ソードアート・オンライン 黎明の女神   作:eldest

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第36話 Diva of the Memories

「――ううっ……ここは……?」

 

 微睡みから覚醒し、ぼんやりと宙を見詰める。

 目に入ったのは、木目が綺麗な天井。薄暗い室内の壁に、ランタンの灯火がゆらゆらと影絵のように揺らめいている。

 どうやら何処かの宿屋の一室のようだけれど、眠りに落ちる前の記憶が曖昧で、一体何時床に就いたのか覚えていない。そもそも今日は何日で、僕はここでどれだけの時間眠っていたのだろうか。

 目が覚める前、誰かに何度も名前を呼ばれていたような気もするが……そんなことは有り得ないはずだ。だって、このセカイで僕の本当の名前を知っているのはたったの二人。その内一人は僕のことを覚えていないし、もう一人は……。

 兎も角、妙に身体が重く感じるから、意外と眠ってからそんなに時間は経っていないのかもしれない。

 

「それにしても何なんだよ一体……まるで胸の上に重石でも乗っかてるみたいな……――――あ」

 

 足元の方へと視線を這わせると、予想外のモノが目に留まり思わず声が漏れた。

 頬を伝った一筋の雫は、緊張の汗か、それとも喜びの涙か。余りも驚き過ぎて頭が混乱しているのか、自分でも判別が付かない。

 

「り、里――……リズ……?」

 

 毛布の掛かった僕の身体の上に伏せて小さな寝息を立てていたのは、この半年こちらの勝手な都合で避け続けていた篠崎里香――いや、リズベットだったのだ。

 先刻思い浮かべたばかりの想い人が、今こうして目の前にいる。

 

「な、何でリズが……?」

 

 この半年、彼女を避けていたのにはちゃんとした理由がある。それは、リズと同棲したら僕が男だと周囲にバレるからだとか、喪失の恐怖で攻略が疎かになるかもしれないだとか、そういった自己防衛が理由では勿論なく、僕と茅場の争いに彼女を巻き込まない為だった。だけど、先日当の茅場本人から、真偽の程は兎も角として、茅場の意思でプレイヤーが傷付けられることは有り得ない、と告げられたのだ。

 無駄だった、とは思わない。このデスゲームという状況で、警戒し過ぎる、なんてことはないのだから。

 僕はあの時、自分に出来得る範囲で最善を尽くした。……それでも、後悔が無かったと言えば嘘になる。

 リズはまだしも、僕はそれこそ本当の意味で死と隣り合わせの毎日だ。彼女を迎えに行くという約束も、僕の意思とは無関係に、何時反故になってもおかしくはない。そう考えると、たとえ最低の選択だとしても、何故一緒になることを選ばなかったのか。そんな風に、自分自身に怨み言の一つも言いたくなるというものだ。

 そんな訳で、この状況は正直に言って非常に嬉しいわけだけど、素直に喜べないのは……やはり、このリズの態勢がどう見ても、看病疲れで眠ってしまいました、といった(てい)以外の何物でもないからであろう。

 一体、眠りに落ちる前に僕の身に何が起こったというのか。

 幾ら記憶を遡ろうとしても、靄がかかったかのように先に進むことが出来ない。

 ――いや……確か……そう。キバオウとの交渉の一環で、《はじまりの街》の住人――僕の場合は教会で共同生活をしているという子供達――を相手に稽古を付けたんだった。それから……――

 

「……それから……? それから……どうなったんだ……?」

 

 その後は、キバオウとの交渉の為に《軍》の本部がある《黒鉄宮》に向かうはずだった。

 はずだった……つまり、実際には行っていないというわけだ。もしあのサボテン頭と顔を合わせていれば、嫌でも覚えてる自信がある。ということは、戦闘訓練が終わって《黒鉄宮》へと向かう間に何かがあった、ということになる。そして、その何かに心当たりがありそうな人間が一人目の前にいるわけだけれど……。

 

「起こしちゃうのは悪いよね……」

 

 もし本当に夜通し看病してくれていたのだとしたら――いや、たとえ偶々ここを訪れて寝こけてしまったのだとしても、気持ち良さそうに眠っている彼女を起こすのは忍びない。

 上半身を起こすことも出来ず一人悶々と考えあぐねていると、ドアの向こう側から微かな足音が聞こえてくることに気が付いた。

 生憎と他人の会話を盗み聞く趣味は無いので《聞き耳スキル》は取っていないが、この手の音は環境音と完全に分離されているので聞き分けることが出来る。所謂《システム外スキル》というやつだ。

 音の主はこちらに近づいて来ているのか、床の軋みが徐々に大きくなってきているように思う。

 そして遂にというべきか、音の主はこの部屋の前で立ち止まったようだ。

 

「……誰だ?」

 

 リズは熟睡しているようでちょっとした物音くらいでは起きるとは思えなかったけれど、思わず声を潜めたのは警戒感の表れだろう。

 目だけを動かして注視する最中(さなか)、扉がゆっくりとギギギと音を立てて開いていく。

 

「……っ」

 

 声を上げる代わりに、生唾を飲み込んだ。

 

「やあ、ティンクル君。目が覚めたようで何よりだ」

 

 ――現れたのは、紅を基調とした団服に身を包み、真鍮色の瞳を宿した魔王だった。

 

 

 時刻は僅かに遡り、精神神経科学第二研究室。

 ニヤニヤとした含み笑いを浮かべる紫苑と、頭痛でも堪えるかのように眉間に深く皺を刻んだ菊岡。佐藤はといえばそんな二人の様子を見るうち、早くも薬が切れたのか胃が軋みを上げ始めていた。

 そんな混沌とした空気を打ち破ったのは、これまたやはりというべきか宮崎だった。

 宮崎は佐藤が座るデスクから離れ応接スペースにやって来ると、小首を傾げながら紫苑に問うた。

 

「いや、教授……AIをゲームの中に送ったからってそれが何なんですか? しかも、それであの茅場昌彦が恥をかくって……もはや意味不明なんですけど」

 

 一般人からの余りにも常識的過ぎる感想に菊岡は我に返ったのか、内心の読めない微笑を張り付け宮崎に同調する。

 

「同感ですね。あの茅場先生を辱めるなんて、並大抵の方法では叶わないと思いますが」

 

 白々しい台詞をポーカーフェイスで言ってのける菊岡に、今度は紫苑が顰めっ面になる番だった。

 仮に、菊岡――若しくは菊岡と通じる何者かが実際に大学のサーバーにハッキングを仕掛けデータを盗んでいたとして、それを菊岡が認めるわけがないし、データを盗んだからといってアレを再現することが出来るとは思えない。そもそも私でさえ、同じものを造れと言われても同一のものを創ることは不可能なのだから。

 そう紫苑は内心自分に言い聞かせるようにしてから、落ち着いた声音でゆっくりと話し出す。

 

「菊岡さんはモーツァルト効果というのはご存知かな?」

 

 先程と似た調子の質問。しかし、菊岡は今度は答えられなかった。

 

「いえ、存じ上げませんね。一体何なんですか?」

 

 紫苑は宮崎の方にも一応目を向けるが、彼女が答えられそうにないことは明白だった。

 

「まあ、知らなくても無理はない。モーツァルト効果が流行ったのは、主に九十年代後半だからな。――モーツァルト効果というのは、カリフォルニア大学アーバイン校の心理学者フランシス・ラウシャーらがモーツァルト作曲二台のピアノためのソナタを学生に聴かせ知能検査を行ったところ、何も聞かせなかった、或いは他の音楽を聴かせた学生よりも高い成績を示したことから、この効果をモーツァルト効果と名付けることになり、当時の新聞などで広く報道されるに至った。後にこのラウシャーらの結果を肯定、または否定する多くの研究が行われ、現在においても尚、研究者の間で論争が絶えずにいる」

「確かにそれが本当なら凄いですが……正直、俄かには信じられませんね。音楽を聴いただけで学力が向上するなんて、大学試験、公務員試験と受験戦争を勝ち抜いてきた身としては、とんでもない反則技に思えますよ」

 

 本気か冗談か今一判断の付かない声音でそう言って、菊岡は嘆息する。また、宮崎も看護師国家試験に合格して今ここに居るからか、菊岡以上に解り易く胡散臭そうな顔で紫苑を見詰めていた。

 

「そう思うのは無理もないことだ。私自身、この手のオカルト話は信じない質でね。――只、ラウシャー曰くこの効果は十分から十五分程度の限定的なものだそうだから、恒久的に効果が持続するわけではないよ。これくらいなら、信じてみてもいい気がしてくるだろう?」

 

 宮崎は尚も信じられない様子だったが、菊岡は「成る程」と小さく呟いて頷いた。

 

「十分程度でも音楽を聴くだけで普段より頭が冴えるなら、やってみたいという気持ちが湧いてきますね。今度CDを買って試してみます」

「その辺は好きにしてくれ。――只、私が興味深く思ったのは、学力向上の方ではなくてね。知能検査についての論文が掲載された五年後の一九九八年にラウシャーらはもう一つの実験を行っていてね。その内容は、同じように二台のピアノためのソナタを聴かせたラットとフィリップ・グラスの曲を聴かせたラット、どちらがより早くT字型迷路を抜け出すことが出来るか、というものでね。結果として、やはり二台のピアノためのソナタを聴かせたラットの方が迷路から早く抜け出すことに成功し、ラウシャーはモーツァルトの楽曲は脳を直接刺激しているのだと結論付けた」

「……脳に、直接刺激を……?」

 

 何か思うところがあるのか、菊岡は囁くように呟く。

 

「そして一九九九年、ハーバード大学のクリストファー・チャビスによって、モーツァルト効果はモーツァルトの楽曲以外でも生じることが学術誌上で報告された。しかし、更に後の二〇〇七年、様々な分野の研究者を集めて検討を進めた結果、モーツァルト効果は存在しない、という結論が下されることになった。……但し、この報告は音楽を聴くだけで知能が発達するということを否定しただけで、脳への刺激については肯定も否定もされなかった。――解り易い例としてモーツァルト効果を挙げたが、実際にはこの手の話は他にも幾つもある。その一つが、うちの病院でも聴くことが出来るエリック・サティ作曲のジムノペディだ。ジムノペディには気持ちを落ち着かせる効果があるとされ、血圧測定中に聴かせたり、精神科の心理療法に用いれられたりしている」

 

 そこで紫苑は一旦口を閉じると、襟に手を伸ばしてネクタイを少し緩めた。

 

「もし仮に、音楽がヒトの心に何らかの作用を及ぼすのだとするならば、その作用の方向付けを人為的に行い、より最適化することも可能なのではないか、と私は考えた。例えば、特定の周波数や楽器の音色、或いは声質……色々試しはしたが、結果は芳しくなかった。そんな時だったよ……フルダイブ環境システム――後の《NERDLES》の開発を知ったのは。“NERve Direct Linkage Environment System(直接神経結合環境システム)”の名の通り、《NERDLES》を用いたVR機器は、ハードの内側に埋め込まれた信号素子によって発生させた多重電界でユーザーの脳を直接接続し、感覚器官を介さずに脳に直接仮想の五感情報を与えて仮想空間を生成する。それは即ち、脳に直接情報を叩き込むのと同義だ」

 

 内に秘めていたモノを吐き出すように、紫苑の一人語りは尚続く。

 

「これだ、とは私は確信したよ。足りなかった……欠けていたピースはこれなのだと、な。感覚器官を介さずに、直接脳に……いや、心に音を響かせる。これこそが、私が長年追い求めた問いの答えなのだと」

 

 余韻に浸るように目伏せた紫苑に、先程から沈黙を守っていた菊岡は、今日初めて心からの称賛、或いは敬意の滲んだ声音で尋ねかけた。

 

「月見里先生、貴女の研究対象は、今尚原因すら解っていない不治の病……アルツハイマー型認知症、でしたね?」

「ああ、その通りだ。そしてあの娘は、喚起の調べを歌い上げる歌姫(ディーバ)というわけだよ」

 

 《Diva of the Memories》。その名が伊達や酔狂でなかったことは最早明白だった。しかし、それで納得出来ないのは全く話についていけていない宮崎である。

 

「……え~っと……空気読まないようで恐縮なんですけど、話を聞く限りだと、AIである必要ってなかったんじゃないかなぁ~なんて」

「…………本当に空気読まないね、君」

 

 菊岡は呆れたような声でそう言うが、実は口には出さなかったものの同じことを考えていた。しかし、意外にも質問に対する回答は、デスクワークを続けていた佐藤の口から淀みなく発せられる。

 

「記憶というのは良いものばかりではなく、当然悪いもの……それも、トラウマの類いに類するものが人それぞれ大なり小なりあります。それを選別して良い思い出だけを思い出させるなんて不可能ですし、そんなことをすれば記憶があやふやになって寧ろ病状が悪化する危険性すらあります。そこで、人工知能です。カウンセリング……心のケアも同時進行し、冷凍食品を自然解凍するように少しずつ記憶の鎖の(ほど)いていく。これこそが、《Diva of the Memories》の肝なんです」

「……何で佐藤先生が得意げなんですか」

 

 思わず呼び名が内輪のものになってしまっているが、それを指摘する者はこの場にはいなかった。いや、紫苑が指摘するより先に、佐藤はこちらに振り向くと柔和な笑みをつくって言った。

 

「何故得意げなのかって、そりゃ私も研究に携わっているからだよ。何を隠そう、アウローラの養育係は私だったんだよ。つまりアウローラは、私の娘でもあるというわけだね」

 

 瞬間、空気が凍り付いた。

 最初にフリーズが解けたのは、やはり空気が読めない筆頭の宮崎だった。

 

「キモッ!!」

 

 身震いしながら、本気で気持ち悪がった様子での一言。だからこそ、その言葉は鋭利な刃物となって佐藤の胸に突き刺さる。

 

「済まないな、佐藤君。こればっかりは、擁護出来そうにない」

 

 宮崎とは逆に、優しい声音で謝る紫苑。何故だか解らないが、母親が息子のイケナイ趣味を見付けてしまったという場面を佐藤は幻視した。

 

「いやぁ~面白い冗談ですね。今度一緒に食事でもどうですか? キビャックに挑戦しようと思っているんですが、生憎独り身で友人も付き合いが悪くて」

 

 何故か菊岡に至っては嬉しそうに目を輝かせてそんなことを言い出した。キビャックというのが何なのかは解らなかったが、言いようのない悪寒が佐藤を襲う。

 

「――ああ、もうこんな時間ですね。随分長居してしまって済みませんでした。月見里先生のお話しは大変勉強になりました」

 

 左腕に巻いた時計をちらりと見てからそう礼を述べると、菊岡は手早く身支度を済ませて立ち上がる。

 

「こちらとしても外部の人間と話をするのは良い刺激になった。――ところで、何故アウローラをあいつと会わせるのがあいつを辱めることになるのか訊かなくてもいいのか?」

「ええ、まあ……それについては大体想像が出来ます」

「ほう。なら結構」

 

 紫苑は菊岡をドアの前まで見送りながら、そう言って微笑む。

 だが菊岡は、最後の最後に思い出したように振り返ると、人懐こそうな笑みを浮かべて言った。

 

「ああ、そうそう。最後に一つだけ質問しても宜しいでしょうか?」

「構わんよ。私に答えられることなら良いのだがな」

 

 先程の承諾と殆ど同じ台詞で紫苑が頷くと、菊岡は冗談めかした口調で、しかし目には真剣な光を宿しながら尋ねる。

 

「例えば、ですが……アウローラをコピーして同一個体同士を同じ空間に放置したとしたら……月見里先生はどうなると思いますか?」

 

 そんな奇妙な質問に、同じく紫苑も冗談めかした口調で返す。

 

「簡単なことだ。ドッペルゲンガーというのがあるだろう? 同一の存在は、この世界には一つしか存在することが出来ないのだよ。それが、自意識というものなのさ」

「……成る程」

 

 菊岡はそう一言呟いて、紫苑の言葉を吟味しているようだったが……やがて小さく息を吐いて、改めて頭を下げた。

 

「貴重なご意見ありがとうございました。――これは僕の勝手な想像ですが、紫苑さんとはここではない別の何処かでもう一度会えるような気がします」

「は?」

 

 紫苑は首を傾げたが、それについての返答はなかった。

 

「それでは改めて、本日は貴重なお時間を私共の為に割いて頂きありがとうございました。失礼します」

 

 本当にこれが最後というように、事務的な口調に戻った菊岡はそう言って研究室を後にするのだった。




 この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありませんよ。それを踏まえて読むのが、僕とのお約束です。


【挿絵表示】


 また上記の注意が必要になるような内容でしたね(´∀`;)
 ティンクルさんとのお約束、守って頂けると幸いです。

 なんか途中のイラストばかりで申し訳ないですね。
 作者の描くティンクルはエロいというコメントを前に頂いたんですが、どうでしょうか?性別を越えた色香が少しでも伝わると良いのですが。

 最後にお気に入り1600件突破ありがとうございます!物語はここから更にヒートアップしていきますよ!

※追記

 タイトルが何故かメロディーになっていたので訂正。正しくはメモリーです。

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