ソードアート・オンライン 黎明の女神   作:eldest

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第18話 秋空のカルテット

『~♪~♪』

 

 頭の中へと流れ込むピアノの旋律。

 水面をたゆたうような朧げな意識。夢と現の狭間。

 

『~♪~♪』

 

 哀愁の漂うその旋律は、しかしあくまで優しい。

 優しく包み込まれて――そして、そのまま窒息してしまいそうな。

 

「――――……ん」

 

 意識が徐々に覚醒し、俺は瞼を開けた。

 始めに視界に入ったのは明るい朝の日差し。次いで入ったのは黒いシルエット――自分を見下ろしている人影だった。

 

「~♪~♪」

 

 人影はまだ俺が目を覚ましたことに気が付いていないのか、瞳を閉じて綺麗な音色のハミングを続けている。その姿は、まるで神への祈りを込めて歌う聖歌隊のようだ。

 ――たしかこの曲は……ジムノペディだったか……?

 子供の頃――といっても小学生の頃の話だが、近所にあった小さな診療所の待合室で流れていたのを覚えている。

 

「……なあ、あんたはヒトの寝顔を眺める趣味でもあるのか?」

 

 俺がそう尋ねると、彼女は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。

 秋の陽光を浴びて白く輝く銀糸の髪に、紅玉の瞳。

 

「気持ち良さそうに寝息をたてていたから、起こすのも可哀想だと思ってね」

 

 そう言って、少女はくすりと笑う。

 その微笑は妙に艶っぽく、俺とそう歳は変わらないだろうに、ややハスキーな声も相まって非常に大人びて見える。

 

「でも、確かに君の寝顔を見る機会は多いかもね。ね、攻略組の不良生徒さん?」

 

 ティンクルはからかうようにそう言ってから、僅かに嗜虐的な笑みを浮かべる。

 まるで聖女のような出で立ちの彼女だが、その優雅な見た目に反して、刀を握った彼女は苛烈で容赦がない。できることなら、二度と切っ先を向けられることが無いよう祈りたい。

 俺は身体にかけてあった毛布を捲って上半身を起こした。

 

「もしかして……あんた、ずっと起きてたのか?」

「そう言うキリトは、よくまぁグースカ眠れるね? 無防備な美少女を目の前にしてさ」

 

 前半は呆れたように、後半は自虐的な笑みを浮かべてそんなことを言った。

 笑みというのも結構種類があるんだなぁなどと現実逃避したくなるが、引力でもあるのか、その大きな瞳からは逃れられない。

 俺は冷や汗が浮かぶのを自覚しながらも、努めて平常を装う。

 

「わ、悪かった……他人の家で夜明かしして。でも、酒に酔ったってことで大目に見てくれないか?」

「…………」

「……大目に見てくれないでしょうか……?」

 

 その瞳の色とは正反対の絶対零度の視線で見詰められて縮み上がりそうになるのをなんとか堪え、今度は敬語で懇願する。

 

「SAOの酒じゃあ酔えないだろ?」

 

 ティンクルは床の上に転がった空き瓶を顎を刳って指し示すと、より一層冷ややかにそう指摘した。

 そう。俺と彼女は昨夜食事の後――美女が骸骨と変な色をしたウサギに餌をやるという大変シュールな光景を目の当たりにして――お互い酒を開ける機会も少ないし、この機会に折角だからと幾つかボトルを開けたのだ。

 結果はこの有様で、俺は酒の臭いにでも酔ったのか、或いは単純に睡魔に負けたのか……いつの間にか眠ってしまっていた。

 まさかソロの俺が、独り暮らしの女性の家で夜明かしすることになるとは――――世も末だ。

 

「幾らなんでも無神経過ぎるよ、キリト。……まさか僕だけじゃなくて、他にも被害者がいるのかな?」

 

 非難の眼差しを俺へと向けながら、そう問うティンクル。

 真っ先に思い浮かんだのはシリカという直葉と同い年くらいの少女のことだった。

 しかし、あれは俺の責任というには幾らなんでも余りに理不尽だろう。

 

「その顔は、心当たりがあるのかな?」

 

 表情に出していたつもりはないのだが、あっさりと看破され、俺は当時の状況を洗いざらい吐かされた。

 

「――……なるほどねぇ。それはキリトが悪い」

「いや、待ってくれ。それは流石に――」

「いやいや、キリトはやっぱり少し……いや、大分無神経かな。――シリカちゃんだっけ? その娘が寝ちゃった時、起こさなかったのは君の優しさだから、それは別に良いんだよ。でも、だったら君はその部屋をそのままシリカちゃんに譲って、自分は別の部屋を取り直すべきだったんだ。多少コルはかかるけど、床で寝てしまうよりはずっとマシだと思うし」

「…………」

 

 正論過ぎてぐうの音も出ない。

 しかし、ここまで言われると反論したくなるというのが人情だろう。

 

「……なら、あんたはどうなんだよ? 別に各部屋に鍵くらい付いているだろ? ……あんたは俺のことなんてほっといて、自分の部屋で眠ればよかったじゃないか」

 

 俺がそう言うと、何故かティンクルは急に瞳を潤ませ、口に手を当てた。

 

「だって、男の人が下の階に居るのよ? 《鍵開けスキル》を持っていてもおかしくないないし……乱暴されるかもと思ったら、怖くておちおち寝てもいられないわっ! だったら、ここでこうして朝まで見張っていた方が安心でしょう?」

 

 涙声でそう捲くし立てられ、俺はどうしていいのか解らなくなる。

 只、そこまで俺は信用されてないのかと若干悲しくなった。

 そうやって俺がおろおろしていると、ティンクルは突然、ぷっと吹き出すように笑い出した。

 俺はそこに至ってようやく、自分が彼女にからかわれているのだと気が付いた。

 

「あんたなぁ!!」

「ははっ……! ごめん、ごめん。君のことはちゃんと信用してるから、そう落込まないでよ」

 

 声を荒げる俺に対して、彼女は花が咲くような笑顔を向ける。

 男として全く見られていないとなると、それはそれで自尊心を傷つけられるのだが……。

 

「あー因みに、《鍵開けスキル》は住宅の鍵には使えないから変な気は起こさないようにね」

 

 ぱちり、とウインク一つ。

 そんな気障な振る舞いも、彼女がやると妙に決まっていて、全く嫌味に感じない。

 

「なんか釈然としないな……」

 

 俺は溜め息と共にそう言って肩を落とした。

 

 

「ごちそうさま。美味かったよ」

 

 ティンクルが用意してくれた朝食――何をどうやったのか和食だった――を食べ終え、俺は年季の入ったいつもの一張羅に袖を通す。

 

「お粗末様でした。――ところで、キリトはこの後どうするの?」

 

 食器を流しへと運びながら、こちらを見ずにそう尋ねてきた。

 

「一応、このまま《カームデット》まで転移して、迷宮区のマッピングの続きをするつもりだけど……それがどうかしたのか?」

「……僕が訊くのもなんだけど、キリトは誰かとパーティー組まないのかなぁ、と思ってさ」

 

 皿を洗い始めたティンクルには、俺が今どんな顔をしているのか見えてはいないだろう。

 この手の質問をされたとき、或いはパーティーに誘われたとき……俺は何かと理由を付けて断ってきた。

 

「……あんた相手に今更気張る必要も無いか」

 

 だが、彼女は大体の事情を知っているので、敢えて隠さず答えることにした。

 先ほど彼女を聖女のようだと思ったが、ならばこれは神への告解だろうか。

 そう考えてから、内心苦笑する。彼女に告解を聴いてもらうのは、今回で二度目だからだ。

 

「――――怖いんだ、パーティーを組むのが」

 

 口から搾り出した声は、僅かに震えていた。

 ――サチを守れなかった。

 俺がそう思うのは、ティンクルに言わせれば俺の独り善がりなのだろう。

 でも、それでも……あの時の俺にもっと力があればと、今でもそう思ってしまうのだ。

 そして、未だにそう思ってしまうのは、何も後悔のせいだけではない。

 俺のスキルスロットにいつの間にか追加されていた《エクストラスキル》。習得条件すら解らないそれは、ゲームバランスをも崩しかねないほどに強力なものだった。

 だからもし、もし……その力をもっと早くに手に入れることが出来ていれば、あの状況からですら、サチを、黒猫団の皆を救えたのではないかと。

 

「そっか」

 

 水が流れる音に混じるほど小さく囁かれた驚くほど簡素な言葉。そこには、同情も憐れみもない。しかし、それが寧ろ一粒の清涼剤のように、波風たった俺の心を静めてくれる。

 ――自分の事を理解してくれている人がいる。たったそれだけなのに、心の重荷が少しだけ軽くなる。

 

「……そう言うあんたはどうなんだ?」

 

 単なる好奇心で俺はそう尋ねた。声の震えはもう止まっていた。

 

「そうだねぇ……まあ、色々理由はあるけど、取り敢えずは今後も独りかな」

 

 洗い物を済ませたのか、水音はとうに止んでいる。

 

「色々って何だよ? 俺だって正直に話したんだから、あんたも本当のところを話してほしいんだけどな」

 

 冗談めかすように訊いたものの、内心では真剣だった。

 このデスゲームを敢えてソロで戦い続ける彼女の真意は何なのか?

 それが解れば、彼女の“強さ”が何処からくるのか、もしかしたら解るのではないかと。

 だが、彼女は一瞬儚げな微笑を浮かべ――しかし、直ぐに悪戯っぽい表情でそれを覆い隠した。

 

「ごめんね。僕にだって、話せないことの一つや二つはあるんだ」

 

 つまり、何か話せない理由があるっていうことか。

 男嫌いだとか、人付き合いが苦手だとか……そういう理由を挙げて煙に巻くつもりなのかと思いきや、彼女は“正直”に答えてくれたのだ。

 それが彼女なりの誠意だと、俺はそう受け止めることにした。

 

「あんたって、もしかして秘密主義だったりするのか?」

「女は秘密を着飾って美しくなるんだよ……なんてね」

 

 そうやって軽口を言い合ってから、俺達はどちらからともなく笑い出した。

 ――と。

 

『コンコンッ』

 

 不意に扉をノックする音が聞こえ、笑いを引っ込める。

 

「……客か? それなら俺はサッサと出てくけど」

「いや、その必要は無いよ」

「はぁ? それはどういう――」

 

 俺が言い切る前に、ティンクルはスタスタと玄関まで歩いていくと、躊躇い無く扉を開け放った。

 

「おはよう。待ってたよ」

「――――――――え」

 

 扉の前に立っていた赤と白の団服に身を包んだ訪問者は、放心しきったような声を上げる。

 俺はといえば、予想外の人物の登場に目を見張った。

 

「あ、アスナ!?」

 

 栗色の長いストレートヘアにはしばみ色の大きな瞳。そして、アインクラッドで五本の指に入る美人にして、トップギルドと名高い《血盟騎士団》の副団長。

 そんな彼女と何かと接点があるのは自覚してはいるが、まさか偶々泊り込んだ友人の家で鉢合わせすることになるとは。

 しかも今日は平日で、昔ほどではないにせよ、あのアスナが攻略をサボるとも思えない。こんな偶然――

 いや、待て。ティンクルは何と言った? ……待っていたと言わなかったか?

 

「ごめんなさい……やっぱりお邪魔だったみたいですね」

 

 そう言って、今にも泣き出しそうな笑顔を向けるアスナ。

 何がどうお邪魔だというのか。今回の場合、間違いなく邪魔者は俺の方だと思うのだが。

 

「失礼しま――」

「だから待ってたんだって」

 

 ティンクルは、まるでロボットのようにカクカクと右回れして帰ろうとするアスナの手首を掴んで引っ張ると、そのまま家の中へと引きずり込んだ。

 

「な、何するんですか!?」

「いや、このまま帰すわけにはいかないんだよ。朝方、リズからアスナをよろしく頼むっていうメールを貰ってね」

 

 そう言ってから、ティンクルはアスナの耳元に顔を近づけると、ゴニョゴニョと何事か耳打ちする。

 すると、つい先ほどまで青ざめていたアスナの顔が、目に見えて紅潮しだした。

 ……一体この人はアスナに何を言ったんだ?

 

「り、リズぅぅぅ!!」

 

 顔を真っ赤にしたアスナは声を上げながら、今度は勢い良く飛び出して行こうとする。

 だが……何故、剣の柄に手を伸ばしてるんだ、アスナは。

 若干恐怖を感じつつも、俺は黙って成り行きを見守る。

 

「だーかーらー帰っちゃ駄目だって」

 

 人が悪そうな笑みを浮かべたティンクルは、再びアスナの手首を掴んでこの場に引き止める。

 

「さて、ここで知らぬ存ぜぬって感じのキリト君に質問です――」

 

 そこまで言われ、ようやく俺の中で警戒アラーム鳴り響く。が、時すでに遅し。

 何も言うことが出来ぬまま、選択肢が突きつけられる。

 

「このまま何時ものように一人で孤独に薄暗い迷宮区に向かうのか? それとも、このまま僕ら三人でトリオを組んで向かうのか? ……さあ! 二つに一つ!」

「いや、ちょっと待ってくれ!!」

 

 どうにかそれだけ言って、俺は必死に反対材料を探す。

 

「ああ、キリトがアスナとコンビが良いって言うのなら、僕としてはそれでも全然構わないよ」

「勝手に話を進めるな!!」

 

 そして思い至り、俺はアスナに尋ねる。

 

「ティンクルはこんなこと言ってるけど、アスナの意見はどうなんだ? アスナだって――」

「わたしは構わないわよ? トリオでも、コンビでも」

「――そうだよな、ギルドの方だってあるし……って――――え?」

「うち、別にレベル上げのノルマとか無いし」

 

 く、雲行きが……。

 

「じ、じゃあ最近連れてるあの護衛の二人は?」

 

 護衛と言われ、一瞬苛立たしげな表情になるアスナ。

 お、これはイケるか。

 

「置いてくるし」

 

 しかし、俺の期待はすまし顔で切って捨てられた。

 ――まあ、確かに魅力的な話ではある。アインクラッド一二を争う美人二人とトリオを組むなど、アインクラッド中の男を敵に回しかねない。

 だが、ティンクルは兎も角、何故アスナまでもが乗り気なのだろう。

 ひょっとして、根暗なソロプレイヤーとして憐れまれてるのだろうか。

 そんな後ろ向きな思考に囚われ、うっかり口にしてしまった台詞が命取りだった。

 

「最前線は危ないぞ」

 

 言った瞬間、しまったと思った。しかし、後悔先に立たず。

 言った言葉の取り消しも、やってしまった失敗も……してしまったことの取り返しはつかないものだ。

 ビュン、という風切り音がしたかと思うと、目の前にライトエフェクトを纏った細剣の切っ先が。

 

「足手纏いにはならないと思うけれど?」

「わ、解った。……じゃあ、さっきに問いの答えはトリオってことで……」

 

 俺がトリオと言った瞬間、ティンクルの落胆するような吐息と、僅かに剥れたアスナの顔。

 

「え……? 俺、何か変なこと言ったか?」

「知らない!」

 

 こ、今度は一体何を怒ってるんだ……?

 

「先は長そうだねぇ~……」

 

 しみじみといった感じに、ティンクルがそう独り言ちた。




 実はこの場にいるのは3人じゃないんですよ。

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