闘技場で二千人近い観客を目の前に、自分が何を話したのか……よく覚えていない。
スピーチを終えた後は《グランザム》のギルド本部へと赴き、各団員一人一人への挨拶。愛想笑いはちゃんと浮かべたけれど、反応は芳しくなかった。
当たり前だ。そりゃ嫌々入られて、しかもいきなりそいつが自分達の上司になるなんて気分が良いはずがない。それでも、僕の風貌に騙されてヘラヘラ食事に誘ってきた阿呆が何人かいたが、漏れ無く丁重にお断りした。
「――それでは、至らない点もあるかと思いますが、これから同じギルドの一員として何卒宜しくお願いいたします」
最後の団員への挨拶を終える頃には、窓から見える景色は暗闇に包まれていた。
「……ふぅ」
礼の状態で固まっていた上体を起こして溜め息を吐く。
一体、僕は何をやっているのだろう。諸悪の根源の巣窟の中で、ぺこぺこと頭を下げて。
誰もいなくなった吹き抜けのロビーで、僕は力無く膝を突いた。金属の床から伝わってくる冷気が、心まで冷やしていくようだ。
……茅場は一体、何の為に僕を《血盟騎士団》へ?
それに……認めるのは癪だけど、僕の容姿は自分から男だと言い出さない限り、対外的には女性にしか見えない。だから、茅場が【Male】の団服を僕に寄越したのは、お前の正体など看破しているという茅場の意思表示と受け取っていいと思う。だけど、それをした意図は? もしかしたら、僕は茅場のことなんて何も知らないかもしれないのに、自分の正体を悟られるような危険を冒してまで、こんなことをした理由は何だ? ――結論として導き出せるのは、茅場は僕が茅場の正体を知っているという確かな根拠と確信を既に持っているということに他ならない。
「それなら……」
今まで泳がせていたのは何故だ? そして、今になって首輪を嵌めるような真似をしたのは何故だ?
解らない……あいつの考えなんて、僕には――
「そんな所で何をしているのかね?」
突然そんな声が頭上から降り注ぎ、僕は目を見開く。頭上からの声、まるであの日のようじゃないか。そして、その声までもが。
僕は立ち上がりながら、螺旋階段を振り仰ぐ。
神の如く頭上から僕を見下ろすのは、真の異世界を創り上げた孤高の天才。しかし男は、神というには余りにも世俗的な姿だった。白いシャツにネクタイを締め、あの日のローブの代わりに長い白衣を羽織った――SAO開発者としての本来の姿。
僕はその名を、怒りと憎しみを込めて叫ぶ。
「――――茅場晶彦!!」
「フッ……この姿で会うのは初めましてだな、ティンクル君。いや――――三雲光君、とこの場では呼ばせてもらおうか」
「――ッ!?」
何であいつが僕の名前を……!?
――いや、そうか。……恐らく、βテスターに配布された正式版パッケージの優先購入権が原因だ。あれを貰うとき、自宅への配達の為にと、住所や氏名などの個人情報を運営サイトに入力させられた。茅場は、その時のデータから僕の本名を知ったのだろう。
落ち着け……! 絡繰りが解れば、どうということは無いだろ。兎に角、今は冷静になるんだ。
「……サイトの規約に記載された以外の目的でお客様の個人情報を使ったらいけないんじゃないの? しかも、こんな不特定多数の人間に聞こえるような場所で言うなんて……――訴訟も辞さないよ?」
「成る程、頭の回転も速いようだ。――安心し給え。現在この付近にいるプレイヤーは、私と君の二人だけだ」
つまり、助けは期待出来ない――って、そもそもこの状況で、誰がどうやって助けてくれるいうのか。……いや、一人いるにはいるけど――
「因みに、君と懇意にしているAIは、現在別空間において拘束中だ。彼女の救援を期待しているのならば諦め給え。……とはいえ、この場にAIが一体いたところで、何が出来るというわけでもないのだがな」
まるで僕の思考を見透かすように、そう先手を打ってくる茅場。しかし、新たな情報が手に入った。
……拘束ということは、
考えられる理由は二つ。一つは、彼女の
どちらにせよ、彼女が無事であることに少し安堵する。
「それで? ……そんな姿で僕の前に現われた理由は何? そのすかした面を見ていると、殺してやりたくなるんだけれど?」
「それは物騒だな。――だが、ここは《圏内》だ。その腰のものを振り回して気が晴れるのであれば、好きなだけ振り回すといい」
「あんた喧嘩売ってるの……!?」
「喧嘩を売っているのは、君の方じゃないのかね?」
僕は息を呑んだ。何の感情も読み取れなかった茅場の無機質な瞳に、確かに感情が映ったからだ。それは、怒りとも苛立ちとも取れる――僕に対する……いや、僕の背後にいる何者かに対する明確な敵意だった。
「――私が君に興味を抱いたのは、本当に偶然だった。……あの日、チュートリアルを終えログアウトした私は、一仕事終えたような達成感とともにモニターで《はじまりの街》中央広場の惨状を眺めていた。ある種の統一感を持っていたプレイヤーのアバターは、現実と同じように美醜多様になったわけだが、あの時は皆同じような顔をしていたな。――そんな中で、異彩を放っていたのが君だった。私は思ったよ。何故、君だけがスタート時に作成したアバターのままなのだろうと」
そこで一旦区切ると、茅場は苦笑を浮かべた。
「そして、調べてみるとますます驚いたよ。君のアバターはカーディナルによって確かに現実の姿に変更されていた。しかし、性別は間違い無く【Male】……つまり男性だ。この矛盾を解消する為に、私は君のβテスト時に登録されていた本名から、駄目元でネットの画像検索をかけてみた」
「ね、ネットの画像検索……?」
続くであろう言葉に戦慄し、寒気を覚え呟いた。
「見事にヒットしたよ。個人サイトだったがね。因みに、中学男子サッカーの地区大会の写真……だと思うのだが、君だけアップの写真が幾つか掲載されてあったよ。――先程、訴訟云々という話が出たが、晴れて現実世界に戻れた暁には、そのブログの主を肖像権の侵害で訴えると良い。まず間違い無く勝訴出来るだろう」
……落ち着け、今は落ち着け。相手のペースに呑まれてはいけないと、僕は理解しているはずだろう?
そう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
「考えとくよ。……それで? 僕が奇天烈な姿なのは、現実でも同じだってことが解って、あなたの中の矛盾は解消されたの?」
「ああ、解消されたよ。そして、世の中まだまだ私の予想を覆す事象が起こり得るのだと、改めて痛感した」
「……大袈裟だな」
「大袈裟ではないさ」
笑うわけでもなく、真面目な顔で否定する茅場。
「――そして、そんな偶然から興味を抱くことになった君は……残念ながら、原罪の蛇に唆された愚者だったわけだ」
原罪の蛇――“創世記”か。
ならばこの場合、蛇はアウローラ――……違うな。蛇が彼女の製作者、イヴがアウローラで、アダムが僕か。
「……知恵の樹の実――あなたにとってのそれは、自分の正体だったというわけ?」
「いや、違う。……君はマップデータやモンスターの位置情報など、本来ならば自他含めた見聞によって知るべきものを何の労力も無く手に入れた。これが罪ではなく何だというのかね? 少なくとも、
罰を与える。
その言葉から連想された情景に、全身が怖気立つ。
「それは、つまり……僕をこの場で殺すってことか……?」
情けないことに、僕の口から吐き出された言葉は、自分の耳でも聴き取り難い程掠れて震えていた。
「まさか。そんな理不尽な真似をするつもりは毛頭無いよ。――そもそも、今回の件の主犯は月見里さんだ。……彼女は大方、君に破壊工作でも依頼したのだろう。態々、完成前のAIまで携えさせて」
ヤマナシ? 彼女? 破壊工作?
……どうやら、僕と茅場の認識には、随分と齟齬があるらしい。
だが、口にはしない。もし訂正して、万が一それが
僕が黙っていると、茅場は無造作に白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「――正直に言おう。私にとって、君は目障りな存在なのだよ。だから光君、君にはアインクラッドから――この世界から退場してもらう」
そう言って、茅場はこちらに向かって何かを放り投げてくる。
天井にぶら下がったシャンデリアの如く灯りを反射して輝くそれを、殆ど機械的に危な気無く掴み取った。
「……
掌に載せたそれは、幾度と無く使ってきた結晶アイテムにまず間違い無かった。しかし、この――ピンクと水色のグラデーションが神秘的な――結晶は、今まで見たことが無い。
「そのアイテムの名は、《
「《次元結晶》……?」
「そう。この世界で唯一、プレイヤーをログアウトさせることの出来るアイテムだ。光君、今すぐこの場で使い給え」
「――――――――――――――――――――は?」
意味が、解らなかった。
同じ言語を話しているはずなのに、脳が理解することを拒絶する。
「失楽園、といったところか。蛇に唆された
「……本気、なのか……?」
「本気だとも。……少々惜しいが、リスクマネジメントの観点からいっても、これが最良だ」
結晶を持つ手がガタガタと震える。
本当にこれを使えば、現実に還ることが出来るのか……?
もう……命懸けで怪物と戦う必要も、孤独に震える夜も無くなるのか……?
でも、でも……! これを使うってことは……!
「……酷い
……そうかもしれない。
もう――――頑張らなくていいのかな?
「起動コマンドは“アドベント”だ」
「あ――――」
口を開きかけ、閉じる。
……そうか、そうだったんだ。
「……? どうかしたかね?」
「――……僕は、ずっとこう思っていた。あなたの目的は只一つ、真の異世界を創ることだと。そしてそれは、死が現実になったことで達せられたのだと」
「……その通りだが……君は何が言いたいのかね?」
「確かに、異世界を創る……それが、あなたの予てからの願いだったんだろう。でも、あなたにはそれとは別に望みがあったんだ」
何故だろう? こんな状況だからだろうか。
解るはずがないと思っていた茅場の考えが、内面が……少しだけれど理解できた気がする。
「天才というのはある意味孤独だ。……きっとあなたには、友達とテストの点数を競い合ったりした経験は無いんだろうね? 誰かに勝ちたいと思ったり、こいつには負けられない――そんな誰もが一度は抱く対抗心を、子供時代あなたは持ったことが無かった」
「…………」
「だけど大人になってから、あなたは遂に巡り合ったんだ。負けたくないと、勝ちたいと思えるような相手に」
アウローラはああ言っていたけど……きっと、一方的にじゃなく、互いに相手を
「こんな面倒な事をしてまで、どうして僕に接触してきたのか。……KoBの戦力にする為というのも、それどころか僕がヒースクリフの正体を知っているということですら、あなたにとっては只の口実に過ぎなかったんだ」
僕の背後にいる――と、茅場は思っている――人物。医者でありながら、世界トップクラスの人工知能を造り上げた天才。
彼も……いや、“彼女”もきっと本来はあの日、SAOの開発者の一人としてログインする予定だったのだろう。そして、自らオープニングイベントをぶち壊してやるつもりだったのかもしれない。でも当日になって用事でもできたのか、急遽ログイン出来なくなり、代わりに自分が造ったAIを送り込んだ。
「あなたはこのセカイで、本当はヤマナシ教授と戦いたかったんだ。……でも、それはもう叶わない。――だから、代理である僕と戦うことを選んだ」
……随分と傍迷惑な話だ。でも、曲がりなりにも契約は契約だ。もう少し頑張ってやろう。
凡人が天才を打ち負かす。天才にとって、これ以上の屈辱があるだろうか?
“茅場に恥をかかせる”。……やってやろうじゃないか!
「付き合ってやるよ第百層! そして、僕がこの手で、このクソゲーを終わらせてやる!!」
叫び同時に、結晶を宙へと投げて《月華》を抜き放つ。
居合い一閃。
苦も無く砕けた結晶は、光の破片となって空気に溶けた。
……ごめん。父さん、姉さん。
キリトを明日奈を……皆をこのまま見捨てていくわけにはいかないから。そして、里香との約束があるから。
だから僕はまだ、現実に還るわけにはいかないんだ。
「――――――――――――――――――――フッ」
僕の推察を真顔で聞いていた茅場が、最早我慢の限界だと言わんばかりに破顔した。
「君は実に面白いな。流石は月見里さんの人選だ」
ヤマナシ教授が直接僕を選んだわけじゃないけど……まあ、この際訂正などするまい。
それにしても……僕って、そんなに面白い人間なんだろうか。
「本当に、君にはいなくなってもらうつもりだったのだがな。――だが、予定調和ほど詰まらないものは無い。君くらいの不確定要素があった方が、今後の展開に面白みが増すだろう」
そんな戯けたことを言うと、茅場はポケットから左手を出して無造作に振った。そうして空中に出現したのは、システム管理者用のウィンドウだった。
ウィンドウを操作する茅場に僕は警戒したが、杞憂に終わった。
あの日僕らのアバターが光に包まれ変化したように、茅場の姿が見慣れた聖騎士に戻ったのだ。
「……ヒースクリフ」
「ティンクル君、最終ボスは私が勤める。その時、君と私で決着をつけよう。――だから、私が己の正体を公にするまでは、私が茅場晶彦であることは他言無用だ」
「もし、誰かに言ったら……?」
「そうだな――今度こそ、アインクラッドから退場してもらおうか。勿論、現実世界からもだが」
つまり、警告はしたから今度は殺すってことか。
……脅迫も二度目になれば慣れたものだ。
「それ以外は、特に君に制限をかけるつもりは無い。……まあ、アスナ君が戻ってくるまでの間は、副団長の職務を全うしてもらうがね」
「……アウローラはどうなるんだ?」
「私が預かっておく。ゲームがクリアされた際には返還しよう。――それではティンクル君。これにて、副団長になるにあたっての注意事項の言い渡しを終了する。明日からは職務に励んでもらうが……今日はもう遅い。帰ってゆっくり休み給え」
そう言って、ヒースクリフは階段を上がって自室へと戻っていった。
その姿を最後まで見送ってから、僕は盛大な溜め息を吐き出した。
「はぁぁぁぁぁぁ……ドッと疲れた」
このまま床に倒れ込んでしまいたかったが、そんなわけにもいかない。茅場と一つ屋根の下で夜明かしなんて虫唾が走るし、何より今夜はちゃんとベッドで休みたかった。
ふらつく身体に鞭を打って、足を前へと動かす。
……本当にいなくなってもらうつもりだったってことは……あの結晶を使えば、本当に還れたんだな。
今更若干後悔するが、それぐらいは許してほしい。
ギルド本部を出て、月明かりに照らされた道を独り歩く。
今までは、たとえ一人で歩いてはいても、見えないだけで僕の傍には彼女がいて、彼女が道を示してくれた。でも、今は――本当に独りぼっちだ。
「僕は……これからどうすれば良いんだ」
百層まで付き合うなんて啖呵を切ったけれど、僕が最上階に辿り着くまで生きている保障は無いし――少なくとも、そこまで辿り着くのに、もっと大勢の人が亡くなるだろう。そして、非力な僕に、茅場を止める手段は無い。
緊張が解けたからか、膝がガクガクと笑う。
やっぱり茅場は狂ってる。
本人は理不尽な真似はしないなどとのたまいていたけれど、僕らプレイヤーをこのセカイに閉じ込めた時点で、もう十分過ぎるくらいに理不尽だろう。
……でも、今まで通り僕の方から巻き込まなければ、里香達に危害が及ぶことは無さそうだ……やっぱり保証は無いけれど。
――あれは、良い切っ掛けだったかもしれない。僕が茅場の逆鱗に触れるようなことがあっても、周りに誰もいなければ、被害は僕だけで済むのだから。だから、もう二人に関わるのは――
やめにしようと、そう思ったとき――視界右側に、小さな手紙のアイコンが点滅していることに気が付いた。
……誰からだろう?
首を傾げながら、アイコンをタッチしてフレンド・メッセージを開く。
「あ……」
差出人は、キリトだった。
【今日のデュエル、勝てなくて悪かった】
そんな書き出しに、思わず苦笑する。
「勝てなくて当然だよ。相手は、開発ディレクターなんだから」
そうやって独り呟いて、続きを読む為スクロールする。
【筆不精だから、簡潔に書こうと思う。まず、アスナはちゃんと説得したよ。『こんなことされて嬉しいわけないじゃない!』って、かなり怒ってたけどな。……今回は、あんたの好意に甘えることにするよ。――でも、敢えて言わせてくれ。あんたから見たら、俺達は頼りないのかもしれない。でも、たまには周りを頼ってみても良いんじゃないのか? 俺達があんたを頼るように、あんたも俺達を頼ってくれ】
「頼りない……なんて……そんな風に、思ったこと……ないんだけどな」
途切れ途切れに吐かれた言葉に、嗚咽が混じる。
【それと、これだけは覚えておいてくれ。たとえ何があっても、俺はあんたの味方だから】
これは反則だ。
視界が霞み、色々な想いが込み上げてくる。
……女ったらしめ。僕が女だったら、間違い無く惚れてるぞ。
誰もいない夜道だからか、感情の箍が外れてしまう。
「うっ……ううっ……うわぁああああああああああああああああああああああん!!!」
外周から僅かに覗く月明かりに照らされて、鉄の都に哀哭の声が響き渡った。