Fa#e/also sprach "FAKER" 作:ワタリドリ@巣箱
暴風もかくやという勢いで出現したのは、夜においてなお目映い一体の魔人であった。
腰丈まで届く金色の髪。燃えるように爛々と輝く火色の瞳。だが何よりもその男を特徴づけていたのは、耳の下まで裂けた大きな口であった。嗤えば、その口端から牙が覗くほどの。
その姿を何と形容すべきか。紘人の脳裏に、ふと一つの単語が閃いた。
――人狼。
そう、この魔物はまさしく、人の形をした狼に他ならなかった。
音もなく羽毛のように軽やかに地面に降り立つ男。どこから跳躍してきたのかは知らないが、尋常ならざる身体能力だ。
と、男は地面に磔にされた通り魔には目もくれず、真っ直ぐ紘人だけを見下ろした。ある種の親しみすら感じさせられるその視線に、紘人はぶるりと悪寒を覚える。
何だこいつは、何なのだ。困惑する紘人。
一目見ただけでその異常性を看破する。それはまるで――一人の中に数百、ないしは数千もの人間が蠢いているかのような違和感。眩暈がする。この男が傍にいるだけで、人混みに酔わされているかのようにも錯覚する。これを魔人と呼ばずして、他の何をそう呼べようか。
「よう、死に損ないの餓鬼。五年ぶりだなァ。今度は腹に大穴を開けてんのか、つくづく痛いことをされるのが好きみてぇだなァ?」
裂けた口を開き、牙を覗かせながら呵々と大笑する人狼。その傲岸不遜さを隠そうともしない声音は、聞いているだけで頭痛がしてくる。
が、たった今、眼前の人狼は聞き逃せない一言を発した。――五年ぶりだ、と。
「五、年…ッ?」
無意識に漏れた呟きに血反吐が混ざり、紘人は思わず咳き込んでしまう。その様の何が面白いのか、より一層破顔する人狼。
「おいおい大丈夫かァ? んなことで
その不快な声がぎしぎしと脳を軋ませる。やめろ、黙れ、口を開くな。
誰か――誰かこの男を沈黙させてくれ。
よもやその念が通じたわけでもないだろうが、不意に魔人は背後を振り返った。魔剣によって地面に縫い止められていたはずの通り魔が、全身を引き裂かれながらも、拘束を解いて脱出していたのだ。
「あァん、まだやるのか?」
途端、興を削がれたとばかりに人狼は眉間に皺を寄せる。金毛火眼の野獣が牙を剥く。
男の周囲で不可視の何かが凝り固まっていくのを紘人は幻視する。その形状に名を与えるならば、剣、という言葉がやはり相応しい。
空中に投影された不可視の剣が次々と通り魔を目掛けて走る。だが通り魔もまた果敢だった。その手刀を振り回しては、見えざる剣を次々と弾き飛ばしていく。そのまま逃げるのかと思いきや――予想外にも通り魔は人狼の懐へと飛び込んでいった。
「ほぅ、たかが三下の分際にしちゃあ、ちったァ見所があるじゃねえか」
剣の数が増え、速度も増していく。ただでさえ満身創痍であった通り魔の体が更に削られていく。それでもなお通り魔は突き進む。
手負いの獣さながらの特攻に、然しもの人狼も一瞬瞠目する。そしておそらくは、それこそが通り魔の狙いだったのであり。
通り魔は人狼にタックルを掛けると、ほんの微かに生まれた隙を突いて、全速でその場から離脱した。人狼の胸元には、通り魔の手刀によって付けられたのだろう、浅い切り傷が走っていた。
「肉を切らせて骨を断つ、ってか? まぁ退屈しのぎにはなったぜ、なァ糞餓鬼?」
そう言って魔人が振り向いた、その瞬間。
紘人の蹴技もまた、ありったけの殺意を込めて人狼の横面を叩いていた。
見失っていた断片が浮かび上がってくる。欠けていた記憶が繋ぎ合わされていく。
あの炎に包まれた世界で、何があったのか。その真実の一端が呼び覚まされる。
なぜ今まで忘れていたのだろうか、この手足の異常に長い男と、狼に酷似した魔人の存在を。
『――ほう、ではこの少年に《左腕》を?』
『ああ。お誂え向きに左腕がぶった切られていやがる。さすが教会だな、神サマって奴も小粋なことをしてくれやがるぜ』
やがて人狼は屈み込み、少年の顔を覗いた。
『よう、死に損ないの餓鬼。大変なことになっちまってるなァ。つーても全部
そして呵々大笑する人狼。聖堂の焼け落ちる音に負けず、げらげらと下卑た笑い声が響き渡る。
『おっと、忘れてたぜ。
忘れんなよ、という言葉が脳裏に反響する。
ああ、忘れないとも。二度も名乗らせるまでもなく、その名を思い出したとも。
不意打ちの足刀は確実に人狼に入った。だがこの感触は何だろう。まるで鋼鉄の柱を蹴ったかのような激痛が紘人に返ってくる。
「ほォ?」
だがその程度で怯んだりはしない。否、この場において既にまともな感覚など疾うに忘れ去っている。
たった今、紘人の脳裏に満ちているのは、恐怖でもなければ痛みでもない。ただ純粋な憎悪。それ一色に染まって、どこまでも澄み切った憎悪。
「ヱ…ミ、ヤ―――――ァァァァァッ」
喉が潰れても構わないと言わんばかりの勢いで咆吼する。有り余るエネルギーをそういう形でも放出しなければ自分が保てそうになかった。
かはっ、と人の形をした狼――ヱミヤは歓喜に震えたかのような声を漏らす。
「そうだ、そうだ、そうだそうだそうだそうだ、それだ! そういうのを待ってたんだよ、糞餓鬼ィ!!」
號、と人狼もまた吼える。
――が、それは束の間のことに過ぎなかった。
「……………と言いたいところだったんだがよォ、言っただろ、今のオマエじゃ論外なんだよ。一瞬だけでもテメェのノリに合わせてやっただけ感謝してくれや」
技も芸も何もあったものでなく仇敵に飛び掛かる紘人を、ヱミヤはほんの少しだけ口惜しそうな様子ながらも、無造作に振り払った。不可視の剣が紘人の胸元で爆弾のように炸裂し、そのまま後ろへと仰け反らせられる。
どさり、と少年の体躯が地面に落ちる。コンクリートの味を舐めるのはこれで何度目だろうか。もはや口の中に広がる血の味しかしない。
「まァ、もうちっと強くなってから出直すんだな。それに――」
それに、〈教会〉からのお客サマが来ちまったようだ、という言葉を残して、ヱミヤの気配が徐々に遠ざかっていく。待て、という紘人の言葉は声にすらならず、人狼の背中には何も届かなかった。
ヱミヤ――全てを奪った仇敵。絶対に許さない、絶対にだ。
胸の奥はどこまでも熱く、しかし脳は徐々に冷めていく。
闇に呑まれていく意識の中で、紘人はなぜか、ここにはいないはずの尼僧の声を聞いた気がした――。