「たっだいま~!」
元気の良い声でそう言って、リズは勢い良く店の扉を押し開けた。
「たった一日留守にしただけなのに、何だか帰って来た~! って感じ」
振り返り僕の方を見てはにかむリズ。僕はといえばただ曖昧に微笑むだけだ。
「ごめん、疲れてるよね。ティンクルにはあたしのせいでかなり無茶させちゃったし……」
僕の態度を勘違いしたらしく、神妙な面持ちで頭を下げる。
「止めて、らしくないよリズ。今回はわたしが刀の依頼をしたのがそもそもの発端なわけだしさ」
「らしくないって何よー! あたしが謝るのがそんなにおかしいわけ?」
ガバッ、と音がしそうな勢いで頭を上げたリズは、膨れっ面で不満を隠そうともしない。そういう明け透けなところが彼女の美点の一つだろう。
「良いよね、リズのそういうところ」
「え……? ……あ、ありがとう」
赤面する彼女の姿はなんとも可愛らしい。リズ本人がどう思っているのかは知らないけれど、彼女は十分に魅力的だ。だから、そんな彼女に好きだと言われたのは素直に嬉しい。
でも、彼女の思い人は僕ではなく、女性としてのティンクルなのだ。つまり、僕らは両思いとも言えるし、逆に互いに失恋したとも言える。
それに、僕は周囲の感情を度外視して行動してきた度し難い合理主義者だ。利用できるものなら、それがたとえ長年のコンプレックスであろうと利用したし、今もそれは変わっていない。誤解を解かないのは嘘を吐いているのも同じだ、なんて言葉をどこかで聞いたけれど、まさにその通り、僕は皆を騙してる。彼らの好意を踏み躙っている。そんな僕が、そう都合よく誰かを好きになって良いはずがない。
だから僕は今まで通り、“女性”としてリズに接する。それがたとえ彼女を、そして僕自身も傷つけるのだとしても、僕はもう後には引けない。幻想は幻想のままに。騙したのならば、せめて騙し通そう。
“僕”としての気持ちを伝えるのは、あれが最初で最後だ。
「……いや、ちょっと待って。今のは本当に褒めてんの? それとも貶してんの?」
「褒めてるよ」
「ホントに~?」
「本当だよ」
尚も疑わしげな視線を送ってくる彼女に、僕は真面目な口調で答える。
「そ、そう」
「何だか納得してくれたみたいだけれど、わたしがリズのどこが良いって言ったのか解ってないでしょ?」
冗談めかして茶化す僕に、一瞬何か言おうとして、しかし思い直したように表情を変えて言った。
「そう思うんなら教えなさいよー」
「胸に手を当てて自分と向き合えば、自ずと答えは見つかると思うよ」
自分の胸の上に手を置いて、片目を瞑ってみせる。
特に何も考えず、不用意に言った言葉。まさか、この言葉が彼女を決心させるとは知る由もなく。
「……そうね」
小さく漏れ出た声。ぞくりと、えも言われぬ悪感が背中を走る。
しかし、音も無く装填された弾丸は、他の誰でもない、僕自身の手によって込められたものだ。
「そのパーカー姿じゃ随分冷えたでしょ?」
無慈悲に引き金は絞られ、撃鉄が火花を散らす。
「うちのお風呂使わせてあげるからさ、あたしが刀鍛えてる間に入っちゃいなさいよ。温まるわよ?」
放たれた弾丸。
無駄だと解りつつも回避を試みる。
「いや……そんなのリズに悪いよ」
「別にあたしはあんた帰ってからゆっくり入るからいいわよ。……それとも、一緒に入る?」
「……ッ」
僅かな動揺が顔に出る。
そんな僕の反応を面白がるようにニヤニヤと笑うリズ。
彼女がどういうつもりなのかは解らないけれど、逃げ道は完全に塞がれてしまったみたいだ。
「……解ったよ。お言葉に甘えて使わせてもらうね」
いつもと変わらぬ微笑を浮かべてから、僕はそう答えた。
†
「ティンクル、湯加減はどう?」
「大丈夫だよ」
湯船に半身を沈め、努めて平常を装ってそう答える。
扉を一枚隔てただけの危うい会話。
「そう。……じゃ、あたしはボチボチ仕事に取り掛かるとするわ」
「ありがとう。お願いするよ、リズ」
「あーでも、代金はたんまり貰うわよ。その辺は公私混同しないからね」
冗談めかすようにそう言って笑うリズ。彼女が今どんな顔をしているのか、容易に想像できてしまう。
「……ほどほどにお願いするよ」
溜め息混じりに僕も笑う。
「んじゃ、ゆっくり温まって」
ガチャリ、と扉の閉まる音が浴室にまで響き渡った。
どうやら、行ったみたいだ。
「…………はぁ」
短い吐息。
表情を引き締め直し思案する。
まずは認識を改めよう。恐らく、リズは僕が男だと気付いている。
でも、別に驚くようなことではない。今まで何度と無くぼろが出てたと思うし、そもそも男が女の振りをするというのが無理な話なのだ。
ここまでズルズルと続いてしまったけれど、所詮、照れ隠しに咄嗟に吐いた嘘から始まった関係だ。簡単に壊れるのも道理だろう。
それに大事のように捉えているけれど、実際はそこまで大したことではない。たとえリズが僕を女装変態野郎だとアインクラッド中に流布しようと、僕はソロなんだから殆ど支障はない。せいぜい周囲の対応と見る目が変わるくらいだろう。そして、それによって周囲との関係が険悪になろうとも、孰れSAOがクリアされて現実へと戻れば、それらの軋轢は全て清算される。
でも、そうやって理性では解っているはずなのに、彼女との関係が壊れてしまうことを悲しく思っている自分がいることも否定できない。
だから、改めて思い知らされる。ああ……僕は、本当にリズのことが好きなんだな、と。
――そうやって、思考に意識が没頭していたためか、反応が遅れた。
躊躇無く開け放たれた浴室の扉。そして、何の躊躇いも見せず、バスタオルを巻いただけという格好でリズが入ってくる。
「……!!」
声も出せず、咄嗟に身体を肩まで湯船に沈ませる。
「リ、リズ……!?」
どうにか名前を呼ぶが、それ以上言葉が続かない。
「やっぱりあたしも一緒に入るわ。洗いっこしましょ」
どうやら彼女は脱衣場から出て行った振りをしてタイミングを計っていたらしい。
冷や汗が流れるのを感じつつも、なんとか言葉を搾り出す。
「え、遠慮するよ」
「何でよ? 女同士なんだから恥ずかしがることなんてないでしょ?」
か、考えろ。考えろ、それっぽい理由を。
「その……いくら女の子同士でも、恥ずかしいものは恥ずかしいよ……他人に素肌を晒すのは。……見るのも、見られるのもね」
精一杯、声と表情で乙女を演じる。
一体僕は何をやってるんだ、とどこか客観的な自分が警鐘を鳴らすが、そんなものに構っていられる余裕は今の僕にはない。
「意外とティンクルって恥ずかしがり屋さん?」
「うん。……意外かな?」
「いや……まあ確かに、あんた普段からあんまり露出のある服着てないもんね。スカート履いてるの見たことないし」
苦し紛れの言い訳だったけど、どうやら納得してくれたみたいだ。良かった。
「で、でしょ? だったら――」
「ってことで、少しは耐性付けなさいよ」
安心したのも束の間、リズはそう言いながら浴槽に片足を突っ込む。
「ち、ちょっとリズ!?」
更に有ろうことか、彼女は巻いていたバスタオルを床へと落とした。
自ずと行くべきではない場所へ視線が行ってしまう。
「いや、だってお湯の中にタオル入れるのってマナー違反でしょ?」
僕の抗議を素知らぬ顔で受け流すと、リズはもう片方の足も浴槽に入れ、そのまま僕の隣へ腰を下ろした。その距離は、互いの肩が触れ合いそうなほどに近い。
「ふぅ……。やっぱり冷えた身体にはシャワーじゃなくてお風呂よね。あたしがこの家に決めたのって、外観に一目惚れしたってのもあるんだけれど、お風呂が大きかったってのも理由の一つなのよ。ほら、こうやって並んで入っても余裕あるでしょ?」
会話が頭に入ってこない。それでも、上手く働かない頭で思考を加速させる。
もはや、こうなってしまっては、何事も無くやり過ごすなんて不可能だろう。
逃げるにしても、この場に留まるにしても、だ。
なら、逃げよう。
どうせ清算される関係なら、綺麗なままで終わりにしたい。壊れていくのを黙って見ているよりは、そっちの方がまだしもマシだ。
「ご、ごめんやっぱり無理……! わたしは先に上がるから――」
逃走と、そして彼女との決別を決意し、僕は腰を浮かす。
だが、僕の秘部が湯の中から出る、という致命的なところで――
「逃がさん!!」
「うわっ!?」
背後から腰に腕を回され、再び湯船の中へと引き摺り込まれる。
「リ、リズ……?」
「こっち向かないで」
動揺して振り向こうとした僕を牽制するリズ。
「いや……でもっ」
背中に感じる柔らかな二つの隆起。それは間違いなく背後にいるリズのもので……。
そう理解が及ぶにしたがって、鼓動が早くなり、急激に顔が熱くなっていく。
そして、意識しないようにと思えば思う程、触覚は鋭さを増し、逆に思考は徐々に緩慢になってしまう。
「絶対逃がさない。あたし、言っておくけどかなりしつこいわよ。もし今逃げたって、あんたのこと地の果てまでも追ってみせるから」
耳元に聞こえるそんな彼女の頑な声に、絆された思考では抵抗できない。
「……解ったよ」
降参だ、と逃走を諦め全身の力を抜いて沈み込む。
それでもまだ疑わしいのか、絡めた腕をなかなか放そうとしなかったリズだけれど、いい加減もう僕に逃げる気はないと解ってくれたのか、どこか名残惜しそうにゆっくりとその手を離した。
そして、再び僕の隣に座り直すと、心底恨めしそうに呟いた。
「あんた、腰細すぎ」
しかし、それは彼女なりの照れ隠しなのかもしれない。彼女の紅潮した横顔は、決して湯船に浸かっているせいだけではないんだろうから。
お互い気持ちを落ち着けるために、幾許の間黙って肩を並べていたけれど、先に沈黙を破ったのはリズだった。
顔を合わせ、僕の瞳を覗き込むと、彼女は小さく口を開いた。
「ねぇ……?」
「リズが訊きたいこと……“僕”が答えられることなら、全部答えるよ」
僕がそう促すと、リズは僅かに息を呑んでから、「僕、ね……」と小さく呟いて、たどたどしくも言葉を紡ぐ。
「あんたは……その……男の子、なんだよね? アバターがバグってるとか、身体は男でも心は女の子なんだとか……そういうことじゃなくて」
「うん。……こんな見た目だけれど、正真正銘男だよ」
できるだけ誠意を込めるように、ゆっくりと吐き出す。
そして、少し思い直して補足する。
「まあ、現実の僕がまだこのままの見た目かどうかは解らないけれどね」
とは言うものの、この世界に囚われた十七歳の時点で成長期は殆ど終わってしまっていたから、髪が伸びたり頬が痩けたりしてるくらいで、顔立ちが劇的に変わっているなんてことはまずないだろう。
「……根本的なことを訊いておきたいんだけど、あんた普段から女装――ってわけじゃないわね……女の振りしてんの? それとも、あたしの前でだけ?」
これにはどう答えればいいのかと一瞬迷う。だけど、僕に今できるのは有りの儘を伝えることだけだと思い直し、一拍置いてから正直に答える。
「意図的に女性として振舞ったことは何度かあるよ。だから、リズに対してだけってわけじゃないけど……常態的にそう接してたのはリズだけだね。それから、攻略組を始めとして僕を女性プレイヤーだと思っている人達に対しては、女性の振りをしていたわけではないけれど、彼らの勘違いを正しはしなかった」
「……理由は?」
「どっちの?」
「両方」
やや不機嫌さが増してるのは僕の気のせい……じゃないよね。何か癇に障ることでも言ってしまったんだろうか。
「誤解を解かなかったのは……単純に女性プレイヤーと思わせたままの方が、何かと都合がいいと思ったからだよ。ネットゲーマーって結構嫉妬深いから……女性と思わせておけば無用な軋轢を生まずに済むっていう、打算的な部分もあるし……一々否定してられるほど、精神的に余裕があるわけでもなかったから」
「余裕がないって……」
「……言ったでしょ? 只の卑怯者になるのが怖いって。僕が攻略組なんてやってるのは、殆どはそういった強迫観念からなんだ。自分で選択した結果とはいえ、良心の呵責ってのが一応僕にもあるんだよ」
言い終えて、内心自嘲する。
何が良心の呵責だ。そんなもの、感じたことなんて無いだろう?
そして、これだけはリズにも言うわけにはいかないけれど、今までソロで大量のリソースを獲得してこれたのは、システム側に精通した異端のAIであるアウローラの協力があってこそだった。
ビーターなんて目じゃない。このアインクラッドにおいて、僕以上の卑怯者は存在しない。
そんな僕に残された唯一の贖罪の道は、どんな手段を使ってでも、このゲームを…この世界を終わらせることに他ならない。そのためなら、他人を騙すことも、自分の容姿を利用することも厭わない。
そんな僕がヒトを好きになるなんて、なんと滑稽なことだろう。
――そもそも、僕という人間はこんな風に、顔色一つ変えずに虚言を吐けるような人間だっただろうか。
いいや、そんなことはなかったはずだ。なら、知らず知らずのうちに、僕はそんな風に変わってしまったのか。
ああ、駄目だ。気持ち悪い。吐き気が込み上げてくる。
思考が徐々に重力に押し潰され、底へと沈んでいく。やがて水圧に耐えられなくなった心は軋み、穴を空け、闇の奔流が勢いよく流れ込む。
……遂には闇は心から染み出して、皮膚の上を纏わり付く。こんな幻覚を見るなんて、僕はもう精神的に限界なのかもしれない。
「……なら、あたしを騙してたのは何で?」
今までにないくらい、切実なその声に、一体何を答えればいいというのか。
「決まってるよ」
自分はこんな声を出せたのか。まるで馴染みのないその声色に、何故か違和感を感じない。
「同性相手なら、少しは安くしてくれると思っただけだよ。……常態的に君を騙していたのは、その方が都合が良かったからだ。他に何か特別な理由があったわけじゃない」
平坦な口調でそう言い放つ。
これで終わりだ。早く帰って、眠ってしまいたい。
それなのに、リズは間髪入れずに僕の言葉を否定する。
「嘘よ」
何を根拠に、こんなにハッキリと断言できるのか。
苛立ちすらも覚えながら、僕は問う。
「何故?」
並べられていた互いの肩は、今では向かい合わせだ。相手の顔を、正面から見据える。睨むように、或いは祈るように。
「それこそ決まってるわよ。ティンクル……あなたは、あたしを助けてくれた。打算だけで付き合ってる相手のために、自分も死ぬかもしれないのに飛び込めるわけがないでしょ!」
「…………」
「……それにあんた、意外と恥ずかしがり屋らしいからね。バスタオル巻いてるってのにあたしの顔見ようともしなかったし。……あの日はそんな風には見えなかったけど、初対面の女の子――って自分で言うのも変だけど、女の子にスカート姿を見られてるっていう後ろめたさから、咄嗟に吐いちゃった嘘、ってな感じなんじゃないの?」
「…………」
「黙秘? 別にいいけど。……自分が実は男だって言い出せなくなっちゃったのは、あたしがあんたに友達になろうなんて言ったからでしょ? 今にして思えば、あんた返事に躊躇してたしね」
恥ずかしがり屋かどうかはともかく、大方的を射ていた。だけど、否定する。
「……リズはお人好しが過ぎるよ。僕が、そんな殊勝な人間なわけ……ないじゃないか」
何故、自分を騙していた人間をこうも信用できる?
……僕にはできない。自分すら信じられないのに、他人を信用できるわけがない。
そもそも、リズを助けた――否、あれは結果的に助かっただけだ。運が良かっただけ。勝算なんて無かった。……ただ、あのときは、身体が勝手に動いたんだ。
「別に……あたしはお人好しなんかじゃないわよ」
苦笑して呟くリズ。
そして、笑みを消すと、より真剣みの増した顔で言う。
「あたしは、あんたのことが好き。女の子のあんたも、男の子のあんたも、あたしが纏めて愛してあげる。だって、全部が合わさって、あたしが好きになったティンクルなんだから」
僕という人間の全てを肯定してくれるかのような、彼女の言葉。それは、まるで夜明けを告げる薄明かりのように、僕の心を覆った闇を徐々に溶かしていく。気付けば、身体に纏わり付いていた幻覚も消えていた。
……こんな言葉一つで、全てが解決されるはずはない。それは当たり前だ。それでも、彼女の言葉は、僕に先へ進む勇気をくれた。
だから――
「リズ」
「は、はい」
彼女の、色づいた林檎のような頬に手を添える。
全く、お互い裸なのに、これ以上何を恥ずかしがることがあるんだ、と内心苦笑する。
「ありがとう、リズ」
こんなことでは、何も解決しない。だから、これから少しずつ解決していこう。
「僕も……君が好きだ」
そう言って、微笑む。思えば、雪山から戻ってきてから……――いや、もしかしたら……この世界に閉じ込められてから、初めて心の底から笑えたのかもしれない。
「テ、ティンクル……っ」
目尻に溜まった雫を、そっと親指で擦る。
「泣かないでよ、リズ」
「だって……嬉しかったから。やっぱり、あれって空耳じゃなかったんだね」
そして、どちらとも無く唇を寄せ、重ねる。
「んっ……ふぁ……」
重なり合った二つの唇。僕らの心も、こんな風に繋がれたのだろうか。
絵面だけ見れば完全に百合(。・ ω<)ゞ
展開に若干無理があるかも(汗)
さて話は変わりますが、各話のティンクルの口調を数カ所修正しました。それ以外にも割と頻繁に文章修正してます。
次回は新しい刀を鍛えます。
†
3月16日に挿絵差し替えました。