身体を包んでいた眩い光が消え、僕は瞼を開けた。
「え……? ここって……」
目の前に広がった光景に、只々驚き、呆然と呟いた。
僕が立っていたのは、先ほどまで狩りをしていた《はじまりの街》外周の草原ではなく、舗装された石畳――ログイン場所でもある、はじまりの街中央広場だった。
しかし、どこかおかしい。β時代はともかく、今日ログインした時と比べても、何かが変わっている。そして、その違和感の正体に気が付く。先ほどは盛大に流れていたはずのNPC楽団の演奏が止んでいるのだ。
訳が解らず立ち尽くしていると、同じように転移してきたプレイヤーで、大広場は見る間に埋め尽くされていく。
この分だと、現在ログインしている全プレイヤーがここへ集められているのではないだろうか。
……一万人。
途方もないその数に、僅かに目眩を覚える。
だけど、プレイヤーを一箇所に集めて、一体何を始めようというのだろう。
「オープニングイベントでもするのかな?」
しかしだとすれば、転移の時にアナウンスの一つも流すんじゃないだろうか。
疑問に思いつつも、そのうちGMが出てくるであろうから、黙って待つことにする。
――と、ざわめく周囲から、一際大きな怒声が耳に届く。
「ふざけんな!!」
「GM出てこい!!」
「早くログアウトさせろ!!」
早くログアウトさせろ……?
どういう意味だ? 自分でログアウトすればいいじゃないか。――……まさか。
嫌な予感が駆け巡るが、否定したい気持ちの方が強い。
右手の人差し指と中指を真っ直ぐに揃えて掲げ、真下に振る。それが、《メインメニューウィンドウ》を開く為の動作だ。
たちまち鈴を鳴らすような効果音とともに、紫色に発光する半透明の矩形が現われる。
メニューの一番下に、目当てのボタンはあるはずだ――いや、あるはずだった。
「……な、無い。ログアウトボタンが……消えてる?」
ログインした時は、確かにそこにあったはずの【LOG OUT】が消えていた。
どういうことだ? バグか何かか?
それにしたって、初日にこんな不具合を起こすものだろうか。……ログアウトできないなんて、今後の運営に関わってくる大問題じゃないか。
ますます混乱するが、疑問に答えてくれるはずのGMは未だ現われない。
「――あっ……上を見ろ!!」
そんな中、広場の喧騒を割って誰かが叫んだ。
僕と周囲のプレイヤーも、その声に導かれるようにして上を見上げる。
「な、何だよ……? あれ……」
異様な光景が広がっていた。
上空百メートル。
第二層の底で覆われた天蓋を、真紅の市松模様が見る間に染め上げていく。
【Warning】 【Systeme Announcement】
遂に、空が全て真っ赤に染まった。二つの文字に埋め尽くされて。
「え……?」
空を埋め尽くした真紅のパターンの中央部分。その隙間から、どろりと粘度の高そうな赤い液体が染み出し、流れ出た。それはまるで血液のようで、生理的嫌悪感を覚える。
液体はやがて空中で一つに固まり、ローブを着た人の形を成した。
βテストの時に何度と見た、GMの姿だった。
でも、何故か顔が無い。
「……あれってGM?」
「何で顔が無いんだ?」
囁き声が、そこかしこから聞こえる。
顔の無いGMは、そんな喧騒を遮るように、両手をゆっくり、大きく広げて声を発した。
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
わ、私の世界?
そりゃ、GMにしてみれば自分達が管理しているんだから“私の世界”なんだろうけど。だけど、それなら“私の”ではなく“私達”の方が正しいんじゃないか?
『私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールすることのできる唯一の人間だ』
「か、茅場晶彦!?」
――茅場晶彦。
《ナーヴギア》の基礎設計者にしてSAOの開発ディレクター……アーガスを業界ナンバー1にまでのし上がらせた、天才プログラマーだ。
しかし、彼は大のメディア露出嫌いで有名だったはずだ。それなのに、自らオープニングイベントを?
『諸君はメインメニューから、既にログアウトボタンが消滅していることに気付いていると思う』
GMは――いや、茅場晶彦は腕を振って、実際にメインメニューを開いてみせた。
『しかし、これはゲームの不具合ではない。繰り返す。不具合ではなく、《ソードアート・オンライン》本来の仕様である』
仕様だって……? 一体、何を言っているんだ?
『諸君は自発的にログアウトすることはできない。また、外部の人間の手による、ナーヴギアの停止或いは解除もありえない。……もしそれが試みられた場合、ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を破壊し、生命活動を停止させる』
余りにも常軌を逸したその発言に、しかし、去年の化学の授業中の雑談が、否が応にも思い出される。
高出力マイクロウェーブによる脳の破壊。それはつまり、電子レンジによるマイクロ波加熱と同じ原理だ。
電子レンジによる加熱は、“水分を多く含む材料”に対して特に有効。そして、脳の水分量はおよそ八十五パーセント……つまり、八割五分が水でできている。因みに人体の中で、脳は最も水分量が多い。それは即ち、人体の中で最もマイクロ波で熱するのに適した部分であることを意味する。
そうやって知識が及び、理性では理解しているにも関わらず、感情がその結論を拒む。
ナーヴギア……ゲーム機器による脳の破壊。それが、現実に可能であると。
「な、何言ってるんだよ。……流石に演出が過剰すぎるよ」
口を吐いて出たのは否定の言葉。
だけど言葉とは裏腹に、僕の声は恐怖で震えていた。
ざわざわと喧騒が再び起こるが、茅場が再び口を開くと、それもまた収まった。
『――残念ながら現時点で、プレイヤーの家族、友人などがが警告を無視し、ナーヴギアを強制的に解除しようと試みた例が少なからずあり、その結果二百十三名のプレイヤーがアインクラッド及び、現実世界からも永久退場している』
「二百十三人……!?」
それほどの人間が、こんな短時間で死んだというのか。それではまるで、大規模なテロじゃないか。
そして、もしそれが仮に事実だとすれば、死亡者の中にβ時代の友人が含まれている可能性だってゼロじゃない。
「信じない……僕は、僕は信じないぞ!」
だけど、幾ら否定したところで、その声が茅場に届くことはない。
茅場が左手を上げる。すると、GMのアバターの周りにニュースサイトやテレビのニュース番組らしき画像が幾つも浮かぶ。
『ご覧の通り、多数の死者が出たことも含め、この状況をあらゆるメディアが繰り返し報道している。よって、既にナーヴギアが強制的に解除される危険は低くなっていると言ってよかろう。諸君らは、安心してゲーム攻略に励んでほしい』
ゲーム攻略だって? こんな状況で何を言っているんだ……?
『しかし、十分に留意してもらいたい。今後、ゲームにおいてあらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君らのアバターは永久に消滅し――同時に、諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』
この世界で死んだら、現実の僕も死ぬ……?
そこで思い出す。茅場が以前、数少ないインタビューで発した言葉を。
“これは、ゲームであっても遊びではない”
つまり、現実の生死を賭けた、本当の意味での“デスゲーム”。
「おかしいよ……そんなの」
そもそも前提が狂っている。RPGっていうのは、何度も生き死にを繰り返して、プレイヤースキルを上げていくゲームなんだ。
それを、ノーコンティニューでやれというのか。それも、現実の死と隣り合わせの状況で。
そんなもの、誰が馬鹿正直にやるというのだ。
『諸君らが解放される条件は只一つ。このゲームをクリアすれば良い。……現在、君達がいるのはアインクラッドの最下層、第一層である。各フロアの迷宮口を攻略し、フロアボスを倒せば上の階に進める。第百層にいる最終ボスを倒せばクリアだ』
第百層だって……?
二ヶ月間のβテストの間に、六層までしか上がれなかったんだぞ? それも、死んでも《黒鉄宮》の《蘇生者の間》から復活できる条件で、だ。
『それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え』
「……プレゼント?」
殆ど反射的に腕を振り、メニュー画面を開いた。メニューアイコンの中からアイテムストレージをタップし、表示させる。
――そこにあったのは、《手鏡》という名称のアイテム。
「手鏡……?」
疑念を抱きつつも、タップして実体化させる。
両手で掴み取ったそれは、何の変哲もない只の手鏡だった。
……これがプレゼント?
鏡には、βテストから継続して使っている、平凡な男の顔。
「えっ――!?」
突然、視界が眩い光で奪われた。
だけど、それもほんの数秒のことで、なんとか鏡を落とさずにすんだ。
「な、何だったんだ……?」
僕は何気なく、もう一度鏡を見た。
「え……。どうして?」
しかし、鏡に映っていたのは、先ほどまで映っていた平凡な男の顔ではなく、涙を流す金髪碧眼の女性だった。
否。女性にしか見えない――奇異な、現実の僕の顔だった。
「何で……? え? ……声が」
ボイスエフェクタも停止したのか、声まで普段聞きなれた高音に変化し……、それによく見れば、鏡を持つ手も一回り小さくなっていた。
僕以外にもこの現象が起こっているのか。ぐるりと周囲を見回すと、僕とは対照的に、女性装備を着た男のプレイヤーがちらほら。
「みんな……現実の姿になっている?」
そして僕は、確認すべき重大なことに思い至った。
「せ、性別は!?」
こんな状況で何を、と自分でも思うけれど、僕にとっては本当に重要なことだ。もし、性別までもが女性になってしまっているとすれば、ジェンダー・アイデンティティが崩壊しかねない。
ステータス画面を開き、凝視する。
【Male】
男……?
「はぁ……」
少し安心し、吐息が漏れた。
良かった。こんな見た目でも、機械にはちゃんと男だとと認識されたみたいだ。――って、何も良くない。
「でも、そもそも何でこんなことを?」
意味が解らない。
僕達を現実の姿にして、何をどうしようっていうんだ。
『諸君は今、何故、と思っているだろう。何故私は――ソードアート・オンライン及びナーヴギア開発者の茅場晶彦はこんなことをしたのか、と』
茅場が再び口を開いた。
混乱冷めやらぬ中、それでも大広場に静けさが戻る。
『私の目的は既に達せられている。この世界を創り出し、鑑賞するためにのみ私はソードアート・オンラインを造った――そして今、全ては達成せしめられた』
既に達成された? 僕らをここへ閉じ込めることが、茅場の目的だったのか?
いや、違う。僕らをこの世界に閉じ込めたのは、只のプロセスに過ぎないのだと、そう思う。
それに、今まで……自分が殺した人の人数を告げる時でさえ淡々とした茅場の空虚な声色に、初めて色が灯ったように感じた。それはまるで、夢を語る子供のような雰囲気だ。
「……ふざけるなよ」
僕はこの状況に対して……茅場に対して……、初めて恐怖ではなく、明確な怒りを覚えた。
『以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。――プレイヤー諸君の健闘を祈る』
最後の台詞の残響が消えると同時に、ノイズが走り、GMのアバターは空気に溶けるよう徐々に――そして、完全に消え去った。
代わりに、今まで消えていたNPCの楽団が演奏する市街地のBGMが戻ってくる。
美しい音色が、酷く不気味に、そして醜悪なものに感じた。
そして――この時点に至って、ようやく。
約1万人のプレイヤーが、然るべき反応を見せた。
悲鳴、怒号、絶叫、罵声、懇願、咆哮。様々な音となって、耳に聞こえる。
――理想の世界は、僕にとって、二重の地獄と化した。
11月18日に加筆修正及び挿絵の追加を行いました。修正前に比べて文字数が1000字くらい増えてます。
また、基本的な設定は原作小説版に合わせてあります。
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3月16日に挿絵差し替えました。