学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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9話完全版です
リカの住まいであるメゾネットはアニメに近いものと思って読んで下さい


#1st day⑨

 煙を砲口から燻らす発射器を肩から外し、清田は黒煙を上げるアパートの一室に視線を送った。

 部屋の中で慌ただしく動く人影は確認していた。

 放ったロケット弾は見事、狙った通りに部屋の中に一直線に飛び込み、狙撃兵を盛大に吹っ飛ばしてくれた。

 駄目押しは必要ないだろう―空になった発射器を傍らに捨て、小銃の銃口にサプレッサーをねじ込んだ。

 清田の目論見通り、相手は此方の誘いに乗ってくれた。

 静香と京子には、先程の洋品店まで戻ってもらい、ヘルメットを被った自衛隊員に偽装したマネキンの頭を持ってくるように指示していたのだ。

 ヘルメットの形は厚紙などで作り、その上に迷彩戦闘服に近い色合いの衣服を被せ、顔はサングラスと黒い布地でそれらしく装飾した。

 何処かに潜む狙撃兵をおびき寄せる為に、ダミー人形を撃たせて注意を逸らすのは対狙撃戦(カウンタースナイプ)では定番といえる。

 もしもダミーと見破られれば、今頃清田はまだ車の陰にうずくまっていただろう。

 結果として此方に軍配が上がったから良かったものの、失敗していれば目も当てられなかったに違いない。

 だが、この状況で考え得る最良の選択だったと、今は断言できた。

 

「田中…さん?」

 

 まだ狙撃を警戒しているのか、ひょっこりと、京子が壁際から此方を窺っていた。

 

「林先生、もう大丈夫です。脅威は排除しました」

 

 自分自身に言い聞かせるように、清田は車にもたれ掛かりながら言った。

 そうだ。あいつはこの俺が吹っ飛ばしてやったんだ―清田は未だに黒煙を上げ続けるアパートの一室に一瞥をくれた。

 とうとう、俺は人を殺した。間違いなく、粉々に吹っ飛ばして殺してやったんだ―教えられていた殺人に対する罪悪感は欠片も無かった。

 自分が殺人を行ったというのは明確に理解できたが、実感が沸かなかった。

 何故なら、相手を目視できる距離ではあったが、清田は相手と直接目と目を合わせた訳でもないし、断末魔を聞いた訳でもないからだ。

 相手の目を見たり、肉声を聞いたり出来る距離であれば自責や罪悪感を覚えただろう。だが、実際の距離が増大するにつれて殺人に対する心理的距離も増し、兵士はトラウマなどに悩まされずに済む。

 命が消え逝く相手の瞳を見詰めながら素手で首を絞めて殺すのと、モニターに写った白黒の人影に向かってミサイルの発射ボタンを押すのを同列に語る事は出来ないのだ。

 それに、清田は、むしろあの無差別狙撃犯は死んで当然の人間だと考えており、正義が成されたのだと確信していた。

 だが、清田のその精神の働きですら、無意識の内に相手を同じ真っ当な人間ではないと断じて、殺人に対する正当性を自己の内で作り上げるという、精神的な防御機構でしかなかった。

 京子はおっかなびっくりといった様子で、静香と一緒に路地から通りに出た。

 清田の言葉通り、銃弾が飛来する事は二度となかった。

 

「田中さん…貴男、撃たれたんですよね?」

 

 傍までやってきた京子は、清田の右胸に刻まれた弾痕を見て、確かめるように訊ねた。

 弾痕の周囲のタクティカルベストの生地は着弾の衝撃と高熱で繊維が飛び散り、焦げ付いていた。

 

「ええ。幸い、これのお陰で大事にはなりませんでしたが」

 

 右胸のポケットから砕けたフォールディングナイフを取り出して見せる。

 ナイフとプレートのお陰で致命傷とはならなかったが、その衝撃は生易しいものではなく、いずれ激痛に襲われるだろう。

 清田が着用しているのがシンプルなプレートキャリアーではなく、トラウマパッド(衝撃緩衝材)を装備したボディアーマーならばその負傷もかなり軽減出来たのだろうが、動きやすさと軽量さを優先した為の結果だった。

 すると、被弾の事実を意識した途端、戦闘を無事に潜り抜けたという安堵感から脳内麻薬の麻痺効果が切れたのか、右胸にヘビー級ボクサーの一撃を喰らったような重い痛みを覚え、清田は思わずその場に膝を着いた。

 

「田中さん!?」

 

 清田の突然の異変に気付き、京子は慌てて彼の傍に寄り、屈み込んでその顔を覗き込んだ。

 京子と共に静香も、彼の安否を気遣って傍についていた。

 ハンマーで思い切りぶん殴られたような鈍痛は内臓まで届き、呼吸が上手く出来ない。

 フェイスマスクの下でだらだらと脂汗を掻きながら、清田は被弾箇所を抑えてうずくまるしかなかった。

 

「……田、です」

 

「?」

 

 激痛に喘ぎながら清田は掠れた声を漏らしたが、内容を聞き取れず京子は首を傾げた。

 

「…自分の名前は、清田、です…清田、武です」

 

 顔を青ざめさせながら、清田は顔を上げて京子の目を見て、自分の本名を名乗った。

 これで俺はもう謎の男じゃない―不思議と後悔はなかった。

 

「清田…武」

 

 反芻するように、京子は彼の名を呟いた。

 名前を呼んで貰える―たったそれだけの事だが、そうして初めて清田武という個人として、彼女らに認識された。

 漸く、実体のある一人の人間として、彼女達と顔を突き合わせる事が出来るのが嬉しかった。

 何度か肩で荒い吐息をつき、呼吸する事だけに意識を集中させ、肉体を緊張させないようにする。

 強張った肉体はダメージを逃がしにくいので、そうなるとそれだけ回復は遅れる。

 “戦術的呼吸法”を実施していくと、少しだけ痛みが和らいできた。

 何とか動けるぐらいまで回復した清田は、二人の肩を借りて立ち上がった。

 

「…ご迷惑をおかけしてすみません」

 

 清田は痛む被弾箇所をさすりながら、肩を貸してくれた二人に詫びた。

 

「いえ、それよりも…大丈夫なんですか?」

 

 京子が、傷付いたその身体を労るように言った。

 

「負傷の程度は解りませんが、行動に支障はないと思います…多分」

 

 痛みに顔をしかめながら、清田は言った。

 酷い打撲により、もしかして肋骨にヒビが入っているかもしれない。だが、子供の頃に肋骨の骨折を経験している清田は、その可能性は低いと考えていた。

 個人差や箇所によっては変わるだろうが、骨折したりヒビが入っていれば、寝起きするだけでもかなりの苦痛を伴う事が多い。

 今はずきずきとした疼痛を感じるだけであり、多少の呼吸のし辛さはあるが行動に支障を来すレベルではないと感じた。

 清田は長身を折ってずしりと重いデイパックを拾い上げ、肩に背負った。重みが傷に響き、堪える為に歯を食いしばった。

 

「余り此処に留まってはいられません。かなり大きな音を出し続けていましたから」

 

 清田は小銃を構えるなり、後方を振り返って発砲した。

 押し殺された銃声と同時に、のろのろと集まってきた数体の<奴ら>が頽れ、人体が地面に叩きつけられる湿った音を立てた。

 サプレッサーによって幾らか抑制されているとはいえ、射撃の反動が胸に堪えた。

 

「移動しましょう。目的地はもうすぐそこです」

 

 二人は頷き、一行は狙撃兵のキリングストリートを後にした。

 

†††

 

 

 清田は絶句していた。

 眼前に広がる、余りにも凄惨な現状に彼は言葉を失っていたのだ。

 清田を始めとした一行は、時折遭遇する<奴ら>を止むを得ない場合にのみ排除しつつ、人気の少ない通りを選んで目的地を進んでいた。

 そして集合地点である床主城からは目と鼻の先の所で、一行は立ち往生を余儀なくされていた。

 清田は、雑居ビルの物陰から、市街地西部の中心地を走る大通りの様子を観察していた。

 そこで繰り広げられているのは、もはや戦争と言っても過言ではないほどの熾烈な暴動だった。

 通りに面する主要な建物は打ち壊され、駐車していた車は炎上し、人々は生者も死者も関係なく殺し合っていた。通りに打ち捨てられた様々な人間の死体は数えるのも苦労するほどだ。

 外国でしか起こらないと思われていた大規模な、いやそれ以上の暴動が日本で起きるなどと、清田は思いたくはなかったが、現実は直視しなければならない。

 唐突に発生した殺人病の感染大爆発(パンデミック)によって引き起こされた社会不安が、このように極端な形となって発露したのだ。

 正直、此処を通りたくはないが、市街地の中心部に近付くにつれて人気の少ない場所を選んで進むのは既に限界があった。

 途中、此処に到達するまで生存者とは何人かすれ違ったが、彼らの殆どは自分の命を守る為に逃げるのが精一杯で、清田の存在など眼中にはなかった。

 何人かは清田の存在に気がついたが、物々しい重装備の兵士に声を掛けようなどという胆力を備えた人間は皆無だった。

 尤も、清田にとってはそれが幸いだった。これ以上、他の人間に関わる事は出来ない。

 今は新床第三小学校を目指すようにとしか言えない。助力を請われても手を差し伸べる事が出来ない現状には歯痒かった。

 自分はスーパーマンなどではない。与えられた任務から大きく逸脱しての救助は不可能だった。

 静香と京子を此処まで護衛してきたのも、あくまで任務に逸脱しない範囲でだ。高城邸を目指しているのは、そこにいけば司令部との何らかの通信手段を確保出来ると見込んでいるというのもあった。

 清田は後ろを振り返り、二人を見た。

 彼女らも大通りの光景は目の当たりにしており、より一層緊張した面もちでいた。

 

「今から、此処を突っ切ります。なるべく、自分の後ろから出ないようにしてください」

 

 静香は無言で頷き、京子はズボンのウェストから拳銃を引き抜いた。

 

「回避不可能な脅威については自分が排除します。しかし、自分も万能ではないので、脅威の察知については限界があります。なので、お二人には自分の視界外のカバーをお願いします」

 

 清田は二人に、具体的な監視方向と報告要領を説明し、それを彼女らが理解した所で、いよいよ気持ちを引き締めた。

 

「焦らず、落ち着いてください。必ずお二人の安全は自分が守ります。だから、自分に協力してください。何があっても、自分を信じてください」

 

 これを成功させるには何よりも二人の協力が必要だった。

 練度の高い同僚であれば、何も言わなくても一個の生物のように完成された連携で難なく乗り切れる所だが、素人の女性を交えての市街地戦闘行動は、清田でなくても頭を抱えたくなるほどの難事だ。

 だが、やらなければいけない以上、それを達成する為に創意工夫を凝らさなければならない。

 二人が落ち着き、手順を確認し、反復練習した所で、清田は満足そうに頷いた。

 

「それでは行きましょう。そして自分が指示しない限り絶対に走らないで下さい。早歩き程度で問題ありませんから」

 

 清田は流れるように淀みない足運びで、小銃を油断なく構えながら大通りに出た。

 上体がまるで自動追尾装置を搭載している戦車の砲塔のように、一切ぶれる事なく小銃を暴徒に向け続ける清田の背後に二人は続いた。

 暴徒の中で特に目立つのは、日本刀や鈍器、果ては小口径火器で武装した集団だった。

 勿論、清田はその集団に対する警戒を強めていたが、願わくば此方には気が付かないで欲しかった。

 しかし、直ぐにそのささやかな願望は打ち砕かれた。

 その集団を束ねていると思しい、裸の上半身が入れ墨に覆われている、スキンヘッドの中年が目敏く清田達を見付け、傍らの男達に彼を指差しながら何事か指示を飛ばしていた。

 命令を与えられた複数の男達は、それぞれの得物を手に、血走らせた目に狂気を宿して此方に向かってきた。

 清田は素早く、男達の戦力を冷静に分析する。

 鈍器や刃物、日本刀で武装している男達の中で一番脅威が高いと判断したのは、狩猟用の上下二連装式の散弾銃を抱えている男だった。

 その男は、他に比べて遠距離から攻撃可能な銃器で武装しているので、既に此方に銃口を向けようとしていた。

 

「撃つな! 撃つな! 撃つんじゃない!!」

 

 清田は声を張り上げて必死に警告した。

 だが、それにも関わらず、男は上下二連式散弾銃の銃口を彼に、明確な敵意と殺意を込めて向けた。

 刹那、男の命運は決まった。

 男よりも早く且つ精確な照準を終えていた清田は、躊躇う事なくその頭部にダブルタップで5.56mm高速弾を撃ち込んでいた。

 超音速の銃弾を二発も受けた男の頭部は、瞬時に爆裂した。

 命令系統を失った男の身体はその場に頽れ、引き金に掛かっていた指がその衝撃で引き金を絞り落としてしまい、結果的に散弾銃を暴発させた。

 散弾はあらぬ方向へぶち撒けられ、不運にも前方を走っていた仲間の男の背を抉った。

 約9mmの鉛粒のダブルオーバックが十二発も着弾するその威力は、単純に9mm口径の拳銃で瞬時に十二回撃たれるのにも等しく、不運なその男は幸運な事に即死してもんどり打って倒れた。

 

「止めろ! 此方に危害を加えようとするな! でなければ撃つぞ!!」

 

 直接的に一名、間接的に一名の計二名を一瞬で制圧したが、清田は迫り来る男達に向かって警告を続けた。

 相手はあくまでも日本国国民であり、暴徒と化していようがそれは変わらない。

 既に形ばかりの警告なのかもしれないが、それでも清田は己の職務に忠実であろうとした。

 しかし、完全に狂気に飲み込まれてしまった男達は、仲間が清田の正確無比な射撃に倒れようとも自制など出来る筈もなく、目を血走らせて確実に距離を詰めて来た。

 清田ほどの射撃の腕前を持ってすれば、男達の手足だけを撃ち抜くのは造作もない。

 かといってそれでは完全に無力化できた訳ではなく、少しでも反撃の余地があるのならば脅威として存在し続けるという事でもある。むしろ興奮状態にある中で中途半端な傷を負わせても逆効果でしかない。

 自分と、静香と京子の命を守る為にも、確実に脅威は排除しなければならなかった。

 馬鹿野郎どもが!―清田は心底から獣にまで身を落とした男達に怒りとも呆れともつかない感情を抱き、だが、容赦なく引き金を絞っていった。

 最初に、一番清田へと接近していた肉切り包丁の男を、続いてゴルフクラブを持った男、金属バットを持った男―三人の人間が、ほぼ同時に頭部を撃ち砕かれて肉塊へと変わった。

 五人の仲間が即死するという状況に、流石にスキンヘッドの男も戦意を挫かれた様子で、明らかに戸惑いの表情を浮かべていた。

 だが、清田は、その男を含めて、現在対峙している脅威集団と見做していた。

 直接手を下さずとも、戦闘員に対して非戦闘員が攻撃を加えるように指示をした時点で同罪だった―スキンヘッドの男も、清田に頭と胸を撃ち抜かれて制圧された。

 瞬き一つの間に五人の命を奪ったが、清田には欠片も罪悪感はない。

 自身の行為は何ら道理に外れてはおらず、正当防衛の範囲で無法者どもをやっつけたのだ。

 そうしなければ自分ばかりか、か弱い女性二人まで命の危機に瀕するのだ―清田は何時の間にか、己が躊躇なく振るう武力の根拠を、静香と京子に求めていた。

 一方的な殺戮を終えたというのに清田の肉体と精神は全くの平静で、理想的な状態にあった。

 度重なる高度な訓練と条件付けが、年若い青年を呵責なき戦争兵器へと仕立て上げるのが立証された瞬間だった。

 たった一度だがそれで充分すぎた。

 銃弾の中を潜り抜けた事実が、実戦知らずのエリートを、本物の熟練した戦闘員へと変貌させたのだ。

 

「清田さん! 後方に注意!」

 

 背後に追随する京子が、落ち着いていながらもはっきりとした声で清田に注意を促した。

 清田は即座に左足を軸にして反転すると、ACOGサイトに猟銃を構える男を捉えた。

 先程、撃ち殺したのとは別の男が、猟銃の狙いを清田に定めていた。

 清田は男よりも早く引き金を二回引いたが、照準が充分ではなく、頭部ではなく胸に一発しか命中させられなかった。

 だが、生身の胸に高速の小銃弾を受ければ無事で済む筈もなく、男は猟銃を取り落としてその場に膝を着いた。

 そうなってはもはやただの的である。速やかに頭部に一発を撃ち込み、血煙となって消失する脳髄と共に男を無力化した。

 

「このまま床主城へ向かいましょう」

 

 小銃を構え、周囲に油断なく銃口を巡らせながら清田は足早に大通りを進んだ。

 狂乱の渦と化している市街地では、もはや清田の存在はある意味では歯牙にも掛けられないほどちっぽけな存在だった。

 清田達を狙ったあの集団は、偶々彼らを発見しただけであり、特に理由もなく暴力の矛先を向けただけだった。

 清田が重武装の自衛隊員であるからとか、魅力的な美女を二人も連れているとか、そのようなものは彼らの眼中には全くなかった。

 みんなでやれば、怖くない―人が集まれば必ず増強効果が生じる。喜びが存在すれば、人が集まる事で倍加する。攻撃性が存在すれば、人が集まる事で更に高まる。

 理由もなく振るう陰惨な暴力の味に彼らは酔っていただけだった。

 それは祭のようなものであり、同じ目的を持った人間が一カ所に集まれば群集心理により、一度振るわれた暴力は留まるところを知らずに膨張していく。

 普段は法律や道徳規範によって抑圧されていた獣性が、社会的混乱と暴動によって解き放たれた人間が大勢集まっているからこそ、清田は向かってくる暴徒を撃ち殺すだけで良かった。

 それは助けを求められるよりも簡単で楽な事だった。

 引き金を引くだけで良いのだ。それで全てが解決する。

 殺人によって良心が痛む心配もない。何故なら、連中は俺と二人の女性を殺そうとするからだ―自己の大義及び正当性を信じているからこそ、清田は滑らかに作動する戦争機械として機能し続ける事が出来た。

 法と秩序とその他諸々の、善にして聖なるものを踏みにじった、血に飢えた恥知らず共を駆逐するのに如何して躊躇いがあろう!―それはある意味では危うかった。

 静香や京子の為、若しくは助けを必要とする人の為、という根拠があれば、清田はどんなに残酷な事も平気で実行可能な状態にあると言えた。

 勿論、道理に著しく外れた事の判別はつくが、人間に必ずという言葉はあり得ない。

 今の彼は、倫理的距離によって罪悪を感じる事のない殺人マシーンと化していた。

 そんな清田自身にも自覚のない、自動操縦に近い肉体の反応のままに、脅威とそうでない者を判別しながら通りを進み、やがて道路の青い案内標識が見えた。

 一〇〇メートルほど進めば、広々とした四車線道路の床主大橋へと辿り着く。

 清田達は、若干大橋を見下ろせる小高い位置におり、そこから橋の上の惨状が具に見て取れた。

 大橋は警察と消防によって交通規制が為されており、車両は完全に通行止めとなっていた。人々は徒歩で橋を渡ろうとしていたが、警察の検問を受けなければ通行は許可されず、通行しようとして噛まれていてまだ意識のある者は警官達によって何処かに連れて行かれた。

 生者も死者も入り乱れる混沌と化しており、許可待ちの通行者の列には<奴ら>と化した者達が襲い掛かり、事態は収拾がつかない状況にあった。

 時折、警察の誘導に従わずに橋を渡ろうとする者は放水車によって排除され、高水圧の水放射で橋の上から吹っ飛ばされる。

 大橋を渡るという選択肢は有り得なかった。

 わざわざあの混乱の渦中に飛び込んで無事でいられるという自信は、流石の清田にも無かった。

 自衛官の身分証明書は携行しているが、そんなものを見せた所ですんなりと通して貰えるとは思えない。行儀よく順番を待っていれば<奴ら>に食い殺されるのがオチだろう。

 強行突破という選択肢も有り得ない。

 治安維持の為に命を投げ打っている警察官や消防士に対して銃を向けるなど出来る筈もない。

 床主大橋とは別に、下流に架かっている御別橋も同様の事態にあると考えるべきだろう。

 渡河の手段は、また、考えなければいけないが、当初の目的は床主城で冴子達と合流する事だ。

 時刻は既に一七〇〇を回っている。一時間もしない内に暗くなるだろう。

 清田達は、御別川に沿って続く川岸上の二車線道路を下流に向かって歩き、床主城を目指した。

 やがて十分と掛からずに、床主市の観光スポットの一つである、床主城の大きく頑丈そうな城門の前までやってきた。

 城門は閉まっており、敷地内には簡単に入れそうにない。

 清田は床主城の案内板を眺め、周辺の地形を頭に入れた。床主城はぐるりと城壁に囲まれており、出入りは北と南に設けられたら城門からしか出来ないようだ。

 関係職員用の出入り口も幾つかあるようだが、鍵が閉まっているだろう。尤も、清田は殆どの扉を開けるマスターキーーいざとなればスラッグ弾で鍵を吹き飛ばすだけだーを携行しているので、これはさほど問題とはならない。

 床主城で落ち合おうとは言ったものの、床主城の何処に集合するとまでは決めておらず、妥当に考えれば城門前なのだろうが、北門と南門とでは正反対の方向に位置している。

 北門で待ち続けていたら実は南門に、また、逆の事態も起こり得る。

 分派してそれぞれで待機という案を思い付いたが、二人の内のどちらかを自分の目の届かない所に置いておくのは心配であり、清田はこの考えをすぐに却下した。

 集合は今日の午後五時までと決めており、このままぐずぐずしていたら日が完全に暮れてしまう。左腕にはめたプロトレックの液晶画面に目を落としながら、清田は逡巡した。

 今日が駄目なら明日の同じ時間とも決めている。三人の、特に沙耶の安否が気になるが、何時までも此処に留まり続ける訳にもいかないだろう。

 

「当初はここに集合する予定でしたが、既に集合時間を過ぎています。待ち続けても彼らが来るという保証もありませんし、我々も身を守らなければいけません」

 

 清田の言わんとしている事を察した二人は、素直に頷いた。

 

「そこで今日は、何処か安全な場所に身を隠そうと思っています。自分はこの辺については何も知らないので、お二人は何処か思い当たる場所がありますか?」

 

 清田の問いに、静香がおずおずと手を上げて答えた。

 

「この近くに私の友達が住んでるの。長く家を空ける時は、私がお掃除とかをしにいったりするから、今日はそこでお休みしましょう」

 

 静香の提案は、この場にあってはまさに渡りに船だった。

 野営に慣れている清田は、三日四日ぐらい野晒しで過ごすのには何ら抵抗はないが、流石に妙齢の女性をそのような目に合わせるのは気が引けていたので、そうならずに済みそうでほっとした。

 

「では、そうしましょう。鞠川先生、道案内をお願いします」

 

 清田が先頭に立ち、すぐ後ろに静香が追従する。

 そうして踏み出した矢先だった。

 

「清田さん。あれ、もしかして…」

 

 静香が指し示す方向に、今となっては懐かしい顔触れが見えた。

 木刀を逆手にして腰に携えた、遠目からでも凜とした静謐な雰囲気を漂わす黒髪の少女も、どうやら此方に気付いた様子だ。

 その後ろに続く、小太りの少年や、ツインテールの少女も同様だ。

 

「ご無事で何よりです、田中さん」

 

 その落ち着き払った美貌に一切翳りのない冴子が、開口一番、涼やかな微笑みと共に此方の健在を喜ぶ声を掛けてくれた。

 腰に携えた木刀は、分断される前よりも多くの血糊が染み着いているように見受けられた。実際、真新しい血脂が西日を受けてぬるりとした光を発していた。

 それだけで、此処に至るまでの彼女らの道程も、自分達と同様に生半可な修羅場ではなかったのを物語っていた。

 

「いえ、そちらこそ…」

 

 無事で良かった、という言葉を清田は続ける事が出来なかった。

 音もなく、唐突に冴子が距離を詰めたからだ。

 既に二人の距離はお互いの吐息を感じられるほどであり、清田よりも頭一つ分以上も背の低い冴子は、まじまじと彼の右胸を注視していた。

 ふわり、と少女剣士の爽やかな汗と甘やかな体臭の混じった匂いが鼻腔を擽り、清田は微動だに出来なかった。

 

「これは…どうされたのですか?」

 

 冴子に真剣な眼差しで問われ、清田はたじろいだ。

 清田の右胸―そこには被弾した痕跡が禍々と刻まれており、先刻の狙撃者との死闘で受けたパープルハート(名誉負傷章)と言えた。

 

「市街地で狙撃されまして…幸い、大した傷ではありません」

 

 相手を無力化した、つまり粉々に吹っ飛ばして殺したとまでは言えなかった。

 女子高生に面と向かって「俺は人を殺した」と発言するのは、未成年者の情操教育上よろしくないように思えたが、多くの人間の死を目の当たりにしているのに今更という感はあった。

 既に何人も殺している。

 それは仕方がなかった事であり、今でも正しい選択だったと自信を持って断言できる。

 だが、改めて言葉にして発するとなると、途轍もなく非人道的な行いのように思えて、己の罪深さに嫌気が差す。

 殺したあのゴロツキ共の一人一人に両親がいて、家族がいて、妻子がいたのかもしれない。

 自分が撃った銃弾で、それら多くの人間が悲しみに暮れるのかもしれないと思うと、あまり良い気分とは言えない。

 これについては考えるだけ無駄だ。今は余計な思考にエネルギーを割いている場合ではない―清田は罪悪という名の底無しの深みにはまりそうになった思考を引き揚げ、気持ちを切り替えようと努めた。

 

「そうだったのですか…お互いに苦難の道程でしたね」

 

 冴子の物静かな語りから感じ取れたのは、苛烈な戦闘を生き残った者のみが共有する、肉親の情よりも深く強固な連帯感だった。

 彼女も、清田と同様に先頭に立ち、文字通り血路を切り開いてきたのだ。

 鍛錬用の本赤樫の木剣は頑丈だがずしりと重く、剣の熟練者が振るえば人間を一刀で撲殺する事など造作もない。

 幼少の頃より父親に剣術を叩き込まれてきた冴子は、若くして“腕前”のみは達人の域に達している。

 その彼女が例え真剣でなくても帯刀している時点で、銃火器で武装している素人以上の戦闘能力を有しているのは明白だった。

 しかし、冴子といえども決して楽ではなかった様子で、それが言葉の端々から察せられた。

 冴子は清田から離れると、静香に向き直った。

 

「鞠川校医、あなたの持ち物を預かっている。少しばかりテーピングをさせて貰ったが、構わないだろう?」

 

 肩に掛けていたバックを静香に手渡す冴子の右掌は、血の滲むテーピングテープに覆われていた。左手も同様なのは想像に難くない。

 両の掌の皮が剥けるほど、木剣を打ち込み続けたのか―多くは語らない、毒島冴子という少女の精神的な頑健さに、清田は頼もしさよりも畏怖を覚えた。

 

「毒島さん、後で傷を見せて頂戴。適切な治療をしないと化膿してしまうわ」

 

 冴子からバックを受け取った静香は、その傷の具合を気遣う。

 途中で退行が著しかった静香だが、今では自分の本来の役割と立場を取り戻した様子で、己の仕事をこなそうとしていた。

 それはとても好ましい事だろう。

 自分に出来る事をやれるだけで、人は無力感から脱する事が可能だから。

 

「あと」

 

 今度は清田を振り向き、彼女は言葉を続けた

 

「清田さんもですからね。胸の傷、酷いかもしれませんから」

 

 静香が医療従事者であるのが幸いだった。

 清田にとって胸の負傷は、己の見立てではたいしたものではないと考えていたが、やはり少なからず不安があった。

 この状況下にあっては、専門的な知識と技術、経験を備えた人間の診断を受けられるのがこれほど有り難い事だとは思わなかった。

 

「それに林先生も頭の傷を診せて下さい。耕太君や高城さんも怪我していたら教えてね」

 

 水を得た魚、といった様子で細やかに負傷者の把握に努める姿こそが本来の静香なのかもしれないと、清田は思った。

 

「それではぼちぼち移動しましょう」

 

 清田は静香の友人宅へ向かう道中、自分の本名を合流した三人に名乗り、いよいよこのグループの一員になったのを実感した。

 己のIDに関する秘密保全が出来ないようでは特殊部隊員としては失格かもしれないが、今は生き残る為にもこの集団との繋がりを深めなければいけない―尤もらしい理由を付けて、清田はこれを正当化した。

 

 

†††

 

 

 静香の友人宅は、高台に建てられたメゾネットタイプの賃貸住宅であり、真新しい外観とその洒落た造りからかなりの高級物件と思われた。

 共用の門から階段を上ってエントランスへ接続する方式なので、簡単なバリケードを築けば外部からの直接の侵入を防げそうだ。

 見晴らしが良いので、周辺の監視にも最適だろう。

 門の隣は各部屋の駐車場であり、大型の四輪自動車が一台だけ停められていた。

 清田はその車を一目見て、思わず口笛を吹きそうになった。

 おいおい、一体何処でこいつを手に入れたんだ?―見慣れたOD色の車両は、普段から乗り慣れている車種だった。

 幅広の角張った車体を持つ高機動車は、米軍のハンヴィーと同様の車両を自衛隊が要求した為に製作された。

 ハンヴィー同様、車体はファミリー化されているのだが、イラクに派遣されるまで追加の装甲キットは用意されず、一部の部隊を除いて装備されている車両の殆どはFRP製の車体と幌布を備えるだけの非装甲(ソフトスキン)である。

 通常仕様の高機動車は著しく耐弾性能が低いが、重い装甲がない分、車体が軽く、優れた駆動装置により、大柄な車体でも軽快な機動性を発揮するので、非常に操作しやすい。

 また、車体が大きいのだが、4WSなので旋回半径も意外と小さいのが特徴でもある。

 

「戦車みたいなその車は、私の友達のものなの」

 

 静香のその言葉に、いよいよその友達とやらの存在は謎めいてきた。

 高機動車はトヨタが開発しており、民生版のメガクルーザーが一時期発売されていたが、今では自治体や政府機関からの纏まった注文がなければ民生向けバージョンは生産されない。

 問題なのは、そこに停めてある車体が自衛隊仕様である事だ。

 自衛隊仕様は勿論、自衛隊にしか販売されていない。どうやってこれを手に入れたのかは分からないが、その友達とやらはただ者ではなさそうだ。

 

「高機動車だ…」

 

「一体どんな友達なのよ…」

 

 耕太と沙耶も見慣れぬ軍用四駆車には脱帽している様子だ。

 一行は敷地内に入り、門には忘れずに鍵をかけた。

 そしてエントランスへと続く階段を上る途中で血痕を見付け、今日という一日は簡単に終わりそうにないのを否が応でも思い知らされた。

 階段を上りきり、メゾネットへのアプローチの広場で立ち止まり、陣容を整える。

 周辺は視界が開けており、エントランス前の広場の左右には、各部屋の庭が広がっていた。

 そこに<奴ら>が潜めそうな植え込みもないので、建物へ入る前に簡単なブリーフィングを行うには適した場所だった。

 

「建物へは自分一人で入ります。残りは此処で待機し、もしもの時に備えて下さい」

 

 当然すぎる判断に全員が頷き、清田は静香から部屋の鍵を受け取った。

 

「いえ、私も一緒に行きます」

 

 だが、冴子だけはそう申し出た。

 清田は怪訝な表情で少女を見やり、その真意を問うた。

 

「…どうしてその必要が?」

 

 まさか、俺一人では心配だとでも言うのだろうか?

 だとしたら、随分と侮られたものだな―曲がりなりにも戦闘を職業とするプロフェッショナルであり、しかもただの自衛隊員ではない。

 選りすぐられた精鋭として訓練を積み重ねてきた、特殊部隊の一員なのだ。それが武道を修めている女子高生に心配されるようでは笑い話にもならない。

 

「不測の事態に備えるのがそんなに悪い事でしょうか?」

 

 少しばかり反抗的な冴子の物言いに、一瞬、腹を立てそうになったが、そこはぐっと堪えた。

 アドレナリンの残滓が残っているのだろうか?―何時もよりかっとなりやすい己の迂闊さを戒め、清田は深く息を吐いた。

 落ち着け。こんなに頭に血が上りやすいようでは、次の戦闘では必ずミスを引き起こすぞ―今は冷静にならなければいけない。

 物事に慣れる事はあっても、それを軽んじるようになってはいけない。

 悪い兆候だ。

 慣れてきた事でも、常に初心を忘れずに、習い覚えた手順通りに実行できるように気を付けなければならない。

 よくよく考えれば、冴子の言葉にも一理ある。

 CQB(近接屋内戦闘)に於いてのクリアリング(屋内捜索)は、原則として複数人で行わなければならない。単独で突入すれば忽ち、死角に潜む敵から攻撃を受ける可能性が高まるからだ。

 複数人がそれぞれの役割を分担し、一つの部屋を迅速に捜索・制圧する事で相手に反撃の暇を与える事なく、作戦を遂行する事が出来るのだ。

 人質の救出作戦ともなればそれはより高度なレベルを求められ、秒単位のスケジュールを実行し、また変化する状況に対応しなければならない。これは個人の練度も当然だが、チームワークも必要となってくる。

 今回は建物内に潜んでいるかもしれない<奴ら>を掃討するだけなので、迅速性は必要ないが細かな範囲までしっかりと捜索しなければならない。

 その為には簡単な手順を決めて、ある程度の連携を確保する必要があるだろう。

 

「…分かりました。では、自分が前衛(ポイントマン)を務めます。毒島さんに守って頂きたいのは、自分よりも絶対に前にでない事、これだけは確実に守って下さい。銃の射線上に入るのは大変危険です。誤射してしまうかもしれませんので…脅威についてはなるべく自分が排除しますが、万が一、自分が見落としている標的があれば、それの制圧をお願いします」

 

 状況が複雑となりやすいCQBに於いて絶対にやってはならないのは、射線が交錯した末の友軍相撃である。

 人間は必ずしも正しい判断を咄嗟に下せるとは限らないので、ならばそのような状況をなるべく作り出さないようにするのが最善の手段だろう。

 

「承知しました」

 

 これから臨む戦闘前の独特の緊張感を滲ませた表情で、冴子は頷いた。

 

「それと中は暗いと思うので、これを使って下さい」

 

 清田はベストの胸ポケットから小振りなタクティカルライトを取り出し、冴子に渡した。

 既に太陽は地平線に接しており、西日の届かない屋内は暗いだろう。

 

「よし…耕太君、俺の荷物を預かっておいてくれ」

 

 冴子にライトの使い方を教えてから、清田は少しでも身軽な格好で臨むべく、背負っていたデイパックを耕太に渡した。

 

「分かりましたぁっ!?」

 

  デイパックを受け取った瞬間、耕太は武器弾薬がぎっしり詰まったそれの重みに素っ頓狂な声を上げ、危うく取り落としそうになった。

 

「男ならもっと鍛えようぜ? それじゃ、女性陣の事は頼んだぞ」

 

 耕太の肩を叩き、清田は冴子と共にエントランスへ足を向けた。

 彼に散弾銃を渡そうかと迷ったが、流石に男子高校生に実銃を渡すのは躊躇われたし、それに鍵を破壊して部屋を捜索する必要性があるかもしれないので、やはりそうするべきではないだろうと判断した。

 綺麗に掃き清められたエントランスは掃除が行き届いており、大理石の床の所々に点在する血痕が異質な雰囲気を醸し出していた。

 薄暗い屋内へ足を踏み入れた途端、濃密な血と死の臭いに冷や汗が吹き出る。

 火力よりも屋内での素早い取り回しを考えた結果、清田は小銃からサプレッサーを装着した拳銃に持ち替えており、銃身下部のレールに装着しているフラッシュライトで隅々まで照らした。

 強烈なライトの光が、質量を備えたかのように重い薄闇の中から様々なもののシルエットを照らし出す度に、清田は心臓が飛び上がりそうな緊張を味わっていた。

 願わくば、<奴ら>を照らさないでくれ―幸い、エントランスに不穏な影は見当たらなかった。

 安全化したエントランスを横切ると、各部屋への玄関扉が左右に並ぶ廊下からは声ならぬ複数の呻き声が聞こえてきた。

 清田は壁に身を寄せ、後方の冴子を振り返った。

 宵闇の中、少女の白い顔(かんばせ)が仄かに浮かび上がっていた。

 美人な幽霊がいるとしたら、まさにこんな感じなのだろうか―取り留めのない事を考えながら、清田はその傍に寄った。

 

「先ずは左から掃討します。自分の合図があるまで、廊下にでないで下さい」

 

 冴子は無言で頷き、しゃらり、と鴉の濡れ羽のような髪が揺れたのが気配で確認できた。

 清田は静かに呼吸してから、音を立てないようにそっと廊下に躍り出た。

 そして左の廊下に銃口を擬し、眩い白光が揺れ動く人影を闇の中から浮かび上がらせる。

 目も眩むほど強烈な光の直撃を網膜に受けているというのに、彼らは虚ろな眼差しで虚空を見つめていた。

 数は全部で三体。

 一番遠い標的でも距離は十メートルも離れていない―それぞれの頭部にダブルタップで9mmパラベラム弾を撃ち込み、殆ど同時に三つの湿った音が響く。

 すかさず清田は反転し、今度は右の廊下に拳銃を向ける。

 数は同じく三体。

 既に音に反応し、のっそりと此方に向けて歩み出していたが、それらも難なく無力化した。

 これで廊下にいる分は全部だろう―清田は肩の力を抜いて銃口を下げた。

 瞬間、ぱっと足元に浮かび上がったのは、ずるずると這いずる物体だった。

 それは両足を食いちぎられた犠牲者だった。

 歩行手段を失っても尚、死する肉体を突き動かす飢餓感に従って、彼は奇妙にねじ曲がった指先を清田の両足首に万力の如く絡めていた。

 見落としていた?!―清田は咄嗟に下方を狙おうとしたが、亡者の鬼のような引き込みに足元を掬われ、受け身も取れずに背中から地面に倒れ込んだ。

 ごとん、と鉄帽が重い衝突音を響かせ、頸椎が湿り気を帯びた軋みを上げる。

 清田は頸の痛みに気を割く暇などなく、上体を僅かに起こして迫る亡者に拳銃を向けようと必死になった。

 だが、既に亡者は口をかぁっと開き、装備に覆われていない彼の無防備な股間にかぶりつこうとしていた。

 くそ、金玉を食われて俺は死ぬのか?―コンマ数秒の後に襲い来るであろう男の激痛の予感に陰嚢がひゅっと縮み上がり、清田は己の情けない最後に諦観していた。

 ふわり、と風が舞った。

 黒豹のように軽やかな影が、横合いから躍り掛かるや否や、ゴルフのスイングよろしく下方から峻烈な斬り上げを放っていた。

 清田の股間に迫っていた餓鬼の顔が、上顎から削ぎ飛ばされ、びしゃり、と腐りかけた血を飛散させて壁に打ち付けられた。

 舌を根元から露出させた、上顎のない死体が、くたりとその膝の上に頽れる。

 暫し清田は、だらりと延びきって脱力した死体の舌と喉奥を眺めていたが、やがて自分に代わって周辺を警戒する人影を見上げた。

 冴子は左手にライトを握り、右手には切っ先を下げた木剣を携えながら、左右に他の敵影を探し求めていた。

 全ての脅威を排除し終えたのを確認し、冴子は安堵の吐息を漏らすと、床に仰向けになって転がる清田を振り返った。

 

「大事ありませんか?」

 

 左手のライトを制服のポケットにしまい、再び暗闇に沈んだ冴子が、自由になったその手を清田に差し出す。

 

「あ、ああ…」

 

 未だに茫然自失の清田は生返事で、差し出されたその手を握った。

 

「っつぅ…!」

 

 しかし思いの外力を込めすぎたようで、冴子が苦痛に端正な顔を歪める。

 

「あ! すみません…」

 

 己の思慮の足りなさに清田は慌てて手を離し、自力で身を起こして立ち上がった。

 清田を見下ろしていた冴子は、再び彼に見下ろされる形となって元の立場に戻った。

 だが、清田は、プロの戦闘者としての精神的優位性を完全に失ったと感じていた。

 あれだけ偉そうにしていて、女子高生に命を救われるとは―ほとほと、己を見下げ果てた気分だった。

 

「これからどうします?」

 

 ライトを再び手にした冴子が、清田の指示を待つ。

 自分よりも惰弱と思っていた存在に命を救われ、感謝と共にななんとも煮え切らない感情を抱えていたが、それはおくびにも出さず、清田は思考を切り替えた。

 過ぎ去った事は考えても仕方がない。

 今、重要なのは、己の不始末を、この少女剣士が片付けてくれたという事だ。

 詰まらないプライドは捨てろ。任務を邪魔する要素は全て排除しろ―冴子の英雄的な行動には一点の曇りもなく、それは感謝して然るべきだ。

 

「先ずは鞠川先生の友人の部屋をクリアリングしましょう…先程と同じ手順で」

 そう言ったものの、心なしか言動に自信が持てないのは気のせいだろうか?

 

 

†††

 

 

 メゾネットには全部で八世帯が入居しており、先ず最初に静香の友人宅を安全化した所で、外で待機していた人員を招き入れた。

 清田と冴子が屋内に突入した後、敷地内に別の<奴ら>がいたそうだが、耕太の釘打ち機で難なく撃退しており、犠牲は出ていない。

 そうして四人には休息を取る為の準備をしてもらい、その間に清田と冴子の両名は残りの世帯のクリアリングに専念した。

 端から順に虱潰しに捜索・安全化し、清田は先程のような油断は絶対にしなかった。

 最後の世帯を捜索するべく、清田は玄関扉に手を掛ける。

 八度目ともなれば慣れたものだが、同じ間取りとはいえ住人によって家具の配置などが異なるので、未知の領域に踏み込む緊張を保持するのを忘れなかった。

 冴子に目配せをし、彼女が頷くのを確認してから、清田は音を立てないように玄関扉をそっと押し開けた。

 軋みの一つも立てずに扉が開くのは、まだこのメゾネットが真新しいからだろう。扉の蝶番も滑りが良い。

 するりと土足のまま部屋に上がり込み、左手の壁にある照明のスイッチを押そうとする。

 だが、巨漢の清田がフローリングに足を踏み入れた途端、床板がぎしりと鳴った。

 拳銃は部屋に広がる暗闇に向け続けているとはいえ、その中から今にでもその音を聞きつけた<奴ら>に襲われるのではないかと恐れたが、取り敢えずその心配はなかった。

 室内灯の殆どが間接照明な為、部屋が柔らかな光で満たされる。

 <奴ら>の姿はない。

 安堵しそうになるのを堪え、清田は拳銃を構えたまま同じく一階にある風呂場やトイレ、キッチン等をクリアリングしていき、脅威がないと判断した。

 そうして初めて後続の冴子を招き入れる。

 体重の軽い彼女は部屋に上がり込んでも床板一つ鳴らさず、清田の傍までやってきた。

 

「清田さん。あれを…」

 

 冴子が部屋の片隅にあるものを示し、清田もそれについては照明を点灯した時点で気がついていたが、改めて緊張に身を強ばらせた。

 それは箱に収まった幼児用の玩具だった。

 それを確認しなくても、部屋に置かれている調度品や内装、玄関に置かれていた靴からこの世帯には小さな子供がいるのは明白だった。

 冴子が言わんとしている事は察せられた。

 今の今まで、撃ち倒してきた<奴ら>は大人であり、まだ子供の<奴ら>とは遭遇していない。

 果たして、子供の<奴ら>を目の前にした時、二人は今までと同様に、容赦のない攻撃を加える事が出来るのだろうか―清田としては、その答えはイエス以外には有り得ないと考えているが、心情的には難しいと言えた。

 だが、子供だろうが何だろうが、脅威と判断されれば躊躇いなく引き金は絞られるだろう。そうしなければ此方に身の危険が及ぶのは明らかだろうから。

 子供の<奴ら>と自分達の命など秤に掛けるまでもない。むしろ、一刻も早く不運な子供の遺体を自由にしてやらなければと考えるべきだ。

 

「もしも“そういう時”が来たら…なるべく自分が対処します。ですが、毒島さんも心の準備だけはしておいて下さい」

 

 頷く冴子の瞳は、心なしか揺れているように見受けられた。

 技は熟達の域にあるようだが、彼女の精神までそうはいかないと見做すべきだろう―先程の一件で冴子に対する見方を改めた清田だったが、手放しで彼女を評価する事は難しそうだ。

 小さな子供が段差を上りやすいように、低い位置に追加された手摺りなどの工夫が凝らされた階段を上り、二階へと踏み込んで照明のスイッチを入れた。

 家族三人が川の字になって寝られるほど大きなベッドが置かれた寝室にも<奴ら>の姿はなく、清田はひとまず胸を撫で下ろした。

 念の為、ベッド下とベランダも忘れずに確認するが、何ら危険はなかった。

 

「取り敢えず、これで全ての捜索は終わりましたね」

 

「ええ」

 

 冴子も、先程危惧した事態が生起しなかったのに安心している様子で、肩の緊張を解いていた。

 清田は何気なく左腕のプロトレックに目を落とした。

 クリアリングを始めてから既に一時間以上が経過していた。日は完全に没しており、ベランダの向こうに広がる市街地に灯る明かりはまばらだった。

 不意に、くぅ、と子犬の鳴き声のような音が聞こえた。

 清田は何事かと背後を振り返ったが、腹部に手を当てながら恥じらいの表情を浮かべている冴子を認め、合点がいった。

 

「…すみません」

 

 頬を羞恥に赤らめた冴子が、俯き加減に言った。

 戦闘の際は冷徹な剣鬼と化す彼女だが、はにかんだその姿を見るとやはり年頃の少女なのだなと、清田は微笑ましく思った。

 

「いや、俺も腹が減って腹が減って、今にも倒れそうですよ」

 

 清田も自分の腹をさすると、絶妙なタイミングで、腹の虫がぐぅ〜と牛蛙のような鳴き声を発した。

 お互いに顔を見合わせると、どちらともなく吹き出した。

 和やかな雰囲気の中、くすくすと笑い合っていると、今日という一日ですり減らされた魂が少しだけ癒されるような気がした。

 口元に手を当て、品の良い笑い方をする冴子は、美しいというよりも愛らしい少女だと感じた。

 時には青白い炎のように、時には綻んだ花のように、千変万化の表情を見せる毒島冴子という少女は、もしも同年代であったならまさに高峰の存在だっただろう。

 だが、そうやって傷付いた心を癒やす時間は唐突に終わった。

 がたり、とクローゼットの扉が揺れた。

 瞬時にして緊張を漲らせた清田が拳銃を素早く構え、冴子は動じる事なく滑るように移動し、その射線上から身体を外した。

 その中に何が潜んでいるのかは分からないが、脅威である可能性が高いかもしれない。

 冴子に目配せすると、彼女はクローゼットの横に位置してから取っ手に手を掛け、いつでも開けれる態勢を整えた。

 トリチウムサイトをクローゼットに重ね、何が現れても躊躇なく銃弾を叩き込める覚悟を決めてから、清田は頷いた。

 冴子がクローゼットから離れるように扉を開放すると同時に引き金の遊びを殺した。

 サイトの向こうにいたのは、ぐったりと横たわる小さな女の子だった。

 


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