・桧山一翔(ひやまかずま)は食パンくわえ、学校へ急いでいた。
昨日、些細なことで交際している蒼井結衣に怒鳴ってしまった。一刻も早く登校し、謝罪したかったが、いつもはあまりうるさいことを言わない母が、今日に限って風呂掃除を頼んで来た。彼の実家は銭湯を営んでいる為、一般家庭のそれとは比べ物にならないほど手間がかかる。
おかげで数学の宿題が手につかなかったばかりか、間もなく遅刻だ。
『私、子供な桧山より、大人な沙羅井先生の方が好きだなー。』
昨夜、悪夢の中で結衣が発した言葉だ。桧山の不安はMAXになった。
「くっそ、母ちゃんめ!三日は恨むぞ!」
器の小さい恨み言を口にしながらようやく学校に着いた桧山の目に飛び込んで来たのは、彼が最も恐れていた光景だった。沙羅井が結衣を肩に担ぎ、全力疾走している。
結衣はぐったりしている。そんな時ですら、自分は蒼井の助けにすらなれないのだ。
「あの、先生!」
桧山と目を合わせた沙羅井は一瞬気まずそうな顔をしたが、必死の作り笑いを浮かべた。
「蒼井は大丈夫!すぐまた戻るから、お前先に教室戻ってな。」
それだけ言うと、沙羅井は保健室へ向け走り出した。
あの言葉が自分を励ますものだと分かっているのに、桧山はなぜか悔しくてたまらなかった。
諦めろ。お前は無力だ、ただの子供だ。沙羅井ができる事の半分も、お前ごときにできはしない。
桧山の心が悲鳴を上げる。いや、そう『思わされた』と言ったほうが良いかも知れない。
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桧山が学校に着く10分前、花日は驚愕していた。
朝、いつも元気な蒼井結衣をが目に隈を作りやつれて登校したからだ。
「結衣ちゃん!?どうしたの?何かあった?!」
「うん、あのねえ、昨日~、沙羅井先生が~……。」
バタン!と言葉を途切れさせ、結衣はその場に倒れこんだ。
「わあああ~!!どどどうしよう!?結衣ちゃ~ん、しっかりして~!!」
「おいおい、朝っぱらから何の騒ぎだ?」
いつの間にか後ろに立っていた沙羅井を、花日はポコポコ叩き始めた。
「うわ~ん先生の薄情もの~!!結衣ちゃんをかえせ~!」
涙ながらに訴える花日。
だが沙羅井には全く状況が読めない様だ。
「落ち着け綾瀬。とりあえず蒼井運ぶから、お前手ェ貸して……。」
「うえ~ん、バカ~!」
「ダメだこりゃ話にならねえ。高尾!お前んとこの子ウサギ慰めといてくれ。唐沢!すまんが蒼井の代わりに金魚の餌頼んだ!」
呼ばれた二人は即座に動き、沙羅井は蒼井を肩に担いだ。
それからしばらくして、疲れ切った様な顔の桧山が登校して来た。
そんな彼の異常な様子に気が付いたのは、クラスで高尾ただ一人だった。