくあの部屋にいる。

 それは確定的に明らかだが、依然として有効な攻撃手段を保持しているものの、それを実行に移せるだけの機会に恵まれなければ意味がないのだ。

 この膠着状況を打開できるのはやはりあの二人しかいない。

 そして清田が待ち望んだ人物達は、絶好のタイミングで戻ってきた。

 

「田中さん!」

 

 京子が路地の壁際までやってきた。

 

「頼まれた物を持ってきました」

 

 そうして彼女は手に携えている物を清田に見せた。

 『それ』の出来を一目見て、清田は満足そうに頷いた。

 

「それで充分です。後は自分の合図で行動してください」

 

 京子は頷き、再び路地に引っ込んだ。

 後は相手の出方次第だ。

 これが成功すれば此方の勝ちで、失敗すれば相手の勝ちだ。

 生き残るのはどちらかだけであり、まさに命懸けの一発勝負だ。

 清田は深呼吸してから、LAWを握り締め、小銃のセレクターレバーをフルオートにしてから手元に引き寄せた。

 

 

†††

 

 

 車体の陰から突き出ていた鏡を吹っ飛ばしてやり、男は俄然気分を良くしていた。

 これで相手は此方を安全に観察する方法すら失った。手も足もでない相手はまさに八方塞がりの状況だろう。

 絶体絶命の中、自らの不運を呪うがいい。あの時、素直に頭を撃ち抜かれていればこうして絶望に身を捩る必要もなかっただろうに。

 お前は敗者で、俺は勝者だ。畜生のように死んでしまえ―男はどす黒い愉悦に顔がにやけるのを堪えながら、ライフルを構え続けた。

 その時だった。

 狙撃眼鏡を覗き込んでいない、左目が何かの影を捉えたのは。

 男は咄嗟に其方の方に銃口を巡らした。

 そして高倍率に拡大された視界の中に写り込んだのは、路地の壁の上からひょっこりと出ている、緑色のヘルメットを被った人間の頭だった。

 しまった。俺としたことが迂闊だった―よくよく考えれば、兵士が単独で行動している筈がない。必ず仲間と共に行動していると考えるべきだった。

 あの兵士は斥候で、本隊よりも前方を進んでいたのだ。そして狙撃されたが何とかして逃れ、車の陰から此方を観察し、先程見舞った一発で完全にこの位置を特定したのだ。

 それを本隊の仲間に伝え、今まさにその仲間達が攻撃しようとしているのだ―視界に写る、フェイスマスクとスモークレンズのゴーグルで顔を隠した、別の兵士の頭にレティクルを重ね、引き金を絞った。

 狭い視野の中、その兵士の頭が粉々に吹き飛んだ。

 戦果(スコア)がまたしても増えたが、もはや男の頭にあるのは一刻も早くこの場から逃げなければいけないという焦燥だった。

 直ぐにでもあの兵士の仲間が此処に踏み込んできて、重火器でぼろ切れのように蹂躙されてしまう。

 男はテーブルの上で身を起こし、手近にあったものを片っ端から引っ掴んでリュックの中に突っ込んだ。

 脳裏に浮かぶのは、白い破片を撒き散らして頭を吹っ飛ばされた兵士の姿だった。

 今にも自分があの兵士と同じになるかもしれないのだ。弱者を一方的になぶってきた男は、いざ自分の立場が逆転するとなると生来の小心っぷりを発露させていた。

 だが、そこで、ふと、逃げ支度をする男の手が止まった。

 待てよ。

 先程のあの兵士はどうして“白い破片”を撒き散らしたんだ?

 大口径弾で撃ち抜かれた人間の頭は、まるで西瓜のように“赤い破片”を撒き散らして爆裂する筈なのに―そこで漸く男は、己が犯した過ちに気がついた。

 自分の推測が思い過ごしであってくれと願いながら、男はライフルの傍に置いてあった双眼鏡を掴んで覗き込んだ。

 狙撃した兵士の頭があった所には、棒が突き出ていた。その棒の先端には、下顎から上半分を吹っ飛ばされた人間の頭部がくっついていた。

 それの断面は白く、プラスチックのようだ―事実それは、FRP(強化プラスチック)製の、マネキンの頭だったのだ。

 驚愕に目を見開きながら、男は双眼鏡を、兵士が隠れていた車に向けた。

 隠れていた兵士は今は車の上に身を乗り出し、何かの筒を肩に担いで此方に向けていた。

 あれは……何だ?―男の疑問は、間髪入れずに秒速一四五メートルで飛翔する66mm成形炸薬ロケット弾が解決してくれた。

 M72E10の、榴弾効果が強化された弾頭は、男ごとアパートの一室を爆炎で包み込んだ。


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