聖杯からの呼び掛けに答え現界した矢先、先ず飛び込んできたのは慣れ親しんだ鉄のような生臭い血の香り。
そして、私と同じ位の、いや、それよりも幼い少年と手の甲に紅き聖痕の持つ青年だった。
多少の困惑こそあれ、見慣れている風景に近いそれに動揺などすることもなく、お決まりの文句を告げる。
「聖杯を求め、神の奇跡にすがりつく愚かなる子羊よ。此度、キャスターのクラスとして、ここに私を喚び、求めた召喚者と言うのは貴方で間違いないかしら」
戸惑いからか彼からは返答が帰ってこない。
まあ、そんな事は関係無い。令呪を宿しているのが彼しかいない以上聞くまでもない問答。
しかし、現状は召喚されただけのサーヴァントでしかない私を現代と結びつけるための契約をしなければ、マスターの資格を有してはいても真の意味ではマスター足り得ないのだから早くして欲しい。
特別時間が惜しいわけでもないが、現状の説明も兼ねて早いところ回答を得たいものだ。
「……貴方、名前は?」
龍之介が戸惑うのも無理もない。血で描かれた魔法陣から過剰とも言える演出を経て出現したにしては些か以上に悪魔らしからぬ風貌。ステレオタイプの悪魔など期待していなかったが、あまりにも普通の人間過ぎて途方に暮れているのだ。
瞳こそ紅に染まってはいるが、だからと言って本物の悪魔かどうか信じがたいものなのだ。
「えっと、雨生龍之介。職業フリーター。趣味は人殺し全般。子供とか若い女とか好きです」
「……そう。聖杯の名の下に契約は成立したわ」
私を現代と結びつけるための依り代となるための契約。名前で縛るそれは、まるで古く伝わる悪魔との契約のようだ。そう言われればこの部屋の惨状にも説明がつくだろう。全てを叶える万能の願望器、それを奪い合う戦いに参加する。
知識を得るために神に背き悪魔を喚び出すそれと、なにが違うのだろうか。
結晶の大地の魔女と呼ばれ人々に恐れられた私には、これ程迄に違和感なく適した配役だと心の中で自嘲する。
罪の精算、過去の否定、神は居ないと悟ったあの日の救済。それら全てが私のエゴイズムだと理解した上で尚、絶対を望む程渇望する聖杯。
より確実にするためなら邪魔な契約など破棄してしまおう。なにも知らない一般人なら良い方向へと転ぶことこそ無いが意図的に邪魔立てされることもないのだから。
「貴方が何を願い聖杯を望んでいるのかは知らないけれど、私もそれを望んでいるもの」
「せい――はい?」
執り行った儀式の意味も理解せず、凶行に凶行を重ね無事に
その運の強さには素直に称賛を与えるべきだろう。そのお陰で新たな
「小難しい話はとりあえず置いといて……お近づきにご一献どうですか。あれ、食べない?」
食べる。何を? 人を。
正に型にはまった悪魔のイメージ。失笑物の負の産物だ。第一、誰が悪魔が人を食べるなどと吹聴したのか。
本物の居ない世界だから、いや、本物が
一つだけ理解できる事は、この男が異常であるということ。現状はそれが全てを物語る。
「あまり無意味な殺生は好まないのだけれど、それが貴方の命令と言うのなら許容しましょう」
人形のような無表情で彼女は告げる。
やはり、不本意だったのだろう。勝手な押し付けをしてしまったと少しばかりの後悔が龍之介を襲う。
それを知ってか知らずか、不意に聞き取れない、もし聞き取れたとしても理解出来ないであろう言葉を呟き、少年へと微笑みかける。
慈愛に満ちた表情は一体何を意味しているのか計り兼ねるが、それが良いものであっても悪いものであっても、少年に起きる悲劇は変わらないだろう。
月明かりが作り出した少年の影がふと揺らぎ始めた。そんな事はお構いなしに少年を縛る縄を解く。微笑みは絶さず、ただひたすらに慈愛の仮面を被ったまま。
怯える少年を聖母の様に諭し生きる希望を植え付ける。望んだ展開と真逆の事を行う
「さあ、いきなさい」
立ち上がり日常への出口へと走り出した少年の影は足が欠けていた。
表情に生気が戻るのも束の間、理解出来ない内に足が動かなくなり走り出した勢いのまま、前に崩れ落ちた。
崩れ落ちた少年の影からは腕が欠けていた。
反射的に前に出るはずの腕は動かず、体を床へと打ち付けた。痛みと再び自身を襲う生命の危機にも、持ち主の命令を嘲笑うかのように動かない。
体を抱くことも許されない少年の影には首から下がなかった。
息を吐くことも吸うことも叶わず、静かな絶望だけが許された少年は決死の抵抗からか口を世話しなく動かしていた。
天使の様な悪魔、今の彼女を見たものは口を揃えてそう言うだろう。それほどまでに美しく、慈愛に溢れ、そして何より残酷だった。
「生きるのは辛いでしょう? 既に両親を殺されて、これからの人生は困難が常に付きまとうでしょう。それに絶望しながら惨めにも自分で命を絶つ位ならせめて心に希望を抱いて死による救済を。大丈夫、貴方の両親も直ぐにまた会えるから」
部屋に一輪の華が咲き散った。
「これが貴方の望んだ結末なのだけれどお気に召したかしら」
龍之介へと振り返り、再び人形のような無表情で告げる。それは最後の確認だったのかもしれない。
「ハ、ハハハハ――っ!?」
成功を喜んだのも束の間、再び聞き取れない何かが聞こえた気がした。
龍之介の影が揺らぎ始め、両腕の影が消えた。
「悪魔が人を食べると決めつけたのは貴方。私は求められた役割を果たしただけよ」
足の影が消え、足から崩れ落ちる。咄嗟に手を出そうとするが動く気配もなく受け身をとれずに体を打ち付けた。
呻き声があがる。だが、彼女は気にも止めない。
「使い勝手は申し分ないのだけれど……貴方は彼女と顔を遭わせるのに相応しく無いわ」
紅の瞳になにが映っていたのだろうか。龍之介を見つめる瞳は何の感慨も抱いていない。
「ろくに知りもしないで手を出した報いよ。依り代としての機能はしっかりと果して頂戴ね」
影は頭部を残し全て消えていた。
龍之介結構好きなんだけどなぁ……