Fa#e/also sprach "FAKER" 作:ワタリドリ@巣箱
「……出前? うちの店、そんなサービスなんてやってたっけ?」
夜。この家の夕飯にはまだ早い時間に理子に呼び出されたかと思いきや、彼女は申し訳なさそうな顔で両手を合わせていた。何でも冬原市ハイアットホテルに至急料理を届けて欲しいとのことらしい。
「もちろん普段はやってないんだけどね。お店を始めた頃からご贔屓にして下さっている方で、やっぱりどうしても無碍にできなくて――」
「しょうがないな……で、そのお得意様って何者なのさ」
「ええと、雑誌のライターさんをやっているとか言っていたかしら。たくさんの雑誌でコラムの連載を抱えている、結構売れっ子さんだって言ってたわ。自分で」
「自分で……」
どうにも信用がならない。本当に売れているのだろうか。
ただ嘘か真か、そのお得意様は現在、原稿の締め切りに追われてホテルに缶詰にされているらしい。そこでモチベーションの維持に必要だとか何だとかいう理由で喫茶店〈あまりりす〉の特製オムライスが食べたいと駄々を捏ねているそうな。しかし本人を外に出すとそのままどさくさに紛れて逃亡する恐れがあるし、かといって担当編集が目を離すわけにもいかない。そこで妥協案として、料理の方をホテルに運ぶということで話が付いたらしい。
「でも最近物騒でしょう? さすがに奈々子ちゃんを向かわせるのもどうかと思って――」
奈々子というのは、この店でアルバイトをしている女子学生だ。料理系の専門学校に通っているらしく、学校とお店の両方で腕を磨いている、自称〝甘利理子の一番弟子〟である。
「了解。パパッと行って、パパッと帰ってくるよ」
「ありがとう! お礼に今夜は奈々子ちゃんが腕を振るってくれるそうよ」
「それ、いつも通りの賄いだよね?」
かくして紘人は、岡持を片手に夜の世界へと繰り出すことになった。
冬原市ハイアットホテルがあるのは、冬原湾に跨がる冬原大橋を挟んだ北側――俗に〝新都〟と呼ばれる地域だ。古くからの街並みを残す星見塚町とは対照的に、近代的な発展を遂げている地域であり、遊園地や展望タワーといった観光地があるのも新都側である。
ホテルではくだんの売れっ子ライターとやらの素顔を見られるかとも思ったのだが、宿泊客でない紘人はロビーで待たされた上に、料理を受け取りに来たのもまたそのライターさんの担当編集だという中年の男性だった。
「いや、ありがとう。済まなかったね。今度時間が空いたら、僕もお店を利用させて貰うよ」
「ええ、ありがとうございます。お待ちしております」
正直肩透かしを喰らってしまった感は否めないが、それでも理子に仕込まれている営業スマイルは忘れない。ただでさえ理子には色々と世話になっているのだから、こういう場面で彼女の顔に泥を塗るわけにはいかない。
ホテルを出て帰路に就いてしばらくして、紘人はほんの少し迷った。岐路に立たされた。
往路は急ぐということもあって、湾岸線を走るバスに乗ってやってきた。通り魔事件の影響か、利用客が少なかったのはかえって幸いだった。さすがに岡持を手にバスに乗ると、多少奇異の目で見られた。
しかし復路では急ぐ理由はなく、だからこそわざわざバスを使う必要もない。だから遠回りになる湾岸線を通ることなく、冬原大橋を渡って星見塚に戻ってきた。
戻ってきたのだが、懸念はこの先にある。ここから星見塚商店街に向かうには、橋脚を見上げるような形で位置する冬原海浜公園を通り抜けるのが近道である。だが昨晩に通り魔が出没したというその事件現場もまた、この海浜公園なのである。
「どうしようかな……」
常識的に考えれば、殺人事件の現場に近づくというのは、あまり気持ちの良いものではない。
だが日常的に利用している場所であるだけに勝手知ったるものはあるし、それに通り魔が同じ現場に二度現れるとは限らない。だからたぶん大丈夫だろう。そう判断して、紘人は海浜公園へと足を踏み入れた。
或いはこの時、別の道を通っていれば――その先の人生は大きく違ったものになっていたのかもしれない。だからこの選択はきっと、宿命づけられたものだったのだ。
異変を感じたのは、公園の中程に差し掛かった頃。
それはおそらく、野性の直感とでも言うべきもの。思考よりもなお早く本能が、その危機を察知していた。弾かれたように体が動き、勢い良く前転する。
途端、直前まで立っていた地面に大きな亀裂が走っていた。まるでバターにナイフを走らせたが如く、コンクリートが柔らかに抉られていた。だがそれで驚くのはまだ早い。
真に驚異的、かつ脅威的であるのは、それを為したのが徒手の手刀――人間の地力に過ぎなかったということ。
――という思考に費やされた時間は瞬き一つの間にも満たない。脳が理解するよりもなお早く、攻防は繰り広げられている。通り魔、という単語だけが意識の範疇で明滅する。
再び紘人を目掛けて手刀が走る。逆袈裟。バックステップで回避するも、返す刀で右薙ぎが襲い来る。手刀使いの姿が真正面に現れて、紘人はようやく相手の姿を視認する。フードを目深に被った小柄で華奢な人影。その姿が先のような怪力を発揮したという事実に戦慄を覚え、ほんの一瞬、対処が遅れる。躱しきれない。
「……くッ!」
咄嗟に左腕を跳ね上げてガード。骨が折れるだけならばまだしも、このまま斬り飛ばされるかもしれないと思ったのは、腕を上げてしまった直後。
通り魔の手刀と紘人の左腕が交錯する。
同時、紘人の脳裏を一つのイメージが走り抜けた。《
直後、左腕が手刀を弾き飛ばす。その勢いのまま通り魔も紘人から距離を取り、警戒するようにフード越しに紘人を睥睨してくる。遅れて紘人も自覚する。その左腕は斬り飛ばされるどころか、骨すらも折れていなかったことに。
「……まじか」
だが安心するのはまだ早い。《
すんでのところで獲物を取り逃がすという状況に業を煮やしたのか、不意に通り魔の挙動が大きく変化する。紘人の眼前で宙を一回転したかと思いきや、その遠心力を利用して威力が倍加された踵落としを彼の頭蓋へ向けて振り下ろしてきたのだ。咄嗟に両腕で頭部を防護するが、勢いまでは殺しきれず、そのまま押し倒されて背中から地面に叩きつけられる。受け身を取っている余裕などなく、激痛が全身を駆け抜ける。視界が霞み、耳までもが遠のく。
「が、はァッ……」
軽く咳き込んだだけのつもりが、血反吐まで出てきた。どうやら内臓をも強打していたらしい。それを好機と見てか、紘人の心臓を目掛けて通り魔の手刀が突き下ろされる。
と、紘人は刮目する。すんでのところで手刀を掴み取る。奇妙なことに、まるで真剣を素手で握ったかのように指が裂けた。
が、既に脳内でアドレナリンが沸騰しつつある紘人には、その痛みがただの熱さにしか感じられない。痛みの限界を通り越した余り、凄絶に微笑する余裕すら生まれる。
「逆境は見方を変えればチャンスなんだって、元アイドルのおばさんが言ってたよ」
紘人の右足が跳ね上がり、掌握した相手の下腹部を強打、そのまま蹴り上げて頭越しに投げ捨てる。巴投げの要領だ。
我ながら会心の一投だったと思う。同じことを二度やれと言われても、今度は巧くできるかどうか解らない。が、この隙にこの場から逃げ出せれば――と、そう思った瞬間だった。
腹の中から、血にまみれたもう一本の腕が生えた。
否、それは自分の腕ではない。音もなく――紘人に気取られるよりも早く接近したこの手刀使いの剣のような腕によって、背中から腹を一直線に穿たれたのだ。
漏れた苦悶は声にすらならず、ひぃひぃと喉を空気が通り抜ける音が響く。視界が真っ赤に染まり、痛みと共に意識までもが遠のいていく。
なるほど、僕は今日ここで死ぬのか、と酷く冷静に状況を理解していた。
通り魔がその小さな紅唇を開く。紘人を――紘人の中にある何かを喰らおうと。
目では迫る口腔を見つめつつも、意識では全く別のものを視ていた。
走馬灯と言うのだろうか。頭の中を次々と見知った顔が走り抜けていく。転校生のはにかんだような笑い顔。悪友の不敵な笑み。隣人の少女の可憐な笑顔。そして叔母の慈愛に満ちた微笑み。みんな笑っていた。自分はいつも、この笑顔に囲まれていたのかと、今更実感する。
―――――不意に、記憶の中の世界までもが紅蓮に染まった。
あまりもの唐突な変化と共に呼び起こされたのは、炎上する聖堂の光景。腹の中から全身に膨れ上がる、この燃えるような熱さが、それを思い出させたのか。
そうだ、自分もまた、今から彼らのところに向かうのだ。いつも優しかった父。脳天気に笑う姿に励まされた母。何かと弟を構いたがる世話焼きの姉。紘人を実の息子も同然に可愛がってくれた叔父。
そして――――――――――その場には酷く不釣り合いな、二つの人影。
どくん、と心臓が勢い良く跳ねる。終わりに臨もうとしていた肉体が活気を取り戻す。
「ふざ、けるなよ……」
頭の中を火事嵐が駆け抜ける中、その瞳の奥にて闘志が芽生える。
通り魔の犬歯が鼻白んだように動きを止める。よもや瀕死の少年が絞り出す、その断末魔にも等しいような呻き声に気圧されたとでも言うのか。
「だって、僕は――」
脳裏で明滅する炎の記憶。燃えていく。焼けていく。死んでいく。繋いだ手を―――――。
苦悶を押し殺し、不敵ですらある笑みを載せて、少年は忌々しげに吐き捨てる。
「だって僕は――こんな
ぶわり、と体の奥底で何かが膨れ上がった。左腕が熱い。そこに詰まっている何かがはち切れんばかりに存在感を主張する。
『────ついて来れるか』
それは言葉にならない言葉であったことだろう。紘人が感じたのは、ただの思念。ただの意味。ただの残滓。ゆえにその問いかけに答えは要らず――。
そして同時に理解していた。この左腕に詰まっているモノの正体を。――その、使い方を。
腹に穴が空いていることさえ忘れて、紘人の肉体が通り魔を突き飛ばして跳ね起きる。そして彼の口が独りでに動き、何かしらの
「おいおい……三下風情が、なァに
そのどこまでも不遜な一声と共に、一陣の風が駆け抜ける。
通り魔の頭上を目掛けて、空から無数の剣が降り注いだのだ。極度に戯画的で、醜怪極まる魔剣の数々であった。まるで磔にされるかのように、地面に縫い付けられた通り魔。
はっとして振り仰げば、月光を背負った金毛火眼の魔物が、にぃと牙を剥いていた。