(ロベ=ルプティ)
「■■■■■、■■■■!――――」
ぴちょん。
額に垂れた水滴でヤシオは目を覚ました。
目を凝らしても暗くて何も見えないのだが、それなりに広さのある洞窟のような場所にいることだけは分かった。
手探りでリュックと帽子が近くに落ちていることを確認した。ラフエルの治安も捨てたものではないらしい。
ゆっくりと深呼吸しとりあえず記憶の整理を図る。
「えーっと。たしか峡谷でクロックとかいうヤツと戦って、そんで足元が落っこって……」
ルシエシティも目前、シエトの峡谷を抜けようかというところで突然クロックが本性を露にして襲いかかってきた。
これまでに見たことのない異様な敵に驚きながらも応戦したが、戦いの余波で崩落した崖とともに激流に沈んだ。落ちていく最中クロックのポケモンが虹色に目映く輝いていたことも不可解な記憶として残っている。暗転する視界と拡散する意識についてはあまり思い出したくはなかった。
何はともあれ、だ。
「こりゃやっちまったね。オレもとんだでれすけだ」
ヤシオは大きくため息をついた。
ポケモン勝負におけるトレーナーの主たる役割は戦闘の指示を出すことと認識されている。
もちろんそれは間違いではない。間違いではないのだが正確にはポケモンとともに戦うことであると表現すべきだ。
これは『心をひとつにして戦おう』という生易しい精神論ではなく、かといって相手のポケモンと生身で取っ組み合えという極端なものでもない。
指示を出す位置や声、さらには相手トレーナーやポケモン、フィールドに常に気を配らなくてはならない。どのあたりにボールを投げて手持ちを繰り出すかという要素もある。簡単なもののみを挙げてもこれだけ気を配らなくてはならない。携帯ゲーム機を握ってコマンド入力をすれば済むターン制勝負ではないということだ。
そしてトレーナーが戦闘続行不可能な状況に陥ればポケモンのコンディションに関わらず問答無用で負けとなる。それも実力のうちだ。
なにも珍しいことではない。今回のヤシオは特殊なケースであるが戦闘の緊張で極限まで昂ったトレーナーが試合中に卒倒する事例は頻繁に報告されている。
ヤシオはトレーナーとして雑じり気のない真剣勝負の結果クロックに敗北した。それも惨敗と言わざるをえない。揺るぎない事実だ。再びため息が漏れた。
「あっお兄さん。目が覚めた?」
暗闇から女の子の声がした。叫びそうになったヤシオは慌てて口をふさいだ。
早鐘を打つ心臓を落ち着かせようとしたがすぐには無理だった。
「ごめんね。驚かせちゃったかな」
「だだだだだいじだいじ。らいさまのほうがよっぽどこえぇんよ」
声だけでなく心臓も口から飛び出していたかもしれない。ポケモンでいう怯み状態を思わぬ形で経験してしまった。
ゆらりと明かりが灯りやっとあたりが見渡せるようになった。睨んだとおりそこは洞窟で、発光したヤミラミを抱き抱えた女の子がこちらを見上げていた。
知らない場所にいるだけに他に人がいるのは心強い。
「お嬢ちゃん、ここどこだか分かっかい? ってかどちらさん?」
あっオレはヤシオな。そうつけ加えた。
「そうね……じゃあヤシオさんはここどこだと思う?」
「わがんね。洞窟っぽくはあるけどもなぁ」
洞窟特有の湿っぽさはあるもののどこか温かさや懐かしさすら感じる。ヤシオはそれが何か考えようとしたがまとまらなかった。
額にしわを寄せる彼に女の子はにっこりと微笑んだ。
「洞窟、洞窟か。いいね。私も洞窟大好き」
ね? と女の子は後ろに呼び掛けた。ヤシオはその時初めて彼女のうしろにイシツブテたちが集まっていることに気がついた。
「うーん?」
どうにも要領を得ない。女の子は見たところヤシオより10歳ほど若い。さらに服装からして裕福な家庭のお嬢様であることが見てとれた。なぜこんなところにいるのだろうか。
「もうひとつの質問に答えてなかったわね。私はルルシィ。よろしく」
恭しく頭を下げるその様子からも育ちのよさが溢れ出る。より一層この場所に似つかわしくないように感じられた。
違和感が拭えなかった。
「ルルシィちゃんつったか。もしかしてオレ、死んじまった?」
ヤシオがもう少し理知的な青年であれば集合的無意識の発露とでも評したか。
とにかくあの時の状況を考えれば当然だ。ここは天国もしくは地獄の入り口でこの少女はその案内人なのではないか、と。都会生まれで別段信心深くないことなど今は関係なかった。
よくよく考えれば不自然だ。
大怪我を負ったはずなのに体はどこも痛くはない。ボールを確認したところ手持ちはみな元気だし服に傷や汚れもない。疲労すら感じなかった。
「──なーんちゃって!」
これは夢、激しい勝負で精神が擦りきれた末の束の間の夢だ。ヤシオはファンタジーに傾倒しつつある己に呆れてしまった。愛読する週刊少年スカンプーに影響されたのかもしれない。
「いい線いってるかも」
場を明るくしようと冗談めかして言ったのだが思わぬ返事にヤシオは固まってしまった。
「ここは階段の踊り場みたいな場所なの。1階でも2階でもないそんな場所ね。ヤシオさんはそこに引っ掛かってるのね」
にわかには信じがたいが実際にそうなっている以上どうしようもない。ヤシオは螺旋階段ではなかったことを喜ぶことにした。
「つまり……死んだってわけではないんか」
「中間ってとこかしら」
ルルシィはさらりととんでもないことを言ったのだがそれを気にする余裕はなかった。
「なんでもいいべ。キャモメーズのVを見届けるまで死なねって決めてんの、オレは」
変な方向へのポジティブさを見せつけたヤシオに微笑みかけ、ルルシィはどこからかズタズタに裂けたあなぬけのヒモを出して見せた。
「これ。とっさに使おうとしたあなぬけのヒモで私のところに繋がったみたい」
クロックと出会った時に買った遭難対策のあなぬけのヒモが文字通りの命綱となった。無駄と分かっていても反射的に使おうとしたらしい。いい買い物だった。
「つまりオレは運がえがった?」
「かなりね」
ヤシオはほっと胸を撫で下ろした。
「そっけ。まあアレだ。重ね重ね申し訳ないけどとりあえずここの出口を教えてくれっかい?」
「そうしてあげたいんだけどね。出口はヤシオさんが自分で見つけるしかないの」
ヤシオの表情がまるでニャースの目のようにくるくると変わる。
「あれま。迷子全振りのオレには酷だべ。まあ頑張ってみっか。いろいろあんがとます。そんじゃあな」
「待って待って!」
帽子とリュックを拾い上げて歩を進めようとするヤシオをルルシィが追いかけた。
「出口は分からないけど道に迷わないお手伝いくらいはしてあげられる。たぶんヤシオさんには外でまだやることがあるんでしょう? 力を貸すわ」
洞窟や森などといった天然のダンジョンはヤシオにとって何よりも恐ろしい天敵だった。地図にない、そもそも地理的に定義付けられないこの空間ともなればもはや言うまでもない。
「それは助かっちゃうなぁ。やっぱキャモメーズ好きにわりぃヤツはいねってことだんべな」
「勝手にそっち側に引きずり込むのは勘弁してほしいのだけど……」
残念ながら『なかまづくり』はアイアントに任せておくべきだったようだ。
何事もなかったかのように即席コンビはヤミラミの明かりを頼りに洞窟の奥へ踏み出した。
数時間歩いた。洞窟は予想よりずっと広く、進んでも進んでも代わり映えのしない景色とともに掴み所のなさを感じさせた。
体力的には問題なくてもここまで歳の離れた相手とどんな会話をしたものかヤシオは困り果てていた。
「ん?」
懐のモンスターボールがカタカタと揺れた。見かねた彼の手持ちからの気を利かせろというサインだ。
さすがに何とかしなければならない。寂しい脳の容量から話題を紡ぎ出した。
「それにしてもルルシィちゃん。妙に慣れてるみたいだけども、ずっとここにいるんか?」
「そうよ」
辛さを隠して振る舞っているようには感じなかった。
彼女の年頃ならば。友達と遊んだり、母親と買い物に行ったり、ポケモンたちと触れ合ったりしながらありふれた幸せな日々を過ごしているとヤシオはぼんやりとイメージしていた。
ところがどうだろう。このような場所で大人びた言動とともに自らを導こうとする。彼女がどうあろうとヤシオにはそこから明るい想像はできなかった。
「もしかしてだけんど、オレみたいな立場ってことけ」
「ふうん……」
ぐるりと首をまわしてルルシィはヤシオを見つめた。
「私はやりたいことをしているだけ。迷ってるわけじゃないよ」
「お、おお」
語気こそ強くなかったが、ヤシオに当惑を覚えさせるには十分だった。
気まずい雰囲気になりかけ、再び沈黙に包まれることを覚悟したが今度はルルシィが口火を切った。
「……ヤシオさんこそもしかして迷ってる?」
「いんや、ルルシィちゃんのパーペキなガイドのおかげで今のオレは迷子から一番遠い存在だんべよ」
彼女の目は誤魔化せなかった。洞窟散歩が始まってからというもの、ヤシオは足下ばかり見つめて歩いていた。
「そうじゃなくてね。ここから出た後の話。私にはなんとなく分かるの」
自分でも分かっていた。迷いの根源はクロックとの戦いだ。ヤシオは一介のトレーナーであり、強敵に敗れたり伏兵に苦しめられたりした経験はいくらでもある。
しかしこの戦いはこれまでのものとは別だった。ヤシオに対して牙を剥いたクロックは正体を明かしつつも悪の組織の幹部としてではなくトレーナーとしての執念で挑んできた。初対面の相手にそこまでされる理由は分からなかったが、彼を異質とカテゴライズする動機としては十分だったのだ。
ヤシオはここにくるきっかけとなった峡谷での決闘についてルルシィに話して聞かせた。
「なんつーか。オレの前にまたあいつが現れて、しかも今度はバラル団として襲ってきたらどうなるだろって思ってな」
道端でトレーナーとする野良勝負、ジム戦や公式大会で行うリーグ基準に則った試合に生きてきたヤシオはこの地方でいえばPGとバラル団との間で行われるような大袈裟にいえば互いの存亡を懸けての勝負が受け入れきれていなかったのだ。
「地方でのさばっていた悪の組織を図鑑をもらって旅立った若いトレーナーがのしちまったニュースを聞いたことがある。カントーでもホウエンでもオレの地元でもそういう話があった。今まであんまし気にしないようにしていたけども、オレはそういうヤツらに対して一生かかっても超えられない壁で隔てられているんじゃないかなってな。今度ばかりはそれを無視できなかった」
虹色の現象も含め、クロックはその壁の向こう側の存在だとヤシオは呟いた。
少しして年下の少女に愚痴るなど人としてどうなのだろうかと後悔したが、ルルシィは彼の言葉を素直に受け止めたようだ。
ルルシィは人差し指をぴっと立てた。
「それならこう考えてみたらどうかしら。ヤシオさんがどのくらい強いトレーナーか私は知らないし、そのクラックという人がどんなだったかも分からない。もしかしたら世界にはヤシオさんが一生どころか二、三生くらいかかっても敵わない相手がゴロゴロいるのかもしれない」
手厳しいなとヤシオは苦笑し頭をかいた。
「でも。ヤシオさんは死ぬ直前までいってここでまた生を拾った。こんな経験なかなかできないでしょ。『一生』にカウントしていいんじゃないかな。だからね、一生の壁ならもう超えてるわ」
屁理屈どころかダートじてんしゃで大気圏を突破するレベルの論理の飛躍だ。
「ルルシィちゃん考えがぶっ飛んでんな」
「とにかくね。ここで一生を超えたんだしまたぶつかってみればいいじゃない。それでもダメならもう1回悩んでみればいい」
ヤシオはここまで彼女に対して抱いていた不思議な感覚の正体をやっと掴んだ。彼女は大人びている。年頃の少女が背伸びをしているというわけではなく、自分と同い年くらいの女性が少女の体をとっているような雰囲気さえあった。
「そうだいね。あのジョルジ・クロキだって何度も屈辱を味わってでっかくなったんだ。それにそもそもジムバッジすら集めきってないオレには贅沢な悩みだったべ」
簡易的なカウンセリングではあったが何らかの作用があったようだ。
ルルシィは彼の瞳に輝きが戻ったことを見てとった。
「そろそろ大丈夫かな。ヤシオさん、上を見てみて」
「おっ?」
俯いた顔を上げると、洞窟の裂け目から光が差し込んでいるのが見えた。ルルシィが特に反応しないところから察するにその光源はヤシオにしか見えていないようだ。
足を止めた二人はこの奇妙な散歩の終わりを悟った。
「見つかったみたいね?」
「うん。あれが出口だぁな。ルルシィちゃん、色々世話になったお礼にここを出たらオレが何かうめぇもんをおごってやるよ。いいかげん腹減ったべ?」
「ごめんなさい。私は一緒に行けないの」
ルルシィは申し訳なさそうというより寂しそうな表情を見せた。ここまでポーカーフェイスを貫いていただけに凪いでいた心にさざ波を起こさせる。
普通ならどしてよ? と聞くのがヤシオだがそれを呑み込んだ。
不思議な体験というのは人の心にここまではたらきかけるものなのだろうか。
「そっか。メシはまた今度な」
オレはグルメだから旨いもんをいっぱい知ってんのと誇った。彼としてはその約束が果たせるかどうかよりも明るい気持ちで彼女と別れたかったのだ。
「うーん、つってもあんな狭い隙間から外に出れっかね。ポケモンの技でぶっ壊すのも危ないし」
よく分からない場所で荒っぽい手段に訴えることはできない。
頭を抱えるヤシオにルルシィが新品のあなぬけのヒモを手渡した。
「これを使って。ヒモが引っ掛かったらあとはしっかり掴まってれば大丈夫。でも決してこっちを振り向いてはだめ。向こうへ出るまではね」
渡りに船、というよりヒモとでもいうべきか。
いよいよヤシオはあなぬけのヒモに足を向けて寝られなくなった。
「オッケー。いろいろありがとうな。……こん次に会う時にはオレはもっと凄いトレーナーになってっから楽しみにしちくり」
「分かったべよ。ふふふ」
おうと威勢よく応え、ヤシオはずっと手に持っていた帽子を深々と被った。そして投げ縄の要領で光が差し込む方へあなぬけのヒモを投げる。ヒモは何かに引っかかりそのままピンと張った。
「じゃあな!」
「じゃあね」
ルルシィだけでなくヤミラミも、そしてイシツブテたちも手を振っている。
「こりゃあいいや。らくちんらくちん!」
ヒモは掴まったヤシオをひとりでに上へ上へと引っ張りあげていく。