初夏の日差しを受け、水面がキラキラときらめいている。
あのグラウンドの一件から既に放課後となっていた。
ナルコはいま、サスケから受けた誘いと女子一同の呼び出しを見事に無視して河原の土手に腰を下ろしている。そして考えるのはやはりあの赤いチャクラのことだった。
ナルコは今日の忍び組手で一瞬だけ赤チャクラを使用していた。
赤チャクラは一定以上引き出すと、ナルコの全身に鎧のように纏わり付き、更には尾てい骨の辺りに尻尾まで生やす。
ナルコは今回、この全身の赤チャクラによって強化された俊敏性と、尻尾をバネのように圧縮・伸張させることによって瞬身し、周囲に不信感を抱かせずに赤チャクラトレーニングの成果を確認していた。
ーーこれで少なくとも、自分は普通のアカデミー生よりは強いということだ
ナルコは久し振りにニコリと微笑んだ。
やはりその目に光はなかったが、これで里の住民の理不尽な暴力、その大半からは逃れられるだろう……そう思うと、これまでの苦しい日々を僅かでも脱却したような心地で嬉しかった。
しかし、まだ足りない。
ナルコは一般人より、そしてアカデミー生よりも強くなったが、それより強い忍びなど幾らでもいるのだ。むしろこの強い忍びーー人を殺めるプロこそが、これからのナルコを脅かす最大の要因となることは目に見えている。
ーーまだ平穏の時は遠い
また直ぐに赤チャクラの特訓を始めよう。そう決心して、土手から素早く立ち上がった……その時であった。
「あっ! テメェ、何でこんなところにいやがんだ!」
「ーー!」
突然の大声に身体が硬直した。
今、ナルコに向かってズカズカと遠慮なしに歩いてくる髭面の大男。見覚えがあった。
『お前が少しでも幸せそうにしてると、ムカつくんだよ』
間違いない。二年前、ナルコの自宅に犬の死骸を放り込んだ男だった。
「うっ…」
「ここは俺の家の近くだぞ! 近づくな!」
「……っ!」
ナルコはすぐに踵を返した。
少しでも早くこの男の意識から逃れたくて、走って家まで帰った。
そうやって逃げ帰って、玄関の扉を閉め、施錠をして、それを入念に確認して…ようやく安堵のため息を吐いた。
そしてすぐに絶望した。
中忍の目すら欺く強力な赤チャクラ。
それを操る自分は、もうあんな男よりもよっぽど強いはずだった。
だというのに現実の自分はアカデミーに入学する前と何ら変わりない。何処にいても目の敵にされ、憎まれ、そしてその度に怯えている。
報われたと思った努力が、報われていなかった。
ナルコはとても立っていられず、その場で蹲ってしまった。涙は出ない。ただ冷や汗だけが額を濡らしていた。
ナルコの目標は誰とも関わりあいにならずに、自分だけで生きていくことだった。
故に何度か里を抜けようとしたこともあった。しかしその度に火影や暗部、上忍たちに止められてしまう。ならばこの孤独は里の中で貫くしかない。そういう考えを持っていた。
そしてその目標は、自分が強くなれば最低限叶うものと考えていた。
ーー間違いだった。自分は幾ら強くなっても抑圧され続け、常に周囲の脅威から怯えながら一生を終えるのだ。
ーーこの木の葉の里で。
立ち上がろうにも、足に力が入らない。ナルコは震える体を引きずってベッドへと向かった。
ピンポーン
安っぽい電子音が突然の来客を告げる。
「…………」
ふらつきながら、ナルコは再び玄関へと戻った。
過去の教訓から、ナルコが自宅で来客を無視することはない。そうするとドアを破壊されたり窓を割られたりするからだ。どうせ会うことになるなら、修理代がかからない方がいい。
警戒しながら扉を僅かに開くと、そこにいたのは本日の忍び組手でナルコとペアだった男子生徒、うちはサスケだった。
「……ストーカーじゃないからな。住所はイルカから聞いたんだ……忘れ物届けるって口実で」
そう言ってサスケが差し出したのは忍術の教科書だった。確かに、今日はこの教科書からも宿題が出ていた。このままではアカデミーまで取りに戻る羽目になっていただろう。
ーーどうやら嫌がらせではなく、本当に親切心から届けてくれたらしい
ナルコはそう理解すると、ドアの隙間から腕を伸ばして、ふらつく体をなんとか保ちながら教科書を受け取ろうとした。
しかし、教科書へと伸ばした手は宙を切ることとなる。サスケが避けたのだ。
ーーやっぱり嫌がらせか?
ナルコがそう思うと、教科書はクルリと返されて裏表紙があらわになる
そこには『うちはサスケ』と記名がされていた。
「言ったろ。住所を知る為の口実だって。そもそも、放課後付き合えって約束をお前が忘れーー」
突然、ドアの隙間から半分だけ見えていたナルコの白い顔がガクンと落ちた。
サスケは咄嗟にドアの間に半身を押し込んで、その細い体を受け止める。
「お、おい。なんだよ、しっかりしろ」
返答はない。
サスケはしばらくその場で途方に暮れたあと、少女の軽い体を担いで家の中へと入って行った。
いま、ナルコは一面に薄く水の貼られた通路にいた。
「……?」
戸惑いながらも、足首の辺りまであるそれをザブザブとかき分けながら進んでいく。
ーー自分は確か、先ほどまで自宅にいたはずだ。アカデミーの男子生徒と会い、話していたはずだ
不可解な状況だった。ナルコは自身の今いる場所にとんと心当たりがない。ここがどこなのか、何故ここにいるのか、誰にどうやって連れてこられたのか。その辺りの記憶が全くと言っていいほど欠如していた。
すると、進んでいた通路がふと開けた。
その先にあったのはとてつもなく大きい広間である。その広間には巨大な厳しい檻があって……その奥に、何かが蠢いていた。
ーー獣のような息遣いが聞こえる
もしあの檻の中にいる何かが獣の類いならば、凄まじい巨躯であった。
ーー自分など、一口で丸呑みにされるだろう
ナルコは恐怖し、通路口の前から一歩も動くことが出来ないでいた。
その時だった。暗がりにある獣の顎が、僅かに開いたように見えた。
【小娘ェ…】
「!!」
地の底から響くような、禍々しい唸り声である。
【貴様…何しにここに来たァ…】
相変わらず檻の中は暗がりになっていて声の主のことはよく見えはしない。しかし少なくとも知能のある生き物で、こちらと対話する意思があるらしい。
更に相手は檻に囚われており、対して自分は少し後退すれば狭い通路へと戻ることが出来る。もしあの檻に施錠がなされていなかったとしても、あの巨体でこの通路は通れはしまい。
どうやら、自身の安全は確保されているようだ。
ナルコは意を決して、檻の獣へと口を開いた。
「ここはどこだ」
【クク…知らんで来たのか】
獣は低く笑いながら、闇の中で爛々と光る双眸をナルコに向けている。素直に答える気はなさそうだった。
「……教えて下さい」
ナルコはあっさり下手に出てお願いをした。
これで駄目なら、アカデミーで習った幻術の解術でも試してみるつもりだった。
【……チッ、ここは貴様の中だ。そしてわしは九尾…木の葉の里の連中によって囚われの身となった哀れな狐よ…】
「九尾…? それにわたしの中って…」
【そんなことはどうでも良い。それよりも小娘…貴様なぜ、昼間あの男を殺さなかった…】
昼間の男。あの髭面の大男の事を言っているのだろう。
「なぜそれを」
【知っているか、か? 決まっている。わしも観ていたからだ……情けない。九尾の人柱力ともあろう者があんな輩に背を向けて逃げるとは…】
「人柱力…?」
【答えろ…なぜ殺さなかった。あの男にはお前も思うことがあっただろう】
「それは…」
ナルコの脳裏にあの日のことが過ぎる。
玄関で横たわる動物の死骸。
ただ自分と一緒にいたという理由で殺された可哀想な犬。
『なぜ自分にトラウマを植え付けた憎き相手を殺さなかったのか』
獣の質問に対する回答は簡単である。
ーー怖かったから
しかし、例えあの男にナルコが確固たる意志を抱き立ち向かっていたとしても、果たして命まで取っていただろうか?
いや、それどころか僅かでも男を傷つけることが出来ただろうか?
「…………」
出来ない、とナルコは思った。精々が力を見せつけて脅すのが精一杯だろうと。
であれば、この質問の答えはもっと根本的な、子供ならば誰しも大人から教えられる、ごく当然のこととなる。
「そもそも、無闇に人を傷付けては駄目だから」
【どの口が言う】
獣はナルコの主張をピシャリと遮った。
【貴様こそ、その謂れなき暴力を受けている張本人だろうが】
「…………」
ナルコはキョトンとして、いま自分の言われたことがいまいち理解出来ない、といった様子だった。
【おめでたいやつだ…里の連中から憎まれることを嫌うくせに、自分が何故そのような扱いを受けるのか…考えたこともないんだろう】
「……なかった。それが当然だと思ってたから」
【洗脳ってやつだな。里の奴らめ、九尾の人柱力がよっぽど怖いらしい…】
「……お前は知っているのかっ」
ナルコが少し興奮した様子で、獣のいる檻へと駆け寄る。
「何故わたしが憎まれるのか。何故みんなわたしをーー」
ガシャンッ!
獣の爪が檻の間を抜け、ナルコへと振り下ろされる。
【懐いてくるんじゃねェ! 小娘ごときがァ! わしがお前の味方とでも思ったか…!!】
激昂する獣の眼前。ナルコは咄嗟に体を引いて、何とかその凶爪から逃れていた。しかし勢い余って床に尻餅をついてしまう。
そして暗がりから伸びてきて、部分的にあらわとなった獣の手を見上げた。
それは人間のような五本指だった。そこに鋭利な鉤爪が付いている。
ーーやはり、とてつもなくでかい
【ナルコ…貴様は孤独だ。一生な……しかし、そんな貴様の人生が少しでも楽になる方法がある】
「ど、どうしたら…」
【憎め】
闇に浮かぶ獣の瞳が赤く揺れている。
その瞳の色を見ていると、ナルコはだんだん意識が遠のいていくのを感じた。
【憎悪には憎悪で持って返せ。馬鹿にしてきた奴を殺し、殴られたら首を掻き切り……己の意思で孤独となれ。周りを皆殺しにしてなァ…】
【貴様には見込みがある……鈍い様で、確実にその内に巣食う闇は広がりを見せている。だからこそ、わしはチャクラをくれてやっているのだ…】
【憎め…怒りこそが、貴様の言う赤チャクラを引き出す為の条件だ…】
【そうすれば……わしも……】
「おいっ」
「!」
ナルコはその場から勢いよく立ち上がった。
腰を低くおろし、警戒し、無意識に赤チャクラを纏って。
「お前! その姿…!」
続けて、ナルコは強化された両目で周囲を見渡した。
見覚えのある壁紙。間取り。足元のシーツ。
ーー自分の部屋だ
ナルコはいま、自室のベッドの上で戦いの構えを取っていた。
そしてそのベッドの横にはサスケがいる。驚いた様子でナルコを見上げ、手には何故か濡らされたタオルを持っていた。
「…………」
ナルコはとりあえず、赤チャクラを引っ込めた。
「あっ! おい、それ! どうやってるのかオレに教えてくれ!」
「……それ」
ナルコはサスケの頼みを意に返さず、その手に持たれたタオルを指差す。
「これか? お前体調が悪そうだったからな。母さんはいつも、オレが寝込んだ時は頭にこれを乗せるんだ」
「……看病」
「は? あ、ああ、まぁな。でもそれよりさっきの力を…」
「余計なことするな!」
怒号と共に、ナルコはサスケからタオルを引ったくった。
「おい、何だよ。こっちは親切心で」
「うっさい! わたしを看病しようとしたことは誰にも喋るな。あとこの部屋に入ったこともだ」
「お、おい」
「でてけ。アカデミーで気安く話しかけてくんなよ」
サスケの背中をグイグイと押して、ついには外へと叩き出す。
「いってぇな!」
バンッ! そして間髪入れずに扉を閉める。
「おいナルコ! 開けろ!」
サスケが扉をドンドンと叩いてくるが、無視してベッドへと潜り込む。
ーー看病なんて以ての外だ!
ナルコは布団を被って丸まり、外界の音を遮断した。
ーー里の人間は自分に暴力を振るう。だというのに看病なんて、その行為を蔑ろにする行いだ! このことが知られれば、先ほどの少年も、あの犬と同じ様に殺されるかもしれない。そして死体はこの部屋に投げ入れられるのだ
「ううっ…」
喉元までせり上がってきた胃液を無理やり飲み込む。
今日は色々な事が起こり過ぎた。意識を保っている事すら億劫だ。
もうナルコに出来ることといえば、このまま眠って明日を待つことぐらいだった。
「よう、ナルコ!」
翌日のアカデミーである。
定位置である教室の隅ーー窓側の一番前の席に一人座るナルコに、親しげな声がかかった。
「昨日は大丈夫だったか? 結局最後まで面倒見てやれなかったからな」
「「「なにィィィ!?」」」
アカデミーでは男子と女子とでクラスが分かれている。故にナルコが今いる教室も勿論くノ一クラスで、そうなれば当然、周囲はサスケファンのくノ一だらけとなるのは自明の理であった。
そしてその中での爆弾発言。更には見たことのないサスケの笑顔。
くノ一たちの嫉妬の視線が、一斉にナルコに集まった。
しかしサスケはそんなもの知らぬ存ぜぬで、目的の席までつかつかと歩み寄って行くと、そのまま窓枠に腰掛けてナルコと対面した。
ナルコは出来るだけ周囲に悟られない様にサスケを睨みつけた。
「どっかいけ。それと昨日のこと話すなって言っただろ」
「行かねぇし。だから話したんだよ」
サスケが意地の悪い笑みを浮かべる。
「やめて欲しかったらオレに教えろ。あの力のことを……オレは…!」
サスケの眼が一瞬赤く染まる。
「兄さんに認められたいんだ」