ソードアート・オンライン 黎明の女神   作:eldest

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 作者に終末期医療を否定する意図はありません。


第27話 水の柩の眠り姫

 人々の行き交う昼下がりの往来は、寒空の下だというのに休日ということもあって賑やかだ。

 東京都文京区。

 住居は杉並、通う大学は世田谷にある俺がここを訪れるのは週に一度、決まって日曜日だった。

 交差点を渡り、敷地に入る。

 目に映るのは、車椅子に乗った老人、そしてそれを押す看護師の姿。

 

「もう、通い始めて二年近くになるのか……」

 

 知らず呟き、冷えた手をズボンのポケットへと突っ込む。

 東京大学医学部附属病院。俺とは縁遠いはずのこの場所は、しかし今では身近な場所へとなってしまった。といっても、俺自身が何か治療の為に訪れているわけではない。そもそも、今日は日曜日なのだから、急患以外は受け付けてもらえないだろう。俺がここへ来るのは、友人の見舞いの為だ。

 院内に入ると、病院独特の消毒薬の臭いが――然してするわけではなかったが、やはり独特の空気を肌で感じる。

 受付で面会の申請を行ってから、病棟の中を無言で歩く。

 一昨年の十一月に勃発し、のちに《SAO事件》と呼ばれるようになった未曾有のサイバー犯罪に巻き込まれた光は、数日と経たずに政府主導で意識不明のままここへと担ぎ込まれた。

 実家が病院だったり家族が自費で入院させた場合を除き、プレイヤーの多くは政府から指定された医療機関に入院することになった。そして、光は後者だ。

 光が事件に巻き込まれたと聞いたとき、始め俺は信じられなかった。だって、あいつとは、前日に久々に再会したばかりで。……一週間後、試合を見に来てくれると約束したばかりで。あいつが二度と目覚めないかもしれないなんて、全く信じられなかった。

 結果だけを言えば、大会には優勝した。もし俺が動揺して負けようものなら、あいつの責任みたいで――それだけは、意地でも避けたかった。……だから結局、メイド服は二年も“お預け”を喰らっている状態だ。

 

「反故にしたら許さねぇからな……」

 

 メイド服は既に秋葉で購入済み。あの時の俺の羞恥心を無駄にしない為にも、あいつにはちゃんと還ってきてもらわないと困る。

 ――そんな思考に捕らわれていたせいか、いつの間にかあいつの病室の前にまで辿り着いていた。きっと周りからは上の空に見えたことだろう。

 毎週来ていることもあって、俺は無遠慮に扉の取っ手を掴みスライドさせた。

 

「――いえ、そんなことは……あら?陽人くん?」

 

 病室に居たのは光の二つ違いの姉である茜、そして、恰幅のいい見知らぬ初老の男だった。少なくても、光の親父さんでないことだけは確かだ。

 親戚だろうか?

 

「すいません、俺出直します」

 

 どちらにせよ、この場では俺が邪魔者であることに違いない。

 軽く頭を下げ、病室から辞去しようとしたのだが――

 

「ああ、成る程。君が噂の“日曜日の王子様”か」

「はぁ?」

 

 男の意味の解らぬ戯言に、思わず威圧するように聞き返してしまう。

 

「いや、すまん。さっき、ここの看護師が噂しているのを小耳に挟んでね。毎週欠かさず、“姫”を起こしにやって来るイケメンがいると――確かに君は、噂に違わぬ端整な顔立ちだ」

「……何だそれ」

 

 まさかそんな話になっているとは。

 俺は困惑を隠せず、その場に固まってしまう。

 

「ああ、失礼。私は結城彰三……一応、三雲君の上司でね」

 

 親父さんの上司……ということは、この人も《レクト》の社員なのか。

 たしかにそう言われてみれば、学生の俺でも解るくらいに身なりが整っている。

 

「そうなの。こちらの結城さんはレクトのCEOをなさっているのよ」

「――……は?」

 

 光のものとはまた異なる柔和な笑みを浮かべた茜は、その表情のままとんでもないことを言い出した。

 間の抜けた声が俺の口から漏れる。

 

「はぁ~……全く、君ら姉弟は。今日の私はあくまで一個人として、友人の息子の見舞いに来ただけなのだがね」

 

 そう言って、彰三は苦笑する。

 

「グループ企業の代表だと態々明かさなければ、その辺のおじさんと何ら変わりないだろう?」

 

 さも面白そうに彰三は笑うが、そんな相手を前にして平然としていられるほど、俺は肝が据わっていない。

 

「は、はぁ……」

 

 だから、肯定でも否定でもない微妙な相槌を打つのが精一杯だった。

 

「……はぁ~。君が余計なことを言うから、彼が変に緊張してしまったではないか」

「失礼ながら、自己紹介はちゃんとなされた方が宜しいかと思いまして」

 

 二度目の溜め息を漏らす彰三と、笑みを浮かべたまま全く意に介さない茜。

 その光景を見て、改めて自分が場違いな存在だと思い知らされる。

 

「えーと……結城さんは親父さんの友人だって話ですけど……?」

「ああ、そうだよ。何を隠そう、エニカちゃんと三雲君をくっ付けたのは私だからね。国際結婚の仲人を務めたのは、私の密かな自慢だ」

 

 昔を懐かしむように笑う彰三。しかし、その笑顔に僅かに影があるのは、エニカ――二人のお袋さんが早くに亡くなってしまったからだろう、と思ったのだが。

 

「――なんて言ったものの、実はここへ寄ったのは娘の見舞いの序ででね」

「……?娘さん、ご病気なんですか?」

 

 俺がそう問うと、彰三は疲れたような笑みを浮かべた。

 

「いや、光君と同じだよ。娘もSAO事件に巻き込まれてね……。ゲームなんて、殆どしたことがなかったのに、今回に限って――だから、今も頑張って戦っている娘が誇りだ」

「…………」

 

 俺はどう声をかければいいのか解らず、沈黙する。

 ただの友人に過ぎない俺と違い、父親である彼の心労は想像を絶する。いや、それは親父さんや茜さんも同じか。

 

「……すまん。君にこんな事を言っても仕方ないな。私も少し疲れているようだ」

 

 眉間をマッサージするように指で摘まんで揉む彰三。

 その姿は、実年齢を知らない俺から見ても、年齢以上に年老いて見えた。

 

「そういえば、親父さんは?」

 

 今更になってその姿が無いことに疑問に思い茜に尋ねたのだが、それに答えたのは彰三だった。

 

「三雲君には休日出勤してもらっていてね。――彼も大変だろうに、文句も言わずに成果だけを上げて……非常に優秀な男だよ。分野は違うが、優秀さだけなら須郷君といい勝負を――」

 

『pipipipi……』

 

 デフォルトと思しきケータイの着信音が鳴り響き、彰三は顔を顰める。

 失礼、と俺と茜さんに断ってから、彼は――今では絶滅危惧種の――ガラケーに耳を当てた。

 ハッキングされるリスクが殆ど無いガラパゴスケータイは、今でも金融機関などに勤めている人間には現役で使われていると聞いたことがあったが、彼もそういう理由で使い続けているのかもしれない。

 

「もしもし、私だ。――何?その書類なら、昨夜のうちに送っておいたはずだが?――――そういうことは早めに言わないか!」

 

 電話に向かって檄を飛ばす彰三。その横顔は、先ほどの疲れた父親のものではなく、巨大グループのCEOに相応しい威厳に満ちたものだった。

 

「すまないが、急用が入ってしまった。私はそろそろ失礼するよ。茜ちゃん、三雲君に宜しく。……影山君、機会があったらまた会おう」

 

 そう言って、病室を出て行く彰三。

 俺はその姿を暫し見送ってから、頭を上げた茜に尋ねる。

 

「もしかして、結城さんに俺の名前教えました?」

「レクトのCEOとのコネなんて、そうそう手に入らないわよ?お姉さんに感謝なさい?」

 

 そんなことを言って、ウインクを噛ます茜。

 ……全く、この姉弟は。

 奇しくも彰三と同じことを考えてから、俺は肩を竦めた。

 

「光の顔、見せてもらって良いっすか?」

「良いけど、光の唇は奪わせないわよ?」

「…………」

 

 茜の軽口を無言で受け流し、俺は光が眠るジェルベッドへと近づく。

 仮想世界へ縛ると同時に、現実世界との唯一の繋がりでもある無骨なヘッドギア――《ナーヴギア》を頭部に被せた光。

 意識不明に陥り二年が経過しようとしている現在においても窶れておらず、日本人どころか男にすら見えないその蠱惑的な美貌は一切変わらない。

 瞼を閉じたこの顔だけを見ていると、本当に眠っているようだ。しかし、腕から伸びた点滴用のチューブと、心電図モニターの電極が、彼が眠っているわけではないことを無言で物語っていた。

 

「全然変わらないでしょ?二年も寝たきりなのにね」

「たしか……開発中の栄養剤の治験に協力してるんでしたっけ?」

 

 食事を摂れない長期入院患者の為に開発中のモノらしいが、治験ということもあって全額病院負担ということで投与してもらっているんだったか。

 流石は東大病院というところか効果は目覚しく、体重は入院前と比べても二、三キロしか落ちていないらしい。とはいえ、筋肉や内臓の衰えはどうしようもないそうだが。

 

「……茜さん」

「ん?どうしたの?」

 

 俺は一旦光から視線を外し、茜の方を見る。

 

「なんかこいつ、甘い匂いがするんですけど。……俺の鼻が腐ってるんじゃないっすよね?」

 

 身体の老廃物はジェルベッドが吸収してくれるらしいが、それでも二年近く風呂に入っていないことに変わりはないはずだ。そしてそれ以上に、俺の鼻腔を擽るこの匂いは、決して男の身体からしていい臭いではない。

 

「ああ、それ?この子の体臭だから気にしないであげてね」

「嘘だろ……?」

 

 茜の無慈悲なその発言に、俺は頭を抱えそうになる。

 

「ところで陽人君。部活の方は最近どうなの?やっぱり大変?」

「そうですね……強豪ってこともあって練習はキツいですけど――まあ、本物のモンスター相手に剣で戦うのに比べたらチョロいっすよ」

 

 言って、しまったと思った。

 

「え?」

 

 何を言ってるんだこいつは、という顔の茜。

 本当のところを話そうか迷うが、誤解された場合、悲惨なことになるという思いが先立って、俺は誤魔化すことにした。

 

「いや……今だって、光は命賭けで戦ってるんだろうし、それに比べたらって」

 

 咄嗟に思い付いた言い訳だったが、そう思っているのは嘘ではなかった。

 一年ほど前、この病室を訪れた総務省《SAO事件対策チーム》のメンバーだと名乗る黒縁眼鏡の官僚が茜に言ったらしい。光のゲーム内でのプレイヤーレベルが、全体のトップ数パーセントに位置すること――そして、常に危険な最前線で戦闘を行う、数少ない攻略プレイヤーであるのだ、と。

 

「日体大サッカー部のエースにそう言ってもらえれば、中学時代の部長としては鼻が高いんじゃないかしら?」

 

 そう言って、可笑しそうに笑う茜。

 

「……実際、中学時代のあいつは凄かったですけどね。――人並み以下の体力のせいで、試合には専ら後半戦にしか出ませんでしたけど……あいつが出ただけで士気は上がりましたし、司令塔として的確な指示を飛ばしてました。“ヒーローは遅れてやって来る”じゃないですけど、あいつ、直接間接問わずまず間違いなく一点は入れましたから」

 

 当時のことを思い出す。

 内外問わずその容姿もあって、男子なのに《東中の女王》などと呼ばれていた光は――本人はかなり気にしていたが――部長として部員全員に慕われていたし、中には「スパイク履いたまま思い切り蹴りつけて下さい!!」などと言い出すいき過ぎた崇拝者が数名現われるほどだった。ドン引きである。

 だから、高校進学するにあたってサッカーを辞めると聞いた時は信じられなかったし、怒りも覚えたし、勝手な話だけど裏切られたような気分だった。……そういう個人的な気持ちもあって、卒業後は疎遠になってしまったのだ。

 ――そんな風に物思いに耽っていると、病室にノックの音が響いて我に返る。

 ……まさか、また見舞い客だろうか?

 

「失礼するよ」

 

 しかし、そう言って入ってきたのは、ベストの上に白衣を纏った妙齢の女性だった。

 艶のある黒髪に、白人のものとはまた違った白い肌。見た限り俺達とそう歳は変わらないように見えるが、全てを見透かすようなその瞳だけが僅かに年齢を感じさせる。

 

「おや……?」

 

 女性は何故か俺の顔をまじまじと見詰めると、茜に笑いかける。

 

「彼氏か?何だ、やることはやっていたんだな」

「……え?陽人くんってわたしの彼氏なの?」

「何で俺に訊くんですか!?違いますから!!」

 

 思わず声を荒げるが、茜は何故か表情を暗くする。

 

「そんなに全力で否定しなくてもいいのに……お姉さん傷付くなぁ……」

「あ……いや、そんなつもりで言ったわけじゃ」

 

 しどろもどろになりながら、何か弁解の言葉を探すが――

 

「ふふふっ冗談、冗談」

 

 そう言って茜は破顔すると一転、にやにや笑いを浮かべ始める。

 この尼……!!

 

「ほらほら、怒らない怒らない。ほら、飴あげるから」

「幾らなんでも馬鹿にし過ぎだろ!!今時小学生だって手懐けられねぇぞそんなんじゃ!!」

 

 本当に懐からチュッパチャプスを取り出した茜に思わず突っ込む。

 

「いやー……今の一幕だけで君らの関係が容易に想像できるな」

 

 感心したようにそう言って腕を組む女性。

 ……その体勢だと、決して小さくない胸が強調されて、目のやり場に困るのだが。

 

「……?」

 

 俺の視線に気付いたらしい女性は、ふっ、と大人の余裕の笑みを浮かべると言った。

 

「世の中には視姦という言葉があるが、姦淫の姦が入っているからって、見ただけで女性を妊娠させたりは出来ないぞ?医学的見地から言っても不可能だ」

「あんた何言ってんだ!?」

「そして、露出プレイで興奮出来るのは見られて興奮するタイプの変態だけだ。私は見られるくらいなら縛ってもらいたい。寧ろ自分で縛る」

「結局別の意味で変態じゃねぇか!!」

「因みに自縄自縛という言葉があるが……あれを考えたのは私だ」

「嘘つけ!!!」

 

 ナントイウコトデショウ……知的ナ美人ダナト思ッテイタ女性ハ、タダノ変態デシタ。

 脳内で悲劇的ビフォーアフターのナレーションが鳴り響く。片言なのは恐らく、俺の困惑具合が反映されているのだろう。

 

「ここは病室だ、静かにし給え」

「あんたのせいだろ!!」

「……ふむ」

 

 荒く息を整える俺を、今度はジッと見詰める女性。

 ……今度は一体何だ?

 

「やっと私の目を見てくれたな。駄目だぞ、人と話す時はちゃんと目を見ないと」

「…………あ」

 

 言われて気付く。

 何故か、今でも人の目を見て話せない俺が、いつの間にか彼女の目をちゃんと見ていた。

 

「興奮というのは一種のドーピングだ。映画なんかでもあるだろう?拳銃で肩を撃たれた主人公が、怒りで痛みを忘れて敵を殴り殺すとか、な」

 

 そう言って、女性は悪戯が成功した子供のように無邪気に笑った。

 

「――先生は、精神科医か何かなんですか?」

 

 俺がそう尋ねると、女性は「ああ」と思い出したように呟いてから言う。

 

「自己紹介がまだだったな。私は月見里(やまなし)紫苑。月見里と書いてやまなしと読む」

 

 そして、真面目な表情をつくって続ける。

 

「君は私に精神科医か?と訊いたが、答えはNOだ。しかし、医者というのは何か専門分野を持つのではなく万能であれと云われる」

「へぇ……じゃあ――」

「まあ、私の専門は神経科学だがな」

「はぁ!?」

 

 急な手の平返しに、またも声を荒げてしまったのだが。

 

「今言ったのはあくまでこうあるべきだ、という理想論だ。医者は神様じゃないんだから、万能なんかになれるはずがない」

 

 そう言って、紫苑は苦笑する。

 

「実際、光君に我々は殆ど何もしてあげられない。我々が今出来るのは、精々意識を取り戻した後、少しでも早く社会復帰出来るように身体のケアをしておくことくらいだよ。うちにはリハビリテーション科もあることだしな」

 

 白衣のポケットに手を突っ込んで肩を竦めると、茜の方を向いて優しく微笑む。

 

「だから、こうして毎週欠かさずに会いにきてあげる方が、余程光君の力になっているはずだよ。たとえ、ギアによって触覚を始め、感覚を全て遮断されているとしても、きっとその想いは彼に届いているはずだ」

「――先生……はい、そうですね。きっと、この子にちゃんと届いてますよね」

 

 涙ぐんで、何度も頷く茜。

 あのふざけっぷりも、心配かけまいと気丈に振舞っていた裏返しなのだろう。

 もしかしたら、この先生結構良い人なのかも――と、思ったのだが。

 

「先生こんな所に居たんですか!?」

 

 突然病室の扉が開き、若い看護師が飛び込んでくる。

 

「だ、誰かね君は?人違いじゃないのか……?」

 

 看護師の顔を認めると、目を泳がせそんなことを言い出した紫苑。

 

「何を訳解んないこと言ってるんですか!?准教授にどやされるの私なんですからね!!」

「佐藤君に?……看護師を怒鳴りつけるとは怪しからんな」

「怪しからんのは貴女ですからね!?『……また教授が消えた!!どうしてちゃんと見ていなかったんだ!?あの人は遊園地を訪れた子供以上に目を離せば何処かへ消えてしまうような人間なんだぞ!!』って泣きながら怒ってましたよ!?五十過ぎたおっさん泣かせちゃ駄目ですよ!!」

 

 機関銃のように看護師はそう捲くし立てると、紫苑の襟首を掴んで力任せに引き摺っていく。

 

「ちょっと待て!襟が伸びたらどうする!?どうせ引き摺り回すなら、ロープでぐるぐる巻きにしてからにしたらどうだ!!西部劇よろしく!!」

「それ貴女の願望ですよね!?絶対やりませんよ!!」

 

 そんな風に言い合って、二人の女性は部屋から出て行った。

 ――ド変態なのは冗談じゃなかったのかよ!?

 もうなんか、色々台無しだった。

 

 

「君には言っただろう?……私はメデュキボイドの開発に協力するつもりはないと」

 

 ストレスの為か単純に加齢の為か、毛髪が減り地肌が現わになっている白衣の男に、白衣の女は先ほどのふざけたものとは異なる冷え冷えとした調子で言った。

 

「し、しかし教授……あれは――」

「メデュキボイドが行き着く先は何だ?」

 

 男の言葉を遮りそう問う女。

 

「メデュキボイドはターミナルケアを始めとして、多くの分野で活用が期待されています。教授が開発に参加すれば、より発展的なものになると私は確信しております」

 

 男が真面目にそう答えると、女は鼻で笑った。

 

「佐藤君。何故、終末期医療が敬遠されるか解らない君じゃあるまい」

「……採算が取れないと?」

 

 男は女の威圧感に気圧され、僅かに語尾を震わせそう問う。

 

「当たり前だ。巨額の開発費に加え、生産費、維持費、稼動費……――それに比べ、収入は一人当たり見込めて一千万程度だ。……そんなもの、採算が取れるわけがない。赤字の一途だ」

 

 ぐうの音も出ず、黙り込む佐藤と呼ばれた男。

 

「それに、そもそも患者は?……保険も利かず、病気が治るわけでもない。そんなものに金を払えるのは、一部の特権階級のみだ」

 

 吐き捨てるようにそう言って、女は溜め息を吐く。

 

「どんなに研究者の志が高くても、結局、泡く銭を蓄えた老人共に使われるのがオチ――そんなものに、私は労力を割くつもりは無い」

 

 そこまで言って、女は机に積まれた書類の山から、正確に一枚抜き取る。

 

「……それに比べれば、総務省が送りつけてきたこれの方が、余程面白みがあると思わないか?」

「そ、それではそちらに参加すると?」

「いや」

「は?」

 

 思わず聞き返す男。

 

「私は官僚共が大嫌いだ。そもそも医療に属してる人間で、あいつらが好きな奴いるか?欧米では実用化されている新薬でも認可するのに数年かかるし、全く対策を立てないから地方の医療は崩壊の一途――そもそも、大学病院を独立行政法人化した時点であいつらの性根は腐って――……いや、すまない。佐藤君に言っても仕方がないことだな」

 

 思い直すようにそう呟いてから、女は男に頭を下げる。

 

「あ、頭を上げて下さい教授!」

「そうは言ってもな……私と佐藤君は年齢が二回り近く違うからなぁ……」

 

 それは嫌味か、と男の頬が引き攣る。

 

「ま、それは兎も角――」

 

 頭を上げた女は、まるで初めてのおつかいへ行かせた娘を心配する母親のような表情で。

 

「今は、あの娘の帰りを願うばかりだよ」

 

 遠い地にいる己の“作品”に思いを馳せ、女はそう呟いたのだった。




 陽人くんについては加筆修正の際に誕生したキャラなので、Prologueを確認してもらえれば。

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