「つうことで、明日明後日は休校だ。プロからの指名等をこっちでまとめて休み明けに発表する。ドキドキしながらしっかり休んでおけ」
相澤先生の言葉を聞くと解散の流れになる。
教科書類が無いだけでいつもより軽く感じるカバンに汚れたジャージを畳んで仕舞うと、僕は何事も無かったかのように焦凍と連れ立って教室を出る。女子グループで集まりつつ此方を気にする様子を見せる百ちゃんにも別れの挨拶をして、努めていつも通りに振る舞い歩く。
「ショートは休校日何か予定あるの?」
「俺は……。お母さんの、見舞いに行ってみようと思う」
「そっか。僕もそんなところだよ」
何か言いたげに、けれど歯に何か挟まった様にもどかしそうな焦凍に気付かない振りをして歩くと、周囲からいつに無く注目されている気がした。
そう言えば僕らは2位と3位だった。ただでさえ焦凍は目を惹く容姿をしているし、一緒に歩いていたらそれは目立つかもしれない。
「なあなあ、知ってっか?雄英体育祭でいい成績残した奴が有名になるのはまあ分かるけど、いつかそいつらがトップランカーのヒーローになった時に古参アピールしたいからって唾つけとこうとする奴等が毎年居るらしいぜ」
「まじで?上位に入んなくて良かった~」
「入れなくての間違いでは」
「るせえよ」
廊下ですれ違った見知らぬ子達が僕らの顔を見たと思えばそんな話が聞こえてくる。一緒に歩いていた焦凍には聞こえてないようなので、僕も頭の片隅に留め置く程度に聞き流した。
地元に帰ってくると、二ヶ月程しか経ってないというのに風も匂いも懐かしい。この空気に当たっているだけでここで過ごした過去の夏が脳裏に浮かんでくる。
あまり気が進まないが、午後になったら店を出て病院に行かなければならない。
「そういえば、義娘さんは今どちらに?」
テラスで本を読んでいた僕の耳に、噂好きな女性の声が刺さった。祖父が当たり障りなく対応しているらしいが、どうせ尾ひれに背びれがついて歩き回る話なんだから懇切丁寧に対応するのもどうなのだろうかと考えて、自分だって世間体を考えればないがしろに出来ないと思い当たり、だらりとページを捲った。
「ああ、あそこの病院ね。
何が大変なものか。まるで厄介払いでもするように病院に押し込んだのは僕らだ。たとえそれが互いのために取った最良の選択だとしても。
――研くんは、だんだんお父さんに似てきましたね――
――…え?そ、そうかな――
そういうと母は家計簿をつけていた手を止め、かたりとペンを置くとゆっくり振り返った。
――本当に、どんどんあの人に似て……――
近付きまじまじと顔を覗き込まれる。頬を撫でる冷たい手の感触が、やたらに僕の背筋を震わせた。
……嫌な事を思い出した。
これは良くない。切り替えてそろそろ準備をしなくてはならないだろう。
「わ、金木君か?君、ねぇ、そうだろ?会っちゃったなぁ、こんなとこで…有名人に。今日はラッキーだ、俺」
倒置法……というにはバラバラに言葉を散りばめた様なやけに引っかかる話し方をする言葉遣いの男に絡まれたと思ったら、急に腰を引き寄せられた。
「えっと、どうも…」
そう言えば最近こんな状況と酷似した話を聞いた気がする。
もしかしたらこの人は純粋にヒーローの卵を応援したいのかもしれないし、あまり警戒するのも失礼だと苦笑いでごまかすと、脇腹あたりを掴んで引き寄せてた手がゆっくりと後ろの方に移動して僕の腰元をゆっくり擦った。
ぞぞ、っと表皮を百足が駆け上がるような感覚の後を追いかけるように鳥肌が立っていく。まさか、アオギリのニコみたいにそういう性別の人だったのだろうか。どちらにせよ見知らぬ男性に触られて気分が良くない。やんわりを手を振り払おうとして―――止まった。
「ここから、出してただろ?お前……」
その言葉に。
「赫子」
ギリギリと力を込められて我に返り、突き飛ばして思いっきり距離を取る。ニタリと笑う男は、猫のように尖ったガタガタの爪に滴った血を舐め取った。
つうと何か生暖かいものが腰を伝う感覚を指先で拭うと、半透明の赤い液体が指についた。
「っ、貴方は……え?」
顔を上げると男はもう居なかった。人混みに紛れて消えたと言うのだろうか。指についた血を徒然と眺めていると、それは爪の間に入ってパキパキに固まる。
紛れもなく嗅ぎ慣れた自分の血だった。傷はどうやら跡形もなく再生したようだが…傷つけられた?僕が、他人の爪で?
あの男が何かしら爪に関する個性を持っていたとしても、僕の…喰種の体がそう簡単にダメージを負うのだろうか。考えられるとしたら……それは。
考えるほどに仮説が色を濃くして、まるで爪の間の血のように僕に染み込んだ。
生活に必要な小物は、角が全て削られた重さの無い物だったりシリコン製で簡単に形が変わる柔らかい物だったり、机などの必要な家具は床や壁にしっかりと固定され、この部屋に彼女が"個性"で動かせる物は全て対策されていた。
つまり、ここは
ここはこの世で一番落ち着かない場所だ。
必要最低限の物しか置いていない白い部屋は寒々しく部外者を拒み、部屋の主は決して"僕"を見ようとはしない。ここに僕自身を肯定するものは何一つとして存在しなかった。
「
僕は努めて生真面目な青年を装い、母だった女にいかにも心配だと言わんばかりの声色で話しかけた。
「いいえ、それが何にもないの。いつも通り退屈なだけ。ねえ、早く帰りたい。いつになったら家に帰れるの?」
「……まだ暫くは無理だろうね」
気を抜くと顔から感情が抜け落ちそうでわざとらしく笑んで見せると、演技をして嘘をつく罪悪感に鳥肌が止まらなかった。
「あなた、今日はいつまで居られるの?」
そして、これだ。
父が事実上死亡扱いの行方不明になった後から、彼女は少しずつ言動が幼くなり口調もすっかり変わった。
彼女は父には今みたいにくだけた口調で話すが、僕にはいつだって敬語だったはずだ。小さい頃こそ僕が丁寧な言葉を話すように見本としてそんな話し方をしているのだと気にも留めなかったが、僕の立てた仮説が間違っていなければ理由はわかる気がする。
僕の事を父だと思い、"あなた"と呼ぶ母は別に若年性アルツハイマーだとかそんな病名が診断された訳では無い。ただ、母の心はある日を境に壊れてしまったのだ。
それは父が死んだ日かもしれないし、もっと後かもしれない。
ただひとつ言えるのは、彼女の中に僕の存在はもう無いということだけだ。
「それじゃあそろそろ帰るよ」
「えっ!つ、次はいつ来るの…」
「きっとすぐだよ。いい子にしていれば、きっと……すぐだ」
他の人物に成りきってさも別れを惜しむように手をぎゅっと握る。
彼女は帰り際が一番不安定になる。何度も振り返りつつゆっくり出口に向かい、扉に手をかけて気が抜けた時だ。
「研君……その髪、」
「っ!?か、母さん…?」
どこか眠たげな、ぼんやりした顔でこちらを見る女は誰だろう。母か?妻か?
信じきれない気持ちのまま震える膝を叱りつけ、女に一歩近づく。
そんなうまい話があるわけないと思った。この場にいるのは
僕だって、誰かに何か影響を与えられると思いたかったんだ。
「母さん…あ、僕……雄英の体育祭で表彰されたんだ。三位だったけど…はは、ちょっと油断しちゃって。でも僕にしてはやった方でしょ?母さん」
「……」
床に膝をつき、母の腕に縋るように手を重ねる。
「そうだ、まずは雄英に入った話からだよね。あはは、すっかり焦っちゃったな」
「…めて」
「僕、弱い人を守れるような存在になりたくて、それでヒーローになろうと思って…」
「やめてぇ!」
息を飲む。
夢中になって話していて気が付かなかったが、髪の隙間から覗いた顔は苦痛に歪んでいた。
「ごめ、」
「いやぁ!出ていって!!来ないで!」
手を力の限り振り払われて、傷つけてしまわないようにと逆らわずに下がる。
「落ち着いて…か、幽」
「うるさいぃ」
シリコンのコップが胸に当たって落ちた。
部屋にある彼女が動かせる物はすべて対策されている。何が当たっても痛くないはずなのに……胸が痛かった。
「そう言えば、同じ病棟に私と年が近そうな美人で優しい人が居るんだけど、その人も今日は面会の約束があるんですって」
「そうか」
「素敵な"旦那さん"みたいで、惚気られちゃった」
目を伏せて切なげに零す母に、焦凍は複雑な気持ちで何も言えなかった。
「カネキ?」
呼びかけに反射的に顔を上げると、声の主は驚いたように眉を少し持ち上げて首を傾げた。
「あ、ショート……ここにいるってことは、君のお母さんはこの病院に?」
「ああ。お前も誰かの見舞いか?」
「えっと、うん。僕の母さんなんだけど、心が少し疲れちゃってるみたいでね」
「お前の方こそ疲れて……。いや、そうか」
その場に落ちた気まずい沈黙を先に破ったのは、意外なことに焦凍の方だった。
「少し話さねえか」
「うん。こっちに休憩スペースがあるから」
僕が先導してがらりと人気のない休憩所にくると、そろって椅子に腰掛ける。
「そうだ、これ、今日この後お前ん家行って返そうと思って持ってきた」
焦凍が取り出したのはカフカの変身だ。覚えていなかったが、いつ貸したのだったか。
「変身か…どうだった?」
「気味が悪いし、もやもやする。主人公の家族とか」
「そうだね。カフカは、四人兄妹の長男で、他はすべて妹だったこともあって父親から強い期待とともに重圧も一心に受けていたんだ」
「……へえ」
「小間物商だった父の跡を継ぐ責務を背負わされていたりと……。父親からしてみれば正しいと思ってしたことだったのかもしれないけれど、カフカに言わせればそれは自分の道を狭め、歪めて強制されるような窮屈さと恐怖だったんだろうね。こういった彼の作品はしばしばそんな父親が描かれるんだよ」
「おまえ、本の事になるといつもの倍は饒舌になるよな」
「え?はは、ごめん」
別にいい。
そう言って首を振る焦凍は本当に迷惑そうなわけではなく、そう言えば昔から僕のつまらない話をなんだかんだ言いつつ聞いてくれたのだった。
「お前はこの本どう思ってるんだ」
「んー。昔はこういう不条理な作品も好きだったけど、今はね…。それに、僕はどちらかと言うと、家族よりも毒虫に変身した主人公の方に目が行くんだ」
「どうしてだ?」
「どうして、だろうね。強いて言えば、僕もある日突然こんな体になったからかもしれない。今まで食べてきた物が、好物すらも全て不味く感じて、ようやっと行き着いたのが……コーヒーと肉だったんだ」
「そう、だったのか」
「もう昔の話だよ」
足を組み替えて本を捲る。
毒虫となった男は、味覚も変わって腐ったようなものしか受け付けなくなっていた。
「ショートは、例えば僕が人肉しか食べられない、百足のような悍ましい化け物に変身したらどうする?」
「例え話はあんまり好きじゃねえけど…。そうだな、お前の性格が根本から変わってなければ、今とそんなに変わらねえんじゃねえか?ただ、食事をどうするかが問題だけどな」
「確かに、大問題だ」
大真面目な焦凍には僕がどうして笑ったのかピンと来てないだろう。首を捻る様子を横目に見て、本の話題もそこそこに本題に入る。
「君は、お母さんと話はできた?」
「ああ。初めて知った。……俺の母親は、すごく綺麗に笑う人だった。いや、違うな。俺が忘れてただけだった。本当のあの人は、あんな風に笑う人だったんだ」
「……」
ここで僕が"仕方がないよ。君だって苦しんだんだ"だとか、耳障りの良い言葉を並べるのは簡単だが、そうしたくはなかった。
というより、他でもない焦凍がそうして欲しそうではなかったのだ。
僕は無言で立ち上がると、自販機でコーヒーを二つ買う。いつかと同じ、微糖と無糖だ。
「飲む?」
「おう、サンキュ」
飲んでもらわなければ困るのだが、一応聞いてから渡すともう一度隣に座りなおす。
僕が口をつけるのを見てからスチールのキャップを開けて一口飲んだ焦凍に、コーヒーの炎のロゴを見てそう言えばと切り出した。
「これ、エンデヴァーが宣伝してるコーヒーだよ」
「ゲホッ」
変なところに入ったのか、咳き込む焦凍の背を叩いていると、恨めし気な視線がこちらを睨み上げた。
「お前…わざとか」
「いやいや、まさか」
こころなしか違和感のある声を発した焦凍は、自覚があるのかもう二、三度咳をして複雑な表情でコーヒーを飲んだ。
「あの自販機の中ではこのコーヒーが一番美味しいんだ」
「そうかよ」
ふっと笑った焦凍をじっと見ると、なんだと声を掛けられる。
「きっとエンデヴァーから指名が来るだろうね」
「ああ。だろうな」
「決めたの?」
「おう。俺はもう決まってる」
「どうしてって、聞いてもいいのかな」
焦凍は頭の中を整理するように難しい顔で黙り込む。
「緑谷の言葉で、少し目が覚めた。あいつのおかげで俺は少し物の見方が変えられたんだと思う」
「そっか」
「ああ。それで、そん時お前の言葉を思い出した」
「…僕の?」
焦凍は眉をひそめて少し笑った。本当に、この子はいろんな表情をするようになったと思う。
「親父の稼いだ金だって。そんでその後お前の料理食ったの思い出して、確かに俺は今まで親父の金で食ってきたんだなって……。見ないようにしていたが、これからは見なきゃいけないと思った。奴のヒーローとしての顔を」
「そう、そっか……」
「それから」
「?」
納得をしようとした時に、焦凍が付け足すように口を開いた。
「昔、猫助けたことあっただろ」
「ああ、あったね」
「あの時、俺は一瞬だが左でも誰かの役に立つんだなって思ったんだ。――だが当時の俺は憎しみに目が眩んでて、一瞬でもそう考えたことを恥じた」
「うん」
「今になっても、俺は
微笑む焦凍に慌てて首を振る。
「そんな、大層なことは」
「別に、大層じゃなくたっていいんだ。ただ、感謝してる。俺の考えを否定せずに、違う道を提示してくれてたこと」
「……ふぅ、そ、っか。じゃあ、どういたしましてだね」
きっかけはどう見ても緑谷君だ。だけど、僕の何気ない言葉が、行動が、少しでも彼の気持ちに変化を起こしたのなら、もうそれでいいかな。
卑怯だって分かってるけど、ここに至ってやっと僕は心の底から友人として彼の背中を押せると思った。
「頑張ってショート。きっと、なりたい自分になれるよ」
僕が笑うと彼も口角が上がる。昔に比べて、笑顔もだいぶ自然になったなぁ、なんて思った。
「ああ。…おまえもな」
それなら、いいか。
「突然の呼び出し、すまなかったね」
トレンチコートと帽子の似合うさわやかな男性は、確か名を…塚内、と言ったはずだ。
昨日見舞いついでに病院で採取したDNAの鑑定結果が早くも出たのだそうだ。
「いいえ。それで、結果はどうでしたか?」
「さ、早速だね…。君もこの検査をした時に薄々感じていたかもしれないが、99%以上の確率で親子であるそうだ」
「そう、ですか」
塚内警部が気遣わし気に会って行くかいと聞くので、僕は頷いて検査結果を受け取った。
ぶくぶくと醜く無計画に肥大化した筋肉の中で非常に認識の難しい事であるが、よくよく見るとその脳無の胸部に女性の乳房のような膨らみを認められた。
「ああ…なるほど」
「金木君……」
「"お母さん"か」
脳無のぎょろりと突き出した目がまるで反応したかのようにこちらを見据えるのを、僕は感情という感情も持たずに見つめ返した。
やはり僕の考えは間違っていてはくれなかったらしい。
とすると、やはり僕以外にも喰種と呼べる…もしくは酷似した個性を持った存在がいる可能性も高いだろう。
それに、幽が僕を息子――家族として見れなかったのも無理はない。幼い頃から愛していた男と結婚したと思ったら、その男と他の女との子供を育てさせられたのだから。
僕が生まれたのが先か、結婚が先か、幽は全部了承の上で育てていたのか、今となっては真実なんて分からない。唯一の真実は、彼女はそれでもずっと傍にいた僕ではなくそんなどうしようもない父親だけを愛していたということそれのみだった。
そして父親にコンプレックスを持っていたのは、焦凍でもカフカでもなく、僕だったのだ。
「この脳無の大きな耳…」
「ああ、決めつけはいけないが状況から考えて、君の」
父親の個性だろう。
思えば"父"という存在は、いつだって僕には関わりの薄いものだった。僕の名を付けたのは彼だと聞くが父は仕事仕事で家に帰る事すら少なかった。
そんな存在が、一体どうやれば人をこんなにも傷付け得るのだろうか。振り回せるのだろうか。
「もう、解放してくれよ」
「何か言ったかい?」
塚内警部がポンと僕の肩を叩いた。僕は優しい警部にゆるりと笑む。
「いいえ、何も」